8話 死の誕生。

 工房に着くとヘルガはまず掃除から始める。

 玄関にたまった落ち葉を払い、通行人が捨てたゴミを拾う。それも向こう三軒両隣まできっちりとだ。修業時代はなんで関係ないところまであたしが掃除するんだと思ったが、こうして独立した後はよく分かる。近所づきあいは大切だ。

 工房に戻ると薄暗い闇の中で道具と出来かけの作品がひっそりと息を潜めている。ヘルガはこの時間が好きだった。客も家主も知ることの無い、ヘルガだけの王の時間だ。だがもうあまり浸っている時間は無い。ヘルガは急ぎ倉庫に向かう。にかわが少ない。鯨のひげもだ。牛革、豚革、流血樹はよし。それと加工に出していた骨が返っていた。

 釜を起こす。湯はいくらでもあったほうがいい。油もだ。

 さて、あとなにかやることはあったかな? というあたりで時間切れになった。

「ごめんくださーい」

「はーい。どうぞー」

 最初の客がやってくる。含み笑いがしわと共に刻まれてしまったような、幸福そうな女だった。ヘルガは彼女を正面に座らせて言う。

「今日はどうしたの?」

「それが最近肩がこって」

「……ふぅん?」

 ヘルガは女の言葉をあまり信用しなかった。これは彼女が嘘をついているからではなく、体に表れるトラブルの原因と結果が違う場所にあることが往々にしてあるからだ。特にこの肩こりというやつは嘘つきで、頭痛やストレス、果てには足の指が原因だったこともある。

 まして彼女の体は特別製だ。これは実際に見てみるまで分からないだろう。

「じゃあ、とりあえず皮膚開こうか」

 ヘルガは簡単にそういった。

「ええ」

 女は答えて、さっさとボタンに手を掛けた。上着が脱がれ、シャツが脱がれ、さらにその下の肌着まで脱がれる。

 そして女はさらにその下の皮膚にまで手を掛けた。

 肋骨と腹の間に指先が滑り込み、隠しボタンがぱちりと外れる。途端に皮膚の緊張が解けて、上半身全体がわずかに緩んだ。すると脇や首にわずかな筋が浮き上がり、体の切れ目をはっきりさせた。女はさらに脱いでいく。皮膚を脱ぎ、肉を脱ぎ、一部の骨さえ脱ぎ去って行く。

 女はたちまち本性をあらわした。

 だがヘルガにも女にも動揺は無い。なぜならそうしてはじめて、ヘルガの仕事は始まるのだから。

「んじゃ、原因さがしていきましょう」

「はい、よろしくお願いしますね」

 ここはオルタス。死霊都市オルタス。百万にも及ぶ死者が群れ集まり、新たな生を生きる場所。

 ヘルガ工房は、そんな彼らを支える死体調整師プラステイネイタの一室だった。

 やっぱり肩は嘘つきだった。ヘルガは肩こりの原因を右前腕の動力滑車に見つけて油を差した。これでまた不具合が出るようだったら全交換だ。

 次の客は一月前に全身のオーバーホールを行った大物で、午前はこの二人だけで潰れてしまった。

 反面、午後からは細々とした仕事が多かった。顔の手入れが面倒だからいっそ仮面にしようかと相談にきた伊達男。先の戦闘で腕がちぎれてしまった傭兵ようへい。右腕を耐熱仕様にしてくれと言ってきたのはわざわざ隣町からやってきた飴屋だ。

 ヘルガはそんな彼らの話を聞いて、直せるところは直し、作れるところは新たに作った。また、なにもしないことも多かった。伊達男には六軒隣の仮面屋を薦めたし、くだんの飴屋には料理人用のアタッチメントが何種類もついたメーカーカタログを渡しておいた。もちろんアドバイス料などとってはいない。

 こういうことをするから「欲が無い」「作家性が無い」などと言われるのだろうがヘルガはそれでいいと思っている。客をキャンバスにして奇妙な死者ばかり作っているような自称「たくみ」どもはどうも好かない。作家性というのなら、ヘルガのそれは客によりそうことだけだ。

 日が暮れるころになって、客足はようやく途絶えてくれた。

 ヘルガは片付けを始める。夜、といってもオルタスには眠りを必要としない死者も多いため、これからの時間はむしろ稼ぎ時といってもいい。実際ヘルガと同時期に開店した同期の店は一日中店を開けていると聞く。すごい。が、できそうもない。ヘルガは仕事も好きだが寝るのも好きな死者だった。

 扉が開いた。

 今日はもう閉店だよ――言いかけてヘルガは言葉を引っ込める。

「なんだ、シャッドか」

「なんだとはご挨拶だな。差し入れ持ってきてやったのに」

 ほれ、と煙草を投げて寄こしたのはライオンの面を被った男だった。

「あら、どういう風の吹き回し?」

「さっき客を回してくれただろ」

「ああ」

 義理堅いことだ。

 ヘルガとシャッドの出会いは七年前、まだオルタスに生者用の学校があった頃にさかのぼる。二人はそこで先輩と後輩だったのだ。

 とはいっても、当時は話すことなどほとんど無く、仕事の上がりに呑むようになったのはこうして店を持ってからのことだ。

「ちょっと話があってな」

 獅子の面に暗い影が映り込む。

「店で話そう。おごるよ」

 当たり前の話だが、死者はものを食べない。栄養を必要としない体にとって食物とは体の中で腐るだけの異物でしかなく、食べても“我がまま”に近づくだけだ。だから正確には、死者はものを食べ、のではなく、食べのだ。

 ところが、では絶食すればいいかと言えば、そうとも言い切れないのが現状だった。

 死者は食物を食べられない、だが食欲が消えたわけではないのだ。もともと生者だった脳みそは、飲み食いをしないという状況に混乱し始め、精神的に少しずつ飢えて“腐り物”に口を付けてしまう。そうなったら麻薬と同じだ。むさぼり食う快感と腐敗した腹を抱えて、最後にはやはり“我が儘”になってしまう。

 これに耐えられるのはよほどの食嫌いか、自律を極めた一部の聖職者のみだと言われている。

 だからこそ、オルタスにはこのような店は必要なのだ。

「お疲れ」

「はい、お疲れ様」

 仮面通りの中頃にある茶屋だった。表通りを見下ろせるバルコニーの一席を占領して、二人は小さなグラスを打ち付けていた。

 杯の中身を一気に干す。浸食性の高い液体が口腔こうくうではじけ、死肉にぞわぞわと浸みていく。ほわりと香る薬草の香りが呼吸に味をつけて鼻孔に楽しい。

「ふぅ、うまい」

「ふうん、俺も少しもらおうかな」

「シャッドにはまだ早いよ」

 いいじゃねえかケチ。ケチとは何だ。と、二人はまるで背伸びしようとする子供とたしなめる大人のような会話を行う。だが実情はすこし違った。

 ヘルガが手にしている酒は純度の高い酒精、重金属、酸化剤、ミント、を混ぜたもので、生者ならどれほどの酒豪でも昏倒するような代物だった。だが死者となって五年になるヘルガにとって味覚は過去の思い出に近く、これほど強力な刺激でないともう味を感じられないのだ。

 対してシャッドは死後一年ほどで、しかも肉体は最新の方式である湿脂置換方だったために水分に強い。それならもう少し弱い酒や茶を続けた方がいい。

「いやだ、俺もそっちを呑みたい」

 冗談でじゃれているだけかと思ったら、シャッドが実際に注文してしまった。ヘルガは少し驚いたが、流石に止めはしなかった。

 言ってしまえばこの酒だって弱い部類なのだ。本当に行き着くところまで行ってしまった人間は赤々と燃える石炭を頬張り、稲妻に塩を振ってむさぼり喰うという。ヘルガにはそんな味覚想像もできない。

「あなたはもうちょっと落ち着きを身につけてから死ねばよかったかもね」

「ふん」

 葉巻が来た。ヘルガはマッチを擦って息を吹きかけ、口腔に残った酒気にポンッと火をつけて吐き出した。紫煙を吸い、吐く。この煙草ももちろん通常の煙草ではなく、虫封じの薬草や、革をなめすときに使う緑青を使った死者用だ。死者の食事はどちらかというとメンテナンスの一環に近く、くだんの

酒にも革製品を手入れするためのものが多く含まれている。

「俺が、俺の稼ぎでなに呑もうが、俺の勝手だ」

「別に良いけど、酔いつぶれるのは勘弁してね。最近ここらも物騒だもの」

 ヘルガはちらりと店内に視線をげた。昨今の情勢を鑑みてのことか、この時間にしては客入りが少なく、また、彼らが話す内容もどこそこの部族長が決起したとか、直属近衛兵団が事件を起こしたとか、似たり寄ったりの物騒さだ。

 それと言うのも、よりによって「あのお方」が老人達に反抗したからだというのだから、流石のヘルガとて、多少の興味は引きつけられた。

「もう、みんな好き勝手言ってるよ。聞いた? 最近の老人会は、よりによって姫様を直接狙ったそうだよ。まったく縁起でもない」

「ああ……」

 妙に乾いた「ああ」だった。シャッドはヘルガ以上に職人的だから、この手の話題には興味が無いのかもしれない。ヘルガはそう思って納得した。このときは。

「で、話ってなに?」

 前置きはそのあたりにして、ヘルガは言った。シャッドの態度からして、あまり良い話だとは思わなかった。

 この男は確かに若いが、いたずらに酒におぼれるタイプではなかったはずだ。

 ところが、この期に及んでシャッドはまだ迷っている様子だった。「……ん」と一言うめいただけで、あとはグラスを舐めたり煙草を弄ぶだけで話そうとしない。

 こういうときに「いいから話せ」などと水を向けるようなことをヘルガはしない。奴は話があるといい、私は聞く態度を示した。それ以上のことをする義務はこちらにはないと考える。

 そんなだからモテないんだなどと言う奴もいるが、それもまたヘルガが負う責任ではない。話したくないのだとしたら黙っていればいいのだ。どうせおごりだし。

 なので、ヘルガはご機嫌で高い酒を頼み始めた。乾燥型の死者だけが味わえる二種混合型の爆弾酒、色移りするため翌日は漂白処理をしなければならない虹酒。食事も頼もう。劇薬が多い死者の酒には凶悪な“食い合わせ”もあるため、ここは定番の香棒の揚げ物や石綿の煎餅がいいだろう。あとは

――、

「実はな……」

 ヘルガが二回目のおかわりを頼もうとしたころだった。シャッドが若干うんざりした様子で切り出した。どうやら良心の呵責かしやくと今日の支払いはこのあたりで釣り合うらしい。

「あんたに、仕事を頼みたいって奴がいるんだ」

「へえ、どんな仕事?」

「死後整形」

「おお。そりゃありがたいね」

 死後整形とは、死亡直後からの人体をまるまるひとつ“死者化”する作業だ。人一人の死後生を左右するこの仕事は死体調整師プラステイネイタの花形であり、名誉だ。

「じゃあ予約を入れとくよ。店にはいつ来られるの?」

「店には行けない、余所よそで作業してもらう」

 ほら来た。ヘルガは警戒の度合いを上げた。

「ふうん、場所は? 道具はあるの?」

「場所は言えない。それと夜は全部こっちに使ってもらう」

「あらあら、とんだお大尽だ。名前は?」

「言えない」

「状況は? 死後どれくらい? 男? 女?」

「断るなら、言えない」

「話にならないよ」

 ヘルガはグラスをたたきつけた。どうやら今日の払いは割り勘のようだ。

 死後整形は人間の人生すべてを負うような責任ある仕事だ。匿名で請け負

うようなことはよほどのモグリがすることであって、名のある職人がすることではない。

 そして、ヘルガは駆け出しとはいえ、自分の名前を安売りする気はなかった。

「……やっぱり断るか?」

 それは仮面職人も同じだ。自分がどれだけ無茶を言っているかシャッドも分かっているのだろう、その声にはあきらめの色が濃かった。だが、

「いや、受けるよ」

 ヘルガは言った。

「い、いいのか!?」

 シャッドは、むしろ驚いていた。

「うん。いつ行けばいい? 受けるんだから詳しい話を聞けるんでしょ」

「そりゃそうだが、本当にいいのか。だってこんな話、俺でもおかしいとおもうぞ?」

 この男は、こういうところが突き抜けられないところであり、商売人としてのバランス感覚であり、可愛らしいところなのだ。なにをいまさらとヘルガはほほえむ。

「たしかに、ふざけた話だよ。普通なら絶対断るところだ」

「お、おう。そうだな」

「でも、この話を持ってきたのはシャッドだ」

 ライオンの面に完全な無表情が張り付いた。

「お前が言うんだ。そりゃあ受けるさ」

 本当に、本当にこの期に及んでライオンは己の築いてきた信用というものに気づいていなかったようだ。若いな。ヘルガは思う。かつて己がたどった道だからよく分かる。本人はただひたすらに好きな道を走っていただけなのに、いつのまにか評価をされて、あずかり知らぬ責任を負わされてしまう。

 才能がすべてを引っ張っていくこの世界では、こういった信用は後からついてくるものだ。シャッドもついにこのレベルまで来たのかと、ヘルガはう

れしくなってしまう。同時に歳を取ったなという淡い絶望を感じる。先輩方の気持ちが、いまようやく理解できた。

 一瞬の間。過去に過ぎ去った時間。まるで愛の告白だ。受け取ってもらえるのか、断られるのか、ここで何かが決まるのだろう。

「……すまん。頼む」

 はたしてシャッドは正しい答えを出した。

 ああ。

 いいなぁ。ヘルガはうれしくなってしまう。どうして男が成長する瞬間というのは美しいのだろう。楽しくなってしまう。ほほえんでしまう。

「なんだよ。笑うなよ」

 ふてくされた態度でシャッドが言う。

 違うのだ。なんと言えば伝わるのだろう。結局のところ、ヘルガはシャッドという人間が好きなのだ。もどかしい、悩ましい。うれしい。楽しい。お酒がおいしい。

 だが疑問がないでもなかった。

「ねえ、ちなみにシャッドはなんで、その話を私に回したの?」

 変、と言えばそこだって変だ。ヘルガとて独立した死体調整師プラステイネイタだから自信はある。だがそれほどのお大尽が相手だというのなら、もっと名の通った人間がいるはずなのだ。

「はぁ? なに言ってんだよ」

 ところが、シャッドはそんなヘルガこそがおかしいとでも言うように、獅子面に疑問の影を流して見せた。

「やっぱり、私が動かしやすいから? たしかにヒールストン工房やアルトンみたいな大手じゃ内密ってわけにはいかないもんね」

「ばか、そんなんじゃねぇよ。……ってか、本気で言ってんのか?」

「本気ってなにさ。当然の疑問だと思うけど?」

「……これだもんな」

 ライオンが両手を肩まで上げる。どうでもいいが仮面師という奴らはその

性分からか、どうしても演技過剰になるところがある。

「あんた以外に、誰に頼むって言うんだよ“死霊工房”」

 ライオンが面を取った。現れたのは純朴な青年のそれだ。

「たとえ俺がオルタス中の死体調整師プラステイネイタから選べるとしても、選ぶのはあんただよ」

「……あ、そう」

 仮面師に、仮面を脱がれて言われては、流石のヘルガも返すすべがなかった。

「ホント、天才って自分のことわかんねぇのな」

 話に落ちをつけるように、シャッドはわざとらしいため息までついた。

 どうやらヘルガ自身もまた、いつのまにか与り知らぬ信用を稼いでいたらしい。


 使いは翌日の夜に来た。

「ヘルガ・カルサンディだな」

 ちょうど、店の鍵を閉めたところだった。ヘルガを呼んだのは暗がりに同化したような、ローブをかぶった陰気な男だった。

「今日はもう店じまいだよ」

 お義理のようにとぼけてみたが、男はただ「来い」と言って歩き出した。冗談の通じない奴だなぁ。ヘルガはちょっとがっかりした。

 近道なのか、それとも道を覚えさせないつもりなのか、男は裏路地ばかりを好んで歩いた。このあたりの地理には詳しいつもりだったが、角を五つも曲がった頃にはもうどこだか分からなかった。

 暗い街の片隅を、子鬼につれられて漕いでいく。どこかで子猫が鳴いている。こんな夜中に鳴くやつだ、きっと黒いに違いない。名前はなんというのだろう。

「ねえ、どこまで行くの?」

「…………」

「ふぅん、だんまりですかそうですか」

「…………」

「ちょっと、せめて名前くらい言ったらどう?」

「だまって」

「ダマテさん? それって名前? 姓?」

「…………」

 以降、男は一言もしゃべらず、ただひたすらに歩き続けた。

「ここだ」

 結局半刻ほど歩いて、男が案内したのはどこかの大店の倉庫とおぼしき建物だった。

「言っておくが。くれぐれも失礼のないように」

「ふん、ずいぶんな言いぐさじゃないか。自分は名乗りもしないくせにさ」

「……分からないあなたもどうかと思いますよ。先輩」

 ん? ヘルガはぼんやりと記憶を探った。ため息と共に吐き出された素の言葉にはどこかで聞いたような覚えがあった。だが男――いや、少年はさっさと扉の向こうに行ってしまう。

 扉の向こうは厨房だった。

「へ?」

「立ち止まらないで」

 厨房、とは言っても死者の邸宅でのことだからどちらかというと雑事場といった様相だったが、そこでは家事仕事の死者達が忙しそうに働いていた。少年は彼らと二言三言話すと、こそこそと廊下を歩き出した。

 途中、なりのいい死者と出くわしそうになってそこらの小部屋に隠れたりもした。ヘルガの中でシャッドへの信頼と現状の不審が天秤に掛けられてふらふらしている。いくらなんでもこの依頼は怪しすぎた。

 いまからでも断った方がいいのではないか? そんなことを考えているう

ちにも、少年はずんずん進んでいく。館をひとつまたいで地下倉庫へと潜った。地下は死者の安置には適した場所だ。依頼主はここにいるのだろう。

「僕だ。通してくれ」

 ひとつの扉の前で、少年がどう見ても大理石の彫像にしか見えない男性像と、足下にうずくまる犬の人形に言った。

 ヘルガは驚いた。

“石男”それに“ラタティヤの猟犬”だ。

 ともに相当有名な死者だ。とくに石男の方は王家直属護衛隊の副隊長を務めるほどの人物であり、犬の方も同じ部隊に所属している。

 まさか。ヘルガの中に驚きと困惑が広がった。この二人が護衛するような対象が、この世の中にいったい何人いるというのか。

(聞いたかい? 老人共はよりによって……)

 昨夜の言葉を思い出す。まさか。無くなったはずの心臓が高鳴る。汗が噴き出る。喉が閉まる。それなのに少年はまったく容赦なく時間を進めて扉を開いた。促されるままに足が動く。瞳がなにも見ないままにすべてを見る。月明かり、かろうじて地面から顔を出した鉄格子の中に月が閉じ込められている。

 部屋には寝台がひとつだけ置かれていた。木箱を積み重ねただけの粗末なそれは主を思う者達によって「せめても」とばかりに装飾されて布団や毛布で埋もれていた。寝台は同時に祭壇でもあった。無数の線香が煙をなびかせ、花や生けにえ、異能のものとおぼしき炎や氷が捧げられている。

 そしてヘルガは見て、聞いた。

「おかえりキリコ。あ、今日はお客さんもいるんだね」

 初めての時とおなじ、その声を。


 ヘルガに信仰心はない。

 神なんかいないし天使もいない、どころか王や一般に言う権力者に対する

尊敬もうすい。

 唯一それに似た感情を覚えるのは骨と皮の間にだけ存在する随意と不随意の連続した意志だけだ。

 それでも、

 彼女だけは別だった。

 最初の出会いを覚えている。あれはヘルガが本当の意味で生まれた日。彼女の瞳をまっすぐに受けて、ヘルガはヘルガとなったのだ。

 当時の彼女は目も口も革でふさがれた、拘束服じみた黒いドレスを着ていた。だがいま目の前にいる少女は寒そうなキャミソールを一枚はおったきりの姿で小首をかしげている。

「はじめまして。かな?」

「……いえ、以前に一度だけ、目線が合ったことがあります」

 ヘルガはかろうじて答えた。

「ウッラ様……ですよね」

「うん。そうよ。――あ、ということはあなたって、私が殺した人?」

 思わず息が詰まった。よくもまあそんなことを聞けるものだなと思った。

 そしてそんな古くさい思想と反射が自分自身に残っていたことに驚いた。

 ヘルガは自身の死生観を相当に先進的なものだと思っていたが、それでもこの姫には敵わなかった。殺した相手を目の前にしているというのに、ウッラの表情にはおびえも申し訳なさも存在せず、ただ出会いの思い出を並べただけだった。

 死など、ただの死だと言わんばかりに。

「ええ、五年前の春に、あなたの瞳を受けました」

 あの日見た瞳を再び見つめて、再びなにかが生まれるのを感じていた。ウッラ・ヘクマティカという途方もない死生観に触れることで己のそれが引き上げられる。

 呼吸が止まる。これ以上の戸惑いを、ヘルガは自分に許さなかった。それは彼女と彼女の世界を侮辱にすることであり、ひいてはヘルガ自身をも侮辱

する行為だった。

 殺されたくらいでなんだというのだ。死は当たり前のものと誰よりも知っていたのが死体調整師プラステイネイタではないか。“呼吸を止めろ”ヘルガ・カルサンディ。としても、せめて笑って迎えてみせろ。

「私はヘルガ・カルサンディ。死体調整師プラステイネイタです」

 もはや戸惑いも躊躇ためらいも無かった。ヘルガはただこの采配に感謝していた。

「あなたの第二の生を、お助けします」

「わ、ありがとうね」

 死者はにこりとほほえんだ。


 コロシオハケ死す。その知らせは深く静かに浸透し、オルタスの闇を震わせていた

 関係するものは誰もが情報を追いかけ回し、敵と味方が一夜ごとに入れ替わっていた。

 生者の迫害によってできたオルタスは、それ故に生が軽く、死者の多くも生者を馬鹿にしている節がある。ヘルガもそうだった。だがそんな者達でさえ、彼女の死には動揺し、己の覚悟が浅かったことを思い知らされた。

 彼女だけは特別だったのだ。

 ウッラ・エウレウス・ヘクマティカは、ただの人間ではなかったのだ。なぜならオルタスに住む人間の半数近くが、彼女にやさしく殺されたのだから。ウッラは臨終を看取る死神であると同時に第二の誕生を見守る母であり、誰もが淡い敬愛を抱かずにはいられない存在だったのだから。

 とはいえ、起きてしまったことは仕方が無い。キリコ達は実際的な対処を迫られていた。

 それが、ウッラの死後処理である。

 ただの死後処理ではない。ウッラ・エウレウス・ヘクマティカの死後処理だ。腕前は当然超一流でなければならないし、潜伏している彼女についてまわれるよう身軽である必要もある。

 さらに言えば誰が調整師を用意するという名誉を得るかで味方のなかでさえ取り合いがおこり、キリコをはじめとする欠落五芒星ラツプスタのアベコベ頭を悩ませたのだが、それについてはヘルガの知るところではない。

 誰が相手であろうと自分の仕事は常に同じだ。ヘルガはそう信じている。


「さて、ではまず軽い診察から始めましょう」

 ヘルガはまず死体の状態を看ることにした。服を脱がせて死斑を確認し、検死官並みの鋭さで死の状況を探っていく。

 どうやら最低限の死後処理は終わっているらしい、血と、内臓はすでに抜かれていた。傍らのキリコ――よく見てみれば、彼は学校の後輩(いや一応先輩になるのか?)だった――に抜かれた血と内臓はどこにあるか? と聞くと冷凍してあるという。ならばそちらは後回しだ。

 死後硬直はもう無くなっている。おそらく死亡日時は三日前。死因は銃撃。ろくな殺傷力すらない小さな弾丸は、しかし正確に心臓を破壊して止まっている。

 問題は銃傷よりも、そのあとに付けられた治療跡の方だった。思わず舌打ちをしたくなる。助けようという努力をさげすむ気はまったくないが、無遠慮に切り開いてこちらの仕事を複雑にする彼らのやりようを好きになれるわけがなかった。

 ふむ。と、ヘルガはひとまず確認を終わらせる。状態は中の上といったところだろうか。悪くはないが、それほど良くもない。特に胸はひどい有様だった。

 こういった死者を看るたびに、ヘルガはコロシオハケが作り出す特上の死者を思い出さずにはいられない。ただ心臓が止まっただけの新品の死者は、まるで真っ白なキャンバスのようで、ヘルガの想像力を刺激してやまない。

 そういう意味では、姫はやはり哀れだった。あれだけやさしく殺していた

のに、自分は心臓と肺を裂かれて死んだのだから。

 せめて全力を尽くそう。ヘルガは改めて気合いを入れた。

「結構ですウッラ様。服を着てください」

「肌着だけでいい? ちょっと暑くて」

「ああ、そういえば死んですぐでしたものね」

 死亡すると体感覚が狂う死者は多い。というのも人間の感じる温度は相対的なため、体温と外気温が一致している死者は暑く感じるのだ。

「ではこれを試してください。ちょっと失礼しますよ……」

 ヘルガは道具入れからある軟膏を取り出して塗り広め、ウッラの肌にすり込んだ。

「わ、急に涼しくなった。なあに、これ?」

「ヒマシ油の軟膏です。体感温度を下げる効果があります」

 ついでだ。ヘルガはいくつかの小さな処理を始めた。自分の腐臭が気にならなくなる香水を振りまき、虫除け線香の数を増やす。背中からの注射でリンパ、漏れた髄液、組織液を抜き出し、小瓶に詰めて冷凍に回す。反対に目や喉には植物油を塗っておいた。

「わ、すごい。いきなり楽。ありがとう。ヘルガ」

 上の立場ともなると、簡単に弱音も吐けなかったのだろう。ウッラはぱちぱちと瞬きをしてほほえんだ。無邪気そうに見えて、やはりこの人は権力者なのだなとヘルガは思う。自然と助けたくなってしまうところがウッラにはあった。

「さて、それではウッラ様。まずは方針を決めましょう」

「方針って、なんの?」

「それはもちろん。あなたの“死後”についてです」

 今度は本棚を漁って、いくつかの紙束を取り出す。それは各種工房、研究者が出している死後調整方式の論文の束だった。

「死後処理も最近は進歩していて、いろんな方法があるんですよ。乾燥式なら“ミイラ化法”“骨化法”“コーティング法”がありますし。置換式も“屍

蝋化法”“イオン交換型金属化法”“化石化法”と多岐にわたります。ほかにも“外骨格法”やら“認識拡張式”“異能式”“魔女式”等々……」

「わわ、目が回りそう」

「ああ、すみません。専門用語は忘れてください」

 ヘルガはすぐに論文をしまった。ウッラは目をぱちくり。

「よく分からないけれど。こういうのは職人さんの方で決めてもらうのではないの?」

 途端にヘルガは気分が悪くなる。

「……たしかに、そう言う者もおります。客をまるで自分の作品のように扱って、奇抜な死者に仕立て上げる奴らです。あるいはカタログから選ばせるような工房もあります」

「うんうん」

「ですが。うちは違います。“お客と寄り添う”はヘルガ工房のモットーですから」

「ほうほう」

「“方針”とは、そのための指標なのです」

 まだよく分かっていない顔。

「要はですね、その人がこれからどういう死後を送りたいかということなんですよ。たとえば、海辺で暮らしたいのなら湿気に弱い乾燥式はあまりおすすめできません。反対に乾燥地帯に住むならいい選択です。オルタスに後者が多いのは、そういう理由もあります」

「あ、ちょっと分かったかも」

「他にも、たとえば鍛冶屋なんかは手を耐熱加工したりしますし、兵士は武器を仕込んだりします。あと、可愛らしいところでは背を伸ばしたりとかね。このように現在の死者は“ただ生きる”だけではなく、新しい表現形態としてもこの世にあるわけです。だから、このあたりのことを考えずにお仕着せの方式を選ぶと大変なことになるわけですよ」

「なるほど~」

「ただし、これもあまり突き詰めると……こう言ってはなんですが、“石男”や“猟犬”などのように、異形と言っててもいいほどに行き着くところまで行き着いてしまうので、善し悪しはあるのですがね」

 いったいどういう“方針”があれば彫像やいぬになってしまうのか。ヘルガにはまったく分からない。

「なるほど。じゃあ、ヘルガも同じね」

「はい?」

 とかなんとか思っていたら、お姫様が妙なことを言い始めた。

「いえいえいえ、私は平凡なだけの、ただの死体調整師プラステイネイタですよ」

「? そうなの? じゃあその三本目と四本目の腕はなに?」

「これは作業に便利だから生やしただけです」

「……その背負っている本棚とか、お腹の道具箱は?」

「これも便利だからです。一般的な発想でしょう?」

 そうね。ウッラはにっこり笑って言った。誤解が解けたようでヘルガは満足だ。

「まあ、このような感じで、自分が何になりたいか考えてみてください」

「なりたいもの、かぁ。そう言われるとむつかしい……」

「はは、ゆっくりでいいですよ」

 なつかしいなぁ。ヘルガは昔を思い出してほほえましい気分になった。シャッドのような天才は、幼児のころから夢が決まっていたと言うが、ヘルガがやりたいことを見つけたのは、それこそ死んだ後になってからだった。

 そのあたりは姫ほどの人でも同じなのだなと、思わず新鮮な気持ちになる。

「とりあえず、今日はどの方式にも必要な、基本的な処置をしたいと思います」

 こうして一日目の夜は更けていった。


 現在、死体調整の方法は大きく分けて二つある。乾燥式と置換式だ。

 前者はいわゆる乾物やミイラで、乾燥させて水分を抜くことで微生物の活動を抑えることができる。

 この方式は前記の通りデメリットも多く、水気には弱いし栄養自体は残っているのでネズミや虫に狙われやすい。他にも繊維が崩壊しやすいためメンテナンスが難しいという面もある。

 だが同時にメリットも多い。熱と乾燥にはめっぽう強いし、作りやすいし時間もあまり掛からない。乾燥地帯なら水気については気を遣わなくてすむし、普及率も高いので施術者も多い。

 対して後者の置換型は屍蝋しろうや化石など、体組織を物質的に置き換える方式を言う。

 たとえば屍蝋であれば嫌気性の分解のみを進めることによって体組織の蝋化を行い、化石化であれば鉱物によって置き換える。この方式は肉体の仕上がりも良く、栄養素は完全に消えるため虫も動物も寄ってこない。

 置換する素材によっては強度も十分に保てるので耐久性が高い、と乾燥式に比べれば完成後のメリットは大きい。

 だがこの方式は技術的に難しい部分が多いため施術者がまだ少なく、完成までに時間がかかるのが欠点だ。

 また、乾燥式も最近ではコーティングやアタッチメントの充足、一部に置換式の技術を使うなどして、以前よりもクオリティの高いものが現れているためどちらが優れているとは言いづらい。

 結局のところ、これらは土地柄と時代性が物を言うのであって、正解など無いのだ。だからこそ本人の意志が大切なのだが……。


 末梢神経のマッピング終了。仮切断ポイントの設定終了。これで全身の処理を傷みなく行えるようになった。ヘルガは早速胸部の神経節を切断して開胸手術に入る。心臓に飛び込んだ弾丸は肺と心臓、それに肋骨を二本もへし折っていた。

 さて、どうしよう。置換法なら骨は仮止め、肉もある程度整形して戻せばすむが、乾燥法なら取り出して別個に処理した方が良い。

 結局、ヘルガはとりあえず砕けた肋骨にタグを付けて、水銀壺に納めるにとどめた。

「うーん」

 お姫様はずっとうなり続けていた。悩み事はもちろん、今後の方針についてだ。

「なかなか、難物のようですね」

 あれから二日。ヘルガは基礎的な処理を丁寧にこなしていた。神経と骨をマッピングし、足の長さから黒ほくろ子の位置までスケッチをしてタグを付ける。おかげで今のウッラは全身の至る所に落書きがしてあり、まるで仮止めの服のようだ。

 だがそんな作業もそろそろ終わりだ。ここから先はどうしたって方針を決めなければ進めない。

「他の人に相談はしたんですか?」

「したけど、んー」

「すみません。わかりました。そうでしたね」

 ウッラのまわりには政治的な人間が多いのだと忘れていた。

 そうでなくてもこの手の話は、やれ乾燥式こそ至高。置換式こそ究極。と争いの種になりやすいのだ。よほど相手を選ばないとまともな話にはならない。

 だからやはり、自分で決めるしかないのだ。

「それにしても、ウッラ様がそこまで悩むとは、すこし意外でしたね」

「そう?」

「ええ」

 ウッラ・エウレウス・ヘクマティカは、公的な最高権力者でありながらお飾りの地位を嫌って反抗した反逆者だ。そんな決断力のある人が、ここまで迷うとは思わなかった。

「よかったら聞かせてもらえますか?」

 これまで二人は、意図して政治的な会話を避けてきた。作業中に近衛兵がやってきて報告などしているときも、ヘルガはあえて無視した。

 だが、そうしてすべてを済ますわけにはいかないのだ。なぜなら死体調整師プラステイネイタは、相手を知らなければこなせない仕事なのだから。

「私は、正直なところなぜウッラ様が反抗したのかという部分からしてよく分からないのです」

「んー」

「城での生活というのは、そんなに辛かったのですか?」

「それは関係ないよ。みんなよくしてくれたもの」

「ではなぜ」

 いや、

 なぜもなにもない。聞けば、誰もが納得する話だろう。

 生まれた日からだまされて、人殺しの才を利用されて、檻に入れる代わりに祭り上げて、気づく機会は一度たりとも与えられなかった。

 それが、ようやく目覚めたのだ。

 だったら反抗するのが当然だろう。実際、そのような言説で元老を非難している者達もいる。まことに道理としかいいようがない。

 だが、ヘルガは思う。なぜだ、と。

 この冷たい獄と、王冠の籠に、どれほどの違いがあるのだろう。彼女はただ反抗したいがために国を乱し、いたずらに命を落としただけではないのか。

 それを愚かと断ずる資格も、ヘルガにはない。たとえ彼女の目的が世界を灰燼かいじんに帰すことであったとしても、それはやはり正当な怒りなのだと思う。

「……やはり、セリカ様のことですか?」

「ううん、お姉ちゃんも関係ないよ。うーん、こうやって考えると、私ってほんとうに主体性がないのね。自分の中に理由なんて、本当にないもの」

「は? い、いや、では本当に意味がないではありませんか!」

「私にはね、でもオルタスにはあるわ」

 ヘルガはもう意味が分からなかった。

「この国にはね、ヘルガ。もう王がいてはいけないの。だって首を落とせない君主なんて不実じゃない」

「…………」

「そんなものはもう、王ではなく神だわ。そんな化物、倒さなくっちゃ、嘘じゃない」

 ヘルガには政治が分からない。興味があるのは骨と皮にやどる神秘だけで、それらの集合体が作り出す共同幻想など手に余る。

 だから、そここそを住処すみかにしているウッラは人間にも死者にも見えなかった。彼女がなにを見ているのか分からない。彼女がなぜそこまで自分自身を省みないのか分からない。

 だが、それを言ったらウッラとて同じなのだろう。象が蟻を見ないように、ウッラにはヘルガの視点が理解できない。

 このときになって、ヘルガはようやく彼女の迷いが理解できた。

 おそらく、ウッラ・エウレウス・ヘクマティカには本当の意味で願望が無いのだ。彼女に存在するのは天球儀ほどに巨大な視点と、飴玉を舐めたいといった野卑な欲望だけで、その中間がすっぽりと抜けている。

 だから怒らない。だから恨まない。なぜならそれらの感情はに向けるものなのだから。

 ぞっとした思いが背筋を駆けた。ヘルガはずっと勘違いしていた。ウッラが恐ろしいのはその能力が故であって、彼女という個人はかわいそうな被害者だと思っていた。

 だが違った。聞いた話によれば、彼女の恐るべき異能は元々、母の望みを聞いただけのものなのだという。

 それだけのことで世界最強と言われる即死の力を手に入れた存在が、ただの少女であるはずがないのに。

 ふいに、今すぐこの場を逃げ出したいという恐怖がわき起こった。何という存在に関わってしまったのだろう。彼女は、まるでそう運命づけられたよ

うに権力者なのだ。民草に新しい世界を見せずにはいられない予言者なのだ。

 ああ、くそう。しまっている。逃げられなくなっている。

 ヘルガはようやっと思い違いに気づいた。違うのだ。これは権力者ウツラの悩みではなかったのだ。なぜなら彼女らの悩みはすべて誰かの悩みであるのだから。

 悩むべきは、ヘルガだったのだ。

「……分かりました」

 屈辱と恥辱に濡れながら声を出した。もっとも軽蔑していたはずの台詞を吐いた。

「……私が、すべて決めましょう」

 ヘルガは、際限なく芸術性と作家性を高める死体調整師プラステイネイタの業界に憤り、あくまで客を第一に考える自分のスタンスを誇っていた。

 だが今日この時、ついに矛盾と出会ってしまった。

 に出くわしてしまった。

 ホント? 単純に喜ぶその愛らしい笑みがヘルガは憎い。己が一匹の蟻を踏みつぶしたことに気づきもしない鈍感を恨む。

 だが同時に、狂おしいほどに甘く、うまそうだった。

「じゃあ、よろしくね」

「ええ、おまかせください」

 これを限りに引退しよう。ヘルガは決意と共に仕事を始めた。


 半年後。

 そんなことを思っていたはずなのに。ヘルガは未だに死体調整師プラステイネイタを続けている。

 しかも最近ではますます商売繁盛になっていた。いや、分かってはいたのだ。姫の死後調整をしたなどという名誉を受けておいて、勝手に引退するなど許されないことだ。

 だが、いくら何でもこんなのは予想できないだろう。

「おい! なにをぼうっとしているんだ君! それで!? 死んだ直後はどうすればいいんだ! 教えてくれ!」

 現在、ヘルガは仮面通りどころかオルタスにすらいなかった。

 ここはオスなんとか。大陸航路を東に向かった辺境の地だ。

 そこでヘルガはなぜか、見知らぬおっさんにガクガクと首を揺さぶられている。

 本当に、どうしてこんな事になったのだろう。これではあまりにあんまりではないだろうか。ヘルガはただ、心静かに暮らしたかっただけなのに。軍医として無理矢理引きり出されてしまった。

 最近では恐ろしいことに正式に団員として登録されたとか聞くが、確かめる勇気はもうなかった。

 本当に、強いエネルギーを持った人には近づくべきではなかったなと今更思う。

「おい! 君! 頼む! 娘の危機なんだ!」

「ああもう! だから素人にできるのはいまので全部だってば! それ以上

っていうならまず連れてきてよ!」

「なに! いいのか!? ありがとう!」

 なんでこんな暑苦しい熊みたいなおっさんが姫の幕内に入れているんだとヘルガは思うが、どうやらそれなりに事情があるらしく、古参兵の連中も

 「頼む」とばかりにこちらを拝むばかりだった。

 本当にこの世はままならない。ヘルガはため息をついた。

「連れてくるなら早くして、冬とは言え、早いに越したことはないんだから」

「ああ、すまない、三日、いや、もう一日たったからあと二日か。二日待ってくれ。あの子の意志が固まったらすぐに来る!」

 言うやいなや、男は闘牛のような勢いで帰って行った。ヘルガはふたたびため息をついて立ち上がる。実のところ今みたいな相談は結構多い。これならどこかで腰を据えて工房を開いた方がましかもしれない。

 そう思って、“石男”か“紅雪デイーバ”に相談しようと幕内に入ったときだった。

「ん? そこにいるのってヘルガ?」

「……こんなところでなにをしているのですか」

 絨毯じゆうたんやら工具箱なんかが積み重ねられた荷物の隙間に、我らが姫はちょこなんと座り込んでいた。 

「んーと、なんか生きてる人が来てたみたいだから隠れてたの」

「いや、だからそういうことがあるかも知れないから出てこないようにとキリコが言っていたでしょう」

 どうせ暇だったから抜け出していたのだろう。ヘルガはあきらめて彼女の手を取った。

「もう平気ですよ」

「ん、ありがとね」

 途端にウッラは開き始めた。瞳をふさいでいた革が外れ、喉に絡んだひもがほどける。さらに腕や肩を覆っていた布地が糸にまで分解されてドレスに呑まれた。これらの布は裏地を髪や血、内臓を練って作られているため親和性が高く、ちょっとしたこつで動かせるようになっていた。

 拘束服から肩出しのサマードレスへと姿を変えて、ウッラはホッと息をついた。死後半年の彼女はいまだに生きていた頃の仕草が抜けていなかった。

 これが、ヘルガがデザインしたウッラ・ヘクマティカの第二の生だった。これがあれば、よほどの事故でも無い限りウッラは生者を殺さずにすむ。

 それは、砕け散った誇りの形をしていた。あるがままの生を肯定すべきヘルガの技はしかし、彼女を拘束するために存在している。

 だが、その拘束こそを、ウッラが必要としているのなら、ヘルガは誇りを曲げる以外にすべは無かった。

「……やれやれ」

「あれ、ヘルガ疲れてる。香棒いる?」

「頂きます。が、いったい誰のせいだと思っているのですか……」

「あれ、なんかわたし怒られる流れ?」

 香棒を加えながら、ヘルガは小さな暴君の背中を追った。

 死体調整師プラステイネイタとして莫大な経験値を与えてくれたこの姫君を、恨めば良いのか愛せば良いのか、ヘルガはまだ知らない。

 だが、いまはとにかくついて行こうと思うのだ。

 なんせ永遠は長いのだから。

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