第十四話 川中島の邂逅(後)

 長尾景虎と、武田晴信。

 宿命の出会いを果たした二人が、自陣へと帰還した。

 野尻湖のじりこから飯縄山いいづなやまの東を進んでいた越後軍本隊に合流した景虎は、「これより晴信と決戦する」と宇佐美定満に命じ、まっすぐに善光寺ぜんこうじだいらへと出た。

 東西の山々の間に、千曲川ちくまがわの水の流れが彫り上げたかのように広大な平野が広がる。これが善光寺平である。善光寺平の南部で、西から流れる支流・犀川さいがわと、上田側から流れる千曲川本流とが合流する。この二本の川に挟まれた中州地帯が、川中島。

 犀川以北、善光寺平の北部の中心地は、善光寺である。善光寺の別当たちの一部が戸隠山とがくしやまの修験者たちの代表をも兼ねており、善光寺は戸隠山の表玄関としても、そして戦時には要塞としても機能していた。戸隠忍びの元締め的な立場にある加藤段蔵を経由して、景虎率いる越軍と善光寺とは連合している。

 善光寺の別当たちの間では「越軍か、甲軍か」「景虎か、晴信か」真っ二つに意見が割れたが、「武田晴信が勝てば、善光寺の秘仏も戸隠の『石』も奪い取り甲斐かいへ持ち去るぞ」と奔走した段蔵の説得によって、善光寺平の北部は戦わずして越軍のものとなった。

 問題は、犀川以南。いわゆる川中島である。

 すでに川中島は、武田方の先鋒せんぽう、晴信の妹・武田次郎信繁とその守り役を

務める老将・諸角豊後もろずみぶんごによって占拠されていた。さらに、武田晴信自身も川中島まで兵を進めているという。

 先に、越軍五千の見せ兵を借りた村上義清が武田軍と戦った際、村上義清は武田の守備隊を相手に戦った「更級八幡さらしなはちまんの合戦」に勝利し、善光寺平より千曲川を北国街道沿いに南進して、かつての本城であった葛尾かつらお城を奪回。しかし葛尾城はすでに武田・真田の手によってほぼ破却されていたため、さらに南へ。かつて武田軍を野戦で蹂躙じゆうりんして板垣信方いたがきのぶかた甘利虎泰あまりとらやすを討ち取った上田の南方にある山城・塩田城まで進んだ。

 しかし、敵中深く乗り込み塩田城へと進んだことが、村上義清自身を追い詰めた。武田晴信自身が、甲斐一万の軍勢を率いて猛然と反撃。武田方の猛将で武田四天王最後の一人・飯富おぶ虎昌とらまさに敗れて塩田城から駆逐された村上義清はそのまま一方的に押し切られ、上田から撤退。善光寺平における拠点をことごとく武田軍に奪い返されて、ついには越後の景虎のもとへと亡命を余儀なくされたのだった――。

 この日。

 長尾景虎は八千の越軍兵を率いて善光寺を出立し、犀川を渡ろうとしていた。

 川中島で、武田軍と決戦するために。

 先鋒隊は、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」の旗を掲げる柿崎景家かきざきかげいえ

 だが、景虎自身が率いる旗本本隊も、その先鋒隊のすぐ隣を突き進んでいた。

 景虎の戦いは常に、総大将の景虎自身が先頭に立つ。

 一撃決戦主義であった。

 武田晴信に完全に敗北して越後軍の降将となっていた村上義清が、思わず景虎に具申したのも、当然だった。

「一撃決戦には晴信は乗らない。先の更級八幡の合戦でたしかに俺は武田軍の先鋒隊を破り、勝ちに勝って千曲川を南進し上田まで深入りした――だが守るべき葛尾城はすでに半ばまで破却され、仕方なく塩田城に入った。それが俺の敗因だ。上田一帯はすでに山本勘助と真田幸隆の両名の手によって、『敵兵を誘い込む死地』となっている」

 村上義清は「来月に上洛を控えているご主君には、これから葛尾城を再建する時間はない。北信濃で戦える時間は、あと三週間しかないのだからな。上田に入ってはならない。この善光寺平で……川中島で決戦するしかない。もしも晴信を取り逃がしても、それ以上深入りするな」と景虎に訴えた。

 日の光を浴びぬように行人包ぎようにんづつみで顔を覆い隠した景虎は馬上杯を掲げて酒を飲みながら、兎耳うさぎみみの前立てをつけたひょうけたかぶとを被る宇佐美定満に尋ねた。

「……宇佐美はどう見る」

「加藤段蔵の諜報ちようほうによれば、武田晴信はどうやら上田の塩田城に留まったままだ。武田信繁とともに川中島に陣を敷いて越軍を待ち受けている武田晴信は、おそらく影武者だな。逍遙軒しようようけんとか名乗る、もう一人の妹だろう」

「影武者か。それが武田晴信の戦い方か。虚と実が入り交じり、なにがほんとうかを見せないようにする。川中島の布施に陣を構えて越軍の野戦決戦に応じようとしているのは、罠か」

「罠とも言えるし、そうではないとも言える。武田軍は、かつては村上の旦那に何度も敗北した。その頃の晴信は兵法の常道を手堅く戦う守りに長けた姫武将ではあったが、村上軍の規格外の突進力にはとても対抗できなかった。だが、今は違う。敵軍の突進力をいなす戦術眼と、絶対的な統率力を身につけている……」

「たしかに、村上義清ほどの豪の者を一蹴できるほどに、武田軍は強くなった。川中島の武田軍を見るに、軍律は見事に統制され、武将たちはみな晴信を絶対的な主君として崇めている。見事な軍団だ。わたしとて油断慢心すれば敗れるだろう。だが、それほどの手練てだれであれば、なぜ晴信自身が堂々と川中島に出てこない?」

「おそらくは、ひとつには越軍の戦い方を知らねば決戦はできないと慎重になっている。晴信はかつての村上軍との対決で、危険な一撃決戦には懲りているからな。その村上の旦那以上に強いと噂されるお前と安易に激突して大敗することを恐れている」

「わたしは勝っても、晴信を殺さぬ」

「敵味方入り乱れての大乱戦になれば、不殺のおきてなど守れないぜ、景虎」

「……つまりはわたしと互角に戦えると、晴信に思われているのだな」

「もうひとつの理由は、お前を怒らせて上田まで深入りさせるためだ、景虎。戸隠山で晴信と出会ったことは、お前にとっては不利に働くだろう。そして、晴信にとっては有利に働く――晴信はお前のように甘くはない。お前に純粋な友情を感じていようとも、いざ合戦となればその自らの感情をも戦略の駒として用いることができる」

 それでこそ武田晴信だ、と景虎は思った。が、晴信が自分を倒すという気概をき出しにしてこないことが不満だった。

 二人が戸隠山で偶然出会ったことを景虎から聞かされた宇佐美定満は、それ以来、ずっと浮かない顔をしている。景虎に同性の、しかも同じ姫大名という立場にいる友人など、滅多にできるものではないからだった。越後には、景虎を除けば姫武将はいないのだ。ようやく出会った親友と、即座に合戦をはじめなければならない景虎の心を思うと、宇佐美の胸は晴れなかった――。

 しかも、父を救うことから義戦の道を歩みはじめた景虎と、父を追放することから野望の道を歩むことになった晴信とは、決して相容れることはないだろう。

 この川中島での対陣は、もしかしたらこれから何度も繰り返されることになるかもしれない、景虎の志も晴信の野望もなにもかもが川中島というこの狭い盆地に閉じ込められることになるかもしれない、と宇佐美は危惧していた。

「……あの女は……わたしの義の戦を否定した。わたしとともに地上を歩む道を拒絶した。わたしを戦場で破って、現世の理というものをわたしに知らしめるつもりなのだ。ならばなぜ、自ら出てこない。わたしと戦うと言ったのは、口だけか」

「だから、景虎。そうして怒っている時点ですでに、お前は晴信の手のひら

の上だ」

 子供扱いされているのか、と景虎は憤った。

 景虎は越後国内では無敵の神将だったが、越後の外へ出て異国の兵と本格的に戦うのは、これがはじめてである。

 対する晴信は、この信濃で何度も村上義清や小笠原を相手に激戦を繰り広げてきた。

 地の利は、圧倒的に晴信にある。

 あるいは、「人」に関しても――。

 諜報を担当する直江大和と剛勇無双の長尾政景。あの二人がいれば、と景虎は思ったが、直江大和は兵站へいたんを維持するために後方部隊を率いている。長尾政景は越後上田に残してきた。信濃の上田と越後の上田。同名故に少々煩雑だが、越後上田は越後から関東への玄関口である。政景と綾の長子の命が、尽きつつあった。そのために景虎は、政景を招集できなかった。政景の代わりに、北条高広と柿崎景家を招集したが、北条高広は「関東遠征に続いて信濃遠征にまで繰り出されるとは……わたくしは関東担当ではなかったのですか。せめて武田方から奪った土地を越後の諸将に恩賞として与えてくれねば、とてもやっておられぬ」とはじめから不満顔である。

 武田晴信は、合戦で奪った土地を惜しみなく次々と諸将に分け与えるのだという。それ故に晴信は、父・信虎ですらなれなかった「甲斐の絶対的な主君」となれたのだろう。

 早くも上杉憲政・長尾政景・北条高広ら「関東遠征派」と、小笠原長時・柿崎景家ら「信濃遠征派」とに分裂して対立しはじめている越後とは、あまりにも違う。宇佐美定満と直江大和が、両派閥の間に入って調整に奔走しているが、「領土も奪わずして二正面作戦は不可能だ」という両派閥の意見はもっともであり、景虎も苦慮していた。「領土を奪わない」という景虎の誓いに頑強に反対する大熊朝秀のように、いっさいの外征に異を唱える者もいるのだ。

 しかし晴信の振る舞いは、潔癖な景虎にしてみれば、他国を侵略する下克

上行為であり、明らかな「泥棒」であった。晴信は甲斐の国主にすぎず、信濃の守護は……下品で短慮な男とはいえ……小笠原長時なのである。その小笠原長時を放逐して信濃を切り取り続ける晴信を、景虎は捨て置けない。

「武田軍だ。七千はいるぞ、景虎」

 宇佐美定満が声をあげ、村上義清がうなずいた。

 犀川を渡り終えた――布施に、「風林火山」の軍旗を見つけだした。

 諏訪太鼓の音が、鳴り響いている。

 武田軍がいっせいに動きはじめ、陣形を変更する――。

「景虎。戦は、鬼ごっこじゃないぞ。長尾政景と内輪もめをしていた時とは訳が違う。相手は、甲斐から遠征して全信濃を平定しようとしている武田晴信だ。武田家は甲斐の守護の家柄だが、もはや守護大名じゃない。他国切り取り放題、下克上上等の――戦国大名、と考えろ」

 宇佐美定満が「戦国大名」という言葉を口にした時、景虎の細い肩がぴくりと動いた。

 武田軍と戦い続けてきた村上義清は、越軍の誰よりも武田軍の陣容に詳しい。それぞれの旗印を見るだけで、布陣がわかる。

「ご主君。敵先鋒は諸角豊後。信虎時代からの老将だが、俺同様、いささかも心身に衰えはない。諸角隊の背後には、武田の副将・武田信繁。晴信の妹だ。諸角は信繁の守り役だ、信繁の盾となるべく気力を充実させている」

「村上。お前はかつて武田四天王のうちの三人……板垣信方と甘利虎泰、そして横田備中を討ち取った。諸角がそれほどの大物であれば、なぜ武田四天王に繰り上がらぬのか」

「晴信は、先代に仕えてきた男武将よりも、自らが抜擢し育成した姫武将を新たな四天王としたい考えだ。姫武将ならば、忠義心と恋愛の情とを混同して武田家主君の座を脅かす恐れがない。かりに恋にちても女同士であれば、子を成す可能性がないのだから、晴信が主君の座を乗っ取られることはない……姫大名という不安定な立場を守るためという目的は同じでも、方法はご主君とは逆だ。水と油だ」

「村上。女同士で恋に墜ちたりなど、するものか。だが、晴信らしい。自分を脅かす者ははじめから近づけねばよい、というその用心深さが」

「いずれにせよご主君のほうに勝機はある。旗印を見るに、四天王最後の一人にして最強の姫武将・飯富虎昌がこの布施の戦場にはいない。ほんものの晴信とともに塩田城に籠もっているようだ。山本勘助の姿が見えぬのが不気味だし、こちらも越後最強の突破力を誇る猛将・長尾政景を欠いているが、政景の役は俺が担おう」

 村上。その必要はない、わたし自身が柿崎とともに先陣を切る、と長尾景虎は答えた。驚くほどに、そっけない、即断だった。

「わたしは武田晴信と約束したのだ。決戦をして勝敗を明らかにする、と。わたしの王道と晴信の覇道、いずれが正義か、わたし自身が証明する」

 村上義清が思わず宇佐美定満に「越後の国主が、この武田軍とのはじめての交戦で先陣を切るなど、あまりに無謀すぎる。軍師として止めぬのか」と問うたが、宇佐美定満は「止めて止められるものじゃねえ。これが越後流さ」と苦笑いするばかりだった。

 先陣を切った中央に、長尾景虎と、柿崎景家。

 左翼に、本庄繁長ら揚北衆あがきたしゆう

 右翼に、北条高広。

 相手が何者であろうが、景虎の戦は常に「一撃決戦」主義であり、そこにはいっさいの迷いがない。

 長尾景虎が討ち死にする時が、越軍が敗北する時なのである。

 自らの保身のために家臣団を的にしたり餌にするような卑劣な戦いはせぬ、と景虎は決めている。

 それが一国の主として、やってはならない非常識であろうとも。

 わたしは武田晴信とは違う、と。

 容赦なく、突進した。

 いきなりの総攻めを前にした武田軍はいささかも動揺することなく鶴翼かくよくの陣形を取ろうと動くが、景虎は駆け続けた。川中島の平原に雨のように飛び

交う矢も鉄砲弾も、景虎には当たらなかった。

 速い、と村上義清は息を飲んだ。

 景虎は小柄である。背が低いだけではない。驚くほどに体重が軽い。しかも、重いよろいを着ることもない。それ故に、景虎を乗せた馬にしてみれば、誰も乗っていないかのように軽量なのだ。

「しかし。まっしぐらに敵中へと突き進んでいるが、良いのか宇佐美!?」

「景虎が突こうとしているあそこが敵陣の『穴』ということだ! 者ども、景虎に遅れるな! 蹴散らせ!」

「穴、だと!? なぜ瞬時にそれがわかる? 武田軍が敷いている堅陣の中に、俺には、穴など見えぬ!」

「俺もさ、村上の旦那。景虎を動かしているものは軍学じゃねえ。あいつは生まれながらの戦の天才だからな――毘沙門天びしやもんてんの化身を気取るのだけは、そろそろやめてほしいんだが、あいつには敵陣の穴が、隙間が、『見える』のさ」

 そんなことが人間に可能なのか。それがまことなら、ほんとうに神がかりではないか、と村上義清は呆れ、衝撃に打ち震え、そして「ご主君を散らさせはせぬ」と槍を構えて突進していた。

「おおお。景虎さまが突撃なされる。柿崎勢も一気に行くぞ! むうううん。南無阿弥陀仏!」

 柿崎景家が、遅れてはならぬとばかりに、続いた。

「うわはははは! 北条氏康に矛先をかわされて逃げられた鬱憤うつぷんを、この川中島で晴らしてくれるわ!」

 相変わらず柿崎の旦那は戦場に出ると人変わりする、と宇佐美がまた苦笑した。

 武田の先鋒、諸角豊後隊のわずかな「死角」を、景虎は突いた。

 景虎率いる全軍は、八千。しかしこの八千が、自ら主力決戦の先頭に立つ景虎にとってはもっとも扱いやすい兵数であった。

「なんと!? 速すぎて、見えぬ!? 長尾景虎。噂以上の神将であったか!? 

やらせはせん、次郎さまをやらせはせんぞおおおお!」

 諸角豊後の老いた叫び声が戦場に木霊こだました時にはもう、景虎率いる五百の精鋭騎馬隊によって、諸角隊は崩れはじめていた。

 やはり、この布施に陣取っていた武田晴信は影武者らしい。武田軍は決戦を覚悟していたようだが、それにしてはあまりにも手応えがなさすぎた。村上義清を破ったほどの晴信が、これほどもろいはずがない。総大将は、影武者の逍遙軒なのだろう。そして逍遙軒はどうやら、見極めがよく、逃げ足が速い。殿を務めることが得意な姫武将らしい。

 諸角豊後の首などは盗らないし、諸角隊の足軽たちを殲滅せんめつする真似もしない。景虎は迷わずに、第二陣へ――次郎こと武田信繁の陣へと直進した。景虎にとって「勝利」とは、敵将の首でもなければ、足軽たちの命でもない。敵陣を壊乱させ、潰走かいそうさせ、そして降伏させれば、それが勝ちなのである。「義」を守る、「義」を破らぬ、と誓わせれば、そこで戦が終わるのである。敵味方の兵の命が散っていく光景を、景虎は、見たくはなかった。可能な限り避けたかった。「義」のために戦えば戦うほど、「命」を散らさねば合戦は成立しないという矛盾が、大きくなる。勝利の快感は、命を失っていくという哀しみによってたちどころに吹き飛ばされてしまう。しかしそれでいいのだ、と景虎は思った。勝利の快感などにかれてしまえば、それでは、武田晴信となんら変わらぬ――。

「……あれが……あの子供のような小さな姫武将が、長尾景虎……!? 総大将が、先陣を切って、一気にここまで……!? 嘘でしょう……?」

 丘の上に、武田信繁の姿が、ちらりと、見えた。

 晴信とよく似ている。やはり、姉妹なのだ。

 しかしすでに信繁は馬上の人となり、「次郎さまああ! ここは拙者にお任せあれ!」と諸角豊後に追い立てられて退却をはじめていた。

「でも諸角。あまりにも一方的すぎる。このまま引き下がっては、まるで大人と子供の戦いだわ。姉上に面目が……」

「いいえ! 次郎さまが討ち死になされてしまっては、この諸角の面目が立ちませぬ! 御屋形おやかたさまは言うまでもなく、川中島の死守よりも次郎さまのお命のほうを選ばれておられます、もしも越軍が噂通り村上義清以上の強敵であれば、必ず次郎さまと孫六さまを戦場より逃がせと仰せつかっております!」

「……長尾景虎……無敵不敗の、神将……毘沙門天……あなたが、姉上の心を、わたしから奪ったのね……許せない」

 背を向けて逃げていく信繁と、ほんの一瞬だけ、視線が合った気がした。

 去りゆく信繁から、凄まじい憎しみの情を、景虎は、感じ取っていた。

(憎まれている!?)

 これほどの憎しみを、景虎は他人から受けたことがなかった。

 馬上で身体が一瞬、硬直した。

 だが、この合戦は景虎がはじめたのではない。

 武田晴信が北信濃を奪い取ろうとしなければ、この戦もなかった。

 武田晴信は、合戦に、勝利に、他国の城と領土を奪い取る悪行にいんしているのだ、と景虎は憤った。しかしこの憤りが怒りになり、怒りが殺意になれば、わたしもまた合戦に淫する一人の武将に堕してしまうのだ……。

「……琵琶びわを持ってくれば、よかった。琵琶の音は、わたしの心を静めてくれる」

 殺伐とした戦場のまっただ中を駆けながら、景虎は布施から敗走しはじめた武田軍を「追撃」すると宣言していた。

「足軽は打ち捨てよ。首はるな。川中島より武田勢を一掃できればそれでよい。そしてそのままわれら越軍は――善光寺平を出て、千曲川沿いに、上田まで進撃する。ほんものの武田晴信は、そこにいる」

 北条高広からの使者が、景虎に「川中島の南の入り口にあたる塩崎城を是非ともそれがしに。それがしが入り口を塞げば、武田軍はもうおいそれと善光寺平には出てこられませぬ」という北条高広の言葉を伝えたが、潔癖な景虎は「北条。お前も、勝ち戦に淫するのか」と思わずかっとなって「塩崎城はもとの城主に返す」と突っぱねていた。戦場での容赦ない命のやりとりは、

景虎の繊細な精神をやはり、興奮させているのだった。

 武田軍は布施から撤退し、塩崎城をも放棄し、善光寺平から上田へと退却していく。一方的な負け戦にもかかわらず、見事な退陣ぶりだった。あの「上田原の合戦」以来、武田軍は死地に追い詰められてもなお動揺せずに踏みとどまる胆力を得たらしい。「負け慣れ」している。局地戦での敗北などは巨大な晴信の戦略の中ではさほど重要ではない、と足軽までもが理解している。

 恐るべきは武田晴信のこの統率力だ、と景虎は思った。

 武田軍の諸将も足軽たちも、目の前の戦の勝敗に一喜一憂しない。

 武田晴信の戦い方を、みなが身体で理解し覚えているかのようだった。

 あまりにも、越軍とは違う。

 実のところ、まだ合戦が終わっていないにもかかわらずすでに「城をよこせ」と言いだしている北条高広のほうが、本来の国人豪族の姿であり常識なのだ。景虎が「義の戦」を掲げるあまりに、越後の国人たちはかえって我欲を抑えられないのかもしれない。晴信は「恩賞」を必ず与えるが故に、武田軍の諸将は無私の心で戦えるのかもしれない。

(わたしが祝言を五年先に延ばしたと同時に、わたしに懸想する男が増えたのも、同じことなのかもしれぬ)

 人の心はまことにとらえがたく難しい、と景虎は馬上で唇をんでいた。

 ようやく追いついてきた宇佐美定満が「深入りはするなと村上の旦那も言っただろうが!」とついに景虎を止めたが、景虎はうなずかなかった。

「宇佐美。わたしは武田晴信よりも強い。手合わせしてわかったが、越軍は武田軍よりもずっと精強だ。しかし、武田軍には負け戦を乗り越える執念と堅い規律がある。やはり武田晴信自身を破らずして、武田軍の北上は止められない。局地戦で善光寺平から武田軍を追い払うだけでは、わたしと晴信の川中島での戦いは堂々巡りになる」

「……そうか。追いかけるか、武田晴信を。結局は、鬼ごっこだな」

「わたしが信濃に留まっていられる時間は少ない。急ぐぞ」

「景虎。やっと同性の友ができたというのに、お前も、因果な運命だな……」

「宇佐美。わたしの友は、あくまでも『神見しんけん』だ。信濃全土を奪い取ろうとしている武田晴信は、友などではない。倒すべき、敵だ」

「……しかし武田晴信を憎むなよ、景虎。憎しみは憎しみを生み、その憎しみは連鎖する」

「わかっている。だがすでに、晴信の妹には、わたしは相当に憎まれているらしい」

「妹、か。あの信虎が家督を譲ろうとした次郎信繁だな。黙って家督を受け取ればいいものを、家督を姉に譲ってともに父親を追い出したという、相当に奇矯な妹だ。それほどに、姉の晴信を愛しているのだろうな。お前に、嫉妬しているのかもな」

「……わたしの姉上とは、違うのだな……政景の妻となり、母親になった、姉上とは」

「そう言うな。綾さまだってお前を愛していたからこそ、政景に嫁いだんだ」

「……だとしても……今の姉上は、もう」

「姉と妹とは別々の人間なんだぜ、景虎。お前と綾さまの関係のほうが、正しいんだ。信繁は……どこかで、永遠に晴信の『影』としてしか生きられぬ道へと、はまり込んでしまったんだ。おそらくは二人で手を取って、父親を追放した時からな」

「……影、か。だが、片方が影だとしても、きっと……二人は、幸福なのだと思う。わたしは、武田家の姉妹が……羨ましい」

「……景虎……」

 ああ。やはり晴信は、わたしが手に入れられなかったものをなにもかもすでに手にしている、と景虎は思った。心が痛んだ。この上、なおも信濃の横領を望むなど。

「後方から、直江の野郎が『さっさと退陣しろ』としつこく使者を送ってくることになるな。京に上るならば、小笠原流の修行も琵琶の練習も、急いで積まねばならねえからな。景虎。オレは直江の野郎とは気が合わねえが、あいつのこの意見にだけは賛成だ。お前には……殺伐とした血生臭い戦場よりも、華やかな都こそが、よく似合う」

 宇佐美定満が、目を細めながら、つぶやいていた。


 武田の先鋒隊が布施での会戦で越軍に敗北し、善光寺平を離脱して上田へと退却してきたことによって、塩田城に本陣を構える武田晴信陣営は騒然となった。晴信、信繁、塩田城の城代に任じられた飯富虎昌、そして山本勘助の四名を中心に、軍議が開かれた。

 山本勘助は「戸隠での長尾景虎との邂逅を奇貨として、景虎をだま手懐てなずけておけばよかったのです御屋形さま。あの者は、人の言葉にまことと嘘があるということを知りませぬ。騙そうと思えばどうにでも騙せ、操ろうと思えばいかようにも操れたものを。どうせ、上杉憲政のような青二才などに操られて関東管領家再興などという不可能な道に引き込まれ、惑っている者でありますのに」と深いため息をつきながら、上田の地図を広げている。

「上杉憲政のようなすでに命運の尽きたいにしえの世の亡霊ではなく、御屋形さまとともに今の世を生きる道を選ばせてやったほうが、長尾景虎にとっても幸福でありましたろうに」

 戦略と謀略によって景虎との合戦に「勝つ」ことにはいささかの躊躇ためらいもないが、あたしは景虎を人として騙して利用したくはない、と晴信は勘助の言葉を突っぱねていた。

「長尾景虎とは、戦って勝たねばならない。戦国の世で最強を名乗るためには、あの者と合戦し、そして、勝ちを収めねばならない。騙して利用することはできるだろう。あの者の心はまるで赤子だ。だが、それは勝ちではないのだ勘助」

「……面倒な者に魅入られましたな、御屋形さまは……諏訪氏も関東管領も戸隠も善光寺すらも御屋形さまにとっては克服すべき旧勢力でしかないというのに、よもや、越後の毘沙門天に憑かれるとは……早く婿を取って身を固めないから、かような者に魅入られることとなったのですぞ」

「武田が海を手に入れるためには、越後へと北進するか、今川義元を裏切って駿河へ侵攻するかしかないではないか、勘助。長尾景虎が率いる越後よりも、駿河のほうが奪いやすそうではあるが……太原雪斎たいげんせつさいに父上を殺させることになろう。あたしは父殺しの女となってしまう。ならば越後だ」

「……いずれは越後を取るとしても、ですな。景虎が関東遠征に引き込まれつつある今は川中島など放置して、北条と景虎とを噛み合わせておけばよろしいのです。関東遠征の泥沼に景虎が足下まで突っ込んでいるその隙に、春日山城まで進めばよろしいのです。それを……越後の見せ兵を蹴散らし、ついには景虎自身を川中島に引き込んでしまうなど。これでは、北条氏康が喜ぶばかりですぞ」

「いや、勘助。村上義清を討ち漏らして越後に亡命させてしまった時点で、こうなることは確定していた。あの者は……長尾景虎は、『義』を掲げて関東・信濃での二正面作戦を本気でやるつもりだ。われらとは、行動原理が違うのだ。戦いを避けることはできない」

 布施から兵を率いて上田へと帰還してきた次郎信繁はこの軍議がはじまって以来じっと押し黙っていたが、ついに耐えきれなくなって口を開いていた。

「姉上。ならば堂々と越軍と決戦するべきよ。川中島で無駄に時を浪費してしまってはならないわ。姉上は、もっと冷静な人だったはずなのに。長尾景虎のことになると、目の色を変えてまるで我を忘れてしまう。戸隠であの女と出会って以来……姉上は、口を開けば長尾景虎の話ばかり! 景虎に憑かれているとしか思えないわ!」

 晴信が戸隠山から戻って以来――あれほど仲睦まじかった晴信と次郎信繁の関係にひびが入っていることを、軍師勘助は察し、そして案じていた。晴信自身が抱く野望は、なにも変わってはいない。だが、景虎を「兄から家督を奪った偽善者」と罵ることはなくなっていた。「あたしが持ち得ることのできぬものを、景虎は持っている。なんとしても合戦で、あたしは景虎に勝ちたい」と、むしろ景虎という姫大名への尊敬の念を隠さなくなった。戸隠で、なにかが、あったのだろう。あるいは、なにもなかったのかもしれない。

ただ、ほんものの長尾景虎という少女を知ることで、晴信は一回り大きくなったように、あたかもさなぎからちようへと一段階成長したように、勘助には見えた。今までの晴信は、父親を甲斐から追放したという負い目を正当化するために、ほとんど狂犬のように戦い続けてきた。その結果、四天王のうちの三人までもが戦場で命を落とすことになったのだ。しかし、己と真逆の価値観を掲げて戦う景虎と出会ったことで、晴信の野望はより大きな「理想」へと進んだかのように思われた。

 勘助が見たところ、信繁は、晴信に自分が置いていかれるのではないかという恐怖を味わっているようだった。もはや晴信には自分は必要ないのではないか、と。

 きょうだいとの縁などすでに失って久しい孤独な勘助には、そんな妹・信繁の戸惑いもまた、美しくそして貴重なもののように思われた――。

 だが、感慨に浸っている余裕は勘助にはない。

 すでに越軍は善光寺平南部・川中島地帯を武田方から奪い返し、善光寺平における武田方の拠点・塩崎城を落城させ、そのまま上田へと進軍を開始している。それどころか越軍はすでに、千曲川を挟んで葛尾城と向かい合った上田における西の拠点・荒砥あらと城を奪っていた。塩田城までの距離は、およそ十五キロしかない。

「信繁さま、御屋形さま。軍議に戻りまする。越軍は、上田における最高の要地である葛尾城がすでにほぼ破却されていることもあり、また景虎の上洛を控えている以上信濃に留まれる時間はあと二週間ほどしか残っておりませんので、決戦を求め塩田城へと攻め寄せるでしょう。千曲川沿いに越軍が荒砥城より塩田城まで進軍する途中を、叩きます。決戦は、かつて村上義清と戦った、上田原となりましょう。南の塩田城よりわれら本隊が逆落としをかけ、北側の真田本城に籠もっておる真田幸隆どの率いる別働隊が越軍の背後を襲います」

 勘助は、晴信の意識を合戦へと引き戻すべく、とうとうと述べた。

「布施での合戦において、越軍の戦い方はおおむねつかみました。長尾景虎は

一撃決戦主義を取り、自ら先頭に立って野戦を指揮するという異様な戦術を用います。景虎が討たれればそこで全軍が瓦解するという諸刃の剣の如き危険な戦術ですが、景虎が討たれぬ限り、越軍の将兵どもはみな死兵となって戦い続けることに。しかも、越軍の部将格の者たちは、まず討たれることはありません。敵の攻撃は、長尾景虎に集中するのですから。総大将が自ら敵を引きつける的となる故に、足軽の損耗も最小限に食い止められまする――」

「まったく、非常識きわまりねえな。勘助。そんな真似をして、景虎はなんで死なないんだ? 総大将が一騎駆けしてきたら、普通は生きては戻れねえぜ。戦場はそんなに甘くねえ。それとも越後では景虎に弓をひけるヤツがいねえってことか? あたしたちは違うぜ」

 四天王最後の一人。赤備えを率いる飯富虎昌が、いなごの佃煮つくだにをかじりながら呆れ顔で尋ねてきた。

「ははっ。景虎と直接戦闘した信繁さま、および、諜報役を務めた猿飛佐助の報告によれば……」

 信繁が唇を噛みながら、自分が戦場で見たありのままの景虎の姿を晴信に告げた。

「景虎は小柄。的が小さく、その操る馬の動きは信じがたいほどに速いわ。景虎自身が避けようとせずとも、馬が勝手に矢を避けてしまう。種子島たねがしまの弾を当てようとしても、間に合わない。よほど大量の種子島を準備して弾幕を張らない限りは」

「そういうことのようですな。だが、恐るべきは長尾景虎自身、自分に弾も矢も当たらぬと信じていることです。当たれば、その時は、自分は毘沙門天の化身ではなかった、それだけのことにすぎない、と……豪胆というよりも、凄絶な覚悟がございますな、あの姫武将には。ともあれ、景虎を絶対に討たせてはならない、と越軍の男どもが異様な戦意を持って打ちかかって来るのです。こういう戦を『聖戦』というのやもしれませぬ。命を惜しむ武士の戦というよりも、死ぬために戦う一揆衆いつきしゆうの戦いに近い。しかも、越後兵の練度は高く、優れた体力を誇り、景虎の戦術眼には天性のものがあり、まさに最強。結果、越軍の兵はほとんど命を落とさぬのです」

 あれはまさしく戦の天才。景虎を守る越後の将兵どもも、まことに屈強。正面から堂々の野戦を挑めば、武田軍に勝ち目はありませぬ。いや、日ノ本の誰も景虎を一撃決戦で打ち破ることはできますまい、と勘助は告げた。

「それ故に上田原へ誘い出して、北の真田と南の塩田城から挟撃、か。考えてみれば、あたしの生涯初の敗戦は、村上義清と正面からの決戦を挑んで狭い上田原に釣り出されたことからはじまったが……果たして武田の将兵を損じずに越軍に完勝することができるか、勘助」

 村上との合戦のように次々と将を討たれ兵を損じるようでは、目先の勝ちを拾えたとしても長尾景虎との戦いはとても継続できぬぞ、と晴信は目を細めていた――長尾景虎自身が武田兵に討たれて戦場のむくろと化す光景を、晴信は想像したくないらしい。それは願望なのか、あるいは冷静な予測なのか、勘助にもわからない。が、勘助よりも、晴信のほうが長尾景虎という少女を知っている。理解している。

「景虎には、なにぶん時間がありませぬ。必ずや上田原へ引き出せるはずでありましょう」

「しかし勘助。長尾景虎は戦場では無類の勇気を誇るが、無謀な猪武者ではない。敵味方の将兵の命を無益に散らすことを嫌っている。いくらあたしとの決着をつけたくとも、真田本城の別働隊の存在に気づけば、容易には出てこないだろう」

「……上田原へ引き込めねば、こたびの合戦は水入りとなってしまいますな。そうなれば……われらは第二回川中島の合戦を戦わねばならなくなりましょう。長尾景虎相手に確実に勝ちを収めるには、たしかに、時間をかけ調略を重ねるべきかと存じますが……できることならば、この一戦で」

 晴信自身も、村上義清との相次ぐ死闘による将兵の消耗、そして真田忍群を駆使しての電撃的な砥石城といしじよう攻略を経験し、さらに景虎と出会ったことで、以前よりもさらに慎重かつ確実な「勝ち方」を望むようになっていた。勘助も同じである。万が一にも、晴信のたいせつな妹である信繁や逍遙軒孫六、あるいは弟の太郎義信が討ち死にしてしまうようなことがあってはならない。それでは、真の勝利とは言えない。

 しかし、長尾景虎という戦の天才を前にした二人は、犠牲なき勝利を越軍から奪い取る困難さを痛感していた。

 勝つためにはどこかで「賭け」を為さねばならないが、その賭けに敗れれば多くを失う。

 問題は、その見極めどころ、だった。

「勘助。次郎。時間がなくて困っているのは、越軍のほうなのだ。今は動かず、一週間ほど、待つ。それでなお越軍が荒砥城から動かねば、越軍を上田原に引っ張り出すための策を講じる」

 晴信は、勘助に告げた。すべては長尾景虎に、この膠着こうちやく状態を一週間耐え切る胆力と忍耐力があるかどうかだ。景虎の戦は、速戦主義だ。景虎は野戦で敗れた経験がない一方、長期にわたる攻城戦は苦手としている。景虎には……長期間、陣中に留まる体力が、おそらく、ない……。

 晴信の言葉の歯切れが、悪くなった。心を痛めているのかもしれない。勘助が「生まれながらにお身体がお弱いのでしょう」と思わずうなだれ、信繁が「姉上。それがわかっているのならば、迷わずにそこを突くべきよ」と頬を赤らめて晴信を叱責するように声をあげた。信繁が頬を赤らめているのは、恥ずべきことを口走っている、と自分でもわかっているからだろう。

「次郎。それでは勝ちとは言えないと、言っただろう」

「それでも。長尾景虎の義の戦にいつまでも付き合い続けてはならないわ、姉上。それは、姉上の夢を、志を、阻む結果になってしまう。わたしにはわかるの。姉上と長尾景虎とは、川中島という閉じた土地に縛られてしまったのよ。そして、お互いにお互いを追いかけながらいつまでも捕まえられない、そんな堂々巡りがはじまろうとしている。そんな気がするの……」

 景虎はちっこいがえらく短気だって言うじゃねーか。だいじょうぶ、すぐに攻めてくるだろう、と飯富虎昌がおどけた。緊迫した軍議でこういう間抜けな言葉を吐く役目は太郎のものなのに、あいつが留守居役だなんて。まったく。御屋形さまはどういうつもりなんだ、と飯富虎昌は憤っていた――。


 荒砥城と塩田城とに入った越軍と甲軍とがにらみ合ううちに、一週間が過ぎた。

 開戦以来、すでに三週間のうち二週間を費やしている。景虎に残された時間はあと一週間しかない――。

 だが、景虎は上田原には出てこなかった。

 あちこちに小さな傷を負った猿飛佐助さるとびさすけが、塩田城にほど近い別所の湯に顔を出し、温泉に浸かって体力を温存していた晴信に「危うく全員討たれるところだったでござるよ」と荒砥城奇襲の失敗を告げていた。

 晴信は「……景虎よりもあたしのほうが先に体力切れになりそうだわ」とき込みながら、佐助に南蛮渡来のバナナを放り投げて、「よく生還したわね」とねぎらいの言葉をかけた。

 今は軍議の席ではないので、武士らしい言葉遣いを用いなくてもよい。

 越軍と至近距離から睨み合いを続けたこの一週間、まともに寝ることもできなかった。景虎は「体力」が持たないらしいが、自分は「精神力」のほうが先に疲れてしまうらしい、と晴信は気づいていた。

「うきゃ。かつて真田忍群総出で村上どのの砥石城を落とした時とは、訳が違いましたな。御屋形さまの戦い方はすでに見切られておりまして、はじめから城内で鳶加藤とびかとうどのに霧隠才蔵きりがくれさいぞうどのといった戸隠忍びの実力者が待ち構えておりましてな。村上どのが、必ず武田は膠着を破るために忍びを用いて奇襲してくると最初から訴えていたようで。うきゃきゃ」

「いちど使った手は二度と通じないということね。でも、これで荒砥城に籠もる越軍の将兵たちはあたしの挑発を侮辱と受け取って激怒しているはず。景虎といえども、上田原へ進軍するしかなくなるはず……」

「うき。そうはなりませんな。越軍は動きませぬ」

 好物の果物を頬張りながら、佐助が笑った。

「どうして?」

「婿取りとまつりごとに関しては景虎どのは子供のようなものでして、諸将が常に景虎どのを巡ってああだこうだと反目し合っておりますが、こと戦に関してだけは別でござるよ。不仲で協調性のない越後の男武士どもがみな、景虎どのは軍神であり毘沙門天の化身であると信じておりまして、戦術についてだけは決して景虎どのに逆らわぬのでござる」

「佐助に子供扱いされるとはね……でも戦に関しては、越後では景虎は絶対神のような存在だということ?」

「そのようでござる。布施での合戦でも、村上どのを蹴散らした武田軍を完璧に打ち破って敗走させましたからな。景虎どのはまともに軍議も開かずに、戦場でのひらめきだけで采配をふるうのですから、拙者としては諜報を行っても大成果を手に入れるのは難しいでござる。その上、城に潜入して奇襲をかけようとすると、才蔵どのたちが待ってましたとばかりに押し寄せてくる。たまりませぬな。うきゃ」

「真田本城に隠れている真田幸隆はどう言っているの?」

「忍びをいくら操っても、長尾景虎どのには勝てないでしょうね、と。なにしろあちらには鳶加藤どのたちがおられますので、相殺し合ってしまうでござる」

「村上義清は鳶加藤を味方にしていながら、敗れたわ」

「村上どのは武辺一辺倒でしたからな。長尾景虎どのもまた武辺者ですが、しかし越後には直江大和どのという切れ者の宰相がいて、そのお方が忍びを縦横に用いているそうなのですな……越後に根付いている軒猿衆のきざるしゆう、鳶加藤どの率いる戸隠忍び、それらを自在に用いるえらく冷酷な宰相なのだとか」

 敵の暗殺だけは景虎どのによって禁じられているので、やらかしませぬが、景虎どのの知らぬところではいろいろと動いている模様、こちらの忍びの動きはおおむね見張られていると考えるべきでしょうな、と佐助。

 ずいぶんと楽しそうね……と晴信はため息をついた。

「あなたは明るくていいわね。武田家の誰よりも長生きしそうだわ」

「いやあ、これほどの戦巧者同士の戦いに加わって最前線で見物できるとは、

忍び稼業とは面白いものでござる。直江大和どのは、戸隠山の石を用いて異形の忍びを大量に作れと景虎どのに進言しているらしいでござるが、景虎どのはもちろん」

「そんな非道な真似はしない、と拒否しているわけね。石に適応できなかった子供はみな死んでしまうから」

「ということでござる。もしも景虎どのが石を用いたら、戸隠と真田の忍びの力の均衡は即座に崩れまするな。さすれば武田が負けるでござる。にんにん」

「……真田忍びの力を用いての『景虎暗殺』は可能かしら」

「やる気もないのに、悪人ぶりたがりますなあ。憧れのお方を暗殺など、御屋形さまにできますかな? うぷぷぷ」

「い、一応、聞いてみただけよ」

「不可能ですな。あれは破邪の瞳の持ち主でござる。戸隠忍びも真田忍びも、かの石から力を引き出された者どもの……忍びの異形の力は、景虎どのにはいっさい通用しませぬ。鳶加藤どのも。拙者の猿飛の術も。双子の以心伝心の術も。景虎どのの目に睨まれただけで、瞬時に破られますなあ」

「それでは、まるでほんものの神の化身じゃない」

「だからこそあの癖の強い鳶加藤どのもひとまずはおとなしく仕えているのでしょうな、うきゃ。いつまで続くかは知りませんが。もぐもぐ」

「……鳶加藤が景虎の命を狙ったり……貞操を奪ったり……ということにはならないでしょうね?」

 鳶加藤どのも一応は「男」であれば、その可能性はないとも言えないでござる、鳶加藤どのを消しますか、うきゃ、と佐助が戯けた。晴信は「ええ。あたしと景虎との戦いをそのような形で汚されるのは、許せないわ。もしも鳶加藤がそのような気配を見せれば、殺しなさい」と佐助に乗せられて思わず口走り、そして頬を赤らめていた。

「承り候。ただし、今のところはそういう危険はなさそうでござる。鳶加藤どのは今、直江大和の命令で景虎どのに護身のために『気』を操る体術を教えているでござるよ。景虎どのは、普通の忍びであれば何十年もかかるはずの体術を、数日ですらすらと会得してしまうとか。このままでは近いうちに、忍びの術のみならず、武士が用いる剣術も景虎どのにはいっさい通じなくなりそうですな」

「『気』を操る体術? 聞いたことがないわね」

「うき。まともな武士は用いませぬし、使いませぬ。戸隠・飯縄の修験道に源流を持つ信濃の忍びが用いまする。どう言えばいいのか……敵の『力』の流れを自分の身体に直撃させずに、逸らしてしまう技ですな。動きの速い矢や弾にはまず効きませぬが、拳や蹴り、刀や槍による直接攻撃にはかなり有効でござる。相手を殺すための術というよりも、自らが生き延びるための術ですな、うき」

「佐助も使えるの?」

「戸隠と真田の忍びはみな、多少の心得は。しかし景虎どのは特別な才能の持ち主らしく、これまで誰も到達したことのない高みに昇りつつあるとか。どうやら景虎どのは、この天と地とそして生き物の身体に流れる――『気』の流れを、肌で感じることができるらしいのですなあ。まことに不思議な娘さんでござる」

「そう……真田本城に潜ませている伏兵の存在も、景虎は『気』で感じ取っているのかもしれないわね。だとすれば、どれほど挑発しても、決して越軍を上田原には釣り出せない」

「景虎どのは敵陣を見ただけで、攻略できる箇所があればすぐに見出すことができるらしいですが、それも敵陣から立ち上る『気』を見ているのかもですなあ」

「勘助のような軍師も、戦場で『気』を見るという表現を使うことはあるけれど、景虎の場合は桁が違うということね……ほんとうに、『気』を感じ取れるのだわ。そのような神将が率いる越軍を、どうやって倒せばいいのかしら」

「御屋形さまにできる方法で挑むしかありませんな。うきゃ」

 こうして目と鼻の先で睨み合っているうちに、景虎はどんどん人間の世界から遠ざかっていく、と晴信は歯がみしていた。

「……あの景虎を相手にまわしては、忍びはせいぜい諜報活動にしか用いることはできない。忍びの力で城を落とすのは不可能ということね。でも……」

 景虎に忍びの術が通じずとも、戸隠の側を揺さぶることはできるはずよ、と晴信は言った。一人で湯に浸かりながら熟考を重ねた結果、なにごとかをひらめいていたようだった。荒砥城奇襲に失敗した佐助の報告を耳にして、その閃きが、確固とした形を取ったらしい。

「佐助。越軍を破ることができるわ! 勘助を呼びなさい」

「よいのでござるか? 入浴中でござるよ?」

「勘助はなんというか、ちょっとした変人だから、四郎を連れていなければ問題ないわ」

 軍師どのは平然と温泉に呼ぶのに、景虎どのの貞操のほうを死にそうな形相で気にしている御屋形さまのほうもちょっと変わっているでござる、と佐助が苦笑しながら、姿を消した――。


 その数日後――。

 晴信め、このままわたしの時間切れを待つつもりか――と荒砥城に詰めていた長尾景虎は、直江大和との間での連絡係を務めていた霧隠才蔵から「背後にて調略が」との急報を得た。

 武田晴信が、上田原へと越軍を引き出して、塩田城の本隊と真田本城の伏兵とで挟撃しようとしていることを、景虎はすでに察知していた。

 その結果、景虎と晴信とは、目と鼻の先に位置する荒砥城と塩田城とに籠もり合って睨み合う形となった。

 この上は、晴信はなんとしてでも越軍を荒砥城から出陣させねばならない。

「晴信はかつて村上義清の最前線拠点・砥石城を落としたように、こたびも忍びを用いるだろう。むろん、荒砥城を忍びの暗躍によって落とせるとは晴信は考えていない。わたしを挑発して上田原へ呼び込むためだ」

 景虎は、真田忍群による荒砥城奇襲を、鳶加藤こと加藤段蔵を中心とした戸隠忍びたちを充てることで未然に防ぎ止めた。

 これで再び、甲越両軍は手詰まりとなった。

 上洛が迫る景虎に残された時間はあと三日もない――。

 そんな中、直江大和が、武田晴信が「調略」を用いて景虎の退路を断とうとしている動きを素早く掴んだのだった。

 塩田城の方角を睨みつつ、宇佐美定満とともに月夜を眺めながら酒をなめていた景虎は、南蛮から流れてきたという霧隠才蔵の髪や肌の色が自分に似ていることに多少驚きながらも、心は晴信の謀略にとらわれていた――。

「代々善光寺別当を務める栗田氏という国人がいる。この栗田氏は善光寺に加えて戸隠山でも別当を務めている一族だそうだ。この日ノ本では神仏は習合されており、善光寺は戸隠・飯縄の玄関口的な役割をも果たしているようだから……」

「才蔵。日ノ本の言葉がうまいな、そなたは。いささかもなまっていない。いや、そのことは今は問題ではないな。武田晴信は……戸隠と善光寺を守護する栗田氏を調略しようとしている、というのか? 栗田氏は村上義清に仕えているはずだが……こたびの合戦でも、善光寺を越軍に本陣として提供してかいがいしく働いてくれているはずだ」

「御意。その善光寺と戸隠に、晴信はくさびを打ち込んできた。善光寺と戸隠は体制が複雑で、決して一枚岩ではない。ことに、戸隠はあの一匹狼の鳶加藤が忍びとしてのずば抜けた力によって長老格となって仕切っているが、戸隠の山の神に畏れを抱かぬ不遜な鳶加藤に反感を持つ者、疑問を抱く者は多い。血筋によって戸隠を仕切ってきた栗田氏にしてみれば、氏素性の知れぬ鳶加藤が実力で戸隠忍びを動かしている現状は面白くない。それに、真田に流れた連中の多くも、鳶加藤と反りが合わなかった面々だ。佐助は少し違うが……奴は単に真田幸隆に餌付けされたサルだ」

「つまり才蔵。諏訪に続いて戸隠と善光寺をも、晴信は壊そうとしているのだな」

「御意。晴信は栗田寛安くりたかんあんという男を筆頭に、栗田氏の半分を引き抜こうとしている。栗田氏が割れれば、善光寺も戸隠も割れることになる」

 善光寺平を出てこの上田にまで進軍している越軍は、戸隠山と善光寺を封鎖されれば越後への退路を断たれるということになるな、と宇佐美定満が口を開いていた。

「そうなれば宇佐美。上洛どころか、われらは越後への撤退すら困難となるな。武田晴信め。次々と姑息な策略を練ってくる。わずか三週間の戦いにすぎなかったが、すでに忍び部隊による奇襲に、宗教者への調略と、やることが汚い。布施の陣に影武者を配置し、自らは塩田城から出てこなかったやり口もそうだ! わたしと正面から戦うつもりはないのだ、あの女は……!」

「落ち着け景虎。怒りに囚われれば、武田晴信の思う壺だ。晴信は正攻法ではお前に勝てないと知って、お前の平常心を揺さぶろうとしている」

「……わかっている宇佐美」

 今、加藤段蔵が血相を変えて善光寺に乗り込み、栗田寛安と直談判をしているところだ。今回は栗田寛安の寝返りを防ぐことができたとしても、戸隠に籠もる孤高の加藤段蔵と善光寺に棲み着いて世俗化・武士化した栗田寛安とではあまりにも合わなさすぎる。いずれ裏切る。栗田寛安を殺させるか? と才蔵が問い、景虎は即座に「殺してはならない」と首を横に振った。

「『いずれ裏切るから殺す』など、戦国の世では愚の骨頂だ才蔵。その論法を採るならば、加藤段蔵も今のうちに殺さねばならなくなる。あの男は、必ずわたしを裏切るだろう。わたしは人の心の弱さや醜さに疎いが……加藤段蔵の心が怨念と闇に支配されているであろうことだけは、はっきりとわかる。戸隠の『石』を守護するという使命感だけが、あの男を外道への道から守っているのだ」

 自らが毘沙門天の化身であると信じて義の戦を戦っているわたしにとって、あれは影のようなものだ。だからわかる、と景虎がつぶやいた。

「では荒砥城から撤退するのか、景虎? 布施ではさんざんに勝ったが、晴信率いる武田の本隊はまだ消耗していない。今、越軍が撤退すれば、荒砥城

はもちろん、塩崎城も奪回されることになるぜ。善光寺平の南部、犀川以南の川中島の一帯は、再び武田のものに」

「無念だが、いちど上洛すると約束したからには、その約束を反故ほごにするわけにはいくまい、宇佐美。直江と加藤に、善光寺と戸隠における寝返りだけはなんとしても阻止させよ」

「危険を伴うが、塩田城を落とすと触れ回りつつ、晴信の望み通りに上田原で決戦するという荒っぽい手も、ないことはないが……」

「それでは晴信の目論見通り、真田と晴信に挟撃される。たとえ勝てたとしても将兵の多くを失う。さらには、越軍が消耗したところを見計らって中信濃の深志城ふかしじようから、馬場信房ばばのぶふさが騎馬隊を率いて善光寺平へと長駆遠征してこないとも限らない。晴信が打つ策は一手だけではない。二手、三手、四手と先を読んで策を用いてくる」

「まったく軍師要らずだな、お前は。武田晴信も全知全能を振り絞って策を練っているだろうに、気の毒だ」

「わたし自身が、晴信本人をよく知っているということもあるが……師が優秀だったおかげだ。宇佐美。だが、かわいくない兎の縫いぐるみは要らぬぞ」

 耳から棒手裏剣を放つ新作を考案したのに……と宇佐美定満がうなだれた。

「景虎。こいつは、お前と武田晴信。いずれの信念が勝つか、という戦いだ。武田軍も精強だが、正面からの野戦を行えば、必ずお前が勝つ。しかしそれがわかっている武田晴信は変幻自在に策略を用いて、越軍を切り崩そうとするだろう。攻め続けるお前と、正面対決を避けて罠を張り続ける晴信。まるで碁の達人同士の勝負にも似ている。俺も直江も、お前たち二人の勝負が永遠に終わらなくなるのではないかと危惧しているんだぜ……人間の世界での時間は、あっという間に過ぎ去っちまう。人の戦いとは、時間との戦いだということを忘れるなよ、景虎」

「時間との戦い、か……今回はたしかにそうだった。わたしはもう、時間切れだ。しかし次は百日でも二百日でも対陣できるよう、準備を怠らぬ。わたしが床に伏す日の周期さえ隠し通せれば、なんとか、なる」

「……景虎。上洛した段階で、決断しろよ。いかにお前が強くとも、お前の身体はたったひとつだ。越軍の桁外れの強さはあくまでもお前個人の強さ、お前を崇める兵たちの強さだ。晴信が鍛え上げた武田軍も、北条三代を経て絶頂期を迎えつつある北条軍も、お前にはかなわないが、十二分以上に強い。二正面作戦はできない。関東管領復興と川中島の防衛とは、両立し得ない。お前が川中島で晴信と戦いたいというのであれば止めないが、その時は、関東遠征は先送りにするべきだ。義の戦では銭を消耗するばかりで得られる土地がないことに気づいた北条高広や、莫大な出費に目を回らせている大熊朝秀あたりは、不満を爆発させる寸前だぜ」

「諸将の不満はわかるが……お前が教えてくれた『義』があればこそわたしは姫大名として生きていられるのだ、宇佐美。義のない戦をせねばならぬとなれば、わたしは越後も長尾家も捨てて、出家するしかなくなる」

「圧倒的な強さは同時に弱点ともなる。越後一国を平定するのが、早すぎたようだな。景虎……越後統一に十年をかけていれば、きっとお前の運命は」

「人の世の戦いは、時間との戦いだと言ったではないか宇佐美。悠長に十年もかけていれば、晴信に越後の半ばを併呑へいどんされていただろう。お前は最近、心配性だぞ。わたしは毘沙門天に誓う。必ず、次の戦で晴信に勝つ。勝って、義こそが乱世に必要なのだと、晴信に理解させる。そうだとも。晴信は愚人ではない。わたしとは進む道が異なるが、必ずや数百年未来の後世にまで名を残す名将だ。必ず、わたしの本意が、伝わる……」

「……景虎……武田晴信が、男だったらな。互いに兵を率いて戦う以外に、手を携える道がないとは。神がほんとうにいるのならよ。まったく、皮肉にもほどがあるぜ」

 宇佐美定満は悲しげに景虎の横顔を見つめ、そして、霧隠才蔵は(神のために戦う娘、か……わが「始祖」のように、裏切られ汚されて絶望のうちに焼き殺されねばよいが……)と景虎のために祈った。才蔵の始祖を救わなかったデウスにではない。戸隠の山の神に、祈っていた。

 越軍、荒砥城を出て、善光寺平へ。そのまま越後へと撤退を開始。

 塩田城の一室でまんじりともせずに、佐助からその一報を耳にしていた山本勘助は――。

「御屋形さま。次郎さま。善光寺の栗田寛安を寝返らせ越軍の退路を断つ策、長尾景虎に見破られてございます。やはり越軍は、策略こそ用いませぬが、その情報網は堅い……直江大和が、あの癖の強い戸隠忍びどもをよく駆使しているようです。このまま景虎に越後へ帰られてしまっては、川中島を巡る攻防、長引きまする。越後の海へと出るどころか、善光寺平を切り取るだけで、何年もかかりましょう。これ以後、川中島での越軍との戦いを重ねることになれば、武田家にとっては致命傷に。駿河の今川義元に、上洛を許してしまいまする」

 晴信と、そして信繁の姉妹を前に、非情の策を切りだしていた。

「ならばどうしろと言うのだ、勘助」

「勘助。わたしにできることがあるならば、言って」

「……次郎さま……武田家の大方針は、今川・北条と和して信濃を切り取り、その国力をもって越後あるいは駿河の海へと出る、というものでしたが、長尾景虎はあまりにも強い。全面激突さえ回避すれば、最終的にはわれら武田が善光寺平を奪えるでしょうが、貴重な時間を失ってしまいまする。そこで、方針を大幅に変更します。越後の長尾景虎と和し『義姉妹同盟』を結びまする。むろん両家はすでにいちど合戦を行っておりますれば、人質として越後へ送られる義妹は――実妹でなければ」

 孫六さまでも、まだ足りませぬ。武田の副将・次郎さまが越後へ入られるのです。御屋形さまも次郎さまも、そこまでしてでも景虎との対決を回避したいとこんこんと説くのです。さすれば、さしもの景虎も断りますまい。景虎は本心では、御屋形さまと戦場で命を奪い合いたくはないのですから。

「景虎は、実姉の綾さまを長尾政景のもとに自分の身代わりとして嫁がせたことを今なお心の傷としております。姉を奪われた悲しみを抱いております。御屋形さまが次郎さまを景虎のもとへ差し出せば――景虎は必ずや御屋形さ

まと次郎さまの心情と意志に揺り動かされましょう」

 晴信が目を潤ませながら口を開く前に、信繁が激高していた。

「勘助! 二度とそのような下策を口にしないで! 次に口にしたら、その時は……あなたを斬るわよ! わたしは絶対にどこにも嫁がないし、人質にもならない! わたしの姉上は、ただ一人よ! いったいなんのために、父上を甲斐から追放したというの……!? 勘助! お前は……父上を駿河へ追いやり、わたしを越後へ追いやって、姉上を武田家から奪い取るつもりなの?」

 抜刀しようとした信繁の腕を、晴信がけんめいに制止する。

「勘助。お前の軍師としての非情さは評価しているし感謝もしているが、次郎を越後へ送ることだけはできない。それでは、武田の家族を犠牲にすることとなる。たとえ日数をかけてでも、景虎に勝つ策を考えだしてほしい……」

「ですが御屋形さま! 今は景虎をある意味で侮っている北条氏康がいずれ越軍に追い詰められて、それがしと同じ策を思いつけば、北条と越後が同盟することになってしまいまするぞ!」

「その道も、塞げ」

「無理難題でございまする! 御屋形さまは天下に号令をかけるお方! 川中島にいつまでも固執していては、すべてを失ってしまいますぞ!」

「勘助、無理を言うようだがあたしとて、絶対に選べない選択肢というものはある。決して次郎を、あたしの野望の犠牲にはしない。許せ」

 感情が爆発して言葉を発せられないで泣いている信繁の肩をそっと抱きながら、晴信は勘助に頭を下げていた。

「その、義姉妹同盟の件……『妹』が諏訪四郎すわしろう勝頼かつよりでは、ダメなのか? 諏訪神社ごと越後へと譲渡する、越後で諏訪家を再興させよ、と景虎を口説けば、信仰心の深い景虎の心は動かされるかもしれない」

 晴信の、苦渋の選択だった。四郎勝頼をわが娘のごとく溺愛している勘助の心は、揺れた。むろん晴信とて、幼い勝頼を手放したくはなかった。勘助は(落ち着け。私心を交えず軍師として頭を動かし、結論を導け)と隻眼を潤ませながら、知略を振り絞った。あらゆる条件を頭の中で組み立て、そして、

「……いや。勝頼さまは御屋形さまの義妹でございますれば、景虎は『いざとなれば切り捨てるかもしれぬ』とわずかなりとも疑心を抱くことに……それに、諏訪から勝頼さまも社もことごとく去るとなれば、諏訪衆が黙ってはおりませぬぞ。諏訪の統治が困難となります。諏訪が乱れれば、伊那も。なびきつつある木曾も……南信濃はことごとく離反いたしましょう」

 人の心も。国も城もそして土地も。奪うことよりも、統治することのほうが難しいのです、と軍師勘助は答えていた。

「そうか。そうだな。景虎は、戦って勝てば嵐のように去って行くのみで、奪った土地を統治しなくてもよい。だが、われら武田は違う……それに、兄を奪われたあげく、さらに越後へと人質として追いやられれば、四郎もいよいよ傷つくだろう。あたしとしたことが……二度とこのような愚かなことは、言うまい」

「次郎さまのご動揺が、御屋形さまをも動揺させておられるのです。それがしが、次郎さまを越後へやれなどと、戦場を駆ける景虎のあまりの強さを知って愚策を口にしたためです……しかし幸いにして、景虎は上洛いたします。その間に、次の手を考え、そして実行しましょう」

「できるか、勘助。景虎自身は調略活動に無頓着だが、直江大和と鳶加藤は、手強い。それに、戦場で軍議にも出ずに釣りばかりしていたようだが、あの宇佐美定満も厄介だ。景虎の扱い方を熟知しているかのようだ……あたしにとっての勘助のような存在らしいな、あの男は」

「困難ですが、必ずや。次郎さま。勝頼さま。孫六さま。そして太郎さま……二度と武田家の方々を、御屋形さまと別離させはしませぬ」

 次郎さまにもお約束いたします、この約束が破れた時はそれがし死んでお詫びいたしまする、勘助は信繁に深々と頭を下げていた。しかし信繁はまだ言葉を発することができなかった。晴信の顔も、青ざめていた。勘助は、

「信虎追放」という献策を行って武田家の姉妹にこれほどの傷を与えた者が他ならぬ自分であることに気づき、その業の深さに震えていた。

 御屋形さまと信繁さまを独り立ちさせねば、武田家の行く手には――。

(御屋形さまは長尾景虎と出会って、人としての成長をはじめられた。しかし信繁さまには今なお御屋形さまが必要なのだ。姉妹ともに父を追放したあの時から……信繁さまの時間は……止まっているのだ。このままでは……)

 勘助は、(宿曜道すくようどうで占わずともわかる。長尾景虎の宿星は――御屋形さまの羅ゴウの星に寄り添い、離れぬ星である! 二つの星は引き合い続け、いずれは衝突し、お互いに夜空に四散する。二人を戸隠で邂逅かいこうさせてはならなかった……)と悔いた。だが、決して避けられぬ運命であったのだろう、と思い直した。それがしが軍師として御屋形さまの運命を変えてみせる、この山本勘助、鬼となってでも、と決意していた。

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