第13話

 旧本部の裏にある鬱蒼とした森の奥に『涙滴の湖』と呼ばれる湖があった。


 まるで空の青さを吸い取ったかのようにコバルトブルーで、透明度が高い湖は美しく、それ以上に神々しさすらも存在した。


 その湖は旧本部のある町・ルミナエールの観光地の一つであり、最初にティアストーンが発見された場所だとされていた。


 ティアストーンの力によって湖が生み出され、今尚湖にはティアストーンの力が残留しているおかげで涌泉は澄み切っており、湖の透明度が保たれていた。


 湖の底には微粒子になったティアストーンの欠片が沈殿しており、煌石を扱える資格のあるものが泉に入ると、湖がコバルトブルーに発光するとのことだった。


 ちなみに、ルミナエールや教皇庁周辺の町には『水』に関わる言い伝えが複数あり、今現在旧本部周辺の水は世界的に有名でとても甘みがあって美味しく、多くの料理に活用できるのも、周囲に温泉地が多いのも、すべてはティアストーンが関わっているらしい――ということを、幸太郎はガイドブックを読んで知っていた。


「――さあ、七瀬さん。湖に足を入れてください」


 観光スポットである湖の光景をカメラに収めているのに集中している幸太郎に、隣にいる白を基調とした教皇専用の荘厳だが堅苦しい祭服を着たエレナは声をかけると、「あ、はい」と一拍子遅れて反応した、地味な私服を着ている幸太郎は靴と靴下を脱いで足首までの深さまで湖に入った。


 湖に入った瞬間、煌石を扱える資格を持つ幸太郎に反応して湖面――ではなく、足元だけの湖面が仄かに青白く発光する。


「わ、冷たい」


「黙っておれ、バカモノ。今は重要な儀式なのだぞ」


「う、うん。ごめんなさい」


「まったく……少しは大人しくしているのだ。これが終わったらジェリコに頼んで温かい紅茶でも入れてもらうように頼んでおいてやるから」


「れ、レモンティーで砂糖大目がいいな……」


 湖の冷たさに思わず声が出てしまった幸太郎を湖畔にいるプリムが注意する。


 母に注意されて反省促された子供のように、鼻から流れ出た鼻水を啜って気合を入れ直す幸太郎に、当然だと言わんばかりに機嫌良く頷くプリム。


 今、幸太郎は次期教皇候補になるための儀式を行っていた。


 朝食を食べてすぐに幸太郎はイリーナやエレナたちとともに教皇候補になるための儀式を行うために、教皇庁縁の地を巡ることになり、最初に『涙滴の湖』に向かうことになった。


「七瀬さん、水を掬い取ってください」


 エレナに言葉に従い、幸太郎は両手で水を掬い取った。


 同時に、素足になったエレナはロングスカートの裾が濡れるのも構わずに膝下の深さまで湖に入る――その瞬間、湖全体と、幸太郎が掬い取った湖の水がティアストーンから放たれる光のように、青白く発光をはじめる。


 まるで地上に降り立った青白く輝くオーロラのような幻想的な風景に、垂れている鼻水を啜ることも忘れて幸太郎は目を奪われていた。


 冷たい水温にも表情をいっさい変えることなく、軽く目を閉じ、エレナは何か呪文のような言葉を並べはじめる。


「――それでは、その水を口に含んでください」


「青く光ってますけど、大丈夫ですか?」


「問題ありません。グイっと一気に飲み干してください」


「あの……もう一回掬い取ってもいいですか? その方がエレナさんの足から染み出る成分が染み込んでいそうなので」


「……それは、ちょっと恥ずかしいです」


「でも、ありがたい成分とか染み出ていそうなので」


「そう言われてみれば確かに……どうしましょう」


「いいから一気に飲むのだ、このヘンタイ!」


 気色の悪い発言をする幸太郎に、痺れを切らしたプリムが怒声を張り上げて早く先へ進むように促し、言われるがままに水を飲み干し、「あ、美味しい」と呑気な感想を漏らした。


「まったく、緊張感のない連中ね」


「同感じゃ……儀式というよりも喜劇を見ているようじゃぞ」


 エレナたちの様子を心底呆れた様子で眺めてのアリシアの一言に、イリーナは同意を示した。


「それにしても相変わらず退屈な儀式ねぇ。こんなの流れ作業でいいじゃない。時間の無駄よ」


「文句を言うのなら、なぜお主がここにおるのじゃ」


「それは私の台詞よ。仕方がないじゃない、リクトの代わりなんだから。あーあ、せっかくゆっくり休めると思ったのに……」


 本来であるならアリシアは最近色々あって披露している心身を癒すために温泉やマッサージを楽しむ予定だったのだが、儀式に付き合う予定だったリクトが別の用事のために行けなくなり、急遽その代わりにアリシアが付き合うことになった。


 儀式に付き合うプリムと母娘の時間を楽しんでもらうというのがリクトの配慮だったのだが、優雅な休暇を過ごす予定だったアリシアとしては大迷惑だった。


「リクトの奴め。こんな罰当たりの愚か者ではなく、もっと適任者がいただろうに」


「同感ね。こんな退屈で古臭いルーチンに付き合わされるなんて最悪だわ」


「大体なんだ、お主のその服装は。ムカつくほど胸が強調されているだけではなく、だらしなく足も出しているとは。それに、若干お主酒臭いぞ。酒を持ち込んでおるな、このバカモノめ。旧本部内は酒の持ち込みは厳禁じゃぞ」


「嫉妬なんて見苦しいわね。クソロリババア」


「し、嫉妬なんてしておらぬ! ワシはただ、お主が風邪を引かないか心配しているだけじゃ!」


 ナイスバディの身体を強調するような服を恥ずかしげもなく着るアリシアに、明らかに嫉妬の視線を送りながらも、その感情を慌てて否定するプリム。


 イリーナとアリシアが軽い口論を繰り広げている間に、「――儀式は以上です」と淡々と放たれたエレナの言葉を合図に、儀式は終了した。


 儀式が終了すると同時に爪先の感覚がなくなり、全身に悪寒が走るほどの身体が冷え切ってしまった幸太郎は慌てて湖から上がり、プリムに命じられてジェリコが用意してくれたカップに注がれた紅茶をゆっくりと飲みはじめた。


「あー、冷たかった……風邪引きそう……」


「このくらいで泣き言を漏らすとはだらしのない奴め。私やリクトを含め、お前なんかよりも年が下の教皇候補たちはこれしきのことでまったく動じなかったぞ」


「ぐうの音も出ない。でも、短くてよかった……ちょっと呆気なかったかな」


 最初に湖面が青く輝いたのを見て、もう少し派手な感じの儀式になると思っていたが、十分も満たない時間で足首まで湖に浸かり、水を飲んだだけだったので幸太郎は拍子抜けしていた。


 伝統ある儀式を「呆気ない」と言ってのける失礼な幸太郎に、「バカモノ!」とプリムは喝を入れる。


「これは古来より続く伝統ある儀式だというのに呆気ないとは罰当たりな奴め! この儀式はティアストーンの成分を含んだ水を身体に入れることによって、身体の隅々までティアストーンの力が染み渡り、ティアストーンに祝福されるという重要な意味があるのだ」


「……もしかして、危ない成分入ってる?」


「そんなことあるわけないだろうが! この罰当たりめ!」


「それじゃあ、水筒に水を入れて後で飲もうかな……」


 プリムに叱られながらも、幸太郎は持ってきていた水筒のお茶を一気に飲み干し、空になった水筒に湖の水を並々と注いで嬉々とした笑顔を浮かべていた。


「儀式の内容も理解していないのに次期教皇候補だなんて呆れるわね」


「儀式中何度か欠伸をしていたあなたにだけは言われたくはないと思います」


 能天気な幸太郎を呆れと嘲りを含んだ目で見ながらのアリシアの一言にエレナは淡々としたツッコむと、忌々し気にアリシアは舌打ちをする。


「うるっさいわね。退屈だったんだから仕方がないでしょ。大体昔と変わらないこんな面白味も欠片もないクソくだらない儀式に何度も付き合うのなんてごめんよ」


「それは同意ですね」


「何度も儀式を行っている教皇のアンタが同意していいことじゃないと思うけど?」


「ああ、オフレコでお願いします」


「フン! まあ、そう思うんだったらさっさと改革を進めなさいよ。アンタがそうやって周りの顔色伺ってばかりいるから、余計な混乱が生まれているんじゃないの?」


「まったくもってその通りです――が、余計な混乱を招いた結果、面倒な仕事を増やした張本人に言われたくありません」


「私が何をしても、アンタの一言のせいで教皇庁は混乱していたわよ」


 他愛のない世間話からギスギスしはじめるエレナとアリシアを見て、イリーナは深々と嘆息しながらも、どこか楽しそうな微笑を浮かべていた。


「母様とエレナ様はまた喧嘩をしているのか……まったく、飽きもしないでよくやるな」


「イリーナさん、エレナさんとアリシアさんって昔からああだったんですか?」


 母とエレナのやり取りを見て呆れているプリムの横にいる、水を汲み終えた幸太郎は何気ない様子でイリーナに質問をする。


「ああ。エレナの言葉に一々アリシアは噛みつき、アリシアの言葉を一々訂正して煽るエレナ――今も昔もまったく変わらない。どんなに偉くなっても、ワシから見ればまだまだ小娘じゃ」


「子供の頃のアリシアさんとエレナさん、かわいかったんだろうな……」


「あれをかわいいと表現するのは些か疑問に思えるな。何を考えているのかわからないエレナは一々正論並べて人を追い詰めるし、感情的だが計算高い性悪のアリシアはあの手この手を使って生意気に反抗してくる、どちらもかわいげのない小娘じゃった」


「今と変わらず母様とエレナ様が顔を合わせる度に口論をしていたとなると、周囲は大変だったのでしょう。私やリクトもちょっとウンザリしているのです」


 顔を合わせる度に口論して、何度も仲裁に入る周囲のことを想像して憐れに思え、自分が仲裁に入る立場になったらと考えると辟易するプリム。


 今までのエレナとアリシアの口論を振り返って、うんざりしているプリムの言葉を聞いて、昔を思い出したイリーナは柔らかでいて、どこか寂し気な笑みを浮かべた。


「口論が過熱しても周囲が止める間もなく大体エレナが勝っていたから、周囲の負担はあまりなかったのじゃ。感情的なアリシアと冷静に正論を並べるエレナの口論では、結果は火を見るよりも明らかじゃろう? 大体エレナに任されてアリシアは半べそをかいておった」


「おお、母様も泣くこともあるのか……」


「アリシアさん、かわいい」


 半べそをかく子供の頃のアリシアを想像して素直な感想を述べる幸太郎に、「同意だな」と何度も頷いてプリムは同意を示した。


「まあ、稀にアリシアがエレナを打ち負かすこともあったのじゃが、その時は必ずエレナの意見が間違っている時じゃ。アリシアは昔から粗を探してそれを的確につくのが得意だから、ある意味、正論を並べるエレナよりも厄介じゃな」


「エレナさんも半泣きしちゃったんですか?」


「いや、エレナの場合は素直に自分の非を認めていた。まあ、多少は悔しがって少しだけ顔を赤くしていたぞ。でも、素直に負けを認めるのがアリシアを更に煽ったのじゃ。まさに二人は水と油じゃ。今も昔もそれはまったく変わっていない」


 まだ口論を続けているアリシアとエレナを見て、イリーナは二人が昔と何一つ変わっていないことを感じ取り、呆れと安堵の笑みを浮かべていた。


「まったく……互いに協力すれば敵はないというのに、あれでは永遠に無理じゃろう。まあ、先代教皇の関係で色々あったからな仕方がないか。しかし、根本の部分では似た者同士だというのに、実にもったいない」


「あー、わかります。エレナさんとアリシアさんって、二人揃って友達がいなさそうで、似た者同士ですよね」


 イリーナの言葉を聞いて、素直な感想を漏らす幸太郎。


 そんな幸太郎の感想に、イリーナとプリムは思わず吹き出しまう。


「……アンタたち、随分勝手なことを言ってくれるわね」


 怒りで顔を引きつらせたアリシアが和気藹々と自分たちの昔話で盛り上がる幸太郎たちの前に現れると、イリーナとプリムは盾にするように幸太郎の後ろに回り込んだ。


「半泣きする子供の頃のアリシアさん、想像したらかわいかったです」


 怒れるアリシアを前にしても恐れることなく素直な感想を漏らす幸太郎に、アリシアの顔は羞恥と怒りで赤くなる。


「うるさいわね! というか、適当なこと言ってんじゃないわよ! クソババア!」


「そうは言っても本当のことじゃろうが。昔一度エレナに言い負かされてワシに泣きついてきたことがあったのぉ。確か……遊具を独り占めしてエレナに怒られた時じゃったかの?」


「おお、母様も中々かわいらしいところがあったのだな」


「こ、このクソババア……都合の悪い時は耄碌したふりをして忘れるってのに、どうしてどうして都合のいい記憶ばかり残っているのよ!」


「ヌハハハッ! 後百年は生きられるからな! 後世までに語り継いでやるぞ!」


 豪快に笑ってアリシアを挑発するイリーナは、その勢いのままエレナに視線を向ける。


 イリーナの視線の先にいるエレナは、羞恥と怒りで顔真っ赤にしているアリシアとは対照的に、相変わらずの無表情だった。


「お主の嬉し恥ずかしエピソードもちゃーんと記憶しているのじゃが……聞きたいか?」


「……時間が押しています。次の場所へと向かいましょう」


 フレンドリーに話しかけるイリーナを軽く流して、いつも以上に冷徹な空気を身に纏わせたエレナは次の儀式を行う場所に向かおうとする。


 離れ行くエレナからはイリーナを明確に拒絶する意思が溢れ出しているのを感じ取ったアリシアは怒りを忘れて、億劫そうにエレナを見つめていた。


 そんなアリシアとともに、幸太郎はエレナの背中を不思議そうにじっと眺めていた。




―――――――――




 旧本部の敷地内にある、昔実際に使われていた大きな罪を犯した罪人を閉じ込めるための牢獄で行われている取調べの様子の映像を別室にいるグランは眺めていた。


 取調室にいるのは昨日空港で騒動を起こした輝士たちであるが、彼らは全員何も語らず、事件の調査は一向に進んでいなかった。


 警備の穴を的確についてくる昨日の事件は確実に強大な力を持った何者かが関わっているとグランたちは判断して、黒幕を突き止めるために取調べを行っているのだが、進展はなかった。


 それだけではなく、昨日空港で騒ぎが起きていることを目撃した多くの人から説明を求められており、今は何とか詳しい事件を調査中と言って誤魔化しているがいつ何時周囲に騒動が気づかれてもおかしくはなかった。


 輝士たちはいわば旧本部周辺の町を守る警察機構のような存在であり、信頼されているにもかかわらず、輝士たちがエレナを狙っていると知ったら、大騒ぎになることは間違いなかった。


 ただでさえ教皇庁がかつてないほどに大きく変わろうと混乱している状況で、エレナが狙われていると知ったら混乱が更に大きくなることは明らかだった。


 グランは事件の全容が見えない状況に苛立ち、混乱が極まる最悪な状況を想像して憂鬱なため息を深々と漏らすと――扉をノックする音が響き、「失礼します」の声とともに優輝が現れた。


「取調べの進展を聞きに来たんですけど……その様子だと進展はないようですね」


「ああ、残念だけどね。でも、君たちが協力してくれるんだ。黒幕は必ず見つけるよ」


 本来であるならば儀式を行っている幸太郎の警護につく予定だったのだが、昨日の騒動に関わった身として優輝は事件の全容解明のためにグランに協力していた。


 忙しい身であるというのに協力してくれている優輝の前では弱気の表情を見せられないグランは、萎えていた気持ちに喝を入れる。


「今、大道さんとリクト君に昨日の空港の警備状況を調べ直してもらっています」


「何度も調べているが、第三者の視点からの意見が聞きたいからちょうどよかったよ。後は取調べでもう少し、彼らが素直になってくれればいいのだが……」


 取調べで何も語らない襲撃犯が素直になることを祈るグランだが、取調べが一向に進まない状況で期待をするだけ無駄であることは十分に承知だった。


「それにしても、昨日の騒動に関わった全員が揃って口を開かないとは、やっぱり黒幕は相当な力とカリスマを持っているようですね」


「ああ、一人くらいはボロを出してもおかしくないというのに、それすらもないんだ。かなり仲間意識の高い襲撃犯たちだし、昨日はかなり統率の取れた戦い方をしていた……そうなると、そんな彼らを動かしている黒幕の正体はかなり限られる。今回の件、下手をすれば今日居長を揺るがしかねない大きな事態になりそうだ」


 統率の取れた輝士たちを動かせる人物が僅かしかいないことを知っているからこそ、嫌な予感が駆け巡ったグランは深々嘆息した。


「それに、まだ相手はエレナ様を狙うはずです。それも近い内に、必ず」


 事件の全容を解明していないが、それでもまだエレナが、それも近い内に狙われると優輝は確信しており、神妙な面持ちのグランも頷いてその意見に同意を示した。


「グランさん、ティアたちからは何か連絡はありましたか?」


「儀式の警備を行っている輝士や聖輝士には今のところ不審な動きはないようだ。まあ、ティアたちがいる前で下手のことはできないから当然だとは思うが」


「それに加えて今回はブレイブさんの弟子の方々ですから、大丈夫だとは思いますが……」


「あの方が直々に選んだ人に間違いはないだろう」


 ブレイブを信用しきっているグランだが――優輝はそのことに関しては素直に同意を示すことなく、ただただ複雑な表情を浮かべるだけだった。

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