11話 波の夜 前編

 荒野をバイクが走っている。

 細いフレームに大きなタイヤを履いた、ぴかぴか光る青いバイクだ。

 バイクは行く、道無き道を。固い砂地をパッパッと散らし、薄いわだちを残して進む。

 搭乗者は一組の男女だった。黒髪の少年がハンドルを握り、金髪の少女がその腰をしっかりと抱きしめている。

 旅は歌と共にあった。

『~~♪』

 ピアノのソロが西へと向かう。ヴァイオリンの調べがくるくると巻いて空へ上る。バックコーラスを引き連れ、朗々と歌い上げるのは生者には出せない低音を操る死者の歌姫だった。

 歌は少女――アイの腰元から響いていた。そこにはベルトでしっかりと固定された小さなラジオがあった。

「~~♪」

 珍しいこともあるもので、少年――アリスがとつとつと鼻歌を歌っていた。おそらく、いや間違いなく無意識のことで、アイは少しびっくりしている。だがそれを指摘すると止めてしまう気がしたので、だまって音楽に耳を澄ませていた。

『~~っ、…………ブツ』

「あ」

 それが、突然止まってしまった。

 アイはラジオを取り出して右へ左へと掲げたり、針をぐりぐりと調整したり、ふたをぺしぺしと叩いたりした。

 だが『ラング亭生放送』は沈黙したきりで、ふたたび歌うことはなかった。

「あーあ、壊しちまったよ」

 アリスがいじわるく言う。アイはさっと背筋が冷えた。

「え!? これそうなんですか!? 私なんにもしてませんよ!」

「バーカ、冗談だよ冗談。単純に電波の範囲から出ただけさ」

「……アリスさん。人の知識不足を利用して相手をいじめるのは人として二番目にやっちゃいけない行いだと、私は思いますよ」

「へーそうかい。ちなみに一番目はなんだよ?」

「決まってるじゃないですか。背中を預けている人間を不機嫌にさせることですよ」

「……ごめん」

 アリスが素直にあやまったので、アイは寛大に許してやった。

 それにしても、だ。

「ラジオ、残念でしたね」

「なー」

 どうも、山脈を一つまたいだせいか、最近お気に入りのラジオ番組が聞こえなくなることが多かった。『しゃべくり三姉弟』『このまちどのまち』につづいて、ついに『ラング亭生放送』まで聞こえなくなってしまった。アイは残念だった。とくに『しゃべくり三姉弟』に関してはお便りも送るほどのファンだったのだ。

「……さよなら皆さん。また、どこかで」

 肩越しに振り返って、アイは小さく手を振った。むろん、応える者はいない、どころかさよならを告げた相手はこちらの存在すら知らないだろう。だがアイはそんな相手との別れを惜しみ、瞳に涙まで浮かべていた。延々と走るバイクの背で、あるいは嵐で足止めされたテントのなかで、寄り添うように聞いていたラジオは間違いなく同じ旅をした友だった。

 別ればかりだ。アイは思う。旅をするということ、生きるということ、すべては別れに収束し、逃れることなどできはしない。

 だがそれでも、

『――ぶ、ぶぶ、……はは……では『海老大好き』さんっ……のお便りでした……どうも……ありがとうございます――』

「あ」

 でたらめに回していたチューナーから突然放送が流れ出した。二人は顔を寄せ合ってニマリと笑う。

 聞き慣れないミュージック。知らない人のたどたどしい声。周波数に乗る固有のノイズ。

『じゃあ、次のリクエストです。パック・イーグルで『月遊び』聞いてください』

 そして、新しい放送がスタートした。

 二人はさっそく耳を傾け、パーソナリティーがどうの、構成がどうのと、番組をネタに話し始める。

 別れがあるということは、同じだけの出会いもまた、あるということで、

 だから旅は止められなかった。



 日が落ちる二時間も前になると、二人は野営の場所を気にし始める。鉄砲水や崩落がなく、それでいて雨風が防げる場所を短時間で見つけるのはなかなかの難行だった。

 そういう意味では、各地に点在する廃墟はなかなかいい物件だった。すくなくとも、一度は人が住もうとしたところであるだけに、そういった土地は

地盤がよく、過ごしやすいことが多かった。

 今回えらんだキャンプ地もまた、そんな廃墟の一つだった。荒野にぽつんと現れた小さな町には採掘道具やさびたレールがうち捨てられており、以前は鉱山町だったことを思わせた。いったい何事が起きてこの町が廃れたのかはよくわからなかった。鉱石の出が悪くなって自然と消滅したのかもしれないし、あるいは災害があったのかもしれない。二人は暗くなる前に村中を点検した後で墓地に行き、黙祷をささげて彼らに一晩の宿を求めた。

 キャンプ地は町の広場に決めた。アリスがテントを張り、アイは手持ちの懐中電灯を慎重に開いて地面に置いた。すずで作られた筒の中には永遠に燃える不思議な炎『マダムの灰火』が入っており、辺りはにわかに明るくなった。

 灯りとは別に、アイはたき火をこし始める。マダムの炎は照明や暖房にはなるが『暴力』以外を燃やさないため、煮炊きには使えないのだ。

「ほれ、お茶はいったぞ」

「はーい」

 用意ができたらとりあえずお茶を飲むのが、二人の流儀だった。買ってからずいぶんとたつため、渋みの出てしまったお茶をコクコクと飲んで、アイは「ほう」とぬくまった吐息を宙に吐いた。アリスが片手でお茶をすすりながら肉やらパンやら途中で拾った野菜やらを鍋に落とす。

 そして、ラジオに火を入れる。

 アイは、普段は最小限にしているアンテナをいっぱいに広げ、これまた普段は振動でずれないように固定されているチューナーのねじを緩めて周波数を漁った。まずはなじみの放送、次によく聞く天気の予報。最近はまっている『レコード60』や『子守歌』は残念ながらお休みだった。となるとあとは――。

『……が、がが、が――誰かこの放送を聞いている者はいませんか……がが……』

「あ、なんか入りました」

 またぞろ新しい放送を捕まえたのか、見知らぬ周波数に反応があった。アイは慎重にダイヤルを操作して、音声がクリアになる位置で針を止めた。すると、

『誰か、助けてください』

 と、電波の向こうで、誰かが言った。

 アイの反応は早かった。お茶を置き、ラジオを置いて立ち上がると「はい!」と元気よく返事をして即座にダッシュしようとした。

 アリスの反応もまた早かった。お茶を置き、食材を置くと、ため息をひとついてから超低空のタックルを放った。

「……アリスさん。痛い」

 砂利っぽい大地に顔面からいったアイが恨めしそうに言う。

「うるせぇ、そんくらいが丁度いいんだよ」

 流れるような動きでアイを捕まえたアリスは、首根っこをひっつかんでたき火に戻った。

「いいか。お前があっち側一歩手前のどうしようもないお助けマニアなのはよく知ってるし、いまさらそれをどうしようとも思わない。でもな、せめてな、二言目くらいまでは、聞いてもいいんじゃないか?」

「いや、あの、あはは、流石の私も今のはちょっと先走ったかなーっとは思いますよ?」

 アイは愛想笑いを浮かべて頬をいた。言い訳をさせてもらえれば、最近ここまでダイレクトに助けを求められるのは久しぶりだったのだ。血が騒いでも仕方ないだろう。

「まずは聞こうぜ、わざわざラジオ放送で助けを求めるなんて普通じゃねえよ。『前のこと』忘れたのかよ」

 前のこと、とは以前、荒野で倒れた旅人を助けたところ、別れ際になって貴重品やら食料やらをごっそり盗まれたときのことをいう。

「無線でおびき寄せてお人好しを襲う、なんてよくある手口だ」

「でも今回もそうだとは限らないでしょう?」

「だから聞こうっつってんのさ。ほら、なんか言ってる」

『こちら……がが……リボンドーン町放送局のヘイダー……ががが……ス。この放送を聞いてい……か……わたした……助けてくだ……が……がが』

 二人は仲良くならんでラジオに耳を傾けた。

「現在……したちの村では病気が……がが……ます……。私……ちの村にはお医者が足りません……でも……ががが……ません。誰かお医者を……ががが……」

「ふむ、病気ですか」

 村ではすでに半数以上の人間が罹患りかんしており、さらにその半分が死亡したと、放送の主は事実だけを淡々と告知して落ち着いていた。だが逆にその静かなこわばりが、事態の深刻さを物語っている。

「半死熱か?」

 症状を聞いたアリスが言った。

 半死熱。それは“世界を滅ぼした”あるいは“加速させた”と評される人類史上最悪の伝染病であり“屍者”を生み出す狂気の病だった。

「しっかし、そんなロートルが今更流行るかねぇ」

 とは、十年も前の話。いまでは対処法も治療法も見つかっており、かつての病王はその地位を失って久しかった。

「やっぱこの放送あやしいぞ」

「アリスさんってば」

『村は……ががが……の南西の……ブン。座標は……ががが……2の……』

 放送主が村の場所を伝えてきたので、アイは慌ててメモを広げた。だが電波が弱すぎるせいかノイズが多く、場所を特定できそうにない。

「どうしましょう……」

「お前、あいっかわらずのノープランかよ。はあ、仕方がないな」

 アリスが妙になれた感じのため息を吐いてから、ラジオを取り上げた。

「どうするんですか?」

「電波の向きから逆算する。ま、見てろって」

 アンテナを地面と水平になるように伸ばしてから、アリスはラジオを持ったままゆっくりと回り始めた。まるで感度のいい場所を探しているような案配だが、本人はどちらかというと放送が聞こえにくくなる方角を探しているようだった。そして、

「なにをやってるんです?」

「ラジオ放送が電波を使ってる、ってのは分かるか?」

「えっと、基地局から電波を飛ばして、それを個別のラジオが拾って音に変換しているんですよね」

「そうそう、イメージとしては基地局が池に投げ込まれた石で、波紋が放送。俺たちは水に浮かんだアメンボで、波紋を長い足(アンテナ)で拾って聞いているって感じだ。んで、そのときの波紋は必ず一定方向から来るわけだ」

 アリスがアンテナを北西に向けた。すると感度が極端に下がった。

「その波紋を拾うとき、アンテナの感度が一番良くなるのはどっち向きだと思う?」

「あ、横ですか?」

「ご明察。――ってことでこの放送はあっちかこっちから来てるって分かるわけだ」

「おお~~」

 アイはぱちぱちと手を叩いた。村の奥まった方角と、その反対を順繰りに指さしたアリスは、少し照れたように頭を下げた。

「すごいですねアリスさん! そういうのどこで習うんですか?」

「そりゃもちろん学校……ってわけでもないか。海賊放送を聞きたくて勝手に調べてって感じだしなぁ。っていうかこういう無駄な知識こそそっちの領分だろ。例の村で習わなかったのか?」

「うーん、あそこではそういう『外』につながりそうな知識は、全然教えてくれなかったんですよ」

「…………そうか」

 アリスが目頭を押さえている。

「ともかく、これで方角は分かりましたね。でもなんであっちかこっちの二カ所?」

「そりゃ俺らが電波を見られないからだよ。たとえばお前がすげえでかい船の客室に乗ってるとして、そのとき波を喰らっても感じるのは上下運動だけでどっちから来たかなんて分からないだろ?」

「なんか理解できるようなできないような……」

「くわしく知りたきゃ今度教えてやるよ。とにかく、これで方向はふたつに絞れたな。あとはどっちかだけど、これは実際に移動してみればいい。基地局に近づけば電波が強くなって聞き取りやすくなるし、離れれば逆だ。後者だったらその時点で引き返せばいい」

「なるほど! 分かりました! ではさっそく!!」

「あ、馬鹿」

 ラジオをひったくって、アイがさっそく村の奥へと駆けだした。

 やれやれとアリスは首を振り、だから人の話を聞けよ……とため息を吐いた。

 確かに、電波強度の差で方角を測ることはできる、だがあちらの基地局の規模が分からない以上、実際にその差を感じるためにどれだけ移動しなければならないかは分からない。極端な話だが、この電波が星の裏側から届いている可能性だってあるのだ。ちょっと走ったくらいで差が出るとは思えなかった。

 だが、しかし、

「あ、ですね! アリスさん!」

 十歩ほど先でアイが言う。

「確かに移動したら音がはっきりし始めました! ということは町はこっちですね!」

 その手元では嫌にクリアな音で『誰か、助けてください』と繰り返すラジオがあった。



「アイ!!」

 いきなりだった。アイがラジオを掲げて振り返ると、アリスが弾丸のような勢いで覆い被さり、引き倒した。こわばった左手が背中を抱き、開いた胸元に冷や汗が流れている。

 そして、右手がうっすらと変化していった。腕全体がなまくら色に輝き、とろとろと熔けて一丁の回転式拳銃を形成した。

 銃口がぐるりと世界を見渡した。怪しく光る二つの双眸そうぼうが何者をも見逃すまいと闇を裂いた。

「ど、どうしたんですかアリスさん」

 アイは彼の腕の中にちょこなんと収まりながら、目をぱちくりさせていた。彼がここまで慌てている姿など、最近ではちょっと見ないことだった。

「静かに! お前も警戒しろ。……くっそ、やっぱり何の気配もしねぇ! これだからこの世界は油断がならないんだ!」

「アリスさん、落ち着いてください。アリスさん」

 怯えた生き物にするように、アイは汗ばむ背中をぽんぽんと叩き、荒れた心臓に己のそれを合わせた。

「私はほら、ちゃんと元気ですから、ね? 説明してください」

「…………」

 鼓動が少しずつ落ち着いていく。銃口が力を失っていく。檻のように、あるいは命綱をつかむように回されていた腕がゆっくりとほどけていく。

「ラジオの音が、そんなに気になりましたか?」

 言われたとおりに警戒しながら、アイは聞いた。足下では例の放送がクリアな音で鳴っている。「…………」アリスが無言のままラジオを拾い上げ、

ゆっくりと村の奥へと歩いて行く。そのたびに放送はますますクリアになった。

「やっぱりだ。アイ、俺たちはあやうく、とんでもないところで寝るところだったぞ」

「? どういうことです?」

「反応が極端すぎるんだ。ここまで電波強度が変わる理由なんて一つしか無い。基地局からの電波がとてつもなく弱くて、この辺り一帯にしか届いてないんだ」

「え?」

 アリスがさらに歩いて行くと、一軒の小屋へと行き着いた。他の家屋と同じように傷んだ廃墟は、しかし他にはない特徴があった。

 風見鶏と、風車の後、

 長く伸びたアンテナと、張り巡らされたワイヤー。

 放送はついに、限界までクリアになり、放送主の息づかいさえ聞こえそうなほどリアルだった。

 彼は言う。

『お願いします……この村は、本当にいいところなんです。背後の山では銀が採れて、春には温かな風が吹くのです。朗らかで、私の自慢の故郷なんです』

 風が吹いた。山から吹き下ろす柔らかい風だ。

『住んでいる人も、みんな、やさしい人ばかりです。何の罪も無い、うつくしい人ばかりなのです。ベイズパン工房の白パンは絶品で、カナン洋服店のセーターはとても暖かいんです』

 声の形をした既視感と共に、アイは町を歩いて行った。うち捨てられたパン屋を通り越し、崩れ落ちた洋服店を横目に流した。

 やがて二人は町外れにある小さな家へとたどりついた。風車とアンテナの張り巡らされた家には『リボンドーン町放送局』と書かれていた。

 その小屋も、すでに往時の隆盛は喪失し、風車は欠け落ち、アンテナは倒

れるばかりだった。

 だが

『どうか、どうか、おねがいします。だれか、たすけてください』

「まさか……」

 そして、アイは気づいた。自分がもう、とっくの昔に間に合わなかったことに。

「ああそうだ。こいつの言ってる病気の村ってのは、ここのことだ」

 アリスがそっと扉を押し開いた。

 向こうに居たのは、もはやしやべることも動くことも無い、一体のミイラだった。

『だれか、たすけてください』



 改めて村を探索してみると、病の痕跡はそこかしこで見つかった。

 大きな教会には寝台や布団がいくつも並び、さび付いたメスや風化したカルテを残している。家々の窓には板が打ち付けられて、まがまがしいものどもの侵入を拒んでいる。

 かなり初期に罹患した村だろう。と、カルテを見たアリスが言った。ろくな対策すらとれていないそれらの記録からは、真新しい死神に困惑しながらも必死であらがう医師達の叫びを見た。

 過去の記録は時代を下るにつれて言葉を失い、その凶暴性を増していった。焼け落ちた大きな家の床には溶けた薬莢が散らばり、何者かを閉じ込めていたとおぼしき坑道の網には風化した前歯や爪が食い込んでいた。

 悲劇が、あったのだろう。

 だがそれは何年も前の話で、アイは、決定的に間に合わなかったのだ。

 いつもと、同じく。



「おはよう」

 本人よりも早く覚醒を察知されて、アイはぼんやりと眠りから覚めていく、かぶっただけの寝袋から這い出て、秋の涼やかな朝霜を浴びる。肺の中で一晩暖められた古い呼気が風に乗り、雲になって荒野を流れた。太陽が低い。

「おはようございます」

 ん、と明星に向かって背伸びをしてから、アイは挨拶を返した。アリスはバイクを背にして片膝を突き、ふわふわと大きな欠伸あくびをしていた。

 昨夜、二人は村を探索してから短い睡眠を取った。見張りを立てるなどの多少の警戒はしたが、村を出て行くことはしなかった。

 ふらり、とアイは朝の散歩にでも出かけるような調子で歩き出した。アリスが自然と後を追う。だがその足取りに警戒心はなかった。なぜなら、この村はもう本当に平穏になってしまったのが、分かっていたから。

 墓地に入ると、どこか印象が変わって見えた。

 穴の空いた柵はさみしく、立ったまま朽ちたにれの木は物悲しかった。

 すべての意味が変わっていた。

 アイは人魂を頼りに墓地を行った。彼はパン屋、彼女は洋服屋と、指を指しながらその墓碑銘を読んでいった。

 墓のほとんどが、ごく短い期間に建てられたもので、穴の間隔や墓碑銘からは同一人による癖の様なものが感じられた。

 墓地の真ん中に倒れた、大きな銀杏いちようの丸太に腰掛けて、アイはぐるりと村を見回した。

 この場所では、悲劇があったのだ。

 病に襲われ、屍者に襲われ、そしておそらく生者どうしですら仲違いをした悲劇が、あったのだ。村は滅び、死者は出歩き、炎の果てにのみ安らぎが存在した時代が、あったのだ。

 そして、それすらも、もう終わっていた。

 他ならぬ、墓守の手によって。

 ここにある墓地はすべて墓守が作ったものだった。彼、あるいは彼女は出歩く死者を土に埋め、永遠の眠りへ還らせた。

 村は二重の意味で終わっていたのだ。ここにはもうなにもなく、アイは完璧に間に合わなかったのだ。

 ただ、

 ひとつだけ。

『おはようございます皆さん。リボンドーン町放送局のヘイダーです。今日も元気にすごしましょう』

 突然、入れっぱなしにしていたラジオが喋り始めた。放送の主――ヘイダーがまずなにより先に救助の要請をし、次に村の内部に向けて放送を開始した。天気予報から始まり、ニュース、時事ネタ、雑談へと緩やかにつながるそれはまさしく町のローカルラジオという感じで、ヘイダーはすばらしいジョッキーだった。アイはこの放送が、どちらかというと町の人のために存在していることに気づいた。病によって分断された町の中で、飛び交う電波は隔離や偏見を超えた唯一の存在だった。医者でも戦士でもない彼は、ただ一人、その喉をもって孤独な戦いに赴いていた。

 きっと、いまも、まだ。

『誰か、どうか、この町を助けてください』

 やがて、放送は終わった。最後はやはり、救助の要請だった。

 狼が風の匂いをかぐように、アイは鼻孔を広げて電波の叫びを聞いていた。恐怖を勇気で押し殺して、絶望に希望で立ち向かう。そんな叫びを、聞いていた。彼が救いたかった命が眠る、その場所で。

「……異能者だろう」

 いきなり、会話をひとつふたつ飛ばしたように、アリスが言った。

「本体はあの小屋にいたミイラ。能力は『電波を残響させる』こと。動機は『病に倒れても救助の放送を続けるため』とか、そんなところだ。……そろそろ行こうぜ」

 冷酷なほど素っ気なく、アリスが歩き出した。アイもあわてて後を追う。

「この声自体は『マダムの火』や『吸水石』と同じ、なにかの能力のなれの果てだ。ほっといたところで実害はないだろうよ」

「あ、まってくださいよアリスさん」

 ずんずんと進むアリスの横を早歩きで追いかけて、アイは遠くの放送局を目で追った。弱い電界から遠ざかるとラジオの叫びがみるみるうちに小さくなった。

「だったらどうして、あの小屋の死体だけ、墓守に埋められてなかったんですか?」

「さあ、なんかあったんだろ。本当のところなんてもうだれにも分からないしな」

「それはそうですけど。……ああん、もう、待ってくださいってば!」

 アリスはまっすぐテントに戻ると、テキパキと野営を片付けていった。テントをたたみ、毛布を丸め、たき火の埋もれ火をぱっぱと踏みつぶす。

 アイはその前に立ちふさがった

「もう、アリスさんってば! いいかげんにしてください!」

「……いいかげんにするのはそっちだろ」

 憮然ぶぜんとした態度でアリスが返す。

「俺は、伊達や酔狂で旅をしているわけじゃないんだ」

「……アリスさん?」

 きりきりと、アリスの右手から鉄と鉄をこすり合わせたような音が響いた。尋常ならざる力で握りしめられた皮下では溶鉄でも流れているように赤熱していた。

 鉄は血液を介して全身を巡り、瞳の奥から漏れている。

「俺には確固たる目的があるんだ。そのためならなんだってやると決めたし、

実際その通りにしている。いいか、良く聞け、俺は本当に、こんなどうでもいいことにつきあう時間はないんだ」

「あ、さてはアリスさん、なにか気づきましたね?」

 ずばりと、アイは切り込んだ。

 ひゅるひゅると、荒野を風がわたっていった。アリスの顔面に重苦しい影がちた。

「…………おい」

「なんですか?」

「その、なんかいろいろ一足飛びにして俺のなにかに気づくのやめろ」

「大丈夫ですよ。私にしかわかんないような微妙なあれですから」

 だからそれがいやなんだよ……とアリスはがっくりと肩を落とした。

「えーいいじゃないですかそういうの。ほら、アレみたいで」

「どれだよ」

「アレですアレ。探偵」

「…………あっそ。探偵かよ」

 やる気をなくした猫のように、アリスはこの世を恨んだような顔で舌打ちをかました。

「あーもー、面倒くさい奴だな。いいじゃねえかこんなもん放っておけば。誰も迷惑してないし、誰に頼まれたわけでもないだろ」

「だからこそですよ」

 ちくちくと指に痛い髪を撫でてやる。

「誰も見てないのなら、せめて私が見たいんです。誰も聞いてないのなら、せめて私が聞きたいんです。孤独があるなら寄り添って、一瞬だけでも一緒にいるんです。それが私の形なんです」

「ふん、因果なやつだな」

「まったくです。おかげ様でこんな荒野の果てまで来てしまいました。ほんと、誰のせいでしょうねぇ?」

「さーな」

 アイは、アリスの右手を捕まえて、逃げないように固く握った。直前まで尋常ならざる熱を放っていた手のひらはまだ少し熱く、血液をほんのりと温めた。

「さ! それじゃあ早速教えてください! いったいこの現象は何なんですか!? どうすれば解決できるんですか!?」

「……あいにくそこまでは分かってねーよ。俺はただ、ちょっとしたアイデアを思いついただけだよ。……そもそも、こいつは助けをいるわけだろ?」

 降参した悪役がするように、うんざり顔でアリスは言った。

「だったらをしてやろうぜ」



 二人は放送局にとって返すと、機材をひっくり返して使えるものと使えないものに分けていった。十数年放置された放送機器はほぼ全てが機能を失っており、使えるものはほとんど残っていなかった。

 だがアリスはここからが本番とばかりに腕まくりすると、実に手際よく機材をばらしていった。壊れた風車を作り直し、モーターから回収した銅線と磁石を再びまき直して発電機とした。さらには「この辺にあるはず」という謎の勘で床板を引っぺがし、油紙で包まれた予備のパーツを回収した。

「あー、テステス、よし、あとはアンテナにつなげば完成だ」

 手持ちの無線機のガワを開いて既存の発振回路を殺し、手作りした回路に繋いで無理矢理ラジオの周波数と合わせる。さらに、立て直した風車から電源を取ってアンプに繋いで火を入れると、弱々しかった放送がくっきりしだした。

「よし、じゃあアイ。なんか喋れ」

「へ?」

 やれ、風車を立て直せ、やれ、この銅線を三千回くらい巻け、あれを取っ

てこい、これをひっくりかえせのと命令されたなれの果てだった。

 アイはポカンであった。

「要は無線だよ。ラジオだと受信ばっかりだから忘れがちだけど、機材さえあればこっちからだって送信できるんだ。あとは向こうが反応するかどうかだな。……うーん、どうせならトランスミッターとレシーバー分ければ良かったな。うん、そうするか」

 アリスが言っていることはよく分からなかったが、重要な事は理解できた。

 つまり、これで喋れば、ヘイダーさんと話せるかもしれないのだ。

「うわ……」

 アイはドキドキした。奇跡や異能は関係なく、この針金と石でできたグチャグチャしたものが、手の届かぬ世界に届いていると思うと、も言われぬ感慨を覚えた。

「これで、喋ればいいんですか?」

「もうちょい待て、スピーカーの回路を切る。……よし、いいぞ」

 このとき、アイは生まれて初めて『技術』に触れた。

 むろん、それまで無線やラジオに触れてこなかったわけではない。だがそれらの品々はまるで神が作ったかのように確固として存在しており、その不可思議を不可思議として受け止めることができなかったのだ。

 だが、こうして自らも手伝った不格好な回路を見ていると、目の前で巨大な扉が開くような気がした。扉の向こうには連綿とつながる膨大な樹形図があった。

「あ、あの、初めまして! アイ・アスティンといいます!」

 そして、アイは語り始めた。自らの思いを言葉に変えて、その言葉をまた電波に変えて、荒野の空に解き放った。

「ヘイダーさんの放送を聞いてやってきました! あなたに応える意志があります。返事をしてください!」

「よし、いったん切るぞ」

 アリスがマイクの通電を切った。ふぅーっとアイは息を吐く。一言いうだ

けでえらく緊張していた。

「だ、大丈夫でしたか、アリスさん?」

「おう、ばっちりだぞ」

「本当ですか? 声とか変じゃなかったですか? ああ、こんなことなら台本とか作っておけばよかったです。あとレコードかけたり、お便りのコーナーとかつくったり……」

「そっちかよ。……そういやお前ゴーラ学園でもなんかやってたな」

 現在、あちらの放送は休止している。

 二人はひたすら反応を待った。

「よし、もう一回行くぞ。さん――に――いち――」

「初めまして! アイ・アスティンといいます!」

 間隔を置きながら、アイは何度も呼びかけた。

 まだ、返事はない。

「誰か! 返事をしてください!」

 応えるのは荒野に吹く風のようなノイズのみ。

 孤独な帯域に向かって呼びかける行為は、なにか、叫ぶ以上の巨大な労力を吸われる行為だった。返事を求めて、しかし返されることのないつらさは心をやすりで撫でるようだった。

 アイはヘイダーを思った。

 誰も応えぬ虚空へ向けて、宇宙だけが聞いているような孤独な帯域へ叫び続けた彼の孤独は、こんなものではなかっただろう。絶望に飲まれ、沈黙に墜ちようとしたときもあっただろう。

 だが彼は叫び続けた。

 狂気に飲まれ、異能に墜ちようとも、叫び続けた。

 それを思うと、アイは叫ばずにはいられなかった。

「誰かー!!」

 だってひどいではないか。可哀想ではないか。

 あれほどがんばったのに、あんなに努力したのに。

「返事して……ください……」

 その結末が、こんな袋小路では、救われないじゃないか。

『……じ、じじ……』

 アイは、優しいラジオが、好きなのだから。

『…………じ、じじ、……んきが……わぁ! 真空管が! わぁ!』

 ノイズの連続が形のある波形へと変化した。虚空から生じた波がスピーカーを通して音に戻った。

 アイとアリスは言葉もなく、自らの耳に届く音と、メーターの揺れを見つめていた。時を経るにつれ揺れと、音は大きくなり、やがてはっきりと流れ出した。

『こちらリボンドーン町放送局のヘイダー!』

 そして、

『聞こえています! アイさん! 聞こえています!』

 十六年もの間、外界と隔絶していた『ヘイダーの電波世界』と現世が、再びつながった。

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