第十三話 川中島への道(後)

 長尾景虎の運命――北条氏康の運命――そして、武田晴信の運命。

 同じ時代に、東国に生まれた三人の姫武将の運命は今、劇的な速度で重なり合おうとしている。

 景虎は、三国峠を越えられなかった。

 越後軍の先鋒隊と北条軍が激突する直前になって――北条軍が、沼田城の包囲をいきなり解いて、いっせいに武蔵へと退却してしまったからだ。

 乾坤一擲けんこんいつてきの勝負は、ならなかった。

 氏康に、矛先をかわされてしまったらしい。

 電撃的に出兵した越後軍には、はるばる武蔵へ、ましてや相模の小田原城へまで遠征する準備はない。

 氏康が一目散に上野から兵を退いたことを三国峠の入り口で知った景虎は、(関東管領家を滅ぼそうとするほどの野望の武将が、軟弱な)と思わず舌打ちしていた。

 それだけではなかった。

 景虎が兵を率いて春日山城を出立してまもなく、越後を巡る事態が、急変したのだ。

 ひとつは、長らく病を得て伏していた兄・晴景が危篤に陥ったこと。

 もうひとつは――「見せ兵」の策によって撤兵したはずの武田晴信が、再び北信濃へと猛烈な進撃を開始していたことだ。これまでの合戦とは異なり、

今回は村上・小笠原の一族を根絶やしにせんばかりの勢いで、炎のような侵略を開始しているという。

 どうやら晴信は越後軍の「見せ兵」を、「北信濃を緩衝地帯にしよう」と

いう提案として受け取ったのではなく、「挑発」と解釈したらしかった。直江大和にも宇佐美定満にも、この展開は予想外だった。

 武田晴信という姫武将に対して、景虎は長らく憎悪と言っていい感情を抱いていたが、もはや個人的な憎悪だけでは済まされない情勢となっていた。北信濃を武田軍が制圧すれば、春日山城の目と鼻の先までことごとく武田の領土となってしまう。これまで、北信濃には景虎を支持する親長尾派の国人などもいたのだ。そのため、北信濃は越後と信濃諸将との緩衝地帯として長らく機能していた。その緩衝地帯が、国盗りの野望に燃える武田晴信率いる武田軍と越後との最前線となってしまうわけだ。

 少なくとも、晴信は、北信濃を「緩衝地帯」とする意志を放棄している。

 宇佐美定満が「ひとたび憲政さまにお約束したからには、関東出兵を中断することはできない。したくない」となおも三国峠越えにこだわる景虎を制止したのも、当然だった。

「急いで引き返せ。どうやら北条氏康は想像以上に用心深い武将だ。乾坤一擲の勝負は、ならなかった。氏康を追って武蔵へ入りそのまま小田原まで遠征するためには、あらゆる意味で周到な準備が必要になる。今すぐには無理だ。沼田城を救っただけで、ともあれ上杉憲政への義は果たした。今は、北信濃の武田軍の動きを止めろ」

 直江大和も、同意見だった。越後からはるかに遠い関東などで真剣に戦う必要はない。北条軍が北上してくれば、牽制してみせれば、それで済む。北条とて、広大な関東平野の切り取りにしか興味がなく、遠く越後まで侵攻してくることはない。

「その一方で、武田晴信は越後の海を狙っているようです。信濃も甲斐も山国で、海を持ちません。武田が勇躍するには、越後か、あるいは駿河へと出なければならないのです――しかし武田と駿河の今川家とは同盟関係にありますから、越後をれる、と確信すれば、武田晴信は即座に越後へと攻め入って参ります。南北に長い越後全土の平定は武田には無理でしょうが、春日山城を盗ってしまえば越後の西半分――少なくとも上越は奪えます。武田は、直江津の港を欲しているのです」

「最終的に海を欲しているとしても、わたしが関東の奥深くまで乗り込んでいる隙を見て空き巣となった越後を攻めればいいものを、なぜこうも猛然と北信濃を侵略してくる? 直江。武田晴信は智者ではなかったのか?」

「わたくしにも予想外でしたが……晴信ほどの智者であっても、どうにもならない感情というものがあるのやもしれませんね。晴信とお嬢さまとは、いわば、水が合わないのでしょう」

「わかる気がする。わたしも、武田晴信が嫌いだ。晴信も、わたしを嫌っているのだろう」

 上杉憲政を擁して正式に景虎と和睦し、再び一門衆の上席に返り咲いた長尾政景もまた、「こんどばかりは宇佐美、直江と俺も同意見だ」と景虎に具申してきた。

「貴様が関東管領を押し立てて関東に秩序だの義だのを再興するというのならば気が済むまで勝手にやればいいが、ただいちどの野戦で広大な関東を斬り従えられるほど、板東武者たちは甘くない。『武』だけでは『義』など成り立たんぞ。北条は、たとえ何度貴様が関東へ出兵しても、小田原城へと逃げるぞ。やるのならば、上野と武蔵を切り取って領国化しろ。関東諸国を貴様の国とするのだ。それ以外に、北条をつぶす道はないぞ――北信濃においても、同じことだ。たとえ武田を追い払っても、村上や小笠原には領土を返すな。北信濃を長尾家の領国としろ。そうしなければ、いつまでも守り切れるものではない。それが戦国の世のことわりというものだぞ、景虎。無駄な義戦を繰り返しても、この世はなにも変わらんし、今は貴様の美貌に酔いしれている越後の国人どもも次第に冷めていき謀反を起こすことになる。人はな、義だけでは動かせぬのだ。利で釣らねばならん。馬鹿な真似まねは慎め」

 平素であれば景虎はかっとなって政景の肩を青竹で打っていただろうが、この時ばかりはそれどころではなかった。

 景虎は「ともあれ兄上のもとへ行き、すぐに小笠原長時たち北信濃の武将たちと謁見する――まだ彼らは越後には入れていないようだ。兄上のご容体が持ち直してくれればいいのだが」と焦りながら、軍を引き返し、兄・晴景のもとへと舞い戻っていた。

 実の妹に恋心を抱くような異常の兄である。二度とは会わないと誓ったはずだったが、土壇場になってみると、妹としての情が勝った。

 姉の綾も、晴景を見舞いに行こうとしたが、これは実現できなかった。赤子の容体が再び悪化していたためだ――母・虎御前こと青岩院も、綾のもとにつきっきりとなっている。

 このため、景虎は、二人きりで晴景と対面しなければならなかった。

 それでも、景虎は、勇気を奮い起こして、晴景のもとを訪れたのだった――。


「上杉憲政は、関東管領職を譲ってもいいなどと甘言をろうし、そなたを籠絡ろうらくして越後を奪い取るつもりだ。関東に再び君臨するために……仮にそなたに管領職を譲っても、そなたの婿になってしまえば同じことなのだから。僕はもう死ぬが、命の炎が尽きつつある今になって、ようやく長い長い迷いから目が覚めた思いがする。なぜ、血を分けた妹に対してあのように惑っていたのだろうか……愚かな兄を許してくれとは言わないが……兄としての最後の遺言をどうか、覚えていてほしい」

 体調を崩してから、晴景は酒を断った。正確に言えば、もはや酒を飲む体力すら残っていなかった。酒を断ったことで、物静かで温厚だった頃の思考力をようやく彼は取り戻していた。

 断酒したところで、壊れてしまった内臓がよみがえるわけではなく、時すでに遅しではあったが、人生の最期に、景虎に会えた。景虎は、自分のようなあさましい兄を、許してくれたのだ。それだけで晴景は(救われた)と満たされていた。

 ただ、景虎をこのまま現世に置いていくことだけが、悔いとなっていた。

「兄上。関東管領さまを押し立てて関東の秩序を復興することは、わたしにとっては天命のような仕事です。上杉憲政さまには琵琶や歌を教えていただいていますが、関東管領職を譲り受けるつもりはもうとうありませんし、決して男女の関係にはなりません。ご安心ください。直江は五年ののちにわたしに婿を取らせると言っていますが、あれは越後衆を黙らせるための方便で、わたしは生涯婿を取りません」

「僕の愚かな煩悩のせいか。それとも、毘沙門天びしやもんてんとやらの声に従ってのことか」

「……兄上のせいではありません。兄上は病と酒とで、惑っておられただけです」

「……ご老公が……上杉定実が今しばらく生きていてくれれば……上杉憲政の亡命は、景虎、そなたの生涯を確実に狂わせる。越後の守護職を譲られるのとはわけが違う。関東管領職を受けてはならない。父上の所行のことは、忘れよ。忘れてくれ……」

 忘れることはできません、と景虎は力なくうなだれていた。

 次々と、家族が死んでいく。

 父・為景は越中一揆討伐の際に奇襲を受けて戦死し、為景亡きあとに父代わりとなってくれるはずだった上杉定実も、そして、兄・晴景もまた。

「兄上……政景との和睦ののち、回復する気配を見せてくれていた姉上のお子も、長くはなさそうです……これも……越後へと引き返した理由のひとつです。政景を従軍させるべきではなかったのです」

「……政景は、宇佐美たちと異なる意見を持っていた。武田が猛然と北進してくると予想していた。理由はただ、武田晴信がそなたを嫌っているから、と……そこまで計算して、関東出兵に従軍したのだろう。あの男は……自分では理解していないが……景虎。お前をおもっている。お前の、自分に自分でむち打つような生き方を、深く案じている……それが、あのような怒りの感情になって表れるのだ」

「わたしに政景の愛妾あいしようになれと言うのですか、兄上は。政景は、姉上の夫です。それだけはできません」

「そうではない。だが、長尾家という家族は、どうしようもなくこじれてしまった……景虎。僕には世継ぎがいない。お前までもが生涯独身を貫けば、春日山長尾家の嫡流は断絶するのだぞ。誰でもいい。そなたがこの男をこそ、と頼んだ者と、結ばれてくれ。生涯不犯ふぼんの誓いなど捨てろ。その誓いがある限り、そなた自身がますます苦しむことになり、そして越後はいよいよ乱れる。やはり、僕のしでかした愚かな真似を、許せないのか」

「許すも許さないもありません。兄上。わたしは、兄上をお慕いしておりました……」

 景虎は、それ以上言葉が出てこず、ただ涙を流していた。

 晴景は思った。

 ああ。この瞳だ。僕が狂ったのは、この赤い瞳のせいだ。

 死を目前にして、己の煩悩のすべてが燃え尽きた今にして、ようやく言える。

 ただ、美しい、と――。

 この瞳が、美しいのではない。赤いから、綺麗きれいなのではない。

 景虎の心根が、美しかったのだ。

 母上が。綾が。宇佐美が。直江が――景虎を、あまりにも美しい心のままに、育ててしまったのだ。

(その結果、景虎は類いまれな少女に育った。だが、純粋すぎるあまりに、景虎は人ではないものになりつつある。毘沙門天の化身に……神に、なってしまいつつある。景虎を地上へ引きずり下ろそうとあがいていた男は、きっと、政景だけだったが……その政景も、この無垢むくな瞳を前にすれば、なにもできまい。あらゆる男を激しく惑わせると同時に、その煩悩の炎をかき消してしまう、そんな力を持つ瞳だ。家族親族が互いに殺し合う戦国乱世に、なぜ、景虎のような者が生まれてきてしまったのだろうか)

 美しいままに生き、美しいままに死んでいく。この世のあらゆる汚濁にまみれることなく。女神として、散っていく。それが景虎の運命なのだろうか。

あるいは、それでいいのかもしれない。同族同士が命を奪い合うこの戦国の日ノ本に、このような義将が実在してくれるというだけで、人々は乱世に生きる希望を見いだせるのかもしれない。

(だが、景虎は……景虎自身は。わが妹は。それで、幸せになれるのだろうか? ただ美しい理想と醜い現実との狭間はざまで、誰にも理解されない、義など実現できない、と苦しみ続けるだけではないのか。さして、長くもないであろう命を……徒労のうちにすり減らしてしまった、と悔いながら寂しく……独りきりのまま、死んでいくのではないのか。この僕のような愚かな兄が妹に看取みとられながら逝けるというのに、こんなことがあっていいのか)

 死後も魂だけの存在となってでも、この雪のように白い妹を守護することができれば、僕は鬼になってもよい、と晴景は思った。

「……景虎。そなたは、毘沙門天ではない。人間の、娘だ。僕は兄としてそなたを導くどころか、むしろ惑わせてしまった愚か者だが……人として、生きてくれ。人とは、清濁いずれの心をも持つ者のことだ――神も魔も聖もけがれも、すべては人の心の中に。いずれ、そなたにもわかる時が来る。それが、僕の」

 これが晴景の最期の言葉となった。


 景虎は、兄を失った。

 姉婿と、実の兄。道ならぬ関係を求めてくる男たち。親族たち。家族たち――それでもなお、晴景を憎むことは、景虎にはできなかったのだ。

 ああ。ほんとうに、お優しい兄上だったのだ、病で惑われていただけなのだ、それとも、このわたしがこのような罪深い姿に生まれてきたばかりに……なぜ、あれきり兄上を放置して逃げてきたのだろう。もっと語らっていれば、あるいは。兄上は、まだ生きられたかもしれない。そう自分を責めながら、景虎は(そなたは毘沙門天ではない。人として生きてくれ)という兄の最期の言葉を、胸に刻んでいた。

 聞き流すことも、忘れ去ることも、できなかった。

 人として生きるとはどういうことなのだろうか、と激しく戸惑っていた。

 宇佐美はわたしに義を教え、直江は慈悲を教えた。父上は、わたしがなりきった毘沙門天の言葉によって救われた。だからわたしは――毘沙門天の化身として生きると決めた。

 もしも、わたしが人として生きれば、兄上の魂は救われるのだろうか。

 人として生きながら、義の合戦を戦い抜くことは、できるのだろうか。

 人が戦をすれば、それは結局のところ、武田晴信のように野望にかれていくのではないだろうか。父上と同じ過ちを繰り返すだけになってしまうのではないか。人とは、清濁いずれの心をも持つ者――言葉の上では、理解できる。しかし、人の心がひとたび汚れれば、清流はすべて濁ってしまうのではないのだろうか。国を奪えば新たに国を奪わねばならなくなり、敵を殺せば新たな敵を殺さねばならなくなり、そしてひとたび恋に落ちれば――。

(お優しい兄上。あなたがわたしの兄上でなかったら、あるいは。兄上の最期の遺言にすら、承知いたしましたと答えられなかったわたしを、どうか許してください。ですが、兄上のお言葉は決して忘れません。今は、なにもわからないわたしですが……答えを求めて、越後の外の世界を見聞して参ります)

 景虎は慟哭どうこくを押さえながらかろうじて立ち上がり、ふすまを開いて廊下へと飛びだしていた。

 視界に、庭園が開けると同時に――景虎は、本来ならば人がいるはずもない己の頭上に、気配を感じた。鳥ではない。鳥には、このような「殺気」はない――。

 曇り空である。

 景虎は、黒い「気」が渦巻く方角を、見上げていた。

「誰だ!?」

 その者は――。

 景虎の赤い瞳に射すくめられた、黒ずくめの忍びは――。

 天から引き墜とされ、景虎の足下へと、倒されていた。

 その、蜘蛛くものように細長い手足を持つ、長身の男は。

 戸隠忍びのおさ

 加藤段蔵。通称、鳶加藤であった。

 いわゆる天足の術、宙を飛ぶ「鳶ノ術」を、景虎の瞳に凝視された瞬間に破られたのだ。

 加藤段蔵は、絶対の自信を持っていた「鳶ノ術」を、忍びの術などにはおよそ無縁なこの小柄な姫武将に一瞬で破られたことに衝撃を受けているらしく、無言で景虎を見上げていた。

 景虎のほうが、先に、口を開いた。

 敵なのか味方なのかも、判然としない、この土蜘蛛めいた年齢不詳の男の形相に、景虎は黒々とした怨念と言葉にならない怒りを感じ取っていた。

 加藤段蔵ほどの者が、あっけにとられて、素早くこの場から退散することすらできないで固まっている。

 が、景虎には、この忍びを殺すつもりはない。

 戦場以外の場で、殺生はしない。戦場ですら、直接相手を斬り殺す真似は、極力避ける。できる限り、峰打ちや、死なない程度の怪我けがを負わせる程度でとどめたい。何度も実際に合戦を経験していてもなお、景虎は「不殺」にこだわっていた。

「そなたは、化生の者か。軒猿のきざるではないな」

 加藤段蔵が、ようやく我に返ったような表情で、うなずいた。

 うつろのような目をしている。まぶたと瞼の間が、漆黒の闇に塗りつぶされているような……まるで白眼の部分というものがないような、異相だった。

 全身が白く、赤い瞳を持つ景虎とは、まさしく好対照とも言える異形の者だった。

 景虎が「白」ならば加藤段蔵は「黒」。

 景虎が「聖なるもの」であれば、加藤段蔵は「魔なるもの」。

 決して相容あいいれないはずの二者が、出会っていた。

「……貴様が、長尾景虎だな。俺は、戸隠忍びを束ねる、加藤段蔵。村上と小笠原を越後へ亡命させるために、先行して春日山城へ乗り込んできたのだ」

 加藤段蔵は落ち着きを取り戻していた。景虎が殺気を放たなかったからだ。

「入るならば、正面から来ればよいものを。無粋な真似を。わたしは、かかる非礼が嫌いだ」

「急いでいた。『鳶ノ術』を用いれば門番どもを無視して、貴様に直接会えるのでな。俺のこの術を破った者は、貴様がはじめてだ、長尾景虎」

「鳶ノ術……天狗てんぐの法か? 修験道を極めれば、空を飛ぶ天狗の法を身につけることができるという」

 かつて、足利将軍を廃して自分の傀儡かいらいを将軍位につけるなど、専横を極めていた細川政元ほそかわまさもとという実力者がいた。関東管領ではなく、都の幕府における管領である。

 しかしこの細川政元は、「半将軍」とさえ呼ばれ、将軍位を自在に操る「キングメーカー」とでも言うべき立場にいながら、現実の世界のまつりごとにも合戦にも嫌気が差したのだろう。次第に、修験道の熱烈な修行者となっていった。修験道は、日ノ本古来の山岳信仰に密教などの新しい外来信仰が融合されて生まれた、中世日ノ本独自の信仰体系である。そしてこの修験道においては、「禁欲」が尊ばれる。細川政元は独身を貫き、飯の代わりに土を食い、ついには天狗の法を会得して空を自在に飛んだとも言われていた。目の前の合戦を放棄して、奥州を目指していきなり失踪してしまったこともある。奥州には出羽でわ三山をはじめとする修験道の霊山が数多く存在するからだ。

 景虎は、修験道の修行をした経験はないが、信濃の戸隠山や愛宕山界隈かいわいには天狗の法に似た外道の術を体得している者がいくらかいる、ということは知っていた。

「フフ。修験道で言うところの天狗の法と、俺の鳶ノ術とは、本質は同じであろうが流儀が少し違う。魔法半将軍・細川政元は『愛宕の法』と『飯綱の法』を修行したというからな。きゃつの『飯綱の法』は、戸隠山直系ではなく、飯綱山の系列の術よ。管狐くだぎつねを式神のごとく用いて、敵に取りつけて殺すという邪法よ。いずれにしても、政元は修行を完成させることはできなかったようだが。結局は、細川家の内紛に巻き込まれて暗殺されてしまったからな」

「それではそなたが用いた鳶ノ法とは、戸隠忍びの術なのか」

「そうだ。戸隠には『石』がある。天岩戸あまのいわとの扉だったとされる、天から飛来したご神体だ。そいつからは、見えない『気』が発せられている。たいていの者は、この石に近づけば、全身から、あるいは目や鼻から血を流して死ぬ。選ばれた子供だけが、生き延び、己の体質に見合った術を会得することができる……鳶ノ術は、戸隠においては究極の術でな。会得できた者は、今生きている忍びでは、俺と猿飛佐助だけだ」

「猿飛、佐助?」

 景虎はあやかしの力も妖術も魔法も信じない――いや、人智を超えた神仏の力がこの世にあることは信じているが、決してその力には頼らない。が、まつりごととも合戦とも異なる「忍びの術」の世界に、興味を抱いた。

「猿飛佐助はな。関東管領家から離脱し、武田晴信に寝返った真田幸隆が飼っている山猿よ。もとは俺と同じ戸隠忍びだが、今や戸隠忍びは真っ二つに割れている。武田方に仕えて、土地と侍としての身分を得ようとしている者。あくまでも戸隠山にもり、『石』を守り、かつ自由を謳歌おうかし続けようとする者。俺は後者だ。そして今、武田晴信に敗れ去ろうとしている」

 武田晴信。

 父親を駿河へと追放し、甲斐一国を奪い、今また信濃を侵略し併呑へいどんしようとしている野望の姫武将。

 北条との電撃的な決戦をかわされ、兄を失い、戸惑っていた景虎の心はこの時、まだ見ぬ「武田晴信」への憎悪ともいらだちとも言えない感情に占められたと言っていい。

「その武田晴信がついに北信濃を併呑し、戸隠山をも奪い取ろうというのだな?」

「手始めに、戸隠山の表玄関となっている善光寺。さらに、愛宕山と、そして最後には戸隠山を。『石』を破壊するか、あるいは、武田のために戦う異形の忍びを生みだす場とするか、いずれにしても戸隠山の独立性は奪われることになる。晴信は、諏訪氏を滅ぼして諏訪の社をわがものとしてしまった女だ。合戦に敗れた敗残兵は、次々と金山へ送り込んでいる。戸隠に対しても、容赦ないだろう」

「それで、そなたは村上義清側についたのか」

「そうだ。その村上と小笠原が、今、越後への亡命を望んでいる。すでに、両雄ともに、北信濃における居城のすべてを失った」

 北信濃の村上義清たちが越後への亡命を企図していると知って激怒していた武田晴信は、越後軍が「見せ兵」を北信濃へ送り込んだことでいったん退却したものの、かえって「越後が北信濃の紛争に関わるというのか」といよいよ景虎への憎しみを強くし――北信濃をことごとく平定せんとする晴信の野心はさらに強烈なものとなってしまっていた。

 その景虎が上杉憲政の要請に応えて関東へ出兵しようとしていた隙に、再び軍を興した晴信が北信濃へと激烈な攻勢をかけたため、再起を期していた村上義清は北信濃における拠点を失い、今や落ち武者同然となっていたのだった。

「受けるか否かは、貴様次第だ。すでに越後軍の先鋒隊は関東へと出兵してしまったと聞く。ならば、俺の春日山城への到着は一歩遅かったということだな……真田方の包囲網をかいくぐるのに、手間取ったのだ。不意に、結界の一部が破れたので、ようやく辿たどり着けたというわけだ」

「……北信濃に『見せ兵』ではないほんものの援軍を出せば、いよいよ武田晴信と戦うことになるな。わたしは、上杉憲政さまを関東へお戻しするために北条氏康と戦うと決めたところだったが……」

 村上義清と小笠原長時からの書状を、加藤段蔵は景虎に差し出してきた。

 村上義清の書状は「すでにいちど助けてもらっている。断られてもそなたの義の精神を疑うものではない」とそっけなく簡素なもので、一方の小笠原長時の書状は「もうダメだ! あれしきの見せ兵だけじゃ足りねえ! 信濃守護の俺さまを本気で助けろ!」と尊大極まる文面だったが、両家ともにもはや武田晴信には太刀打ちできないところまで追い詰められていることだけは共通していた。小笠原長時などはかなり以前に本城を捨てて、村上のもとに亡命していたのだ。どうやらその小笠原が、執拗しつように村上義清に「越後の長尾景虎のもとに落ちようではないか」と勧めているらしい。村上義清のほうは、滅ぶなら滅ぶまでだ、最後まで武田晴信と戦う。それだけだ、と決戦の覚悟を固めていたが、景虎の義将としての評判がまことかどうかを見極めたくて、心を動かされたらしい。

 景虎はしかし、城の取り合いよりも、戸隠山の『ご神体』を晴信がどう扱おうとしているかということに、興味を抱いた。もとより、景虎に領土欲はない。それよりも、『石』だった。どうやら『石』は、聖なるものらしい。しかし、同時に、加藤段蔵の如き魔物を生むものでもある。聖と魔とは、常に表裏一体なのだ。景虎が自らその化身を名乗る毘沙門天もまた、魔族である夜叉やしやや羅刹を従えている。「力」に聖邪はない。「力」を手にした者の意志が、聖邪を決めるのだ。ならばこそ、武田晴信に『石』を渡してはならない、と景虎は思った。

「……武田晴信は戸隠山の『石』に挑戦し、自ら天狗の力を得ようとすると思うか、加藤段蔵」

「いや。としを経てからでは、『石』には適応できん。幼子でなければ、生き延びられる可能性はなくなるのだ。それに奴は、天狗の力を自ら欲するような女ではない。そのような力は、戦場で暗躍する忍びが会得すればいい、武家の大将たる者には無用、と思っているだろう」

「そうか。加藤段蔵。わたしが『石』の前に立っても、適応はできぬか。わたしは死ぬか」

 貴様には「石」など必要ない、と加藤段蔵は意外なことを口走った――どこか、景虎に対して畏怖しているかのような、口ぶりだった。

「無用だ。貴様は、生まれながらにして、『たん』が開いている希有けうな体質の持ち主だ」

「『胆』?」

「密教で言うところの『輪』のことだ。貴様は通常の人間であれば『石』の試練を乗り越えねばならない力をはじめから身につけ、しかも、すでに使いこなしている。貴様のような者は、百万人に一人もおらぬ。忍びなど、どれほど修行を積もうとも貴様の足下にも及ばぬ」

「わたしには、覚えがないぞ。そもそも、わたしは空など飛べぬし、なんの力もない。日の光を浴びるだけで倒れてしまうような身体だぞ」

「長尾景虎。貴様のその『目』が、しるしだ。その赤い瞳は、『破邪の瞳』だ。その瞳でにらまれた戸隠忍びは、みな、その瞬間に気を散らされ、『力』を奪われる。先刻、俺の鳶ノ術を貴様が破った時に、貴様がもっと長く俺を凝視し続けていれば、あるいは殺意をこめて俺を睨んでいれば、俺の五体は空中で爆発していただろう。俺は術を瞬時に解かれたことで、かろうじて生き延びたのだ。それが、貴様の力よ」

「……ではわたしは、まるで化け物だな」

 貴様はまことに毘沙門天の化身なのだろう、と加藤段蔵がつぶやいていた。

「修験道の開祖は、孔雀くじやく明王の呪法を会得し前鬼と後鬼を使役していた役小角えんのおづぬだが、その役小角が摂津せつつに開いた本山寺ほんざんじは、小角自身が彫った毘沙門天像をまつっている――あの悪名高き幻術遣いの松永久秀まつながひさひででさえ、本山寺を焼き払うことができぬどころか、むしろ手厚く保護しているほどだ。もしかすると、奴の幻術の力の源泉なのかもしれぬな。修験道と忍びと毘沙門天とは、はじめから深く結びついていたのだ」

「わたしを操るつもりか、加藤段蔵」

「いかなる者であれ、貴様の前に立てば、貴様の放つ圧倒的な力に不干渉ではいられまい。操るのか、操られるのかは、貴様次第よ。だが、俺にはわかる。異形の者に――神の化身に生まれついた以上、貴様は武田晴信とは決して相容れまい」

「なぜだ」

「武田晴信は、徹頭徹尾、人間だからだ。あれは人間としての野望に憑かれた人間の娘。神々の力をも、己の野望のために利用し尽くし、用済みとなれば捨てるだろう。長尾景虎とは、なにもかもが真逆よ。その両雄が、今、国境を接しようとしている。晴信がなによりも欲しているものは、忍びを生みだす戸隠山ではなく、海だ。海洋交易によって巨額の利を得て、上洛のための軍資金を稼ぐ。それが晴信のこの信濃侵略の最大の目的。だが、越後の海へ到達するには、戸隠山とこの春日山城を併呑せねばならん。晴信は必ず越後へと攻め寄せてくる。関東管領がどう言おうが、越後の守護としては――武田の北上を阻止する他はあるまい」

「……加藤段蔵。貴様の言葉に操られはしない。だが、わたしも常々そう思っていた。武田晴信を捨ててはおけぬ、と」

 しかしそなたを信じたわけではない。そなたの黒い瞳には、なにやら邪悪なよどみが見える。わたしを裏切り、あるいは謀ろうとするのであれば、いくら不殺を誓う身といえども容赦はしない、と景虎は再び加藤段蔵を睨みつけていた。

「わたしは、人の心の黒い部分には無頓着だが……そなたにだけは、必ず将来裏切られる予感がする。妙なものだ」

「俺と貴様とはいわば陰と陽、光と影。お互いに異形の者同士だからだろう。だが、お前は本来、戦乱の世に苦しむ民の心を救う仏陀ぶつだへの道を歩むべき者であったのに、酔狂にも人の命を奪う武将になるとはな。惜しいことだ。フフフ」

「わたしとて出家したい思いにずっと憑かれている。だが、義も慈悲も、すべては合戦によって果たさねばならない。それが乱世だ。わたしは、細川政元の愚を繰り返したくはない」

「……出家したいという思いが勝った時には、俺を呼ぶといい。どこの霊山にでも連れて行ってやろう」

「そして、わたしをかどわかすつもりか?」

「かもしれんな。貴様は毘沙門天などよりもはるかに美しい。しかも、戸隠山の『石』よりも強大な力を持っている。ものいわぬ『石』を守り続けるよりも、貴様をかどわかしてどこぞへ落ち延びてこそ、この俺の武家どもへの怨念も晴れるかもしれぬ。その時には、鳶加藤は二度と天へと飛び立てぬただの凡夫に成り下がっていようがな……破邪の瞳を持つ貴様といる限り、鳶ノ術は使えないのだから。だが魂の救済とは、案外、そのようなものかもしれん。フフフ」

 景虎は、戸隠山の荒ぶる神の力を身に帯びた加藤の、黒い瞳の奥に潜む邪悪な澱みの正体を察した。それは権力欲でも権勢欲でもなく――戸隠山に封じられた『石』そのものの怨念であった。天から降ってきたという『石』は、もはやこの地上に留まることを望まず、己自身の「力」から解放されたがっているのだ――。

「フフフ。『俺の女』に相応ふさわしい女人は、わが鳶ノ術を破った貴様だけだ、長尾景虎。貴様とならば、『石』を交換して捨て去っても構わぬ。俺はその時こそ、自由になれる」

「……黙れ!」

 景虎が怒気を発すると同時に。

「村上義清と、小笠原長時が、まもなく越後へ入る。ここに、越後と北信濃の連合は成ったぞ」

 声だけを残し、加藤段蔵の姿が、消えていた。

 景虎の気が乱れた一瞬の隙を突いて、鳶ノ術を再び用いたのだろう。

(魔性の者だ。心を許してはならない。心の隙間に入り込まれれば、操られる。だが、毘沙門天は夜叉をも羅刹をも調伏した。わが怨敵は、『石』を祀る戸隠忍びたちにあらず。諏訪に続き、戸隠山、飯綱山、善光寺をもわがものとするために、我欲の戦を続ける姫武将――武田晴信)

 越後は長細い国である。上越、中越、下越の三国が数珠つなぎになっていると言ってよく、国境線が、長い。北条との戦いを関東で遂行しながら、同時に、武田の北上をも阻止せねばならない。しかも両家は、事実上同盟している。武田は信濃と越後の海を望み、北条は関東の平定を望んでいる。利害が一致しているのだ。両家と同時に戦うことは可能だろうか、と景虎ほどの武の持ち主が逡巡しゆんじゆんした。

(可能か不可能かではない。やるのか、やらないのか、それが重要なのだ。義戦とは、そういうものだ。兄上からの道ならぬ求愛をわたしは拒んだ。五年後の祝言の話も、祝言を引き延ばすための方便で、最初から誰からの求愛を受けるつもりもない。毘沙門天は言った。殿方に恋をすれば、わたしは死ぬのだから。この上、他国からの救援の声を拒んでは……義将としても失格ではないか。わたしは人でもなければ神でもない、得体の知れない化け物になってしまう。あの、加藤段蔵のような……ただ、奇妙な「力」に支配され、そのような自分自身の運命を呪詛じゆそする異形の者になってしまう。わたしは……)

 わたしは、毘沙門天の化身として、義戦にこの生涯をささげるしかないのだ。

 この時、景虎は「武田晴信を北信濃から追い払う」と決意した。


 春日山城に、北信濃からの敗将たちが登城したのは、加藤段蔵から遅れて三日後のことだった。

 兄・晴景の葬儀を慌ただしく終えてまもなく、景虎は、彼らに謁見した。

 直江大和と宇佐美定満もはべっている。

 母や姉とともに晴景を失ったことを悼む時間すら、景虎には与えられなかった。

 景虎が越後の守護職を継ぐや否や、関東と信濃とで、ほぼ同時に旧体制が崩壊し、関東管領と信濃守護がともに越後へと亡命してきた。

 景虎も、直江も宇佐美も、これは偶然ではないと理解していた。

 越後でも、関東でも、信濃でも、時代は大きく転換しようとしている。

 いわば、日ノ本の戦国時代は、「下克上」によって旧体制が崩壊していく初期から、武田や北条のような戦国大名が隣国を侵略し、旧支配者から武力で領国を奪い取る中期へとさしかかっていた――。分裂した日ノ本の再統一への機運が高まっているのだ。

 が、景虎は、あくまでも旧秩序の復興にこだわっていた。

 戦国大名になどならぬ、他国の領土など奪わぬ、と景虎は固く誓っている。

武田家は、源氏の一門にして甲斐守護職を務めてきた旧勢力の代表的な家柄でありながら、信虎・晴信の二代のうちに隣国信濃を容赦なく攻め落とす戦国大名となった。まして、今川家の家臣から身を起こして関東を乗っ取ろうとしている「後北条家」など論外である。北条家とは僭称せんしようにすぎず、その実体は「伊勢家」にすぎない。

 ともあれ――。

 景虎は、北信濃の諸将に声をかけていた。

「よく越後へ来てくれた。面をあげよ」

「……旧葛尾城主、村上義清。今は、流浪の身だ。武田晴信を二度までも戦場で討ち損じ、こうして生き恥をさらしているが、長尾景虎という武将に興味があって、落ち延びてきた」

 北信濃の餓狼がろう、村上義清。すでに初老にさしかかっているが、気力体力ともになおも満ちている。

 これが、奸智かんちけた武田晴信を二度までも戦場で撃ち破った勇将か――敗将となりながらも、まるでびるところがない。景虎は、村上義清の誇り高さに同じ武士として好意を抱いた。

「うおおおおお。これが景虎ちゃんか! 聞きしに勝る美少女だ! がはは、この俺の嫁にならないかッ! 村上は真面目な顔をしていて、十人以上のガキをもうけている性豪だぞ! こういう裏表のある男がいちばん信用ならんのだ。その点、俺さまは正直者! いい女はぜんぶ俺のものにして抱くッ! わが言葉に、一点の曇りなし! その上、越後守護と信濃守護とが結ばれれば鬼に金棒だーッ!」

 一方の、信濃守護の小笠原長時。

 外見はそれなりに上品な貴公子に見えるのに、口を開くとなんとも下品な男だった。

 景虎は(な、なんだこの男は……な、長尾政景よりもひどいな。小笠原家と言えば礼儀作法に五月蠅うるさい名門だったはずだが)と唖然あぜんとした。上杉憲政のようなみやびな男を想像していたのに、まるで違う。

 さしもの村上義清も煙たそうに目を半開きにして、小笠原を睨みつけた。

「小笠原長時。わたしは、あと五年は誰とも祝言を挙げないと決めている。世継ぎを儲けるよりも、義戦を遂行する仕事が先だ。わたしは救いを求められればどこへでも出兵し、そして勝つ。武田晴信と戦い、北信濃の領地を奪回する。次は、見せ兵ではなく、ほんものの軍団を率いて」

「おおっ!? ありがてえ、景虎ちゃん! 関東でことを構えていて忙しいんじゃなかったのか? そうかそうか。俺さまにれたのか、がはは」

みだらな発言は控えよ、小笠原。わたしは毘沙門天の化身である。この身を汚そうとする者は仏敵と見なして容赦なく青竹で打つぞ――不殺の誓いも、貞操を守るためならば破ってもやむを得ないとわたしは近頃考えを改めた。わたしが越後守護となって以来、お前のようなやからが増えたからな」

「……ちっ。あの加藤段蔵の術を破るほどの手練てだれじゃ、そう簡単には押し倒せそうにねえな。まあいい。景虎ちゃんが処女だということは間違いないのだ。必ずや俺さまが最初の男になってやる、ぐふふ」

 景虎は、これほど露骨な男に出会ったのははじめてである。頭痛がした。

 武田晴信は強い、容易には打ち払えぬ、と村上義清が漏らした。

「村上義清。そなたは二度、武田晴信を倒したのではなかったか?」

「たしかに俺は、局地戦では、勝ちを重ねた。正面対決で、晴信に負けたことはない。だが、晴信の首を盗ることはついにできなかった。その結果――真綿で首を絞められるように付け城を徐々に奪われ、孤立させられ、越後へ亡命する他はなくなっていた」

 そうだ。俺さまたちは合戦では武田に負けちゃいねえ。真田忍びにやられたんだ! と小笠原がさめのようにとがった歯をむき出して怒鳴っていた。

 村上が「小笠原軍は武田と正面きって戦って塩尻で大敗したではないか」と小笠原を睨みながら、言った。

「うるせー黙れ。景虎ちゃんへの俺の印象が悪くなることを言うなこの好色じじいが。景虎ちゃんは神将だぞ。ということは、合戦に強い男が好きなのだ! 越後国内には景虎ちゃんに勝てる武将などいねえというから、となると景虎ちゃんの婿候補は俺か貴様しかいないのだっ!」

 俺にはもう妻も子もいる、黙ってくれ頭が痛い、と村上義清は額を押さえながら小笠原の口を閉じさせた。小笠原が転がり込んできて以来、毎日この調子なので辟易へきえきしているらしい。水と油のように合わない二人だ、と景虎は思った。小笠原ではなく村上義清が信濃守護であれば、信濃はかくも無残に武田などに侵略されずに済んだものを、と惜しんだ。

「真田忍びはいかにしてそなたを破ったのか、村上義清」

「……加藤段蔵からすでに聞いているとは思うが、真田忍びとは、戸隠忍びから別れて真田家に仕えた一派だ。異形の力を使う連中だが、いずれにせよ戸隠忍びの異形の力は、わずかな時間しか使えぬ故に、合戦場ではさほどの役には立たぬ。が、諜報ちようほう攪乱かくらん、暗殺などの任務をやらせれば、諸国の忍びよりはるかに役に立つ。武田晴信はその真田忍びを用いて、わずかな手勢だけで砥石城を落とした。『砥石崩れ』の敗戦を、忍びどもの活躍だけで取り戻し、俺を北信濃から追い落としたのだ」

 汚いやり方だ、と景虎は憤った。

「武田晴信は、はかりごとをもって城を奪い国を盗る姫武将か」

「いや。はじめは二度までも、俺に正面から仕掛けてきた。そこまでは、父親・信虎にも似たいのしし武者だった。だが、二度続けて俺に敗れ、武田四天王のうちの三人までもを失った。それから、戦い方を変えたのかもしれん。決戦するたびに人材を失っていては、城は奪えても人が減っていく。それでは武田家はもたぬ、と悟ったのかもしれん。どうせ城を盗るなら、死ぬ人間の数は少ないほうがよほどいい。晴信は俺のような故郷を守ることしか知らぬ田舎者とは違う。長い目で見れば――天下をうかがうほどの野望を抱いているであろう晴信は、城と人の命とを交換したくはないのだろう」

 愚かな話だ。正面から戦えば将を失うというのは、それは晴信が弱いからだ、と景虎は憤った。わたしは、合戦に臨んでは常に自ら先頭を駆ける。本陣に隠れて、諸将を前線へ送り込んだりはしない。大将自らが先陣を切って戦えば、自らが討ち死にしない限り、諸将や足軽たちの命を次々と失うようなことはない。戦場で晴信の陣に自ら突撃をかけたという村上義清も、自分と同じ種類の「いくさびと」なのだろう。

「村上義清。真田幸隆とはいったい何者なのだ」

「真田氏を名乗ってはいるが、それは信濃の名族・真田家を乗っ取ったからで、もとはどこから来たのかわからん。武家ではあるまい。戸隠山の忍びや山の民たちを真田の荘に定住させ、山の民の楽園を作ろうとしている妙な女だ。いちどは俺が信濃から追い払ったが、武田方の軍師・山本勘助を通じて、武田晴信に服従した」

「山本勘助の野郎も、一つ目で片足がえている上に、得体の知れない宿曜道すくようどうなどという術を用いる奇妙な男だからな。がははは。まるで、たたら師のような野郎だ。武田晴信ちゃんは――にっくき俺の敵ではあるが、俺さまはかわいい女の子は敵であろうがその美しさを素直にでるのだ――神氏みわしを滅ぼし守護職を追放する一方で、あんなたたら野郎みたいな奴を軍師として重用し、真田のような忍びの一族を直参同様の待遇で召し抱える。変わった女だぜ!」

 小笠原長時が、笑った。

 そうか。晴信は、武家だろうが忍びだろうが山の民だろうが、ひとたび「武田家」に所属するとさえ誓えば徹底的に平等に扱う。身分による差別をしない女らしい、と景虎は気づいた。

 人は生まれながらに本来は平等であり、身分や血などは能力や志に比べれば一段劣る、と信じているのだろう。その考えじたいは、景虎も理解できた。だが、その理屈は、あくまでも自らが「正義」の範疇はんちゆうにいてこそ有効なのである。己を律してこそはじめて、旧秩序を踏み越えることが許されるのだ。そうでなければ、父親より自分が優れているのならば父親を隣国へ追放して国を奪ってもいい、ということになる。

「その理屈が、甲斐源氏の嫡流でありながら、武田晴信を下克上の戦国大名にしてしまったのか――不埒ふらちな。わたしは、これ以上武田晴信を捨て置けない。自分の父親を国から追い払うなど、言語道断だ。直江。宇佐美。ただちに北信濃へと出兵する。春日山城からは、北信濃は近い。こんどはわたし自身がじきじきに先陣をきる」

 村上義清が「越後守護が自ら戦場へ?」と声をあげていた。

「川中島へ出兵するというのか。北条氏康とことを構えていながら、さらに武田晴信と戦おうというのか。いくら神将でも」

「村上義清。北条はしばらく上野へは出てくるまい。わたしはこれより武田を川中島一帯から蹴散らし、そなたたちの領土を奪回する」

「俺の言葉を聞いていなかったのか。今の武田晴信は武辺だけの姫武将ではない。謀略と武とを織り交ぜて変幻自在の戦をやる女だ。この俺と死闘を繰り広げていくうちに、武田晴信は敗戦を重ねながら、とてつもなく強くなった。戦略なしに決戦を挑めば、晴信の思うつぼとなるぞ」

「野望と欲に身を焦がされている人間の女などに、毘沙門天は敗れぬ」

「ではせめて、約束してほしい。川中島へ出兵したらただちに、北信濃を直轄領にしろ。かつての俺の領土……村上領をもだ。旧主たちに城を返却したところで、もはや北信濃の諸将は武田勢から自分の城を守り切れぬ。それでは堂々巡りになり、ついには晴信の異様な妄執の前にお前は敗れる。ただ故地を守れればそれでよい、と恬淡てんたんとしていた俺がこうして敗れ去ったように。俺と小笠原には、越後の片隅に捨て扶持ぶちでも与えればよい」

 小笠原長時が「なにを言うんだてめえええ!」と村上義清に突っかかったが、村上義清は聞いていない。義清はひとえに、景虎を武田との終わりのない抗争へ巻き込むことを危惧しているらしい。まさか、対面したその席で景虎が「北信濃へ出兵し晴信と対決する」と即決するなどとは思っていなかったのだろう。

 景虎は、その村上義清の言葉と心に、義を見た。義には義で応えねばならない。

「村上義清。わたしは、毘沙門天の化身である。北信濃の領土を奪ったりはしない。それでは、わが戦もまた欲の戦となり、人の戦となり、晴信と戦う大義名分を逸する。わたしが求めるものは、乱世に秩序と義を回復することのみだ」

「武田晴信は強い。晴信には、真田忍びのみならず、山本勘助という食わせ物の軍師がいる。北条氏康もまた、したたかな女だ。この両雄と同時に戦い、かつ、一寸の領土も奪わないなど――そのようなことが、できるはずがない。お前のその夢は、徒労に終わる」

「徒労に終わるかどうかが問題なのではない。生きているうちになにをなそうとしたか、その道程こそがすべてなのだ。村上義清」

「……そなたは……ほんものの、義将だな……もはや、亡国の将にすぎぬ俺の言葉では止められまい。越後の古参たちに任せるしかないな。直江大和と宇佐美定満に」

 直江大和と宇佐美定満は、顔色を変えていた。村上義清・小笠原長時の両者と対面した景虎が義憤にかられて「北信濃出兵」を言いだす。予想できていたことではあったが、あまりにも景虎は性急すぎる。晴景があとしばらく存命でいてくれれば、景虎とて春日山城に留まってくれただろうが――むしろ、兄・晴景を失った喪失感を、景虎は戦場に出ることで忘れようとしているのかもしれなかった。

 景虎自身、自覚があった。しばらく、この春日山城から離れたかった。早く、戦場を駆けたかった。敵と、戦いたかった。さもなければ、やりきれなかった。

「お嬢さま。お待ちください。上洛の計画はいかがなさいます。すでに上洛の日が迫っているのです」

「お前が武田晴信を嫌っているのは知っているが、北条と武田を同時に敵に回しての二正面作戦など正気の沙汰じゃねえぞ! 落ち着け!」

 直江と宇佐美の小言には慣れている。景虎は、(二人の理屈と情は痛いほどにわかっている。だが、譲れない)と微笑して受け流した。

「これは義戦だ。事実上の越後守護となった今、隣国の救援に応じた義戦を行わねば、わたしもまた武田晴信と同じ簒奪さんだつ者となってしまう。口先だけならば、いくらでも綺麗事を言うことができるだろう。だからわたしは、己の口にした言葉をまことにするために、行動するしかない」

「なあ、景虎。武田晴信が見せ兵の謎かけを無視して攻めてきているということは、徹底的に越後軍と戦うと決意したってことだ。北条氏康のようにあっさり撤退したりはしねえぞ!」

「やむを得ない、宇佐美。宿敵・村上義清を制したことで、武田晴信は己こそ戦国最強の武将であると思いあがっていることだろう。放置しておけば、北条以上の非道をやるに違いない。北条は領民には優しいが、武田は捕虜を金山へ送るというではないか。だからこそ、武田晴信に毘沙門天の戦を見せてやるのだ――神の戦を。なにが悪で、なにが義かを、あの野望に取りつかれた女に知らしめてやるのだ」

 さすが景虎ちゃん! と小笠原長時が歓声をあげ、村上義清が「……俺はあるいは、生涯の主君を得たのかもしれん」と目を細めていると。

 お待ちくださいませ、と景虎を制止した者がいた。

 父の代から長尾家に仕えている、財務方の官僚武将、大熊朝秀おおくまともひでだった。

 見た目も商人のような優男で、越後の国人の多くは合戦のたびにこの大熊朝秀に銭を借りている。

「戦には、戦費というものがかかります。わが国は国人衆と直参の諸将を関東出兵に動かしたばかりで、しかも景虎さまは上野において防衛した城をすべてそのままにして、彼らに恩賞として分け与えていませんから、ありていに言えば諸将は赤字なのです。この上、間髪入れずに北信濃への出兵を命じれば、戦費を捻出できずに首が回らなくなる者も出て参りますし、謀反が起こる恐れもございます」

 景虎は、戦費のことを深く考えたことがなかった。越後は途方もなく豊かな国だったし、内政については、宰相の直江大和に任せきってある。

「関東で手柄をあげた本庄繁長は、領土など得られずとも、わたしから感状を与えられて喜んでいたが」

「お嬢さまからの感状など、彼らにとっては要は恋文のようなものです。一時しのぎにすぎません! 恩賞として土地の代わりに感状を渡すという行為を何度も繰り返せば、いずれ感状は紙切れ同然となってしまいます。なぜならば武家たる者、家臣を食わせねばならないのです。せめてあと半年、お待ちください」

「……北信濃へは、わたし自身が出兵する。問題はない。国人衆は、余裕のある者だけが参戦すればよい」

「景虎さま! 戦は遊びではありません。人の命も、兵糧も、銭も失われるのです。いくらわが国が青苧あおその貿易で荒稼ぎしているとはいえ、財源は有限なのです!」

「大熊。わたしは商売人ではないぞ。武士だ! 兵は一人たりとも無駄死にさせぬ。わたし自身が軍を率い、勝つ。勝つための銭勘定はそのほうが宰相の直江とともに知恵を絞って考えよ!」

 直江大和が、「他国を助けるための義の合戦などは銭がかかるだけです! 土地なり城なり人なりを奪わねば、黒字にはなりません!」と激高する大熊朝秀を「上洛の折には、その青苧の販路をさらに拡大するための工作も予定しております」となだめた。

「大熊どのも上洛されればよいのです。お嬢さまの名声が畿内にて鳴り響けば、巨額の利が保証されましょう」

「しかし直江どの。今、北信濃で合戦をはじめれば、上洛の計画そのものが流れてしまうではありませんか!」

「そのお言葉は、ごもっともです。合戦の期限を切りましょう。それに、もともとお嬢さまはお身体がお弱い。長い遠征には、耐えられませんのでね」

「期限内に、武田晴信を倒せますかな」

 武田晴信が決戦に挑んでくれば、倒せる、と景虎はうなずいていた。

 義だけでは人は動かせない――この「真理」を潔癖な景虎が実感するまでには、まだ、しばらくの時間がかかる。大熊朝秀はなおも納得できないようで歯がみしていたが、直江大和のてついた視線が強引に彼の口を封じてしまった。

 見かねた村上義清が、「晴信と決戦するならば、川中島だ」と進言した。

「砥石城、葛尾城を落とした武田晴信軍は、千曲川沿いに北上。川中島へと進軍している。俺が越後へと落ち延びている隙に、善光寺を接収するつもりのようだ――善光寺は、戸隠山の表玄関だからな。それに、南信濃の諏訪が民衆にとって特別な聖地だったのと同じで、北信濃の民衆にとっての聖地といえば善光寺だ。たとえ武力で城を強奪したとしても、それだけでは維持は難しいが、その土地に住まう民衆の信仰心をつかめば、侵略者の武田晴信であろうとも奪った国を治めることはできる」

「わたしは、国など奪わぬ。晴信め。人々の信仰心まで利用して、領土を拡大しようとは。卑劣な女だ」

 常の晴信ならば慎重に戦うが、今の晴信は越後の「見せ兵」によほど立腹しているようで「城を奪えるだけ奪え」とばかりに北信濃を蹂躙じゆうりんしている。どうしても決戦するというのならば、晴信の戦意が高揚している今こそがその時期だろう、と村上義清は言った。

「が、この決戦が成らねば、関東に続き北信濃での戦局も、泥沼になるぞ。長尾景虎。その覚悟は、あるのか」

「ある。関東はわが父の汚名をそそぐために鎮撫ちんぶしなければならない宿命の地であり、決して捨て置けない。一方、信濃と越後とにはそこまでの深い縁こそないが、自らの父親を追放した女・武田晴信を捨て置いていては義将は名乗れない」

 景虎が、立ち上がった。

 背後から、そんな景虎を揶揄やゆする声が、飛んできた――。

「フン。上杉憲政に、小笠原長時と、己の国も守れぬくずどもを次々と集めて城も奪わぬ外征を繰り返すとは。いったいなにがしたいのだお前は。有象無象を集めても、せいぜい村上義清を犬として戦場で使い潰すくらいしか使い道などないぞ。馬鹿にも程がある」

 長尾政景だった。

「……姉上のもとにいるのではなかったのか」

「俺の子はどうやらもう助からん。晴景に続き、葬儀をやらねばならんな。

だが、子などはまた儲ければいい」

「しかしまだ助かる可能性はあるのだろう。北信濃への遠征には出なくてよい。姉上のもとから動くな、政景。春日山城での留守役を命じる」

 宇佐美定満が「おいおい。このおおかみに春日山城を預けるのか?」と予想外の景虎の言葉に慌てたが、「これくらいの大役を任さねば、この男は姉上のもとに留まらない」と景虎は首を振った――。

「フン……晴景は結局、世継ぎを残せなかった。貴様が生涯不犯を貫けば、俺と綾の子が次代の越後守護ということになるな。俺の子のために、なんの益もない合戦を繰り広げてくれるというのか。ご苦労なことだ」

「……政景。お前には国主の資格はないが、姉上の子であれば、義を貫く名君になってくれるだろう。それで、なにも問題ない」

 愚かな、と政景は吐き捨てるようにつぶやいていた。

 その政景に、短気かつ傲慢ごうまんな小笠原長時が突っかかっていったので、場は騒然となった。政景は常に全身から殺気を放った武闘派だが、小笠原長時も剣を抜けば剛勇無双である。

「待て、待て待て待て~い! 何様だぁてめえは! 俺さまの景虎ちゃんに馴なれ馴れしくするんじゃねー! だいいち、生涯不犯とはなんのことだ! 五年のうちに俺さまが景虎ちゃんを口説き落として、そして子を産ませるのだ。がははは」

「……雑魚が……国も城も失っておきながら、女を奪って帳尻を合わせようなどと。ゲスの本性を隠し抜く演技力くらいは持っている上杉憲政以下だな、貴様は」

「はあ? うらなりの上杉憲政なんぞと一緒にするな! てめえ、俺さまと尋常に勝負しろっ!」

「双方とも、内輪もめなどしている場合ではないぞ。諸将が仲間割れすれば、すかさず武田晴信に切り崩される。小笠原よ、慎め。俺たちにできることは、新たな主君となった長尾景虎の指揮のもとで死力を尽くして戦うことだけだ。貴様も亡国の将ならば、分をわきまえろ」

 村上義清が、二人の間に割って入った。

(見覚えのある光景だ。以前、北条と柿崎との間でも、同じようなことが……)

 景虎は(宇佐美と直江のケンカだけは、芝居だったが。なぜこうも、男どもは仲間割れを好むのだろうか。解せない。姫武将であるわたしとはものの感じ方、考え方が異なるのだろうか……直江がわたしの祝言の期限を引き延ばしたが、このままでは五年ももたないのではないか)と寂しげに眉を下げながらも、憂いを振り切り、出陣を命じていた。

 北信濃へ。

 ついに、長尾景虎、軍を率いて――川中島へ。

 景虎はまだ、川中島で己を待つ者を、自らの運命を、知らない。

 宇佐美定満も、直江大和も、この北信濃での戦いが景虎にとってどれほど巨大な運命の分岐点となるかを、予測できなかった。

 景虎は、まだ見ぬ武田晴信の姿を思い描きながら、小姓へと告げていた。

「この景虎自身が出陣したことを武田に知らしめるために、毘沙門天および、懸乱龍かかりみだれりゆうの旗を掲げよ」


「義」と「毘」の旗の下に集結した男たちは、それぞれ、動きはじめた。


 出陣前夜。

 ひとたび景虎が川中島で義戦を開始すると決めると同時に、「こいつは景虎にとってはじめての国外での本格的な合戦となる――しかも相手はとてつもない強敵だ」と覚悟を固めた宇佐美定満と猛将・柿崎景家は、敗将となり越後に屋敷を与えられた村上義清を招いて、武田晴信の独特の軍法や戦術、その思考の癖までをも聞き出そうと質問攻めにした。大部についてはすでに軍議の席で景虎自身が義清から直接聞き出しているが、村上義清ほどの豪の者を策略によって切り崩していった武田晴信について、宇佐美は事前にもっと知らねばならないと焦っていた。

「なあ、村上の旦那。景虎に、欲の戦ではなく義戦をやれと教育したのはこのオレなんだ」

うわさには聞いていた。一族のかたきである長尾為景の娘に、誠心誠意仕えている越後の風変わりな軍師のことは――宇佐美定満。あんたは、善き軍師だ。景虎を一目見れば、わかる。あれはこの乱世では奇跡とも言える、希有な武将だ」

「だがオレは甘くてな。どうやら景虎を純粋に育てすぎた。それに対して、村上の旦那。あんたは、期せずして武田晴信の師になっちまったようだな。晴信の強さの大部分は、あんたとの死闘によって培われたものだ」

「どうやら、そうらしい」

「二度までも戦場で晴信を敗走させておいて、なぜあんたほどの猛将が、晴信を殺せなかったのか?」

「……わからん。ひとたび戦場に出れば、武士は武士。俺は、相手が姫武将相手だからと情けをかけるような男ではない。言葉では言い表せぬなにかが、俺を阻んだのだ。あるいは……」

「あるいは、景虎と武田晴信を出会わせるために、オレもあんたも、奔走してきたのかもしれねえな。そんな気がするぜ。あの二人の対決は、逃れられない宿命だったのだろうさ」

「だとすれば、俺はもっと早く敗走しておけばよかったな。北信濃で粘れば粘るほど、文弱な姫武将だった晴信に戦い方を教え込んだことになる。越後最強の景虎といえども、晴信との戦いは容易ではないぞ」

「あんたがこの合戦の種を持ち込んできたんだろうが。戦場では、責任を取ってもらうぜ」

「承知している。この恩義は息子や孫の代に至っても決して忘れぬ。村上一族は越後で生き、戦場で死ぬ。毘沙門天の旗の下でな」

「猛将は、戦場で討ち死にできるから、いいな。オレのような陰謀を巡らせる軍師は、その死に様すらきっと、薄暗い」

「それでこそ軍師だ」

 宇佐美と義清は、盃を酌み交わしながら笑い合っていた。

 柿崎景家が「村上どの。笹団子をどうぞ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と奇異な菓子を勧めてきた。笹の葉で餅をくるんでいる。その笹の結び方が、まるでうさぎの耳のように見えた。

「オレと柿崎が景虎に食わせるために考案した団子だ。あいつは生まれつき豆が食えない身体でな。酒ばかり飲んでいるので、なんとかして飯を食わせたくてよ」

「……あんたは、善き軍師だ。景虎はまるで、越後のかぐや姫だな。それで、兎が軍師役か」

「景虎は戦の天才。戦場であいつに教えられることはなにもないが、だがまさか、北条と武田との二正面作戦をはじめることになるとは予想できなかった……村上の旦那。武田の武器は真田忍びだけじゃあねえんだろう。忍びの力だけで国が奪えるほど、乱世は甘くない。塩尻峠の合戦では小笠原率いる信濃連合軍を完璧に粉砕している。武田のもうひとつの武器は?」

 それは緩急。山の如く不動と見せかけて、勝機を掴めば風の如く進軍してくるその速度――つまりは『騎馬隊』。そしてその騎馬隊を縦横に用いるための『道』の整備だ、と村上義清は答えていた。

「甲斐も信濃も山国。故に、騎馬隊の速度をかすことが難しい地勢だ。それを晴信は覆した。山本勘助という忍びあがりの軍師が、信濃の地理を知り尽くしているらしい」

「『道』か。景虎が関東へ本格的に出兵する折には、三国峠の山道を整備しなくてはならねえな……雪が、敵になるな」

「それに武田家には、人の和がある。主君・晴信のためならば、宿将たちは平然と戦場で己の命を捨てがまってくる。その点、どうやら越後は一枚岩ではないらしい。景虎はまさしく無私の義将だが――長尾政景と上杉憲政に対して、甘すぎる。関東遠征派と信濃遠征派とに、国人どもが割れねばよいのだが」

 残念ながらもう割れつつある、だが内憂に対しては外征で解決する、これは国の統治の初歩とも言える、と柿崎景家が口を開いていた。

「先の守護さまに続き、晴景さまがお亡くなりになった今、国外に敵を求めて戦うことこそが越後をひとつにする最善の道かもしれぬ。南無阿弥陀仏」


 同じ頃。長尾政景のもとには、この北信濃での無益な合戦に反対している男たちが集っていた。

「川中島を奪回しても、村上と小笠原に領土を返すというのなら、われら越後の国人たちはただ消耗するのみだ。関東遠征に続いて、二度までも無駄働きをさせられる羽目になった。やれやれ。政景どの、もっと強く景虎さまを諫止かんししていただかねば困る」

 景虎さまには早く上洛していただかねばならない、合戦とは武士どもと足軽たちが稼ぐためにやるものであって、差し引きが赤字になるような義戦はなるべく回避したいとぼやいている、北条高広。

「まったくです。景虎さまは、経済というものがわかっておられない。銭などは無尽蔵に湧いてくるとでも考えておられるのでしょうか。たしかに越後は甲斐などとは比べものにならぬ大国ですが、限度がございます」

 川中島出兵が決定して以来、ずっと青ざめている大熊朝秀。

「人としてたいせつな礼節をすべて捨ててきたような小笠原などは放置しておいてもいいだろうけれど、村上義清は厄介だね。景虎は、ああいう無骨な武辺者とは馬が合うだろう。義清はもう老境で、不犯を誓っている景虎が警戒せねばならぬような男でもないしね……関東管領家の復興は越後軍の力なくしては不可能。僕にとっても、頭の痛いことになってきたよ」

 景虎が三国峠を越えられなかったために、なおも越後に留まらねばならなくなった上杉憲政。憲政自身は、修羅の国と化している上野へ戻るよりも、越後の豪奢ごうしやな館で風流な生活をしている今のほうがずっとよい、と思っている。だが、越後軍が川中島へ出兵するのは困る。武田晴信との戦いが本格化すれば、それだけ、景虎の関東遠征計画は遅延することになる。北条氏康に、あまり時間を与えてはならない。北条の関東支配体制が盤石のものとなる前に、景虎と氏康とみ合わせねば間に合わなくなるのだ。

「いやあ長尾政景。きみは春日山城での留守居役を命じられて、うらやましいよ。あれだけ派手に謀反しておきながら、景虎はきみには特別に甘いらしい。やはり、姉婿だからだろうか?」

「……フン。くだらんことを言うな。あいつは誰に対しても平等に甘い。万人に慈悲を与える毘沙門天を気取っているのだからな」

 政景は、吐き捨てるようにつぶやいていた。

(北条にとって、いや、多くの国人にとって、関東遠征とは要は隣国への出稼ぎのようなものなのだろう。川中島出兵に反対し関東遠征に賛成するのは、肥沃ひよくな関東ならばいくらでも稼げるが川中島では奪えるものなどない、という理由だ。いずれにせよ「義戦」を掲げる景虎とは必然的に対立することになる。計算高い北条や財務にしか興味のない大熊はもちろん、今は景虎の武威に心服している下越の揚北衆とて、景虎の義戦とやらが宗教的高揚感以外になんの利益ももたらさないと気づけば、そのうち暴発するかもしれん)

 政景は、上杉憲政の盃に酒を注いで、言った。

「このまま景虎を放置しておけば、どこまでも村上義清とともに川中島で義戦を続ける羽目になるぞ。上杉憲政。貴様には、景虎に琵琶と和歌を教える時間がある。なんとしても景虎を説得して、上洛させろ。直江の計画を後押しするのは不本意だが、川中島などに張り付かれるよりはずっといい。あれは、頼まれれば嫌だとは言えない娘だ」

「関東遠征ではなく、上洛が先だというのかい?」

「景虎はいちど承知した以上、関東遠征は必ずやるだろう。しかし川中島での戦いも決してやめまい。二正面作戦の愚を補えるほどの絶対的な名分を得るとなれば、上洛し、御所の公家どもや幕府の将軍から『お墨付き』を手に入れるしかない」

 村上義清に引きずられぬよう、僕が景虎の心を奪うという道もあるよ、なにしろ芸事を教えるために二人きりになる時間があるんだから、と憲政がちらりと野心をのぞかせたが、政景は「そのような下心をあらわにすれば、以後は、小笠原も貴様も景虎の目には同類に映ることになるぞ」と取り合わなかった。

「……それはまずいな。たしかにいちどしくじれば、取り返しがつかなくなりそうだ……だが、景虎は、小笠原をよく斬らないね。彼は景虎の寝込みを襲うかもしれないよ」

「あれは、不殺縛りとやらで己を縛っているのだ。馬鹿な娘だ。が、寝込みを襲っても無駄だ。宇佐美と直江が雇っている腕利きの軒猿たちが、景虎の寝所に結界を張っている」

 北条高広が「景虎さまが許しても、無礼千万な小笠原どのはいずれ少々痛い目に遭うかもしれませんな。景虎さまの婿の座をうかがっている越後の諸将が、黙ってはいますまい」と苦笑いを浮かべた。

「いや北条。小笠原は傍若無人な男だが、殺すことはならんぞ。上洛の折には、あれでも役に立つ。信じがたいが、奴は小笠原流礼法の継承者なのだ。田舎者の景虎にとって、あいつの礼法の知識は必要なものだ。憲政の琵琶と和歌だけでは、まだ足りん」

 上杉憲政は(政景が景虎を憎んでいるのか、それとも越後の女王として育てようとしているのか、僕にはよくわからないよ。上洛した結果、関東から景虎の心が離れてしまわねばよいのだが……)と腕組みしていた。

 ただはっきりしていることは、景虎を力ずくで襲ったりすれば宇佐美、直江、政景たち越後諸将の逆鱗げきりんに触れて自分の命はたちどころに奪われるだろう、少なくとも佐渡島さどしまあたりに流されて生涯幽閉されることになる、ということだけだった。

 無理強いができないとすれば――小笠原の礼法教育と、僕の風流手習い。いずれの時間が景虎の心を奪えるかという勝負なのかもしれない。だとすれば僕の勝ちだ、小笠原はいくら礼法を身につけているとはいえしょせんは山猿だからね、その点、僕は内なる衝動を制御して優雅に立ち振る舞えるほんものの貴公子だ。八歳にして関東管領職を継いだ経歴はお飾りじゃないさ、と憲政は思った。

(景虎自身が己の意志で僕を選べば、政景もなにも言えまい。小笠原が下品に振る舞えば振る舞うほど、僕の魅力が引き立つというものだ。ふふふ)

 景虎は戦には強いが、男どもの求愛にはどうだろうか。かぐや姫のように無理難題を与えて、ことごとく蹴散らしてしまえるのか。政景は、いつしか自分が景虎とかぐや姫とを同一視していることにふと気づいて、苦虫をかみつぶしたような表情で酒をあおっていた。


 宰相・直江大和の館の庭園には、黒装束の加藤段蔵が侍っていた――。

「わたくしが命じた直江家の宝剣の盗み出しには、成功したようですね。採用です。以後は戸隠忍びと併せて、軒猿衆を率いるよう――宝剣は元の蔵へ戻しておくように。ですが、お嬢さまのもとへ無断で侵入したことはとがめねばなりません。お嬢さまへの非礼を繰り返せば、あなたを殺すことになります」

 俺に軒猿衆を預けて構わんのか、と加藤が不敵に笑いながら問うた。

 直江大和は、涼しい顔で「これよりお嬢さまの武術師範を務めるよう」と加藤の挑発を無視して告げていた。

「先の頭領が引退したところでしたのでね。それに――お嬢さまに護身のための体術を教えられる人材を探していましたから。刀や槍を用いて相手を『殺す』ために戦う武士や剣豪よりも、徒手空拳であっても『護身』のために戦う術に長けた忍びのほうが、お嬢さまの師範としては相応しいのです」

「鳶ノ術は相伝できるものではないぞ。だが、戸隠に伝わる秘伝の体術ならば、伝授できよう。敵の殺意を受け流し、そのまま相手へとはじきかえす術だ。本来、忍びとしての死の調練をくぐり抜けておらぬ武士などが手すさびで身につけられるものではないが、あの者は特別だからな」

「それは重畳」

「だが、俺はいずれ長尾景虎をかどわかし、さらって越後から逃げるかもしれんぞ」

「攫ったところで、あなたはお嬢さまに指一本触れられませんよ。それよりも、小笠原長時の夜這よばいを警戒するように。あの男には、お嬢さまが放つ『気』の力も通じますまい。しょせん、人の力も神仏の力も、干渉する相手の器次第で強くもなれば弱くもなるのですから」

 フン。一介の忍びにすぎぬ俺を小笠原よりは大物と値踏みしてくれるのは有り難い、と加藤はまた笑った。

「だが覚えておけ直江大和。俺の血筋は日向ひゆうがより東征してきてやまと御所の祖となった天津神あまつかみの一族でも、まして出雲いずもに王国を築いていた国津神くにつかみの一族でもない。俺は、出雲を追われた建御名方神たけみなかたのかみが信濃に落ち延びてきて諏訪に亡命王朝を開く以前より東国に土着していた、もはやこの国の誰にも語られぬ滅び去った民族の末裔よ。俺だけではない。修験者やサンカ、忍びなど、まつろわぬ山の民の多くは――日ノ本の歴史の闇に葬られた者たちなのだ。やまと御所にも、武士にも、心からは仕えぬ。俺が求めるものは、俺自身の居場所であり、自由よ」

 戸隠の『石』を守ることがあなたの自由なのですか? と直江は問うた。

 加藤は、否、と答えた――。

「怨念が石の形となって、俺たち戸隠の忍びを縛っているのだ。この国の表の歴史より抹殺されて以来、俺の身体に流れる古代日ノ本人の血そのものが、怨念と化したのだ。しかしその怨念の象徴を打ち砕けば、俺はもはや何者でもなくなってしまう。『石』に対しては愛憎半ばする、といったところか……しかしあれは、あくまでも俺たち戸隠忍びのものだ。決して武士には、武田晴信などには渡さぬ。歴代の戸隠忍びを生み続けてきた『石』を、武田の走狗そうくを量産するための『場』などにはさせぬ」

「陰陽道、修験道、呪術の類いは、わたくしの専門外ですが……砥石城調略のあらましを調べているうちに、いくらか、戸隠山の秘密を握ることができましたよ。武田晴信が砥石城でやったように、戸隠で『石』を壊して地龍を駆り立てれば、あるいは日ノ本そのものを滅ぼせるのではありませんか? 加藤段蔵。あなたには、平将門たいらのまさかど公のように、この国を破壊する怨霊そのものになろうという誘惑はないのですか」

 いかに俺の血筋に怨念がまっていようとも、その怨念の濃さは公家や武士ほどじゃあない、と加藤はうそぶいた。

「俺は、しょせんは忍び。いざとなれば術を用いてどこへでも逃げ去ることができる。地龍を駆り立てたいほどの怨念にとらわれているのは貴様だろう、直江大和。貴様は越後の宰相の地位へと上り詰めるために、なにを失い、なにを捨ててきた? 武士とは不自由なものだ、フフフ」

 わたくしには、信じるべき慈悲の光が見えていますから、あなたのように惑うことはありませんよ加藤段蔵、と直江はつぶやいていた――。

「景虎か。その景虎が俺のような男に穢されれば、その時こそ貴様は鬼となるのだろうな。むしろ、なぜ他の男に奪われる前に、奪おうとせぬ」

「言葉でわたくしをたばかることはできませんよ。人が生きる限り、怨念は生じます。怨念とは、己の意志を貫けないこの世界に対する憤懣ふんまんであり後悔なのですから。ですがその怨念の意味は、当人自身が定めるのです」

「貴様も景虎も宇佐美も、見当違いの実現不能な観念に酔いしれて人生を棒に振る定めらしいな。そして、貴様らにはその覚悟もできているようだ。小笠原から景虎を守る任務は必ず果たそう。が、俺自身が『石』よりも景虎をこそ俺の怨念を浄化してくれる宝だと思い定めた時には、どうなるかわからぬぞ。フフフ」

 加藤の姿が闇に消えると同時に、直江は「与六よろく」を呼びつけていた。

「……はい。義父上ちちうえ

 宇佐美定満が推挙し、新しく直江大和の義娘ぎじようとなった、樋口村出身の幼女である。利発だが、よほど宇佐美のもとでの居心地がよかったのだろう。冷淡な直江大和にはまだ心を開いていない。

 次代の宰相として育てる以上、与六を甘やかしてはならない。しかし、幼い娘子に理不尽な暴力を振るってもいけない。その暴力が、新たな怨念を生んではならない。それでも与六の資質や性格によっては、必要な暴力を罰として与えねばならないこともあるだろう。このあたりのさじ加減が難しい。与六は宇佐美に見出みいだされたことを自負していて、気位が高い。「私はこんなところに来とうはなかった」という与六の口癖を改めるためには、どうすればいいのか。加藤段蔵のようにすでに怨念に満ちた年配の輩を使うほうが、まだずっと簡単だった。独り身のわたくしには子育てとは難しいものです。直江大和はため息をつきながら、与六に命じていた。

「来る川中島での戦に結着がつき、お嬢さまが無事に春日山へ帰還された暁には、小姓としてお嬢さまに侍るように。それまでは、武術の修練と学問にいそしんでもらいます。あなたには、自由時間はありません。お嬢さまのために生き、そして死ぬのです。それが――越後の宰相に与えられた使命」

 この与六を義娘にしたということは、義父上はもう妻帯なさらないのですか、と与六が尋ねてきた。あまりにも利発すぎるところがある、と直江大和は思った。

「お嬢さまが不犯の誓いを撤回すれば、考えましょう。夫だの妻だの世継ぎだのについて語るには、お前は幼すぎます。わたくしは宇佐美さまとは違いますよ、覚悟しておくように」

 与六は――後に「直江兼続かねつぐ」と改名する幼い娘は、「早く私も景虎さまとともに戦場に赴きたいです」と瞳を輝かせながら、うなずいていた。

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