第十四話 川中島の邂逅(前)

 上田から千曲川沿いに葛尾かつらお城を越えてさらに北上すると、善光寺平ぜんこうじだいら(長野盆地)に出る。南部には千曲川と犀川さいがわとに挟まれた広大な中州地帯――川中島。犀川を渡ると、北信における諏訪神社に比すべき善光寺。その善光寺の北には北信五岳がそびえている。修験道と忍びの山である飯縄いいづな山。飯縄山のさらに北には、まるで龍の背中の如き山が天を塞ぐかのように聳えている。

 戸隠とがくし山――。

 戸隠忍びたちの聖地であり、かつては比叡山・高野山と並ぶ霊山であった神の山。

 この日の早朝。

 一万の兵を率いて塩田城に入った武田晴信は、一人でこの戸隠山を登っていた。真田と戸隠の忍びたちを生みだしたという戸隠山を自分の目で確かめたかったのだ。それに、越軍との決戦場となる善光寺平と川中島を山上から見下ろしたかった――妹の信繁が「同行する」と執拗しつように言いつのったが、振り切っていた。無論、用心深い晴信がほんとうに単独で敵地に入るはずはない。晴信自身にも気取られぬ形で、真田忍びたちが結界を張っているはずである。「とび加藤」こと加藤段蔵率いる戸隠忍びたちが晴信の正体に勘づいて暗殺をはかったとしても、真田忍びが阻止するはずであり、しかもその戦いは晴信自身にもうかがい知れぬ闇の中で行われるはずだった。

 しかし、加藤段蔵は仕掛けてこない、と晴信は知っていた。

 段蔵がたとえその気になっても、長尾景虎が暗殺を許さないだろう。

 長尾景虎は、武将と武将との争いは堂々の合戦で決着をつけねばならないと信じ切っている。

 晴信にしてみれば、愚かなことだった。

 合戦ともなれば、無駄に兵士たちの血が流れ多くの命が失われるのだ。

 だが、それだけ景虎には自信があるのかもしれない。決戦すればすなわち必ず勝つ、と。

(戸隠奥社の「石」には近づいてはなりませぬぞ御屋形おやかたさま。月のものがある大人の女が近づいて「石」の力を浴びれば助かりませぬ。大人には耐えられぬのは男とて同様。いずれ戸隠山は武田が支配せねばなりませぬ。ですが、「石」の扱いには慎重を要しまする。不思議なことに――甲州金山に導入した最新技術の「灰吹法」に用います「鉛」のはこによって「石」を覆い隠すことで、致死性の「石」の力をある程度防ぐことはできまする。おそらく奥社の「石」は「鉛」の匣に収められておりましょう。ですが、直接「石」を見れば、命はありません。それはいわゆる「たたり」などとは違うものです。くれぐれも妙な好奇心を抱かぬように)

 武田家に膨大な金を与えてくれる最新鋭の灰吹法。

 戸隠の「ご神体」こと「石」。

 金も石も、いずれも「鉛」を用いることで人間が制御しているらしい。

 山の民との交流が深い山本勘助の言葉を繰り返しながら、晴信は馬を進めて戸隠の山を登り続けた――中社の前に辿たどり着いた。

(なるほど。どちらも鉛によって操れるが、より純度の高い金を鉱石から取り出す灰吹法とは逆。「ご神体」の正体は、目に見えぬが実在する「力」を発する鉱石というわけね……その石の力が、人体になんらかの影響を与えるというだけ。浴びた者の多くは死に、耐えきった者のみが忍びとしての技を得ることができる。やはり、この世界にほんものの「神」などは存在しないのね)

 白い霧が、深い。馬から下りつつ、戸隠の「石」をいかにするべきか晴信

が思案しながら顔をあげると――。

 鳥居の左右に、高い杉が伸びていた。

 その杉の下に、真っ白い行人包ぎようにんづつみをすっぽりと頭から被った、小柄な少女がいた。

 晴信よりも数歳年下だろうか。

 顔の大部分を行人包で隠しているが、肌が白く、瞳が、赤い。

 白い霧の中に、うっすらとその白い肌と赤い瞳とが、浮かび上がっている。

 無数の小鳥たちが、その少女の身体を守るように飛び回っていた。

 これは現世の光景なのだろうか、と晴信は息を飲んだ。

 視線が、合った。

 ぺこり、と少女が頭を下げた。

「……こんにちは。綺麗な、人……」

 消え入りそうな、しかしりんとした声だった。

 綺麗なのはあたしではない。この子だ。まるで雪の精のような、と晴信は思った。

 この世に神などいない、という晴信の信念が、揺らいだ。

(もしもこの世界に神がいるとすれば――このような姿で顕現するに、違いないわ)

 言葉が、出てこなかった。

 晴信は、自分が敵地に潜入していることを、しばし忘れた。

「こ、こんにちは」

 かろうじて、言葉を返していた。

 自分は戸隠の山の神に出会っているのだろうか、と疑った。

 少女もまた、晴信を驚いたように凝視している。

 だが晴信のような恥じらいは、その視線にはない。

「……ほんとうに、綺麗な人。背が高くて、凜々りりしくて……そして、とても意志の強そうな瞳」

 純粋無垢むくな視線だった。

 晴信に、憧れの気持ちを抱いているようだった。

 見つめられている晴信のほうが、恥ずかしくなった。

 ともあれ、偽名を名乗らなければならない。晴信とも勝千代とも名乗ってはならなかった。

 少女が、晴信の顔をなおも凝視しながら、つぶやく。

「……わたしは……見神けんしんを……感じるために」

 見神。

 それは、越後で広く信仰されている、山の神の名だった。

 正式名称を、大山津見神おおやまつみという。

 神話にいわく、天津神あまつかみ一族が天孫降臨した際に、天津神の長である瓊瓊杵尊ににぎのみことは、地主神である大山津見神の二人の娘、木花之開耶姫このはなさくやびめ磐長姫いわながひめめとったという。

 つまり大山津見神は、天津神以前の古い地主神であったらしい。

 北信五山の美しさと神聖さにかれて、少女は、しばし己の持ち場から離れてこの戸隠山に登っていたのだった。「山の神」を、感じたのだ。これより川中島で合戦をはじめなければならない己の業と罪を、少女は、戸隠の山の神に伝えねばならなかったのだ。

 しかし唐突にその少女に出会った晴信は、それが彼女自身の名なのだ、と聞き違えた。現実主義者で学者肌の晴信は、神の実在など感じたことがなかった――たった今まで。この雪の精のような少女と、出会うまでは。

「あなたの名は『見神』というの? 奇遇ね。あたしもそう。あたしの名は……『神見しんけん』よ」

 とっさに相手の名をひっくり返して、名乗った。

 偽名を用いて少女を偽るつもりは、なかった。自分がほんとうに、甲斐の国主武田晴信ではない、ただの山の民の少女であれば、と晴信は思った。

「……神見……ちゃん」

 見神と呼ばれた白い少女は、ぽっと頬を赤らめていた。

 彼女の肌は、雪よりも白い。

 感情がそのまま、顔の色になって表れるのだ、と晴信は気づいた。

「……わ、わたしは、同年代の女の子とはあまり話したことがないの」

「あたしは奥社へ向かっているのだけれど、あなたは?」

「……わたしも、奥社まで行くつもりだったの」

「それじゃあ、一緒に行きましょう」

「ええ。鬼ごっこをしながら」

「お、鬼ごっこ?」

「わたしは山育ちなのだけれど、山で鬼ごっこをして遊んだことがなかったから。いちど、してみたかったの。わたしが鬼ね。奥社に着くまでに捕まえたら――あなたの勝ち」

「ちょ、ちょっと待って。危ないわ」

 小柄な見神が、駆ける。

 岩から岩へと、まるで身体に重さがないかのように軽々と飛び跳ねていく。

 晴信は山登りが苦手だった。見知った山道を馬で進むことは得意だが、自分の脚で駆けることは滅多にない。

 体力も歩幅も晴信のほうが上回るはずなのに、なかなか追いつけない。

「待って。岩がこけむしていて、滑りやすくなっている。気をつけて!」

「ふふ。わたしはだいじょうぶ。ちっちゃくて、軽いから――大人みたいな身体つきのあなたこそ、気をつけて」

「あ、あたしは太ったりしていないわ!」

「知ってる。とても女の子らしくて、綺麗な身体――わたしは自分が女の子に生まれてきたことを忌まわしく思っていたけれど、気が変わったわ。あなたのような美しい女の子に、なりたかった」

「あたしはそんなんじゃ……あっ。待って。待ちなさい!」

 少女は、自分が感じたことをまっすぐに言葉にするらしい。

 晴信がそのあまりのまっすぐさに戸惑うと、詰めていた距離をまた引き離されてしまう。

「あははっ。鬼ごっこって、楽しいのね! これで雪が積もっていたら、あなたに雪まんじゅうを投げつけられるのに」

「見神ちゃん。あたしのほうばかり見ていないで、前を見て!」

「だいじょうぶ……あっ」

 見神が、脚を滑らせた。

 晴信は「危ない」と滑り込んで、少女の小柄な身体を抱き留めていた。

「ふう。だから、危ないと言ったのに」

「……捕まっちゃったわ。次はあなたが鬼ね」

 ほんとうに、軽い、と晴信は驚いていた。

「け、見神ちゃん? 追いかけっこも楽しいけれど、どんどん山道が急になってきているから。ここからは、一緒に並んで進みましょう」

「慎重な性格なのね」

「ずいぶんでたらめに走ったから、奥社への道がわからなくなっちゃったわ」

「平気よ。小鳥たちが、教えてくれるわ。行きましょう」

「鳥、が?」

 晴信は勘助から戸隠の地図を託されていたが、必要なかった。見神は「戸隠にははじめて来たの」と笑いながらも、道を間違えなかった。太陽の位置を確認せずとも――この日は朝から曇り空で、太陽が見えなかった――東西南北が正確にわかるらしい。彼女は、常人とは異なる感覚を持っているようだった。やはり、山の神なのだろうか。

「戸隠にはやしろがいくつもあるの。その多くが、天岩戸あまのいわと開きの神話に登場する天津神の神々。火之御子社ひのみこしやには、天岩戸に隠れた天照大神あまてらすおおかみを引き出すために踊った天鈿女命あめのうずめのみことが祀られている。たった今わたしたちが訪れた中社には、天岩戸開きを立案した知恵者の天八意思兼命あめのやごころおもいかねのみことが。わたしたちが向かっている奥社には、天岩戸をその腕で開いたという怪力の神・天手力雄命あめのたぢからおのみことが。高千穂から放り投げられた天岩戸は信濃に落ちたんだって。その天岩戸が、この戸隠山――」

 見神ちゃんは――人の世よりも、神々の世のほうに惹かれているみたい、と晴信は思った。ほんとうに、楽しそうに話している。

 だが、やはり、身体が弱いらしい。

 山道の途中で息が切れ、辛そうに座り込んだ。

「……うう。はしゃぎすぎたみたい」

 晴信は、少女の手を取った。

「だいじょうぶ? お腹がすいたのなら、ほうとうを炊くわ」

「ううん。にぎりめしがあるから。日頃は米は苦手なのだけれど、山を登るとなると食べないともたない」

 奥社へと登る山道の途中で、「見神」はおにぎりを懐から出して、頬張りはじめた。

(……は、白米!?)

 大名とはいえ甲斐育ちの晴信にとって、白米は祝い事の席でしか口にしない貴重なものだった。が、見神は「苦手だけど」と言いながらおにぎりをはむはむとかじっている。

「全部は食べきれないから、神見ちゃん。あなたに半分あげる」

「あ、ありがとう。食が細いのね」

 見神が半分かじったおにぎりを、晴信は照れながら口に入れた。

 白米を弁当に用いて、しかも半分残すだなんて。

 この子は、越後から来た少女なのだろうか。

(赤い瞳。雪のような白い肌。異形の姫……)

 もしかして……まさか。

 晴信は(この子があの長尾景虎なのだろうか)という疑惑を、けんめいに振り切った。

 見神は、心に一点のけがれもない、神の子のような少女だった。姫大名として合戦に明け暮れている少女であるはずがない。姫大名として生きれば、たちどころに、手を汚し、心まで汚れる。合戦で敵味方の将兵の命を奪い、捕らえた敵兵たちを奴隷として金山へ送り込まねばならない。家臣の謀反を疑わねばならない。乱波らつぱたちを操らねばならない。

 すべて、晴信自身が、味わい尽くしていることだった。

 長尾景虎は、兄から越後守護代の位を奪い、越後上杉家から守護の位まで奪った。その両者とも、景虎に自分の位を奪われてすぐに、死んでいる。用済みとなったので暗殺されたのだ、という噂もあった。噂がほんとうならば、父親を追放した晴信よりもはるかに罪深く、そして、野心に満ちた姫大名だということになる。

 この雪の精のようなはかなげな子が、そのような存在であるはずがない。

 

中社から奥社まで、二人は、手をつなぎながら登った。

 お互いに、言葉は要らなかった。

 もう、武田晴信も長尾景虎も、ない。

 今はただ、こうして偶然巡り会った「お友達」と、一緒に過ごしていたい……晴信はそう願い、そして、見神もまた、同じことを願っているらしい。

 不思議だった。

 まるで、生まれながらの友達同士だったかのような、懐かしい感覚を、二人は抱いていた。

(あたしは……まるで……この子と出会うために、この地上の世界に人として生まれてきたかのような……なぜ、こんな気持ちになるのだろう。たぶん、「源氏物語」に描かれている恋心とも違う。次郎ちゃんたち家族に抱く感覚とも違う。わからない。でも)

 でも、とても幸せだわ、と晴信は思った。

 これが「友情」なのかもしれない、とも。

 二人の間には、身分も主従関係も血縁もない。

 ただこうして、一緒に寄り添っていたいという想いだけが、あった。

 武田家の嫡子として生まれてきた晴信がはじめて築いた関係とはじめて知った感情が、そこにあった。

 見神も――同じ感情を抱いてくれているらしい。

 表情を見れば、すぐに、わかった。

 戸隠山の登山道の入り口に鎮座する奥社へと登りきった時、ようやく、見

神が口を開いた。

「神見ちゃん。ここが奥社――奥社の中には立ち入ってはならない洞窟が。そしてここが、戸隠山へ登る山道の入り口よ。すぐ近くにも、『龍窟』があるらしいの……ここだわ」

「龍窟? 地主神が祀られている洞窟ね」

「そう。九頭龍大神くずりゆうおおかみが封じられているの。『石』によって――もっとも『石』がどこにあるのかは、わからない。戸隠には三十三の洞窟があるそうだから。九頭龍大神がもともとの戸隠の神で、天津神は天岩戸と呼ばれる『石』とともに後から来たのね。おそらくは奥社の奥に延びる洞窟の中に、『石』があるのでしょうけれど」

「諏訪神社の御柱おんばしらと似ているわね。諏訪でも、出雲から流れてきた建御名方神たけみなかたのかみを主神として祀っているけれど、地主神はミシャグチ神と言って、蛇と龍の神だったらしいわ」

「そう。諏訪のことはわたしはあまり。あなたは、諏訪に詳しいのね」

「……あたしが、というよりも、あたしの知り合いに、妙に山に詳しい人たちがいるの」

 その人たちの名が、山本勘助と真田幸隆だとは、言えなかった。

 こうしている間だけは、山の下の世界のことを……人間たちの世界のことを、忘れていたかった。

 二人は目の前に広がる戸隠山の勇姿を眺めながら、「まるで龍の背中のように見えるのね」「雪が積もると、もっと龍らしくなるんだって」と囁き合っていた。

 晴信は、戸隠の山の奥底に閉じこもって俗世を捨て、修験道の修行に生涯を捧げる山伏たちの気持ちが、はじめてわかった気がした。一人では無理だろう。だが、隣にこの子がいてくれれば……人の世の合戦も謀略も野望もなにもかもを捨てて、彼女と手を握りながら山の神のもとで生きていけるならば、それはきっと――とても幸福なことなのだろう。もちろん、それはかなわぬ願いだった。父・信虎を甲斐から追放した自分には、決して選ぶことの

許されぬ道だった。泣きたくなった。

「神見ちゃん? また、お腹がすいたの?」

「え? ち、違うわ。あまりにも戸隠の山が綺麗だから、つい」

「あなたのほうが綺麗だわ」

 もう一つ、新たにおにぎりを取り出した見神が、「わたしは一口だけでいいから、あとはあなたが」と晴信におにぎりを差し出してきた。

「……わたしは、生まれた時から周囲がみんな男ばかりで、女の子のお友達がいなかったの。お姉さんはいるけれど、早くに嫁いでしまったし。し、神見ちゃん? あなたが、わたしにとってはじめての女の子のお友達よ」

 ほんとうに、嬉しそうだった。表情と肌の色に、すべての感情が表れるのだ。もしかして長尾景虎ではないか、と疑った自分が恥ずかしかった。もしも彼女が「人の世」で名乗っている名が、長尾景虎だとしても――だから、なんだというのだ。

「……おにぎりをもらってばかりじゃ、悪いから。ほうとうを炊くわ。甲斐味噌は美味しいのよ? わたし、本国は甲斐なの。信濃には、善光寺参りに訪れているの」

 ほんとうは善光寺平を奪うために武田軍を率いて乗り込んできた、とはこの山の神のような清純な少女にはとても打ち明けられなかった。彼女が長尾景虎であろうとも、そうでなかろうとも、彼女をこの合戦に巻き込みたくない、なんとかして合戦がはじまる前に善光寺平から越後へ返してあげたい、と晴信は思った。

 だが、どうやって伝えればいいのだろうか。

 しかし、見神は、意外なことを口走っていた。

「あ、赤味噌は食べられないから、遠慮するわ。ごめんなさい……」

「え? 味噌が? どうして?」

「……よくわからないけれど、大豆を口にすると、倒れてしまうの。身体が受け付けないの……日の光も、わたしの肌にとっては毒になるの。あまり長い時間浴びていると、肌が腫れ上がってしまって。今日は曇ってくれたから、山に出られたけれど」

「……そう……だから行人包ぎようにんづつみで顔を覆って。それで、お友達が少ないのね」

「日の光も苦手なのだけれど、この姿を人目に見られて、気持ち悪がられるのが嫌で。殿方たちは、わたしを美しいとか言うけれど……その褒め方が……なにか違う気がするの。わたしがあなたを綺麗だって思うのとは、ちょっと違う。うまく言えないけれど……殿方は、怖い」

「怖い? どうして?」

「……わからない……でも……わたしは、誰にも嫁ぎたくないの。同性のお友達すらいないままに、殿方に嫁ぐなんて。わたしは……誰とも祝言を挙げたくない。わたしの子もまた、わたし同様に、うさぎのような白い肌と赤い瞳を持って生まれてきたらと思うと、不憫ふびんで」

「不憫だなんて。あなたは綺麗だわ、見神ちゃん」

「綺麗というのは……神見ちゃん。あなたのような目鼻立ちが整っていて、健康そうな身体を持った女の子のことを言うのよ。わたしは、違うわ。人間の女の子として美しいんじゃないの。みんな、まるで、わたしを、人間ではないなにかを見るかのような目で……家族のような優しい視線でわたしを見てくれる殿方もいるけれど、それは幼い頃から一緒だった一部の者だけで」

「殿方の視線が、敏感なあなたには痛いのね」

「あなたは、怖くない?」

「ええ。あたしは、父上に愛されずに育ってきたから。むしろ、殿方があたしを憧れの目で見てくると、自分自身を誇らしく思うわ。人はね。求められるよりも、相手にされないほうがずっと辛いのよ。愛されるよりも、嫌われるほうが、ずっとみじめよ」

 あたしと勘助とを結びつけたのは、その「誰にも必要とされない」という孤独故だった、と晴信は勘助との出会いを思いだしていた。

「そんなことが? わたしも、父上からは遠ざけられて育てられてきたけれど……わたしの場合は、こんな見た目で、長くは生きられない身体だから、それも仕方のないことだと……でも、あなたが、どうして」

「わたしは、臆病者だから。父上には、それが耐えられなかったみたい」

「そんな。あなたは、わたしがなりたかった理想のわたしそのものなのに。どうして、そんなことが」

「あなたのほうこそ。あたしがなりたかった、理想のあたしそのものだわ」

「……わたしに、なりたいの? こんな不自然な身体に、なりたい?」

「あたしは、心が黒々と汚れているから。野望の炎のようなものに、あたしはかれている。きっと、父上に愛されず遠ざけられていた反動で、そうなってしまったのだろうけれど。それとも、もともとあたし自身がそういう人間だったからこそ、父上に嫌われたのかも。あなたのような真っ白い綺麗な心が、あたしは、欲しかった」

「神見ちゃん。身体は、もう入れ替えることはできない。生まれながらに授かった身体とともに生きるしかないわ。けれど、心はいつだって変わることができるわ。あなた次第で」

「……できるかしら」

「できるわ」

「でも心は、人と人との関係の中で生じてくるものよ。過去も未来も、すべての因縁はその中から生まれいずる。だから……世を捨ててしまわなければ、すべての人との関係を断ち切ってしまわなければ、心を純化することはできないのではないかしら」

「世を捨てるだなんて。今日、こうして出会ったばかりなのに。そんなことを言わないで」

 晴信は、見神が被っている行人包をそっと外したくなった。

 きっと、想像もできないほどに美しい素顔の持ち主に決まっているのだ。

 同性であるあたしが「美しい」と言えば、この子は安心してくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。

 しかし、彼女を守っている行人包を無理矢理に剥がしてはならない、と思った。

 そんな無粋な真似をして、嫌われたくはない、と。

(父上が言われたとおり、あたしは臆病なのだろうか)

 見神の白く小さな手を握りしめながら、晴信は、自分自身の過去を、想いを、語り続けた。武田晴信だと知られても構わない、と思った。

 見神もまた、越後の山に生まれ育った自分自身の昔話を、語った。

 お互いに、幼い頃から父親に愛されずに、捨て置かれてきた。

 そのような運命を背負った少女は、乱世に、大勢いただろうが――。

 互いに、繊細な性格と高い知性が、災いとなった。

 山本勘助――宇佐美定満――直江大和――自分を支えてくれる者たちに巡り会いながらも、なにかが、足りなかった。

「わたしは、死にゆく父上の前で、罪を犯した父上を許す神さまになりきって、お芝居をしたの。嘘をついてしまったの。だから、その嘘を、生涯、演じきらなければならなくなった。嘘だと認めてしまえば、父上の魂が救われないから」

「あなたは優しいのね。あたしは、父上と喧嘩別れしてしまったわ。あたしが家から追い出されるか、あたしが父上を家から追い出すか。二択を迫られたあたしは、父上を家から追い出してしまったの……どうせあたしを愛さない父上なら、最初から、いないほうがましだと……なぜ、自分から身をひかなかったのか、よくわからない。いろいろと理屈をこねたけれど……あたしは人として、最低なことをしてしまった。でも、もう、取り返しはつかない」

 あたしの正体はもう、この子に気取られてしまっただろう、と晴信は恐れた。

 実の父親を追放する娘など、この乱世にも、二人といない。

「でも。お父上を殺さなかったのだから、あなたは優しいわ」

 見神が、頬を赤らめながらきゅっと晴信の手を強く握りしめていた。

(あたしのこれほどの悪行を、許す者がいるはずがないわ。ただ一人を除いて)

 彼女は――長尾景虎なのだと、晴信もまた、この言葉を聞いた瞬間に、確信していた。

 越後に生まれ、そして生涯、人間でありながら神の化身を演じきらねばならない少女。

 白い肌に、赤い瞳――。

 他に、いるはずもない。

 見神が、いや、長尾景虎が村上義清に「見せ兵」を授けた時――激高して川中島で合戦をはじめてしまったことを、晴信は、深く悔いていた。

 だが、川中島で合戦を開始していなければ、こうして自分が彼女と出会うことはなかった。それもまた、皮肉な事実だった。

 長年抱いていた長尾景虎への憎しみは春の雪のように溶けて、そして、哀しみが溢れていた。

 景虎への哀しみ、そして景虎と出会っていながら、友として手を握って生きていくことのできない自分への哀しみ。

 もしも、どちらかが男であれば。

 越後長男家と甲斐武田家との当主同士が祝言を挙げ、そして、両国がひとつになるという道も、あり得たはずだった。

 そうなれば、晴信はもはや、今川家と北条家の顔色をうかがう必要はなくなる。むしろ、不敗の神将・景虎と智将・晴信とが手を組めば、今川も北条も数年のうちに苦もなく倒すことができるはずだった。難攻不落の小田原城とて、越後と甲斐から両者が挟撃すれば、守りきれるものではない。

 越後の海を手に入れた晴信が今川を追い落として東海道を手に入れて上洛の兵を興し、同時に景虎は関東へ出兵して小田原城を落とし関東管領家を復興する――それも決して、不可能ではない夢だった。

 いや、そのような利害関係など、どうでも、よかった。

 ただいちどの出会いで、お互いに、これほど心をかれ合っていた。

 外見も性格も志も、なにもかもが正反対の二人だったが――。

 お互いに、同じものを求めて地上を彷徨さまよい続けていると、知った。

 父親の愛情にえて苦しみ続けている姫大名が、自分だけではないと、互いに知り得た。

 まるで、地上に生まれいずる際に失われた、自分自身の半身に邂逅かいこうしたかのような――。

 だが。

 長尾景虎も。

 そして武田晴信も。

 姫大名、だった――。

「あたしの下界での名前は、武田晴信よ。あたしを廃嫡しようとした父上を……武田信虎を駿河へと追放して家督を奪った不義不忠の娘。でも晴信は武将としての名で、ほんとうの名は、勝千代」

「わたしは……長尾景虎。越後の春日山長尾家に生まれ、病身の兄上から家督を継いだ、姫大名。子供の頃は、虎千代と呼ばれていたわ。あなたを、騙すつもりはなかったのだけれど……」

「わかっている。あたしが勝手に聞き違えただけ。あなたの名を、『見神』と思い込んだだけよ」

「……ほんとうに、わたしが、見神だったならば……」

「あたしも、武田晴信などではなく、ほんとうに神見だったなら」

「ずっと、一緒にいられたのに」

「この山を下りれば、あたしたちは――下界で、敵同士として戦わなければならないのね」

 まだ、戦わねばならないと決まったわけではないわ、と景虎は言った。

 けんめいに、晴信を、引き留めようと、していた。

「わたしの父上はもう、この地上の世界にはいない。父上は越後の守護さまを殺し、関東管領さまを殺し、関東に尽きることのない無秩序な戦乱を巻き起こした人。わたしが義のために戦い関東管領家の復興のために戦うのは、父上の罪を娘として償うため。毘沙門天びしやもんてんの化身となったのも……自らが犯した大罪を恐れて惑っておられた父上の魂を救うため。毘沙門天は、義戦のために生涯を捧げよと。恋をすればわたしはその時、死ぬと……そう言われたわ。でもあなたとわたしとならば、同性同士。あなたとともに生きていくと

決めても、恋にはしることにはならない。毘沙門天もきっと認めてくれる。わたしとともに、義戦を戦ってほしい……ううん。戦わなくてもいい。ただ、わたしとともに、生きてくれればそれで」

 晴信は「あなたとならば」と頷きかけていた。だが、それは選べない道だった。

「毘沙門天なんて、どこにも存在しないわ。あなたの心が生みだした幻にすぎない……あなたにとって、お父上も、毘沙門天も、すべては観念の世界にしか存在しないもの。でも……あたしの父上は、生きているのよ。生きて、自分を追放したあたしに、こうささやいてくる。臆病者め。早く天下を盗らぬか、早く上洛せぬか、と……いつまで信濃ごときで手こずっておる。いったいなんのためにこの父を甲斐から追放したのだ、と……」

「あなたが、お父上の野望を引き継ぐ必要はないわ」

「ううん。追放した瞬間から……覚悟をしていたのよ。家臣領民を虫けらのように扱う父上のやり方では甲斐一国を切り従えるのが限界。海も土地もない甲斐から天下をうかがうには、最強の軍団を編成するには、家臣領民を武田家の家族として分け隔てなく受け入れる当主が必要だと……」

「その結果、諏訪家を滅ぼし、今また善光寺と戸隠を滅ぼそうとしているの?」

「信濃を支配してきた神の世を終わらせて、人の世を築き上げなければならないの。この戦乱を終結させるためには、仕方のない仕事よ。あなたがもしも、わたしとともに歩んでくれるのならば……」

「父上を失ったわたしは、義という観念を地上に実現するために生きるしかなくなった。お父上が生きておられるあなたは、地上の野望を極めねばならなくなった。わたしたちは双子のように似ているけれど、たった一点だけ、異なる境遇の持ち主だった。そういうことね」

「そういうこと、らしいわね。あたしの父上が病で没すれば、あるいは、あたしはあなたと同じ道を進めるのかもしれない。でも、父上はきっと、あたしよりもずっと長生きするお方だわ。とてもお身体が頑強だもの。精神力も

凄まじいわ。兵を率いて合戦を続ければ、いずれ戦場で討たれる可能性もあっただろうけれど、その道はあたしが塞いだ。あたしは生きる限り、父上の視線に見張られながら……武田家当主・武田晴信として天下盗りの戦を続けなければ許されないの」

「……わたしの父上は、越中の一揆いつき衆との合戦で命を落としたわ。わたしはなにもできなかった。せめて、父上の前で毘沙門天になりきって、父上の罪を許すと告げることしか……きっと、あなたはお父上を戦死する運命から救ったのよ。もう、これ以上お父上に縛られずとも」

「それはあなたのほうよ。あなたのお父上は、もう、死んでしまった。死ねば魂もない。あの世など、ないわ。存在しないもののために義戦を続けねばならず、毘沙門天の化身になりきらねばならないあなたの徒労は、あなたの命が尽きるその時まで、終わらない。そんな辛くて悲しい生き方をする必要なんて、あなたにはないわ」

「わたしが越後から逃げれば、春日山長尾家の嫡流は絶え、長尾政景が国主の座に就くだけ。そうなればきっと越後は分裂して、関東をも巻き込み、わたしの父上の時代以上に荒れ狂うことに。自分のお父上のまつりごとが民を苦しめ家臣たちを苦しめてきたことへの反省と後悔から、娘としてお父上の失策をあがなうべく国主となったのは……あなたも同じでしょう」

 そのとおりだわ、と晴信は思った。

 しかし、父親を追放して自ら甲斐の国主となってはじめて知ったこともある。一国の主たる者は、時には自らの手を汚し罪を犯さなければならないということを。山本勘助や真田幸隆たちが晴信に代わってその薄暗い仕事を務めてくれているということを……。

 だが、景虎は違うらしい。越後一国の当主であり続けながら、あくまでも「下克上の男」だった亡き父・長尾為景とは真逆の生き方を貫こうと決めているらしい。

 そんなことが、可能なのだろうか。

「わからない。でも、やるしかないの。わたしの父上はもう、この世界には

いないのだから……」

「あなたは死んでいない。生きているのに。それなのに、死者に囚われているのよ」

「そうかもしれない。でも、それを言うのならば、あなたは生者に囚われているわ」

 晴信は、景虎の志を美しいと思い、そして、景虎もまた晴信の志を気高いと感じている。景虎の赤い瞳を見れば、わかった。お互いに、相手に憧れと、そして尊敬の念を抱かずにはいられなかった。しかし、言葉は、すれ違った。この天上では――山の神々の世界では、想いがすべてだ。心と、魂と、そして言葉だけが、ここには存在している。修験者たちが飯縄や戸隠の山々に魂を惹かれ、そして俗世を捨てて神々の世界で生きたいと欲する想いを、晴信ははじめて自らの内側に見つけていた。

 だが人々が生きる地上の世界は、想いによってのみ成り立っているものではない。

 景虎は、それでもなお、神々の世界の美しさを手放すことなく、地上の世界に実現しようとしている。

 晴信には、その二つの矛盾する世界を同時に生きることなど、人間にはとても可能とは思えなかった。しかし、景虎ならば可能かもしれない、とも思った。わからない。出会ったばかりなのに、もう、置いていかれてしまうのだろうか。地上の世界の理を景虎に知らしめることができれば――「合戦」に勝つことができれば、あるいは、景虎を地上の世界に引き下ろして再び手を繋ぐことができるのだろうか。

 一人で行かないでほしい、ここに留まってほしい、と晴信は思った。

 景虎を抱きしめて、そのまま戸隠の山々の中に閉じ込めてしまいたかった。

 景虎もまた、それを望んでいるような、そんな気がした。

「……わたしは王道を目指し、あなたは覇道を目指している。話し合いを続けても、きっと、平行線ね」

「鬼ごっこを再開しましょう。負けたほうが、勝ったほうの望みを聞くの」

「そうね。二人だけの遊びにしておきたかったけれど。善光寺平で――川中島で、鬼ごっこを」

「将兵を無駄に死なせる意味はないわ。できうることならば、この戸隠の山で、二人きりで」

「この乱れきった日ノ本に、古き秩序と義を復興させられるか、それとも新しき人の世を切り開けるか。二人だけで決めてしまいたいけれど……わたしは越後の国主で、あなたは甲斐の国主。お互いに大勢の家臣たちがいて、領民たちがいる」

「……鬼ごっこで負けました、では……とおらない、わね」

「……ええ。二人が揃って国主の座を、捨てない限り」

「あたしには、捨てられないわ。父上を追放した罪までも、投げ捨てて逃げることになってしまう。それに、ね……地上の世界と神々の世界とは、共存することはできないわ、景虎」

「地上の世界の理が、毘沙門天の力に勝ると、あなたがわたしに教えてくれるの?」

「鬼ごっこではなく、善光寺平で。川中島で。合戦で、あなたに勝てば――あなたは、認めざるを得ない」

「自信が、ある? わたしは戦に負けたことがない。宇佐美から軍学を教わったこともない……これからも、きっと、負けない。村上義清に二度惨敗したあなたが、わたしを打ち負かせる?」

「わからない。でも……きっと、あなたに追いついて、捕らえてみせるわ」

「……戦をすれば、人が大勢死ぬわ。とりわけあなたの戦ぶりは、そう。わたしとは違うもの。残念だけれど、あなたにはわたしのような合戦の才能が、ない……たとえ、どれほどの犠牲を払うことになっても、わたしを捕まえるというの?」

「ええ。約束する」

「ほんとうに? きっとそれは、とても辛いことだわ」

「……それでも」

「武田晴信。あなたは欲が深いのね。わたしとはほんとうに、真逆みたい。でも……そんなあなたが、わたしは羨ましい」

 時間が、流れていく。

 日が暮れるよりも早く、下山しなければならなかった。

 二人きりで語らっていられる時は、尽きようとしていた。

 晴信は、景虎が素顔を覆っている行人包を剥ぎ取ってしまいたい衝動と戦いながら、「どこにも行かないで」と伝えたいという想いを抑えながら、景虎に告げねばならなかった。

「明日から直接戦うことに、なるわね。あたしは、川中島を――北信濃を、捨てられない。奪い取らなければならない。駿河へ出られぬ以上は、いずれ、越後の海へと。父上を甲斐から追ったあたしにとって、武田家を戦国最強となし上洛を果たすことだけが、父上に認められる唯一の道なのだから。そして、長尾景虎。あなたを神々の世界から引き下ろす唯一の道でもある」

 景虎は、そんな晴信の肩にそっと寄り添いながら、答えていた。

「……わたしを戦で破ることは誰にもできないわ。わたしは、毘沙門天の、化身だから……父上の前で毘沙門天として振る舞ったあの時から、ずっとずっと。きっと、死ぬまで。誰にも、わたしを神の高みから引きずり下ろすことは、できないの……でも」

 もしかしたら、あなたならば。

「戦場で……わたしを殺してくれるかも……しれない。死んでしまえば……もう……戦で人々の命を散らす日々からも……解放されるわ」

「いや……あたしは……あなたを守りたい。幸せに……したい」

「わたしも、同じ気持ちよ。あなたはわたしにとって、はじめての同性のお友達だもの……」

「だったら」

「でも俗世を捨てない限り、それは……無理なお話だわ。次に会う時は、敵同士よ。わたしは、戦場でも敵兵を決して直接殺さず、そして敵が降伏すればすなわち許すという不殺を誓っているけれど……」

「……残念ながらあたしには、そのような悠長な戦い方は……通じないわ。あたしはあなたほど戦に強くはないけれど、周到で執拗なの」

「多大な犠牲を払いながら村上義清を最終的に打ち破ったのも、あなたのその執念故ね。わたしには、ないものだわ。とても、眩しい」

「お互いに兵を率いて戦えば……問答無用で、互いの命を奪い合うことに、なるわ」

「……そのようね。それでもわたしは、不殺を貫くつもりだけれど」

 こうして戸隠の山で出会うまで――晴信は、会ったことのない景虎を、ずっと憎んでいた。しかしそれは結局――自分自身の影を憎んでいたのだ、と晴信は知った。ほんものの景虎は、これほどにいとおしい。景虎もまた、こうして邂逅するまでは自分を不義不忠の女と憎んでいたはずだった。しかしその憎しみは、すでに溶けて消えている。

「景虎。どうしても、村上義清たちのために、川中島で義戦を行うの? あたしよりも、義という観念のほうが、あなたには大切なの? あたしの望みには、応じてくれないの?」

「……村上義清や小笠原長時から、あなたは城と国を奪った。他国を侵略する者は、毘沙門天にとっては、許されざる敵なの」

「どうしても戦うのならば、せめて落とした城を長尾のものに。北条氏康とあたしをともに敵に回して、領土も奪わずに、義戦を続けるだなんて。そんなことをしても、壮大な徒労でしかない。どれほど戦に強くとも、無駄だわ。いったいなにができるというの。そんな身体で……命を、縮めてしまう」

「わたしは、毘沙門天の化身。戦場で死ぬことしか、許されないの」

「……あなたはそうやって自分自身の観念の世界に生きているのね。神々の気配を感じることのできない俗人であるあたしとは、真逆のようね……ともに同じ道を歩んで生きていくことは……」

「そのようね。あなたは、諏訪を滅ぼした。善光寺もそして戸隠も、滅ぼしてしまうでしょうね。加藤段蔵が言うには、諏訪と戸隠とが封じている九頭龍を駆り立てれば、日ノ本そのものが滅びてしまうらしいけれど……あなた

は、そのような神話など、信じないのでしょうね」

「……人間は人間よ。いにしえの神話に憑かれれば、目の前の人間の世界を見失って、人でないものになってしまうわ。あなたが、毘沙門天になってしまったように。たとえこの戸隠の地底に九頭龍が実在するとしても、人間ごときの力で駆り立てることなどできない」

「戸隠の『石』を手に入れて、忍びを増やすのでしょう? 大勢の子供を犠牲にして」

「そんなことはしたくないわ。『石』は――いずれ甲斐へと持ち去って、そして、壊すつもりよ。そう、決めたわ」

「神を恐れぬ者ね、あなたは」

「ええ。父親をも恐れないのだから、神を恐れられるはずもない」

 そうではない。

 あたしは今、目の前にいるこの少女の中に、神を感じているはずなのに。

 そうでなければ、彼女の顔を隠しているこの白い行人包を剥ぎ取ってしまえるはずなのに。

 すでに晴信の正体を知っていながら、景虎はまるで無防備だった。いっさいの殺意も敵意もない。剥ぎ取ろうと思えば、いつでも容易く剥ぎ取れる。それなのに、晴信には、どうしても手を伸ばすことができなかった。

 うぬは生涯なにをも手にする勇気を持てぬ臆病者よ、と信虎がせせら笑う声が、耳元で聞こえていた。

(うぬはな。己の幸福をすら、恐れるのだ。幸せを手に掴むことすら、うぬの弱き心を、傷つけるのだ。貴様の敵はわしではない。貴様自身なのだ、晴信よ)

 いいえ、違うわ。この神々の世界で景虎の行人包を剥ぎ取っても、意味がないの。地上の世界で――戦場で、剥ぎ取らなければ、景虎をこの手に捕まえることはできないのよ、と晴信は自分に言い聞かせていた。


 晴信と景虎は唯一無二の友として出会い、そして――宿敵として別れた。

 白い霧に覆われた戸隠の奥社から、二人がたもとを分かって下山していく中――。

 中社の鳥居を挟んで伸びる二本の杉。

 それぞれの頂上に、晴信と景虎を守る忍びが、立っていた。

「この霧は、才蔵どののご厚意でござるか。それともお二人の仲を邪魔する哀しみの霧でござるか?」

 晴信を守護する、猿飛佐助。

 南蛮貿易経由で駿河から入ってきたバナナを、手裏剣代わりに握りしめている。

「……私はなにもしていない。戸隠の山中に自然に湧いてきた霧が、二人を引き裂いたのだ。あの二人が偶然遭遇した時には、凄惨な殺し合いがはじまるのではないかと思ったが……分かちがたい友情が芽生えてしまうとは。悲劇だな」

 景虎を守護する、霧隠才蔵。

「よいことではござらぬか。憎み合うよりも慕い合うほうが、ずっとよいでござるよ。今は敵国の姫大名同士であっても、いずれは……拙者が抱く才蔵どのへの思慕の念もきっといつかは通じるでござる。にんにん」

「抱かなくてもいい!」

「いやあ。まさかうちの御屋形さまが、あの雪の精のような景虎どのに。どうやら人は、自分に似ていて、しかし決定的に自分とは異なるものを持っている相手に惹かれるらしいでござるな。そういえば才蔵どのも色白でござるな」

「……人はそうかもしれぬが、貴様は猿だ。だいいち私が色白なのは南蛮人なのだから当たり前だ。南蛮人はみな肌が白い……が、景虎が晴景に惹かれる理由は、わかる気がする。地上を己の脚で歩く者と、天上の世界を生きる者との違いがまぶしいのだ……景虎は常に孤独だが、晴信は、孤独ではない」

「ということは才蔵どのも、お友達たくさんの拙者に惹かれているのでござるな。真田の里は居心地がいいでござるよ。御屋形さまが隠し湯を次々と発見してくださるので、温泉にもかり放題でござる。うきゃ」

 才蔵は佐助の相変わらずな緊張感のなさに、いらだちを隠せないらしい。

「黙れ佐助。そのバナナはなんだ、ふざけているのか。ここで決着をつけるための戦いをはじめるか?」

「南蛮人の才蔵どのには懐かしい果物でござろう。あげるでござるよ」

「要らん。それは、南蛮の果物ではない。どうやって腐らせずに信濃にまで運んだのだ……佐助。武田晴信と長尾景虎をこのまま帰してよいのか。ここでどちらかを始末せねば、合戦になる。善光寺平に無駄に血が流れるぞ」

「うきゃ。とはいえ、互いに忍び衆が結界を張り合っているでござるよ。抜け駆けしたところで始末するのは無理でござろう。忍びの仲間同士が血を流すだけでござる、にんにん」

「……数千数万の兵が死ぬよりは、ましだ。あの二人に、そのような業を背負わせたくはないな」

「拙者は、才蔵どのと仲良くしたいでござるよ。日ノ本人にはおらぬ金髪と碧眼へきがんの持ち主で、美人ですからな、うぷぷ」

「貴様の目がおかしいのだ。私は日ノ本人どもから、天狗と言われるぞ。鼻が高く彫りが深い顔つきが怖いらしい……というか女同士で気持ちの悪いことを言うな!」

 いやあ。男とか女とか、そのあたりの人間の種類の区別はサルに育てられた拙者にはよくわからぬでござる、と佐助が頭を掻きながら「じゃ、またね。善光寺平で」と霧の中に姿を消していた。

 才蔵が「人を食った娘だ」と吐き捨てていると――戸隠中社に立った三本目の大杉の頂上から、由利鎌之助が声をかけてきた。善光寺と戸隠山の中間にそびえる飯縄山で術を手に入れた、飯綱いづな忍びである。

「男も女も同じ人間だよ。むしろ女の子同士で仲良くするほうが、いろいろと面倒がなくていいかもね。男と女の愛憎劇は厄介だものね、ふふ。ことに、

姫大名にとってはね……だからこそ長尾景虎は生涯不犯ふぼんを貫くつもりだし、武田晴信は姫武将ばかりを育てている」

「貴様は相変わらず男か女かわからぬな。そして、長尾につくのか武田につくのかもわからぬ。そろそろ立場を決めておかねば、孤立するぞ」

「ボクは、面白そうなほうに味方するよ。戦の実力という点では、戦略と謀略を用いる武田晴信と、神がかりの戦術眼を持つ長尾景虎。どちらも甲乙つけがたい」

「武田晴信は、飯縄山も支配下に収めるぞ。戸隠の『石』を壊すとあの女は宣言した。そして、善光寺平より戸隠山を奪う途上に、飯縄山が立ちはだかっている」

「長尾景虎を、毘沙門天憑きの呪縛から解き放ちたいのだろうね――ボクは人に飯綱を憑ける飯綱使いだけど、景虎は自らに毘沙門天を憑けている。奇特な女の子だよね」

 そういう意味では景虎のほうが面白そうだね、と由利鎌之助は笑っていた。

 だが才蔵は、笑わなかった。故郷の南蛮に生きる場所を見いだせなかった彼女は、笑顔というものを忘れていた。ただ、南蛮であろうとも日ノ本であろうとも人の哀しさは同じだ、と思うばかりだった。才蔵の家の「始祖」もまた、「神」に憑かれて武器を取り、戦場で戦った少女だったという。そして、その神がかりの少女が辿たどった結末は――。

 才蔵は、「神」の命ずるままに戦いそして人間たちに裏切られ汚され殺されていった自分自身の「始祖」と、毘沙門天の化身として義のために戦う長尾景虎とを、重ね合わさずにはいられなかった。景虎の容貌が、日ノ本人よりも南蛮人にずっと近かったたからかもしれない。景虎の「生涯不犯の誓い」を守らせてやりたい、彼女自身が誓いを捨てると己の意志で決断するまでは、貫かせてやりたい。わが「始祖」のような悲劇を景虎には味わわせたくない……と才蔵は思った。才蔵の「始祖」は、神の遣い……聖女だった。故に、処女を守り抜いた。人間どもは、人間の男どもは、彼女を聖女から魔女へとおとしめるために、彼女を犯した。牢獄の中で何人の男に犯されたのか、

わからぬ。衆人の前で火刑に処されて焼けただれた彼女の遺骸は、股を開かされて、陰部を公開され、「ただの人間の女」であると証明されたという――。

 真実なのかどうかはわからないが、才蔵は、一族の者からそのような「始祖」の末路を聞かされていた。

 この「武士道」と「姫武将」の伝統を誇る日ノ本では、そのような非道はあるまいが、それでも毘沙門天の化身として生きるために不犯を誓っている景虎が心配だった。景虎の貞操を狙う男は、越後には何人もいる。不犯を誓えば誓うほど、神に近づけば近づくほど、その神を引きずり下ろしてやりたいと男たちをあおることになるのだ。

 もしも武田晴信が男であったならば。だがそれはもうどうしようもないことだ、と才蔵は景虎のために悲しんだ。

「……この合戦が、いちどで終わればいいのだがな……決着のつかぬ合戦ほど、虚しいものはない……長尾景虎と武田晴信。あの二人の戦いぶりは水と油。互いに噛み合わず、何度も川中島で合戦が繰り返されれば……二人の志は、ともについえてしまう」

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