第42話
もうそろそろ来る頃だと思うけど……
母さん、大丈夫かな……
まったく、母さんは……勝手に退院して、勝手に会議を開くなんて。
教皇庁本部の執務室で、リクトは落ち着かない様子でエレナを待っていた。
鳳グループとの会議が終わったので、そろそろ来る頃だと思っているのだが――リクトは落ち着いていられなかった。
つい先程、まだ休養するべきだという医師の忠告を無視して、精密検査を終えると同時にエレナはさっさと退院して会議を開いたからだ。
混乱を鎮めるためには仕方がないが、それでも万全の状態ではないのに、自分に一言も言わずに無理をして勝手に退院して会議を開いたことに、リクトは不安と不満を抱いていた。
ここに来て何度目かもわからない憂鬱そうなため息を深々と漏らした時――部屋の扉が開いて、数人のボディガードとともにエレナが現れた。
……母さんだ。
いつもと同じ、母さんだ……
「リクト……どうしてここに?」
「どうしてここにじゃないよ、母さん。勝手に退院したらダメだよ」
「休んでいる暇はありません」
「それはわかってるけど、ちゃんと休んでないと」
いつもと同じ母の姿を見て、安堵感で胸がいっぱいになるリクトだが、エレナの呑気な一言に現実に引き戻される。
人の気も知らないで要領を得ていない様子で自分を不思議そうに見つめるエレナに、リクトは文句を述べる。
そんな二人の様子を見て、親子同士の会話に水を差さないために気を遣ってボディガードたちは部屋を出た。
ボディガードたちが部屋を出て二人きりになり、しばらく室内に沈黙が流れた後――リクトは唐突に母を抱きしめ、母の優しく包み込むような感触と、鼻に入るだけでも安堵感を得られる母のにおいを堪能した。
いつもと同じ姿の母を見た時から、リクトは母を抱きしめたいと思い、二人きりになってその気持ちが溢れ出してしまった。
突然抱き締められて戸惑うエレナだったが、自分を心配するリクトの気持ちを悟ってそっと抱きしめ返した。
しばらく無言で二人は抱き合っていたが、先に我に返ったリクトは気恥ずかしそうに、名残惜しそうに母から離れた。自分から離れる息子を少しだけ寂しそうにエレナは見つめていた。
「え、えっと……ファントムさんが母さんを操っていたなんて思いもしなかった」
年甲斐もなく母に甘えてしまった恥ずかしさを誤魔化すために会話をはじめるリクト。
「ええ、私も自分の意識の中にいるのがファントムだと気づきませんでした」
「もう、身体は大丈夫なの?」
「まだ若干の脱力感は残っていますが、他は何も問題ありません」
「……よかった」
「心配かけましたね、リクト。それと、助けてくれてありがとうございます」
自分を心配する息子の頭を、聖母のような表情でそっと撫でるエレナ。
頭から伝わる母の手の感触にリクトは至福の表情を浮かべて、あまりの心地良さに喉を鳴らしてしまい、母に甘えたくなってしまうが――それをぐっと堪えて本題に入る。
「……ファントムさんがアカデミーに残した傷は深そうなの?」
周囲への不信を募らせ、大いに混乱させたファントムが教皇庁にもたらした影響は甚大であることを想像しているリクトは、憂鬱そうにエレナに会議の成果を尋ねると、エレナは「ええ」と認めながらも息子のように不安を募らせてはいなかった。
「一年間私の意識の中にいたファントムがもたらした影響は、計り知れないものです」
感情がまったく読めない淡々とした口調で厳しい現実を突きつけるエレナだが、「ですが――」と、特に何も気にしていない様子で話を続ける。
「ファントムの与えた影響はマイナスばかりではありません。将来を考えればプラスの面ばかりで教皇庁に、そして、アカデミーを変化させる機会を与えました」
……も、もしかして……
そう言って、いたずらっぽく、意味深に妖しく一瞬微笑んだ母を見て、リクトは背筋に冷たいものが走ると同時に、呆れたような表情を浮かべる。
「ファントムはアカデミーを混乱させるために、私の身体を操って先代教皇が遺した負の遺産を捨て去ってくれました。多少は強引で、タイミングが早まりましたが、これで大きく教皇庁は変化できます。そして、今回の騒動で長年の目標であった鳳グループとの協力関係も構築することができた――ファントムは大いに役に立ってくれました」
「つまり、母さんは自分を操るファントムさんを上手く誘導して、利用していたんだね」
「ええ。アカデミーに混乱を招こうとするのに手段を選ばない思いきりの良さに身を委ねた方が物事は順調に進むと思ったので」
「……アリシアさんが母さんを腹黒いと言っていた理由がわかった気がする」
意識が乗っ取られそうになっていたのに、それでもファントムを利用していた母の胆力と計算高さに感心するとともに、母の恐ろしさを思い知るリクト。
「鳳グループと協力関係を結んだことで、これで更なる目的に進むことができます」
「ファントムさんを、そして、たくさんの人を利用して、今度は何をするつもりなんですか?」
「今後も増え続ける輝石使いに対応するため、私と大悟は島を一つ買い取って第二のアカデミーを設立するつもりです。そして、将来教皇庁は教皇や枢機卿という立場をなくし、鳳グループとともに新たな組織を設立するつもりです」
「それなら、その前にちゃんと休んで万全の体調に戻さないと。病院に戻ろう、ね?」
「ですが、これから忙しくなります。目的のために準備を整えなければなりませんし、教皇庁内にいる不穏因子も片付けなければ――」
「病院に戻るからね」
「……わかった」
これからだというのに有無を言わさぬ迫力で病院に戻そうする息子にエレナは抵抗できず、素直に従うことしかできなかった。
「そういえば――……七瀬幸太郎さんの様子はどうなっていますか?」
「……まだ眠っていますが、直に目覚めるとのことです」
「あれだけの力を使ったのです。心身ともに疲れて眠っているのでしょう」
病院の話を聞いて、入院中の七瀬幸太郎を思い出したエレナは、幸太郎の具合をリクトに尋ねると、リクトは不安げな表情でまだ眠ったままだと教えた。
二日前――赤い光を放ち、膨大なエネルギーを発生させた幸太郎はその後すぐに眠るようにして意識不明になってしまった。エレナの言う通り、医師たち曰く、幸太郎は力を使い過ぎた疲労で眠っているとのことだった。
幸太郎が無事で安堵しているリクトだが、輝石を扱える資格があるのに武輝を出せない落ちこぼれと周囲から評されている人物である幸太郎が、あんな力を秘めていることにリクトは驚きとともに疑問を抱いていた。
落ちこぼれと評されながらも、僅かながらに煌石を扱える資格を持っている幸太郎だが、二日前にリクトが見た彼の力は、自分が知る彼の力を遥かに上回っていたからだ。
廃人も同然の優輝を、ティアストーンの欠片の力を使って幸太郎とともに救った時、リクトは幸太郎に秘められた力はかなり高いとは思っていたが――その予測を遥かに上回る秘めた力に、どうしてあんな力を彼が持っていたのかリクトは理解できずに疑問を抱いていた。
それはエレナも同様だった。
「あの赤い輝き――間違いなく、現存する煌石であるティアストーンや無窮の勾玉よりも遥かに上回っています」
「僕もそう思う……だって、あの力で幸太郎さんはノエルさんを救ったんだから」
幸太郎が放った赤い光が治まった時――四肢がガラスのように砕け散り、消滅寸前のノエルの身体を修復し、消滅の危機から救ったことを思い浮かべてリクトは母の意見に同意する。
「一人の生命を救った――まさに奇跡。そして、アルトマンが言う生命を操る賢者の石の力に似ています」
「……幸太郎さんが、アルトマンさんと同じ賢者の石を持っていると母さんは思いますか」
「わかりません……アカデミーに入学する前は普通の日々を暮していた一般人だった彼が、どのようにしてあんな力を得たのか理解できません。生まれながらにして持った力、なのかもしれませんね」
「何か幸太郎さんには秘密がありそうですね……僕たちにも、いや、本人にも知らない何かが」
「そう思いますが、それ以上に彼の周囲をしばらくは気を配った方がいいでしょう」
無意識ながらも人を救い、勇気づける幸太郎の姿を思い浮かべると――賢者の石に似た膨大な力を秘めていることにも納得できるリクトだが、どうにも釈然としなかった。
考えても答えは出なかったが幸太郎に――いや、幸太郎の身体に何か秘密があるとリクトは確信するとともに、不安を抱く。
あの力を目の当たりにしたのは自分たちのような幸太郎の味方だけではなく、アルトマンもいたからだ。
結局あの後騒ぎに乗じてアルトマンは逃げてしまい、捕えることはできなかった。
幸太郎の力を目の当たりにしたアルトマンが、彼に何かを仕掛けるのは容易に想像できた。
……幸太郎さんは僕が守る。
母の忠告に力強く頷き、リクトは友達を守る決心を改めて固めた。
そして――リクトはもう一つ気がかりなことを尋ねる。
幸太郎と同じく大切な友人である白葉クロノ、そして、その姉であるノエルだった。
二人とも事件の後は制輝軍の取調べを受けており、素直にそれに応じて、後は処分を待つのみだった。
「クロノ君とノエルさんはどうなるんですか?」
「……あの二人は――」
友人の処分について気になるリクトの質問に、エレナは数週の間を置いて答えた――
――――――――――
絶対に許さない!
人をいいように利用して……
あの天然腹黒女と、ムッツリ男……
鳳グループ本社内の小会議室で人を――自分を鳳グループに入れる手続きをする御柴克也と萌乃薫を待っているアリシアは仏頂面を浮かべて足を組んで深々と椅子に座っていた。
胸の中に渦巻く怒りの理由はもちろん、数時間前の会議のことだ。
エレナと大悟、二人は示し合わせたかのようなチームワークで、周りの人間だけではなく自分も、そして、今回の騒動の黒幕でもあるファントムをも巧みに操ったことにアリシアはむかっ腹が立っていた。
そんな二人の掌で踊らされ、まだ自分が教皇庁を追い出され、そして、鳳グループに入ることに納得していないアリシアだが――アカデミーから永久追放されなくてよかったと思っている自分も確かに存在した。
アリシアはそんな自分自身にも苛立っていた。
エレナと大悟、そして自分自身への苛立ちにアリシアの機嫌の悪さがさらに上がっている中――勢いよく出入口の扉が開かれた。
そして、入ってきた人物――娘のプリムはアリシアに向けて飛びかかり、母の身体を抱きしめた。
突進する勢いで娘に抱きつかれて、足を組んで椅子に座っていたアリシアは転びそうになるがそれを堪えた。
「ちょっと! ひっつかないでよ!」
「よかった……母様が追放されなくてよかった……」
「……うるさいわね、いいからさっさと離れなさいよ!」
涙目になり、上擦った声で自分がアカデミーから追放されなくて心からよかったと安堵している娘に、ささくれ立っていたアリシアの気分が不思議と和らいだ。
気恥ずかしそうにアリシアは自分を抱きしめるプリムを強引に引きはがした。
「聞いたぞ、母様! 鳳グループに入るそうではないか!」
「そうみたいね」
人の気も知らないで、苛立ちの原因をツッコんでくるプリムにアリシアは忌々しく舌打ちをする。
「まさに災い転じて福となす、だな!」
「相手の思うツボの間違いよ」
能天気な娘に向けて、アリシアは不満げにそう吐き捨てる。
不機嫌な母の様子にプリムはヤレヤレと言わんばかりにため息を漏らし、挑発的な目で母を見つめた。
「利用できるものはすべて利用する――それが母様であろう?」
「……そうね、確かにそうだわ」
大切なことを忘れていたわね……
立場や組織が変わっても、私は何も変わらない。
――だから、覚えていなさいよ……
自分を煽る娘の言葉にアリシアは不敵に微笑み、自分を利用したエレナと大悟への復讐――のようなドロドロしたものではない、子供がする『仕返し』のような復讐を誓った。
母の瞳に野心の炎が宿り、普段と変わらぬ強気な態度を見て、プリムは満足そうに頷く。
「母様がアカデミーを去らないということは、まだ私が次期教皇最有力候補であることは変わらないということだ! 私は絶対に教皇になると誓おう。その時は母様、教皇庁だけではなく鳳グループを支配できる絶好のチャンスだぞ」
鳳グループと教皇庁との協力関係れば、将来二つの組織は一つになる。
そして、同時に二つの組織は大きく変わる。
その時に教皇や枢機卿という立場はなくなるかもしれない……
だから、次期教皇を目指しても意味ないかもしれないけど――
教皇庁と鳳グループ――いや、アカデミーの未来を想像し、自分に発破をかける娘の言葉が滑稽だとアリシアは思いつつも――
「頼りにしてるわ」
「母様の娘であるこの私に任せておくのだ!」
改めて次期教皇の座を狙うと誓う娘に、アリシアは心から頼りにしていた。
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