10話 境界線上の化物達 後編

 あらすじ


 突如として不死の力に目覚めたキヅナ・アスティンは自らの能力を試すために人気のない廃墟はいきよへと訪れた。だがそこには同じように人気を避けて集った死者と、彼女を殺した殺人鬼がいた。すでに人としての心は捨て、化物となった二人がキヅナを襲う。

(えらいことになったな……)

 ライターの炎だけが照らす小さな地下室で、キヅナはうつぶせに倒れていた。目の前を腐った血が流れ、小さなうじ虫がぷつぷつと泡を吐いている。

 いますぐ跳ね起きて顔を洗いたくなるような体勢だったが、それはできない。なぜならキヅナは死んでいるのだから。

 すくなくとも、目の前の二人はそう思っている。

(くっそ、あの野郎、何のためらいもなくりやがった)

 指は動く、腕と足もだ、それに目と鼻がすっかり治っていることを確認して、キヅナは自らがよみがえったことを認識した。スコップによってたしかに破壊されたはずのその場所は、すでに完璧に治癒していた。

(……さて、どうするか)

 部屋の隅には二人の人間がいた。一人はもはや人の形すら保てなくなった

腐れた死者で、もう一人は「青年」という絵画のモデルに選ばれそうなほど純朴そうな若者だった。

 死者は言った。

「あーあ、これで私も本当に化物になっちゃったなぁ」

 蛆虫と腐肉の海におぼれた少女が、皮肉そうに笑っている。

「お母さんに文句言われながら起きる朝も、雨上がりの通学路も、お祭りの夜の乾いた空気も、これで全部おしまいかぁ」

「なにを言うのですか」

 青年が興奮した様子で言った。

「嘆くことはありませんシオン。あなたには死者の才能があったのですから」

 なにそれ? むき出しの目玉が怪訝けげんそうにかしぐ。

「私は仕事柄、多くの死者を見てきました。ですが、あなたほど体を損壊させてなお、自意識を保っている死者は初めてです。……あなたは知らないでしょうが、死者というのは存外、差があるものなのですよ。突然死した死者が、自分が死んだことにすら気づかずに起き上がったりする一方で、長い闘病の末に死んだ老人などは、もうほとんど意識すらない様子でぼうっとしていたりする、といった具合にね。不思議なものですよね、生から解き放たれた彼らが、依然として生前の知識や常識に縛られているのですから」

「……ふうん」

「そんな彼らも、腐りきってしまったり、灰になれば、等しく活動をめ、サラサラと震えるだけの存在になります。……ですがあなたは違う。体を蛆虫に食い尽くされて、彼らのふんにまでなりはてたというのに、あなたは発狂していない。いや、それどころか――」

 青年の頬が紅色に染まった。

。腐り続けることしかできない死者の中で、あなただけは新しい何かになろうとしている。すばらしい。あなたのような現象は見たことがありません。それと比べれば『生前』がなんだというのですか。そんなものは卵の中で見た古い夢のようなものです」

「そうね、そうかもしれないわね。……でも」

 ギロリと眼球が転がる。

、その幻想のなかで、私は人間のままでいられたんだわ」

「……? シオン」

 このとき、青年はようやく、死者が怒っているのだと気づいたようだった。

「私はね、あなたのいう古い夢ってやつが、結構好きだったのよ。だから言葉には気をつけなさい。私をあまり

「いや、あの、それは」

 急に小さくでもなったかのように、青年は正体を失って背中を丸めた。

「それは……申し訳ありません」

「ふん。謝らないでよ人でなし。自分がなにを壊したのかも分かっていないくせに」

「……申し訳ありません」

「だから、謝らないでってば」

 青年が頭を低くして謝り、少女が苦笑しながらも、許した。それは殺人者と被害者というよりは、駄目な兄を責める妹のような構図だった。

「まあいいわ。今はもう、やっぱり私も化物なんだから。さて、それじゃああなたのことを教えてくれるかしら? 名前とか、なんでこんなことをしているのか、とかね」

「ええ、かまいませんよ」

(いや、かまえよ)

 キヅナはつっこみたい気持ちをぐっとこらえて黙っていた。どうも、この二人の関係性は決定的に変わってしまったようだった。

(くそ、なんだってんだいったい。こいつら加害者と被害者じゃなかったのか? いきなり仲良くなりやがって。……まあいい、好きにやってろ。このまま死んだふりして情報集めて、頃合いを見て通報してやる)

「ですが、少々お待ちいただけますか」

「いいけど、なんで?」

「そちらの少年にとどめをささねばなりませんから」

(!?)

 キヅナはぎくりとつばを飲み、事後の策を考えようとした。だがそんな余裕は与えられなかった。

「ぐはっ!」

「……やはり、目覚めていましたか」

 青年が有無を言わさぬ速度で脇腹を蹴り上げ、両手をひねり上げて地面に押しつけた。

「これほど早く目覚めて、その上で機会を待っていたその冷静さは見事でした。ですが残念ですね、それは経験済みです」

「え? え? どういうこと!? さっきので死んでなかったっていうの!?」

 シオンが頭をぴょんぴょんさせながら説明を求めている。

「いいえ、死んでますよ。手応えがありましたから。私のスコップは完全に、彼の脳みそを破壊しました。ですがいまや、死んでからの方が厄介なんです。あなたならわかるでしょう?」

「え? あ! ああ! そっか!」

 うじゅるうじゅると、腐った体をたゆたわせながら、シオンはうなずいた。

「そうだったわね。死んだらある意味、もう死なないのだものね」

「そういうことです。ひとまず四肢と耳を破壊しておきましょう。油断ならない相手ですから…………ん?」

「? どうかしたの?」

「……いえ、これは、おかしいですね……」

 青年が戸惑ったような声を出した。キヅナにはその気持ちがよく分かった。自分だって殺したはずの相手が無傷でよみがえっていたらそんな声を出すだろう。

「あれ?」

 そして、シオンも気づいた。

「あらやだ、あなたってば、ぴんぴんしてるじゃない」

 蛆虫どもにころころと運ばれてきた眼球が、不思議そうにくるくると回る。

「肌つやも良さそうだし、傷もなくなってる。どういうことなの?」

「……さあな」

「ふん!」

 いきなりだった。青年が髪と顎をつかんでぐるりと回し、キヅナの頸椎けいついをねじ切った。

「……おい、急にはやめろ。驚くだろ」

 しかし次の瞬間、キヅナは何事もなく目覚めて文句を言った。

『…………』

 沈黙が下りた。

 若者は、明らかに戸惑っていた。この場でもっとも強大な力を持つ彼はしかし、事態を動かす能力を持たず、どうしていいのか分からない様子だった。それはキヅナも同じだった。殺人鬼よりも死者よりも異形の存在である彼はしかし、組み敷かれたまま薄汚れた床を見るしかなかった。そして、

「あはぁ」

 ただ一人、シオン・リフリーだけが、きらきらした瞳でキヅナを見ていた。

 誰よりも低い場所から、何者にも干渉できない死者の身で、彼女はまるで観客か神のように目を輝かせている。

 わらう。

「まさか、そんな、嘘でしょう? こんなことあり得るの? あはははは! 私の勘も捨てたもんじゃないわね! すごいすごい!」

 知られてしまった。

 はしゃぐ肉塊とはうらはらに、キヅナはひたすらに冷めていった。最悪だった。シオンの声色にはどんな誤魔化ごまかしも通じないような確信があった。

「不死者!」

 腐肉が嗤う。乙女だったころと同じ柔らかな声で、けらけらけらけら笑い転げる。

「うそでしょう!? ねえあなた! えぐられた目はどうしたの!? 肩の傷は!?」

「……知らねぇよ、天国にでも忘れてきたんだろう」

「あは! もしくは地獄かしらね! あはははは!」

 ある意味では、もっとも知られたくない相手に知られてしまった。キヅナは奥歯をみしめた。

「なによ! 私たちなんかより、あなたのほうがよっぽど化物じゃない! うふふ、あはは! そう! 化物よ! 赤い瞳の人喰い玩具ハンプニーハンバート! あなたってまるでおとぎ話ね!」

 早く玩具を片付けろ♪ 夜になる前に片付けろ♪ ぷつぷつと浮かんだ泡が歌う。

「死なない人間。死なない人間かぁ。あははぁ。みんなきっと気になるでしょうね。私も気になるもの。新聞やラジオは毎日のように取り上げるわ。あなたのことを知らない人はいなくなるでしょうね。あはは、動物園に入れられたら見に行ってあげる!」

「……俺を脅すつもりか」

「ええそうよ。私はあなたを脅している。でもそれだけじゃないわ」

 水に浮かぶ木の実のように、二つの目玉が表と裏を見せながらくるくると嗤う。

「なんて運命的な出会いかしらね。私が自伝を書いたら今日のことは真っ先に書くわよ。あはははは! そうなのね! そういうことなのね! すべてはここから始まるんだわ! ああ! 分かった! 分かったわ! 何もかもを理解したわ! なぜ私が生まれたかも! なぜ私が死んだかも! 私は王様になるために死んだのね!」

「……気でも狂ったか?」

「ええ! もちろんよ! 存分に!」

 嗤う。死者が嗤う。

「ねえ、人食い人形ハンプニーハンバート。私たちを見逃しなさいよ。そうしたらあなたの怪物性も黙っててあげる。ふふふ、今度は疑惑じゃすまないわよ。それどころか下手をするとこの中で一番化物扱いされるんじゃないかしら。元『あちら側』の人間として断言するけれど、あなたがいくら彼らの味方をしても、彼らはあなたの味方なんかしないわよ――だったらいっそ、こっちにきなさいよ」

 そう言うと、吐き気を催す腐乱死体が、ちょっと信じられないくらい優しく笑った。

「いらっしゃい、不死の化物。私たち、仲間になりましょう」

「……仲間」

「ええ、そうよ。化物仲間。あっちがこっちを排除するからって、つきあってやる義理はないもの。ね、そうしましょう赤目の人形ハンプニーハンバート。私なら、あなたの孤独を癒やせるわ」

 仲間。

 その言葉にはたしかな力が込められていた。キヅナはもう、シオンの言葉を切り捨てることができなかった。

 幼い頃はずっと同じことを祈っていた。この肌と目に色がつきますように、この体が元気になりますように。と。

 それがかなわないと分かると、すべてを呪った。すべての肌から色が失われますようにと。皆が皆、二十歳をまたがず死にますようにと。

 そう思っていた。

「ね?」

 いま、在りし日のキヅナが手を伸ばしていた。世界に拒まれた身の上で、間違い続けるその体で、それでもなにかを求めて、むき出しの骨を差し出した。

「ことわる」

 だがキヅナは拒んだ。

「…………え?」

「ことわるっていったんだよ化物。俺はお前たちの仲間になんかならないよ」

「……本気なの? ばれたら大変なことになるのよ?」

「その言葉そっくりそのまま返してやる」

 奥歯をキリリと強く噛んだ。弱い心がえないために。

「俺の行く末は動物園かもしれないが、だったらお前だって牢屋と墓地だ。存分に見舞ってやるから楽しみにしてろ。差し入れはなにがいい? 菓子でも飯でも何でもいえよ。花はなにが好みだ? 束にして墓前に添えてやるよ。なんだ、俺が化物だからって、無条件に味方してくれると思ったか? さすが脳みその腐ってる連中は考えることが違うな。勝手に懐くなうっとうしい。俺は人間だ。人間なんだよ。くそったれが、どいつもこいつもちょっと死んだくらいで人の心をなくしやがって。恥を知れよ、恥を」

 結局、いつもの茨道だった。キヅナは苦笑した。いっそ、そちらに行けたらと思うが、十七年間育て上げた信念は変節を許さなかった。

「あいにく友人は選ぶ性質たちでな。お前の誘いには乗れないよ」

「馬鹿みたい」

 シオンがわざわざため息までいて馬鹿にした。

「あきれた。もうちょっと頭がいいかと思ったわ。まさかそこまでいっておいて解放されるなんて思ってないでしょうね。それとも不死だからって甘く見てるの? 底なし沼に沈められても同じことをいえるかしら」

「やってみろよ。それでも最後に勝つのは俺だ。お前たちこそおびえて眠れ。必ず後悔の日が来ると知れ。不死だのなんだのは関係ない。人の意思がお前たちを打ち砕くんだ」

「……そう」

 小部屋を沈黙が支配した。腐れた死者はこのとき確かに、無力な化物に気圧けおされていた。

「……厳しい人ね。そんなだから不死になったのか、あるいは不死だからそんな風になったのかしら、ね」

「知るか。興味もない」

 でしょうね、とシオンは言って、困ったような、笑ったような。そんな風に、腐った肉をうごめかしていた。

「じゃあ、さよなら……」

 そして、キヅナの意識は途切れた。



「頸動脈を締め上げました」

 暗く、小さな地下室で、若者が言った。

「軽く気絶しただけなので、大きな声は出さないでくださいね」

「……うん」

 地下室の床にはひとりの少年が転がっていた。燃え尽きた灰みたいに白い彼の眉間には、意識を失ってさえ取れることのない深いしわが刻まれている。そのとなりには、もはや腐汁の水たまりと化したシオンがいた。

 ぷかりと、目玉が一つ浮かび上がり、少年を見つめた。

 シオンは彼を綺麗きれいだと思った。外見ではなく、倒れ伏すまで走るのを止めないその「形」が、なによりも美しいと感じていた。

 子供が宝石に対して思うものと同じ気持ちを、シオンは抱いた。バラバラだった手の骨と肉がふたたび集まってあらたな手を形成した。

「底なし沼はいいアイデアですね」

 青年が言う。

「不死者とは驚きましたが。考えてみればそれほど変わった処理もいらないでしょう。古井戸に落として砂で埋めてもいいし、セメントで固めて建物の基礎にしてもいい。そうしてからじっくりしましょうか。少しやっかいですが。対処は可能です」

「…………」

 形成された骨の手が床を突いた。すると、まるで水面から身体を引き上げるように、薄っぺらな水たまりからつぎつぎと身体が形成されていった。ただれた肉が腕となり、腐った汁が肩となった、真っ白な灰に似たはえの糞は頭に、そして油虫の幼虫が胸になった。

 その身体は腐った肉と折れた骨、そして蠅の糞でできていた。

「……美しい」

 青年がぼそりとつぶやいた。骨を蠅の糞で塗った仄白ほのじろい死体はおぞましかったが、同時に人体からはかけ離れた尋常ならざる美でできていた。

 だがシオンは、そんな己の変化には一切気を払わなかった。

 彼女は、キヅナだけを見ていた。

 最後にふとももが形成され、寝苦しそうにしているキヅナの頭をスゥッと浮き上がらせた。できたての右手がおそるおそる額に触れ、汗で張り付く髪をよけてやった。

 すると、心なしか、眉間に刻まれた深い皺がほんの少しだけ、やわらいだように見えた。

 太ももに、意外なほど小さな頭の重みを感じながら、シオンはこの、まだ名前も知らぬ不死の化物を思った。自分や、そして目の前の殺人者よりもよっぽど化物らしい外見と力を持った不死を思った。

 なくしてしまったなにかが、ぬくまるような気がした。

「ねえ」

 そしてシオンは言った。生きていたときよりもはるかに素直に、そのぬくもりに従った。

「お願いがあるの」



             どこかで蠅が鳴いていた。

 目が覚めたとき、キヅナはまた、地下室にいた。

 最初は例の小部屋にまだいるのかと思ったが、違った。この場所の天井は

驚くほど低く、これでは部屋というよりただの箱だ。

「……ここ、は……」

 寝返りを打つと、右の壁がなくてごろりと落ちた。どうやらここは部屋ではなく、壁際にしつらえられた棚のような空間だったらしい。

「いつつ……なんだってんだ」

 頭を押さえながら立ち上がると、部屋は案外広かった。四歩ほど離れた床にランプがひとつ置かれているが、炎が小さいのか、はたまた部屋が大きすぎるのか、辺りの様子は分からなかった。いまだに朦朧もうろうとしている意識にむち打って、キヅナはランプの元までたどり着き、炎の絞りを開放した。

 途端に炎が大きくなり、闇が一気に切り払われる。

 そして、キヅナは見た。

「!?」

 腐乱死体を見ても眉一つ動かさなかったキヅナが、このときばかりは悲鳴を抑えるだけで精一杯だった。

 体中の皮膚が総毛立っている。背中に滝のような汗が流れていた。足が勝手に震えだし、瞳が限界まで見開いていた。

「なんだ……これ……」

 別に部屋の中に何かがあったわけではない。むしろそこは殺風景で、家具ひとつない空間だった。

 だがその空間そのものが、恐怖と嫌悪でできていたのだ。

 部屋は、全てが人骨でできていた。

 相互に組まれた大腿骨だいたいこつが壁となり、らせん状に積まれた背骨が柱となっている。あばら骨と尺骨を組み合わせて作られた棚がいくつも並んで頭蓋骨が飾られている。

 キヅナが思わず後ずさると、パキリと乾いた音が鳴った。この部屋は床まで骨でできている。

「おっと、気をつけてくれよな」

 声。

「誰だ!」

 ランプを声のする方角に向けた。だがそこには誰もいなかった。

「なんだ、どこにいる?」

 キヅナはランプを掲げてあちこちを照らす。室内には相変わらず人影はなかった。だというのに、

「ここだぜ、新入りのお兄ちゃん。しっかり見てくれよな」

「!? ふざけやがって、姿を見せろ!」

「いや、だからさっきから見せてるってば。ほらここ、こーこ!」

「……なに?」

 声の出所へゆっくりと近づいていった。そこは周囲と変わりない人骨の壁だった。

「まさか」

「けけけけけ! かかかかか!」

 その壁をまじまじと見ていると、髑髏どくろのひとつがカタカタと鳴りだした。

「なかなかいい顔してたな、お兄ちゃん! これだから新人脅かすのはたまらねえや! ゲタゲタゲタ!」

 揺れは次第に大きくなり、髑髏から背骨へ、背骨から腰骨へと伝わって地面に落ちた。骨は落ちるそばから組み上がり、やがて一組の人骨となって立ち上がった。 

「初めましてだな新入り。俺は髑髏スカル。ま、楽しくやろうぜ。なははは!」

 流石さすがのキヅナも度肝を抜かれた。

 人が死ななくなったこの世界では死者が出歩く。それは知っていた。だがまさか、こんな骨だけの身体になってまで、意識を保つ存在があるとは夢にも思わなかった。

「……おい、お前」

「おおっと、いきなりお前呼ばわりとはたまげたね。あ、いやいや、悪いっ

て言ってるんじゃないよ。ただ、その、いきなり過ぎてびっくりしたっていうか。驚いたっていうか。それだけだから! 気にしないで!」

「…………」

 キヅナはいらっとした。

「ここはどこだ?」

「ん? ここかい? ここはコグド教会の地下墓地カタコンベさ」

「カタコンベだと……」

 そう言われて、キヅナはようやくこの場所に思い当たった。歴史の長いこの街では数百年前から慢性的な土地不足が続いており、とくに中心部の教会では地下にその場所を求めたという。

 そう言われてみれば、ここの骨達は身じろぎひとつしなかった。通常、骨になった死者も、時折震えたりはするものなのだ。(ただし、目の前の髑髏は除く)

「……なんだって俺はこんな場所にいる……」

「そんなの神父様が連れてきたからだろ」

「神父だと?」

「あれ、もうひとりの新人と一緒にきたんじゃないの? ちがう?」

「…………」

「あ! おい! まてって!」

 キヅナはランプをひっつかんで歩き出した。あばら骨の出口を抜け、大腿骨の廊下を歩く。「おおい! 走るなって! あぶないぞ!」背後からカシャカシャと一種独特な足音を立てて骸骨が追ってくる。地獄のようなこの場所で、化物に追われながら行くこの状況は出来の悪いおとぎ話のようだった。

 どこかで蠅が鳴いている。

 三度、アーチを抜けると、広大な空間に出た。

 もとは天然の鍾乳洞しようにゆうどうだったと思われるその場所は大きな渓谷になっており、見下ろす地面には闇色をした水が流れていた。

 その全てが、やはり骨に埋まっていた。

 だがキヅナはもう、そんな『物体』には注意を払わなかった。

 慣れたからではない、ただ、もっと注視しなければならない存在がいただけだ。

(ワハハハハ……)(ひひひ……)(ほほほほほ……)

 それはまさしく地獄の景色だった。

「なんだ……これは……」

 谷底で水につかる屍蝋しろうがいる。崖の上でさいころ遊びに興じるミイラがいる。赤々と燃える炎にその身をかざして蛆虫を焼く死者がいる。死者の周りには蠅が飛び交い、黒い雲を作っていた。

 洞窟は死者であふれていた。ここから見えるだけでも十数名はいるだろう。彼らは思い思いの場所で時をすごし、ときおりケタケタと笑っていた。

「ぜぇぜぇ、やっと追いついたぜ。さすが、生きてる奴は速いなぁ。あー、もー、マジ無理、勘弁してよ。脇腹痛くなったわー。……って! 脇腹なんてもうないんだけどな! ははははは! ――って、おぶぅ!」

 髑髏スカルの首をしっかとつかみ、そのまま壁に押しつけた。

「お、お兄ちゃんよぅ。いくら俺の冗談が気に入らなかったからってこのツッコミは激しすぎるんじゃないか?」

「黙れ、俺の質問にだけ答えろ」

 噛み付くように顔を寄せ、真っ赤な瞳孔を見せつける。

「ここはなんだ? お前達は何者だ?」

「だからさっきも言っただろう。ここはコグド教会の――」

「そういうことを聞いているんじゃない……」

 腕に力を込める。だが髑髏スカルが苦しむ様子はない。

「なぜ、こんな場所がある。なぜ、お前達は焼かれていない。全ての死者は焼き払われて、墓に眠るのが決まりだろう」

「…………」

「なのに、なぜ、お前達はこんなところでうごめいている。なにを企んでいる? お前達は何者だ?」

「……俺たちが、何者かって?」

 スカルは体中の力をかっくりと抜き、まるで本物の死体にもどったように垂れ下がった。

「くっくっく、ひでぇなぁ。なんだいその言いぐさは。傷つくなぁ。まるで俺らを、化物みたいに言いやがる。笑えねぇなぁ。かっかっか……」

「っ!? 手前てめえ!」

「カッカッカ、ケタケタケタ、ゲタゲタゲタ!」

 笑うたびにスカルの身体が崩壊していった。指が落ち、あばらが落ち、やがて拘束から逃げ出した。落ちた骨は地面に着くことなく再び組み上がって立ち上がり、至近距離からキヅナをのぞいた。

 怪物はまだ笑っている。その怪物性を存分に見せつけて笑っている。

 その笑いが、いきなりやんだ。

「いいよ。教えてやるよ。俺はガランドー・ネイムってんだ」

 そして、髑髏スカルは、名乗らなかった名を言った。

「二十二歳の、花屋だよ」

 キヅナは一瞬、あっけにとられた。

 むき出しの指骨が宙を泳ぐ。

「んで、あっちで塩風呂につかってるのがパン屋のペイジじいさん。その向こうでチェス打ってるのはこの春結婚したばかりのターズ夫妻。奥さんの方は生者で、なんと、妊娠五ヶ月だそうだ。んで、下でおしゃべりしているのがアンリ、ゴッゾ、ビーマー……」

 スカルは――いやガランドーを名乗る青年は、よどみなく死者の一人一人を指さし、彼らのを紹介していった。それは家族でも紹介するような、愛に溢れたものだった。

 死者の指が躍るたびに、キヅナのなかで何かが変化していった。おぞましいとしか思えなかった死者達に名前がつくたびに、恐れや戸惑いが和らいで、彼らが人へと戻っていった。

「俺たちが何者かって? 教えてやるよ。俺たちはあんたと同じ街に住むだよ」

 ただし、死んでいるけどな。と、最後だけ冗談めかして骨が言う。

「俺は交通事故だった」

 こてりと、ガランドーが首を回して後頭部を見せた。そこはよく見るとパテで埋めた痕があり、広範囲が傷ついていた。

「爺さんは寿命。ターズさんは病気。アンリは長く病気をしていたそうだ。他のみんなも、まあいろいろだよ。人生が急に、終わっちまったんだ」

「…………」

「あんたの言うことはよく分かるよ」

 表情のない骨の面が、遠くの死者をみつめていた。

「死んでる奴なんて気持ち悪いよなぁ。肉は腐ってるし骨は見えてるしで最悪だよ。害虫みたいなもんだよな。せめて素直に焼かれて、墓の下で大人しくしてろって思うよなぁ」

「…………」

「それでも、俺たちはやっぱり、生きていたくて、さ。あんただって、分かるだろう?」

 歯茎をカタカタと鳴らし、うつろな眼窩がんかを見せつけて、骸骨は肉のない身体でしかできない方法で己の感情を表現してみせた。キヅナにはそれがよくできた人形劇のように見えた。

「そんなとき、助けてくれたのがグスターブ様なんだ」

「グスターブ?」

「この教会の神父だよ。そら、あそこだ」

 髑髏スカルが渓谷の最上部を指さした。そこには古い神々の像と燭台しよくだいが並んでおり、何人かの死者がひざまずいて祈りを上げていた。

 その中心にいるのが、あの青年だった。

 どこかで蠅が鳴いている。

「グスターブ様は死者を哀れんでくれててさ、俺たちを無理に火葬になんかしないで、こうして地下に住まわせてくれてるんだ。いい人だよ」

「……へぇ」

 キヅナは逃げも隠れもせずに、挑むような気持ちで渓谷を上っていった。途中でグスターブがこちらに気づき、顔を上げた。

「やあ、こんばんは」

「……よう」

 青年はあまり神父らしい格好をしていなかった。例の農夫じみた普段着を着て、そのうえなんのつもりなのか、スコップを左手に携えている。

「すみません皆さん、私は新人さんと少し話してきます」

「そんな、神父様……お話を……」「お話をしてください……神父さまぁぁ」

「あの、なるべく早く戻りますから、どうか……」

 数時間前にキヅナを撲殺した時とは打って変わって、青年は腰を低くして死者達と話をしていた。

「いいぜ」キヅナは顎をしゃくる。「そっちが先だろう。待つよ」

「……ありがとうございます」

 教会の隅に立ったまま。キヅナはしばし、グスターブと死者を観察した。

「神父様……お話を……」「お話を……神父様……」「おあなし……おあなし……」

 この場所にいる死者達は、余所よそと違って随分と腐敗が進んでいた。教会全体にすえた匂いが立ちこめ、なかにはほとんど人語を解さないまでに腐りきった死者もいた。彼らはグスターブの袖にすがりついては説法を求めている。だが折角のありがたいお話も、腐った頭には届きにくいのか、彼らは何度も同じ台詞せりふを繰り返していた。

「……お待たせしました」

 しばらくしてから半ば逃げ出すようにして、グスターブがやってきた。

「お疲れ様です神父様。水を汲んできました。どうぞ」

「これはスカル様。ありがとうございます」

 髑髏スカルが汲んできた冷えた水を、グスターブがぐびりぐびりと胃のに落とした。

「助かりました。……ここはもういいですよ。皆のところへ行ってください」

「はい。――じゃあな新入り、失礼なことはするなよ」

 と釘を刺して、スカルはカシャリカシャリと足音を立てて去って行った。

 残った水で顔と手を洗い、グスターブが言った。

「ここのことは、聞きましたか?」

「ああ」

「どう思われました?」

「……お前、いやらしい質問をするやつだな」

 ちっ、とキヅナは舌打ちした。この光景は見て思う感情などひとつに決まっている。

「もちろん、こう思ったよ。『ああ、なんて可哀想かわいそうな奴らなんだろう』とな」

 死者は死ぬべきだ。それは今の街に蔓延はびこっている当たり前の常識だ。腐って見苦しくなる前に炎に焼かれて、せめて墓のなかで大人しくしている。それが死すべき者の態度だと、全員が無条件で信じている。

 だが、実際に彼らを目の前にして、同じ態度を貫ける者がどれだけいるだろうか?

(こんなになっても、まだ生きたいって、思っちゃだめぇ……)

 キヅナはシオンを思い出していた。なんの罪もなく殺された哀れな少女の訴えは、キヅナの冷めた心すら揺らすものがあった。

 あれがもし友人なら? 家族なら? そのとき人は、常識の通りに動けるだろうか。

「はなはだ不本意だが、ここの考えは理解できるよ。言ってしまえば『死者は死ぬべき』なんて今の常識は死んだことのない奴らが考えた夢物語にすぎないからな。結局、連中は臭いものにふたをして、視界に入らなくなったら満足している。それにくらべたらあんたの態度はよっぽど現実的さ」

「…………」神父がポカンと口を開けている。

「どうした?」

「いや、まさか、そこまで良く見てもらえるとは思っていなくて。……あな

たの話を聞いていると、私がまるで善人のように聞こえてしまう」

「謙遜はいらんよ。個人的には死ねよ人殺しとか思っているしな」

「いや、本当に謙遜ではないんです。いや、参りましたね。この状況は、あなたやスカルが言うような善意からつくられたものではなく、あくまで私の個人的な欲望からつくられたものなのですから」

「? どういうことだ?」

 違う違う。と、神父は困ったように手を振って、

「私はね、死体が好きなのですよ」

 聞き間違いかと思った。

「……あー、今なんて?」

「私は、死体が好きなんです」

 聞き間違えであって欲しかった。

 顔の良い青年が脂っこいため息を吐いた。

「物心ついた時からそうなんですが、私は骸骨とか腐乱死体とか、そういったものが大好きなんです。他にも屍蝋、ミイラ、氷付け、遺灰、デスマスクなんかもたまりません。それに比べたら生きている人間なんてゴミです。クソです」

 ああ、そういえばこいつ頭のおかしい殺人鬼だったな、とキヅナは今更ながら思い出した。

 どこかで蠅が鳴いている。

「実のところ神父になったのもこの地下墓地に入りたかったからでして、信仰とかどうでもいいんですよね。死者を保護したのだって、折角、しやべったり動いたりする死者がいるのに全部焼いちゃうのがもったいないと思っただけですからね。いやぁ、素晴らしい。美しい。これぞ天国という奴ですね。あと――」

「わかった、もういい。もうやめろ。――やめろっつってんだろ!」

 キヅナは必死で言葉を遮った。グスターブの口から漏れる数々の玄人くろうと発言はもしかすると、初めてこの場所を見たとき以上におぞましいものだった。

「私にとって、死者こそが神なのです」

 化物が言った。

「それに比べたら生者など、精々が死体という至高の美を生み出すための『卵』に過ぎません。時が来れば『卵』はかえるべきです。それなのに、最近は熟れすぎて腐った卵があまりに多い……。だったら、私が手助けしてやるのも、慈悲ではありませんか?」

 まるで、何者かに祈るように、グスターブがスコップの柄に口づけをした。もとより信仰を持たなかった偽の神父にとって、それこそが十字架であり、聖餅せいへいだった。

「そんな理由で、人を殺したのか?」

「はは、やはり、あなたはこちら側の人間ですね、今の流れで、すぐにそんな台詞が出るだなんて極まっているとしか言いようがない」

「狂ってるな」

「狂う? 私に言わせれば世界の方がずっと先に狂っていましたよ。ふふふ、みんな滑稽なものですね。いつかは殻を破らなければならないのに、まるでそれが鎧であるかのように手放せずに、時を逃して、卵のままぶくぶくと太って腐っていく人間のなんと多いことか。ねえ、あなたもそうはおもいませんか? 死を忘れた赤目の人形ハンプニーハンバート。決して孵ることのない『永遠の卵ハンプニーハンバート』」

「……なるほどね、お前からしてみれば、俺なんてのは一番いやな野郎ってわけか」

「ええ、なまじ魅力的に見えるから性質が悪い。あなたはまるで『宝石でできた卵』だ。美しくて魅力的で、でもなんにも孵らない。目を毒するだけの堕落した芸術です」

「ひどい言われようだが、そういうお前はどうなんだ?」

「もちろん私も腐っていますよ」

 とっておきの皮肉はさわやかな笑顔でかわされた。

「なんですかその顔は。弱点でも突いたとおもいましたか? あいにくですが、その気づきはむしろ私の出発点ですよ。私の卵はね、きっと最初から腐っていたんです。あなたの卵が、最初から石英と紅玉でできていたようにね」

「……ああ、そうかい」

「ええ……腐った卵はなにも生まず、腐った殻の内側で、腐った夢を描くだけです。それだって殻が割れさえしなければ、真実と変わりはしないのですから……」

 ブツブツと、もはや一人の世界に入り込みながら、死者の味方である狂った神父はふらふらと辺りを見回した。その瞳はひたすらに乾いており、彼こそが導きを欲しているように見えた。

「……『なにか』を生み出せるのは生きた卵だけです。その生きた卵でさえ、ほとんどが小物にしかなれない……それじゃあ駄目なんです。私たちにはもっともっと大きな卵が必要なんです。他人すら巻き込む夢を生み出す。そんな『王の卵』が……」

「なあ、悪いが流石にそろそろ理解不能だぞ」

「……そうですね、この辺にしておきましょう。私たちがどれだけわかり合ったところで、結局は徒労ですから。他に質問はありますか?」

「ああ、あるよ。最後の質問だ。なぜ、俺を解放した」

 あるいはこれを最初に聞けば良かったかもしれない。

「答えろ。別に閉じ込めておけばいいものを、なんだってこんな風に出歩かせる? そのうえいろいろ喋るなんて、いったいなにが狙いだ」

「別に、私に狙いなんかありませんよ。ただ私は『王の卵』が言ったとおりにしただけですからね。いや、正確には『女王の卵』でしょうか」

「なに?」

「……これ以上は、流石に私もいい加減にして欲しいというか。勘弁して欲しいというか。それを私が言っていいのか、と悩むところなのですが。どうなんでしょう女王?」

 どこかで蠅が鳴いている。

 そのとき、キヅナはようやくその羽音がどこから出ているのか気づいた。さっきから一匹の蠅が身体の周りを飛び回っている。

 グスターブは、その蠅に向かって喋っていた。

「……おいお前、なにをやっている」

「面倒です。もう喋ってしまいましょう。いいですか永遠の卵ハンプニーハンバート。女王はあなたに――」

『だめぇ!!』

 奇妙な音が響いた。

 キヅナは最初、その音をなにかの偶然か幻聴だと思った。こずえきしみや、すきま風が、ときに意味のある言葉に聞こえてしまうように、を聞き間違えたのだと思った。

 だが、

「……あの、女王。鼓膜のそばで喋るのは止めてください。破れるかと思いましたよ」

『ご、ごめんなさい。でも、グスターブが勝手に言おうとするんだもの!』

 いったい誰が狂っているのだろう。とキヅナはその光景を見ながら思った。蠅に話しかけている殺人鬼か、それともその蠅の声が理解できる自分自身か。

「だったら最初から自分で言ってください。これは、流石に私の役目ではありません」

『ううう、分かったわよぅ。ああもう、まだ全然慣れてないのにぃ』

 あるいは、この世界そのものが、すでに狂っているのかも知れない。

 風が吹いた。黒い風だ。戦の狼煙のろしにも似た濃い風は、腐った匂いと耳障りな羽音をまき散らして渓谷中から群れ集まった。風はすべて、億万の羽を持つ蠅でできていた。

 集った蠅は即座に互いを喰らい始めた。雄が雌を喰らい、雌が雄を喰らい。また互いに相まぐわって千億もの卵を産んだ。卵は即座に孵化ふかして蛆虫となり、蛆虫はさらにお互いを喰らってさなぎとなり、また、再び蠅となった。

 そして、それら全てが、

『……こんばんは』

 だった。

 蠅の羽ばたきが響き合って一つの言葉を生み出した。彼女を構成するものは全てが蠅でできており、何億もの卵が寄り集まって肌となり、瞳は蛆、そして髪とまつげは成虫の群れでできていた。

『えっと、さっきぶりだね、あはは』

 二千万の蠅で作られた頬が、気まずそうなえくぼを作った。所在なさげな三千万匹がぽりぽりと太ももをいている。

 と、その目が気まずそうに地面に落ちて、何百億匹もの蠅は『ひゃあ!』と飛び上がった。

『って! やだアタシってば裸じゃない! ああもう! とりあえず服! パンツ! パンツだけでも作らなきゃ! ってああ! 今度は身体が崩れるぅ! ちょっとグスターブ! それ寄こしなさい!』

「はいはい」

 神父がシャツを脱いで蠅の群れに掛けると、一億匹が唇をとがらせて『早くしてよね! 気が利かないんだから!』とぶーたれた。

「お前……」

 キヅナはようやく、なにかを口にすることができた。

 母が死んだときよりも、驚いていた。

「お前、シオンか?」

『えっと、うん。一応』

 蠅の群れが有機的に動いて首肯した。彼女を構成するものは、すべてが蠅でできておりもはや肉も骨もなくなっていた。

「……どうなってんだそれ」

『さあ。よく分からないわ』

「分からないってことはないだろ。自分のことだぞ」

『じゃあ、あなたはどうやって不死なのよ』

「…………」それを言われると、キヅナは黙るしかなかった。

「これもまた、認識能力の違いでしょう」

 上半身裸のグスターブが言った。

「死者の状態は本人の認識能力に依存すると言ったのを、覚えていますか? あれは本当に幅が広く、無傷なのに意識がなかったり、逆に骨になってもぴんぴんしている人までいます。……そして、そのなかでもシオン様の認識能力は桁が違います」

 恍惚こうこつと法悦と絶頂を、同時に感じてでもいるように、グスターブがひざまずいた。

「まさか、、その身体を自分だと認識できる人がいるなどとは、夢にも思いませんでした。いや、あなたはさらにすごい、喰われ、吸収され、、自我崩壊を起こさないなんて……素晴らしい。あなたこそまさに女王。……『蠅の女王ベルゼゴール』だ」

『あははー、そんな大げさだよー』

 殉教に値するほどの狂信を、シオンは一言で片付けた。

『でも女王ってのはいいかもしれないわね。私の夢にぴったりな渾名あだなだわ』

「……お前、なにを考えている」

 キヅナの背中に嫌な汗が流れた。

 狂気の神父にあがめられ、

 数十体の死者の頂点に立ち、

 蠅の身体を持つに至ったこの娘が抱く『夢』などという代物に、甘い予感は一切抱かなかった。

『ねえ、人喰い玩具ハンプニーハンバート。――そういえば結局、名乗ってすらもらってなかったわね。まあいいわ。この方が私達らしいもの。――ね、あなた言ったわよね。死にたくないっていう私に『だったら永遠に腐る気か?』って、そう言ったわよね』

 言葉通りに、今この瞬間も腐り続ける少女が言う。

『そしてこうも言ったわ。『お前はもう絶対に正解を選べない。やれるのは間違いを減らすことだけだ』って。……私このことをずっと考えていたの。この、正解とか、間違いとかって、誰が決めるのかなって』

 にっこりと、十五歳の少女がうれしそうにほほえんだ。それはその年頃の子供達が「将来は人の役に立つ仕事がしたい」というときと、おなじ笑顔だった。

 億千の卵が弾はじけて産声を上げた。万億の蛹が殻を割ってときの声を上げた。

 こうして、百万都市の片隅でシオン・リフリーが孵った。真珠色をした小さな卵は千兆の転生を繰り返し、『蠅の女王』として現世に降りた。

「お供しましょう」

 最初の賛同者が頭を下げた。一人目は腐った血の流れる殺人鬼だった。

「あなたの夢を、どうか私に支えさせてください」

『いいわよ。とりあえずここにいる人たちを仲間にしないとね! あなたには期待しているわ』

「光栄の至り」

「お前ら正気か!?」

 キヅナは叫んだ。

「生者と戦うのか!? 死者だけで!?」

『別に、戦う必要はないわ。ただ、私達は否定されたくないだけ。仲間をつくって、静かに暮らしたいだけ』

「分かってねぇな。それが!」

 ガリガリと頭をかきむしる。

「お前ら、手前のはらわた噛みちぎって逃げようとする寄生虫をゆるすか? 

他者になるってのはそういうことだぞ。連中は絶対に、お前達を逃がさないぞ」

『……そっか、うん。たしかにそうよね』

 シャクシャクと蠅共が組みかわっていく。数億の顎がなにかを咀嚼そしやくしている。

『ふふ、やっぱりあなたいいわね』

 蠅の女王が少しだけはにかんで、恥ずかしそうに眉尻を下げた。

「肌が白くて、目が赤くて、幽霊みたいに格好よくて、不老不死の化物で、そんな身体に負けないくらい、強い心を持っている……ふふふ」

 幼子が宝石に手を伸ばすように、五千匹の蠅が、つぅっと寄った。

「あ……」

 だが、女王はその手を寸前で止め、切なげに眉をゆがめた。

 結局、キヅナに触れることなく、いった。

「……ね、三度目よ。三度、あなたに同じことを聞くわ。四度目はなし、これが正真正銘の最後。これを断ったら、もう二度とあなたを誘わないわ」

 少女のなかで決意が固まる。心臓も脳も無い身体に情熱が走り、ほとばしる感情が彼女をより、彼女らしく形作った。

 蠅たちが流転を繰り返し、やがてそれらは卵でありながら蛆虫であり、蛹でありながら成虫である存在へと形を変えた。

「あのね――」

 そのとき、キヅナは彼女が何を聞くのか、もう分かっていた。

 同時に、シオンもまた、彼がどう答えるのか知っていた。

 それでも、先に進むために、シオンは全身全霊で叫ぶのだった。

「私の仲間になって!」

 その姿は生きる喜びそのものだった。期待し、思いを寄せ、彼女は死後にして頂上を迎えた。

 故に、キヅナもまた、本気で答えた。 

「断る!」

 だから好き。

 そう、シオンは言って宝石を抱きしめ、蛆虫の涙をぽろぽろとこぼした。

 この日、百万都市フエルミゴーラの片隅でシオン・リフリーが孵り、『蠅の女王』として大地に降りた。女王は死者集団『スケッチフィニア』を組織、ゴーラ連合における最初の死霊団として生者すべてに反旗をひるがえした。

 また、同時期に『赤髑髏』『墓掘りグスターブ』『人喰い玩具ハンプニーハンバート』などの、最初期の強力な死者、人間、異能者達が知られるようになった。

 彼らの戦いはこれより三ヶ月後“屍者”の襲撃を得るまで止まることはなかった。

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