第22話
父である克也に呼び出されたので仕方がなく、どこか憂鬱そうでいて億劫そうな重い足取りで、巴は鳳グループ本社内にある父の私室に向かっていた。
目的地へと到着した巴は、父に呼び出されてから何度目かもわからないため息を漏らし、少し強めのノックをして、返事を待たずに部屋に入った。
鳳グループトップを務める大悟の秘書を務める克也にあてがわれた私室は広く、ホテルのスイートルームのように仮眠室やシャワー室とトイレも完備されていた。
しかし、そんな豪勢な私室の床には紙の資料が無造作に散乱し、ソファやテーブルの上には資料の束が適当に積まれ、それなりに片付いているのは克也のいるデスク周辺だったが、デスクの上にはインスタント食品のごみが置かれ、高級ホテルのスイートルームのような部屋を中年男の生活感と生活臭で台無しにしていた。
散らかり放題の父の仕事部屋を巴は不潔そうに一望すると、呆れたように小さくため息を漏らした。
「……少しは片付けたらどうなの?」
床に散乱した資料を拾いながらため息交じりにそう呟き、報告書を手書きで黙々とまとめている父のいるデスクの前に向かう巴。
「ここのところ仕事が山済みで、片付ける暇がなかったんだ」
娘の呼びかけに克也は報告書を書きながら、娘の方を見ないで応対した。
仕事優先の父の態度に、巴は苛立ちと不満を含んだ目で父を睨んだ。
「だったら少し休みなさいよ。薫さんやアリシアさんだっているんだから。春休み中お母さんと出かける約束をしていたのに、また仕事で行けなくなったんでしょ?」
「萌乃は萌乃で忙しいし、周囲の信頼を得ていないアリシアも好きに動けない。だから代わりに動いている。アイツには悪いと思っているが、せっかくアカデミーが変わろうとしている状況で休んでいる暇はない。ガキじゃないんだからお前もわかるだろうが」
相変わらず自分たちを顧みないで仕事を優先させる父の姿に巴は呆れると同時に、怒りを覚える。
しかし、父の言う通り教皇庁と鳳グループが協力関係を築いたばかりの今の時期は重要であることは理解しているので、巴はこれ以上文句は言えなかった。
「理解はしてるつもり……お母さんも別に気にしてないって言ってたから」
「埋め合わせはする」
「それができるといいけどね」
娘と妻に、そして自分自身に誓うような父の約束だが――過去に何度もそう約束しては破ってきたのを知っている巴はまったく期待していなかった。
これ以上話しても気まずい時間だけが過ぎていくだけだと判断した克也は、娘の責めから逃れるように「それよりも――」と本題に入った。
「無事に七瀬は寮に戻ったのか?」
「ええ。麗華とセラさんが無事に送り届けてくれたわ」
「それはよかったが――……今日のようなことになるなら、はじめからセラと麗華だけで動いてもらうようにすればよかったのかもな」
棘の含んだ父の言葉に、巴は一瞬顔をしかめながらも、事実なので「そうね」と素直に頷く。
「今回の件が噂として出回っている理由はお前も十分にわかっている通り、大きな原因としてはお前が勝手な真似をして、校舎を出てから人目を避ける場所で合流するはずだった七瀬をわざわざ直々に迎えに行ったことだ。ヴィクターのバカが話に熱中し過ぎて予定時刻を軽くオーバーしたのが原因なのはわかってるが、お前が勝手な真似をしなければ、ここまで噂が広まらなかったのかもしれないな」
「今回の件に関しては悪かったと思ってる……ごめん」
「……反省しているなら結構だ」
厳しい口調で娘を責めていた克也だったが、顔を俯かせて素直に自分の非を素直に認める娘の姿に毒気をかなり削がれてしまい、目を伏せて大きく嘆息した。
「もちろん、お前だけの責任じゃないことはこっちだって百も承知だ。今回、アルトマンという神出鬼没で危険度が未知数の相手だということに俺たちも慎重になりすぎて警備を無駄に多くした。それに加えて、ティアや刈谷のような実力者たちも大勢集まってしまったのも余計に注目を集まる原因になった。それに、噂を流したのがアルトマンたちか、教皇庁か鳳グループ内部にいる何者かである可能性が大いにある……まあ、運が悪かったということだ」
娘をフォローするつもりだったが、最後の最後で気恥ずかしさに負けて素直ではない言葉を並べてしまう克也。
そんな父の不器用な気遣いを理解している巴は嬉しそうな、それ以上に照れたような笑みを浮かべ、父に聞こえないように「……ありがとう」と感謝の言葉を気恥ずかしそうに述べた。
不器用な親子との間に沈黙が流れてしまい、どう話を繋げようと迷っている克也は――「ああ、そうだ」と娘に言うべきことがあるのを忘れていたのをタイミングよく思い出す。
「そろそろ村雨が帰ってくる」
「それ本当なの?」
「ああ。一通りの仕事を終えて、その報告をするためにアカデミーに帰ってくる。その後はしばらくの間休暇だ」
「……宗太君が帰ってくるんだ」
「村雨はよく働いてくれている。アイツのおかげで色々と仕事が捗った」
「宗太君に無理ばかりさせてないでしょうね」
「あ、ああ、大丈夫だ。……多分」
「『多分』って他人事のように言わないでよ。無茶ばかりさせて鳳グループがブラック企業だって世間に知られたら、せっかく教皇庁と協力関係を結んだのが無駄になるのかもしれないのに」
「だから、ほら。村雨に会った時に話せばいいだろ」
「うん。そうね……楽しみだなぁ、宗太君と会うの」
村雨宗太――かつて学生連合という組織を作り出した巴を慕ってくれた正義感溢れる熱血漢であり、弟のようにかわいがっている人物だった。
色々あった結果鳳グループに入社して、克也の部下として働いていた村雨が帰ってくるということを知って、巴は凛とした表情を子供のような無邪気なものに崩して喜んだ。
そんな娘の反応に、幼い頃の娘の姿を思い出した克也は思わず微笑を浮かべてしまう。
父親としていられる時間は短かったが幼い娘と遊んだ時の記憶が蘇り、それに浸って顔を綻ばす克也だったが――ここで、七瀬幸太郎の姿を思い出してしまい、彼の表情は上機嫌なものから一気に不機嫌な、それ異常に憂鬱なものに変化した。
恐る恐るといった様子で「……巴」と弱々しい表情の父は娘に話しかけた。
いつもと違う、どこか弱々しく感じられる雰囲気の父に話しかけられ、億劫そうでありながらもどこか心配そうに「どうしたの?」と巴は反応する。
「その……お前と七瀬はどんな関係なんだ?」
「七瀬君? 彼は私の友達だけど……」
意を決して尋ねた威圧感の込められた質問に、娘は気圧され、戸惑いながらも答えた。
「そうか……それで、どう思っているんだ?」
「どう思ってるって……緊張感がなくて無鉄砲で浅慮なところがあるけど、それでも、良い人よ。七瀬君と話していると、彼の独特なペースに呑まれてしまって脱力してしまうことがあるけど、話していると何だか気分が落ち着いてくるの」
「そ、そうなのか? ……そうなのか……」
「……突然七瀬君のことを聞いてどうしたの? なんだか様子がおかしいけど」
七瀬幸太郎について、娘が僅かにだが楽しそうに説明しているのを克也は複雑そうな表情で眺めていると、その視線に気づいた娘は父を不審そうに見つめ返した。
「いや、その……仲良きことはいいことだな」
「……何だか気持ち悪い。話は終わったんでしょ? なら、私は帰るから」
「あ、ああ。気をつけて帰れよ」
「本当にどうしたの? 気持ちが悪い……まあ、いいけど。とにかく、一週間以上家に帰っていないんだから、いい加減帰ってお母さんに顔を見せてあげて」
誤魔化すような不自然な笑みを浮かべる父を怪訝そうに見つめた巴は、容赦のない一言を放ち、気味が悪い父親から逃げるように部屋から出て行った。
娘が出て行ってしばらくした後――強張ったからだから力を抜くように、それでいて憂鬱そうに深々と克也はため息を漏らした。
想像していた最悪の結果は免れ、アリシアと萌乃が邪推するような関係ではなかったが――それでも父である克也は再び憂鬱そうにため息を漏らす。
巴はもう大人、いつかは必ず訪れること、だから覚悟を決めろ――そう言い聞かせる克也だが、覚悟を決めようとする時に頭の中に浮かぶ七瀬幸太郎の顔にその覚悟が揺らぐ。
別に幸太郎が悪いわけではないのだが、娘の相手と想像すると、自分の義理の息子になると想像をしてしまうと、なんだか複雑な気持ちになる。
「どうせだったら村雨が……いや、『弟』として見ていないから無理か――いや、というか、村雨も認めたくはねぇ……」
ぶつぶつと独り言を述べた後、三度目のため息を深々と漏らす克也。
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