第41話

 セントラルエリアの大病院にある特別な患者専用の個室の病室で、ベッドに横になっているプリムは物憂げな表情で、日が暮れはじめたアカデミー都市の景色を眺めていた。


 目が覚めたばかりだというのに、精密検査が終わったらすぐに制輝軍の取調べを病室で受けて、つい先程それが終わったばかりのプリムの表情にはかなりの疲労感が滲み出ていた。


 セイウスやアルバートにされたことはほとんど覚えておらず、思い出そうとすると軽い頭痛に襲われてまともに思い出すことができなかった。


 それでも、無理をしてプリムは制輝軍の取調べを真面目に受けた。その結果、プリムから得た情報に制輝軍は満足したようだった。


 周囲に迷惑かけてばかりだった自分が少しでも制輝軍の役に立てたことに安堵するプリムだったが、胸の中には大きな不安が沈殿していた。


 不安のせいで、心身ともに疲れ果てているというのにプリムは眠れなかった。


 不安の種は、母であるアリシアのことだった。


 取調べ中、プリムは自分が眠っている間に起きたことを制輝軍から簡単に聞いていた。


 セイウスが暴走した今回の事件を反省し、先代教皇の考えを否定し、枢機卿を一新させる思い切った決断をした教皇エレナに、プリム派強い尊敬を感じるとともに、教皇庁は今よりもずっと良くなると確信していた。


 しかし――一新された枢機卿の中に、母はいないだろうとも確信していた。


 教皇庁を改革させる原因を作ってしまい、母の立場を悪くしてしまったことにプリムは強い不安とともに罪悪感を覚えていた。


 強い不安と罪悪感で押し潰されそうなプリムの表情からは明朗さが失われ、歳相応の少女のように弱々しいものになってしまっていた。


 母のことを想っていると――感情的な足音が廊下から響いてくると、病室の前に警護として立っていた制輝軍の人間に「邪魔よ」と、短いが威圧感が込められたどすの利いた声で吐き捨て、病室の扉が勢いよく開かれた。


「……母様」


 病室の扉を乱雑に開いたのは、母であるアリシア・ルーベリアだった。


 母の顔を見れた嬉しさもあったが、無表情だが今にも感情が爆発しそうな雰囲気の母の様子を見て、プリムは怯えていた。


 しかし、母から決して目をそらすことなく、怯えていてもプリムは怒る母をじっと見つめた。


「……やってくれたわね、プリム」


 娘が横になっている病床に近づくと、爆発しそうな感情を抑えたドスの利いた声をアリシアは放った。


「アンタが勝手な真似をしたせいで、状況は最悪よ」


「……ごめんなさい」


「アンタは何もしないでただ私の言うことを聞いていればいいのに、愚かにもアルバートに煽られて、勝手な真似をして、アンタはすべてを台無しにした」


「ごめんなさい」


「アンタのせいで……アンタのせいで、全部台無しになったのよ!」


 謝り続ける娘の姿を見て、抑えてきた感情を一気に爆発させるアリシアは甲高い悲鳴のようなヒステリックな怒声を上げて、病床の上で横になっている娘の胸倉を力任せに掴み上げた。


 怒りの形相を浮かべて自分に激情のままに怒声を浴びせる母に、プリムは抵抗することなく、ただ「ごめんなさい」と何度も許しを請うが、母の怒りは治まるどこから、ヒートアップする。


「アンタ、自分が何をしたのかわかってるの? 周囲に迷惑かけただけじゃなくて、私に大きな迷惑をかけたの! アンタのせいで私の目的が果たせなくなるかもしれない! 何年も、何年も、ずっと立てていた計画が全部台無しになったの! アンタのせいで!」


 掴んだ娘の胸倉を揺さぶり、何度も柔らかいベッドの上に娘の身体を叩きつけた。


「ここまで育ててやったのに、使えないわね!」


 そう吐き捨てて、掴んでいたプリムの胸倉をごみを捨てるかのように乱雑に放した。


「アンタは私の言うことだけを聞いていればいいの! 余計な感情なんていらないし、迷惑なのよ! アンタはただ、お飾りのままでいればいいのよ! それなのに、自分勝手な真似をして――アンタの存在なんて、私の言うことを聞くだけでいいのよ!」


「……ごめんなさい」


「勝手な真似をして私の邪魔をしたアンタに存在意義なんてもうないわ」


「……ごめんなさい」


「教皇にさせるためだけにここまでアンタを育ててやったのに、失敗したわね」


 自分の存在を否定され、目の奥が熱くなってくるプリムだが、それが流れ落ちそうになるのを必死に堪えた。


 そんなことをしてしまえば、返って母を逆上させると思ったからだ。


 追い詰められた自分の状況をアリシアは感情のままに娘に八つ当たりしているだけだが――自分のせいで母が窮地に追いやられているので、反論は何もできずに甘んじて受け入れることしかできなかった。


 それで母が満足できるなら、プリムはどんな罵詈雑言でも、どんなことでも受け入れた。


 許してもらえるなら、何度だってプリムは許しを請う。


「ごめんなさい」


「その言葉、もう聞き飽きたのよ! 私の思い通りにならないアンタなんて、もう必要ないのよ!」


 謝ることしかできない娘に苛立つアリシアは、感情のままに手を振り上げた。


 自分の存在を否定する罵詈雑言を吐き捨てられても、たとえ、暴力を振るわれても、それで母が満足するならプリムは甘んじて受け入れた。


 目をきつく瞑り、歯を食いしばり、身体を強張らせて母の暴力に備えるプリム。


 健気な娘の姿に何とも思わないアリシアは、容赦なく振り上げた手を勢いよく振り下ろした。


 ごめんなさい――心の中で母に許しを請いながら、プリムはすべてを受け入れる。


 しかし――いつまで経っても母の手が振り下ろされることはなかった。


 恐る恐る目を開いてプリムは母の姿を確認すると――


「こ、コータロー……どうして、ここに……」


 振り下ろされそうになったアリシアの手を、お菓子がいっぱい詰められた袋を片手に持った、締まりのない顔を若干腫らして不細工になっている七瀬幸太郎が掴んでいた。


「アンタ……七瀬幸太郎ね! 何しに来たのよ!」


 掴まれた手を力任せに振り解いたアリシアは、たまっていた激情を娘にぶつけるのを中断させた、背後に立つ幸太郎を怨嗟に満ちた目で睨んだ。


「はじめまして、アリシアさん」


「挨拶なんてどうでもいいの。私の質問に答えなさい」


「明日まで僕もここで入院してて、プリムちゃんの取調べが終わったって聞いたので、お見舞いしにきました。訳を話したらすんなりと入口の制輝軍の人も通してくれました」


 圧倒的な威圧感を放つ怨嗟の目で睨まれても、相変わらず能天気な態度で、腫らした顔を歪めてヘラヘラした笑みを浮かべる幸太郎。


 怒れる自分を逆撫でするような幸太郎の呑気な態度に、アリシアの苛立ちはさらに上がる。


「これは私たちの問題で、アンタには関係ない。さっさと出て行きなさい!」


「でも、プリムちゃんが叩かれそうになったから」


「今後も自分勝手な真似をしないように教育しているだけよ」


「プリムちゃん、お母さんのアリシアさんを心配してアカデミーに来たんですよ」


「そんなものアルバートが煽るために言っただけよ。それに、余計な感情なんてこれにはいらないの」


「それでも、プリムちゃんは尊敬して大好きなお母さんの心配をしてたんですよ」


「それが余計だって言うのよ! それに、勝手に勘違いしないで」


 アリシアの迫力に一歩も退かない幸太郎は、プリムが大好きで尊敬する母であるアリシアのためと思ってアカデミーに来たということを教えるが、無意味に終わった。


「関係ないアンタはわからないと思うけど、私はこれのことを今まで娘なんて思ったことは一度もないわ! 私にとってこれはただの道具なの! 教皇にさせて、私の都合のいいように動かすための」


 自分とプリムのことをちゃんとした母娘関係だと勘違いしている幸太郎を嘲笑し、娘であるプリムのことを平然と今まで娘として扱わずに道具として扱ってきたと言い放つアリシア。


 不思議とそれを傍で聞いていたプリムは衝撃を受けなかった。


 今まで生きてきて、アリシアが自分のことを娘であると思っていないことを何となくだが理解していた。


 そして、自分が母の目的を果たすための道具であることも、何となくだが理解していた。


 理解していたからこそ、衝撃は受けなかったが――目の奥に溜まっていながらも我慢していた感情が手違いで溢れ出してしまい、それが一滴頬を伝って流れ落ちてしまった。


「ただの道具に余計な感情はいらない。私の思い通りにならない道具は――」


 感情のままにヒステリックな怒声を幸太郎に向けて張り続けるアリシアだが、小気味いい音とともに彼女の口が突然閉じてしまった。


 アリシアの口を閉ざしたのは、幸太郎だった。


 聞くに堪えない自分勝手で、娘を娘として見ていない言葉を連呼するアリシアの怒声を、幸太郎の無言の平手打ちが止めた。


 いきなり張られて痛む頬を抑えて唖然としているアリシアと、母に手を挙げた幸太郎を呆然として見つめているプリム。


 年下に好き勝手に言われても文句はもちろん不満を一つも漏らすことなく、情けない姿を何度も見て呆れていたのに、プリムの目に映る今の七瀬幸太郎の姿は、相変わらず締まりのない顔をしているがそれ以上に全身に静かな怒気を放っており、プリムは圧倒されてしまった。


「や、やめろ! コータロー! 母様にそれ以上手を出すのなら、私はお前を許さんぞ!」


 突然の幸太郎の行動に驚き、彼の静かな怒りに触れて圧倒されながらも、数瞬の間を置いて我に返ったプリムは僅かに震えて上擦った声を張って制止させた。


 母の罵倒を止めてくれて嬉しかったが――それでも、プリムは母のために幸太郎を止めた。


「やっぱり、プリムちゃんはお母さんのこと、大好きなんだね」


 好き勝手に言われながらも母を想うプリムに、幸太郎は優しい笑みを浮かべた。


「アンタ……私が誰だかわかってて手を出したの?」


 自分を庇うプリムの怒声でようやく我に返ったアリシアは、枢機卿である自分の頬に平手打ちをかました幸太郎を、屈辱に満ちた目で睨んで怨嗟の言葉を吐き捨てた。

 

 しかし、アリシアの脅しにも特に動じることなく、幸太郎は自分を睨んでくるアリシアをボーっとしながらも、静かな威圧感がある眼で見つめ返した。


 お互いに睨んでいるが、アリシアは不意の平手打ちを食らって動揺しているのに加え、幸太郎から発せられる静かな威圧感と怒りに僅かだが確実に怯んでいた。


「プリムちゃんのお母さんですよね」


「……アンタに……アンタに何がわかるのよ!」


 枢機卿という立場ではなく、自分が母である立場を思い知らせてくる幸太郎の言葉に、アリシアは忌々しく歯噛みする。


 そして、ヒステリックな怒声を張り上げるとともに、アリシアは大きな足音を立てて足早に病室から出て行った。


 アリシアが出て行って、静けさが戻り、張り詰めた空気が和らいだ病室内にプリムの深々としたため息漏らした。


「……まったく、お前はよくわからん奴だ」


「ごめんね」


「……良い、別に、良いのだ」


 前触れもなく突然母の頬を張った幸太郎にプリムは呆れながらも――気にしていなかった。


 もちろん、尊敬する母に手を挙げたことは許せないが、それでも、自分のためを思っての行動だと思っているので、プリムは純粋に嬉しかった。


 尊敬する母に罵倒された悲しさと、幸太郎に庇ってもらった嬉しさで溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、力強くも不格好な笑みを浮かべるプリム。


「ありがとう、幸太郎」


 気恥ずかしそうに頬を染めて、聞こえるか聞こえないかの呟くような声で幸太郎に心からの感謝の言葉を述べるプリムだが――


 椅子に座って買ってきたお菓子をさっそく食べている幸太郎には届いていなかった。


「プリムちゃんも食べなよ。せっかく買ったから」


「相変わらず締まりのない奴だ……だが、リクトがお前を気に入っている理由が少しわかった」


「そうなの? 何だか照れるけど、嬉しい」


 枢機卿である母の頬を平手打ちする勇敢な姿が嘘のように、相変わらず呑気な幸太郎だが、それが七瀬幸太郎という人間であるとプリムは思うことにした。


 プリムは七瀬幸太郎という人間を見直すと同時に、リクトが幸太郎のことを大切にする意味がここに来てようやく理解できたような気がした。


「それにしても……アリシアさん、すごいきれいだった……」


「人の親をやらしい目で見るでない!」


 男の欲望に塗れた熱っぽい表情で、妖艶なアリシアの姿を思い浮かべる幸太郎。


 せっかく見直していたところだったのに、その一言ですべてを台無しにしてしまい、幸太郎に一喝するプリム。


 その一喝は、アリシアの怒声よりも周囲に響いた。

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