リリィンの野望、その旅立ち 後編

連れて来られた場所は、明らかな実験室。

 一人で旅をしていたリリィン・リ・レイシス・レッドローズだったが、街に立ち寄った際に、街の外れに《サベル研究所》というハーフや戦災孤児などを捕らえては実験に使用している施設があると聞いて調査にやってきたのだ。

 そこで目にしたのは、多くの死体をリヤカーに乗せて運ぶ白衣姿の者たち。彼らが死体を処理場に捨てたあと、確認のために処理場の中へ入るとそこには一匹のモンスターと、まだ生きている少女――ルルノに出会った。

 モンスターを倒して、生きたいと願う少女を抱えて処理場から脱出した矢先のこと、白衣の者たちに網で捕らえられてしまったのである。

 そうして今、成す術もなくルルノと二人でここへ運ばれてきたというわけだ。

 ここも処理場に似た醜悪な臭いが漂っている。おりや水槽なんかもあり、その中にはすでに事切れた“人”や“モンスター”などがいた。

 天井から鎖でるされて事切れている者たちもまたいる。

「……っ……た、助け……っ」

 まだ息がある者も数人。檻の中でリリィンに向けて手を伸ばしてくる。

 まだ若い女性もいれば、顔に深いシワが刻まれた老人もいた。種族も獣人や人間が一緒くたにされて檻の中に放り込まれている。

 例外なくボロボロで簡素な服を着用させられ、体中に傷を負って痩せ細っていた。明らかに衰弱している。処理場で発見したばかりのルルノよりも容体は悪いだろう。

(……本当に胸糞むなくその悪い)

 他人だから関係ないと位置づけしたとしても、さすがにこのような光景を見て何も思わないほど淡泊でもない。

(しかしモンスターまで……ん? 違う。これはモンスターじゃない……?)

 リリィンの視線の先にいたのは鎖で吊るされている存在。一見してゴブリンのような醜悪なモンスターに思えるが……。

 どうもどちらかといえば、“人”という存在に近過ぎる見た目をしている。

 コイツは一体……。

「ん? ああ、これですか? 失敗作ですよ。例の計画の、ね」

「例の計画……だと?」

 糸目の男が口にしたことに興味を覚える。

「計画といっても、世間では結構広まっていると思うんですがね」

「! ……まさかこの実験施設は――《魔物化まものか》の研究をしてるのか!」

 男がニヤリと笑みを浮かべる。的を射ているということだろう。

 最近専ら耳にする、人間界で広まりつつある計画の話。

 それは獣人や魔人たちを、理性のない本能だけで生きる魔物――モンスターと化して隷属しようとするという計画だ。

「何でも『魔人族』は同じように我々を捕らえて《魔人化》できないか研究しているようですがね」

 それもまた本当の話。リリィンが【魔国・ハーオス】から出る前に、やめさせようとした研究でもある。当然上層部に聞き入れてもらえなかったが。

 世界中の者たちを魔人と化して世界を掌握するのが、現魔王や上層部のたくらみなのだ。なかなか上手くはいっていなかった様子だとリリィンは知っている。

「ここにいるのは、ほとんどが実験のなれの果てですよ。いやぁ、新しいものを生み出すというのは多くの犠牲が出ますよね。あなたもそうは思いませんか、魔人さん?」

反吐へどが出る!」

「おやおや、これからこの素晴らしく面白い実験の被験者になれるというのに、つれないですねぇ」

 リリィンはどうにか身体のしびれが収まってくれればと願うが……。

(もう少しのはずなんだが……)

 力を出せればこの程度の網など引き千切れるし、すぐにでも目の前の男たちを叩き伏せることもできる。

 何とか時間稼ぎをしなければ。

 しかしその時――。

「――放せよぉっ!」

 一緒に連れてこられたルルノが、腕を取っている白衣たちの拘束を振り解こうとする。二人掛かりで両腕を押さえられて身動きができないようだ。

「元気一杯の検体ですね。ふむ……面白いことを思いつきました。確か君を助けに、この魔人さんがやってきたんですよね?」

「え……?」

「何の理由があって利己的で気高さをうたう魔人さんが獣人のあなたを救おうとしたのか分かりませんがね。もし、自分を助けてくれようとしている者が、目の前でモンスターと化していけば、どんなふうな感情を見せてしまうものなのでしょうか?」

「ま、まさか……!?」

「それに彼女ほどの存在がモンスターとなれば、一体どのくらい強くなるか実に興味深いですし、ねぇ」

 これからリリィンへされることを予感したのだろう、ルルノの顔が青ざめた。

 糸目の男が傍のテーブルの上に置かれてあるケースを開き、その中から注射を一本取り出す。中には何かの血なのか、赤い液体が入っている。

「見たところずいぶんと魔力も高そうですし、どんな獣になるのか見物ですね」

 いやらしい笑みを見せつけてくる。拘束さえされていなかったら間違いなくその顔をぶん殴っているところだ。

「さあ――ショータイムといきましょうか」

 男がゆっくりとリリィンへ近づいていく。

「や、止めろぉぉぉっ!」

 突然、ルルノが力一杯叫びながら身体を激しく動かす。その際に白衣たちの拘束を解き、すかさずリリィンの前に立って両腕を広げた。

「こ、この人は絶対に守るっ!」

「……ほほう、もしかしてお友達か何かで? だとしたら助けに来たという理由も納得できますが」

「違う! けど……この人はアタシに……アタシに生きる希望をくれたんだ!」

「ルルノ……!」

 リリィンは彼女の行為に素直に驚きを得ていたが、そうしたのは自分が指し示した未来のお陰だということで半ば感動めいたものを感じていた。

 しかし今は、自分のせいでその未来が奪われようとしている。これを黙って見過ごしていいのか。いいや、そんなこと許容できるリリィンではない。

「……ルルノ、ワタシのことはいいから、お前は隙を見て逃げろ!」

「嫌だ!」

「くっ、これは命令だ!」

「そんなの聞けるもんか!」

「んなっ!?」

 まさか部下扱いの彼女に、真っ向から刃向われるとは。

「アタシのために手を伸ばしてくれたリリィン様を見捨てるなんてできない! たとえ死んだってそんなことするもんか! だからそんな命令すんなバカァッ!」

 涙を流しながら言う彼女に、リリィンは胸をつかまれたような衝撃を受けた。

 少し前にも同じ馬鹿という言葉を聞いたが、今のソレは痛烈にリリィンの胸を貫いたのだ。しかし不愉快さよりも、どこか温かいものを感じたのも確か。

「あはは、大丈夫ですよ。二人ともちゃんと面倒を見てあげますから。我々が、ね」

「アタシは……アタシはお前たちなんか大っ嫌いだっ! やあぁぁぁぁっ!」

 猪突猛進とばかりに、ルルノが注射を持っている男に向かって突っ込む。しかし男は軽やかに彼女をかわす。

「おっと、危ないですね。幼いといっても獣人ですから、殴られると痛いんですよ。いやほんとに」

 しかし……と、続けて彼が言う。

「元気のある検体は大歓迎ですから、先に君を実験しても面白そうではありますね」

 愉快気に喉を鳴らす男から発せられる狂気にまれ、ルルノがたじろいでしまっている。

(くっ……このままじゃルルノが――)

 せっかく助けた命なのだ。ここでむざむざ散らすわけにはいかない。

「――おい待て」

「「!?」」

 リリィンの声が、ルルノと男の注意を引くことに成功する。

「ワタシはこう見えて絶滅したとされる『夢魔むま族』だ」

「! ……ほう」

 男の関心がリリィンへと向く。

 ルルノは分かっていないようで眉をひそめているだけ。

「そんな小娘に構っていていいのか? 隙あらば、この拘束を瞬時に解いて貴様のおごり切った顔を潰してやるぞ?」

 最大級に殺気を飛ばしているからか、対象ではないルルノも息苦しそうな表情を浮かべている。

 ただ男の方が至って涼しげな様子。それが気にくわなかった。

(コイツ……一体何者だ?)

 今までリリィンの本気の殺意を受けて影響を受けなかったのは、リリィンすら認める強者だけだった。

 目の前にいる男からは、武人のニオイはしないし、ほとんど魔力すら感じない。

 どう見ても強者足りえない存在だ。

 しかしながら、そんな人物が平然と殺意の渦の中で立っている。これが異常でなくて何が異常だというのか……。

「ふむふむ。確かにそれが真実ならばかなり興味深いですね」

「ククク、そうだろう? まあ、ワタシとしては取るに足らない小娘に執着するなら別に構わんがな。ククク」

 こんな言い方をすれば、ルルノが気を悪くするかもしれないという配慮など考える余裕はない。

 それなのにリリィンは驚嘆する光景を拝んでしまう。

 視界に入るルルノの表情には一切の怒りや悲しみなどが宿っていないのだ。

(ったく、たかが十歳程度のくせに)

 リリィンの考えを悟っているようなその顔には脱帽するが、さらに驚くようなことが起きた。

 ルルノが傍にいた白衣の一人の腹を殴り悶絶もんぜつさせたのち、腕を引っ張ってジャイアントスイングばりに回し始めたのだ。

 そのお蔭で、被害を回避しようと、リリィンの傍にいた者たちがリリィンから距離を取っていく。

 さらに糸目の男に向かって、目を回している白衣の男を投げつけた。

「むぅっ!?」

 男はぶつからないようにけるが、その際に箱のようなものを懐から落としてしまう。

「しまっ――」

 それはリリィンを捕らえている網に電流を流す装置だった。

 ルルノが即座に踏み潰して壊す。

「リリィン様!」

「よくやった、ルルノ! この網を!」

 ルルノが「うん!」と返事をして、リリィンを覆う網を解いていく。

「あちゃあ……これはこれは。解放させちゃいましたか」

 言葉とは裏腹に、大して焦燥感を見せていない糸目の男。

「ふぅ……頑張ったじゃないか、ルルノ。礼を言うぞ」

 本当にルルノは予想外によくやってくれたと思う。

 一人だったら決してこの状況は生まれなかっただろう。もしかしたらここで殺されて夢がついえていた可能性だってある。

 そう考えると恐ろしいし身震いしてしまう。だからこそ、ルルノの行動が頼もしく思えた。

(……仲間、か)

 自分は今まで一人でやってきたし、やってこれた。どんな障害も乗り越えてきたのだ。

 だからこれからも一人で大丈夫だと言い聞かせてきた。

 しかしふと……思ってしまう。

 ルルノのような自分の身を案じてくれる存在が傍にいるのは、どこか心地好い……と。

 だがそれでも誰かに頼るという行為は、今までしてきたことがなかったせいか、自身のプライドが邪魔をするのもまた事実だ。

 ――自分の母親のことを思い出す。

 思い返せば彼女もまたいろいろなことを自分一人で背負い、誰かを頼るといったことをあまりしない人だった。

 自分が頼れば周りに迷惑をかけてしまう、と。

 傍にいる者を愛し、慈しむ彼女だからこそ、自分のせいで悲しませたり辛い思いをさせたりするのを嫌がっていた。

 もし母が最初から誰かに頼っていたならば……。

 もしかしたら今も元気に夢を追いかけられていたのかもしれない。

(頼れる……仲間か。……いや、今はそんなことよりも)

 リリィンは拳を握っては開いて、しびれが残っていないか確認する。若干違和感はあるものの、戦うにはまったく問題は無さそうだ。

「――さて」

 ギロリと周りにいる白衣たちをにらみつけるリリィン。

 男以外の白衣たちは表情を強張らせ、緊張を露わにしている。

「ずいぶんと好き勝手やってくれたじゃないか。覚悟はできているのだろうな?」

 強烈な殺気をリリィンが放つと同時に、耐え切れなくなった白衣の男が何を思ったのかリリィンを捕まえようと向かってきた。

「―――悪夢へいざなってやろう」

 その男の瞳を睨みつけた刹那――どこからともなく、男の頭上から現れた黄金色の釘が、彼の背から胸を貫いて床に釘付けにした。

 突如として無から有が生み出された現実に、誰もが目を見張って硬直している。

「――――さあ、貴様らもだ」

 リリィンは糸目の男も含めて、すべての“敵”に視線を合わせていく。

 すると直後に研究所の天井に亀裂が走り、崩れ落ちてきた。

「「「「うわぁぁぁぁぁぁぁああああっ!?」」」」

 当然のように慌てふためく白衣たち。

 しかし、これまた不思議なことに、逃げようとした先には数体のマグマドロが現れ、彼らを体内に取り込んでいく。また檻や鎖から解き放たれた者たちが、次々と白衣たちを襲い始める。

 「た、助けてぇぇぇっ!?」

 「あ、熱いィィィッ! 身体がっ、身体がァァァァッ!?」

「どうしてここにマグマドロが!? うわぁっ、来るなぁぁぁっ!」

 現場はまさに死屍累々ししるいるい

 血や肉が飛び、地獄絵図のような現状を作り出していた。

 そんな中、糸目の男だけは腕を組みながら不気味に笑みを浮かべている。ほとんどの者たちが慌てふためく中で、明らかにこの男だけは異質だった。

「ううむ。さすがはリリィン・リ・レイシス・レッドローズといったところでしょうか。やはり彼女もまたあがらう存在だということでしょう。…………血筋は怖いですねぇ」

 落ちてきた天井の瓦礫がれきが、一切の焦りを見せない男の頭上へと降り注いだ――。



 ――街から少し離れた丘陵。

 そこへ向かう数人の人影がある。

 小さな集団の前を走るのは、陽光に紅い髪を照らされたリリィンだ。

 最後尾近くには、ウサミミが特徴のルルノが走っている。しかし研究所で暴れた上、斜面を駆け上がっているということもあり、ガクッと膝を折って転んでしまうルルノ。

 処理場でマグマドロの熱気のせいで脱水症状を起こしていた彼女なので、いくらすぐにリリィンが持っていた水筒から水を補給したといっても、身体は万全とは程遠い。

「ルルノッ!?」

 しかし倒れたルルノに一早く駆け寄ったのは、名を呼んだリリィンではなく共に逃げてきた一人の女性である。

「大丈夫? どこか怪我したの?」

「あ、ううん。だいじょ……っ」

 どうやら右膝を擦りいてしまったようだ。赤く腫れ上がり血が流れている。

「ん……ちょっと待って」

 女性が自分の裾を引き千切り包帯状にすると、それをルルノの膝へと巻いた。

「どうかしら?」

「え……う、うん。もう大丈夫……かな」

 何故ルルノが不思議にも目を泳がせているのか、リリィンには理由が分かる。

 女性が……人間だからだ。

 人間は、獣人を家畜として扱い奴隷化するような存在である。

 そんな存在から、優しい言葉をかけられ手当てまで受けることに戸惑いを覚えているのだろう。

 女性は「良かったわ」と言って微笑ほほえんだ。

 その顔をジッとほうけたように見つめるルルノ。

 リリィンにしても驚きは受けていた。人間がかいがいしく獣人を介抱する光景など、この世界では奇跡に近い。

 さらに他の者が、ルルノの手を取り肩を貸しながら歩く姿。

 これが本来、この世界にあるべき姿なのだとリリィンは思うし、あってほしいと願う。

 たとえ状況が状況だとしても、これが現実ならば、いずれこの光景が当たり前になる世の中になってもおかしくはない、と。

 ――そうして皆で一致団結して丘の上まで登ってきた。

「はあはあはあ……。リ、リリィン様……?」

「む? 何だ、ルルノ」

「そういえば、何でいきなり研究所の人たちが動かなくなったんだ?」

「ククク、さあな。悪い夢でも見たんじゃないか?」

 悪い夢――そう、研究所の者たち全員に《幻夢魔法ファンタジア・マジック》で幻術にかけてやったのだ。突如として研究所が崩壊し、逃げ惑う者たちの道を塞ぐように、マグマドロや絶命しているはずの検体たちが次々と阻む。そういう悪夢を。

 その隙に、リリィンは檻などを破壊して、まだ生きている者たちを連れ出しここへやってきたというわけである。

(しかし問題はこれからだな。どうしたものか……)

 ルルノだけならともかく、他に数人この場にいる。しかもそのほとんどが衰弱傾向にある。

 街に戻るのも選択肢の一つではあるが、そんなことをすればすぐに研究所に報告をされて連れ戻される危険性が高い。

(かといってこのまま旅をして、次の集落に行くのも……現実的じゃないな)

 何とか食事だけでもできる環境を整えなければ、すぐにでも死者が出てしまうだろう。

「う……っ」

「どうしたんだ!? 大丈夫か!」

 視線を向けてみれば、一人の女性が胸をおさえてうずくまって、それに気づいたルルノが駆け寄っていた。

 女性は、先程ルルノを介抱した人物だ。

「え、ええ……大丈夫……よ。ちょっと……安心したら疲れが出て」

「で、でも顔色が……」

 ルルノの心配も分かる。女性の顔色は血の気が引いたように青い。しかも眼球が小刻みに揺れており、呼吸も乱れているようだ。

「はあはあ……血……が」

「へ? 血? ……ああ、もしかして膝のこと? もう止まってると思う。お姉さんのお蔭で、さ」

 自身の膝のことを心配したと思ったのか、女性を安心させようと笑みを浮かべるルルノ。

「そ、そう? それなら……良かったわ」

「そんなことよりお姉さんが」

「もう大丈夫よ……。あなたが心配してくれたお蔭で、ちょっと元気が出ちゃったもの」

 そう言って辛そうではあるが確かに笑う女性。

 少し血走った瞳が印象的だが、これまで緊張の連続だったはずだから仕方がない。疲労もずいぶんと溜まっているだろう。

「ほ、ほんとに大丈夫?」

「ええ、せっかくあれほど望んでいた空の下に出て来られたんですもの。お姉さん、もう少しだけ頑張っちゃうわ」

「……うん、そだね。アタシも一緒に頑張る!」

「どうやらもう心配なさそうだな。まあ絶望から一気に解放されたのだから無理もないだろう。少し休めば良くなるはずだ。ルルノ、ワタシはもう一度街へ戻って食糧を確保してくる。貴様たちはそうだな……あの岩場の陰で待機しておけ」

 リリィンが指を差した場所は、大岩が幾つか連なっており、そこの陰ならば見つかることもないだろうと判断する。

「一人で行くの? 危ないってば」

「ワタシならば大丈夫だ」

「でも一回捕まったし……」

「う……」

 それを言われたら……。確かに油断したとはいえ、脆弱ぜいじゃくな人間に囚われたのは事実なのだ。

「リリィン様って、どっか危なっかしいし」

「あ、あのな、ワタシはこう見えても貴様の何倍も生きている。心配などいらん」

「…………」

「何だその疑いの眼差しは」

「別にぃ。強がるリリィン様も可愛いなって思って」

「か、かわっ……! うぬぬぬぅ、どうやら主と従者の違いというものをまずはハッキリ覚え込ます必要があるようだな」

 子供に可愛いなどと言われても嬉しくは……ない。それに彼女の見抜いていますよ的な視線がイラッとする。

 このやり取りが面白いのか、周りから少し笑い声が聞こえてきて気恥ずかしさをリリィンは覚えた。

「それに、アタシも一緒に行けば最悪おとりくらいには……」

「! 馬鹿者!」

「あいたっ」

 的外れなことを言うルルノの額に軽くデコピンをした。

「そういうことを言うな。次言ったらキツイお仕置きをしてやるからな」

「あぅ……それはやだなぁ」

「そう思うのなら自重しろ。ルルノ、ここは貴様に任せる。他の者と比べても比較的動けるし頭も回る貴様だ。できるな?」

「! ……うん! 任せてよ!」

 まだルルノとは短い付き合いだが、命を重んじる彼女ならばこの場を任せられると踏んだ。

 他の者たちとも悪い雰囲気でもないし、少しの間だけならば離れても大丈夫だろう。

 その判断に他の者たちも了承して、一旦彼女たちとリリィンは離れることになった。



 すでに情報が出回っていることも考えて、リリィンは顔がバレないようにフードで顔を隠しながら街へと戻る。

 露店で果物などを売っていたのでそこに立ち寄り、大袋も購入して、その中に大量の食糧を注ぎ込んでいく。

(うむ。これだけあれば十分か)

 しかし、と周りを見回す。最初にやって来た時と何一つ変わらない穏やかな街の風景。普通に子供たちが遊び、商人たちが商売をしている。

 リリィンたちが脱走したことを研究所は大っぴらにしていない様子だ。

(もしかしたらここに住む者たちも、奴らの研究に黙してるだけで協力的というわけではないのかもしれんな)

 そもそもあのような外道な研究を、万人が受け入れるわけがないだろう。頭のネジが飛んで狂っている者しか成せない所業である。

 しかし研究には国から資金が出ているということで、ここに住む者たちの中にたとえ疑問を持つ者がいたとしても逆賊にされては堪らないので、仕方なく黙認のような状態になっているということかもしれない。

 するとその時、街人たちがそろってざわざわしだした。耳を傾けてみると、先程リリィンがいた丘陵地帯を指差している。

(……何だ?)

 何かあったのかと同じように視線を向けると、そこから煙が立ち昇っていた。

(っ!? ま、まさか奴らの手が!)

 リリィンは持っていた大袋を投げ捨て、翼を広げて急いで空を飛び丘陵地帯へと戻った。

「――こ、これは……っ!?」

 リリィンが空から見たもの。それは研究所で見たような醜悪な姿をした生物が、ルルノや他の者たちを襲っている光景だった。

 生物はまるで魔物のようだが、見たこともない姿をしている。全身が緑色で筋肉質、闇を思わせるような黒一色の獰猛どうもうな瞳が印象的だ。人間の数倍ほどに膨れ上がった巨体を鈍そうに動かしながら暴れ回っていた。

 すでに醜悪生物に攻撃を受けたのか、地面に倒れて血を流して動かない者もいる。

「一体何が……!」

 その一瞬の躊躇ちゅうちょが良くなかった。すぐにルルノのもとへ駆け寄れば何かが違っていたかもしれない。

 しかし――。

 醜悪生物が、まだ生き残っていた者たちを次々と手先に伸びた鋭い爪で斬り裂き、あるいは貫く。

 そしてその凶刃が――――ルルノの腹に吸い込まれた。

「――ルルノォォォッ!?」

 慌てて滑空し、醜悪生物の顔面を蹴り飛ばす。

 ルルノが腹から大量の鮮血を流しながら大地に倒れる。

「ルルノッ、しっかりしろルルノッ!」

 次第に青ざめていくルルノの顔を見ながら、リリィンは必死に彼女の名を叫ぶ。

「っ……ぁ……リリ……ィン様……」

「ルルノッ! すぐに医者に!」

「いいん……だよ……っ」

「何をっ!」

「もう……ダメ……っぽい……から」

「っ!? 諦めるな、貴様にはまだワタシの野望を手伝うという役目があるだろうが!」

「……ごめん……なさい……っ」

「何故謝る?」

「だ……って……ここを…………任された……のに……っ」

 それなのにリリィンが帰ってくるまで、皆を守れなかったことを悔いているのだろう。

(違う! それを言うならワタシだ! ワタシが一人でこの場を離れたのが迂闊うかつだったんだ!)

 故に責を負うのは、責められるべきなのは自分だとリリィンは断ずる。何故ならこれは避けられたはずの事件なのだから。

 何が一人で何でもできる、大丈夫だ。結局一人でできることなど大したことはない。

 自分だけが正しいと思い油断した結果がコレだ。

(くそぉ……っ)

 自分の不甲斐無さに腹立たしさを覚える。震わせている拳にフッと温かみ感じた。

 ――ルルノだ。彼女がリリィンの拳に自身の手を重ねていたのである。そのままギュッと握ってきた。

「……リリィ……ン様に…………恩返し……したい……のに……っ」

「だったら弱音を吐くな! 生きることだけを考えろ! 生きてやりたいことだけを強く思え!」

「やりたい……こと……っ」

 ゴボッと彼女の口から血液が吐き出される。

(くそっ、どうする? この弱り切った身体にできることは――っ!?)

 こんな時、自分が治癒の魔法が使えないのが悔しい。得意の《幻夢魔法ファンタジア・マジック》では、こういう時に救いを与えられないのだ。

 徐々にルルノの身体から命が流れ出ていく。

(このままじゃ…………! 命? そうか、ならば!)

 リリィンは自分の生命力を、魔力とともにルルノの身体に注ぎ始めた。

「――っ!? う……ぁ……あったかい……」

 血の気を失っていたルルノの顔が次第に良くなり始める。

(よし! まだ間に合う!)

 他の者たちと違って、まだ完全な致命傷ではなかったことが幸いした。

 しかしそこへ、吹き飛ばしたはずの生物が殺気をみなぎらせて近づいてきた。

「リリィ……ン様……」

しゃべるな。もう少し静かにしていろ」

「でも……」

 持ち直すには、まだ少し時間がかかる。

 あと少し……あと少し生命力を注げば。

 徐々に迫ってくる生物に焦りを覚える――が、さすがは獣人なのか、傷も治癒し始めるのが早い。

 いくら生命力を流しているといっても、人間ではこうはいかないはずだ。

(よし、これでルルノは大丈夫だ。――さて)

 刹那、大気がおびえるかのように震え出す。

 生物も歩みを止め、大気を震わせている張本人に視線を落とし固まる。

「……さあ、覚悟はいいか?」

 怒気を込めた声音と視線。それが生物を射抜く。

「貴様には、濃厚な悪夢を叩きつけてやろう」

 完全に怒りで我を忘れているリリィンだったが、

「――リリィン様!」

「! ……ルルノ」

 彼女の言葉と、何かを伝えたそうな瞳により怒気が若干収まる。

「どうかしたのか?」

「あの人は……今目の前にいる人は、リリィン様が街へ行く前に胸を押さえて倒れそうになっていた人なんだよ!」

「な……何だと……っ」

 衝撃告白だった。確か女性だったはずだ。線が細く、とても戦闘などできそうもない穏やかそうな。

 しかし目の前にいる醜悪な生物は、明らかに女性の面影が一つもない。

 彼女は人間でありながら、ルルノを介抱する優しさも持ち合わせていたはず。

 それが何故……?

「リリィン様が街へ行ってすぐに、女の人が変わってしまって」

 何もできなかった自分が相当に悔しいのだろう。ルルノは下唇を噛みながら拳を震わせている。

 ……そうか、と、リリィンには一つ心当たりがあった。

(研究所では、今のコイツと同じ容貌の死体が幾つもあった。てっきり研究所で全員を殺したはずなのに、まだ意識のあった何者かが追手を放ったのかと思っていたが……。恐らくはすでにあの女は〝何かの処理済み〟だったのだろう)

 何か――それは恐らく《魔物化》という現象。研究施設で行われていたのがそれなのだから。

 女性は白衣の連中に《魔物化》するために何かが施されていたに違いない。それがここで発動して、変貌を遂げてしまったということ。そうとしか考えられなかった。

(しかしたとえこの女に罪はなくとも……)

 このまま放置すれば、街を襲い、結果的に誰かに討伐されることになるだろう。

(それにもう……)

 冷静になって観察してみると、彼女の身体から徐々に生命力が失われているのを感じる。きっと変貌に際し、身体に無理が生じているのだ。

 想像でしかないが、研究所にいた者たちも、変貌――《魔物化》を果たすことはできたが、その負荷に耐え切れずに長く生きることができないという欠点を取り除くために日夜外道の行いをされてきたのだろう。

(ここへ来る前に奴が苦しそうだったのは、その前兆だったということか)

 彼女は大丈夫と心配するルルノに告げていたが、きっと心の中では溢れ出してくる魔物の力と戦っていたのだろう。

 しかし彼女の抵抗は実を結ぶことはなかった。

「…………ルルノ、コイツはもう……長くない」

「そ、そんな……! せっかく抜け出せて自由を得られたのに! あんだけ外に出られて喜んでたのに……! それにあの人はアタシの傷を……。人間なのに……優しくしてくれて……っ」

「奴に人間としての心が残っていると思うか? 奴の周りをよく見てみろ」

 ルルノが言われた通りに周りを確認して泣きそうな顔を見せた。

 そこには一緒に逃げてきた者たちのなれの果てがある。中にはルルノと同じ獣人で、老齢の人物だっていたのだ。

 しかし無残にも全身から血を流し大地に倒れてしまっている。

 ただただむごたらしい現実しかこの場には存在していない。

「キィアァァァァァァァァァッ!」

 突如、女性が甲高い叫びを上げながらリリィンに接近してくる。振り上げた大きな拳をハンマーのようにリリィンの頭上から振り下ろしてきた。

 リリィンは傍にいるルルノを抱えながらすぐにその場を離脱。

 振り下ろされた拳は、込められた威力を見せつけるかのように大地を割った。

 とても細身の人間の女性だった者が出せる力ではない。

(生命力のすべてをパワーに変換しているというわけか)

 だからこその馬鹿力。

 今も女性は叫びながら拳を何度も地面に叩きつけて暴走中だ。

 リリィンには彼女の叫びが、まるで泣いているように感じ取れた。

 きっとルルノも同じことを思っていたのだろう。悲痛な面持ちで女性を見つめている。

「今、奴にとって救いは何だと思う?」

「え……救い……?」

「そうだ。また人間どもに捕らえられて、死んだ身体をいじくられるより、ここで大地に還った方が、まだ幸せなのではないか?」

「それは……」

 ルルノも分かっているのだろう。このまま放置することの危うさに。それはもう意識すらない女性の尊厳を守るためということも……。

 リリィンは、静かに変わり果てた女性を見る。こうして落ち着いて瞳を見れば、どことなく寂しげな色合いを宿しているように感じられた。

 そして気のせいかもしれないが、「殺してほしい」と言っているようにも思える。

「今――――楽にしてやる」

 リリィンはスッと目を閉じたあと、深く息を吐いたのち、ゆっくりとまぶたを上げる。

「――《幻夢魔法ファンタジア・マジック》、発動」

 言葉の終わりに、女性の身体がドクンッと激しく脈打つ。そのままゆっくりと膝を折ると、ドスンッと音を立てて大地に横たわった。

 彼女には自身の寿命が終わる幻を見せたのだ。そうして彼女の精神を――殺した。

 ―――できるだけ優しい死を。

 そんな想いを込めて、リリィンは彼女の精神に強烈な負荷をかけて、痛みのない死へといざなった。

 いや、痛みがなかったのかは定かではない。それでも安楽死ができるように、計らったつもりだった。

 もうピクリとも動かない女性に近づき、開いたままの瞼をそっと閉じてやる。

「リリィン様……」

「……ルルノ。この女は人間だった。それでもお前は涙を流すのだな」

「……だって、どんな人でも命は同じものだし……悲しいよ」

「そうか……」

 彼女の言葉が何よりもありがたい、と感じた。

 どんな人でも命は等価である。そこに違いは決してない。それは世界の真理だと思う。

 それを今、この世界に住むほとんどの者たちがゆがめてしまっている。

 これをいつか正せる日が来るのだろうか。

 こんな悲しい死を失くすことができるのだろうか。

 誰もが笑い合える日がやってくるのだろうか。

 そんな虚しい思いが胸に去来していた。



 その場にいた者たちを、そこからさらに離れた森の中へ運び、地中に埋めた。ルルノも手伝ってくれたが、やはり彼女は辛そうだった。

 今後、あのような研究所はさらに増え続けることだろう。地中に埋まっているような犠牲者は、間違いなくこれからも生まれる。

 世界が、人が変わらなければ。

「……リリィン様、アタシに……何かできるかな」

「……どうだろうな」

 世界の流れを変えるには絶大な力がいる。たかが一人や二人が何かを始めても、結局その流れに押し潰されてしまう可能性が高い。だが……。

「それでも諦めずに邁進まいしんし続ければ、いた種はいずれ花を咲かせる。少なくともワタシは、そう信じている」

 だからこそ世界を回り、いろいろな者たちとコンタクトを取ってきたのだ。本当にそれが花開くかは定かではないが、それでも信じたい。

「だから……」

 だからリリィンは、少し気恥ずかしいがこの言葉を投げかけてみることにした。

「……ワタシとともに旅をしてみないか、ルルノ?」

 いつもなら誰か信用できる者に預けたり、故郷に届けたりしていた。

 しかしルルノに関しては、自分の傍に置いておくのも悪くないと思ったのだ。

 それは何故……?

 理由など分かっている。

 彼女が言った言葉――。


『アタシのために手を伸ばしてくれたリリィン様を見捨てるなんてできない! たとえ死んだってそんなことするもんか! だからそんな命令すんなバカァッ!』


 まさか自分をバカ呼ばわりするやからを認めることになるとは思わなかったが、素直に嬉しい……と感じたのも確かだった。

 彼女とならともに野望を追うことができる。

 一人ではない旅も良いものかもしれない。初めて――そう思ったのだ。

 リリィンはルルノの答えがすぐに返ってくるものだと決めつけていたが、彼女は少し顔をうつむかせて真剣に悩んでいた。

「ルルノ……?」

「……なあリリィン様」

「何だ?」

「……さっきさ、アタシが死にそうになっていた時に言ってくれたよな。『生きてやりたいことだけを強く思え』って」

「! ……ああ」

「……だから考えたんだ。アタシがやりたいことって何だろうって」

 ルルノが顔を上げて目線を合わせてくる。

「本当ならリリィン様の傍にいて手伝いたいんだけど、きっと足手まといになっちゃう」

「そんなことは……」

「ううん。分かってるんだ。アタシはリリィン様にみたいに強くないし、こんな痩せた身体じゃ旅に出ても迷惑かけるだけだよ」

「…………ならルルノは何がしたいんだ?」

 すると彼女はニコッと笑みを浮かべて口を開く。

「アタシさ、【獣王国・パシオン】へ行きたい!」

「【パシオン】? どうしたのだ、急に?」

「アタシって田舎の村で育ったから勉強とかも全然できないし、何より世間のこともほとんど知らないんだ。人間や魔人にも、リリィン様やあの女の人みたいな人たちがいるってことも知らなかった」

「…………」

「だから、勉強したいんだ。知らないことをいっぱい学んで、リリィン様みたいに賢く強くなりたい!」

「それは別にワタシの傍でもできるのではないか?」

 勉強ならリリィンも教えることができるし、鍛錬だって躾けてやることもできるのだ。

 しかしルルノは「ううん」と頭を左右に振る。

「アタシのやりたいこと。それはやっぱりリリィン様の夢を支えること」

「ならばなおさら……」

「でも世界を変えるには、まずは国を変えなければならないと思うんだ」

「! それは……そうだな」

 国から逃げ出したリリィンにとっては耳の痛い話だ。

「国を変えれば、きっとそれはリリィン様の役にも立つしな!」

「……それでいいのか? 確かに獣人は同族とのつながりは強い。国へ行けば無下に追い出されるということはないだろうが。それでも可能性として異端者扱いされて追放されることだって無きにしもあらずだぞ」

「うん! 覚悟してるよ! でもまずは獣人たちの意識を変えたいって思うんだ! できるか分からないけど……何年かかるか、アタシが生きてる間に何か変えられるのか分からないけど……。それでも諦めないで頑張りたい!」

「ルルノ……」

「リリィン様に助けてもらったこの命、リリィン様と同じ夢を実現するために、少しずつ今の世の中を変えていきたいんだ!」

 それにはまず、同族の意識から……か。

 まさか十歳程度の少女が、こんなにも明確な意志を持ち、未来を担おうとするとは。

(コイツはいつか大物になるやもしれんな)

 強い意志。こうと決めたら絶対に揺るがない。まるで鏡に映った自分と対面しているように思えた。

 だからこそ頼もしいし、傍に置いておくのも良いと思ったのかもしれないが。

 しかし彼女にはすでに自分で決めた道があるということ。加えてその道が、自分の夢の先に続いているということに胸の奥が少しだけむずがゆくなった。

「そうか。だったら約束しろ、ルルノ」

「約束?」

「そうだ。いいか、いつか互いの夢が叶った時――その時は月見をしながら酒を呑み交わそう」

「! ――うんっ!」

 満面の笑みを浮かべる彼女に、リリィンもまた微笑を返す。

(もうしばらくワタシも旅を続けてみるかな)

 ルルノに負けないように。自分もまた、世界の流れを変えられると信じて。

 また、ルルノのような面白い人物と出会える可能性を願って――。



 ―――そうしてリリィンは、ルルノを【パシオン】へ送り届けるために歩を進めることにした。

 各地で起こっている争いに巻き込まれそうになりながらも、何とかルルノを無事に目的地へと送り届けることができたのである。

 国境から少し離れた場所で、ルルノとは別れることに。

「――リリィン様、今まで本当にありがとう!」

「礼はいい。それよりも今後のことを考えろ。生きるということは決して甘くはないぞ。特にワタシたちが歩む道はな」

「うん、分かってるよ」

「……これを」

 リリィンは懐から一枚の紙を手渡す。

「これ……は?」

「現獣王じゅうおうとは少し知り合いでな。紹介状のようなものだ」

 今の獣王は武闘派ではあるが、世界を憂いている一人でもある。旅先でたまたまある街で出会い、言葉を交わしたことがあるのだ。

 その際に、何か困ったことがあれば訪ねてこいと言われていた。

「何から何までありがとうございます! リリィン様……本当に……っ」

「泣くな、泣き虫め。ほら、さっさと行け」

 リリィンは彼女に背中を向ける。これ以上言葉を交わせば、決心が鈍る……互いに。

 ルルノは悲しげな、そして寂しげな表情を一瞬するも、目標を口にした時と同じ強い光を宿し、リリィンの背に深く頭を下げると、きびすを返して【パシオン】へと走り出していった。

 リリィンは溜め息を吐きながら空を仰ぐ。

(憎らしいほど澄み切った空だ……)

 ちょうどいい。別れの日は、こんな空の下が似合っている。

(……元気でな、ルルノ)

 リリィンは振り返らずに歩き出す。

 彼女に負けない夢を背負い、叶えることを心に秘めて――。


     ※


「―――ほほう、あのリリィンの紹介というわけか」

「う、うん! ああいや、そうです!」

 今、ルルノは呼吸も正常にできないほど緊張感に包まれていた。

 何故なら目の前にいるのが―――獣王を冠する傑物なのだから。

 獅子ししを擬人化させたような強面の表情は、こうして目の前にするだけで圧倒されてしまうほどの威圧感がある。

(や、やっぱり……王ってのはすごいんだな……!)

 リリィンの紹介状を獣王は面白そうに眺めながら、その視線をルルノへと移す。

「相分かった。我が【パシオン】はお前を歓迎しよう」

「ほ、本当ですか!」

「しかし、いくらワシの知り合いの紹介とはいえ、子供だからと手加減はできぬぞ。働かざる者食うべからずだ、よいな!」

「は、はい! 粉骨砕身、頑張らせて頂きます!」

「ガハハハハ! そう緊張するな! まあ、無理もないがな! ガハハハハ!」

 豪毅ごうき豪胆という言葉がこれほど似合う人物がいるだろうか、とルルノは思う。

「さて、それでは改めて名乗るがよい」

「はい! ルルノ――ルルノ・ファンナルですっ!」

 これからルルノの新たな人生が始まる。

 リリィンが助けてくれた命を、目一杯生きようと思う。彼女の野望は果てしなく先が見えない。

 しかしその支持者として、自分もまたリリィンが生きているこの同じ空の下で頑張ろう。

(リリィン様、見ててくれ! アタシは……諦めずに頑張るから!)


 リリィンは知らなかった。

 ルルノ・ファンナル――彼女の存在が、獣人にとってどれだけ大きなものになるのかを。

 残念ながら彼女が生きている間に、世界の流れは大きく変わることはなかったが、彼女の子孫は獣人の世界を大きく変貌させることになった。

 その子孫の名は――ララシーク・ファンナル。

 奇しくもリリィンが救った命の子孫が、戦争を激化させる《化装術けそうじゅつ》を編み出すことになろうとは、今のリリィンには知る由もなかった。

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