7話 十六歳の怪物

 目覚めているのか眠っているのか分からない、

 生きているのか死んでいるのかも分からない。

 意識は沈みかけた船のように覚醒と昏倒を繰り返し、手足は墓石よりも冷たく重い。

 肺に穴が開いていないことが信じられない。どこからかドクリドクリと血が流れ出ていないことが信じられない。ここが現実だという意識もうすい。

 寒い。

 部屋が、では無く自分が寒い。まるで魂をなくしたよう。

 息を吸い、吐く。

 この日初めての意識的な活動は傷んだ喉に鈍い痛みを与えた。もう一度。呼吸のたびに痛みが増える。だがこれは良い兆候だった。さきほどまでの無痛は、ただ痛みすら認識できなかっただけなのだから。

 目を開く。が、何も見えない。どちらなのだろう。キヅナは思う。部屋が暗いのか、俺の瞳が暗いのか。どうやら両方のようだ。視界の端、窓があるはずの方向がぼんやりと光っている。三日も続いた雨はやんだらしい。やっと戻ってきた聴覚に小鳥の鳴き声が届く。

 いい朝だ。

 いまだ動かぬ体でベッドに横たわったまま、キヅナは心の底から思う。血反吐へどを吐きながら覚醒することもなければ、気づいたら病院ということもない。そしてもちろん『目覚めない』こともだ。最近では珍しいくらいにすが

すがしい朝だ。

 だがそれもここまでだった。

「おはよう、キヅナさん」

 いったいいつからそこにいたのだろう。ベッドの脇にひっそりと立つ女がいる。女はパジャマ一枚を着ただけの姿で部屋にたたずみ、じっとこちらを見下ろしている。

 まっしろな指がぬらりと伸びた。犬でも撫でるように額に触れた。キヅナよりもさらに冷え切った手のひらが貴重な熱量を奪っていった。

「起きられる?」

「……ああ」

 かろうじて応えて、壊れかけた機械を無理矢理動かすように体を起こす。

「無理しないで頂戴、着替えるのね? 手伝うわ」

「いや、いい、自分でやるさ」

「でも……」

「いいから」

 腕を伸ばして女を押す。だが骨のように細い腕は満足に用をなさず、突いた衝撃でキヅナをこそ倒れさせた。

「ほら、言わないことではないわ。さぁ」

「…………」

「恥ずかしがることないわ。だって親子なんだもの」

 女の指が無遠慮に胸元をまさぐっていく、キヅナに抵抗するすべはない。ボタンがひとつひとつ丁寧に外され、死体から皮でも剥ぐように寝間着が取られる。まろびでたのは夜目にもほの白い白化個体アルビノの肌だ。

「相変わらず、あなたは綺麗ね」

 ため息とともに女が言った。一切の色素を持たない肌は石英で作られたように白く、血の色を透かした唇は炎よりも赤い。

 美しいと、この姿を見た人間はみなそう言うのだ。だがそんな連中も、実際にこの体になってみたらなんと言うだろうか。石英と炎の肉体を喜ぶだろ

うか。

「今日は、学校へ?」

「ああ」

「そう……」

 女は人形遊びでもするように、キヅナに服を着せていった。骨張った腕をシャツに入れ、細すぎる脚をズボンに通す。つま先を靴下に、分厚く重い詰め襟を羽織らせる。それから女は化粧台へ向かい、油と珪土を取り出して練りあげ、キヅナの顔や手などの日にさらされる箇所へと塗りたくった。いまは秋とはいえ、太陽の光は色のない皮膚には厳しすぎるからだ。

「……本当に大丈夫?」

 ガラス玉じみた瞳がじぃっと覗く。かまわれすぎた猫のように、キヅナはすっかり疲れ果てていた。

「……すり」

「え?」

「薬を、くれ」

「え、ええ」

 再び化粧台に向かった女が小瓶を取ってくる。キヅナはそれをかっさらうと、一錠つまんで飲み下した。途端にさびっぽい嫌な臭気が込み上がってきたが、キヅナはそれごと飲み下す。

「……副作用があるから、あんまり使ってほしくないのだけど……」

「いや、でも効くからさ。ほら」

 効果はすぐに出た、キヅナは「よし」と気合いを入れると、ゆっくりと立ち上がる。久しぶりに使う道具を確かめるように、両手をぎゅっと握りしめる。手のひらに食い込んだ爪痕つめあとに血が流れ込み、長い時間を掛けて消えていった。どうやらこの体はまだ生きる気らしい。ならば心の方も応えてやらねばなるまい。

「じゃあ、行ってくるよ」

 日々死のふちからよみがえるように目を覚ます、それが、十六歳のキヅナ・

アスティンの日常だった。

 


アスティンの家が元貴族だという話は本家の爺様が大好きな話で、彼は

 『だからこそアスティンの人間は~~でなければならない』と子供からひ孫までを説教して回っていた。

 我ながらませたガキだと思うが、キヅナはかなり幼い頃からこの話を疑っており、中等部の自由課題として自身の家系を調べたことがあった。

 すると意外な事に爺様の言ったことはすべて事実で、四代前のケイザ・アスティンは古ゴーラの青き血に連なる子爵家の一員だった。

 だが彼には先見の明があったのだろう。市況の強くなった時代に爵位を返上し、以降は紡績業を家業として代を重ねた。いまでは貴族だった面影など本家に飾られた伝来の宝剣しかない。さらに言えばそれらをことさらに誇って自伝まで書き上げてしまった爺様には古き血の精神性などかけらも残っておらず、さらにさらに言えば父に至ってはそんな祖父の態度をこそ嫌って家業を捨てて銀行員になってしまった。

 かくて、アスティン家は四代を掛けて下俗したわけだ。

 さて、そんなアスティン家の先端にいるものとして、キヅナ・アスティンは考える。アスティン家中興の祖となったケイザは当時、なにを考えていたのだろう、と。

 彼には確かに先見の明があったのだろう。目前に迫る革命の機運はまさに怪物的であり、脱出はなににもました急務だった。だがそんなものは当時ほとんどの人間には見えなかったはずだ。親戚達は当然反対しただろう。なにを馬鹿なことを、お前の言う怪物などいない。爵位を返上するなどとんでもないことだ、と。

 それでも彼はやりきった。

 ここでキヅナは考える。果たして彼は正しかったのか、間違っていたのか。

 金銭的な面から言えば、ケイザは正しかっただろう。当時の市場成長にと

もなう既得権益の喪失は目を見張るものがあり、いまでは影も形もなくなってしまった家もあるのだから。

 だが、アスティンの家として考えたとき、彼は果たして正しかったのだろうか。

 王とくつわを並べ、蛮族ばんぞく共から祖国を守った誇り高き血を俗物の自慢の種にまで落とした彼は、現状を見て誇ることができるだろうか。それをキヅナは考える。

 事実が欲しいわけではない。ただキヅナは考えざるを得ないのだ。身としては。いや、それもまた正確ではない、どちらかというと俺は――、

「そろそろつきますよ」

 眠っていたつもりはなかった。だが考えているうちにそうなっていたらしい。通りを流す車のなかでキヅナは目覚めた。ちょうど大通りから郊外へと延びる枝道に入ったところだった。歩道にはキヅナと同じ制服を着た生徒達であふれている。

「――ん、いつもわるいね。ありがとさん」

 眠っていたことなどおくびにも出さずにキヅナは言った。

「いいえ」

 テリオドール・アスティンもまた、気にした様子もなく応えた。

 彼は筋肉質な体を年相応の脂肪で包んだ体の大きな男だった。その顔立ちは精悍せいかんを通りこして無骨であり、髪も瞳も炭を溶かしたように黒い。キヅナとはまるで似つかない親だった。

 もっとも、真っ白な子に似た父親など、どこにもいないだろうが……。

「そっちはこのあと銀行?」

「ええ、今日は行内で作業となります」

 キヅナが子らしくないというのならテリオドールとて親らしくはなかった。彼はさっきから上役とでも話すような口調で語りかけて本性を見せようとしない。

 おそらく、これは『父親と息子』としては正しい姿ではないのだろう。だが『キヅナとテリオドール』としては、ようやく見つけ出した妥協点だった。

奥さんは元気?」

「ええ、おかげさまで、先週あなたを見たと言っていましたよ」

「あれま、悪いね目立つたちで」

「いえいえ、謝罪には及びません。あなたのせいではないのですから」

「それでも、さ」

 善意と気遣いによく似た会話は弾んだ。息子は顔も名前も知らない弟たちについて聞き、父親はやに下がった顔で末っ子がつかまり立ちした様子を語る。会話は楽しく、キヅナを暖かな気持ちにさせた。

 と、車の流れが不意によどんだ。

「なんでしょう?」

「事故っぽいな」

 車がのろのろと進んでいくと、やがて横転している乗用車が見えた。野次馬が遠巻きに取り囲んでいる。

「大丈夫でしょうか……」

「父さん。前」

「あ、すみません。……ああ、ちょうど警察と救急が来たみたいですね。よかった。元気そうです」

「……それはどうかな」

 車の中から救い出された男は、猫が通りかかったんだ! 俺のせいじゃない! と元気いっぱいに文句を言っていた。声だけを聞いたテリオドールが無事だと思うのは当然だろう。だが彼の姿を正面から見てしまったキヅナには、とてもそうは思えなかった。

「俺は平気だ! お前達かえれ!」

 男は腹の中身を引きずったまま何ともない様子で叫んでいた。

 死者だ。

 男の肌は脂肪の色に似て青白く、反対にまき散らされた臓物は別種の生き

物のように生々しく湯気を立てている。キヅナは窓に張り付いてまじまじと彼を見つめた。

「ひっ」

 テリオドールが小さな悲鳴を上げた。「父さん」キヅナは自分の興味を中断させて、この気弱で優しい男に向き直った。

「大丈夫。このまま真っ直ぐでいい。ほら、もう過ぎた」

「す、すみませんキヅナさん。私は……私は……」

「いいさ、ほら、顔を上げてくれ」

 下手をすれば第二の事故につながっていてもおかしくなかった難事を切り抜けて、車はやがて学校に着いた。

「じゃあ、行ってくるけど。人を呼んだ方がよくないか?」

 ドアを開けて石畳に降りる。日差しはますます強くなっているようだ。キヅナは学帽を深々とかぶる。テリオドールが運転席から身を乗り出して、

「いえ、もう大丈夫です。帰りも、いつもの時間に迎えにあがります」

「いいよ。今日は俺、調子よさそうだし」

「それでも、ですよ」

 テリオドールは、それこそまさに父親のように小言をいうと、警備員に向かって小さく頭を下げて車を出した。

 さりゆく車の黒い煙を、キヅナはしばらく見つめていた。

 キヅナは思う。果たしては正しいのかと。

 あるいは父は、母は、祖父は、正しいのだろうか。

 正しかったとして、何に対して正しいのか。

 キヅナはいつも考える。

 


たとえば、ここに一匹の鬼がいたとしよう。人間などたやすく引き裂く爪を持ち、刃のような角を生やした赤目の鬼だ。

 そんな鬼が、しかしやさしいとは言わないまでも理性を持ち、法を守って

そっと市民に寄り添ったとする。このとき人間は彼を受け入れ、同じように遇することができるだろうか。

 革命政権としては、認めざるをえないだろう。身分の差などなく、同じ理性を共有するものならば歓迎するとは彼らの言いそうなことだ。

 だが細かな部分では、鬼はけっして認められないだろう。だって爪がちがうのだもの。額に角があるのだもの。瞳が赤いのだもの。皮が白いのだもの。

 人は己と違うものを区別せずにはいられない。

 だからこそ、キヅナは結構がんばっている。



「お、アスティンじゃないか。ひさしぶりだね」

「おはようレフ。三日ぶりってとこか?」

「だね、おーいみんなー! アスティンが復活したぞー」

 教室に入るとすぐに級友が迎えてくれた。

「よく来たなアス。具合はもういいのか?」

「おかげさまでこの通りだよ」

「ようサボり魔。ノートいるか?」

「たすかる。借りひとつだな」

 適当な席に座ると顔見知りの連中が話しかけてきたので、キヅナはしばしとりとめのない会話を繰り広げた。昨日聞いたラジオの話、ここ三日の出来事、噂話。どれも「こんにちは」と「今日は良い天気ですね」の中間にあるような実のない話ばかりで、だからこそキヅナをうれしくさせた。

 途中、他のクラスの女子たちがやってきてこちらをコソコソと窺い、目が合うときゃぁと悲鳴を上げて去って行った。

「相変わらず、モテるなぁ」

 ラッドがしみじみと言う。

「物珍しいだけさ」

 本心だったが、ラッドにはなんの慰めにもならなかったらしく「俺もかっ

こうよく生まれたかったな」などとつぶやいている。

 へえ、そうかい。

 埋もれ火のような暗い炎が胸の奥でじわりと燃える。

「じゃあ変わってみるかラッド。この出来損ないの体に、一度生まれ変わってみるか?」

 とは、もちろんキヅナは言わなかった。ただ、ラッドの健康的に焼けた肌をひとこと、ふたこと褒めるだけだった。

 言っても仕方のないことを、キヅナは言わないことにしている。だって言っても仕方がないのだから。

 第一、ラッドの発言に人を傷つける意図などないのだ。「足が速くてうらやましい」「頭が良くていい」その程度のかわいらしい嫉妬は普通の人間同士なら日常的に交換し合うものなのだから。

 だからこれは、普通でないキヅナ・アスティンも半分くらいは悪いのだろう。

「さあ、もう授業だ」

 そこに忌々しいはえでもいるかのように、キヅナはしたたかにノートを打ち下ろした。

 


もしも、と考えたことがある。

 もしも、この世界のすべての人が赤い目で、白い肌を持っていたらどうなるだろう。太陽の光を嫌って夜に住み、蒸した豆と芋を好んで食べる鬼の一族。キヅナの国。

 そこではキヅナも極々一般的な少年でしかなく、誰も奇異の目では見たりしないのだ。

 なんてすばらしい世界だろう。

 そう思うと幼少期のキヅナ・アスティンの孤独は少しだけ癒やされた。俺の孤独は俺のせいではない。俺の死は俺のせいではないと思うことで、涙に

濡れる赤い目を閉ざすことができた。

 だがそういった熊のぬいぐるみじみた妄想は歳を経るごと役に立たなくなっていった。妄想の世界で生きるには、キヅナは少しばかり物分かりが悪すぎたのだ。

 いまなら分かるが、鬼の国に行ったところで大して違いなどないのだ。そのときは「お前の方が肌が白い」だの「お前の方が目が赤い」だの、いっそう細かな区別をするだけなのだから。

 究極的にはこの場所も同じだ。お前の方が肌が白い。お前の方が目が赤い。だったら、キヅナもラッドもケイブもレフも皆同じ。お前の方が背が高い。お前の方が脚が速い。お前の方が頭が良い。

 そう思うと、キヅナはまた癒やされてしまい、我がことながら苦笑してしまうのだ。

 結局のところ、この年になってもやっていることは幼児のころと同じなのだ。死にかけの魚みたいにパクパクと口を開閉しながら「なぜ俺だけが」と恨んだ心そのままだ。

 この世界の人間は「みんな違う」という一点においてのみ「みんな同じ」なのだ。

 この理屈――いや、これもやはり妄想だろう、守ってくれる確固たる現実がないので作り出した、キヅナの頼もしいぬいぐるみ、使い古した古びた毛布、折れ曲がった玩具の剣、そんな何かだ。それが正しいか間違っているかはまだ分からないが、とにかくいまのキヅナはこれを頼りに生きている。

 実際に存在している友人ぬいぐるみを侍らせて、社会的に意味のある制服もうふを着て、破壊的な思考つるぎで武装する。

 ただ、今日という時間を生きるために。

 あるいは――、

 


昼、キヅナは食堂へは行かなかった。この体は卵と安い油を受け付けない

ため、外の食事が取れないからだ。キヅナの主食はもっぱら芋だ。今日もあの女が持たせてくれた弁当がある。

 が、どうにも食欲がなかった。さて、これは病み上がりの回復期だからなのか、それとも体調不良がぶり返しているのか、キヅナは考える。こういうときの些細な行動に対してビビッドな反応を返すのがこの体だ。明日寝込むか治っているかは現在の決断にかかっていると言って良い。

 なので、キヅナは煙草を吸いに行くことにした。

 


裏山に入ってすぐの木陰で、キヅナは目当ての人物を見つけ出した。

「ようユリー。相変わらず元気そうだな」

「……お前か」

 樫の木の根元で、男がひとり居眠りをしていた。キヅナとは比べようもないほど恵まれた体格をした少年だった。

「なんの用だ」

「いやなに、煙草を恵んでもらおうと思ってね。ほれ」

 ぴんっとはじいた銅貨がごつい左手の中に消える。ユリーは忌々しげに口をゆがめた。

「……わざわざ俺のところに来なくてもいいだろうに」

「店だと目立ちすぎるのさ。それに、お前んとこの方が味がいい」

 勝手に隣に座り込み、キヅナは足下にある木箱から紙巻きを取り出して口に付けた。ライターであぶりつつ軽く吸ってえぐみを取って一息に吸った。途端に気管支が驚いて苦い煙を吐き出したがっているが我慢する。息が詰まって酸素が吸いたくなるがそれでも我慢する。そして、一気に吐き出す。

「やっぱりだ。お前の作る煙草は格別だな。ありがたい」

「俺は巻いただけだ。育てたのはじじ様だ」

「じゃあそのじじ様にも感謝だ」

 キヅナは乾杯でもするように紙巻きをかざした。「ふん」ユリーは唸った。

 この熊のように物々しい大男を、キヅナはたいそう気に入っていた。それは彼自身の生い立ちと現状が、キヅナのテーマに即したものだったからだ。

 ユリーの実家は街から遠く離れた山岳民で、乏しい耕地で粟と山羊を育て、獣を狩って暮らしていたのだという。幼いユリーはそこでじじ様の後ろをおっかけながら幸せに生きていたそうだ。

 ところが、一族はある日ひとつの決断を下し、一部の人間を街に送った。ユリーもその一人だ。

 じじ様とやらはおそろしく優秀な人物なのだろう。キヅナは煙草を吸いながら思う。彼もまた「化物」が見える性質だったに違いない。時代の変化というものを危機感と共に受け入れて使者を放ったのだ。

 ただ、問題は送られた方の適性が無視されたことだろう。街という安全で狭い世界は熊の少年を受け入れることができず、また、熊のほうも自らの牙と爪を隠す気はなかった。結果的に、ユリーは都会で孤立した。幼き日の自分と同じように。

 だがそれだけなら興味は引かれてもつきまとったりはしなかっただろう。キヅナが彼を気にとめているのは、ユリーという人間もやはり何かが見えるからだ。

「おい、人喰い玩具ハンプニーハンバート

 ユリーが言った。

「火をよこせ。……なんだその目は」

「いや別に、ほらよユリー。……じゃなくてえーと、そっち風に言うと江東の熊アラドベアさん、だっけか?」

テイグだ。だがあまりそう呼ぶな」

「くっくっく、勝手な奴だ」

 ライターを受け取ったユリーは手慣れた様子で火をおこし、年代物のパイプに火を付けた。その姿はあまりに自然で美しく、キヅナは山中で生きていたころの彼を幻視した。

 人喰い玩具ハンプニーハンバートとは、ユリーがキヅナに付けた悪口のようなものだ。いや、正

確には部族の伝統にのっとった命名なのだというが、キヅナの理解はそんなところだ。

人喰い玩具ハンプニーハンバート、か」

 ちゃんと玩具を片付けろ♪ でないと人喰い玩具ハンプニーハンバートが飛び出すぞ……♪ キヅナは小さくそらんじた。人喰い玩具ハンプニーハンバートとはいつの間にか玩具箱に混ざっている怪物で、夜にきちんとしまわれていないと主を喰らってしまう存在だ。

 これ自体は子供のしつけのために作られた適当な妖怪で、ユリーも「人とは違う」ということを言いたかっただけだろう。だがキヅナはどうしても考えてしまう。

 果たして人喰い玩具はどうすべきだったろう。彼の正義はどこにあるのか。

 思えば彼はおかしな怪物だ。他人の玩具箱に入り込んで、昼は一緒に遊んでもらい、夜もきちんとしまわれていればおとなしくしている。だがひとたび置き去りにされれば主を殺して喰らってしまう。ただ、これには二通りの解釈ができるように思える。果たして昼の姿と夜の姿、どっちが彼の本性なんだろうな。主を喰らう夜の彼は『馬鹿め、騙されたな』って笑ってるのか、それとも『よくも見捨てたな!』と泣いているのか。

 どちらが正しいのだろう。キヅナはいつも思うのだ。

「……なにを考えている」

 突然すぎて反応が遅れた。

「ん? すまん、なんだって」

「なにを考えているのかと聞いているんだ」

「はっは、いきなりだな」

 なにを考えているか、とは強い言葉だ。そんなことを言うから嫌われるのだ。都会の人間はとかく内面を探られるのをいやがるのだから。だがユリーはそんなもの気にしない。

 どころか、ともすれば自分のそれにだって価値を認めていないところがある。だからこそじじ様の命令におとなしくしたがってここまできたのだ。

 彼の世界観は狭く、周囲の自然と仲間達の倫理で出来上がっている。故に

都会人とは合わないが、まあ、それもいまだけだろう。根は良い人間だし頭もいい、しばらくしたら仲をとりもってもいいとすらキヅナは思う。

「俺はね、正義について考えていたんだよ」

「正義だと?」

 うさんくさそうにユリーがうめく。

「そう、正義、あるいは正しさ。たとえば今のお前にとって正しい行動とは何だと思う?」

「俺だと?」

「そうだ。ユリー・ドミトリエイヒの正義とはなにか? まさか授業をサボって草むらで煙草を吸うことじゃないよな?」

「っ!」

「それとも図星を指されて激昂することか?」

 ユリーはかろうじて拳を収めた。

「なあユリー、お前にとっての正しさとはなんだ? 江東の虎の正しさとはなんだ? お前はどうすることが正しいのだ?」

「俺は……」

 ユリーは、迷った。

「俺は、できることならふるさとへ帰りたい。こんな街はさっさと捨てて、狩人になりたい」

「ああ、それはいいなぁ」

 然りと、キヅナはうなずいて、見たこともない山の中を駆けるユリーの姿を幻視した。虎のように生まれ、虎のように生きる。それはきっと、ユリー・ドミトリエイヒという人間のもっとも正しい姿なのだろう。

「だったらすぐに、すべて投げ出して帰るべきじゃないか?」

「いや、もう無理だ」

「なぜ?」

「……意地の悪いやつだな。分かっているくせに聞きやがる」

「おっと、わるいわるい。俺の『正しくない』ところだ。ゆるしてくれ」

 キヅナは両手を挙げて降参した。

「理由は、まあ、俺が言ってしまうが。結局のところしがらみってやつのせいだな。あるいは前提が間違っているからと言ってもいい。ベストの選択ってやつはさユリー。一度も間違ったことのない奴にしか選べないんだよ」

 たとえば、ユリーが未だに山に住んでいたなら、彼の正義は叶っていただろう。いや、それ以前にそんなことを認識することもなかったに違いない、彼は存在そのものが正義だったのだから。なんか見えなかったはずなのだから。

 一度でも間違えた人間はもう二度と最高の道に戻れない。なぜなら間違えたのだから。

 だから、あとはどれだけ修正できるかということなのだろう。

「さっき俺は、煙草を吸ってふてくされることがお前の正義かって言ったが、あれだって間違っているとは言わないんだぜ。人間はどうしたって疲れたり、やるせないときがある。そんなときに妙にがんばっても心が折れるだけだからな」

「だまれ人喰い玩具。やはり貴様は悪魔の類いだな。俺に繰り言を吐きかけるな」

「あは、そうして誘惑をはねけるのも、あるいは正しいかもな」

「ぐっ! ああもうよく分からん! お前と話すといつもこうだ。なにもかもをあやふやにして! 正義なんかないように言う。だが違うぞ! 正義は確かにあるんだ!」

 ユリーがやおら立ち上がって胸をたたいた。

「正しいことはある! ここに! この心臓の中にある! 血潮の中に刻まれた正義が確かにあるんだ!」

「そうかもな」

「ええい、またそんなことを言って。お前にだってあるだろう。言葉にせずとも伝わる思いが! 信念が! それこそが正義だ!」

「そうだな」

 キヅナは思う。

「……本当にそうだな」

「む、なんだ急にしおらしくなりおって」

「いや、本当にそう思うからだよ。ユリー、お前はすぐに、正しい道に戻るだろうさ。化物を見るだけでなく、化物だって倒せるように……」

「は? 化物? ええい、またはぐらかしおって。この際俺は関係ない! お前だ、お前がどうだと聞いているんだ。お前にはないのか? 確固たる正義が」

「正義、か……そんなものはただの思い込みだよ」

「なんだと!」

 キヅナは思う。すべてが正しく、すべてが間違っているのだ。そこに区別などありはしない。この世界では石ころの一片だとて正義なのだから。

 ただ、人間だけは違う。人間だけが、石ころの転がり方に名前を付けてしまった。「あちら」と「こちら」を二つに分けて、正義と悪を分けてしまった。

「ええい! 聞き捨てならんぞ! やはり貴様に人の心はないのか!? 父や母を愛するような自然な情愛はないのか! 応えろ人喰い玩具ハンプニーハンバート! ……応え、ろ?」

 もしくはその特権こそを人間だというのかもしれない。だとしたら俺は、

「……貴様、その顔色はどうした。おい、返事をしろ。おい!」

 だって角が長いのだもの。だって瞳が赤いのだもの。だって皮が――、

「くそ! だれか! だれかいないか!」

 キヅナは思う。なぜ他の人間たちはあんなにも自信に溢れていられるのだろう? 心臓が命じる? 血潮に宿る? 心臓なんてそんなもの、明日には止まっているかもしれないのに。血潮なんてそんなもの、赤黒く腐って役に立たなくなるかもしれないのに。

 そうキヅナは思う。思う。思うのだ。

 少なくとも、いまはまだ。

 たとえば、キヅナ・アスティンの正しさとはなんなのか?

 他ならぬキヅナ・アスティンは思い、悩む。

 色のない体で生まれ、腎臓と血に障害を持つこの体の正義とは、なんだろう? 病に負けず、死ぬその瞬間まで生を全うすることだろうか。それとも早々にあきらめてただ穏やかに過ごすことか。

 あるいはそんな子供を持ってしまった夫婦の正義とは、なんだろう? 生きるも哀れと、いっそ殺してやることか。それとも限界まで支えてやることか。

 

では、限界を越えてぽっきりと折れてしまった家族の正義とは、なんだろう?

 

息子だけに気を取られて、他のすべてを顧みなくなってしまった母は正しかったのか。そんな母親と息子に挟まれて、逃げ出すしかなかった父は正しかったのか。

 そんな母の人形となることに甘んじた息子は正しかったのだろうか。裏切り者の父を許し、談笑までするようになった息子は正しかったのだろうか。

 キヅナは考える。キヅナはいつも考えている。この体に許された唯一の方法で、いつも正しくあろうと考える。

 はたして、角持つ鬼はどうすればよかっただろう。あるいは 人喰い玩具ハンプニーハンバートは、ユリーはどうすればよかったのだろう?

 キヅナはいつも考える。

 いずれ、それすらできなくなる日を待ちながら。



「気がついたのね」

 女だ。女がいる。

 いったいいつからそこにいたのだろう。ベッドの脇にひっそりと立つ女がいる。女はパジャマ一枚を着ただけの姿で部屋にたたずみ、じっとこちらを見下ろしている。

「……俺、は?」

「学校で、倒れたのよ」

「ああ」

 そうか、とキヅナはなんなく現状を受け入れる。時刻は夜。場所は自室だ。制服はいつのまにかパジャマに替わって、ベッドのなかで横たわっている。

「運んでくれたのは、父さんかな。悪いことしたな」

「いいのよ、そんな」

「ユリーにも、謝らなきゃ。あいつびっくりしただろうし……」

 ああ見えて心配性な性質だから、こんど謝らなければなとキヅナは思う。たぶん責任も感じている事だろう。

「母さんも、悪かったね。ありがとう」

「もう、お礼なんかいいのに」

「それでも、さ。……ぐっ!」

 肺の奥に咳の気配。だが弱った喉は満足に嘔吐えずくことすらできずに空気の塊をもてあました。

「げほ、げぼっ!」

「キヅナ! ああ、しっかりして!」

「くすり……げぼ……とって……」

 ろくに動こうとしない腕をなんとか操って、化粧台のそれを指さした。冷たく白い手のひらが、すぐにそれを取り上げた。

 だが、女はすぐには渡してくれなかった。

「かあ……さん」

「だめ、駄目よキヅナ! もうこの薬を飲んじゃ駄目!」

「なにを……いって……」

 

 キヅナは思った。

 まさか、この女、ついに、

 兆候は感じていた。いつかやるのではとも思っていた。そうならないように気をつかってもいた。

 だが、それでも、いざそのときが訪れたとき、キヅナはとしか思えなかった。

「……母さん、くすりを……」

「だめよ! もう駄目よキヅナ! この薬を飲んじゃ駄目! 飲んだらあなたは!」

「なにを言って……」

 ついに、この女は狂ってしまったのだろう。キヅナは思った。

「いいから、それを渡して……」

「駄目、駄目よ」

「かあ、さん……」

「もう駄目。……これ以上あなたを化物にはできないわ」

「はは、なんだよそれ……」

 熱っぽい体に熱っぽい言葉はよく染みた。

「俺が、怪物になるって? はは、ははは……」

 こんな時だというのに、キヅナは笑えてしまった。

 俺が、怪物になるだって? まったくお笑いだ。この女はまだ、俺が怪物じゃないと思っているらしい。

 こんなに瞳が赤いのに、

 こんなに肌が白いのに、

 キヅナ・アスティンは、まだ人間だと思っているらしい。

「ははは、ははははは」

 その優しさが、まなざしが、どれだけ重荷かも分からないで、正しくない体のなかで、正しくない家族のなかで、正しくない居場所のなかで、正しくあれと求められることがどれほど苦痛だったか。

 いっそ、化物になれたら、どれほど楽か。

 それでも、

「母さん……」

 キヅナは言った。

「逆だ、逆だよ母さん。それを飲まなきゃ、俺は化物になってしまうんだ……」

 それでも、キヅナは生きていたかった。他ならぬ化物にならぬために。

「あんな……死者なんかに、本当の化物になるわけにはいかない。俺は人間なんだから」

 まだだ、まだ死ぬわけにはいかない。キヅナは思う。世界が狂った今だから、誰もが化物を見る現代だから、だからこそまだ生きていたかった。

 これからは誰もが化物を見るのだ。常識が壊れて日常が崩れ、みんなが正しく生きられなくなる。

 それをキヅナは見ていたかった。

「最後だ、母さん。それをくれ」

「……そう」

 女は、どこか毒が抜けたような綺麗な顔で頷いた。

「なら、好きにして……」

 女の手から瓶が落ちて、床に当たって砕けた。銀色に光るガラスの破片と、練り菓子じみた白い錠剤が一緒になって山となった。ベッドの下に手を伸ばして、キヅナはそれを鷲掴わしづかむ。

 ガラスの破片が喉を切り裂いた。胃の腑の底で薬が溶ける。もはや嗅ぎ慣れた腐敗臭が鼻腔びくうをつき、木の実にも似た甘味が脳を溶かした。いつもの十倍も取り込んだ薬は、いつもの百倍も強烈で、キヅナの意識は吹き飛んだ。

「さようなら……」

 女は最後にそう言って、キヅナの部屋を出て行った。


 最後の言葉だった。


 翌日、キヅナが目を覚まして一階に降りると、そこで母が死んでいた。

 光射す食卓の片隅だった。

 柔らかな微笑を浮かべていた。

「おはよう」

 キヅナは言った。

「…………」

 死体は応えなかった。

 キヅナは死体の前の椅子に腰掛けると頭をガリガリといて「なぜ?」と言った。だが死体はほほえむだけで、応えを返そうとしなかった。

「俺のせいか」

「…………」

「違うのか」

「…………」

「……応える気がないのか」

「…………」

「……わかった」

 やがて、キヅナは気づいた。彼女は『死者』なのだと。あらゆる義務としがらみから解放された正しき死者が、だから応えるはずもないのだ。

「警察と、それに父さんを呼ぶよ。それでいいか?」

「…………」

「……だったな」 

 ふと、思い至って、キヅナは死者の見開いた目を閉じてやった。

 母は実に死者らしく、二度と瞳を開かなかった。



 真っ黒な煙が静止した雲と同化していく。キヅナはそれをじっと見ていた。

肺をしぼって煙を吐き出す。これも一緒に混ざっちまえと思う。

 葬儀場にはあまり人気がなかった。それも当然だろう。今の死者には意識があるのだ。なかには火だるまになってこの世を呪う奴もいると聞く。そんなものが焼かれるところを見たいはずもない。

 そんな奴らに比べれば、母は立派だったと、数少ない列席者は褒めていた。毅然きぜんとした態度で死を受け入れて、文句のひとつも言わなかった、と。

 そうだな、キヅナは思う。母は正しく死んだのだろう。

 灰が落ちた。

「なあユリー、もう一本くれよ」

「……そら」

 すでに十本以上を灰の山に変えながら、キヅナはさらに煙草を吸った。

 煙が高く高くのぼっていく。

「なあ、ユリー」

「なんだ」

「お前は、自分が怪物だと思ったことはあるか?」

 ユリーは茶化さなかった。

「よく分からんが、ないな」

「そうか、まあ、そうだろうな」

「なんだそれは。……お前はあるのか?」

「いや、ないよ。俺は人間だからな」

「からかっているのか?」

 ユリーがむすりと唇をゆがませる。「わるいわるい」キヅナは謝る。

 そう、キヅナは自分のことを怪物だなんて思ったことはない、ただ少し色が薄くて目の赤い、普通の人間だと思っている。

 だが、違ったのかもしれないと、最近は思う。

 

母は、毒をあおって死んだ。


『きわめて強力な神経毒で、おそらく以前から準備していたのでしょう。なにか心当たりはありますか?』そう、警官は言って、なにやらうまそうな語感の化合物をそらんじた。キヅナはもちろん知らなかったから『いいえ』と応えた。

 ただ、ひとつだけ、

 警官が見せた、薬瓶には見覚えがあった。

 それは、今でも自室に転がっている、砕けた瓶とそっくりだった。

 なんのことはない、自分は最初からなにも見えていなかったのだ。

 母の苦悩も、狂気も、覚悟も、なにも。

 いまになってようやく彼女と話してみたいと思った。かわいそうに、怖かっただろう。息子がいつのまにか本物の化物ハンプニーハンバートになっていたのだから。

 それでも、誰にも言いふらさずにってくれたのは、化物相手にも一片の情があったからか。

 それはもう、誰にも分からなかった。

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