第十話 越後守護代

「そなたが長尾為景の娘、越後はじまって以来の姫武将、長尾景虎か。あのいたずら坊主の宇佐美が担ぎ上げているお飾りの姫か、それとも……もしも越後にさらなる大乱を呼び込む娘であれば、生かしては返せぬ」

 越後守護・上杉定実はすでに七十歳という高齢の老人だった。

 宇佐美定満に出馬を促されて栃尾入りした上杉定実は、景虎勢と晴景勢との中間に位置する丘陵に陣を張り、景虎一人を陣中へ入れて謁見えつけんしていた。

 単身で越後守護の前に乗り込んだ景虎は、宇佐美から上杉定実の人となりについてあらかじめ教えられている。

 かつて景虎の父・為景が、自分の主君である越後守護・上杉家を倒して下克上を成し遂げ越後に覇を唱えた際、当然ながら越後の諸将は為景に猛然と反発した。主殺しでしかも長尾家の人間にすぎない為景自身が力くで守護の座を奪うことははばかられたため、お飾りの守護が必要となった。そこで、上杉家の血を引く定実が、為景によって守護の座に祭り上げられた。

 宇佐美家はこの越後守護・上杉定実に忠義を尽くしてきた家であり、宇佐美定満の「定」の一文字は上杉定実から拝領したものである。

 上杉定実は当初、長尾為景の傀儡かいらいにすぎず、関東管領上杉家と為景との合戦の際にも為景のお飾りとして戦に同行させられていたが、由緒ある上杉家の頭領である関東管領までが長尾為景に討たれて死ぬと、越後守護としての責務に目覚めた。権勢を欲しいままにする為景を排除して、自ら越後に君臨しようとしたのだ。宇佐美一族も上杉定実に従った。

 しかしその結果はさんさんたるもので、宇佐美一族は幼かった定満を除いて討ち死に。長尾為景を排除するどころか、上杉定実自身が為景に捕らわれて軟禁され、越後守護の権威は完全に失墜したのだった。

「景虎よ。わしは今でも、宇佐美定満には申し訳ないことをしたと悔いておる。忠義を尽くしてくれた宇佐美一族への罪滅しとして、せめて定満だけでも生き延びさせて家を再興させてやりたかった。軒猿のきざるの忍びの術をあれに教えたのも、定満が死ねば宇佐美家が断絶してしまうからじゃった」

 景虎は首を傾げた。

「軒猿?」

「越後上杉家に仕える忍び衆よ。儂の生涯は、驍将ぎようしよう・長尾為景との暗闘の日々であった。お飾り守護にすぎぬ儂には兵力がない。為景は、意に沿わぬ儂を何度も亡き者にしようとした。代わりの者などいくらでもいたからのう。それでも為景が儂を殺せなかったのは、常に軒猿たちが儂の身辺に潜んでおったからじゃ」

「それでは先ほどから、この陣中に殺気がみなぎっているのは」

「軒猿たちの気をそなたが感じているのだろうのう。奴らは完全に気配を殺すことができるはずじゃが、そなたは特別らしい。宇佐美定満が言うておったとおりじゃ。尋常の人間にはない感覚が、そなたには備わっている」

 景虎の背後から、不意に石つぶてが飛んできた。

 景虎は、身体をわずかに傾けることでその石つぶてを避けた。

「見事じゃのう。まるで背中に目があるかのようじゃのう。忍びの修練を重ねた経験があるわけでもなし、そなたはいつからそのような力を身につけた?」

「わたしには特別な力などありません。ただ、こうもまぶしいと目がよく利きません。目がくらむ代わりに、鼻や耳や肌が利くのです」

「ほう。まるで蝙蝠こうもりが暗い洞窟の中を飛び回れるかのようなものか。生きづらかろうのう」

「今、越後は兄上に忠誠を誓う者と、わたしを担ぐ者とに二分され、またしても騒乱の渦に巻き込まれています。越後に平穏をもたらすために、この景虎を殺されますか」

「迷うておる。儂はすでにいちど世を捨てて為景への抵抗をあきらめた。しかし先年、その為景が死んだと知り、こんどこそ越後守護としての責務を果たそうとよけいな陰謀を画策した。儂には世継ぎがおらぬ。このとしではもう子をすこともできぬ。もう長くは生きられぬ。世継ぎを定めぬまま死ねば、為景なき越後はいよいよ乱れるだろう。そこで儂は、いっそ隣国米沢の伊達家から養子を迎えて越後守護職を譲ろうとした。知っておるな」

「……はい。ただ……なぜ遠縁の伊達家だったのでしょう。上杉家の本流である関東管領家から養子をお迎えすれば、問題はなかったと思いますが」

「関東・越後は上杉家が、奥州は伊達家が統べる。それが東国のしきたりであったが、上杉家はすでに見る影もなく没落しておる。そなたの父・為景と小田原の北条家によってな。上杉家はもはや当てにならぬ。しかし、伊達家は巧みな婚姻外交政策を重ねて奥州全土を支配せんとする勢いじゃった。ならば伊達家と上杉家がこの越後でつながれば、東国は安定する」

「そうでしたか」

「そう考えたのが、儂の愚かさじゃったわ。しょせんは机上の空論よ。越後と奥州との間に不和を呼び起こし、天文てんぶんの大乱を起こしてしもうた。伊達家までが分裂し、奥州もまた関東や越後同様に血で血を洗う戦国の世に突入してしもうた。すべては儂の愚かさ故じゃ。宇佐美定満に『死に損ないが余計なことをするんじゃねえ』とさんざん文句を言われたわ。あやつの奔走を無駄にしてしまったのじゃからな」

 宇佐美定満に倣って、わが娘を武将となして世継ぎに指名すればよかったのかもしれぬが、できなんだ。この修羅の国で娘にやり働きなどさせとうはなかった。だから娘はそなたの兄・晴景に妻としてくれてやった、と上杉定実は笑った。

「しょせん上杉家はもはや斜陽で、よみがえることなどできぬ。いっそ守護上杉家

と守護代長尾家の血が一体となればよかろう、それで越後の混乱も鎮まろうと思うてな。だが、晴景とわが娘との間に生まれた子は夭折ようせつし、晴景は病を得て今では妻に目もくれぬ。次の子は生まれぬであろう。わしの命もってあと一、二年。揺れる守護代の座にくわえ、越後守護の座を巡って越後はまた割れる。それはすさまじい争いになるだろうのう」

 上杉定実は疲れ果てていた。長尾為景に担がれ、一兵も持たぬ身で反旗を翻し、策に溺れて失敗を重ねてきた自分の生涯はいったいなんであったのかと思うと、なにごとをもなせずに七十年を浪費したというむなしさと後悔だけが残っていた。いっそ堂々と為景と戦って討ち死にしていれば悔いなど残らなかったのではないかと。

「宇佐美一族は、死んで義を残した。宇佐美定満というやんちゃ坊主を越後に残した。その宇佐美定満が、そなたに義将としての生き方を教えたのだという。あの憎い一族のかたきである為景の子にじゃ。なかなかできることではない。一方、儂はおめおめと生きながらえながら、なにも残しておらぬ」

 七十年を生きてきた越後の主が「自分は越後になにも残していない」と嘆く姿を、景虎は痛ましく思った。

 越後がこれほどに乱れたのは父上が主君をないがしろにしてきたためであって、このお方の罪ではない、とも思った。

 景虎は「父の罪は子であるわたしが背負います」とうなずいていた。

「この景虎も今また、守護代である兄上と戦おうとしています。父上と同じ過ちを繰り返そうと。これが業というものかもしれません……定実さま。もしも越後になにごとかを残したいとお思いならば、この場でわたしを討ってください」

「晴景と和解はせぬのか?」

「わたしには最初から兄上に逆らうつもりはないのです。ただ、わたしがいる限り、今後も越後は二つに割れて争い続けるでしょう」

「人の心は、人相に表れる。儂はまだ、そなたが宇佐美定満が言うようにまことの義将なのか、あるいは越後の男たちを惑わせる魔性の者なのか、判断

しかねる。その顔を覆った行人包ぎようにんづつみを取るがいい。そなたの心に為景のようなおぞましい野心があるのか、それとも毘沙門天びしやもんてんの化身として生きようと願う高潔な姫武将なのか、それは表情を見ればわかる」

 景虎は、「短時間だけでご容赦を」と目を細めながら、頭を覆っていた行人包を、外した。

「日に焼けると肌が赤くなります。しかしそれ以前に、この醜い姿は父上の業のたたりと言われておりますれば、人前にさらしたくはないのです。主君の前では、特に」

 銀色に輝く長い髪と、矛盾するいくつもの感情に揺れる真紅の瞳が、上杉定実を驚愕きようがくさせていた。

 人でありながら人ではない、まるで神じゃ、と上杉定実は絶句していた。

 とりわけその燃えるような紅い瞳に、侵しがたいなにかを感じた。まるでにらむ者すべての心の奥をのぞき込み、心に巣くう悪をはらってしまうかのような力を、感じていた。

 だがなによりも衝撃だったのは、その景虎が自分を醜いと思い込んでいることだった。もはや人生に疲れ果て枯れ果てていたはずの定実の心を、その激しい衝撃が揺り動かしていた。

「醜いとはどういう意味じゃ。そなたは……」

「毘沙門天のしるしだ、と言い張ってきたこともありました。しかし、やはりわたしのこの姿は、父上の罪の証しです。越後の守護として生きようとした定実さまの生涯を、父上は何十年にもわたってもてあそび続け、台無しにしたのです」

 長尾為景。そなたはまことに愚かな男であったわ、と上杉定実は叫びたくなった。長尾家にこれほどの英雄を授かっておきながら、ただ己の罪の意識を娘に担がせてくたばり果てるとは! 儂が景虎の父であれば、この景虎に 「わたしは醜い」などと言わせるような育て方は絶対にしなかった、と為景を怒鳴りつけたくなった。

「……愚かなことを言うでない。景虎。そなたは、何者かに選ばれし人間じゃ。ほんとうに、毘沙門天に選ばれたのかもしれぬ。為景がそなたを遠ざけていた理由もわかったわ。あれほど悪行をしてきた男が、そなたのその目を前にして平穏でいられるわけがない。その目は、まさしく破邪の瞳じゃ。そなたに見つめられた者は、己の心の内側をすべて暴かれずにはおられぬ」

 上杉定実があと十年若ければ、長尾晴景や長尾政景のように、恋慕の情に狂していたかもしれなかった。しかし定実はもう死を待つばかりの年老いた男だ。彼の身体も精神も、すでに「男」ではなくなっていた。しかも、彼には越後守護の座を託せる後継者がいない。後継者を探す時間も体力ももうない。彼には時間が残されていなかった。

 定実は「わが人生の最後の最後に。なにもかもが無様ぶざまな失敗に終わったとあきらめていたこの人生の終盤に。次代の越後守護が。わが後継者が見つかった」と確信し歓喜していた。

 歓喜というよりも、宗教的法悦に近かったかもしれない。

「長尾景虎。もはや老い先短いが、儂はこれより、そなたの後ろ盾となろう。儂はいつ死ぬかわからぬ故、ことを急ぐぞ。この老いぼれにすべて任せてくれ」

「定実さま?」

「わが人生は挫折と敗北の七十年であった。しかし、それでよかった。そう悟った。一生に一度だけでよい。儂もこの故国・越後に『義』を残して、死にたいのだ」

「それは、どういうことでしょうか」

「為景がいなくなれば儂の力で越後を統一できるであろうと悪あがきをした儂は、誰よりも愚かであった。最後には息子の晴景に守護の座を譲った為景よりもずっと愚かであった。越後のみならず奥州までを戦乱に巻き込んだ。どうか生きているうちに、償わせてくれ。そなたの義の心に、越後を、この国の未来を託したい。儂は晴景を説得し、そなたを越後守護代の座につける」

「いえ、それはなりません!」

「越後に平穏と秩序をもたらすためじゃ! しかしそれだけでは足りぬ。儂

が死ねばあの長尾政景が、誰を守護の座につけるかを巡ってまたしてもそなたと争うことになろう。堂々巡りになる。そこで儂は、越後の内乱を終わらせる最終的な解決をはかる。宇佐美定満の小僧も、そこまでは考えが及ばなかったらしい。これは儂の手柄、わが一世一代の名案じゃ。儂が死んだ暁には、長尾景虎。そなたが越後の守護となれ」

「わたしが? 越後の? 守護?」

 景虎は絶句していた。

 定実さまは混乱しておられるのだろうか、と思った。

「聞け景虎。儂は七十年も挫折を繰り返してきたほんとうの愚か者じゃ。上杉家の名分だけではもはや国を治めることはできぬ、圧倒的な武なくしてこの越後は治まらぬ、と知っておる。そして、その武に義が伴わなければ、どれほど合戦に強くともやはり越後は治められらぬということも」

「定実さま。わたしは、上杉家の血筋の人間ではありません。わたしが守護になれば、それは取り返しのつかない下克上になってしまいます! 父上ですら、そのような悪行は」

「悪行にはならぬ。関東管領上杉家、そして京の足利将軍には儂が話をつけておく。長尾景虎は、長尾為景の野心とこの儂の愚かさによって混乱した越後に平穏と秩序と正義をもたらす救世の英傑であると、関東管領にも将軍家にも重ねて訴える。そなたの戦場での武人としての天才ぶりは、すでに諸国に知れ渡っておる。その上によわい七十を重ねた越後守護のこの儂がお墨付きを出せば、彼らも納得しよう。これが儂の、現世における最後の仕事じゃ……」

 景虎は(恐れながら定実さまはもしかしていささか耄碌もうろくされておられるのでは。もしかしてわたしは、自分では意識していないだけで、死期が迫ってもうろうとしている老人をだまして越後守護の座を奪い取ろうとしている稀代きだいの悪人なのではないか)とこの突然の成り行きを恐れはばかったが、定実は

 「儂は老いたが、頭はまだ明朗である。案ずるな」と笑って取り合わなかった。

「ただし老人というものは恐ろしく短気でな。いつ死ぬかわからんのだから、仕方があるまい。もはや身体は衰え果ててすべての欲はすでに失ってしもうたが、ただ一つ、妄執とも言える心残りがある。越後になんの善行をも残していけず、ただ混乱と汚名だけを残して死にとうない、という心残りじゃ。

世継ぎがおらぬ老人ほど、哀れなものはない。頼む景虎。七十年もの間、鬱々うつうつと己の無力さと愚かさを恥じて苦しんできた儂を、最後に救うてくれ」

 宇佐美から聞いておる。そなたはただの武将ではなく、迷える人の魂を慈悲で救うために戦うのだと。だからこそ毘沙門天の化身なのだと。ならばどうか儂に慈悲をかけてはくれぬか、と定実は景虎の前に膝を折って懇願した。

 景虎は「頭をお上げください」と震えながら、上杉定実の申し出を、受けた。

 受けることを、決意した。

 死にゆく父・為景の魂を救うために毘沙門天になりきったあの時と同じように、景虎は、救いを求める上杉定実の頼みを聞かずにはいられなかった。

「わたしはあなたを苦しめてきた為景の娘です。それでも、よいのですか。わたしを信じてくださいますか」

「信じるとも。人がなんのために生まれてきたか、なにを為すために生きるかは、すべてその当人が決めることじゃ。そなたは、為景への罰として生まれてきたのではない。毘沙門天の化身じゃ。そなたのその神々しい姿こそが、証しじゃ。儂はそう信じる。そなたも信じよ。醜いなどと、二度と言うでない。誰が、そのような愚かな言葉をそなたにかけた?」

 わが父上が、と景虎は言いそうになり、その言葉をみ込んだ。

「容貌や心の美醜などは人がそれぞれ決めること。そなたに途方もない美しさを感じるものは己の心の内側に人の美を見出みいだすのであり、そなたを恐れるものは己の心に巣くう醜いものを恐れるのだ。景虎。儂を含めて、いちいち他人の言葉に惑ってはならぬ。そなたが何者であるかはすべて、最後にはそなた自身が決めること。自分で、決めねばならぬ。人は、己がなりたい者になるのだ」

「……わたしは、毘沙門天の化身として生きたいと、願いました。宇佐美も直江も、快くは思ってくれないようですが」

「ならば今は、毘沙門天として堂々と生きよ。いつか、別の生き方を見つけるまでは」

 別の生き方というものがなにを指しているのか、この時の景虎にはわからなかった。ただ、今できる生き方を精一杯生ききるだけだ、と思った。

「兄上と和解し、越後守護代に。そして、いずれ越後守護に。この景虎が守護となった暁には、越後の騒乱は必ず終わらせます。兵が民を襲うような悪習も一掃します。越後軍を、義軍として生まれ変わらせます。いずれ父上が乱した関東にも定実さまが乱された奥州にも、失われた秩序を蘇らせます」



「上杉定実さまには、越後守護代職の引き渡しの仲介をしてもらうはずだったのでは。まさか、ご自分の守護職をお嬢さまに譲ると言いだすとは考えてもいませんでした。宇佐美さま。あなたははじめからこの成り行きを予想して」

「いや、さすがにそこまでは考えちゃいなかった。定実が景虎を支持してくれるかどうかは一か八かの賭けだったが、あのじいさんとは古なじみだ。宇佐美家のれっきとした武士の子である俺に、軒猿の暗器術を教え込むような風狂な爺だからな。そうでなければ、為景の旦那と何十年にもわたって暗闘を繰り広げたりはしなかったさ。その風狂の血が、景虎の異相と出会ったことで唐突に目覚めたんだろうよ」

「その憎い為景さまのお子ということで、上杉定実さまはお嬢さまを暗殺するかもしれなかったのですよ」

「直江。お前が見通してたとおり、景虎には妙な力がある。病んだ魂を癒やす力とでもいうのかな。景虎は、誰に教義を教えるわけでもない。救いを与えるわけでもない。浄土を約束するわけでもない。むしろ景虎自身が自分に

与えられた過酷な運命に迷い、苦しんでいる――だがあのひ弱な身体で、景虎はその運命から逃げることなく生きようとしている。俺もお前も定実爺さんも、そういう娘に弱いらしい」

 春日山城。

 すでに表舞台から引退していたと思われていた越後守護・上杉定実が突如として立ち上がり、晴景・景虎の兄妹紛争を仲裁した結果、二派に割れて対立していた越後の諸将はついに「景虎を越後守護代に」という上杉定実の言葉のもとに一つとなった。武力を持たない上杉定実の言葉が決定的な重みを発揮したのは、「いずれ、わが守護職をも長尾景虎に譲る」と定実が宣言したためである。

 いかに下克上の時代とはいえ、守護代と守護との間には越えられない壁があった。

 梟雄きようゆう・長尾為景がついに上杉定実を最後まで排除できなかったのも、二度も越後の守護を殺すことはさすがの為景にも躊躇ためらわれたからである。一度ひとたび、守護を殺した時点で為景は内外の人望を失い、終わりのない内乱・外憂に巻き込まれたのだ。二人目までを殺すことははばかられた。

 ところがその上杉定実が、景虎に守護職を譲ると言うのだ。

「世継ぎのない儂は隣国の伊達家より養子を迎えて越後守護職を継がせようとしたが、この強引な移譲が越後の豪族と伊達家の一族の反発を生み、天下を乱す結果となった。故に自然の流れに任せることとし、儂が死んだ後には新たな越後守護代・景虎に守護職を譲ることとした。今後、越後では守護代と守護との対立はもう起こらない。越後最強の景虎が守護となれば越後に長く続いた内乱は治まるであろう」

 むろんこのまま晴景が守護代を続けるのならば守護職は譲らぬ、晴景には越後はまとめられぬことはすでに明らか、と上杉定実は付け加えた。

 上杉定実が伊達家から養子を迎えようとした時には傲然ごうぜんと反旗を翻した豪族国人たちも、「景虎さまが名実ともに越後の主君となるのであれば喜ばしきこと」と定実を支持した。

 景虎の、父・為景の才能を継いだ神がかりの武勇。

 上杉定実が持つ「越後守護」という絶対的な名分。

 この二つが一つに融合されれば、越後は強大な国となる。守護一人に権力が集中するのは独立心が強い越後の国人たちにとっては望ましいことではなかったが、しかし、彼らは今こそ一つにまとまらねばならなかった。

 あの諏訪家を平然と滅ぼした甲斐の武田晴信が、北信濃へと進出してきていたからだった――。

 父親を甲斐から追放して以来、武田晴信は恐るべき貪欲どんよくさで侵掠しんりやくを続けている。北信濃を奪えば次は越後の海を目指して北上してくることは、明らかだった。

 今の守護代・晴景を擁している長尾政景には徳がない。今のままでは越後は混乱し続けるだろう。それでは越後を武田晴信から守りきることは難しかった。しかしあの、越後初の姫武将・景虎ならば、義と慈悲を掲げる景虎なら、どれほどの権力を手にしても越後の国人たちを締め付けるような真似まねはしないだろう。ひとたび戦っても、降伏する者はことごとく許し続けているという。

 そして。

 意外にも、あっけなく晴景自身が「これでもはや妹を引き戻すことはできなくなった」と折れた。強攻を主張する政景に逆らって栃尾城攻めを中断し、

 「守護どののお言葉、すべて承知した」と撤兵したのだった。晴景は、無抵抗のまま城から出てきて無防備な陣を敷き、兄に討たれる時を待っているかのように自らを日の光の下にさらしていた妹を、攻めたくなかったらしい。攻められなかったというべきだろうか。

 はしごを外された形となった政景は居城の坂戸城にこもり、一時は春日山城への出仕を拒否したが、越後最強武将の名を景虎に譲った政景についていく者は少なく、また妻の綾に景虎への恭順を何度も勧められ、意外にもとうとう政景も屈服した。

 そしてついに守護代交代の日が訪れ、景虎は宇佐美定満と直江大和を連れ

て春日山城へと凱旋したのだった――。

 宇佐美と直江は、景虎の母・青岩院せいがんいん(虎御前)の屋敷を訪れていた。

「よくぞ兄と妹の仲違ながたがいを止めてくださいましたね。宇佐美どの、直江どの。春日山長尾家に生まれていなければ、二人はあのようなことにはならなかったはず」

「なに。政景の野郎があおっていたんだよ。これで水に流せるだろう。晴景の旦那はもともと、守護代の仕事が重荷で身体を壊していただろう?」

「晴景さまもこれで肩の荷が下りて、ゆっくりと養生できるでしょう」

「その政景どのも、綾の夫です。直江どの、今日はその政景どのも綾を連れてこの春日山城に来るようですが、どうか政景どのにお慈悲を」

「お嬢さまは、政景さまの命を奪いたくはないのです。それでは綾さまを深く傷つけることになってしまいますから。ですから、わたくしがこの機会に政景さまを暗殺せよと勧めても、お嬢さまはお認めになられませんよ」

 ただし、と直江大和は付け加えた。

「政景さまは、越後と関東を結ぶ三国街道沿い一帯を支配しております。関東では関東管領が北条に攻め立てられております。もしもその関東へ連なる出口を政景さまが謀反を起こしてふさいでしまえば、その時はさすがに放置できません」

 青岩院は「政景どのは昔から、妙に景虎に執着している方でした。綾はそのような政景どのに尽くしておりますが、景虎が生まれる際に、わが体内に毘沙門天が入ってきたとこの母が漏らしたことが発端だったのかもしれません。あのうわさが巡り巡って、景虎が生まれてきた時には高僧や山伏たちが集まってきて大騒動になりました」と当時を振り返って目を細めた。

「宇佐美どの。直江どの。なぜあのような言葉を漏らしたのか、今となっては自分でもよくわからないのです。まさか、景虎が自らを毘沙門天の化身であると信じるようになるとは、そして独身を守ると言いだしてこのような合戦の日々を送るようになるとは、予想もできませんでした……」

「景虎を姫武将に育てたのはオレの責任さ。だが、晴景の旦那の衰弱ぶりを

見れば越後のためにはこの道しかなかったんだと思える。今の景虎はさまざまな重荷に耐えるためにああいう奇矯な物語を信じているが、いずれは、毘沙門天の化身であると信じる必要もなくなるだろうさ」

「ほんとうにその時が来るでしょうか、宇佐美どの」

「来るさ。景虎は元服したとはいえまだ子供だ。自分が『人間』だという真実を受け入れる時が、毘沙門天の化身という信念が要らなくなる時が、いずれ来る」

「……心配なのです。景虎は日の光に当たるだけで倒れてしまう子でしたから、幼い頃、この館からあまり外へ出なかった。女性にばかり囲まれて育てられた子です。合戦から戻ってきた父である御館さまや政景どのの血なまぐささにいつもおびえていました。とりわけ父親に怯え、男を恐れるようになったのです。そしてこのたび、兄との合戦。あの子はほんとうにずっと夫を取らないまま生きるのでしょうか?」

 綾さまを失われたこともお嬢さまにとっては痛手でした、お嬢さまが男嫌いになり結婚を忌避しているのはわたくしの責任です、と直江大和が青岩院に頭を下げていた。

「いえ、綾は妹を守れて満足していると思います。あの時はああしていただく以外になかったのですから。ただ、景虎の心にはあの件が今でも傷になっています」

「はい。ですが、今日こうして晴景さまと和解できました。生涯独身を貫くというお嬢さまの信念も、いずれ春の雪のように溶けていきましょう。お嬢さまもそろそろお年頃です。宇佐美がいずれ、お嬢さまに相応ふさわしい相手を探してくるでしょう」

「よろしくお願いします、直江どの。宇佐美どの。どうか、あの子を毘沙門堂に閉じ込めておかないでください。この母が今更こう願うのも我がままかも知れませんが、やはりあの子には、人間として生きてもらいたいのです……景虎はその戦ぶりによって、常人ではないことをすでに越後全土に知らしめました。世に認められました。諸将によって越後守護代の座に推戴すいたいされまし

た。守護さまとも劇的に和解しました。これで越後には平和が訪れるはずです。この偉業を成し遂げたあの子には、どうか人としての幸せをつかんでもらいたいのです」

 青岩院は、「越後最強の神将」として春日山城へ凱旋してきた景虎の姿に、なにか不安を感じ取っていたらしかった。直江大和は(まだ婚期を云々うんぬんするお歳ではない。あと数年はこのままお嬢さまの好きにしていただいていいのではないか)と思ったが、隣で宇佐美定満が妙に小難しい顔をしていたので、その意見を青岩院に伝えることはやめた。

「どうしたんですか宇佐美さま? あなたらしくもない」

「いや。今回の騒動における晴景の旦那の態度が、なんだか、どこかで見たような……ま、気のせいだろうがな。青岩院さま。景虎は親不知の峠で神秘的な体験をして以来純潔を失うと毘沙門天の力を失うなどと思い込んでいるが、焦らずとも自然となるようになるさ。ただ、ちょっとばかり身体の成長が遅れているのと、あの身体の色がいかにも神がかっているので周囲が本気で毘沙門天扱いするから、毘沙門天気取りが長引いているのさ。いずれ、自分が人間の娘だという事実を受けいれる時が来る」

「だと、いいのですが。宇佐美どの」

「母親ってのは子供がいくつになっても心配性なものさ」


 宇佐美と直江の二人が、青岩院に事態の詳細を報告しているその頃、景虎はついに兄・晴景と再会を果たしていた。

 宇佐美定満も直江大和もまだ知らなかった。

 晴景が、実の妹に魂を奪われていたということに。

 晴景はその禁じられた想いを抱きながら毎夜苦しみ、見る影もなく病んでいた。さらにはその妹を攻めねばならない栃尾への出兵が心身双方に祟り、健康状態は急激に悪化していた。

「兄上。そのお姿は」

 景虎は、やせこけてしまった晴景の姿を見て、息を呑んでいた。

「……景虎。お前を謀反人と断じて攻めようとした罰が当たったのだろう。僕は愚かな兄だった。ただ、僕はお前を討とうとしていたのではない。姫武将などという危険な生き方をあきらめてもらいたかったのだ……」

 景虎は晴景のもとへ駆け寄り、激しくき込んでいる晴景の背中をさすった。その背中が、まるで骨と皮だけになっていた。

「兄上」

 わたしは兄上に対してなんという不幸者だったのか、と景虎は悔いた。目の前で次々と続く晴景への反乱・謀反を平定することに必死で、晴景自身がこれほど自分を心配してくれているとは知らなかったのだ。いや、知らなかったでは済まされない。合戦に無我夢中で、知ろうとしなかったのだ。わたしはあるいは戦えばすなわち勝てる合戦に淫していたのかもしれないと景虎は自分を恐れた。自分の身体に流れる為景の血を恐れた。

 この上、越後守護代の座を兄から奪うなど、許されるはずもない、と思った。

「待て、景虎。僕にはもう守護代は務まらない。見ての通り、もはやそのような体力はないのだ。政景にすべてをゆだねてきたが、政景では越後諸将が従わないことはもう明らかだ。政景自身も守護代の座をあきらめたようだ。そして僕には子がいない。跡取りは早世している。守護代は、お前が継いでくれ」

「それではわたしは、お優しい兄上からすべてを奪い取った非道の妹ということになってしまいます……武田晴信のような者には、なりたくないのです。どうか兄上、ぜひ再びお子を。そのお子が元服された暁に、守護代の座をお返しいたします。上杉定実さまから譲られる越後守護の座も……」

「……子は、生さぬ。まだ、作ろうと思えば作れる。だが作らないと決めたのだ。僕はもう、女を抱かないと決めたのだ。恋もしないし、女に欲情することもしない。いや、もはやできないのだ。どれほどの美人を前にしても、僕の心はいささかも揺るがない」

「なぜですか? もしかして守護代としてのお悩み故に? これからはこの春日山城で楽隠居していただきます。だいじょうぶです。戦と謀反に悩まれる日々はもう終わりです。これからはこの景虎が兄上の盾となります。二度と離れません。きっと、ご気分も晴れます」

 二度と離れません、という景虎の無垢むくな言葉が、晴景の臓腑ぞうふをえぐっていた。生まれてすぐに「うさぎの子」と忌避され、父親に愛されなかった景虎が、自分になにを求めていたのか。この時、晴景は痛いほどに景虎の思いを理解した。そして、自分が今もなおその景虎を裏切っているという罪の重さに震えた。

「……死ぬまで口にしたくはなかったが……言わねば、僕の魂は死後永遠に春日山を彷徨さまようことになるだろう……景虎、違うのだ」

「兄上? 違う、とは?」

「僕は、兄としてお前を心配していたのではない」

「なにをおっしゃっているのか、わかりません」

「……僕はお前に恋をしたのだ。だから戦場に立たせたくなかったのだ。大切に、手許てもとにかくまっておきたかったのだ」

 景虎はしばらく、返す言葉を見つけられなかった。

「い、いったい、な、なにを? 兄上はわたしの兄です。わたしは兄上の妹です。母親こそ違いますが、同じ父親を持つ実の兄妹ではないですか!?」

「……それ故に僕は心を病んだのだ。罪の意識に夜ごと苦しめられてきたのだ。その苦しみが、身体をも病ませたのだ」

「だって。そんなのは……そんなことは……!」

 景虎は、咳き込む兄の背中をさすっていた手を、反射的に離そうとした。

 だが、離せなかった。

 この人はわたしの兄だ、なにかの間違いだ、熱にうなされておられるだけだ、と信じたかった。

「僕は、お前とはほとんど会うこともなかった。白い肌とあかい瞳を持つ妹に

興味を持たなかった。この春日山城でお前と再会するまで、お前は僕にとってはほとんど他人のような存在だった。どうやら、それが間違いだったらしい。幼い頃から時折お前と会っていれば、僕はこのように生きながらにして冥府めいふ魔道を迷うようなことはなかっただろう。綾のように、お前の世話をしていれば。ほんのわずかでも。これは、お前という生き難い身体に生まれついた妹を支えることも守ることもせずにのうのうと遊び暮らしてきた僕への天罰だろう」

「な、なにを言って……兄上。兄上の周りにはいつも美しい女性が大勢いたはずです。どうして、わたしなどに。わたしは、あなたの妹です。それに、わたしの姿はこんなにも醜い……」

「違う景虎。そなたは、美しいのだ。人でありながら人にあらざるほど美しいのだ。その髪もその瞳もその心根の純真さも。そなたよりも美しい女人など、この世にはおらぬのだ! この広大な越後の天と地の狭間はざまのどこにも、そなたの代わりなどいない!」

「兄上」

「今思えば、そなたが幼い頃に、この言葉を伝えておくべきだったのだ。父上はいつもお前を疎んじていた。お前が、自分は醜い兎の子だと思い込んだのは当然の成り行きだった。兄である僕が、もっと早く、この心が汚れぬうちにお前に優しい言葉をかけておけば。それを怠ったばかりに僕は……もう遅い。もう僕は汚れてしまった。ただ兄として妹を愛するだけでは済まなくなってしまった。醜い欲望にかれてしまった」

 僕はどこまでも己のためにしか生きようとしなかった、故にお前を裏切ることになった、お前のために兄として生きるという選択肢を僕はついに学び得なかったのだ、と晴景は顔を覆ってうめいた。

「僕がお前に与えられるものはよこしまな想いと欲望だけだ。それはそなたが求めているものではない。せめて守護代の職を継いでくれ、景虎」

「お優しい兄上。兄上は、悪い夢を見ておられるのです。どうかお子を。それできっと、悪夢から覚めます」

「景虎。すまないが僕にはできない。お前以外の女を抱くつもりは、生涯ない。お前への恋心を裏切ることになる。だが妹を抱くわけにはいかない。それはお前の人生を狂わせお前の心を汚すことになる。つまり、僕はもう死ぬまで女を抱かない。一人きりで生き、一人きりで死ぬ。子は、生せない。それでいいのだ。僕が子を残せば、お前がいずれ困ることになる。子は、不要だ」

 景虎は、泣いていた。

 悲しくて泣いているのか、兄に裏切られたと傷ついているのか、兄の途方もない愚かさと、その果てしなく倒錯した感情の奥になおも妹への優しさが残っていることが哀れなのか、あるいは(わたしがこのような奇妙な姿に生まれていなければ、兄上とわたしは普通に仲むつまじい兄と妹としてともに生きられたのではないか)と自分を責めることで晴景への本能的な嫌悪感を押さえようとしたのか、景虎自身にもわからなかった。

 ただ、景虎は、男の中には自分のこの特別な容姿を見るや否や果てしなく戸惑い狂する者がいるのだ、とはじめて自覚した。宇佐美定満や直江大和のように父や兄として自分を受け入れてくれる男だけではないのだ、と知った。

 そして、あるいはあの長尾政景もまた、と気づいた。

 不意に政景の影が脳裏にちらつきはじめ、景虎は怯えた。男のさがとはこれほど恐ろしいものなのだろうか。血が繋がった自分の妹を――! 兄が自分に恋をしているなど、欲情しているなど、認めたくない、と思った。泣きながら、兄を翻心させようと言葉を連ねた。

「兄上は、ま、間違っています。わ、わたしには、わかりません。お優しい兄上が、どうして、何故なぜにそのような言葉を」

「……僕がそなたの兄でなかったら、この恋が成就する可能性はあったのだろうか?」

「そんな、あり得ない話をされても、わたしは答えられません!」

 それ以上は言葉にならず、景虎は震えながら泣き声をあげていた。

 晴景は、景虎が身も世もなく怯えきっていることにようやく気づき、それ

でも景虎が自分の背をさすっている手を離さないことを確かめると、しばし口をつぐんだ。

 やはり僕は死ぬまで口をつぐみ続けるべきだったのだろう。だがいずれにせよ、あの政景が僕のこの邪悪な恋の想いについて景虎に吹き込む日がいずれ来たはずだ。いや、その日は今日かもしれない。あの男はそういう男だ。だから先に、僕が自分自身の口からはっきりと言っておくしかなかったのだ。

 だが、景虎の人生を僕は大きく狂わせてしまったのではないか、というこの後悔と罪の意識は、もう死ぬまで消えることはない、と晴景は思った。

「……景虎。この愚かな兄のことは忘れろ。いずれそなたにも、その時は来る」

 晴景は、自分の背中に回っていた景虎の手をそっと取って、引きはがしていた。

 景虎が「ぴくっ」と怯えながら、涙にれた顔を上げた。

「……その時、とは……?」

「今は毘沙門天の化身を名乗りそのように生きていても、そなたも人間であるからにはいつか必ず自分以外の人間を愛してしまう時が来る。前触れもなく、突然に。その相手が、お前自身の潔癖さが自分を許せなくなるような特殊な者ではないことを、願っている」

「……自分を許せなくなるような、特殊な者であれば……?」

「その時にはそなたは、きっと僕を許してくれるだろう。だが、僕は許されたくはない。このような満たされぬ想いに惑うそなたを、見たくはない。越後の守護となるからには世継ぎが必要だ。早く身を固めてくれ。宇佐美定満か、あるいは直江大和を婿にとるがいい、景虎。あの二人は、僕と違い真人間だ。父上によって人生を大きく狂わされながら、彼らはお前の中に美しい希望の光を見出した。お前に出会っておきながら妹への欲望に取り憑かれた僕のような男とは、男としての出来が違う……」

 あの二人は家族でありわが師です、そのような相手ではありません。考えたくもありません、もうやめてください……と景虎はまた目に涙を浮かべな

がらつぶやいていた。

「そうか。そうだったな。ふがいない兄の代わりに彼らがそなたの家族となってくれていたのだな……すまなかった」

 晴景は(僕の恋も僕の人生もすべては終わった)と絶望しながら、切りだしていた。

「僕は、二度とそなたを怯えさせたくない。そなたが兄から強引に守護代の座を奪い取ったという悪名を被ることも避けたい。だから、形式上、父と子の契りを交わすこととする。具体的な誓紙は直江大和に一任した。僕が父で、そなたが子だ。父から子へ、守護代の座を継承させる――これでそなたはもう僕に怯えることはない。景虎」

「兄上」

「そなたが僕に求めていたものは、家族としての、とりわけ父親としての愛だったはずだ。僕はそのお前の心を裏切った。父子の誓いを交わせば、もはや僕はそなたに指一本手出しできぬ。以後、再び会うことはない」

 わたしのためになにもかもを差し出して、一人ぼっちで死のうとしておられるのですね。お優しい兄上……と景虎は兄へ言葉をかけたかった。しかし、今わたしが優しい言葉をかければそのまま兄に抱きすくめられて押し倒されてしまうのではないかという恐怖が、その言葉を阻んだ。

(わたしは、黒い髪が欲しかった。黒い瞳が欲しかった。もっと人間の肌らしい色の肌が欲しかった。お優しい兄上をこれほどに惑わせて苦しめるつもりなど、わたしにはなかった……)

 わたしは恋などしない。生涯を独り身で過ごす。兄上がわたしのためにそうするのならば、わたしもそうするべきだ。それ以前に、男は……いや、

 「女」を目の当たりにした殿方は恐ろしい。汚らわしい。触れられたくない、怖い、と兄を失った景虎は思った。

 兄・晴景との唐突な決別。

 予想外だった晴景の告白に、景虎はどう対処していいのかわからなかった。ただ、晴景の命を賭した執念にわけがわからぬままに流されてしまうことを恐れて、けんめいに晴景を拒絶した。他に、どうしようもなかった。実の兄に求愛された時に妹はどうすればよいのかなど、景虎は今まで誰にも教わったことはないし、考えたことすらなかった。

(兄上は心も体も病まれておられる。このままではもう長くないだろう。しかも兄上の気の病は、このわたしのせいだ。ならばせめて兄上のお心を救うことがわたしの――わたしが兄上に尽くせば、兄上の病も良くなるのでは……)

 違う。そうではない。景虎は、廊下を進みながら唇をんでいた。慈悲とはそのようなものではない。断じて違う。そのようなことをひとたび認めれば、きりがなくなる。際限がなくなる。人を救うのと、人の欲望を満たすためにわが身を弄ばせるのとは違う。そもそも、実の兄と妹が――それは人の道に外れている。その罪深さ、おぞましさは、武田晴信どころではない。

(男女のことならば宇佐美に相談すればいいのか。それとも私情を交えぬ直江に。いや、誰にも言えぬ。兄上にとってこの上もない恥だ。恥というのともなにか違う。どう言えばいいのかわからない。気持ちが悪い……目眩めまいがする。ただ、ただ、恐ろしい。これまで決して失われないと信じていた足下の大地が突如崩れ去ったような)

 幸い、日が曇っている。全身汗まみれになった景虎は庭園に下りて、けんめいに深呼吸を繰り返した。

 そして、もっとも会いたくない男に、出会ってしまった。

「フン。景虎。兄貴にいきなり道ならぬ愛の言葉でもささやかれたか。顔が青ざめているぞ。二人きりで対面させるとは、宇佐美も直江も甘い。晴景の異変に気づいていなかったのか。馬鹿ばかな連中だ」

 次期守護代の座から景虎によって引きずり下ろされた、長尾政景だった。

 気位の高い政景のこと、最後まで景虎には帰順しないだろうという声が大

勢を占めていたが、意外にも帰順を申し出てこうして春日山城へ出仕してきたのだ。今日はこのあと、越後諸将を一堂に集めて景虎の守護代就任式が行われるのだ。

 その就任式の席次で長尾政景は、一門衆筆頭から大幅に格下げされるはずだった。

「……政景……近寄るな。わたしは今、気分が悪い」

「フン。晴景の秘密を俺は知っているぞ。黙っていてやるつもりだったが、あいつが俺をけしかけてお前を戦の場から排除しようとした理由を、どうやらお前も知ってしまったようだな。墓場まで黙って持っていけばいいものを最後の最後にぶちまけてしまうとは、晴景はどこまでも愚かな男だ。俺としたことが、さっさと殺しておけばよかった」

「貴様の知ったことではない! 黒田秀忠の一族を滅ぼした罪はいずれ償わせる」

「景虎。戦場では不覚を取ったが、俺は貴様に敗れたわけではないぞ。俺はな、ただ大の男であるこの俺が姫武将を討ち取ることを恥と感じて身体が居すくんだだけよ。貴様の神がかりの強さには、越後の武者たちが姫武将をこれまで見たことがなかったという幸運があると知れ。越後の外へ出れば、通じぬぞ」

「黙れ。わたしに敗れておきながら、わたしを侮辱するつもりか」

「お前を侮辱したのは晴景であろう。景虎? お前、よもや晴景に?」

「ふざけるな。兄上まで侮辱するな! 兄上はお優しいお方だ、ただ病で惑われておられるだけだ。わたしから姉を奪い、さらにわたしまで奪おうとしている貴様とは違う!」

 そうか。どこまでも中途半端な男だったな、あれは、と政景はせせら笑った。

「景虎、お前はそうでなくてはな。そこで阿呆あほうのように惑わされて情に流されてしまうような弱い女では、俺も興が削がれる」

「……黙れ……わたしに指一本でも触れてみろ。政景、その時は貴様を殺す。

姉婿は兄と同じだ。兄上は病で気が動転しておられるが、貴様は正気だ。貴様のほうが兄上よりもずっと罪深い」

「フン。俺や晴景が正気かどうかをお前が決められるものかな。あるいは狂っているというのならば、その狂気を呼び起こしているのは誰なのだろうな。景虎、その元凶はお前自身なのではないか」

「違う。わたしは奇異な容貌に生まれてきたが、わたしを見たからといって誰もが狂するわけではない。貴様の心が欲望に汚れているというだけだ、長尾政景」

「ガキめ。そのように他人の心を正義と悪とで綺麗きれいに割り切れると思うな。欲と愛と情はわかちがたいものだぞ、景虎。男だけではない。女も、そうなのだ。人の心に混じりけのない正義などないし、真っ黒な悪もない――」

「悪党はみなそう言うのだ。己を弁護し、心弱き人を操り利用するために。わたしは、情に流されて悪に屈したりはしない。兄上は善人だが、妹をあのような目で見ることはまぎれもなく悪だ。だから兄上を、わたしは拒絶した。もう、二度と会わぬ」

 景虎。いずれお前は毘沙門堂にひきこもって目に映るすべての人間を排除していくのだろう、お前は日の光がまぶしくて目がくらむのではない、お前の心が眩んでいるのだ――と政景は獰猛どうもうな犬歯をき出しにして笑っていた。

「政景! 今の私は混乱している。貴様に殺意を覚えているぞ! わたしが耐えられるうちに、消えろ!」

「断ると言いたいところだが……ちっ。綾が来たようだ。俺は、消える」

「姉上が?」

 景虎が振り向くと、懐かしい姉の姿があった。

「景虎。すっかり凜々りりしくなって。ほんものの毘沙門天さまのように綺麗よ」

 綾はまるで歳を取っていないように見えたが、しかし、一点だけ昔と違うところがあった。

 腹が、大きく膨らんでいた。

 どういうことだ? と正面へ向き直るともう、政景の姿は消えていた。

「姉上。そのお身体は? なにかの病なのですか?」

 景虎が実兄に告白されて懊悩おうのうしていることを知る由もなかった綾は、「子が生まれるの」と微笑ほほえんでいた。

 幸福そうな笑顔だった。

 母の笑顔にそっくりだった。

 景虎は不意に(きっとわたしは生涯、このような笑い方をすることはないのだろう)と胸をつかれた。

「子? 赤子が、ですか!? まさか政景の?」

「他に誰がいるというの?」

「しかし……そんな……あの男は執拗しつようにわたしに迫ってくる獣なのに。そんな、汚らわしい……あ、いえ。姉上が汚れていると言ったつもりは」

 夫と妻ですもの。汚れてなどいないわ、と綾は苦笑いした。景虎は相変わらず子供のように潔癖ね、と。

「景虎。ごめんなさい。あの人は分家に生まれついた自分の血筋に苦しみ、あなたの人にあらざるたぐいまれな美しさに惑っているだけなの。私が子を産めば、人の親になれば、あの人もきっと憑きものが落ちたように鎮まってくれるはずよ。執拗にあなたを妨げることもなくなるはず。むしろ、宇佐美定満や直江大和のようにあなたに忠義を尽くしてくれる武将になるわ。そのためならばわたしは政景さまにどこまでも尽くすわ」

 ああ。やっぱり、姉上が浮かべている笑顔は母の笑顔だ、と景虎は思った。同時に、この笑顔はもうわたしにではなく、これからはおなかの子へ向けられる笑顔なのだと思うと、鼻の奥がつんと痛くなった。

 姉上は、政景と暮らすうちにいつしか情に流されたのだ。その結果、姉上は政景の子を愛するようになったのだ。わたしも、さっき兄上への情に流されていれば、考えたくもないようなおぞましいことになっていたのだろうか。

「姉上。政景は己の妻の妹であるこの景虎に醜い欲望を抱いている男です。許されない男です。それなのに、それを承知で姉上は」

「あのお方も苦しんでいるの、景虎。いつかわたしとこの子が、政景さまの

心を溶かして癒やしてみせる」

「しかしそれは、本来はわたしの役割だったはず。わたしが拒絶したばかりに、姉上がなぜ犠牲に」

「犠牲ではないわ景虎。男と女が夫婦として長い時間を過ごせば、情が移るものよ」

「ならば今すぐに、政景を改心させてください! あの野獣のような男を! 今すぐに!」

「景虎? どうしたの? あなた……泣いているの?」

「……なんでもありません!」

 景虎は、綾のもとから走りだしていた。

 もう、守護代就任の式など、出席したくもなかった。

 長尾政景とまた顔を合わせることになる。姉上をはらませたあの男に。


(わたしは、兄と姉を同じ日に失った――)


 雲が流れ、日の光が強くなってきた。自分の足下が、はっきりと見えなくなってきた。母のもとへ、生まれ育ったあの館へ逃げ込もう、と景虎は思った。

 だが、本丸から母の館へと抜ける山道を駆ける途中、景虎は走れなくなった。

 下腹部に、今まで経験したことのない激痛が走ったからだった。

 景虎は下腹部を白い指で押さえながら、山道の半ばで膝をついて崩れ落ちていた。

(痛い……痛い、痛い、痛い! わたしの身体になにか異変が起きている。いったい、なにが?)

 座り込んでいるうちに、喉の奥からひどい吐き気がこみ上げてきた。

(なにか食べてはならないものを食べてしまったのだろうか。でも、記憶にない)

 下腹部の激痛は、まるで身体の内側から肉を食い破られるほどにひどかった。

 景虎は、気づいた。

 自分の太股ふとももが、赤い血にまみれていることに。

(刺された!? 違う。どこにも傷口などない。怪我けがなどしていない……!)

 しかしわたしは今、血を流している……血を……これは。これはまさか。

 その血から立ち上ってくるびた鉄のような強烈な香りが、景虎の敏感な鼻腔びこうに流れ込んでくると、吐き気はさらに激しくなった。

(まさか。わたしは)

 守護代の座を兄から奪うその日に、わたしは兄を失い、姉を失い、そしてわたし自身もまた、子供ではなくなってしまったというのだろうか。

「嫌だ。嫌だ。嫌だ……!」

 景虎は苦痛と屈辱と、耐えがたい喪失感と、それらのあらゆる感情に襲われて泣いた。

 かつて春日山城で過ごしていた子供時代にはあれほど懐いてきた小鳥たちも、今の景虎にはもう寄ってこなかった。

 早く母の館へ、といくら焦っても、全身を貫く激痛のために立ち上がれなかった。こんなところにもしも政景が現れたら、わたしはもう。恐ろしい。男も女も、なにもかもが恐ろしい。わたしだけは現世の汚れに染まるまい、人ではなく毘沙門天の化身として生きたい、そう願っていたのに。

 景虎は顔を指で覆いながら、毘沙門天ではなく、人の名を口にしていた。

「……助けて……宇佐美。助けて……」

「ほら。うさちゃんだ。こんどの新作は、耳が回転する」

 宇佐美定満が、いつの間にか、景虎の隣に座っていた。

 大柄な身体をめいっぱい曲げて、景虎の視線に自分の顔の位置を合わせようと悪戦苦闘していた。

 もう鳥たちも鹿たちもわたしの声を聞いてはくれないが、この者だけはわたしの声を聞きつけて来てくれた、と景虎は思った。

「……宇佐美……うっ。うっぷ……」

「こらッ、吐きながら抱きつこうとするな! どっちかにしろっ!」

「……げほ、げほ、げほ……」

「あああ。うさちゃんの新作がーっ!? 吐く前に手放せよ、うさちゃんを抱きしめながら吐くな!」

「……う、う……ごめんなさい……」

 ごめんなさい、だって? そんなしおらしいお前ははじめて見た、と宇佐美は景虎の頭をぽんとたたきながら笑っていた。

 景虎は宇佐美定満に背中をさすられながら、吐けるものをすべて吐いた。涙が止まらなかったが、吐き気が治まるとその涙も止まっていた。

 宇佐美定満は、景虎が食べられないものを口にして七転八倒する姿にも、そんな景虎を介護することにも、慣れている。

 それに――景虎は、自分の世界のなにもかもが終わってしまったかのような恐怖に震えながらも、宇佐美を無条件で信頼していた。宇佐美は女遊びに興じていると聞くが、兄上や政景のようにわたしを汚れた目で見ることは決してない。その代わり、わたしを甘やかしてくれることもないし、主君扱いもしてくれない。まるで実の父か、兄のようだ、と。

「こんな日にいきなりたいへんだったな、景虎。しかしお前、ずいぶんとまたきついらしいな……男の俺にはわからん話だが。合戦中に月のものが来たら困るな、直江になにか知恵を出させるか」

「直江大和にも教えるのか? なにか気恥ずかしいな」

「あいつは身体は男だが、中身は坊主みてえなもんだ。気にすることはねえ。っていうかオレはいいのかよっ?」

「わたしは、宇佐美は男のうちに数えていないからな」

「オレの男としての格は、あの童貞野郎の直江以下なのかよっ!? この、琵琶島の風流源氏と賞される越後随一の遊び人のオレさまがっ?」

「うむ」

「うむ、じゃねえよ。まあいい」

「童貞とはなんだ、宇佐美」

「なんでもない、忘れろ。お前に妙なことを吹き込んだと知られたら直江に仕返しされる。ともかく、お前も乙女になったってことだ。本来はめでたい話なんだが、これほどきついとなると合戦の妨げになるぜ。厄介だな……」

「母上や姉上も、月に一度このように苦しんでいるのか? 見たことがないが」

「それがな、人によって違うらしい。平気な女は平気だそうだ。お前は特別にこたえる体質なんだろう。まあ、不運と思ってあきらめろ」

「……わたしは生涯夫など取らないというのに。子供を産む力など、わたしは要らない……宇佐美。これは仏教で言うところのけがれなのか? 乙女になってしまったわたしは毘沙門天ではなくなったのか?」

「アホを抜かせ。女が子を産めなければ、釈迦しやか弥勒みろくもなにも生まれてこられやしねえ。男が子を産めるか?」

「しかし、鳥たちが懐いてくれない。わたしが穢れてしまったからではないだろうか」

「それは単に、お前の背が伸びたからじゃねえか? 深く考えるな景虎。すべては自然の成り行きだ。誰もが通る道さ」

「……宇佐美はなぜ妻を取らない。直江から、お前はどうしようもない女好きだと聞いているぞ。女に興味がなさそうな直江が妻帯しないのはまだわかるが」

「家族に縛られるのは面倒でな。オレはずっと、一歩間違えたら滅びちまう危険な綱渡りをしてきた。自分のやらかしのために、家族を一族皆殺しの運命に巻き込んじまったらと思うとな」

「寂しくはないのか」

「琵琶島城に幼い姫武将候補を集めて育成しているから、騒がしいものさ。いずれ、お前の側近になる連中だ。いつまでも男だけの世界でただ一人の姫武将として生きていくのもつらいだろうからな」

「やはり宇佐美は、子供さらいだったのだな」

「とにかく景虎、気をしっかりもて。すぐに慣れる。それとな。お前は生涯独身を貫くと言っているが、いずれ夫を取れ。これから越後の諸将がお前を奪い合う未来がオレにも直江にも見える。お前が独身を通せば、いずれ内乱の種になるぞ」

「……嫌だ。男と女の交わりなど、わたしは嫌いだ。ぞっとする。汚らしい」

 宇佐美定満にも、兄の件は言えなかった。

 ただ、綾が政景の子を身ごもったことは、伝えた。隠せるようなことではなかった。綾と会えば一目瞭然なのだ。

「よりによって今日という日にそんなことがあったのかよ。つくづく、ついてないなお前」

「姉上は政景に情を抱いてしまっている。あの男を、愛しているのだろうか?」

「そうかもな。ああいう男が、意外と女に愛されるものさ」

「わたしの立場はどうなる。わたしにはわかる。政景は絶対に改心したりなどしない」

「ああ。越後守護代を通り抜けて、いずれお前は越後の守護になると決まった以上、政景はいよいよお前に執着するだろうよ。景虎、お前は政景が望むものすべてを手に入れてしまったんだからな」

「……しかし、わたしは夫を迎えない。あの男は姉上を手に入れ、子供まで生した。その上、わたしから何かを奪おうとするのであれば、それは強欲というものだ。許しがたい……が、もう政景を殺したり越後から追放することは、できない……姉上とそのお子が不幸になる」

 直江が知ったら「だからさっさと殺しておけと言ったんです」と愚痴りそうだ、と宇佐美定満は苦笑していた。

「日が暮れてきた。守護代就任の儀式と、夜を徹しての宴がはじまるな。景虎、行くぞ。立てるか?」

「どうにか、耐えられる」

「ともかく、お前が乙女になったことは政景にもいずれ気づかれるだろう。待ったなしだ。祝言を挙げろ。候補はオレと直江が探してくる。お前はえり好みが激しそうだが、あまり贅沢は言うなよ」

「……わたしは、殿方と同じ部屋で夜を過ごしたりは、したくない。できない。嫌だ。恐ろしい。汚らわしい。そんな不潔な真似をすれば、わたしはたちどころに毘沙門天の加護を失う。毘沙門天から、そう聞かされている」

 そっか。まあ、いずれ気が変わる時も来るさ、と宇佐美はおどけながら立ち上がっていた。兄・晴景とのことをいずれ宇佐美も直江も知る時が来るのだろうか、それは嫌だ、と景虎は思った。自分が、実の兄を誘惑するような汚れた女だと思われるのではないかという恐怖があった。この二人が自分をそのような目で見ることはあり得ないという信頼感があってもなお、景虎は晴景とのことを二人に知られることを恐れた。

 そして、山道の途中に、直江大和が待っていた。

「こんなところでなにをしているのですか? お嬢さま。宇佐美さま。守護代就任の儀式の前に、ご相談があるのですが」

 越後に「姫武将」というしきたりをはじめて導入した宇佐美にとって、完全に計算外の事態が起きていた。

 春日山城に集結した血気さかんな諸将が、誰が景虎の婿になるか、を巡って早くも紛糾している――というのだ。

「なんだって? 景虎は今日から越後の守護代だ。しかもいずれ正式に越後の守護となる。国人どもはみな景虎の家臣になるんだぜ? 姫大名は、一族ではない家臣とは祝言を挙げられない。容易に下克上されちまうからな。それが姫武将のおきてのひとつだ! たとえば分家の長尾政景が綾どのを離縁すれば、景虎を嫁にする資格を持つようになるが……長尾の一族でない連中には資格がない」

「ええ。しかしこの越後にはこれまで姫武将の風習そのものがありませんでした。しかも、お嬢さまは元服して姫武将として越後に登場するなり、あっという間に越後守護代へと上り詰めてしまいました。ですから、誰もそのような掟を知らないのです」

「……姫武将の掟が越後に根付くまで、もっと時間をかけなければならなかったってことか?」

「いえ。時間をかけていれば、越後の内乱はさらに拡大し、すべては手遅れになっていました。お嬢さまを守護代に就けることを急いだのはやむを得ないことです。むしろ、守護の座まで約束されたのですから、われわれの考えていた以上の成果をあげたといえます。ですが、彼らは守護職がお嬢さまに移譲されることの重さをよくわかっていないのです」

「……長尾家の景虎が守護になるといっても、国人どもはぴんと来ていないってことか。内心では、まだまだ長尾家も自分の家も同格だと思っている……」

「ええ。守護代の職、そして守護の職がこれほど平和裏に移譲されるなど、越後では前代未聞ですからね。お嬢さまは上杉家の人間ではありません。みな、守護と言っても名目にすぎない、と軽く考えているのでしょう。あまりに鮮やかに、血を流さずに移譲が行われたために、みなお嬢さまを絶対的な越後の主君、犯しがたい権威だとは感じられないのです」

「越後ではなじみのない姫武将だから、かもしれねえなあ」

 まずいな。オレはどうもこういう男女のことに関しては鈍くていけねえ、と宇佐美は唇を噛んでいた。

「今夜はめるぜ、これは」

「とりわけ、鎌倉以来の名門・大江家の末裔まつえいである北条高広きたじようたかひろが、お嬢さまを嫁に欲しいと言いだしております。長尾と大江であれば家格は釣り合う、と」

「北条か。あいつは戦では有能だが、腹に一物ある男だ。景虎をめとれば越後一国を手に入れられると色気を出したか? 見せしめに手討ちにするか?」

「お嬢さまは慈悲の武将です。そのような理由で家臣をちゆうしたりはできます

まい」

「そうだ直江。しかし、わたしは誰にも嫁がぬぞ。毘沙門天の化身たる資格は、出家僧のごとき戒律を守った生き方をしなければ失われるのだから。諸将にもそう宣言せねばならない」

 景虎は弱りはてたようにつぶやいていた。わたしは、兄を狂わせた。次は、越後の諸将を惑わせるのかもしれない、と思った。

「お嬢さま。それだけでは北条たちは納得しませんよ。それどころかかえって逆効果です。決してお嬢さまに心服していない長尾政景が好機と見てそのような連中を扇動すれば、またしても内乱となりましょう。いかがします、宇佐美さま」

「……オレに考えがある。景虎。お前は今夜、諸将の前で言いたいことを言え。義将たる者は、いつ何時であっても自分を偽るな。あとは、オレたちに任せろ」



 その日の夜、越後全土から集結した諸将を前に、春日山城の大広間で「越後守護代・長尾景虎」がその姿を現した。

 諸将のうち、実物の景虎を目にしたものはほとんどいない。栃尾城に入るまでは諸将と交流を持つ機会がなかったし、戦場では常に日の光を避けるために景虎は行人包をかぶっていた。そのために「尋常の美しさではない姫である」という噂だけが一人歩きしていた。

 彼らが晴景・政景政権に見切りを付けて景虎を支持した最大の理由はその問答無用の強さ、「戦の天才」というところにある。

 次に、景虎が暴虐を極めた父・為景や姉婿・政景とは真逆の「義の武将」であるという点にあった。春日山城を攻めて景虎の一族を殺した黒田秀忠は二度目の謀反の際に誅されたが、その黒田ですら一度目の謀反の時には許されたし、春日山城まで攻め込まなかった黒田以外の将は敗れてもみな許され

た。

 三番目の理由が、越後守護の上杉定実が「景虎を次の代の守護にする」と触れ回ったことである。守護代の家系であった春日山長尾家が名実とも越後の王となるわけで、独立心の強い諸将にとっては喜ばしいことではない反面、彼らはみな果てることがなかった越後の内乱にんでいた。しかも関東では北条氏康が、信濃では武田晴信が凄まじい勢いで北上戦を続けている。特に武田晴信は「海が欲しい」と越後に目を付けていると噂されており、すでに内乱どころではなくなりつつある。

 義将・景虎であれば越後守護となっても国人豪族たちを弾圧することはあるまい、しかも戦ではあの政景よりも強い、と彼らは相反する二つの「益」を景虎に期待していた。

 そう。景虎が越後初の姫武将であるからとか、たとえようもなく美しい

 「らしい」から、というような理由で景虎を「政治的に」支持している武将などは、越後にはいなかったのだ。そのような甘い乱世ではなかった――この日この時までは。

 が、行人包を外したその素顔を景虎が諸将の前に見せたこの時、彼らは驚き、どよめいた。ことに、(景虎を妻として娶ることができれば事実上、俺が越後の王になれる)という野心と情熱に燃えていた若い男たちはみな、景虎の姿を直視できないほどに心をときめかせた。

「たしかに、女だ。しかも、まだ年端もいかぬ少女だ」

「だが、ただの女ではない」

「この銀色に輝く髪。紅い瞳、雪のような透けた肌」

「人か魔か、あるいは神仏の化身か」

「景虎さまは、尋常のお人ではない……!」

 景虎は悩んだ末、自分に忠誠を誓う家臣たちの前で素顔を隠し続けることを不義であると判断し、決意して諸将にその素顔を見せた。

 醜い、と口にしたり表情に出す者は一人としていなかった。

 兎の子だ、と顔をしかめるような者は、どこにもいなかった。

 景虎がこの宴に対して抱いていた最大の不安は、杞憂きゆうだった。

 だが、直江大和があらかじめ伝えてきていた問題は――もう一つの不安は、景虎が危惧していた以上の熱量を持って実現してしまっていた。

「景虎さまは」

「婿を取られるのでありましょうか」

許嫁いいなずけはおらぬと伺っております」

「他国では、姫大名はその家臣とは祝言を挙げてはならぬという風習があります。親族あるいは同格の大名が相手でなければ祝言を挙げられぬそうです」

「ですがこれまで姫武将すら存在しなかったこの越後には、そのような風習はありませぬ」

 若い武将たちは目の色を変えて、景虎をわが妻に、と燃え上がっていた。

 長尾政景ほど異常な執着を見せる者こそいなかったが、政景と同様の野心を抱く男たちが大勢現れたに等しかった。景虎は、「気持ちの悪いことを言うな」と一喝したくなったが、左右にはべっていた宇佐美と直江が視線で制止した。いくら言いたいことを言え、自分を偽るなとはいっても、景虎は正式に越後守護代となったのだ。感情にまかせて怒鳴り散らすべき場面ではなかった。

「諸将よ。わたしは毘沙門天から武の力を授かって、その力を借りることで戦に勝ち続ける。これからもこれまでも、わたしは合戦に負けないだろう。だが、夫を迎えれば毘沙門天の力は失われる。わたしは生涯、誰にも嫁がぬ。武士ではあるが、出家の身に等しいと考えてもらいたい」

 一門衆の筆頭から外されて末席に座っていた長尾政景が腕を組み、そっぽを向いて「手に入らぬと知ればますます男の煩悩は燃え上がる。藪蛇やぶへびよ」と鼻先で笑う姿を、景虎は忌々しげに見つめていた。

 事実、まだ妻帯していない男たちを中心に、多くの家臣たちが「なんと。生涯嫁がないとは!?」と悲鳴のような声を漏らし、狂わんばかりの表情を見せた。

 大江家の流れをむ越後屈指の名門・北条家の北条高広は、景虎という

 「駒」を奪い取れば越後の主になれるという野望を抱いて春日山城を訪れていた。しかし景虎がただの「駒」ではないということを目の前に突如現れた天女のような景虎の素顔を見て思い知り、同時にその景虎が自分の手には入らないと知って(惜しい)と思い、顔面蒼白そうはくとなっていた。

 景虎を強力に支持している猛将・柿崎景家が「神仏の力は戒律を厳格に守る者にのみ訪れるのだ。貴様ら、潔くあきらめよ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と彼らを一喝してくれた。

 しかし景虎は(これから兄上のようにわたしに愛を語ってくる者が次々と現れるのだろうか。嫌だ。わたしは、誰ともそのような関係にはなりたくない)と泣きたくなった。

 このまま景虎の不犯ふぼん宣言を既成事実にするのは惜しい、と北条高広が「柿崎どの。あなたは相変わらずの阿弥陀仏馬鹿だな。それがしたちは坊主ではない。武士なのだ。戦に己の命を懸ける武士が、美しい女性をわがものにしたいと願うのは当然のことだ」と立ち上がり、柿崎の鼻先に己の拳を突き出してきたために、場はいよいよ騒然となった。北条高広は名門ゆえに優雅な物腰で人と接するが、その鍛えられた巨体は柿崎景家・長尾政景と並ぶものだった。そして、北条高広はこの直情的な二人とは違って己の本心を滅多めつたに口にしない男であり、それゆえに独特のすごみがあった。

「柿崎どの。目の前にいきなりこれほどの美しい女性が現れていながら、いきなり夫は生涯取りませんと言いだすは、どういうことだ。これではわれらは生殺しではないか」

「ええい黙れというに、なんぞ不穏な野望でも抱いたのか北条ほうじようずれが! 景虎さまは貴様の戦利品にあらず、乱世に義をもたらす越後の王にあらせられるぞ! 喝!」

「ほうじょう、ではない。それがしは、きたじょう、だ。それにしても、なぜ戦場にいるかのように荒れている? 仏のようにお優しい柿崎どのらしくもないぞ」

「今日の春日山城は、戦場も同然だからよ。私は景虎さまに越後の未来を託

した。晴れのこの日に家臣の中から景虎さまをわがものにせんとするやからが現れれば、そやつはこれからの越後にとって獅子身中の虫! 従って斬る! そう、覚悟しておったのだああああ!」

「やれやれ。あなたのお相手をするのは少々面倒だが、なにごともはじめが肝心。それではこの場で景虎さまを懸けて戦うとするか」

「景虎さまの晴れ舞台を血と野心とで汚すというのか、北条!」

 宇佐美定満が「まあまあ。待ってくれ待ってくれ」と笑いながら、口を開いた。

「おい北条。他の面々も聞け。景虎さまはまだ若い。この通り、子供だ。いずれそれなりのお年頃となれば必ずや気が変わって婿を取ることになるだろう。それまで、五年待て」

 おやおや五年も待てと言うのか? と北条高広は苦笑いしながらなおも食い下がり、「貴様のような私利私欲に塗れた男などに、景虎さまに指一本触れさせぬ!」とこちらも激高する柿崎景家と互いに組み合って相手の腕をへし折ろうと争いはじめた。

 この場にいる誰もが、今まで男武者だけの世界だった越後に唐突に現れた雪の精のような少女君主を一目見て、血を煮えたぎらせ、興奮していた。

 なんということだ。これでは収拾がつかない。わたしという存在がまたしても越後に戦乱をもたらしてしまうのだろうか……と景虎が泣き顔になってうつむいていると、直江大和がいきなり宇佐美定満を指さして、言い放った。

「宇佐美さま。五年待てとおっしゃいますが、そうやって諸将を足止めしておいてご自身がお嬢さまを娶ろうとしているのではないですか?」

「おい待て。突然、なにを言いやがる。直江てめえ」

「宇佐美さまの女好きは、越後では有名ですから。いつも琵琶島から美女たちを大勢乗せた舟を出して、釣りに興じていると」

「オレは釣りが好きなだけだ!」

「村から幼い娘たちをかどわかして、琵琶島城に集めているとも」

「景虎の手足となるべき姫武将を育成しているだけだ!」

「諸将の顔をご覧ください。多くの者があなたを疑っています」

 そうだそうだ、と諸将がえた。

「てめえは、景虎さまが幼い頃からうさぎの縫いぐるみで手懐てなずけてきたと聞くぜ!」

光源氏ひかるげんじむらさききみをかどわかしたのと同じ手口だ!」

「宇佐美定満。貴公が景虎さまを奪い取ろうとしていること、間違いない!」

「うおおお! オレってこんなに信用されてなかったのか!?」

 それ以外のことならともかく女に関しては誰もあなたを信用するまいと北条が目を細めて笑い、柿崎も「そればかりは私も宇佐美どのを弁護できぬ。南無阿弥陀仏」とさじを投げていた。

「宇佐美さま。諸将に納得していただくため、今日からはお嬢さまの軍師役を外れていただきます。お嬢さまの補佐はこのわたくしが務めましょう。三年間、お嬢さまに男が近寄らぬよう監視いたします。三年てば、ただちに婿の選定にかかります。むろん、わたくしは生涯独身を貫くと決めておりますのでその候補には入りませんよ。越後にとってもっとも良き選択をいたします」

 ふむ。浮いた噂のない直江大和どのならば側近にしておいても問題なかろう、と北条が引き下がった。柿崎の腕から手を離し、畳の上にあぐらをかいた。

「あなたは、殿方しか愛せないという噂もあるくらい身持ちの堅いお方だからな。幼い頃は為景さまの稚児だったという話すら耳にしたことがある」

「ふふ。それは根も葉もない噂ですが、信用いただきありがとうございます北条さま」

「直江、てめええええ! この機会をうかがっていやがったな! この期にオレさまを追い落として越後の宰相になるつもりか! 少しは友情を感じていたのによう、やっぱりてめえはこういう奴だ! てめえの身体には血が流れてねえ!」

「やれやれ。宇佐美さま、あきらめなさい。日頃の行いの違いです」

 諸将は「叛服はんぷく常ない、しかも女好きの宇佐美が、側近の座から下りるならば安心できる」「律儀な直江大和ならば約束を守るだろう。三年だな。三年待てば、景虎さまはわれらの中から婿を選ぶのだな」とようやく納得した。

「あなたがたの中から選ぶとは限りません。同格の守護大名が婿となる可能性のほうが高いでしょう。ですが、槍働き次第ではどうなるかまだわかりません。関東の北条氏康、甲斐の武田信玄。この越後を、あるいは越後の隣国を侵そうとする外敵は多い。これよりは外敵との戦に次ぐ戦となりましょう」

 雄雄雄雄、と諸将が吠えた。

 景虎は「宇佐美、これも越後をひとつにするためだ。すまない」と悲しげにうつむき、宇佐美は「そういうことなら、それでいいんだぜ。ただし、このまま黙って引き下がるオレじゃねえ。お前に謀反をするような真似はしねえが、直江大和は君側のかんだ。どうやらお前を生涯独身のまま毘沙門堂に閉じ込めておくつもりだぜ、こいつは。黙っていられるか。必ず、オレは直江の野郎を排除する」と言い捨て、迷うことなく立ち去っていた。

 宇佐美・直江の両雄は並び立たなかったか、と諸将はまたしてもどよめいた。景虎にとって股肱ここうの臣だった宇佐美が第一線から排除され、かつての守護代候補だった長尾政景もすでに一門衆筆頭の座から転がり落ち、直江大和が宰相となったのだ。さらに直江大和は、かねてより自分と親しかった者たちを次々と高い役職につけた。意外な成り行きだったが、政権が移譲する際にはありがちな政変ではあった。

 宇佐美は軍師。すでに神将の名を欲しいままにしている景虎さまに宇佐美が教えられることはもうなにもない。宇佐美の役割はすでに終わったのだ。これからは、内政外交にけた直江大和こそが景虎さまの第一の側近にふさわしい、と諸将はこの人事に納得していた。

「お嬢さまが宇佐美さまを遠ざけ、わたくしを変わらず信頼されるのはひとえに、わたくしが身を慎み女色を遠ざけているためです。諸将も、これより三年間は、よこしまな考えを抱くことなくひとえに忠義に励まれるように」

 そうか、わかったと、北条高広は意外にもあっさりとうなずいていた。

 しかし。

「フン。直江大和。俺は貴様を信用できんなあ。一度だまされているからな。貴様は景虎を俺に嫁がせると謀って、綾を俺に娶らせた」

「その綾さまがご懐妊だそうで、おめでとうございます。政景さま。仲むつまじいご夫婦のようで、微笑ましい限り」

「……なにを企んでいるかは知らんが、景虎のくだらん不犯の誓いなど撤回させてやる。空手形などを信じて三年も待つつもりはない。俺はな」

 長尾政景だけは、直江大和の言葉を信用せず、不敵にも笑っていた。

「あなたは一度そむいた。お嬢さまに討たれ、命を許された。次に謀反すれば、お嬢さまがどう言おうとも処断いたします。あなたが黒田秀忠を誅したように、です。長尾政景さま」

「もう俺の負けはないぞ、直江大和。あんな下手な戦は二度とやらん。次は、黒田秀忠など担がん。俺のやりたいように戦い、俺が勝つ」

 それは御屋形さまに、景虎さまに謀反するということか! と柿崎景家が血相を変えて怒鳴り、政景はただ笑うだけで返事をしなかった。

「……わたしは、なぜ姫に生まれたのだろうか。わたしが男であれば、誰を惑わすこともなかったはずなのに。わたしはほんとうに越後に義をもたらすことができるのだろうか。宇佐美……」

 景虎は、越後の男たちに囲まれながらたとえようもない孤独を感じていた。

 越後には姫武将はいない。わたしただ一人だ。それでもわたしには姉上がいると思っていた。孤独ではないと思っていた。しかしその姉上はいまや、政景の妻であり、そして赤子の親となられる。姫武将となったわたしと、母親として生きる道を選ばれた姉上とはもう、異なる人生をそれぞれが歩むしかないのだ。

 これから直江や宇佐美たちが家臣としてどれほど自分に尽くしてくれても、この心の寂しさは埋めることができないだろう。それが、越後で姫武将として生きるということだ。

(……寂しい……)

 景虎ははじめて、姫武将の友が欲しい、と願った。自分と同じように姫武将という己の運命に立ち向かっている友が。

 その「友」は、まもなく景虎の前に現れることになる――生涯の友として、そして景虎の前に立ちはだかる最強の宿敵として。

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