第十五話 景虎の上洛(前編)
川中島から引き上げてきた長尾景虎は、宰相・直江大和のかねてからの計画通りに、上洛を決行することとなった。
「お嬢さま。上洛の目的はいくつかございます。将軍足利義輝さまより、越後守護職を引き継ぐことを認可していただいたことへの返礼。やまと御所への任官への返礼。京の
直江大和は合戦場では地味な
越後からの長駆上洛にはさまざまな困難が伴うが、直江大和は川中島の合戦の折に後方で
越後の直江津より越前の敦賀までは、景虎や直江大和をはじめとする重臣たちは安全策を採って海路を進む。ただし、二千の兵たちは陸路を採る。
上洛途中で通過しなければならない諸国――越前の朝倉家の軍事を仕切る
宰相・
問題は、一揆衆の力が強い越中・加賀であるが、直江大和は越中の国人衆と交渉し、かなりの金銭を投じて、上洛軍の通過を彼らに認めさせていた。出兵の目的が越中攻略ではなく上洛、そして荒れている都の秩序を回復することだという「義」と、多額の金銭。さらには、一揆衆にとっての本山である大坂本猫寺への働きかけも功を奏して、ようやく二千ほどの兵の通過を許可されたのだった。
景虎は、直江津から船で敦賀へと発った。
ともに上洛に付き従う家臣は――
宰相の直江大和。このたびの上洛のいっさいを差配する。
軍師の宇佐美定満。すぐに
猛将ながら、戦場を離れれば柔和な柿崎景家。厳格さをもって二千の兵を指揮する。
小笠原流を継ぎ景虎の礼儀作法教師役を務める、信濃守護の小笠原長時。
同じく景虎の武術師範的な立場を直江大和より任された、
いわゆる「信濃派」の家臣が多く、長尾政景や上杉憲政をはじめとする「関東派」の諸将は、この上洛の旅からは外されている。
直江大和が、いつ景虎に襲いかかるかわからない好色漢の小笠原長時を仕方なく連れてきたのは、信濃川中島における長尾と武田の争いに「大義」が必要だったからである。信濃の守護職は今なお、この小笠原のものだった。関東管領・上杉憲政ではなく、小笠原長時を上洛させたということは、直江大和も、そして宇佐美定満も景虎を関東出兵作戦からできるだけ遠ざけ、当面の目標を信濃川中島一帯に絞らせるつもりなのである。
甲板に立ち、
に、直江大和と宇佐美定満が、告げていた。
「ただしひとつ、問題がございます」
「問題?」
「今回の上洛の最大の目的は、将軍に目通りすることだった。信濃戦の大義名分を得るためにな。ところがその将軍足利義輝が、都落ちしちまったんだ」
宇佐美定満が言うところには――。
足利幕府は応仁の乱以来衰亡著しく、京の近辺あたりにしか支配力が及ばない有様になっている。幕府の畿内における実権は、管領細川家が握っていた。しかしその細川家も、家臣である三好家に台頭を許し、ついには足利将軍・細川管領家と、足利将軍家にとっては陪臣にすぎない三好家とが、畿内の覇権をかけて相争う事態となっていた。
足利将軍はほとんど兵力を持たないので、実質的には管領の細川とその家臣である三好が争っているということになる。
「ちょっと待て宇佐美。わたしには、まったくわけがわからないぞ……なぜ細川家の家臣が、主君である細川家と戦うのだ。しかも細川家が将軍さまを擁立しているということは、三好がやっていることは大逆ではないか。そのようなことが許されるのか。しかもその三好が勝つとは」
「下克上の世なんだよ、景虎。三好には三好で、細川と戦う理由があるのさ。三好家の先代も先々代も、主君であるはずの細川家の裏切りによって命を落としているんだ。今、三好家の当主を務める姫大名の三好長慶は、父親が戦死した折に堺から脱出し、幼くして三好の本国である四国に逃げ帰った経歴を持つ……」
「三好長慶は四国で力を蓄え、仇をとるために畿内へ戻って来て管領・細川晴元を追い落としにかかったわけです、お嬢さま。一見混乱しているかのように思える出来事であれ、なにごとにも因果というものがございます」
「細川晴元は、なぜ家臣の三好を裏切り死なせたのだ」
「三好家が武功をあげ続けて、実力を持ったからでしょう。下克上を恐れたのです。大坂本猫寺に手を回し、一揆を起こさせて三好を背後から討たせた
といいます。しかしながら幼かった三好家世継ぎの長慶を四国へ逃がしてしまい、そして――その長慶が、
「いや、待ってくれ直江。足利・細川・三好まではわかる。しかしその、松永弾正久秀とは、どこの誰なのだ?」
「わかりません」
「わからない、だと?」
「素浪人の境遇でありながら美濃一国を奪い取った斎藤道三と同じさ、景虎。下克上の世だ。実力さえあれば、身分すらわからない者でも、才覚だけでのし上がることができる。松永弾正は三好に出会う前は堺で商人をやっていたというが、それ以前の経歴がさっぱりわからねえ」
美濃を盗み取った下克上の男・斎藤道三は裏切りを繰り返す「
三好家を仕切る松永弾正は毒を使うことで有名な「
嫌な
天下は、あまりにも乱れている。
関東では北条氏康が関東管領を
東国がこれほどに乱れた一因は、景虎の父・長尾為景が関東管領や越後守護を次々と戦で破って殺したことにあり、景虎は父が乱した関東の秩序を再興するために義戦をはじめたのである。
しかし直江と宇佐美によれば、東国だけでなく、畿内の秩序もまた乱れに乱れきっているのだ。
日ノ本の権威の象徴たるやまと御所。日ノ本の武の頂点に立つ足利将軍。その将軍家を補佐する管領細川家。ここまではわかる。しかしそのまた家臣の三好家のさらに家臣で、氏素性の知れない松永弾正などという者まで出てくるとなると、畿内の情勢に疎い景虎にはまったくもってわけがわからない。
いや、松永弾正が誰であろうが、人間にとって生まれは関係ないのだ。問題は、松永弾正が三好長慶とともに主君を戦で破り、都から追放し、畿内の秩序を無残に破壊していることなのである。
「ともあれ三好松永に敗れた将軍足利義輝さまと細川晴元さまは今、近江の
将軍さまと管領さまが、ともに都落ちとは。なんという乱世だと景虎は憤った。東国だけでなく、西国も
「では進路を変更し、その朽木谷を訪れるぞ、直江。将軍さまにお会いできねば、こたびの上洛、意味がなくなる。なによりも、
「
「こういう時のための直江大和だろう。長尾景虎が将軍さまを都へお連れするためにはせ参じた、と伝えよ」
「今回の兵力だけでは、都へ将軍を連れ戻すのは無理です。三好長慶は今や、二万とも三万とも言われる大軍を動員できるのです」
「たとえ兵力差が十倍あろうとも、わたしは不義を打つ」
「しかし俺たちは、仕事を済ませたら早々に越後へ戻らねばならねえ。あまり越後を長く空けていると、また武田晴信が川中島を狙って動きはじめる。都に踏みとどまって何年も戦うことはできないぜ、景虎」
宇佐美定満が「手から毒針を放つ」という兎の新作縫いぐるみを手に持ちながら、「越後から都は遠い。しかも加賀・越中という一揆衆の国が、間に挟まっている。越後になにかあった時に、間に合わなくなる」とやんわり説いた。景虎は肩を落としたが、現実を認めざるを得なかった。いっそ道中を塞ぐ一揆衆を
「……そうか。ではせめて、将軍さまにお目通りだけでも。将軍家への進物を届けねばならない。あと宇佐美。その縫いぐるみは、今すぐ海に捨てよ」
「またそれか、景虎。なぜだっ!? 曲者をとっさに倒すための必殺の暗器仕込みだぜ!? 道中は危険だ。猛将柿崎や忍びの鳶加藤がお前を守っているとはいえ、なにがあるかわからねえ。持っていろ!」
「だから、その暗器がいけない。将軍さまの前にそんなものを抱いて顔を出せるか。それでは、まるきり暗殺者ではないか」
愛らしいうさちゃんの笑顔で油断させ、すかさず毒針を伸ばして刺客を殺す。傑作だと思ったのに……と宇佐美がしょぼくれながら縫いぐるみを抱きしめ、「さらばだ、わが子よ。立派な
「宇佐美さま。お嬢さまをいつまでも子供扱いしないよう。五年経てば婿を取るという例の公約も、徐々に残り日数が減っているのですし」
「うるせえよ直江! てめえこそ、いつまでも主君を『お嬢さま』呼ばわりしてるんじゃねえ! そういう態度が景虎を勘違いさせるんだ」
「主君を呼び捨てにするあなたよりはましだと思いますが……」
「それよりも直江。オレが預けた樋口村の与六はどうしている? 目から鼻に抜けるような才子だろう? あれはいい宰相になるぜ。あいつに限っては、オレが育てるよりも、てめえが鍛えたほうがいい。あいつにとっても、景虎にとっても」
「……わたしはこんなところへ来とうはなかった、というあの口癖さえなければ、よき姫武将候補なのですがね。誰に似てああも気位が高いのだか。おおかたあなたが甘やかしたのでしょう、宇佐美さま。お嬢さまもそうでした。おかげでいまだに婿を取らぬだの生涯
主君の前で、堂々とこども
「こども攫いじゃねえ! お前を支える姫武将を育成するのがオレたちの義
務だ!」
「今の越後にはお嬢さま以外に姫武将がいませんからね。多くの国人・家臣が、あわよくばお嬢さまを自分の嫁に迎えようと野心を抱いている。それが、お嬢さまが越後守護としてやりづらくなっている原因です。次世代の政権は、姫武将で固めたいものです。武田家がそうしようとしているように」
武田晴信の真似などわたしはしたくない、と景虎は唇を尖らせていた。しかし、(そうか。晴信は周囲を姫武将で固めて……ならば、男に襲われる心配はないのだな。さすがに、慎重な姫武将だ。知恵深いな。その上、欲深な女だと思っていたが殿方に関しては意外と潔癖だ。よかった)と、なぜかほっとする自分に気づき、そして戸惑っていた。
「それでは進路を変更いたしましょう。われらは敦賀より琵琶湖の西に延びる平坦な西近江路を進む予定でしたが、その途中で山中の
「鯖街道?」
「若狭街道のことです。若狭と都とを繋ぐ山道です、お嬢さま。難所になります。若狭の港に集まった鯖を山中の盆地である京の都へと運ぶ道筋であるため、商人どもは鯖街道と呼びます」
山国で魚を食うのは面倒だからな、なぜわざわざあんな盆地に都を作っちまったんだろうなこの国は、しかも京は守るのが難しく攻め落とすのは容易という戦術的にはひでえ場所だ。あんな物騒なところに都があっちゃあ乱世が終わるはずがねえ、と宇佐美定満が苦笑していた。
「陰陽道的には意味があるらしいのですがね、宇佐美さま。四神相応の地だとか、太い龍脈の通り道なのだとか」
「戦術的には無意味どころか有害もいいところだぜ。景虎、覚えておけ。四方を山と街道に包囲されている京の都に軍を入れれば、その時点でもう『袋の鼠』みてえなもんで、大軍を率いても防衛しきれるもんじゃねえ。それ故に、古来京の都を本拠とした武家はことごとく没落していった。平家も源義仲も源義経も、朽木谷に今は逃れている足利将軍家だってそうだ。同じ山中の盆地でも、天然の要塞とも言うべき唐国の西安(長安のこと)とはわけが違う。だいいち日ノ本は海に囲まれた島国だ。本来は、海に面した土地に都を置くべきなんだがな……」
宇佐美さま。古代には難波に都があった時代もありましたよ、白村江の戦いに敗れたことも内陸部に遷都した一因ではないでしょうか、と直江が笑い、宇佐美が「そんな昔のことまでは知ったこっちゃねえよ」と耳の穴を指でほじった。
「そうだな宇佐美。海は交易を、そして交易は富をもたらしてくれる。越後がこれほどに豊かなのも、直江津を中心とした青苧交易のおかげだ。だからあの武田晴信も、海を欲している。甲斐の盆地に留まっている限りいくら金山を掘り続けても限度があるということを、理解しているのだな……」
晴信が駿河に生まれていればわたしと相争う必要もなかったのに、と景虎は思った。
「お嬢さま。風が荒れてきました、そろそろ、お休みください。次にわれらが大地を踏みしめる時には、そこはもう敦賀です」
朽木谷は、近江山中にあり、足利将軍家にとっての隠れ里のような異界であった。
将軍の館で景虎一行を出迎えた者は、細川藤孝と名乗る美しい少年であった。細川家の一支流を継いではいるが、十一歳で亡命先の近江坂本で将軍位を継いで以来、運命的な流浪を続ける非業の将軍・足利義輝の、腹違いの弟にあたるという。義輝は元服当時「義藤」と名乗っていた。その藤の一文字を与えていることからも、二人の親密な仲がうかがい知れる。
「あなたが、越後はじまって以来の姫武将、長尾景虎どのですか。お初にお目にかかります。義輝さまのお世話をさせていただいております、細川藤孝と申します――義輝さまの用心棒とお考えください」
少女のような笑顔を浮かべている細川藤孝には、しかし、まるで隙がな
かった。諸国を放浪し自らの剣を志ある者に伝承している剣聖・塚原卜伝は、この細川藤孝と足利義輝の異母兄弟に、自らの新当流の太刀を伝授したという。畿内は、武家の頂点に立つべき将軍自らが剣を取らなければ、自らの命すら守れない、そのような下克上の世界なのだ。
若き足利義輝が、「武」を極めることで三好松永を打破しようと野望に燃える剣豪将軍の道を志しているのに対して、彼を補佐することを生涯の使命と自認している細川藤孝は、文武両道の武将だった。「文化」の世界では藤孝は天才的な教養人として一目置かれ、やまと御所の公家・
しかし朽木谷で細川藤孝が景虎一行を出迎えたこの時、越後国内で誰よりも都の事情に通じている直江大和ですらも、そのようなことは知らない。
「幕府ではわたくしが文を、義輝さまが武を担当しております。二人ともいまだ若輩にて、三好松永の専横を許し、このように朽木谷に逃れておりますが、いずれ自ら剣技を極めつくし武の頂点に立てたその時こそ、六角承禎ら諸国の大名の力を結集して、堂々と京へ戻る。それが義輝さまのご意志です――」
「将軍さまにお会いし、越後守護に任じていただいたことのお礼を。そして、上洛のご許可を願いたいのです」
景虎のその依頼に対して、細川藤孝は、
「少々、厄介なことになっています」
と伝えた。美女と見まがうばかりの柔和な笑顔のままであるが、なにを考えているのか相手に腹のうちを見せない男だった。
「義輝さまは、景虎どのの越後守護継承の正当性は疑いなし、と仰せになり
ました。景虎どのが姫武将であろうとも、武家たる者ひとたび戦場で剣を取れば男女の別などなく、その点でも、なにも問題はないと。ですが」
「が、なんでしょう?」
「戦場でも自らは『不殺』を貫く義戦。そのようなものがまことに可能であるとは思えない。戦場で剣や槍を手にした敵と戦いながら、不殺を貫き、かつ戦に勝つ。はたして可能であるかどうか。ただの甘い夢にすぎぬのではないか――越後の諸将は、越後初の姫武将に対して、戦場でこれを斬り殺すことを
義輝さまはものごころついた時から戦火の中を潜り抜け、生き延びるために将軍でありながら
「そりゃあつまり、どういうことだい?」
「宇佐美さま。口調。口調が下品です」
「どうすれば将軍さまにお目通りいただけるのでしょうか?」
「将軍さまは、景虎どのとの真剣勝負を所望しておられます。私心なき義将、不殺の神将、慈悲の戦を行う軍神――そのような『お題目』を、自分の剛剣を前にしても景虎どのが貫き通せるのか、それを知りたい、と」
直江大和が「仮にも足利将軍と一騎打ちなど、なりません。まして真剣勝負など」と景虎を制止したが、景虎は「わかりました」と受けた。宇佐美定満は、木陰に隠れている加藤段蔵に目線で合図を送った。
(てめえは景虎に戸隠忍びの護身術を教えてきたそうだが、剣豪将軍と立ち会わせてもだいじょうぶなのか。敗れれば景虎は死ぬぞ)
加藤段蔵は、好きにさせるがよい、誰が止めても無駄だ、と答えていた。
細川藤孝が、目を細めた。
「まさか二つ返事で受けられるとは。さすがは豪胆なお方。しかし、義輝さまの剣の腕は今や塚原卜伝どのの弟子の中でも指折り。天下でも一、二を争います。その義輝さまと真剣で立ち合う以上――一太刀でも浴びれば、斬り死にすることになりますよ」
「将軍さまは――義輝さまは、『武』の道を究めることで将軍の権威を復活させようとしておられるお方。ならば、わたしたちがいくら言葉を重ねても無意味でありましょう。『武』に対しては、『武』で語り合うのみ。一万の言葉よりも、いちどの立ち合いでこそ、理解しあえましょう」
武田晴信がそのような清廉でまっすぐな思想を持つ姫武将ならば、川中島での戦いもただのいちどの一騎打ちで終えられるのに、と景虎は哀しかった。同時に、足利義輝に同じ武士としての好意を抱いた。将軍ともあろう者が、
が、景虎が(これは)と身震いするように緊張させられている相手は、将軍ではなく、取り次ぎ役にすぎないはずの細川藤孝である。
細川藤孝の帯びた静かな「殺気」は、異常なものだった。
藤孝もまた、三好松永の刺客を次々と斬り捨ててきた豪の者なのだ、と景虎は気づいた。その剣の腕を、貴族のような優雅な笑みの下に隠しているのだ。
「義輝さまは、わたくしよりも強いですよ」
宇佐美が「景虎、やめておけ。この優男、とんでもない剣の腕前だぜ。将軍がこいつよりも強いとなると、斬り殺されるぜ」と景虎の袖を引いたが、景虎は「藤孝どのは柔の剣を使われるお方。ならば、将軍さまは剛の剣を振るわれるお方。むしろ剛の剣のほうが、わたしにとっては相性がよい」と取り合わなかった。
直江大和は、気配を消して隠れている加藤段蔵に、
(お嬢さまも将軍さまも、どうかしているとしか思えない。万が一の時には将軍さまを殺してでもお嬢さまをお守りせよ)
と暗号を送った、が、加藤段蔵は、
(景虎は生まれながらに『
と取り合わない――むしろ、景虎が「将軍との真剣勝負」という究極の実戦においてはたして「不殺」を貫けるのかどうか、興味しんしんでいるらしい。
景虎は将軍邸の庭へと、通された。
まだ年若だが、すでに筋骨逞しい巨漢となっている足利義輝が、天下五剣のひとつ・「三日月宗近」を手に、すでに景虎を待ち構えていた。
「そのほうが越後の神将・長尾景虎か。常勝不敗、無敵を誇る軍神にして、毘沙門天の化身。たしかに、そのほうの放つ気高き『気』は、尋常ではない。しかし、女人として、美しすぎる。余は決して姫武将を男武者より低く見る者ではないが、そなたの女性としての美しさは異常すぎる。男どもの誘惑、羨望、憧れ、嫉妬、欲望、それらの煩悩を駆り立てずにはおられぬそなたが『武』を極められるとは、思えぬ」
若き征夷大将軍。足利幕府の正統なる将軍、足利義輝。
その将軍が三好松永のような陪臣に圧迫されて都を追われ、管領ともども朽木谷へと亡命を余儀なくされていること。
将軍としての即位式すら都で行えず、近江坂本の日吉で行われたこと。
武将の頂点として自ら剣を取り「武」を体現すべく、なにもかもをかなぐり捨てて一途に剣鬼としての道を突き進んでいること。
将軍家の弱さによって乱れた世は、「剣豪将軍」の圧倒的な「武」によって平定されねばならないという、足利将軍位を継いだ者としての覚悟。
それらのすべてが、その鬼の如き巨体から、伝わった。
言葉は要らなかった。
武田晴信と出会った時も、そうだった。
景虎は、強烈な精神の持ち主を前にすると、その者の意志を、読み取ってしまえる。それほどに感受性が強い。
足利義輝もまた、「衰微した幕府を再興し天下を
景虎は「まさしくあなたこそが、乱世を統一するという気高き志を抱かれた将軍さま。お会いできて、感激です」と思わず目に涙を浮かべて、庭先へと入っていた。
この時。
景虎は、宇佐美定満が準備していた刀を、手にしていない。
宇佐美定満が「丸腰だ。無刀だ」と思わず
足利義輝が三日月宗近を抜き、「余を愚弄するか」と叫んでいた。
「長尾景虎! 剣を取れ! 余は、そなたとの真剣勝負を命じている! 言葉でいくら語り合っても、なにも伝わらぬ! この下克上の乱世で、唯一たしかなものは、武だ! 戦場を生きぬき刺客どもを返り討ちにできる武という力がなければ、志も、夢も、ただの無力な言葉にすぎぬ! 剣を取って、余と戦え!」
藤孝! この者、まるで戦意がない。話が伝わっていないのではないか! と義輝が細川藤孝を思わず怒鳴りつけたが、藤孝は、
「景虎どのは、すでに一騎打ちに入っております」
と涼しい顔で告げた。
「景虎どのの剣は、義の剣にして不殺の剣。たとえ剣を握って義輝さまに勝たれたところで、景虎どのご自身の武を示すことはできても、義を貫いたという証明にはなりますまい。ならばこそ敢えて無刀で、義輝さまとの真剣勝負に挑まれているのです」
「無刀で? この義輝を甘く見るか、長尾景虎! わが将軍位が都ではまるで名ばかりの無力なものなのと同様に、そなたの女性としての美しさなど、
この剣鬼の前には無意味! ここで余に斬られるというのならば、そなたの神将としての名は越後侍どもが生みだした幻にすぎず、義将としてのそなたは偽者だったということだ! 剣が、武が、この偽りに満ちた乱世における真偽を決定する唯一の言葉ぞ!」
義輝が、景虎との間合いを一気に詰めるべく、跳躍した。
「余は、剣に己の生涯のすべてを賭けている! いつかの長尾政景のようにはいかぬぞ、景虎!」
「……将軍さま。たしかにわたしは、武と義という両立困難な二つの志を、同時に果たそうとしております。越後では、女が武将として生きることじたいが矛盾だ、と言われることもしばしばあります。不殺もまた、自己矛盾にすぎないと言われます。戦をすれば兵は死にます。わたし自身が不殺を貫こうが、わたしが敵味方の兵の命を散らせることにかわりはありません」
「ならば、なぜ剣を取らぬ! 無刀で戦場を生き延びられるはずがあるまい、景虎! 徒手空拳で戦場に立てば、敵の前に姿を現せば、小姓ども、家臣どもを盾にして身代わりにするしかあるまい! それもまた、武なき無力ゆえの殺生に他ならぬ! 余は失望したぞ、長尾景虎! どれほどに強き神将、どれほどの軍神が現れるかと思っていたが……まさか、余を前にしてなおも不殺などという寝言をほざくとは!」
「将軍さまがお強いお方だということは、すでにわかっております。わたしと将軍さまがここで立ち合うなど、無意味です。われらは乱れた世の秩序を復興するという志をともにする者同士。ともに歩まねばならないのです。ですから、剣は取れません」
「ならば、そなたの武を見せよ! 余に、その実力を知らしめてみよ!」
「どうしても、戦わねばなりませんか」
「くどい! 余には、時間がない! 明日をも知れぬ命なのだ! 武士と武士とがわかりあうには、戦う以外に、なにがある! 行くぞ、長尾景虎!」
速い。
宇佐美にも直江大和にも、まるで義輝が繰り出す剣の動きが見えなかった。
あるいはこれが、鹿島新当流の秘太刀「一の太刀」かもしれない。
それは、「突き」であった。
「一の太刀」そのものには、実のところ、決まった形がないのだともいう。ただ一撃で相手を打ち殺すための「見切り」、相手の構えに隙を見つけて初太刀で瞬殺するための「眼力」こそが、一の太刀の神髄なのだとも言う。が、たしかなことは、わからない。塚原卜伝と、卜伝が認めた足利義輝をはじめとするごくわずかな数の弟子だけが、一の太刀を体得している。
ともあれ義輝の野獣のような剣鬼としての本能は、
景虎の小柄な身体にこれまで誰も一太刀すら浴びせられなかったのは、景虎の身体の「小ささと軽さ」、すなわち「速度」ゆえではないのか、と義輝は
しかも。
義輝の突きは、ただの突きではない。
修練の果てに体得した異様な速度だけが為せる、「三段突き」であった。
剣先を見切り身体で
義輝は剛剣を使う。彼は若くとも、征夷大将軍である。敵を正面から堂々と袈裟斬りに斬ることを、なによりも重んじてきた。そのようにして、堂々と戦い、生き延びてきた。相手の急所を一点突破で貫く「突き技」は防御力の高い
が、小柄な身体から見たことのない強い「気」を放つ長尾景虎を前にして、義輝の将軍としての気位を、剣鬼としての肉体的本能が、越えたらしい。
大上段に構えての一撃は、身軽な景虎には通じぬ。
攻撃態勢に入ると同時に、義輝の身体が、そのことをすぐに悟った。
そこからの「三段突き」であった。
それら一連の判断から動作までのすべては無言のうちに、刹那のうちに処理され実行されているのであり、そこには論理も言葉も介入する余地はない。
この問答無用の無我の境地こそが、義輝が追求してきた「武」の世界であり、その武の世界に景虎は今、直面していた。
宇佐美定満も。
直江大和も。
景虎は躱せない、躱しきれない、と絶望していた。
だが。
景虎の喉を狙ったはずの一撃めの突きは、当たらない。
見切っていた。
景虎もまた、言葉で思考している猶予はなかった、が、敢えて言語化すれば、景虎はこの時このようなことがらを、瞬時に想起していた。
(将軍さまは、「武」とは「力」であると信じておられる。それは一面では正しい。力なくして、乱世の秩序は再興できない。将軍さまはその現実を受け入れ、武を極めることで幕府を立て直そうと決意なされたのだ。そして、かくも鋭い剛剣を会得されたのだ。優れたお方だ。しかし、将軍さまは敵を倒すための力ばかりを求めるあまり、そのお心にもその剣筋にも、「慈悲」がない……哀しいほどに強いゆえに、危うげなお方だ。わたしのように誰も彼も許してしまうという生き方は愚かにすぎるとしても、敵をどこかで許しともに生きていこうという慈悲心がなければ、守護職も管領職も、ましてや征夷大将軍職も、とうてい務まらない……わたしがここで剣を打ち下ろして将軍さまを倒しても、将軍さまは「余にはまだ力が足りなかった」とさらなる力を追い求めるのみ。ならば……)
本来、そのような思想的・観念的な作業を、景虎は行っている場合ではない。だがそれでも、景虎はそのような観念を抱かずにはいられなかった。
この間。
二突きめ、三突きめと、義輝は目にも止まらぬ連撃を放っている。
宇佐美定満ですら、二突きめまでしか、追いかけられていない。
三度めの突きがあるなど、想像もできなかった。
初見でこの義輝の「三段突き」を躱せる者など、天下広しといえども、どこにもいないはずであった。
が、景虎は、まるで舞を舞うかのように細い身体を緩やかに躍らせて――円を描くように、剣鬼と化した義輝の「突き」から、己の身体を移動させていた。
緩やかに――とは、義輝が感じたことであって、実際には一瞬のうちに景虎の身体が義輝の制空権から左へと移動しているのだが、義輝の目には、景虎がゆったりと舞っているようにしか見えなかった。桜の花びらが、景虎の身体へと舞い散っているかのように、見えた。
ぽん、と景虎の
なぜ、落としたのかも、義輝にはわからない。
剛力で叩き落とされたのではない。
触れただけで、掌が、自然と開いていた。
いつの間に景虎に真横に付かれて、手首を叩かれたのかも、理解できなかった。そのような隙を作った覚えは、義輝にはない。隙ができるような未熟者でもない。己の技量に、思い上がったことはない。
景虎は常人には見切れぬ余のわずかな隙を瞬時に見極め、そして見極めながら同時に動いたのだ、と義輝はかろうじて理解した。
景虎は、速い。そして、静かである。動きを、まるで察知できなかった。景虎には「殺気」がないのだ。その振る舞いは、あの剣術を極めた剣聖塚原卜伝とも、違う。
「将軍さま。わたしが小太刀を持っていれば、将軍さまの手首は飛んでおりました。ですが、その必要はありません。わたしには力はありませんが、力を止めることはできます。これで、一騎打ちは終わり、お互いに手傷を負うこともなく、わたしと将軍さまとはともに同じ『乱世に秩序を再建する』という志を抱いて歩めます。これもまた、武です――これで、信じていただけるでしょうか」
義輝は、まるで子供のように小さな景虎の身体をまじまじと見つめながら、
「あいわかった長尾景虎。余には、欠けているものがあった……! 武なくば乱世はただせぬ。力は必要だ。しかし力押しだけでは、秩序は回復できぬ。義、不殺、慈悲。それらもまた欠かせぬもの。敵の命を奪うことだけが勝ちではない。むしろ乱れた者どもの心を静め敵を味方と為すことが、まことの勝利なのだ。そなたの不殺の誓いは、使いどころを誤れば自らを破滅させ秩序を再び見失わせる弱さともなるが、その人としての心の弱さをもそなたの武は越えていくというのだな! まさしく、毘沙門天の化身と称されるに相応しい強さだ……! 見事だ、長尾景虎」
景虎の手を取り、破顔していた。
「……将軍さま。今はまだ、景虎は力が足りず、お連れできませんが……必ずや、いつの日かこの長尾景虎、都に将軍さまをお連れし幕府を再建いたします」
「よい。そなたには、関東管領や信濃諸将を守るという仕事がある。余はあくまでも、己の力で京に戻る。だが景虎。その時には必ず、そなたの武と義をもって余を補佐してほしい」
「御意。ありがたき、幸せです」
「それにしても、不思議な技であった。いや、技ではないのか。余はまだ、どういう理屈で自分が敗れたのか、わからぬ」
「こちらが最初から、殺さず、斬らず、と決めていれば、自ずと剣を持った者同士の戦いとは異なるかたちの立ち合いとなるのです。わたしは将軍さまの虚を突いたにすぎません」
「いや。そうではない。力押しでは、そなたは決して倒せない。力で押せば押すほどに、するすると逃げられていく。そして、何倍もの力を、この身に返されるのだ。あるいは、剣の道や、天下盗りの道だけではなく……男が追い求める女とは、そういうものかもしれぬ……光源氏が生涯理想の女人を追い求めながら、ついに手に入れられなかったのと同じように……」
「『源氏物語』は読んでおりますが、そ、そのような話は、わ、わたしは苦手です」
「これは失敬した。余としたことが、つい。許せ」
宇佐美定満。直江大和。よくぞこれほどの者を育成した、と剣豪将軍は景虎を育ててきた軍師と宰相にも、言葉をかけていた。
「ただちに京へ向かうがよい、長尾景虎。関東および信濃でのこと、余が都に戻りし暁にはきっと助力し紛争の解決を助けると約束する。ともあれ、余の従兄弟――やまと御所の関白・
「ありがとうございます」
「そなたたちの、宿泊先は?」
直江大和が、返答した。
「兵たちは宿を分散させますが、わが主は三条西さまの館へ。青苧座を通じて、懇意にさせていただいております」
「三条西家といえば、藤孝の歌の師匠だな。これもなにかの縁か。しかし都まで行くのであればあと少しだけ脚を延ばして堺を訪れ、南蛮渡来の種子島を購入せよ。剣の道を志す余が言うのも矛盾かもしれぬが、これからの戦は種子島だ。乱世は、南蛮渡来のあの新兵器によって大きく動く」
「もともと堺へは、青苧の販売経路を拡大するために行く予定でした。種子島につきましても可能な限りの量を購入したいと存じます」
「ただし、堺は松永弾正の根拠地。あの者には気をつけよ」
種子島か……鉄砲を内蔵したうさちゃん縫いぐるみもいいなと宇佐美が言いだし、景虎が顔をしかめた。
紙と
「ですが――あなたの強すぎる武、そしてその純粋すぎる義と慈悲の心は、諸刃の剣。都では、用心なされませ。あすこは、この隠れ里の朽木谷とは違います。まさしく、
景虎が生まれてはじめて足を踏み入れた京の都は、「源氏物語」に描かれているような風流の世界ではなかった。果てしなく続く戦火によって炎上したまま打ち捨てられている寺社仏閣や町家なども、ところどころに目立った。華美な地域と、戦乱のために廃墟化が進んでいる地域との落差が極端だった。まさしく乱世の都。ことに、やまと御所の落剥ぶりは明らかだった。
その上、貴族たちも窮乏している。
景虎たちが宿とした三条西邸も、往年の輝きはない。
三条西家の当主・権大納言・三条西実枝は、越後から来た景虎一行を歓待することはなかった。
「ようきはった、長尾はん。当家は藤原定家から歌道の正統を継承する格別の家柄でおじゃるが、ご覧のように応仁の乱以来うち続く戦火で貧窮しておってな。荘園は地侍どもに横領され、三条西家が取り仕切っておった天王寺の青苧座は――そちら越後衆どもに市場を奪われる始末。その上、越後衆の面々に都のわが屋敷まで押しかけられるとは、難儀なことですな」
三条西実枝は、越後長尾家と懇意にしているとはいえ、長らく青苧座という利権を巡って長尾家と対立してきた。景虎の父・長尾為景は、三条西家が独占してきた青苧座の利権を徐々に越後衆のものにすることで富を得て、戦に連戦連勝できたのだ。為景は「青苧は越後原産であるのに、これを畿内に売りさばく折に公家などが座の権利を振りかざして中間搾取しておる、まことに許せぬ」と三条西家に圧力をかけ、武力を振りかざして青苧座の利権の大部分を奪い取っていたのだ。
御所への参内を間近に控えている景虎に対して、三条西実枝が京の公家らしい嫌みを
長尾家は、越後の特産品である青苧の流通網を握って収益をあげるために、三条西家が持つ青苧座の特権を徐々に奪い取ってきたわけだが、直江大和は「衰微した都の秩序を復興せねばならない」という景虎の大方針を守らねばならず、青苧座の解体にまでは至れない。逆に、越後も三条西家もともに収益を確保できる仕組みを再構築するために、上洛したのだ。美濃で斎藤道三が実施しようとしているような座という制度そのものの破壊を、景虎は望まなかった。
とはいえ、宰相・直江大和は越後がさらに稼ぐことができるように、京、堺、天王寺、さらには天王寺を越えつつある巨大な門前町・大坂本猫寺を奔走して、越後から畿内への青苧流通網を拡大するつもりであった。その新たな販路で得た銭のうち、三条西家に何割かを支払う――為景が嫌った「中間搾取」であるが、いい落としどころではある。為景は目の前の戦に熱中するあまり、北陸の本猫寺一揆衆や京の公家衆、商人衆に対して雑で横柄なところがあったので、為景のやり方は武家以外の階層に多くの敵を作った。だが景虎は、武家以外の階層の者たちとはできる限り歩調を合わせ、共存することを望んでいた。景虎が戦う相手は、秩序を武力で破壊せんとする武家のみである。
「青苧座の話は直江に任せております。この景虎が越後守護となったからには、今後は三条西家のお力にならせていただきます。わたしはぜひ、権大納言さまに『源氏物語』の講義をしていただきたく」
「……景虎。そちゃ、まるきり子供であるのう。直江とやらと詰めるとしようかの。歌道、香道、そして『源氏物語』について学びたければ、書庫を開いてやろうぞ」
「ありがたき幸せ。しかし、これは上洛する際に小耳に挟んだ噂ですが――
細川藤孝さまに伝授された『古今伝授』とはいったい、なんでございましょう」
「それは、そちら武家が知っていいものではないでおじゃる。麻呂も、先代より『古今伝授』の内容を伝承されてはおるが、実のところ、その意味、よくわからぬ。藤孝は一代の傑物ゆえに、解読できるようでおじゃるが」
「わからない……のでございますか」
「一子相伝の秘密を何代も伝えてきたためでおじゃろう。わが弟子の中でも細川藤孝は天才にして別格でおじゃる。本来、三条西家から門外不出と定められておる『古今伝授』をあの者に伝えたのは、麻呂がこの戦乱の中いつ死ぬやもしれぬということもあるでおじゃるが、あの者ならば解読できるであろう、失われてしまった『古今伝授』の謎を正しく明らかにできるであろうと期待したことも理由でおじゃる」
「その、秘密とは……?」
「藤孝のみが知っているでおじゃる。麻呂にも教えてはくれぬ。それこそ、一子相伝の秘密であるがゆえに、と。じゃが『古今伝授』は藤孝から麻呂の子へと伝承すると決まっておる。いずれは藤孝が解いた『正解』とともに三条西家に戻る。ほ、ほ、ほ」
古今和歌集の「正統な解釈」が「一子相伝の秘事」となっていて、それを三条西家が代々継承してきたにもかかわらず、代を経るごとに内容のみが伝わり意味は忘れ去られていった、というのだ。細川藤孝は、その暗号めいた秘事の意味を解読するためにのみ、一代限りで秘事を伝えられ、解読した後にはまたその伝承を三条西家へ戻さねばならぬという。
なにもかもが奇妙な話だ、と景虎は思った。いにしえの歌に、いったいどのような秘密があり、どのような力があるというのだろう。すべては、「和歌」の世界を取り仕切るための、三条西家のまやかしではないのだろうか。商品を巡っても、青苧座のような利権の構造があり、その中心に三条西家という公家が存在している。和歌においても同じなのではないだろうか。が、青苧には実体がある。和歌の秘伝には、実体がないのかもしれない。一子相伝である以上、部外者にはその正体がわからないのだ。都とは、藤孝が言ったように、魑魅魍魎の世界なのかもしれない。
「景虎。
「関白、近衛前久さま、ですね」
「そうじゃ。あの者、公方とは従兄弟にあたる。塚原卜伝から太刀などを学び、馬を好み、矢を射る野蛮な関白ぞ。藤原摂家の頂点に立つ男でありながら、公方のような武家になりたいらしい。公方とともに、三好松永らを排除したいのだとか。一子相伝の『古今伝授』を武家の藤孝が継ぎ、御所のあらゆる公家の頂点に君臨するはずの関白が武芸を好み公方とつるんでおる。いよいよ乱世も極まれりじゃのう、ほ、ほ、ほ」
煮ても焼いても食えなさそうな三条西実枝の相手は、直江大和に任せた。
和歌の世界にひかれている景虎は(歌道を志す者として「古今伝授」が気になるが、一子相伝とあれば知るよしもない。やむを得まい)とつぶやき、宇佐美定満一人を連れて、関白邸へと向かった。
頭から白い
越後に神将・長尾景虎ありということを天下に
景虎自身は、(京の人々は口数が多いな。噂好きらしい)といい気分ではなかったが、今、自分は都という「天下」の世界に来ているのだ、と思うと身が引き締まる。関東遠征に、川中島での武田晴信との攻防。若き景虎の義将としての働きは、これからはじまるのだ。天下が、景虎がまことの義将か否かを、じっと注目して見ている――。
「しかし宇佐美。三条西さまは公家であられるのに、白塗りではなかったな」
「この乱世だからな。白塗りの化粧をするのは、参内する時だけじゃねえのか。面倒なんだろう。それに」
「それに?」
「あの野郎は、曲者だぜ。大金を積んだら素知らぬ顔で館をオレたちに開放したが、裏では武田・今川方に通じていやがる」
「武田に?」
「この戦乱だ。都はしばしば戦場となる。そのたびに、公家たちは都落ちして地方の大名のもとへと逃れるのさ。三条西は、甲斐や駿河へ何度も下向している。むしろ東国のほうにあの野郎の本邸があると言っていい。今、あいつが都にいるのは、青苧座の利権の調整を直江に持ちかけられたからさ。都に不在じゃあ、好機を逸するからな」
「……そうなのか。公家衆が続々と都落ちせねばならぬとは……異常のことだな。それも、権大納言さまほどのお方が。それで、館があんなにも簡素なのだな」
「景虎。聞いているのか? 三条西は、近頃では晴信の妹・武田信繁のもとに居着き、信繁に和歌の講義をして食っている男だ」
「晴信の妹のもとに?」
「ああ。武田家では、副将の武田信繁がうちの直江大和のような立場で外交の仕事を仕切っているらしい。三条西は武田・今川と通じているんだ。羽振りの良い地方大名に頼って生きていこうとする公家は多い。そういう武力を誇る地方大名のもとで暮らしていれば、安全だしな。なにしろ三条西家には、青苧座の件があるだろう。為景の旦那がそうとうにやらかしたおかげで、三条西は長尾家に含みがある。それで武田・今川に近づいたのかもしれん……ある意味、武田が都へ送った
「それでは、わたしに刺客を放ってくるのか?」
「それは問題ねえ。公家は
る『天下人』三好松永のほうがやばいぜ。全身が下克上の権化のような主従で、松永弾正に至っては毒を用いるという。しかも、どちらも女だ。女は女に容赦しねえ。武田晴信どころじゃねえぞ、晴信は謀略を用いるとはいえ、できうる限り甲斐武田家の当主らしく堂々の合戦で決着をつけようとする意志はある。しかし得体の知れない出自の松永弾正は
「そんな者が、天下人の隣に侍っているのか……魔の都だな」
「主君の三好長慶は、さすがにもう少し常識人らしい。が、松永弾正は滅茶苦茶だ。長慶がいなければ、弾正は将軍だろうが管領だろうが平然と殺しかねない、そんな魔性の姫武将だという」
三好長慶と松永弾正か。こたびの上洛に率いてきた兵力ではさすがに堂々と開戦しても倒しきれぬな。景虎は「都の秩序を回復し幕府を立て直すには、もっと多くの兵が必要だ」と唇を噛んでいた。
「そちが、義輝が『天下無双をも越えた者』と絶賛している、長尾景虎か……紹介状はすでに読んだ。驚くほど小柄だな。しかも、天子と見まがう異相の持ち主とは。義輝を無刀でさばいて倒すなど、尋常の人間ではなかろう。源義経以来の戦の天才という評判は、嘘ではないらしい」
藤原氏の「氏長者」。若き関白、近衛前久。
やまと御所はうち続く混乱によってなにもかもが滞っており、とりわけ将軍管領と三好松永の大戦と将軍管領の都落ちという大事件があったため、正式にはまだ関白となっていないが、すでに就任は決定していた。
武芸を好み、従兄弟の足利義輝とともに塚原卜伝のもとで太刀を学び馬で駆けることから、武家関白、とも呼ばれている。
本名は
景虎の生涯を大きく変えてしまうことになる男と、ついに、景虎は対面し
ていた。
まさに公家の中の公家、貴族の中の貴族。
男の面相などに興味のない景虎が「光源氏とはこのような貴人だったのだろうか」と想像するほどの、美丈夫である。
細川藤孝のような「女めいた」美しさではなく、まさに男臭さと優雅さを兼ね備えた美男であった。
血が繋がっている従兄弟の足利義輝が優雅さのかけらもない巨漢であるのに対して、近衛前久は優雅さと男臭さの二つを兼ね備えている。この男が武家の魂と公家の血を同時に併せ持っていることは、誰の目にも明らかだった。
「それにしても景虎。私は姫を恋に落としてしまう特技を持っていて、都では『乙女殺し』と呼ばれているのだが、そなたは顔色一つ変えぬな。その赤く輝く瞳には、私の眼力も通じぬらしい。さすがだ」
「『乙女殺し』、ですか? それは、技なのでしょうか……?」
「半ばは藤原摂家という血筋の力であろう。だから純粋な技とは言えぬが、都ではそれなりに重宝する。まつりごとを為す上ではな。もっとも残念ながら、戦には役立たぬ。武よりも文が尊ばれた『源氏物語』の時代であれば、強大な力となったのであろうが」
近衛は「そなたの
宇佐美定満もまた(こいつは異才だ。が、御所の頂点に立つ関白としてはこの男はどうか。オレのように武家に生まれついていれば才能を発揮できるだろうが、公家を束ねる人間としてはあまりに破天荒すぎるのではないか)と藤原家のために危惧した。
そして近衛前久は、野望の持ち主でもある。
「私も武を求めて卜伝のもとで剣の腕を磨いたが、さすがに義輝にはかなわぬ。あれは、まさしく剣を振るうために生まれてきたような剣鬼将軍。その義輝を無刀で制するとは、景虎、そなたは間違いなく只者ではない。三好長慶と松永弾正の専横を、そなたならば抑え込めるかもしれぬな……が、毒には用心せよ。弾正は、毒を使う」
「承知いたしました。関白さまへの贈り物は、宇佐美が運んできております」
「銭なら要らぬ。食えるだけの分があればよい。私が欲しいものは、武具と馬だ」
「武具!?」
「私は、三条西のように地方大名のもとで歌などを教えて寄宿していこうとは思わぬ。私は藤原摂家に生まれた関白であるからには、天下を動かしたい。わが従兄弟とともに――関白と将軍とが歩調を合わせれば、この大乱を終わらせることができるとは思わぬか、景虎」
御所と幕府。天下に君臨する権威と武家の統領とがともに歩むことができれば、必ず、と景虎は思わず身震いしながら答えていた。
そして近衛前久もまた、天女めいた異相を持つ景虎に、未知の可能性を見出していた。
「しかし今の幕府には、兵力が足りぬ。応仁の乱以来、管領細川家もすでに死に体となり、足利将軍家が自ら管理している土地はもう、ほとんど残っていない。対する三好には、本国である四国から次々と送り込まれてくる兵力がある。義輝がいかに一騎当千の剣豪将軍であろうとも、兵力なくして三好松永には勝てぬ。ゆえに、義輝は朽木谷へ落ちることとなってしまった」
「近衛さまは、落ちぬのですか」
「たしかに、都に居座っていればこの命、危うい。何度も松永弾正の放った忍びに襲われもした。が、ことごとくを斬り殺した――将軍が不在である以上、関白だけでも都に留まらねば、三好松永は姫巫女さまをも廃したてまつるやもしれぬ」
「……まさか?」
「三好長慶は陪臣とはいえ四国の名族ゆえまだ話が通じるが、松永弾正ならば、やりかねぬ。が、そなたが生きる東国も下克上の世になっているようだ
な……今や、三条西は武田家や今川家と御所を繋ぐ役目を果たしている。駿河の今川義元は、大軍を率いて上洛し、幕府の実権を握ろうとしている。尾張の織田信秀と美濃の斎藤道三、この二人の『下克上の男』が邪魔をして立ちふさがっているために、上洛が遅れているようだが」
西国の大名はなにをしているのでしょう? と景虎は思わず尋ねていた。
「中国を制覇し、もっとも天下人に近かった大内義隆は、下克上によって殺された。武家でありながら、公家趣味にかぶれすぎたせいよ。豪壮で知られる出雲の尼子家も衰退しつつある。そして、
今川義元を担いで太原雪斎が上洛すれば、義輝を将軍として祭り上げながら、今川義元が副将軍あるいは管領となって政権の実権は雪斎が握るという、今川家による「武家政権」が成立するばかり。それでは、この乱世は収まらぬ、と近衛前久は説いた。
「義がない、というのでしょうか。わたしは、今川義元と太原雪斎は、不義と言えるほどの悪行は働いていないと思いますが……」
「義のみでは乱世は終わらぬ、景虎」
「しかし、駿河今川家の兵力は十分です。
「景虎。今まで通りの『武家政権』ではダメだと、私は言っているのだ。宗教的権威がやまと御所にあり、地上を統べる武力を武家が持つ。この二重構造が、日ノ本が混乱を極めているひとつの原因だ」
「ならば、どうすればよいのでしょう」
「関白である私自身が将軍義輝とともに兵を率いて、公武を合体させる。武家だけでなく、公家もまた血を流して合戦場を駆けることで、公武合体政権を誕生させる。景虎。私は、
散っていった。たしかに天運なく敗れはしたが、北畠顕家の戦いには義があるとは思わぬか?」
「……北畠顕家公……」
「足利が北畠に敗れていれば、あるいは和睦していれば、公武合体は成ったはずだ。この国における神権と王権の二重構造は、解消できたはずだ……今の将軍・義輝と私とは、血が繋がった従兄弟同士にして、幼なじみであり、
いずれ私が「戦う関白」として東国の兵を率いて上洛し、三好松永を一掃し、公武を合体させる。両者が合体してしまえば、御所が南北朝に分裂することはもう、ありえない。神権と王権とが姫巫女さまのもとに統一された時、この戦乱は終わる。
「が、今川と雪斎にはそのようなわが野望を語っても、理解されぬであろう。雪斎はあくまでも、旧態依然とした足利の血筋による武士政権を復興しようとしているのだからな。それでは三好が今川と入れ替わるだけなのだ。たしかに壊れた秩序を復興することも必要だが、なにもかもが元通りになるだけでは、同じことの繰り返しになる。景虎。義将であるそなたが、義輝と私の『兵』となってくれぬか」
他の武士にこのようなわが志を説いても理解されまい。しかしそなたは別だ。御所と幕府の両方に仕え、双方の「盾」になってくれぬか、と近衛前久は鷹のような目を輝かせながら、景虎に訴えた。
宇佐美定満が、(まずい)と景虎の袖を引いていた。
さすがに、いつものゆるい口調では、語りかけられない。相手は、公家の頂点、関白なのである。
「戦場では景虎さまの背後で寝ているだけの男ですが、長尾家の軍師として口を挟ませていただきます。まことに希有壮大ですが、即答できる話ではありません、近衛さま。これほどの大事とならば、時間を掛けて下準備を行わねばなりません。奥州に派遣され東国兵を束ねていた北畠顕家公は、そのわずか二十年の短い生涯の間に義を貫き武神とも言うべき無類の強さを誇りましたが、最後には足利尊氏に敗れました。それは、南朝方からの上洛命令があまりにも急で、東国で下準備をする十分な時間を与えられなかったからです。合戦の天才であった北畠顕家がもしも東国に盤石の基盤を築いていれば、必ず足利に勝っておりました」
宇佐美定満、その通りである、と近衛前久は頷いていた。
「南北朝の戦乱がはじまった当初、南朝は東国に北畠顕家を派遣したのみで、西国をほとんど放置していた。それ故、いちど奥州より長駆上洛してきた北畠顕家軍に打ち破られた尊氏は、九州で勢力を盛り返し、最後の勝利を収めたのです」
「その点、問題はない。南朝方も西国をおろそかにしたことを反省し、その後、九州に
「景虎さまは、関東管領上杉家の復興と、信濃川中島の防衛という二面作戦に入っています。大軍を率いて上洛するには、なお時間が必要となります」
「そうだな。私は、関白でありながらなにもできぬ己の境遇を前に
「ですが……ひとつ気がかりなことが。将軍さまと関白さまとが決裂するという可能性は、ございませんか。関白さまの公武合体策を、将軍さまは……義輝さまは承知しているのでしょうか?」
「むろんあれは武家の棟梁。心より承知はしておらぬが、理解はしてくれている。公武合体こそが、南北朝分裂からはじまった戦乱を終わらせる『遠回りの早道』であることを……が、私の発想は新しすぎる、とは常に言っているな……しかし私利私欲を持たず、『義』によって戦う、景虎ならば」
景虎は「ともに戦いましょう」と近衛に即答したかった。が、宇佐美定満
がこれほど必死で景虎と近衛の意気投合を阻止しようと粘ることも、理解はできた。景虎も近衛も、性急な性格だった。情熱に生きる人間として、よく似ていた。しかし、情熱だけではこれほどの大事は為せない。宇佐美は軍師として、「周到な計画と準備が必要だ」と二人を制したのだ。
明後日、御所へ参内せよ、姫巫女さまへの拝謁を果たしていくがよかろう、と近衛前久は景虎に告げていた。
「姫巫女さまは、そなたに『住国ならびに隣国
東国の秩序回復は、近衛さまの志を実現する上でもどうしても必要なことです。わたしは戦います、と景虎は告げていた。
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