「寄席初体験記」・後編「体験後日談」
というわけで、先日寄席の初体験をしてきた。
ここで改めていうが、私は落語は詳しくない。まず江戸落語と上方落語があって、江戸なら「時そば」、上方なら「時うどん」。噺家が座る場所が高座で、噺家は,前座、二つ目、真打などがある。後から知ったが、これは江戸だけで上方にはないらしい。襲名もあって、師匠の名前を継いだりもする。扇子、手ぬぐい、上方落語なら前の二つに見台と拍子木、張扇などの少ない小道具を使い、基本的に立って歩くことはなく身振りや仕草で老若男女を一人で演じ切る。先ほどの「時そば」や「時うどん」なら扇子は火だねを起こす道具になり、箸にもなる。小道具と細かな仕草で一人で複数の人数を演じ分ける高度な話芸。最初の挨拶の部分を「枕」と呼び、羽織を脱ぐと本編が始まる。噺は、オチがある「落とし噺」や、町人の世界を扱った「人情話」、「牡丹燈籠」などの怪談話。時代で分けると、古典落語に創作落語がある。あとはTVで見たり本で読んだりしているので、いくつかの話の内容は知っている。この程度の知識である。
初めて寄席を体験してきて間もない興奮も相まって、この後、間違ったことを多々書くであろうがご容赦願いたい。だが世の中「初めて」というものは必ずあって、初めてを体験しない限りその後は続かない。古典落語にも、現代の創作落語のように「初めて」があったはずである。よって、この場合思いつく限りの形から入って、恥は最初にかいておこうと思う。
というわけで、ちゃっかり、前編で述べたK・Sさんへの差し入れを片手に、私は繁昌亭に向った。甘いものが好きなの事はリサーチ済みである。首尾よく差し入れを行い、整理券の順番に並ぶ。聞いてみると席は座席は一、二階席あわせて二一六席。これなら、細かな仕草もきちんと見える。私は一階のなんとか自分的には良い席なのではないか…という位置に座りこんだ。座ったら、気分も落ち着いてきた。後は楽しませてもらうだけである。
私が今回行ったのは昼席である。落語八席、漫才、形態模写という数である。創作落語の賞をもらった人の記念ウィークでもあった。
一番最初はK・Jさんの「商売根問」。いつもぶらぶらしてて、惚けた男がこれはあかんと儲けることを考える、根本がずれているので失敗ばかりするそんな話。これは落とし噺であった。
次はK・Tさんの「時うどん」。二人合わせて十五文しかないのに、十六文のうどんを店主を騙して食べる。その時ほとんど食べられなかった間抜けな友人が、翌日、今度は一人で同じようにうどん屋の店主を騙そうとするが…。江戸の「時そば」より、関西らしい噺の仕立てになっているのである。「いま何時でぇ。」というあのセリフは東西共通だが、「あと一本…」というあの悲痛な演出、そしていかにうどんを美味しそうに、あるいは切なく啜って見せるのかが腕の見せ所というところだろうか。かくして、私のその日の夕飯はうどんになった。素直だと思っていただきたい。
次はK・Bさんの「鹿政談」。奈良の名物は大仏だが、他にも早起きというものもある。何故早起きなのかというと、奈良の神獣である「鹿」。鹿を怪我させたり、ましてや殺そうものなら、流罪や死刑が待っていたのである。朝起きて、家の前に鹿が死んでいようものなら一大事。そーっと別の家の前に移動させなければならない。だから奈良の名物は早起きになったという。
ある日、早起きの代表格、豆腐屋の正直者の六兵衛が豆腐を作っていると、赤犬がキラズ(おから)を食べている。思わず追い払おうと、薪を投げつけたら当たりどころか悪くて死んでしまった。しかし近づいてみると犬ではなく鹿である。正直者の六兵衛さんは早起きしているにも関わらず、よそに移動させたりも出来ない。とうとう捕まって裁きを受けることになった。その時のお奉行は慈悲深いことで有名な方。何とか正直者の六兵衛を助けようと画策するが、六兵衛は助けようとするたびに正直に鹿を殺めた罪を認めてしまう。奉行の知恵の出しどころと、言葉遊びが楽しい噺である。
実は、この「鹿政談」、先の三月の米朝一門会でも別の噺家がやっていた。なるほど、演じる人が違えば、こんなにも噺のポイントやタイミングが違うのかと思った。話の根本は変わらない、なのに噺家によって違うものになる。これは、本当に面白いと思った。
そして、漫才を間にはさみ、ひと呼吸おくと、このあたりから、観客のあの声がはいる。「待ってました!」である。私の今回の目当てであるK・Sさんの登場である。ちなみに演目は「野崎詣り」。
五月一日から八日まで野崎観音のある慈眼寺へ参詣する行事を「野崎参り」という。大勢の参詣客で賑わうなか、二人連れが船に乗っていくことになった。しっかりもの男と、船嫌いで小心者、その上勘違いが多い男の二人連れ。勘違いのせいで船を出すだけでも大騒ぎ。
さて、野崎詣りには「船に乗ったものと堤を歩いていくものが喧嘩をする」という者がある。船と堤で運定めの口喧嘩。喧嘩に勝ったらその年の運がいい。あとは仲直り、という具合である。小心者のほうにしっかりものの男が、口上を教えつつ喧嘩を仕掛けろとけしかけたが…。
ここからもう、私の自惚れだと思ってもらって構わない。先の噺家からところどころ、現代語訳への説明がはいったりいたのである。私は今回K・Sさんに「初めて寄席にきました」というようなメッセージカードを差し入れにつけておいた。もしかしたら、それを他の噺家にも伝えておいてくれたのではないか。そんな印象を受けてしまうほど、客である私との距離感が近かったのである。もしかしたらと…自惚れてしまうほどに。笑ってもらって構わない。
何の噺をするのか、始めるまで分からないのが落語である。よって、今まで書いてきた演目は私が後で調べたものである。そして観客の反応は、枕の時点でその噺家が何を話そうとしているのかがわかる通の人と、私のような初めての人では笑うポイントがずれる。そのポイントのズレを噺家は認識し、どのように噺を進めていくのかを、当日の観客の層や様子を見ながら決めていくのである。つまり、観客である私は「自惚れて良い」のである。それでも高座で一人ですべてを演じる。観客にその邪魔はさせない。このような絶妙な距離感と、ライブならではの一体感が、寄席という空間に秘められた「技」なのかと思った。
野崎詣りの後は、大阪の各区にちなみ、二十四人の落語家が創作した「大阪人情落語二十四区」というもので、今回はその中から、繁昌亭創作賞を受賞したH・Sさんの「だんじり三代」である。今回の記念ウィークとは、この創作落語の受賞記念である。
「 だんじり三代」はその演目通り、親子三代だんじりの話だが、大阪二十四区なので泉州のだんじりではなく、平野のだんじり。地元のだんじりの世話役の祖父と父、そして引きこもりの孫の噺である。笑いつつ、ほろりとなける人情噺。最初の始まりと、最後の落ちが綺麗につながった見事な話であった。それにしても、「待ってました!」というあの声は、聞いている私は大変心地が良い。
ここで、中入り…休憩である。中入り後はどうしても観客がざわつく。
そんな中始まったのは、K・Kさんの「オトナの試験」。現代落語で大変わかりやすい。この方は英語落語で海外公演にも取り組んでいらっしゃる。
噺の内容は取引先の会社に、取引の最後に試験をされるというものである。それが本当に学生時代の試験と同じもの。なぜそんな問題をさせられるのか。答えられない若手と、仕方がないので代わりにもう一度試験を受けた部長。答はあってるはずなのに?という噺である。わかりやすく、すっと入る噺だった。
次はS・Tさんの「堪忍袋」。すさまじい夫婦喧嘩をしている夫婦を見かねて、近所の人が話を聞きに行く。お互いの言い分を聞くが、互いに言いたいことを言い合うのが良くないと思った近所の人。「堪忍袋」という言葉にちなみ、袋を縫って、そこに互いに言いたいことを言い合うようにしたらどうかと提言する。冒頭の夫婦の言い分や、その夫婦が、出来た堪忍袋の中に落とす内容が面白い。
察しのいいかたは、先ほどからイニシャルの最初の文字がKからHやSに変わった部分で、一門が変わったことに気づくだろう。それぞれにまた違った雰囲気があるのだと気づかされる瞬間である。
次は形態模写――いわゆる物まねである。世の中には色々あるもので、なんと指揮者の物まねである。読者の皆様の見間違いではない。あの、音楽の指揮者の、しかも指揮の仕方「オンリー」の物まねである。芸としては成り立っているのだが、それで芸人として成り立つのか、他人事ながら不安になった。笑ったけど。
そしてトリ。
K・Yさんの登場である。この方は「米朝の二代目になるか」というところで、そうはならず、孫弟子ということで5代目のYの襲名をなさった方だ。なんだか、イニシャルにする必要性がなくなってきた気もするが、前編のトリ方の件があるのでイニシャルのまま訂正はしない。私は落語でいえば小心者で、策を講じるがすぐばれる粗忽者、というあたりであろうか。
K・Yさんは「質屋芝居」。客が質札を質屋に持っていくと、質屋の店主は小僧に質札を持たせ、蔵から客の質入れ品を持って来るように申し付ける。が、その質入れ品である裃(かみしも)を見ているうちに、芝居好きの小僧はついつい着こんで忠臣蔵を始めてしまった。中々戻ってこないので、店主は次の客の質入れ品を取り行かせるついでに番頭に蔵の様子を見に行かせると、今度はその番頭と質入れ品も巻き込んで…。
質屋での様子と、さらに噺の中で忠臣蔵も演じるという、引き込まれる作品である。演じる動きも普段の生活の動きと、忠臣蔵の芝居の動きとくるくると見事に使い分ける。これはもうさすがの一言であった。
こうして、わたしの寄席初体験は終わったのである。わずかな小道具や、細かい仕草で、複数の人間を演じ分けるすごさにも勿論感動したが、あの距離感と一体感は、もう何とも言えないものがあった。映画や舞台、テレビとも違う。客と近くにありながら、そこにあるのはまさしく「高座」というものである。舞台に座布団一枚。もしよろしかったら、意味を調べていただきたい。
正直、初体験にしては贅沢な顔ぶれだったのも事実である。そして私はやはり、K・Sさんが一段と好きになった。いま、私の頭の中は「次の寄席には何時行くか」。この事でいっぱいである。今年の計はうまくいきそうだ。
余談だが、次の寄席を選んでいる時にある落語さんのエッセイを読んだ。その内容をここに抜粋させていただく。。
「落語とジャズは似ている」
「同じ曲を演奏しても人によって違うジャズと同じで、落語も同じ噺でも噺家の個性でさまざまにかわる」
この文を読んだとき、私がジャンルが全く違う「ジャズか落語」の二つを選んだのは、「それぞれの個性によって様々に演じ方が変わる物」を何となくでも求めていたからではないかと感じた。
私が、その個性をうまく味わえるような客になれるか。きちんと美しく「はまれる」ようになりたいものである。
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