第20話

 教皇庁旧本部内には一般開放されている温泉があった。


 温泉の色は僅かに青みがかかった色をしており、無味無臭で刺激も少なく、老若男女が気軽に入れる温泉であり、混浴風呂もあった。


 温泉の色が僅かに青いのは、ティアストーンの成分が溶け込んでいると言われており、多種多様の怪我だけではなく免疫力も高めて病気にも効果的とされており、旧本部周辺の町の中でも最大の観光名所で日中多くの人で賑わっていた。


 しかし、今――日がすっかり沈んだ頃には一般開放は終了しており、誰も人はいなかった。その時間を見計らって幸太郎は一人温泉に浸かって恍惚とした表情を浮かべていた。


「ふぅ……極楽極楽」


 きれいな星空を見上げながら、湯の心地良さに思わず独り言を呟いてしまう幸太郎。


 欲を言うなら誰かと一緒に入って温泉を楽しみたかったのだが、明日のことで全員忙しいようなので、誘うことができなかった。


 しかし、きれいな星空を見上げながら一人で入るというのも中々風情があると思ってしまう幸太郎。


 ……泳いじゃおうかな。


 誰もいないので、好き勝手にできると思った幸太郎は温泉内で派手に泳ごうかと思い、端に向かおうとすると――「泳ぐな」と、誰もいないと思っていたはずなのに、湯煙の中から聞き慣れた冷たい声が響いた。


 こ、この声……もしかして……


 誰もいないと思っていたはずなのに誰かがいる驚きよりも、その声の正体にすぐに気がついた幸太郎は素っ頓狂な声を上げて驚いた。


「もしかして、ティアさんですか?」


「今頃気づいたか」


「……いつからいたんですか?」


「お前が風呂に入ると聞いて先回りしていた」


「ここ、男湯なんですけど」


「護衛として傍から離れることはできない。だから、上に無理を言って入らせてもらった」


「ちなみに、今ティアさんどんな格好してますか?」


「こっちを見たら潰す」


「……今の状況で『潰す』って言われるとすごい怖いんですけど」


 美女と二人きりで温泉に入るという願ったり叶ったりな状況に狂喜に打ち震えたい衝動に駆られるが――ティアの破壊力抜群の脅しに、その気持ちを抑えた。


 しかし、ティアの声に反応して一瞬だけ声のする方へと視線を向けた時、湯煙の向こう側にうっすらと見えたような気がした白い肌と、しっとりと濡れた銀髪を幸太郎は頭に焼きつけた。


「それにしてもティアさんと一緒に入れて嬉しいです」


「お前のことだ。どうせ破廉恥な妄想でもしていたんだろう」


「ぐうの音も出ません」


 自身の心を見透かしたティアの一言に、幸太郎は反論できずただ笑うことしかできなかった。


「リクトたちから聞いたぞ、お前はまた分不相応に自ら危険に飛び込むつもりだな」


「ごめんなさい」


「謝るだけでお前はいつも自分の決めたことを変えない」


「ぐうの音も出ません」


 どんなに謝っても、どんなに身体でわからせても身の丈以上の危険から逃げることをしない幸太郎をよく知っているからこそ、ティアは彼を引き留めるつもりはなかった。


「今、私を含めてリクトたちは可能な限りお前を守ることができる計画を立てているが――今回の件を麗華たちに知られたらどうなるか、私は知らないからな」


「麗華さん、怒るでしょうか」


「当然だ。それに、セラも間違いなく怒るだろうな」


「麗華さんは一気にガーって怒ってスッキリしたらすぐに説教が終わるけど、セラさんは結構ネチネチ責めるからなぁ……でも、仕方がないので覚悟します」


 二人が怒るのは自分を心配してくれてのことだというのをよく理解している幸太郎は、今回の件が終わったら麗華たちに怒られる覚悟を決めて、力強い笑みを浮かべる。


「一応、私も怒っているぞ」


「ごめんなさい、ティアさん」


「お前に何を言っても無駄なのは一番理解しているから、怒る気にもなれない」


「よかったです」


「調子に乗るな」


 反省の欠片のない幸太郎の顔面にティアは温泉をかけると、幸太郎は素っ頓狂な声を上げた。


 鼻の奥に温泉が入って悶えている幸太郎に、ティアはさっきまでとは違う抑揚のない、どこか不安げな暗い声音で「幸太郎」と話しかけた。


「もしも……もしも、お前の目の前にお互い信頼していた相手が敵として現れたらどうする」


「それって、ティアさんが敵になったらどうするのかって感じですか?」


「それも、前にお互いの意見がぶつかり合った時とは違い、明確に敵対関係になった場合だ。私は本気でお前を潰すつもりで戦い、お前もお前で私たちを潰すつもりで戦い、お互い一歩も退かない状況になった場合だ」


 不意のティアの質問に「あんまり考えたくないなぁ」と戸惑いながらも、幸太郎は特に何にも考えることなく、ただ自分の思ったことを答える――


「もしもそうなったら、僕はティアさんたちと戦います」


「……躊躇いはないのか?」


 特に何も考えることなく、それ以上に迷いなく放った幸太郎の答えを、ティアは理解できないといった様子で深く尋ねる。


「だって話し合いで解決しようとしてもティアさんは頑固で、頭に血が上ると人の話を聞かないので無理そうですし、ティアさんたちなら敵対するのには何か絶対に理由はあるし、僕だって自分が正しいと思ったら自分の考えを変えないと思うので、戦うしかないと思います……でも、もしそうなったら、勝敗は目に見えてるので華々しく散ります――あ、やっぱり痛いのは嫌です」


「戦って負ければただでは済まないとしてもか?」


「そ、そこまでティアさん、ボコボコにするんですか? 前以上のはちょっと……」


「仮定の話として考えろ」


「お互いに覚悟して戦うなら、そうなっても後悔はないと思います」


「確かにそうだろうが――……本当にそれでいいのだろうか……」


 幸太郎の答えに納得できたが、それでも不満と不安は消えないティアに、「でも――」と幸太郎は相変わらず何も考えていない様子で話を続ける。


「もしも、僕がティアさんと戦って、その結果、ティアさんが危なくなるなら、僕はすぐにでもティアさんを守りますから。その時はドンと任せてください」


「戦い合っているというのに守るとは、随分矛盾しているな」


「その時は戦うのは中断しますから大丈夫です。何事も臨機応変です」


「まったく……呑気な奴め」


 頼りないほど華奢な胸を張る幸太郎に心強さを感じたティアは抱いていた不安と不満を忘れて心からの微笑を浮かべた――一方の幸太郎は、いつもと様子が変なティアに、「ティアさん、大丈夫ですか?」と心配して声をかけた。


「心配無用だ。お前のおかげで何とかなりそうだ」


「それならよかったです。声が元気なさそうで、変な話題もするので心配しました」


「……すまないな、甘えてしまって」


「ドンと甘えて頼ってください」


 再び頼りない胸を張る幸太郎――一通りの話が終わり、ティアと幸太郎の間に沈黙が流れる。


 何とかしてティアさんを見れないかな……

 今、顔にお湯をかけた時、水しぶきの音が近くだったからきっと近くにいる。

 だから、湯煙に紛れて――いや、ダメだ。絶対に気づいて潰される。

 でも――ここで怖気づいたらダメだ。


 沈黙が流れる中、勇気を振り絞って青少年の意地で何とか近くにいるティアの姿を一目拝見しようと試行錯誤を重ねて行動に移そうとする幸太郎だが――アカデミートップクラスの実力を持つティア相手では隙がいっさい見当たらず、動けなかった。


 不用意に動けば潰されることは明白――しかし、ここで動かなければ漢が廃った。


 恐怖心を漢のプライドで消し去り、全神経を視覚ではなく気配を読み取る力に集中させる。


 そして――僅かな、それでも確かな隙を感じ取った。


 隙のない張り詰めた空気を纏うティアの気配が、僅かに弛緩したような気がしたからだ。


 勝機を感じ取った幸太郎は行動に移す――だが、「私はダメだな」と自嘲気味に呟いたティアの一言で幸太郎の動きは急停止した。


「大きな危険が明日に控えている状況でこうして二人きりになったというのに、話すことが明日と自分のことだけで気の利いた世間話すらできないからな。私と話しても面白くないだろう?」


「ティアさんが心配してくれるのよくわかりましたし、それに、大体ティアさんの話題はトレーニングとかプロテインばかりですけど、僕の知らない話ばかりで面白いですから」


 邪なことばかりを考えていた頭を切り替えて、幸太郎はティアと会話をしてきて思っている素直な感想を口にすると、ティアは少しだけ間を置いて「……そうか」と抑揚がないが僅かに嬉しそうな声音でそう呟いた。


 再び訪れる沈黙だが、「……幸太郎」と普段は冷静でありながらもハッキリと言葉を口にするティアに珍しく、おずおずといった様子で幸太郎に話しかけ、今度の沈黙は幸太郎に余計なことを考える暇を与えないほど短かった。


「それならせっかく二人きりなんだ。こういう時でしか聞けない話をしたい」


「ドンと来てください」


「それなら……前の騒動が終わった時、お前はその……大和と接吻をしたのか?」


「ほっぺにチューでしたけど、ファーストキスでした。大和君の唇柔らかかったです」


 ティアの質問に、幸太郎は数週間前の事件後に味わった大和の唇の感触を思い出して恍惚とした表情を浮かべた。


「お前は大和のことをどう思っているんだ?」


「友達です」


「……それなら、セラや麗華のことをどう思っている」


「二人も友達です」


 淀みのない幸太郎の返答を聞いてティアは僅かに安堵感を得ていたが、どこか納得していない不満気な様子だった。


「……私からすると、セラや麗華、リクト、一応大和とプリム、最近では巴やノエル、クロノ、お前に対して何か違う感情を抱いているような気がする」


「そうなんですか?」


「私もまだよくわかっていないが……友情とは違う、特別な感情を感じる」


「嬉しいです。僕もみんなが大好きです……漢ならハーレム狙った方がいいですよね。刈谷かりやさんもそう言っていました」


「二兎追う者は一兎も得ず――調子に乗るな、バカモノめ」


 鼻息を荒くさせて調子に乗る幸太郎の顔面目掛けてティアは再び、今度は勢いよく温泉をかけると、ただのしぶきだというのに顔をぶん殴られたかのような衝撃に幸太郎は悶えた。


「まったく……刈谷とロクでもない話題で盛り上がるなら、少しは自己鍛錬をしろ」


「ぐうの音が出ませんけど――ティアさんは僕のことをどう思ってますか?」


 幸太郎の不意の質問にティアは黙ってしまうが、幸太郎の話は続く。


「僕はティアさんのことも大好きです」


 突拍子もなく放たれた幸太郎の心からの一言に、湯煙の中にいるティアからクールを装いながらも激しく動揺する気配が放たれるが、そんなことを知らない幸太郎は更に話を続ける。


「カッコよくて、クールで、きれいで、強くて、大人な態度を取っているんですけどたまに子供っぽいところを見せてくるのがかわいくて、そんなティアさんが大好きです」


 今までティアと接して、過ごして、戦いを見て、信念を感じて――幸太郎はティアに対して思ったことを素直に告げると、「何だか照れます」と少し照れた様子で顔を赤らめた。


「じゃあ、次はティアさんの番です。僕のことをどう思っているのか、聞かせてください」


 大好きなティアが自分のことをどう思っているのか、興味津々といった様子で尋ねる幸太郎だが――返答の代わりに勢いよくティアが立ち上がる水しぶきの音が響き渡った。


「……少しのぼせてしまった」


「そうなんですか? それなら早く出た方がいいですよ……付き添いましょうか?」


「気遣うなら邪な気持ちを抑えろ」


「……さすがです、ティアさん」


 明らかに冷静を装った声でそう告げると、大浴場から出ようとするティア。


 せっかく二人きりになれて腹割って話せて、ティアの生まれたままの姿が見れるかもしれなかったのが残念だが、それでもティアのことを心配して幸太郎は諦めることにした。


 ――が、運良く湯煙が若干薄くなり、後ろ姿だが確かにティアの姿を確認することができた幸太郎は、そのお姿に思わず感嘆の声を上げる。


 スラリと伸びた白い手足、たおやかな曲線を描く少し大きめの臀部、力強さを感じつつも滑らかな背中――ハッキリと見えないのは残念だったが、それでも幸太郎は目に焼きつけ、「ティアさん、きれいです」と感想を漏らした。


 その瞬間――目にも止まらぬ速さで近くにあった桶を掴み、幸太郎に向かってそれを投げた。


 レーザービームのような勢いで飛んでくる桶に幸太郎は避けることはもちろん、反応すらもできなかったが――桶は幸太郎の顔面の横の壁に衝突し、木製の桶は粉々に砕けた。


 願望が叶って嬉々とした笑みを浮かべていた幸太郎の顔が粉々になった桶を見て青白くなる。


「不可抗力だからな……それくらいで勘弁してやろう」


 すっかり冷静さを取り戻したドスの利いた声でそう告げたティアは、足早に浴場から去った。


 温泉に浸かって心身ともにリラックスして、身体も温まった幸太郎だが、今の一連の出来事で心身ともに冷え切ってしまったのでもうしばらく温泉に浸かることにした。


 数分後、大浴場から出た幸太郎は、浴場の外で待っていてくれたティアと一緒に風呂上がりの牛乳を飲んだ。

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