第二章 変わりゆく気持ち

第12話

 ――アンプリファイアの力がまだ体内に残留している。

 しばらくは絶対安静。


「ちょ、ちょっと、ウサギちゃん大丈夫なの? 汗びっしょりだよ」


「……問題ありません」


 薄暗く汚れたヘルメスの隠れ家で、額に汗の滴をびっしりと浮き上がらせ、元々色白の肌がさらに白くなっていて顔色が悪く、壁に深々と寄りかかって埃だらけの床に座り込んでいるノエルに美咲は心配して声をかけるが、ノエルは平然とした様子で答える。


 もちろん強がりであり、気を抜けばすぐにでも意識が飛びそうなほどノエルは消耗していた。


 その理由は体内に残留しているアンプリファイアの力が原因だった。


 大勢の制輝軍たちに囲まれていたセントラルエリアの大病院から美咲の助けもあって隠れ家に逃げ込んだノエルだが――一夜経ってもアンプリファイアの力が身体に残留しており、それがノエルの身体を蝕んでいた。


 自分の身体を冷静に分析する頭の中の声が絶対安静にするべきだと告げるが、クロノの始末に失敗したことによってヘルメスの計画に大規模な修正が入ると確信しているノエルは、頭の中の声に素直に従って悠長に休んでいる場合ではなかった。


「問題あるに決まってるでしょ! ほらほら、強がってないで横になるの!」


「……何をするつもりですか?」


「決まってるでしょ! ウサギちゃんを休ませるの!」


「必要ありません」


「問答無用だからね!」


 ノエルの強がりを聞いて素直に納得するはずのない美咲は床に座り込んでいるノエルを無理矢理起き上がらせてお姫様抱っこのように抱え、穴だらけのソファの上に強引に寝かせる。


 美咲の突然の行動に抵抗するが、そんな体力が残っていないノエルは彼女の好きにさせることしかできなかった。


 ソファの上に無理矢理寝かせたノエルの身体に、美咲は着ている穴だらけのコートを布団代わりにかけて、起き上がらせないようにノエルに軽く馬乗りになる美咲。傍目から見れば眠っているノエルに美咲が夜這いをかけている図になっていた。


 ノエルの鼻孔に自分の身体に欠けられた美咲のコートから広がる温かさと、彼女のにおいが広がるとともに意識が徐々に混濁してくる。


 ――警告。休憩をしている暇はない。


 ノエルは自分にそう言い聞かせて、意識を無理矢理覚醒させようとするが、身体を横にしただけで生まれる心地良さと、鼻孔を刺激する甘い美咲のにおいが意識を混濁させる。


 必死に強がって眠気に抗おうとしているノエルの頭を、美咲はそっと撫でた。


「子守唄でも歌ってあげようか? アタシ、結構歌上手いんだよ。それとも、お話でもしてあげようか? ドロドロしたエッチな話ならたーくさん知ってるよ」


「……必要ありません」


「辛そうなのに強がっちゃってかわいいなぁ♪ おねーさん、ジュンジュンしちゃう――無抵抗なウサギちゃんにこういうことをしちゃおうかな?」


「……やめてください」


「ウサギちゃんの首筋、ウサギちゃんの汗の味がするー」


 消耗しきって抵抗できないのをいいことに、淫靡な笑みを浮かべた美咲は、ノエルの細く、白い首筋に唾液をたっぷり染みこませた自身の舌を這わせる。


 自身の首筋を味わうかのように妖しく這わせる美咲の舌のこそばゆい感触に、ノエルは無表情だったが身体は微かにピクリと反応させていた。


 僅かながらも確かな反応を見せたノエルに、否応なしに美咲の興奮が上がる。


 ノエルの無表情をグズグズに崩したい衝動に駆られる美咲だが――「ウォッホン!」と、気まずそうでいて、わざとらしい咳払いが響くと美咲は一気にクールダウンして、横になっていたノエルは慌てた様子で美咲の拘束を無理矢理解いて上体を起こした。


「……お楽しみのところ申し訳ないが、いいかな?」


「いやん、ヘルメス君のエッチー、せっかくいいところだったのになぁ❤」


「朝から元気が良いことだ。若いというのは羨ましいよ」


「ヘルメス君だって一応若者じゃない。何なら混ざる? すりーぱーそん? すりーさむ?」


「遠慮しておくよ」


「魅力的な女の子の誘いをあっさり無下にするなんて、さてはヘルメス君――」


「そんなことよりも、ノエル……君にしては珍しく大失敗をしてしまったな」


 朝から元気満々な美咲の会話について来れないヘルメスは、一度深々と嘆息した後に話を無理矢理切り上げ、クロノの始末に失敗したノエルに視線を向ける。


 言葉は不気味なほど穏やかだったが、仮面の奥にあるヘルメスの瞳は冷え切っていた。


 そんなヘルメスの目を見て、ノエルは胸が絞めつけられるような痛みが一瞬走った。


「申し訳ありません。クロノが移送されているのは思いもしませんでした」


「現場にいた君なら、その場の雰囲気で予測はできたんじゃないのか?」


「……仰る通りです。申し訳ありません」


 厳しいヘルメスの言葉だが、現場の雰囲気に違和感を覚えていたの事実なのでノエルは何も反論できず、ただ謝ることしかできなかった。


「まあ、気にしないでいい。私もまさか鳳グループが教皇庁に内密に動いて、クロノを移送させるとは思いもしなかったんだ。お互い様だということにしよう」


 深々とため息を漏らしながら、大きな失態を犯した自分を許すヘルメスに、無表情だが僅かに表情を明るくさせるノエルだが、まだヘルメスの話は終わっていなかった。


「さっそくだがノエル、君には派手に動いてもらいたいのだが問題はないかな?」


「問題ありません」


「それならよかった。しばらくしたら、すぐにでも――」


 淡々と話を進める二人に、「ちょっと待ってよ」と不満気な表情の美咲が割って入る。


「ヘルメス君ならわかるでしょ、今のウサギちゃんの体調が悪いって」


「そのようだな。アンプリファイアを使ったのだろう。アンプリファイアのように輝石を極端に増減させる力はにとって危険物だ」


「……それをわかってて、ウサギちゃんを動かそうとするの?」


「本人が何も問題がないと言っているんだ。大丈夫だろう」


 ノエルの体調を理解しながらも、気にしないで彼女に任務を与えるヘルメスに、美咲から溢れ出た怒気と殺気を一身にぶつけられるが、彼は気にすることなく嫌らしく口角を吊り上げる。


「それなら、君がノエルの代わりに動いてくれるのかな?」


 ヘルメスは怒る美咲を煽るような嫌らしい笑みを浮かべ、仮面の奥の瞳が怪しい光を宿した。


 自分の代わりに美咲を任務に向かわせようとするヘルメスの提案にノエルは不満を抱くが、彼の判断なので何も反論しなかった。 


「傷ついたノエルの代わりに、君が大暴れをしてくれるのかな? かつての仲間たちが君の前に立ちはだかっても、君は相手にすることができるのかな?」


 意地悪な質問をするヘルメスだが、美咲はそれを聞いて脱力したように笑った。


「そんなことか。それならいーよ。大丈夫、アタシがウサギちゃんの代わりにやるよ♪」


「それなら、君に任せよう。よろしく頼むよ、美咲君」


「それじゃあ、詳しい任務の説明をしてくれたらすぐにでも出撃するよ」


 普段通りの軽いノリでかつての仲間と戦う過酷な任務を引き受ける美咲。


 そんな美咲に任務を任せるヘルメスとは対照的に、ノエルは不審そうに彼女を見つめていた。


 美咲に任務を任せる判断を下したのはヘルメスであり、彼の判断を信用しているが――ノエルは美咲を信用できなかった。


 アカデミーの敵であり、仲間を裏切った自分に協力する理由がいまだに不明だからだ。


 協力しても自分の立場が悪くなるだけで、メリットも何もないはずなのに、それなのに自分たちに味方をする理由がわからない美咲をノエルは信用できないのに加えて、理解できなかった。


 ノエルの視線に気づいた美咲は、彼女に向けてかわいらしくウィンクをした。


 ――理解不能。


 何を考えているか読めない美咲、そして――美咲が自分の代わりに任務を果たすと宣言してから、アンプリファイアの力が残留して気怠いハズの身体がフワリと軽くなったような気がした自分をノエルは理解できなかった。

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