第36話

 教皇庁本部一階の奥には小さな聖堂があった。


 未来的な教皇庁本部の建物には似つかわしくないほどの古風な造りの小さな聖堂であるが、聖堂内は荘厳な雰囲気に包まれ、この場にいるだけでも落ち着ける場所だった。


 この聖堂は、輝石や煌石を神がもたらしたものであると信じる教皇庁の人間が、自身の輝石や、輝石を生み出した煌石・ティアストーンに向けて祈りを捧げる場だった。


 利益優先主義となってしまった教皇庁で、昔と比べて聖堂を利用する人間はほとんどいなくなってしまったが、それでも一日に数人は利用する人は必ずいた。


 利用する人間がほとんどいないせいで、聖堂は寂しげな空気が常に漂っていたが――それが逆にリクトは好きで、昔から一人で落ち着きたい時は必ずこの聖堂を訪れていた。


 ほとんど人がいないので落ち着けるし、祈るような体勢を取っていれば誰にも話しかけられることがないからだ。


 狭い世界の中で生きてきたリクトにとって、ここが唯一の落ち着ける場所だった。


 それは、母も同じだった。


 一日に必ず母もこの聖堂に来て、祈りを捧げていた。


 教皇としてではなく、エレナ・フォルトゥスとして。


 聖堂を訪れたエレナは自身のボディガードを一旦聖堂の外に置いて、聖堂の奥にある『祈りの間』と呼ばれる五畳ほどの小さな部屋にいた。


 教皇という立場を利用して『祈りの間』への立ち入りを制限して、エレナは一人でその部屋に籠っていた。


 今日もエレナは『祈りの間』にいると思ったリクトは、会議を終えた母と話すために聖堂に向かって、『祈りの間』へと目指した。


 祈りの間へとつながる重厚な造りの扉についたドアノッカーで、数回扉をノックする。


 しばらくすると、エレナが扉を開いて現れた。


 何かを自分に話そうとしている息子の顔を見て、「どうぞ」とエレナはリクトを『祈りの間』に招き入れた。


 窓一つなければ、火が灯った数本の蝋燭が立てられた燭台が置かれただけで何一つない、薄暗い部屋の中にエレナとリクトは向かい合うようにして立っていた。


 ……母さん、やっぱり美しいな。


 薄暗い部屋の中、数本の蝋燭で照らされた歳を感じさせない母の美しい顔を見て、息子であるにもかかわらずリクトは思わず話したいことを忘れて見惚れてしまっていた。


「……どうしたんですか? 話したいことがあるのでしょう」


 ボーっとした顔で自身を見つめる息子に、小首を傾げたエレナは声をかけた。


 母の声に一瞬遅れて反応したリクトは、慌てた様子で「ご、ごめんなさい」と深々と頭を下げて謝った。


「親子なのですから、一々謝罪をする必要ありません。それで、話したいこととは?」


「えっと……今のが伝えたかったことなんだけど……」


「……ああ、なるほど。わかりました」


 リクトが自分に謝りたかったのだと、少し考えた後にエレナは理解した。


「それで……何か学校で悪いことをしたの?」


「えっと、そういうわけじゃないんだけど……というか、戻ってきたばかりで色々あったからまだ登校してないよ……」


「ああ、そういえばそうだったわね……それじゃあどうしたの?」


 昨日の騒動についての会議を終えたばかりなので、謝罪の意味はわかると思っていたリクトだったが、母はまったく理解していない様子で小首を傾げていた。


 普段、教皇庁を束ねる教皇として厳粛な雰囲気を身に纏っているエレナだが――実は結構抜けていて、天然が入っている人物であることはリクトしか知らなかった。


 少し抜けている母のことを愛らしく思いつつも、リクトは改めて頭を深々と下げた。


「僕の不手際で教皇庁に痛手を負わせてしまい、すみませんでした」


 今度はちゃんと理由を述べてからリクトは謝罪をすると、「ああ――うん。なるほど」と、ようやくエレナも理解した様子だった。


 ボーっとしていた表情のエレナだったが、すぐに教皇の時のような凛々しく、厳しい顔つきになって頭を下げる息子を見た。


「頭を上げなさい、リクト」


 母――ではなく教皇エレナの声にリクトは従って頭を上げる。


 頭を上げると、最初に目に入ったのはエレナの鋭い双眸であり、静かな威圧感を放つ教皇の双眸にリクトは思わず気圧されてしまった。


「墜落しかけた飛行機を無事に着陸させたのは褒めるべきですが、それ以外のあなたの行動は褒められるべきものではありません……それは、あなたも理解していますね?」


 一気に冷えた声音のエレナの言葉に、リクトは黙って頷くことしかできなかった。


「仕方がないとはいえ、あなたは他人を囮――つまり、他人を犠牲にして自分だけ助かろうとしました。そして、助けられた身でありながらも、無理矢理事件に介入して周囲を戸惑わせた。あなたとしては、自分の囮にされた人物を助けるための行動かもしれませんが、周囲にとっては迷惑です。あなたはもう少し自分の立場を弁えなさい」


 厳しい教皇の言葉に返す言葉が見つからないリクトだが――たとえ、周囲に迷惑がかかったとしても、幸太郎を助けに向かったことだけに関しては後悔していなかった。


「力を得て、少しは活躍をしたおかげで周囲に認められ、そのせいで無意識に自分自身を過信しているようですが、力を得ただけでは教皇には絶対になれません。周囲があなたを祭り上げても私が次期教皇としてあなたを認めません――力があるだけでは何も意味がないと理解しなさい」


 厳しくもあるが、諭すような教皇エレナの言葉を忘れないように、リクトは心に刻んだ。


「教皇としてどうあるべきなのかを考えももちろん重要ですが、もっとも重要なのは自分ならどうするのか、どう判断するのかが重要です。自分の立場に囚われてしまえば、周りが見えずに利用されるばかりの存在になると十分に理解しなさい」


 余計な感情を込めていない淡々としたエレナの言葉は自分に向けられたものだったが、同時にエレナ自身にも向けられているようにリクトは感じていた。


 だが、それ以上に感じていたのは母であり、教皇であるエレナへの尊敬の念だった。


 一言一言が刃のように鋭さを持ちながらも、心に染みる温かさも併せ持つエレナの言葉のおかげで、今回の件で友人を囮にしてしまった後悔と、状況を混乱させてしまった責任を感じていたリクトの心がだいぶ軽くなったような気がした。


 やっぱり……母さんはすごい。

 母さんに比べれば、僕なんてまだまだ教皇になんて相応しくない。

 もっと、頑張らないと。


 教皇の偉大さを改めてリクトは感じていると、ここでエレナの固い表情が僅かに柔らかくなり、「それと――」と話を続ける。


「七瀬幸太郎のことですが……レイズは取り調べで彼の持つ力について話しましたが、彼のためになるべく周囲には黙っておくことに決めました。もちろん、教皇として報告する義務があるので数人の枢機卿には教えましたが、信頼できる枢機卿なので問題はないでしょう」


「……あ、ありがとうございます」


 幸太郎の持つ煌石を扱える力について、彼を気遣ったエレナは周囲には黙ってくれていることにリクトは感謝をするが、これで幸太郎の持つ力が大勢の人間に広まる可能性が高くなってしまい、不安が残る結果になってしまってリクトの表情が暗くなってしまう。


「不安ならば、彼の周囲を気を配りなさい。彼はあなたの友達なのでしょう?」


 憂鬱そうな息子の表情を見て、エレナは呟くような声で優しく忠告をする。


 そんな母のアドバイスにリクトは勇気をもらった気がして、沈んでいた表情に力強さが戻ってくる。


「私が言いたいことは以上です――他に何か言いたいことがなければ一人になりたいので出て行ってください」


「は、はい、ありがとうございました」


 伝えたいことは伝えたのか、エレナはリクトから視線を外した。


 改めて気合を入れ直したリクトは、深々と頭を下げて感謝の言葉を述べて、この部屋から立ち去ろうとすると――


「アリシアには気をつけなさい。……彼女は過去に囚われ過ぎています」


 立ち去ろうとする息子の背中に向けて、エレナはアリシアに対しての警告をする。


 自分を気遣って警告してくれた母に、心の中で感謝をしながら「……わかりました」と頷いたリクトは『祈りの間』から出た。


 部屋を出たリクトは、エレナとアリシアの関係について考えていた。


 二人はともに次期教皇を争う仲であり、お互いに切磋琢磨し合っていたと聞いたことがあった。


 しかし、理由は不明だが現在アリシアが一方的にエレナを憎んでいた。


 どうにかして教皇エレナを引きずり下ろそうとアリシアは画策しており、そのために周囲にいる様々な人間を利用してきた、枢機卿の中でも過激な思想を持つ危険人物だった。


 しかし、悪行を犯すと同時に、教皇庁を大きな組織にした立役者の一人であり、かなりの優秀でカリスマもある人物だった。


 どうして、アリシアさんはあんなに母さんのことを嫌っているんだろう……

 ……二人の間に何があったんだろう。


 アリシアとエレナについてリクトは考えるが、答えは何も出なかった。


 ただ一つ言えることは――二人が協力すれば、教皇庁はもっと良く変われるということだけだった。


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