第十一話 砥石崩れ

 今川義元の本国・駿河。

 実娘じつじよう・晴信に追放されたかつての甲斐守護・武田信虎は今、義娘である今川義元のもとに客将として滞在していた。駿河には晴信の妹の定が先に入り、義元の義妹として暮らしていたのだ。ゆえに信虎は、駿河今川家においては今川一門に連なる上客として優遇されていた――とはいえ、むろん、甲斐には戻れない。贅沢な館をあてがわれて新たな側室を迎え悠々自適の暮らしをしていれど、故郷を追われた浪々の身であることに変わりはない。

 その信虎のもとに、甲斐から息子の太郎義信よしのぶと娘の孫六信廉のぶかどが遊びに来ていた。これまでも二人は、何度も駿河の父親のもとを訪れている。

「親父どの。姉上は村上義清には負けたが、正念場の塩尻峠で勝ったぜ。信濃守護の小笠原長時は所領を捨てて、北信濃の村上義清のもとへ逃げ込みやがった。残る村上義清ももう、信濃の大部分を武田に奪われて孤立無援だ。信濃平定まであと一歩だぜ!」

「それはもう、厳しい戦いだったサ」

「おいおい孫六。てめーは従軍してねーじゃねーか!」

「わたしは近頃、姉上の影武者を務める訓練をしているのサ。なかなかゆっくりと絵を描く時間がなくてネ。困ってるのサ」

「しっかし村上義清は手強かったよな。化け物じみてらあ。もしも真田幸隆を上州から引き抜いて味方につけていなけりゃ、上田原の合戦はやばかったぜ」

 太郎にはべって駿河まで随行してきた「赤備え」の姫武将・飯富兵部が、信虎に「さあどうぞ。伊那名物のイナゴだ大殿! 滅多めつたに会えないんで、奮発してたっぷりとかき集めてきたぜ! 食え食え!」と迫った。

 老いてなお大食漢の信虎は「イナゴの佃煮つくだになんぞ食えるか馬鹿者! この駿河に来てからは毎日、新鮮な海の幸を食えるようになった。虫なんぞ絶対に食わぬ」と怒鳴りつけていた。

「なんだよー大殿。冷たいなあ。姫さまが信濃をがんがん平定していってるのを見て、焼き餅でも焼いてんのか? いい加減仲直りしなよー」

「わしが晴信に嫉妬だと? 愚かなことを言うでない。晴信は軟弱者のくせにあろうことかわが盟友であった諏訪頼重と村上義清を裏切り、無謀な戦で板垣と甘利を死なせよった! あの二人は、ともにわしの片腕。甲斐武田家を守る柱石であったというのに、それを端武者のように先鋒せんぽうに立たせるとは――」

「大殿も、北条との合戦でただ一人の実弟を討ち死にさせたことがあったろう? 合戦をすりゃあ、そういうこともあるさね」

「そうだぜ親父どの。板垣も甘利も親父どのを駿河へ追って姉上を担ぎ上げた時から、覚悟を決めていた上での戦死だ。武士として合戦で死ねたんだ、悔いはねえだろう」

「その仇敵きゆうてきたる北条づれと仲良くやろうというのが気に食わぬ! 北条などはあの河越で関東管領の大軍にみ込まれて滅びるはずだったというのに、なぜ晴信は北条に手を貸したのじゃ! 晴信は関東への道を捨てて、いかがするつもりなのじゃ! どこまでこの父に逆らえば気が済むのじゃ。いつまでも山国でイナゴを食うつもりなのか」

「まあまあ父上。信濃を平定すれば、姉上はいよいよ越後の海に出るって話だネ」

 貴様ら三人の脳天気ぶりにはついていけぬわ、と信虎は忌々いまいましげに吐き捨てた。

「つくづく愚かなり晴信。すでに、越後は容易に盗れる国ではなくなっておるぞ。病弱な長尾晴景が守護代の座を降りて、軍神とも神将とも呼ばれる長尾景虎が新たな守護代となってしもうたではないか! 同じ姫武将でありながら、長尾景虎は晴信とは大違いの義将であるという。しかも戦にめっぽう強い天才なのだとか。村上に敗れて信濃で時間を浪費するから、このようなことに」

 だが武田はすでに諏訪・高遠・伊那・中信濃・佐久まで奪っている。残るはもう北信濃だけなんだ。あと一戦で村上の命運を絶てる、と姉上も勘助も言っている――太郎は「いつの間にか親父どのと姉上の不仲はずいぶんとこじれたもんだ」と頭をかきながら、晴信を弁護した。

「ふん。板垣と甘利を討ち死にさせた今、広大な信濃を治めるにも人材がおらんだろう。後先を考えずに、ない勇気を見せようと蛮勇を振るうから、このような羽目になる」

「だいじょうぶだいじょうぶ。姉上は、うら若き姫武将たちを抜擢ばつてきしてどんどん経験を積ませているのサ。板垣どのに代わって、今は馬場信房が信濃を統治しているサ」

「おう。馬場を筆頭に、春日弾正。あたしの実妹の三郎兵衛。あと、工藤なんとか。みんな姫さまを実の姉のごとく慕っていて忠誠無比。板垣と甘利が欠けても武田の屋台骨は揺るいでいないぜ、大殿」

「女ばかり増えたな……馬場……工藤……相変わらず、わしがちゆうして滅ぼした連中の家名を片っ端から復活させておるのだな! どこまでも嫌みな娘じゃ!」

「いやだから、それは武田家の和のために」

「ええい黙れ! 和というのならば、武田と今川の和が破れようとしているのだぞ。晴信はその件、いかが考えておるのだ?」

 というと? と太郎たちが首をかしげ、信虎は小声でつぶやいていた。

「……今川義元の義妹としてこの駿河で暮らしておる定の病が重くなってな。もはや長くないのじゃ。定を甲斐から出すべきではなかった。まもなく、今川と武田の義姉妹同盟は崩れる」

 それで定のやつ、姿を見せてないのか、と太郎が天を仰いだ。

「そうか。禰々に続いて定までとなると、姉上にどんな顔をすればいいのかわからねえな……」

「晴信が潔く武将をやめ、今川に義妹として入っておれば定ももう少し長生きできたであろう。今更言うても、せんのないことだがな」

「ふうむ。信濃平定戦の総仕上げ、そして海を目指しての越後攻め――武田には今川との同盟維持がどうしても必要サ」

「いくら姉上でも、親父どのが隠居している駿河を攻めるわけにはいかねえからなあ。親父どのは実質的に今川の人質なんだ。武田が今川と戦えば、姉上は『父殺し』になっちまう」

杞憂きゆうじゃ太郎よ。あの生まれながらの臆病者にそんな度胸はあるまい。だが、この同盟を維持する必要は、たしかにある。晴信は今川をのぞいて、わしが同盟した相手すべてを裏切り攻めかかっておるからのう。まるで川に落ちた野良犬じゃ。今川と手切れになれば、晴信の代で武田家は滅びることになろう」

「父上にお考えは?」

「いまいちど義姉妹同盟を繰り返すわけにもいかぬだろう。義姉妹では子をせぬからな。両家の間に子が生まれれば、同盟の絆はより長いものとなる――わしは太郎に、今川義元の妹を嫁として取らせることを考えておる」

 な、なん、なんだってええええ!?

 太郎が頓狂とんきような悲鳴を上げ、その隣で「うまーうまー」と笑顔でイナゴをかじっていた飯富兵部が「げほげほげほ」とき込んだ。

「おおおおお俺に、よよよよ嫁ッ!? 今川義元の妹? 誰なんだよ、会ったこともねーよっ!?」

「ちょ。大殿。待って。待ちなよ! 太郎はまだガキだぜ! よよよ嫁なんてこここの野郎にはじゅうじゅう十年早いって!」

「あーあー。太郎も兵部も真っ赤になって慌てちゃって、かわいいよねえ。

えへ、えへへへ。初々しいネ」

「孫六、てめーはなにをへらへら笑ってんだッ?」

 太郎と飯富兵部は幼なじみ。兵部は、太郎のお守り役だった。実の姉と弟のような関係である――そのはずだった。だがにわかに「太郎の縁談」が持ち上がったことによって、二人は激しく動揺した。

 しかし朴念仁の信虎は、まったくお構いなしだった。太郎は武田家の長男。飯富兵部は家臣にすぎない。主君と家臣との間に色も恋も祝言もない――それが、「武田の血」をなによりも最重視する信虎にとっての常識であったからだ。

「すでに太原雪斎どのとも話し合って、縁談を進めておる。雪斎どのは小豆坂あずきざかの合戦で尾張の織田信秀に大勝し、三河の松平家を従属させ、三河の世継ぎ・松平竹千代を織田から奪い返した。今川はすでに駿河・遠江・三河の三国を支配する東海一の大大名じゃ。あとは仇敵の尾張を蹴散らせば、上洛軍を興すことができる――」

 雪斎と義元はかつて、京の都で風流な暮らしに興じていた。雪斎は高名な学僧であり、雪斎に養育されていた義元は姫武将になる予定はなく、本来は華やかな今川家の姫として都で優雅に生涯を過ごすはずだった。二人とも、上洛して都に「帰りたい」という思いが強い。

 くわえて、都の足利将軍家は見る影もなく衰微し、細川・三好といった畿内を掌握する家臣たちが専横を極め、将軍などは彼らの権力争いの駒のようなものとなっている。今こそ、れつきとした足利家の分家である「今川」が都に凱旋して足利を補佐し幕府を立て直してくれるはずだ――将軍家とその家臣たちはだから、今川義元を、いやむしろ太原雪斎の上洛を今か今かと待ち焦がれていたのだった。

「わしはどうにも、晴信の方針が理解できぬ。目先の信濃を手に入れたいがために北条・今川の仲を斡旋あつせんなどしたため、本来の敵を利してばかりじゃ」

 北条氏康は河越夜戦で関東管領を破り、関東の覇者となった。

 今川義元は三河を併呑へいどんし尾張の織田信秀を破って、海道一の弓取りと称さ

れるようになった。

 しかしかんじんの晴信は上田原で村上義清に大敗し、ようやく中信濃の小笠原を駆逐したとはいえ、いまだ信濃平定を成し遂げてすらいない――。

「だからって、俺が今川義元の妹と祝言をあげなきゃならねえのかよ、親父どの?」

「わしは別に、晴信に今川家から婿をあてがってもいいのだぞ。しかし何度も縁談から逃げ回ってきたあの愚か者が素直に承知するはずもあるまい」

「まままま参ったなあ。たたた太郎に、よよよ嫁ねえ。ふ、ふうう~ん。めめめ

目出度めでたい話じゃないさね? いいいいイナゴ食うかい、大殿?」

「だから、らん」

 さすがにイナゴばかりは飽きたヨ。なにかおつまみはないのかねえ、と孫六が苦笑していると。

「え、へへ。粗茶です~。三河の八丁みそをつまみにどうぞ~」

 南蛮渡来の妙な「眼鏡」をかけた幼い娘が、そっと室内に入ってきて、

いつくばるように信虎たち武田家の面々に一礼した。

「おっ。薄幸そうだがなかなかかわいい子供じゃねーか。ってまさかおい。親父どの?」

「おいおい大殿! ダメだぞ、この子はまだガキんちょすぎる! なんかおびえてるし!」

「勘違いするではない。この娘は、三河松平家の当主・竹千代よ。哀れにも子供

さらいにあい、織田家に売り払われて織田のうつけ娘に『たぬき』として飼われておったところを、松平を従属させた今川家が取り戻したのじゃ」

「はい~。わたくしは、たぬき……いえ、違いました。竹千代と申します。今川家のご恩は、生涯忘れません~」

「こんなにちっちゃいのに、当主だって? お父さんはどうした?」

「はい。それが、祖父も父上も、若くして暗殺されちゃいました~」

 このとしですげえ経歴だな。なんという七難八苦な幼女なんだ。それなのに笑顔を浮かべて……うっ、けなげな……がんばれよお嬢ちゃん、と太郎はもらい泣きしながら竹千代の頭をぽんぽんとたたいた。

「がんばります~。でも織田家から買い戻していただく際に、今川家から大借金したのです~。一生働いても、たぶん返せません~」

「なんてこった。太原雪斎の野郎も、案外と鬼畜だな!」

 飯富兵部が、猫のように丸まっている竹千代の背中をばしっと叩いた。

「なんだよ。服も髪も緑色がかってるせいか、よわっちそうだな。おい竹! 姫武将になるんなら、赤だ。赤備えがいいぜ。身体が細くてひ弱い女ってのは戦場では野郎どもにめられるからな、血湧き肉躍る真っ赤なよろいで軍装を統一して男武者どもをびびらせてやるんだ! いいな。わかったらイナゴを食え!」

「……え、えへへ……こここの美人のお姉さん、目つきが怖くておしっこ漏らしそうです……」

「おっよく見抜いた。兵部にはいまだに、婿のなり手がいねえからな!」

「なんだと太郎! てめーこそいい歳して相変わらずのくそガキのくせして……あ……いや、祝言話が進んでいるんだっけ……」

「……あ、ああ……まあ、そうだな……」

 太郎と飯富兵部はお互いの顔をちらりと見やると、沈黙してしまった。

 幼い竹千代には、まだよくわからない。

 立て続けに柱石が逝き、代替わりが進んで一気に若返った武田家に、新しい波が立とうとしていた。それはまださざ波のような小さなものだったが、「われ関せず」と常に絵師としての立場でものごとを眺めている孫六の心眼には、いずれ津波のように荒れ狂う波のようにも見えていた――。

「越後では、国内初の姫大名の出現によって目の色を変えた男どもが主君を奪い合っての大喧嘩げんかをはじめているとか。そういう色恋沙汰ざたはわが武田家には無縁と思っていたけれど、国こそ違えども人の心は同じ。これは案外、大荒れに荒れるかもねえ」

 だが、その春の波が晴信をどこへ連れて行こうとしているのか――そこまでは孫六にはわからなかった。


 信虎を訪問した太郎一行が、甲斐に帰国してすぐ――。

 飯富兵部は、自分の館に横田備中を招いていた。

 かつて「武田四天王」と称された四人の男武将のうち、板垣と甘利は上田原で討ち死にしている。老齢である小山田信有おやまだのぶありは家督を譲って引退していた。太郎の守り役の姫武将という立場からやりの実力で台頭してきた飯富兵部は、後で四天王のうちに数えられるようになったのだ。

 今、武田晴信のもとに残された現役の四天王は、飯富兵部とそして横田備中だけだった。

 横田備中はまだ老人ではない。壮年の男ざかりだ。だが、家族を持たない。妻も子もいなかった。甲賀から流れてきたよそ者であるゆえに、甲斐に縁故がなかったからだろうか。その点、駿河から来たとも三河から来たとも言われている軍師・山本勘助に境遇が似ているが、横田備中は勘助のようないわゆる醜男ぶおとこではない。むしろ、戦場を生き抜いてきた男の色気にあふれていた。戦場で一人でも多くの敵を殺し首を盗ることばかりを常に考えているためか、このような酒の席でも全身に殺気を伴っている。無表情で、視線は氷のように冷たかった。

「ほうとうと、粗茶よ。わたくしも姉上のように駿河へ行きたかったわ。あちらには都から来た茶の湯の師匠もいるのだとか」

 飯富兵部の妹・三郎兵衛が、横田備中に茶をてた。甲斐には茶の湯文化ともいえるようなものはまだ来ておらず、我流だ。

 横田はしかし、飲めればそれでいい。無言で「ぐいっ」と茶を飲み干した。

「茶の湯なんて合戦の役に立たねーぞ、三郎。武士ってものはな、公家くげにかぶれたら終わりだ」

「あら。姉上らしい言葉だけれど、姉上は大切なことをもう一つ忘れていなくて? その『もう一つ』こそが、今日、横田さまをお呼びした理由でしょう」

「う、うるせえな。だいたいなんでお前がここにいるんだ。これは秘密の軍

議なんだぞ」

「わたくしも上田原での働きで小姓として姫さまに認められて、いよいよ姫武将として一人前になろうとしているのだもの。後学のためよ」

「……槍働きの参考になるような話じゃねえ」

「心得ているわ。太郎さまのことでしょう? 今川義元の妹と祝言をあげるそうね。それが妙に苛立いらだたしくて腹が立つので、こうして横田さまを呼んで愚痴をこぼそうとしているのでしょう?」

「ぐぐぐ愚痴じゃねーよっ! だいたいお前、あたしはそういうつもりじゃ……勝手に決めるなっ」

 いや、愚痴だな、と横田備中は珍しく笑った。

「軍略に関することなら山本勘助を呼ぶだろうし、内政についての相談ならば次郎さまのもとを訪れるはずだ。男やもめで退屈している俺を呼んだということは、酒を飲んで愚痴をこぼすか、あるいは、太郎さまを横取りされたくねえと不平不満を垂れ流すか、ってところだろう」

「おいこら横田!」

「横田さま。それは建前でしょう。姉上はね、はっきり言ってあげないと同じところをぐるぐる回り続ける人なのよ。正直なところを言って頂戴ちようだい

「じゃあ言うが、山本勘助はこういう話には疎い。さっぱり頼りにならん。四郎さまあああ、と幼子を見て鼻血を流しているような奇人だからな。まして武田家の次郎さまや孫六さまに、太郎さまを手放したくないなどとは相談できん。しょせん、主と家臣だ」

 飯富兵部は「くううう~! お前ら、なんで訳知り顔なんだよっ」と涙目になった。ほうとうが入った鍋をひっくり返して逃げようとも思った。が、やめた。飯富兵部自身も、そして横田備中も、いつ戦場で死ぬかわからないのだ。村上義清は健在である。再びの決戦は、目の前に迫っている――。

「飯富兵部。お前としたことが武士らしくもない。ぐだぐだと照れているうちに、命は尽きるぞ。それが侍の定めよ。欲しいならば、主君筋だろうがなんだろうがためらわずに奪え」

「そそそそんなんじゃねえんだよ! 馬鹿ばか言ってんじゃねえぞ横田! あたしはただ、その、太郎にはまだ嫁は早いんじゃないかって……今川家の娘ってのも気がかりだし……いずれ姫さまは東海道に進出するために今川領に攻め込むんじゃないかなって……大殿が今川のもとから去った時にだな……うん。その時になって、純真な太郎が両家の板挟みになったらどうしようって……そう……思ってだな」

 飯富兵部はしどろもどろに弁明したが、自分でも途中からはもうなにを口走っているのかわからなくなった。

 横田備中は「ま、君臣の恋は実らない」と声をかけた。

「そいつはなんていったって、下克上だからな。いくら武田の今の主君が色恋沙汰に鷹揚おうようなお方だからといっても、君臣の恋を認められる立場ではない。そいつを認めちまえば」

「たぐいまれなお美しさを誇る姫さま……晴信さまに言い寄る無粋な男どもが、いっせいに躑躅ヶ崎館へと押しかけるでしょうね。甲斐の統制は失われてしまうわ。今、長尾景虎を主君にいただいた越後が四分五裂しているように」

 幼い妹の三郎兵衛のほうが、姉の兵部よりもこの種の話が得意らしかった。

 勇猛な姉に憧れて槍と馬の修練に明け暮れてきた三郎兵衛だが、本来の資質は武将よりも姫だった。みやびな都人の文化にも憧れていたし、文芸の道に関する素養があった。

 飯富兵部には、そういう免疫がない。色恋に目覚めるよりも早く槍を握り、馬を駆っていた。およそ経験というものがなかった。いざこうして追い詰められると、ひたすらに恥じらって、「あうあう」と口をぱくぱくさせるのが精一杯だった。

「……君臣の恋とか、そんなんじゃ……」

「なあ、兵部。それでも、てめえの想いが相手に通じればそれでいいんじゃねえか?」

「……横田?」

「太郎さまは、お前の想いをすげなく拒絶するような無神経な男ではあるまい。それでお前は、戦場で戦って満足して死ねる。どうせ人はいずれ死ぬのさ。特に、俺たちのような合戦にしか生きられない狂犬はな……兵部。俺も貴様も、明日死ぬかもしれない身だ。てめえの生き方に、死に様に、後悔だけは残すな」

 飯富兵部と三郎兵衛は、横田備中の愁いに満ちた横顔を思わず凝視していた。

 あの、戦を求め首を狩って戦場を彷徨さまよっている修羅の顔ではなかった。

 戦に疲れ切り、孤独にんでいる男の顔だった。

 死相ともいうべきものが、出ていた。

「思えば甲賀から身一つで飛びだして以来、野良犬同然に生きてきた。殺すことだけが生きがいだった。家族なんぞ、槍働きの邪魔でしかないと思っていた。だから、ここまで一人で生きていた。しかし、俺を拾ってくれた大殿を駿河へ追い、戦場では板垣と甘利に先を越された。そろそろ潮時だと思うんだよ。だが誰にも懐かぬ狂犬のまま死んでいくのは、どうもな。どうやら俺にも、未練があるらしい」

「横田、あんた」

「戦国の世で、主君のために犬となって敵の首を狩る生き方しかできない俺の命、もう長くはなかろう。せめてその散り方の意義ぐらいはな。自分自身、納得して死んでいきたいのさ」

「どういうことだよ横田? あんたらしくもない。板垣と甘利が死んだからって、次がてめえだと決まっているわけじゃねえだろう? 村上義清をブチ殺せば生き延びられるじゃねえかよ?」

「そうかな。次に戦場で村上義清に殺されるのは、御屋形さま――晴信さまだと思うぜ。晴信さまと山本勘助は、どうにも村上との相性が悪い。ああいう、謀略を無視して己の武威のみを頼りに命を捨ててくる武人は、裏をかくことができないからな。裏をかけねば、表から突破されるのみ。力と力の勝負になれば、晴信さまは不利だ」

「だから、そうはさせねえよ! そのために、あたしたち四天王がいるんだろうが!」

「ふん。もう、二人しか残っていないがな。三郎、お前も早く一人前になれ。姉貴とともに、飯富の赤備えを率いて戦場を駆けろ。四天王の称号を得られるように、励めよ。ただ……俺みたいにはなるな」

 三郎兵衛は、なにも言わず、何度もともに生死の境目をくぐってきた姉とその同僚とのやりとりにじっと見入っていた。

「おい。あたしが愚痴をこぼすはずだったのに、横田、なんでてめーが愚痴ってんだよ! お前、なんなんだいったい? まさか、今になって恋でもしたってのか?」

「どうやら、そうらしい。俺のような犬としたことが。つまり、そろそろ死に時が迫っているということだ」

「……ええええええ? ほんとに? 恋っ? てめえが? あんたが? 横田、まさか、相手は……三郎はやらねーぞっ! こいつはまだ子供なんだ、てめーとは年の差がありすぎる!」

「バッ……俺を山本勘助と同じ病の持ち主だと思っているのか、愚弄ぐろうするな! 殺すぞ!」

「えええ? だっていつも殺気を放って敵を殺すことばかり考えているあんたの周囲にいる女なんて、数えるほどしか……ま、ま、まさかあたしかっ? それはダメだ! あたしには太郎が……へ、へ、へそ見るな!」

「ああ? へそがなんだって? どうして俺がてめえのようなやせっぽちの男女に? まるでガキだ、女にゃ見えねえよ!」

 胸が小さいのは飯富一族の定めなのだわ、と三郎がぼそりと悔しげに漏らした。

「……んだよ。胸かよ。胸にしか興味ねーのかよ。ちっ。堅苦しい顔して案外、即物的な野郎だな……っておい。まさかのまさかだが、横田てめえ。ひょっとして。まさか!? あんたの近くにいる若い女で、しかも胸がでけーって、一人しか思い浮かばないんだが? ままま、まさか?」

 まさかを何度も繰り返すなうっとうしい、と横田が眼を細めた。

「おいおいおい。ダメだよダメだ! そいつは無理すぎる話ってやつだぜ、横田?」

「知っている。余計な混乱を招くだけだ。俺は俺の想いなんぞ、黙って墓場まで持っていく。他言無用だ」

「はぁ? 横田待てよ、言ってることが違うじゃねえか! そりゃああんたの恋は無理筋だ。しかし相手にてめえの気持ちを伝えるくらい、いいじゃねえかよ! それで想いを残すことなく死んでいけるんだろう? だったら、堂々と告白しちまえよ!」

「……同じ主君筋でも太郎さまとは下克上の格が違うぞ。そもそも村上との決戦を控える前夜というこんな重大な時期に一方的に俺の感情なぞをぶつけても、ただ迷惑なだけだ。あのお方の邪魔は、したくない」

「おい横田。てめえ人には偉そうに説教しておいて、自分は逃げるのか? ああ? てめえ男だろ、しかもあたしよりずっと年上だ! どんと行けよどんと! そうすりゃ、あたしもがんばれる!」

 飯富兵部に漏らしたのはまずかったかもしれん、と横田備中は苦虫をかみつぶすかのような表情で酒に手を伸ばしていた。


 塩尻峠の合戦で武田軍に大敗した信濃守護・小笠原長時は、自らの城と領土を放棄し、今は北信濃の村上義清のもとに転がり込んでいる。

 板垣、甘利ら多くの犠牲を出した。それまで連戦連勝だった晴信に生涯初の黒星をつけた。なによりも「信濃統一」という悲願のために、晴信はなにがあっても村上義清を倒さねばならない。

 塩尻峠での大勝におごることなく、晴信と勘助は上田原の合戦の失敗を繰り返すまいと、打倒村上に向けて周到な戦略を練っていた。村上義清の戦ぶりと北信濃の情勢に詳しい「信濃先方衆一番手」真田幸隆も、作戦参謀とし

て加わっている。真田も、もともとは武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍によって信州を追われた一族である。信虎に追われた者を戦力として、しかも「外様」ではなく武田家の一員として迎え入れて活用するという点で、晴信は徹底していた。

 兵法に通じた勘助と、異形の忍び衆を引き連れた幸隆の二人軍師は、絶大な威力を発揮しつつある。

 二人の意見は一致していた。

 剛勇無双を誇る村上義清の本城・葛尾城かつらおじようは難攻不落。これを直接攻めれば、またしても大きな犠牲が出る。

 すでに中信濃を平定した今、焦る必要はなかった。

 葛尾城は捨ておき、村上方が対武田防衛線を築いている諸城を順番に攻略して葛尾城を孤立させていけばいい。

 山本勘助と真田幸隆が「ここを奪えば葛尾城は戦わずして落ちる」と指し示した攻略目標、それが「砥石城といしじよう」だった。

 佐久と葛尾城の間に位置する、村上義清にとっては絶対に抜かれてはならない地点に、砥石城はあった。山の上に設けられた小さな城であり、守備兵は五百ほどしか詰められない。だが、まるで山と山とが衝突してさらなる巨大な山脈を形成しているかのような信濃国特有の、想像を絶する断崖だんがい絶壁によって守られた天険の城でもあった。かつて真田幸隆が縄張りを行い、村上義清が奪ってさらに強固な山城に改修した。

 問題は、葛尾城の村上義清に気取られる前にこの砥石城を速戦によって落としてしまえるかどうか、にかかっていた。あの精強無比な槍衾やりぶすま隊を率いる義清自身に後詰めに来られてはまたしても厄介なことになる。

 砥石城を要塞化した当の本人である幸隆は力押しでは攻略は難しいと訴え、

 「調略」を勧めた。

 真田が誇る忍び衆と銭の力を用いて、戦わずに砥石城を盗み取ってしまおうというのである。

 村上義清のもとには、あの戸隠の鳶加藤がいる。だが義清自身は、謀略を

好まず用いずひたすらに戦のみで決着をつけようとする武人。鳶加藤と戸隠の忍び衆「鳶ノ一族」を、暗殺や調略には用いるまい。銭で侍の心を買おうなどともするまい。しかし武田は、いかなる手をも使うことができる。ならば、調略戦・謀略戦に持ち込めば必ず武田が勝てる。

 上田原で大勢の味方を討ち死にさせている勘助も「武田は軍組織を再編成している途上です。それがよろしいでしょう」と賛同したため、晴信は幸隆に多額の甲州金を与え調略活動を開始させていた――あと数ヶ月、あるいは一年で砥石城は労せずして落ちる、はずだった。

 だが、予期せぬことから事態は急変した。


 その日は、午後から主立った家臣団が諏訪社に集結し、砥石城攻め・葛尾城攻めに関する定期軍議が開かれる予定だった。

 影武者修業中の妹・孫六信廉とともに馬を並べて諏訪に入った晴信は、妙なうわさを耳にしたのだった。

 あの横田備中がなにやら武田家の主君筋の誰かに恋をしていて、上の空になっている、というのだ。

 久々に四郎と再会して抱き合いながら、晴信は「横田が懸想している武田の娘とは、まさか四郎ではあるまいな。それであやつは今まで独身だったのか。そういうやからは勘助一人で十分だ」と気が気でならない。

「姉上。人の噂も何日とやら。気にしないほうがいいサ」

 孫六は笑っていさめたが、晴信は激しく動揺していた。

「いや。板垣と甘利には後継者がいたが、流れ者の横田は甲斐に来て以来ずっと独身で家を継ぐ者がいない。勘助もそうだが、あれほどの武士の家を絶やすのは惜しい。わが子を、立派な武士として育成することができるだろうからな」

 しかし、いくら武田に仕える者はみな家族といえども、さすがに主従の間での恋はまずい。下克上だ。父上が甲斐の守護だった時代には聞いたこともない話だ……晴信は「あたしが姫武将だから、このようなことが起こるのかもしれない」とため息をつきながら、軍議が開かれるよりも先に横田備中をひそかに諏訪社へと呼び出した。

 孫六が「影武者だからね」と同室しようとしたが、晴信は孫六を別室へ向かわせた。

 強面こわもてで知られてきた横田備中にとって恥になる話、おおっぴらにしたくない話かもしれないからだった。

 そして。

 晴信の前にやってきた横田備中は、浮ついた様子などみじんもなかった。

 いつもにもまして狂犬のような殺気を放っていた。

 ただの噂だったか、と晴信は安堵あんどした。

「御大将。まだ軍議の時間にはなっていないようだが。どうした」

「……いや。なんでもない。ただ、お前が誰かに懸想していると諏訪で噂になっていたのでな、少し驚いて呼び出してみたのだ。横田。お前も勘助と同じ病なのではないかと思い当たって四郎が心配になった」

「ま、またその疑いかっ? 俺は幼女好きなどではない! なぜこの俺が山本勘助の仲間扱いされねばならないんだ?」

「世間とはそういうものだ。いつ死ぬともわからぬ武士が妻帯せず子も育てずでは、幼女好きか衆道趣味かを疑われるのも当然だろう横田備中」

「言っておくが、四郎さまに妙な想いなど抱いてない。ただ、火のないところに煙は立たねえとも言うな……」

 横田は、噂には火元があることを認めた。

「おおかた飯富兵部の阿呆あほうが口を滑らせたんだろうよ。今更主君に隠し立てしてもはじまらん。たしかに俺の感情は、いわゆる君臣の恋ってやつだ。だがまあ、心だけのことだ。武田家の和を乱すような真似まねはしねえよ」

「それじゃ、まさか次郎に? それとも孫六? いずれにしても、君臣の恋は御法度だぞ横田備中。あたしは諏訪の神氏みわしも関東管領も恐れないが、その一線だけは越えたくないな。越えれば、武田家は収拾がつかないことになると思う。あたし自身どこかさばさばとした性格で色恋が苦手なだけに、いざ武田家中にそのような風潮が流行はやってしまった場合、どう制御すればよいのかわからないのだ。孫子にも、書かれていない。たぶんな」

 勘助はあたしに輪を掛けてああいう性格だしな、と晴信は苦笑いした。

「承知している。武田家といえど、破ってはならないおきてはある。君臣の恋は、主筋と家臣団とに姫武将と男武者が入り交じっている戦国の武士団にとっては重大な禁忌さ。しかし御大将、あんたは勘違いしている。俺の想い人は、次郎さまでも孫六さまでもない」

 なんだと、と晴信が小さな悲鳴をあげながら手にしていた軍配を落としていた。まるで我を忘れたかのように、頬を赤く染めた。

「……ま、ま、まさか……それじゃあ、太郎に……!? やっぱり、衆道趣味が……い、いや、あたしも女の子ばかりを寝室に侍らせて添い寝させているからお前のことは言えないのだが、あたしの場合は別にそういう趣味があるわけではなく、独り寝が苦手なだけで……いや、まあ、心だけに秘めたる想いならば衆道であろうがなんであろうが構わないぞ? あ、あたしはお前を差別したりしない」

 横田備中は、あきれた。

 どこからどう考えれば、そういう結論になるのだろうか。

 晴信を姫大名として育成している山本勘助は、この種の話に関してはものの役に立たない男らしい。もっとも、横田自身もつい最近までは似たようなものだったのだが。

「……御大将。まつりごとから合戦までを万事そつなくこなす秀才かと思っていたが、あんたにも苦手なものがあったんだな。色恋にかけては、幼児程度だな……驚いた」

「ざ、ざ、残念ながら、たぶん、太郎には衆道趣味はないと思う。たたたただ、そういう男と男の愛というものは意外と部隊を強くしてくれるものだとは聞くな。なんでもいにしえの南蛮には、男色部隊というものが実在したという。恋人同士で隊列を組んで戦うことによって、相手を守りたいという想いが増幅して絶大な戦闘力を生んだのだとか」

「ああ、もういい。すっかり『武田晴信』の顔を忘れているぞ。墓場まで黙って持っていくはずだったが、不気味な誤解をされたままくたばっていくと心残りになりそうだ! 俺は戦場を彷徨う幽霊なんぞにはなりたくねえ。俺が懸想している相手は、あんただ。御大将!」

 この時。

 晴信は、生まれてはじめて、男から恋心を告白された。

 幼少時から父の叱責しつせきに怯え続け、書物に埋もれ、妹・次郎の背中に隠れながら暮らしてきた晴信には、想像したこともない事態だった。

「……あたし……!? まさか」

「なにがまさか、なんだ? あんた、自分が年頃の美しい娘だということに気づいていないんじゃないか? もしも俺が好色な男だったら、あんた、この場で押し倒されているところなんだぜ。合戦に勝つことばかりに夢中で、てめえ自身については無防備すぎる。少しは用心しろよ」

「横田! あたしは武田家の当主、甲斐守護職にある者だ! いずれ子を生すために祝言をあげるにしても相手はあたしと同等の大名格の者か、さもなくば武田の血をひく親族衆でなければならないのだぞ!?」

「知っている。だから、心の内だけにしまい込んで死んでいくつもりだったさ。あんたがあまりにもひどい誤解をするものだから……つい、かっとなって口走っちまった。悪いな」

「い、いや。だがなぜ、急に恋心など。今までずっと独り身だったお前が?」

「……板垣と甘利が俺よりも先に死んじまったからかもしれねえ。死ぬなら

ば、余計なものを後ろに背負っていない俺だと信じていた。よそ者の俺には、家族も親族もいないからな。その分、簡単に戦で命を捨てられるだろうよ、とどこかで覚悟していたのさ。だが、その覚悟は俺の誤解にすぎなかった。板垣も甘利も、御大将。あんたを守るために、見事に散った」

 戦場の犬にとっては、厄介な家族を持たないでいることもまた奉公であり「武」を高めてくれる道であると、そう俺は言い訳していた。ほんとうは、失いたくないものを抱え込むことでてめえの死を恐れるようになる、そう怯えていただけだと悟ったのさ――と横田は言った。

「よそ者などと。あたしにはそういうつもりはないぞ、横田」

「わかっている。板垣、甘利とともに四天王として大殿のもとで戦ってきた小山田のじいさんが唐突に隠居した時に、空いた四天王の一角に強引に俺の名をねじこんでくれたのは、あんただった」

 おそらくあんたが男だったら、ただ戦で暴れたかっただけの俺は四天王などという面倒な称号は断ったろう。が、なぜか断れなかった。思えばあの時から、俺の心の中になにかが芽生えはじめていたのかもしれん、と横田は述懐する。

「俺は、家も血筋も持たない一介の雇われ侍だ。犬のように主のために戦って野垂れ死にするつもりだったが、死に場所に一輪の花が欲しくなったのかもしれん」

 晴信は、横田備中の心の中でなにが起きているのか、ようやくつかんだ気がした。板垣と甘利の死が、きっかけとなった。あれ以来なにものかが毎晩この孤高の男の心に「死に時を逸するな」とささやき続けているのだろう。

 その逃れがたい死への予感が、横田備中がそれまで己に禁じていた「恋」という感情を、呼び起こしたのだろう。

「横田。なぜ、そんなにも死に急ぐ? あたしが父上よりも戦に弱いからか? 誰かを犠牲にしなければ、城を奪えないと言うのか?」

「それは、あんた自身がとらわれている考えだろう。御大将。あんたは甲斐を奪うために大殿を失い、諏訪を奪うために禰々さまを失い、ついには村上に敗れて板垣と甘利を失った。村上に勝つためには、さらに誰かを失わねばならない、と怯えている――」

 晴信は唇をんだ。

 そうか。あたしと横田は似た者同士なのだ、と気づいた。

 横田はかつて自分の祖国で、家族をすべて失ったのかもしれない――おそらくは合戦に敗れたことで。だから二度と家族を持とうとしなかったのだ、失うことを恐れていたのだ、ずっと戦場に「死に損ねた」自分の死に場所を

探していたのだと。

「……横田備中。さすがによく見ているな。次の戦ではお前が死ぬような気がしてならない。戦場で死にたがっている武士ほど、容易に死ねる者はない」

 横田備中は、主に対して言ってはならない言葉をぶつけた。もっと激しく拒絶され、あるいは斬られるのではないかと思っていた。だが、晴信の主君としての器は彼の予想以上に深く大きかった。生まれながらに、心根の清廉な姫なのだ、と思った。次々と大勢の人の思いを包み込んで、それらを自分自身の想いとして抱えようとする人なのだ、と知った。あの山本勘助の煮えたぎるような野心でさえ、晴信は平然と包み込んだ――。

 己が頼むものは己自身のみと信ずる信虎が「臆病者」「甘い」と晴信をののしり続けてきたいらだちの原因も、多少は理解できたような気がした。

 俺が討ち死にすればこの姫はますます合戦にのめり込んで、人としての幸福からさらに遠ざかってしまう、と己の短絡ぶりを悔いた。だがもう、知られてしまった以上はなかったことにはできない。だから。

「わかった。俺は村上戦では死なない。約束する。あんたに俺の気持ちを知られた以上、簡単には死ねなくなっちまったようだ」

 横田備中は笑っていた。

「御大将。このままじゃあんた、誰とも祝言をあげられずに合戦に明け暮れているうちに人生を終えるぞ。この俺がそうなったように――しかしその悪循環を、俺が断ち切る。俺を戦場へ送れ。俺は村上義清と戦い、生き延びて、そして北信濃を御大将にくれてやる」

 その時こそ、あんたは武田の血をひく子を生すために婿を取れる、甲斐の戦国大名・武田晴信としてだけではなく一人の「武田勝千代」としても生きることができる、と横田はにこやかに笑っていた。

「あたしに袖にされたわりにはさっぱりしているな、横田備中」

「あんたこそ、生まれてはじめて男に――それも俺なんぞに言い寄られたはずなのに、爽やかに笑っている」

「性分らしい。合戦には怯える性格だが、こういう色恋に関しては、あたし

は女々しくないようだ」

「嫌いじゃないさ。あんたは弱いように見えて芯はしたたかで強い、御大将」

 晴信は、再び生きる意欲を取り戻した横田備中を生かすために、己自身が陥った「野望と家族とは交換されなければならない」という運命の悪循環から脱するために、横田備中がこの悪循環を終わらせてくれると信じてみたくなった。

 信じてもいい、と思った。

 その場で、横田備中に、砥石城への出撃を命じていた。


 すでに出撃が決定した後に家臣団が晴信のもとに集ってきて正式な軍議が開かれた。

 山本勘助も真田幸隆も、出兵に反対した。

「強引にすぎましょう御屋形さま。砥石城は忍びと銭を用いて調略すると決めたはずです。万一にも力押しで落とせねば、村上義清が後詰めに来て我らを挟撃しますぞ」

「ええ。調略には時がかかりますの。あと三ヶ月お待ちください」

「勘助。幸隆。そのつもりだったが、あたしは気が変わった。父上にこれ以上、臆病とそしられたくはない。村上義清だけは合戦で押し切って乗り越えねばならない。ここで正面衝突を避けて回り道を行けば、この先の戦いでもあたしは例の――運命から、逃れられなくなる。そんな気がするのだ」

 領土を奪えば家族を失うという「運命」でございますか、と勘助が尋ねた。

 そうだ、と晴信が答えた。

「それは御屋形さまの気の迷い、偶然にすぎませぬ。合戦で武士が死ぬのは自然のことであり、避けることはできませぬ。しかも、横田どのが先鋒とは? 板垣さま甘利さまなき今、頼みの横田どのがもし討ち死にしてしまえば武田四天王はほぼ全滅ですぞ」

「偶然ならば偶然だと証明せねばならない勘助。そして、武田は次こそ運命を乗り越える。そうだな、横田備中」

「……三日で陥落させる。葛尾城の村上義清も間に合うまい。勘助と真田は葛尾城と砥石城との間での連絡を遮断してくれ。それで挟撃される危険も回避できるだろう」

 うなずく横田。

 勘助は「ななななにがあったというのだっ?」と思わず声をうわずらせていた。

「横田どの! 貴公はまさか? 例の噂というのはもしや……今は御屋形さまを惑わせる時ではないっ!」

「くだらんことを言うな勘助。御大将はそんな安い姫ではない。断じて、われら君臣の関係に恥じるようなものはない。一点もだ」

「ぐぬぬ。その堂々としたご様子から推察するに、うそではないようだが……ええい。男と女のことは、この勘助にはまるでわからぬ! まして御屋形さまのように胸がれた年頃の女に対してどうのこうのという世の男どもの気持ちがさっぱり理解できぬ!」

「わかっているのか勘助。板垣、甘利たちの命を奪い御大将ご自身にまで深手を負わせた村上義清は、御大将にとって巨大な壁だ。克服するべき『運命』そのものだ。武田はただ城を奪えばいいというわけではないぞ。たとえいっとき卑劣な勝ちを収めても、『運命』からは逃れられん。御大将を『運命』から脱却させることこそが、軍師としての貴様の務めだろう」

「あいや。戦というものは卑劣であろうがなんであろうが、勝たねば意味がないのだ。死ねば、すべてが水泡に帰すのだ」

「勘助。あんたが大殿を殺さずに駿河へ追放したのは正解だった。父殺しの姫武将など、誰も相手にはしてくれないからな。だが村上義清は、御大将の父親ではないのだぞ。倒すべき、敵だ。あの荒ぶる山の神のごとき男を戦で撃ち破ってこそ、俺たちは循環しているかのように見える御大将の『運命』を断ち切ることができる」

 真田幸隆も山本勘助も、この者はもしや姉上に懸想して……と激怒していた次郎信繁も、この横田の言葉を聞いて顔を伏せてしまった。「主君の犬」

と自分をさげすんでいたはずの横田備中が、これほどに晴信のことを考え、案じていたとは。

「……横田どの……ですが、三日であの険阻な砥石城を落とそうとはあまりに強引すぎますぞ。そなたが討ち死にすれば御屋形さまはますます……いや、それ以前にこの城攻めにしくじれば、御屋形さまの命はこんどこそ村上義清に奪われてしまう」

「あんたがた軍師が知恵を絞って、村上義清のもとに砥石城開戦の報を入れさせねばいい。三日持たせてくれれば、落とせる」

「上田原で姫さまの首を盗り損ねた鳶加藤は、戸隠山から腕利きの忍びを集めはじめていると聞きます。だとすれば情報戦においてすら、勝てるかどうか。これまでのようにうまくはいきませんよ」

 真田幸隆が「こちらも切り札を投入して忍びを増員してみますわ。ですが、三日間持たせるという確約はできません」と釘を刺した。真田忍びも戸隠忍びも、起源は同一である。戸隠山の「ご神体」に「力」を引き出され、奇跡的に生き延びてきた一騎当千の異形の者たちだ。互いに投入する忍びの数を増やせば増やすだけ、被害も大きくなり、結果も見えなくなる。殺しを嫌う佐助だけではもはや手に負えない規模の暗闘になる。幸隆は忍びたちが北信濃の山中で繰り広げる過酷な戦いを予感して嘆息した。

 最終的に晴信の決断を承諾した者は、副将の次郎だった。

「姉上。そうね。姉上は武田家の当主である前に、一人の『人』だから。決して姉上を、人間以外のなにかにしてはならないのね――勘助、幸隆。そして横田。過酷な任務だけれど、どうかお願いね」

 深志城の馬場信房に急報を入れまする、と勘助がうなずいていた。

「それにしても、わからぬ。胸の腫れたおなごのなにがよいのやら、それがしにはさっぱり」

「うるせえ。胸は関係ないだろう胸は! 俺はなあ。貴様とだけは同類にされたくなくて、言わなくてもいいことを口走っちまったんだ!」

「あいや。それがしと同類は嫌だとはいかなる意味ですかな横田どの。四郎

さまを崇める諏訪大明神の信仰のすばらしさ、純粋さ、美しさを横田どのは理解できぬと? 罰が当たりますぞ。死ねば大人の女に囲まれた無限地獄行きですぞ」

「貴様に限っては、四郎さまをたたえるその笑顔が禍々まがまがしい」

 どうやら横田備中は晴信に懸想したらしい。そしてその想いを晴信に直接伝えたらしい。晴信は「君臣の恋は許されない」と即座に拒絶したようだ。それなのに、二人の間には男女の仲とは異なる強い絆のようなものが生まれていた。君臣の絆、であろう。朴念仁の勘助には理解しがたかった。だがすでに開戦と決まった以上は、己の知謀を振り絞って策を立て、勝利の可能性に賭けるしかなかった。

「あちゃー。軍議が開かれる前になにかあったみたいだけれど、もしかしてあたしが漏らしちゃったせいかな」と飯富兵部がイナゴの佃煮をかじりながら頭をかき、太郎は「……横田は俺の尻を狙っているらしい……助けてくれ兵部」とそんな兵部にすがりついて震えていた。


 一刻の後――。

 先鋒を命じられ、出陣の準備をはじめた横田備中のもとに、孫六が一人でふらりと訪れていた。

 横田は戦争狂。孫六は絵画に夢中な風流人。ほとんど会話を交わしたことのない二人だった。が、孫六の顔は姉の晴信によく似ている。一瞬、横田は(御大将?)と見間違えそうになったほどだった。

「武田家の絵描きさんか。どうした?」

 なにを話せばいいのか、横田にはわからなかった。

「うーん。一言だけね。ご忠告にね。ちょっと気がかりだったからサ」

「そうか。絵描きや歌人は、やけに勘が良いからな。ありがとう。聞いていこう」

「怒らせたらごめんね……横田備中高松。あんたが今まで生きてこられたのは、戦場で即座に自分の命を捨てるその捨て鉢さが強さとなっていたからサ。

柄にもなくやる気を出しすぎるとサ……死ぬヨ?」

 御大将の子供の頃に似ている。戦場に出たことがない分、実年齢よりも幼い小娘だな、と横田は思わず笑っていた。微笑ほほえましかった。

「たしかに今の俺は、柄じゃない。だが心配はいらない」

「そうかな?」

「守りたい者のために死ぬのと、捨て鉢になって狂犬のまま死ぬのとでは、意味が違う。てめえの命の重さが違う。板垣と甘利の死に様から、俺はそのことを教わった気がする。そして俺は今、容易には死ねなくなった。俺は生きて帰る。御大将の『運命』は、この戦で打ち止めだ」

「……うん」

 孫六は強くうなずくと、馬上の人となった横田備中を見送っていた――。


 砥石城は、信濃国小県ちいさがたの山城である。

 武田軍が村上軍に大敗したあの上田原の北東部に位置し、村上義清の本城である葛尾城と、信濃の中部・南部を制圧した武田家勢力との狭間はざまにあった。

 村上義清を相手に上田原での再度の野戦を行って勝てる見込みは、まだ無かった。だから晴信は支城を順番に攻略していく戦略に切り替えた。この砥石城を奪えば、村上義清の本城・葛尾城は事実上孤立する。

 ゆえに、真田幸隆が時間と銭をかけて砥石城を奪うはずだったが――。

 横田備中の告白という彼女自身にとって大きな事件に面した晴信は、「調略で砥石城を奪う」という当初の予定を変更した。

 甲斐、諏訪、中信濃、佐久から総勢七千の兵を動員して、砥石城を急襲したのだ。砥石城の兵数は五百とはいえ、村上義清はこの砥石城を、峻険しゆんけんな山の地形を利用して文字通り難攻不落のとりでに改造していた。山頂の砦へ辿たどり着くには、武田軍は文字通りの「崖」を這い上がらねばならない。

 危険な勝負であり、時間との闘いだった。葛尾城の村上義清が気づく前に、

精強な後詰めが到着する前に、砥石城を落とさねばならなかった。

「この城だけは正面から攻撃して奪わねばならない。調略で奪えば、父上に臆病とそしられることになる。それに横田備中が言ったように、あたしはどこかで繰り返す『運命』を断ち切らなければならない」

 晴信の情熱に押し切られた軍師・山本勘助は、千曲川の東岸に展開した武田本陣内で、「到底、三日では落とせそうにない」と晴信を説得できなかったことを後悔していた。

 板垣・甘利亡き後、武田軍にはまだまだ信虎とともに戦ってきた歴戦の猛者がそろっていた。にわかに四天王筆頭格として将器を見せはじめた横田備中、一門衆最強の小山田出羽では、「鬼美濃おにみの」こと原美濃といった勇将たちが今、家臣団とともに砥石城の断崖に取りついている。

 三人とも、騎馬隊を率いるよりも槍を取っての足軽隊の指揮にけた城攻めの名人たちだった。

 原美濃は下総千葉家から甲斐に流れてきた老将で、信虎に対して忠誠無比を貫き、信虎追放劇の際には「原美濃は一本気な男、大殿追放に反対するであろう」と板垣・甘利に追放劇の陰謀を前もって知らされなかった男である。

 事実、信虎が追放されたと知った原美濃は板垣たちに対して「なんという真似を」と激怒したが、しかし新たな当主となった晴信に叛逆はんぎやくするという道も選ばなかった。いかなる経緯があれども当主に対しては忠義を尽くさねばならぬ、と原美濃は怒りを呑み込み、以後、晴信に黙々と仕えた。

 その原美濃がこの砥石城攻めに関しては、「無理押しでは砥石城は落ちませんぞ」と晴信に異議を唱えていたが、城攻めが決定したと知ると「近頃育ってきた姫武将たちは騎馬隊での長距離行軍作戦に特化していて、地味な山城攻めについてはまだまだ経験不足じゃ」と自ら先鋒を志願したのだった。

 小山田出羽は、一門衆筆頭。甲斐の郡内地方を治める有力国人・小山田家の当主で、父親の代に武田家と縁戚えんせきとなった。武田に従属してはいるが、自領においては半ば独立領主である。郡内は甲斐と駿河とを繋ぐ街道筋を押さえる要所であり、小山田家は立場としては越後における長尾政景に近い。

 この小山田出羽も、原美濃とともに砥石城攻めを「時期尚早でござろう」と反対したが、山本勘助が「板垣、甘利ご両人亡きあと、御屋形さまは栄えある武田四天王の称号を復活しようと考えておられます。これは若い姫武将にはまだ荷が重い称号。信虎さま時代から実績と経験を積まれたお二方に、四天王の称号を――」と小山田出羽を説得した。原美濃は「わしはそんな名など要らん。ただの家臣じゃ。主君たる者、黙って命令を下せぬのか」とかえって憤慨したが、まだ若く野心家だった小山田出羽は「承知した」と四天王の称号と引き替えに先鋒を引き受けたのだった。小山田家は代々、「われらの家は武田家と同格である」と信じている。馬場某や春日某といった小娘に先を越されては名誉をけがされる、と彼は思っていたのだろう。

 すでに開戦前から、武田軍内はこのように足並みが乱れていた。

 戦況は、思わしくなかった。

「砥石城を三方から攻め立てさせているけれど――小山田出羽は報償に釣られて勝手に振る舞っているし、横田備中はやる気にはやりすぎていつもの冷静さを失っている。乱れていないのは原美濃の部隊だけよ、姉上」

 本陣で勘助とともに晴信の隣に控えていた副将の次郎信繁が「まるで的よ。次々と兵が死んでいく」と顔をゆがめた。

 勘助が「三日では無理であったか」と嘆息した。

「……御屋形さま。砥石城は見た目には粗末な山城ですが、幸隆どのが縄張りを施した天然の要害。しかも村上の手で大改修され、兵糧も十分のようです。水の手を断つなど、大がかりな城攻めが必要になりましょう」

「だがそれでは陥落に数ヶ月を要する。真田の忍びたちをもってしても、そんなに長くは防ぎきれない。葛尾城の村上義清にわれらの動きを知られてしまい、後詰めを出されるだろう」

 諏訪法性ほつしようかぶとかぶった晴信は(横田備中に賭けた。村上義清という巨大な壁を越えるために)とつぶやきながら、なにかに祈るかのように眼を閉じていた。

 横田備中の恋心に動かされて感傷的になっているつもりはない。晴信は、

男女の仲というものに恬淡てんたんとしていて、まだ恋というものを知らない。ただ、あれほどの情熱が壁を貫けぬはずがない、と思った。似た者同士だった。横田の望みのままに戦ってほしかった。死ぬにせよ生きるにせよ、悔いを残してほしくはなかった。もしも横田が勝てば、生き残れば、村上義清を武で破ることができれば、あたしは二度と……父上の声に怯えることなく、「野望と家族は交換である」という運命に悩まされることもなく、そしてその時こそは甲斐国主・武田晴信としてだけではない「武田勝千代」としての人生をも切り開くことができるはず――。

 だが、戦国時代の現実は非情である。

 砥石城の山頂へ登り切れる者は、いなかった。

 自軍の犠牲だけが、いたずらに増えていく。

「横田備中隊、兵の半ばを失いました! 山頂へはいまだ到達できず!」

「小山田出羽、断崖を登る際に矢を浴びて負傷! 崖から転落! もはや部隊の指揮は執れませぬ」

「原美濃隊も七合目で苦戦! この城には人が通れる山道などない、崖しかない、と足軽たちが口々に弱音を吐いております」

 御屋形さま。このままでは砥石城はわれらを釘付くぎづけにするためのです。力押しで盗れる城ではありません、と勘助が撤退をほのめかした。

「ダメだ勘助。あたしはすでに村上義清からいちど逃げた。二度も、逃げられない。戦って運命を変えてみせる」

「運命という言葉に囚われてはなりませぬ、御屋形さま。それは、御屋形さまのお心が作り上げた観念にすぎませぬぞ。戦のたびにご家族が亡くなられるのは、単なる偶然にすぎないのです。まして、横田どのとご自分との運命や境遇を重ね合わせることはなりません。ここは戦場です。躑躅ヶ崎館ではありません。そのような私情を戦に挟めば、軍略に必ずやほころびが出ます!」

「それは理屈だ勘助。理屈ではわかっている。すでにほころびは出ている。だが、村上義清に勝つためにあたしは理屈を超えた力が欲しい。運命にあらが

意志、情熱、新しい人生を切り開こうとする希望、そのようなものをあたしは、あの横田備中の心変わりの中に見た気がする」

「御屋形さまは公私を混同しておられまする! 次郎さま。どうか御屋形さまに諫言かんげんを」

 だが、次郎は「姉上が間違っていることはわかっている。でも、わたしは姉上の妹だから、姉上のお気持ちもわかるの」と首を横に振った。

「それがしも、わからぬわけではありませぬ。ですが、ここは戦場なのです。またしても村上に破れればこんどこそ御屋形さまのお命にかかわります」

「勘助。慌てないで。あなたは軍師として、武田に勝ちをもたらし、あるいは負けるとしても決定的な大敗を免れる策を考えるのよ。姉上は国を治めるからくりでも、戦に勝つために本陣に飾られた仏像でもない。人間なの。年頃の娘なの。姉上の感情までを軍略に繰り込んで戦に勝つのよ、勘助。さもなくば、姉上はいつまでも父上の影から、逃れられない」

 武田家内部の問題、御屋形さま個人の問題と、国盗りの合戦とを混同してはなりませぬ! と勘助は言いたかったが、自分こそが信虎を甲斐から追放してこの二つの問題を晴信の心の内側でひとつに結びつけた張本人なのだと気づくと、それ以上次郎に反論することはためらわれた。

 天下無双の「鬼謀」を誇る軍師・山本勘助は、実戦を知らぬがゆえの、家族を知らぬがゆえの非情さを失いつつあったのだ。

 鬼謀は、非情なくしては輝かない。

 情とは常に、大勢の人間が共有し理解できる要素であるからだ。

 ゆえに、人々の裏をかき意表を突く鬼謀とは、情が欠落した精神状態から生まれてくるものらしい。

 信虎の影。「国を奪えば家族を失う」という「運命」。晴信自身の心に巣くう敵と、目の前に立ちはだかる信濃最強の武将・村上義清。この二つの難敵を同時に倒す方法を、今の情に満ちた勘助の脳髄はひらめかせることができなかった。

 ただ一つ策があるとすれば、越後の長尾景虎と結んで北と南から村上義清

を挟撃するという、戦国の世ではよくある「並」の策である。だが、長尾景虎は「わたしは武田晴信が憎い。父親を追放するなど姫武将にあるまじき不義であり悪だ。いずれ毘沙門天びしやもんてんの化身として天誅を与える」とまるで取りつく島もない。越後にいくら外交の使者を送っても、常に門前払いされてしまうのだ。

 長尾景虎という、晴信を異常に憎む正義の毘沙門天が越後の国主になろうとは、勘助ですら予想していなかった。越後には姫武将の習慣がなかったからだ。ただ、越後はその景虎の登場によって紛糾している。内乱が起きている。越後が内乱でめているうちに村上義清を倒さなければ、時間切れとなり、村上と越後が同盟してともに武田へ襲いかかってくるだろう。

 そこまで先を読めば、村上との決着を急ぐ晴信の感情にも道理はあるのだった。それ故に、勘助は晴信を強く止めることができない。あの歳で不意に恋心に目覚めた横田備中がなにか奇跡を起こしてくれるのではないか、と信じたくもなる。お互いに長年己の家族を持たずに狂犬として異国で生きてきた男同士として、応援したくもなる。

 それが情であり、鬼謀を閉ざすものなのだと、勘助は知っていた。知ってはいたが、晴信の心情を推し量ると、どうしても振り切ることができなかった。

 勘助は「それがしがこの場で献策できるとすれば、それは致命的な負けを逃れる窮余の一策くらいですな」とうなずいた。

「……かくなる上は、真田どのが放った忍びたちが三日以上ねばってくれることを期待する他はなし」


 砥石城から葛尾城の村上義清のもとへと放たれた使者を巡り、信濃の山中でも激闘が繰り広げられていた。

 真田忍群と、戸隠忍群。

 武田方と村上方。

 戸隠山を祖とする同じ信濃忍びが、葛尾城へ連なる山々の尾根で互いの気配を探り、相手を消そうと体力と智力と術の限りを尽くして暗闘していたのだった。

「真田め。ずいぶんと手駒を投入してきたものだ。だが、それはこちらも同じことよ」

「鳶ノ一族」こと戸隠衆を率いる鳶加藤は、りすぐりの手勢を率いて砥石城から出立し、自ら村上義清に後詰めをう使者となって山中を駆けてきた。

 真田の網は、山々の至るところに張られていた。

 山全体が真田の結界と化していた。

 さもあろう、もともと砥石城は海野うんの 一族に仕えていた真田の出城。それを村上義清が奪ったのよ。つまりこのあたり一帯は真田の旧領――白い霧に覆われた山中。一本杉の頂上に立つ鳶加藤は、数を減らした味方の忍びを数えながら、「真田の忍びも減っている」とうそぶいていた。

 猿飛佐助は忍びでありながら人を殺すことを嫌う小娘だが、この俺を生かして葛尾城へ辿り着かせるか否かに武田七千の将兵の命がかかっていると言っても過言ではない。今回こそはやつの猿飛の術と俺の鳶ノ術、同種の術の優劣を決定づけることになりそうだ。

「あの真田の双子。あの力があれば、大幅に時間を短縮できそうだが。だが、しょせん双子の能力にも『有効範囲』という足かせがあろう。山ひとつ越えた彼方かなたにまで、双子の声は届かぬ。俺の鳶ノ術に時間の制限があるのと同じにな――」

 北信濃最大の霊山・戸隠山。その奥の院で、戸隠忍びは生まれる。

 千年杉の参道を越えた奥の院の果てに、山の切れ目の奥底に、「ご神体」と呼ばれる巨石がある。

 これこそがかの「天岩戸あまのいわと」そのものであるという伝承を持つ石だが、その正体は天から落ちてきた星、すなわち「飛石」なのだともいう。

 鳶加藤にとっては、どちらでもいいことだった。

 食い扶持ぶちのない子供たちが、山に捨てられる。生き延びるためには奥の院へ辿り着かねばならぬと教えられて。運良く奥の院に辿り着き、石から見えないなにかを浴びた子供のうち八割は死ぬが、二割は生き延び、自ら「力」を得る。その二割の子供のうち、己の「力」を忍びの術と精神力によって制御することを可能にした者が、鳶ノ一族と認められ、戸隠忍びと呼ばれる。

 「力」の制御は、常人には不可能なのだ。修行中に死ぬ者、心を壊す者は後を絶たない。

 戦乱の世となり修験道の霊山としての戸隠山は大いに荒廃したが、それでもなお選りすぐりの戸隠忍びたちが山を守護し続けた。あらゆる大名・国人の介入を阻んできた。戸隠忍びは自由を謳歌おうかし、山を守り、あるいは者によっては己の術と力を試したいがために時折武家が持ち込むその場限りの仕事を請けて働くこともあるが、決して心まで武家に染まることはなかった。

 ところが、いつの頃からか信濃の小豪族である真田一族が、戸隠の忍びを

 「家臣」として次々と召し抱えはじめたのだ。真田一族そのものが戸隠忍びの出自であるという噂もあるが、定かではない。佐助などは、鳶加藤と並ぶ最強の術を身につけながら、真田の庄での農民と変わらぬ暮らしに馴染なじんで戸隠山を去ってしまった。

 佐助などは放置しておいてもよかったが、真田が戸隠忍びを配下にしはじめたことは、「武家同士の争いなどくだらぬ」とあくまでも戸隠で自立することを至上としてきた鳶加藤にとっては捨ておけなかった。戸隠山の崩壊、武家による霊山の侵掠しんりやく――その第一歩となることは間違いなかったからだ。

 そして今やその真田が、諏訪家を滅ぼしたあの武田晴信と結んだ。

 真田め。戸隠を、甲斐源氏などに引き渡すつもりか。そうはいかぬ。信濃は――戸隠は天津神と国津神の墓標よ。いやそれ以前に、これは秘密を共有していたはずの諏訪一族ですら武家化し俗化していく過程で忘却してしまったことだが――「鳶ノ一族」の頂点に立った俺だけに伝承された一子相伝の秘密だが――戸隠から諏訪にかけての山脈の地下には長大な身体を持つ「九頭龍」が眠っている。天津神よりも国津神よりも古い、信濃土着の龍神だ。

ひとたび目覚めれば日ノ本の大地を崩壊させるまで荒れ狂う巨大な地龍だ。国津神をまつる諏訪の御柱おんばしらと、そして天津神を祀る戸隠山のあの「石」とが、信濃を南北に貫く強大な結界を形成し、地龍を押さえ込んでいるのだ。聖なる木、つまり御柱は耐用年数の限界があり交換せねばならぬが、天から飛来したというあの「石」はほぼ無限に力を放ち続ける代わりに、換えがきかない。日ノ本にあれ一つしかないのだ。

 武田晴信のような現世の欲と野望にかれた女が戸隠を奪えば、平然と

 「石」を戦に用いるだろう。やつは、戦に勝ちたいがために九頭龍すら起こすかもしれぬ。神氏である諏訪頼重を殺せる女だ。

 つまり「鳶ノ一族」の秘密を継いだ俺は、大和国に討伐され滅ぼされた古き民、まつろわぬ民の末裔。この日ノ本が滅びようが俺には関係がないが、そうなれば戸隠の山も滅びる。なによりも、戸隠が無数の子供を犠牲にして地龍を封じてきた闇の歴史そのものが無意味だったことになる。地龍が覚醒すれば、天龍も海龍も目覚める。大地は揺れ、港は波に呑まれ、日輪は黒煙に覆われてその光を消す。「天岩戸隠れ」だ。地龍を封じている「石」を破壊してはならないからこそ、天津神の神話に石を結びつけてまで価値を高め、戸隠に集う修験者と僧兵と忍びたちの力によって二重三重にも守らせねばならなかったのだ。

 このような途方もない話を、鳶ノ術すなわち猿飛の術を会得した際に山の長老から知らされた佐助は「それは信仰でござるよ、迷信でござる。石を割ってみればわかるでござるよ」と陽気に笑って真田の庄へ走ったという。

 佐助からこの秘事を知らされた真田幸隆は「地龍とは、はじめは、天津神と国津神の一族に侵入されて信濃の地を奪われた先住の者たちの怨念が生んだ復讐神だったのではないかしら。湖のほとりの街道沿いに開かれていた諏訪では形骸だけが残って物語そのものは忘却され、山中にこもり続けて密教や修験道の信仰体系をも取り込み続けることで怨念を風化させなかった戸隠ではいつしか、地龍こそが動かしがたいこの世の真理、一大秘事になっていったのでは」と理屈で解釈したのだという。真田幸隆は「石」の力は信用するが、「石」に付随する神話は……「物語」は信じないのだ。ならば、武田に賛同するはずだ。

 たしかに、そうかもしれない。誰も地龍などを見たことがないのだ。さりとて真偽を確かめることもできぬ。もしもまことであったなら、まことであると確認したその時が戸隠が地龍の目覚めによって滅びる時となるのだから。そして、もしも偽りであったと判明しても、やはり戸隠は地龍の神話を失って終わるだろう。

「見つけたでござるよ。鳶加藤どの。三日ほど眠っていてもらうでござる!」

 ついに来た。

 戸隠忍びの包囲網を突破してきた佐助が、一本杉の根元から猿のように這い上がってきた。

 白い顔には、傷一つ負っていない。

「わざわざいちばん見えやすい場所に陣取ってやった俺の誘いに乗る気か、猿飛佐助。お人よしがすぎたな。貴様は、ここで死ぬ。できる限り女は殺さぬ主義だが、武田晴信と戸隠を抜けた貴様は別だ」

「ずいぶんと『別』枠が多いでござるなあ。武田晴信どのは話せばわかる御仁でござるよと言いたいところでござるが、話し合いの余地はなさそうでござるな」

「諏訪頼重を殺した鬼女を信用するはずがなかろう。へらず口はいい。さっさと、登ってこい。その時が貴様の終わりよ」

「餌は自ら動けぬのが不便でござるな。木を登らずとも、近づけるでござる!」

 佐助が、「力」を放った。

 頂上まで登りつめるよりも早く宙へと身体を飛ばし、「猿飛の術」を用いて鳶加藤の視界から消えた。

 鳶加藤は、なおも一本杉の頂上に足をかけて、動かない。

 佐助は、鳶加藤に接近して「間合い」に入ればなんらかのわなが自分を襲うことを知っている。

 ゆえに姿を消し、「死角」から鳶加藤に一撃を加えようとしたのだ。

 だが、それは誰の「死角」なのか?

 鳶加藤は、餌である。

 鳶加藤以外に、誰かがいるのだ。

 佐助が間合いに入った瞬間に攻撃を放つべく潜んでいるなにものかが。

 佐助はその「誰か」が誰であるかわからぬままに、猿飛の術を駆使して宙を高速で出鱈目でたらめに舞い、あらゆる方角から「死角」になるべく己の軌道を追尾も予想もできぬようにした。

 無意識によって放たれる酔拳の出鱈目な動きを、拳法の達人が推測できないように。

 修練を積んだ忍びは、その修練があだとなって佐助の出鱈目な滑空とその軌道を見切れないはずであった。

「うきいいいい!」

 鳶加藤の背後に忽然こつぜんと出現した佐助が、忍者刀の柄を加藤の首筋に激突させようとしたその時――。

 佐助が放った忍者刀は、虚空を打っていた。

 手応えがなかった。

 そこにいるはずの、見えているはずの鳶加藤の姿には、実体がなかった。

「うきゃっ? おぼろッ!?」

 幻術? それにしてはあまりにも――!?

 忍者刀を一閃いつせんさせると同時に、佐助の鼻先に水しぶきがあがった。

 幻は、かき消えた。

 霧だ。山中の霧に、鳶加藤の姿が映り込んでいたのだ。鳶加藤は、この一本杉のすぐ近くにいた! そして今、鳶加藤はもう、その場にはいない!

「霧を鏡代わりに用いたでござったか!? もしや霧隠きりがくれの術! 隠形おんぎようだけでなく、このような使い方が!?」

 素早く身を翻して一本杉の頂上から離脱しようと飛んだ佐助の正面に、金髪をたなびかせたあおい目の南蛮娘が姿を現していた。忍び装束に包まれたそ

の胸には、南蛮渡来のロザリオが輝いていた。

「……霧隠才蔵さいぞう見参けんざん。佐助、お前を斬る」

 いかなる目的があるのか定かではないが唐突に戸隠に流れてきて無謀にも

 「霧隠の術」を身につけ、空中に漂う水分を自在に操るという南蛮人の「鳶ノ一族」――まるで菩薩ぼさつ像のように端正で美しい少女だが、決して笑わず、誰にもびず、群れることもないという。戸隠に来て忍びになった理由も、誰にもはっきりとは語らないのだとも。ただ、彼女はキリシタンたちから「異端」と恐れられていた。教会から破門されて焼き殺された、忌まわしき異端の魔女の家系なのだと。国元を追われ、ようやく見つけた異端の宗徒たちが暮らす安住の地にも十字軍に蹂躙じゆうりんされた傷跡が生々しく残り、一族は弾圧され続けた。それ故に彼女は東方へ、東方へと逃亡生活を余儀なくされ、ついには日ノ本の戸隠まで流れてきたのだという。だとすれば、やはり戸隠は神々の終焉しゆうえんの地、なのかもしれなかった。

「いやいや才蔵どのお久しぶりでござる。なんとも綺麗きれいな、めんこい娘さんでござるな……って、それどころではないでござる! うきいっ!?」

「……そう。それどころでは、ない」

「フフフ。もらった。背中を取ったぞ。もう逃げられぬ」

 才蔵の出現に気を取られた一瞬の隙を、つかれた。

 鳶加藤が、鳶ノ術を用いて、佐助の背後へと出現していた。

 忍びにとって、背後を奪われるということは即、死を意味する。達人同士の戦いであればなおのこと、例外はない。

 佐助は滑空しながら、前後を恐るべき手練てだれの二人に挟まれていた。

 仮に才蔵は振り切れても、鳶加藤は振り切れない。鳶加藤が背後にいるという絶望的な体勢を逃れるべく身体を反転しようとすれば、才蔵にられる。このまま飛べば、才蔵を振り切る前に鳶加藤に始末される。

 鳶加藤は、勝利を確信していた。

 だが。

 この時、霧に覆われた山中に――。

 種子島たねがしまの銃弾が放たれる音が、一発、鳴り響いていた。

 才蔵と鳶加藤は、本能的に「死」を察知し、佐助に致命の一撃を繰り出す寸前に身体を翻して佐助のもとから離脱していた。種子島の放ち手がどこにいるか、わからない。霧のために視界が悪い。音響追尾による捜索も無駄だろう。すでに狙撃者は移動している。二人は、ただ生き延びるために無言で森の中へと姿を消した。

筧十蔵かけいじゆうぞうさまが、佐助のために参戦してあげたわ。感謝してよね」

 切り立った岩と岩の狭間に隠れ、仏頂面で種子島の銃口を手入れしている忍びは、年端もいかないおかっぱ頭の幼女だった。

 その筧十蔵のもとに降り立ち、佐助は「ご褒美でござる」とおかっぱ頭をでて十蔵にいやがられながら、「逃げられたでござるな」と青空を見上げていた。嘘のように霧が晴れている。すなわち、佐助の視界を霧で満たしていたあの霧隠才蔵は、すでにこの山中を抜けたのだ。

「佐助ってバッカねえ。あんたがどつぼにはまったせいで、わたしの術を用いる暇すらなかったわ。最初から一本杉に浮かぶ鳶加藤のおじさんをわたしが撃っていれば、すぐに朧だとわかったじゃない。猿飛の術と鳶ノ術の対決でござる! だなんてあんたがはしゃぐから、こんなことに」

「にんにん。面目ない。種子島は音が響くからなるべく使いたくなかったでござるよ……鳶加藤にはもう追いつけないでござるな。ということはまもなく、村上義清が砥石城へ後詰めに出るでござる!」

「佐助。武田はもう終わりだわ。晴信とかいう大将はこんどこそ討ち死によね。真田さまもこれで浪人。大きな町へ逃げましょうよ。駄菓子屋さんがたくさんある町がいいな」

「そんな不義理は嫌でござるよ。十蔵は人情がないぞう、でござるな」

 なにそれつまんない、と十蔵が眉をひそめた。

「佐助には色気がないよね。あんたほんとに女の子なの? せっかくかわいい顔して生まれてきたのに、そんな山猿みたいな性格じゃあ言い寄ってくる男もいないでしょう。かわいそーう。わたしなんてまだ幼女なのに真田の庄では男の子たちにモテてモテて」

「急ぎ、御屋形さまに報告せねばならぬでござる」

「無視しないでっ! 本陣まで飛ばなくてもいいわよ。真田の双子の片割れが、中継地点で待っているわ」

「もう一人は、砥石城を攻めている本陣にいるのでござるな。ならば、こちらのほうが鳶加藤よりも早く知らせを伝えられるはずでござる」

「どうかしら。向こうも、伝達時間を短縮させる手を打ってあるはずよ。こちらには伏せているだけで」

 佐助の表情が不意に硬くなった。

「それもそうでござるな。鳶加藤どのが召集した手練れは、霧隠だけではないでござろう……急がねばならないでござる。お先に失礼するでござるよ」と不意に表情を引き締めて、「力」を全面解放していた。

 一刻も早く、武田軍に「結界を突破された」と報告しなければならなかった。三日間結界を守り通すという仕事を請け負っておきながら、突破された。このままでは武田勢が多く討ち死にし、武田晴信が命を落とすと思うと、佐助はさすがにやりきれなかった。拙者せつしやが鳶加藤どのを殺す覚悟で戦っていればあるいは……そう思うと柄にもなく己の甘さを恥じ、そして、鳶加藤と霧隠才蔵という強力な二人の術者を前にして、燃えた。

「ちょっと~! 十蔵を置き去りにしないで! 種子島って重いんだから。うんしょ、うんしょ……」

 佐助も十蔵も、まだ気づいていない。

 霧隠の術に守られながら山中を駆けていた鳶加藤自身が、実は、おとりだったということに。

 この時すでに、「武田軍、砥石城攻略を開始」の急報は、葛尾城の村上義清のもとに届いていたのだ。鳶加藤ではなく、この山中での戦いに参加していなかったまったく別の戸隠忍びの口から、信濃の山々に延びる獣道とは異なる道を驚くべき速度で駆け抜けた「切り札」から、その知らせは義清に伝わっていたのだ。


「村上義清自らが率いる後詰めが、われらの背後に現れました!」

 その急報が砥石城を包囲していた晴信本陣にもたらされた時、佐助はまだ真田の双子の片割れのもとに到達していない。

 晴信が佐助から「結界を突破されたでござる」との報告を受けるよりも、葛尾城から出撃した村上義清が戦場へ到着するほうが、はるかに早かったということである。

 そもそも、晴信はこの事態を恐れて城攻めを急いでいたのだ。前方の砥石城に総力を注いで強引な攻撃を続け、完全に疲弊しきっていた武田軍は、たちまち総崩れとなった。

 山本勘助にも、にわかになにが起きているのか理解しがたかった。

「これはいったいどういうことだ……仮に佐助の結界が突破されていたとしても、あまりにも村上義清の到着が早すぎる!」

 真田幸隆が、腕組みしながら思考を巡らせる。

「おそらくは、砥石城から抜けた鳶加藤自らが囮となって佐助たちを引きつけ――」

「その間に『本命』の使者が葛尾城へ達したというのですかな真田どの? だが鳶加藤よりも速く地を駆けることができる者が、戸隠におりましょうや。あの飛鳥の速度で天駆ける『鳶ノ術』を体得しえた忍びは、鳶加藤ただ一人のはず。いや、正確に言えば二人いるが。もう一人は猿飛佐助……たとえ鳶加藤とて、佐助の結界を容易に抜けられるはずもない」

「『山』とも『風』とも異なる道を進んだのでしょうね。兵は詭道きどうなり、ですわ山本どの」

「そのような者が、そして道が、信濃に?」

「ええ。一人だけおります。そしてその道とは、千曲川」

「千曲川!」

「鳶加藤のもとにはせ参じた者どもを残らず洗い出し終えるまでには、諜報が行き届いていなかったようです」

「ううむ。やはり、時間が足りなかったのか……」

 だが、どうやって村上義清がこれほど早々と後詰めに出られたのか? その謎を解いている時間は、もはや晴信たちには残されていなかった。

 上田原では、堂々の野戦を戦った。

 武田軍は多くの犠牲を出したが、村上軍も壊滅寸前となる打撃を受けたのだ。

 しかし、今はまるで違う。

 あの常勝を誇った武田軍が、一方的に叩かれ、斬られ、動揺し、崩れに崩れていた。

 上田原では、村上義清個人の武勇と、槍衾という村上方の戦術に敗れた。戦略的には、晴信は致命的と言えるほどの失敗を犯してはいない。

 だがこの戦では、晴信は完全に裏をかかれた。

 砥石城から、城兵が逆落としをかけてきた。今や武田軍は、背後の村上義清と前方の砥石城から挟撃されていた。これは、戦略上の致命的な失敗だった。

 砥石崩れ。

 晴信は死を覚悟した。「運命」を乗り越えることはできなかったのか。晴信は、横田備中の情熱に希望を見た。しかし、その希望を見出みいだした者は、恋を知らない少女・武田勝千代ではなかったのか。甲斐の国主・武田晴信は、そのような個人的でささやかな希望と、国盗りの合戦という「公」としての現実とを、決して混同してはならなかったのではないか。

(あたしはただ、横田備中に「今のあたしは信濃盗りにすべてをささげている。

お前の気持ちに、あたし自身として応えてやることも拒絶することも許されないのだ。すまない」と一線を引いてびるべきだったのだろう。それができなかったのは、やはり、はじめてのことに戸惑いどこか舞い上がっていたからなのだろう。どこかで希望と現実とを混同していたのか、「運命を超える」という言葉に囚われてはき違えていたのか。横田の想いを、戦場でともに運命を超えるというかたちで果たしてやりたかったのか。それとも……あたしは、戦場に己の「情」を持ち込んだのだ。その情が、勘助と幸隆の戦略を曲げさせて、狂わせたのだ。板垣と甘利を失ったあの上田原での敗戦を取り戻そうと、焦っていたのだ。甲斐の国主の座とは、これほどに重いものだったとは……父上……)

 しかもこの死は、晴信一人の死、勝千代という個人の死、己の死だけでは済まされない。七千を誇る武田軍、そのすべてが死の運命にさらされていた。

 「愚か者め!」という信虎の叱責の声が聞こえてきた。激しい目眩めまいと吐き気に襲われて、晴信は倒れそうになった。だが、かろうじて大地を踏み支えて耐えた。次郎が、晴信の背中に手を回して支えてくれていることに、ようやく気づいた。

「……勘助。このままでは武田軍は壊滅する」

 やっと、その言葉だけを、口から発した。

 山本勘助は「お察しいたしまする。この勘助がもっと、男と女の情の世界に通じておりますれば……精通してなどいなくとも、せめて人並み程度に」とうなだれながら、「全軍すみやかに諏訪へ撤退せよ」と叫び、真田家の双子の一人・真田昌輝を筆頭とする情報将校たち――「百足むかで衆」を四方へと飛ばした。

「勘助。幸隆。村上義清はこんどこそ、あたしの首を盗ろうと遮二無二しやにむに追撃してくるだろう。諏訪までの道のりは遠い。いかがする」

 真田忍びは結界を張るためにみな出払っております、と幸隆が嘆息し、そして勘助は鬼の形相で「それがしにお任せあれ」とうなずいていた。

 崩れていた。

 横田備中高松は、前後から殺到する村上軍の挟撃を受けながら、晴信本隊を戦場から離脱させるべく殿しんがりとなって戦い続けた。

 ともに砥石城を攻めていた小山田出羽はすでに重傷を負って戦線から消えていた。おそらく、もう長くはないだろう。

 原美濃の姿も、雲霞うんかの如く現れた敵兵の中に紛れて、見えなくなっている。

 横田率いる部隊も、壊滅的な打撃を被っている。

 一人として、傷を負っていない者はいなかった。

 それでもなお、これまで横田とともに幾多の戦場を生き抜いてきた男たちは、脱落しなかった。わずかばかりとなった晴信本隊の背後を守り、人間の壁となって村上義清の猛襲を少しでも食い止めようと戦い続けていた。

「みな、すまん。最後の最後に、どうやら俺は運を掴めなかったらしい。上田原で死に損なった俺は、柄にもなく欲を出したのだろうな」

「いつかはいずれ死ぬ。それが今日だったということだ、大将」

「大将も、一人の男だったってことよ」

 そう笑いながら、男たちは次々と倒れた。敵兵に背中を向ける者はいない。みな、前のめりに倒れて、そして死んでいった。

 横田備中自身、全身に矢を浴び、刀傷を負い、その視界は赤い血に染まっていた。すでに馬も失っている。甲斐に流れ着いてきた頃の端武者のように、己の足で地を駆け、槍を振るい、すぐ背後を行軍する「諏訪大明神」の軍旗を掲げた晴信本隊を守り続けた。

 馬上の村上義清の姿が、前方に見える。

 こんどこそ、晴信を斬るつもりなのだろう。

「諏訪大明神」の旗を見つけたらしい。

 急接近してくる。

 やらせるか、と横田はえた。俺としたことが、御大将にあのような言葉を。ほんとうに、血迷っていたとしか思えねえ。まるで初恋に狂った子供のようだった。四郎さまに舞い上がって夢中で仕える山本勘助のようだった。

俺はこんな馬鹿な男ではなかったはずだ。そのような甘い夢を見るには、あまりにも多くのものを失いすぎていたはずだった。

「貴様。横田備中か。すでに戦は武田の負けだ。なにゆえに、そこまでして戦う」

「てめえの、知ったことか。俺はな、主のために槍を振るう犬よ」

 目前に迫った村上義清へと槍を繰り出しながら、横田備中はえていた。徒歩かちだった。馬上の義清までは遠い。せめてこちらも馬上で構えてのやり合いならば、この首と引き替えに義清に一太刀は浴びせられたかもしれない。それだけが無念だった。己の口から熱い血が溢れてくる感触。腹に一撃を食らった、と知った。

「……ざまあねえ。俺としたことが。だが、この首をはね飛ばさない限りは俺を止めることはできんぞ。村上義清」

 片膝をつきながら、横田は「まだまだ」と笑い、再び槍を構えていた。

 だが。

「諏訪大明神」の旗まで、諏訪法性の兜を被り馬で敗走する晴信まであとわずかと迫ったところで、村上義清の表情が、一変した。

 そして。

「……武田晴信……またしても、命を拾うか。どうやら俺は、お前に敗れるのだろう。横田備中、見事な忠義であった。貴様らの勝ちだ――さらばだ」

 突如として、馬首を翻していた――。

 村上義清が、兵をまとめて退却していく。

 失血が多すぎて俺は幻でも見ているのだろうか、と横田は思った。

 大粒の雨が、横田の額めがけて落ちてきた。

 もはや、動けなかった。

 視界がぼやけてきた。

 御大将に詫びを。村上義清は退いたと、報告を。

「……横田、備中」

 前のめりに崩れようとしていた。その血にまみれた身体を、抱き留められて

いた。

 諏訪法性の兜を被った姫武将が、馬から下りて、横田の身体を抱き留めていた。

「……あんたは……そうか。村上の野郎は……一杯食わされたんだな。ざまあみやがれ、だ」

 横田は、笑った。なあ、あんたはなぜ泣いている。それとも、にわか雨が頬を伝っているのか。

「ごめんね。わたし、姉上によく似ている?」

 ああ。ほんとうによく似ている。顔を見るまで気づかなかった。いや、こうして間近で顔を見てもなお、見間違えそうになったぜ。この俺を欺くとは、よくもここまで影武者としての修業を積み上げてきた、と横田はその少女を手放しで褒めたかった。晴信の影武者として村上義清を欺き、晴信を無事に諏訪へと逃がしきったのであろう、孫六信廉を。

「ほんとうに、ごめんね」

「いや。これでよかったんだ。死に場所に」

 一輪の花、だ。勝ち戦を届けられなかった俺には、有り難すぎる。思い残すことはねえと、横田は孫六の腕に抱かれながら静かにつぶやき、そこで命が尽きた。


「己の命を捨てて守ろうとしていた者が。最後に見たあたしが、影武者だと。孫六だと、横田備中は死ぬ間際に気づいたそうだ」

 武田晴信は、またしても敗れた。横田備中討ち死に、と伝令から聞かされながら、それでも逃げねばならなかった。声を上げて泣いている時ではなかった。諏訪路を。横殴りに降る雨の中を駆けながら、晴信は溢れそうになっている感情をかろうじて抑えていた。声を詰まらせていた。

「仕方がなかったのです。兵は詭道なり。敵を欺くには、味方より……横田どのは御屋形さまを守るために必死だったのです。孫六さまのほうを振り返る余裕はなかったのです。だからこそ、村上義清も土壇場まで孫六さまを影武者だと気づけなかったのです。己の眼で、孫六さまの姿を確認するまで」

 横を進む山本勘助が、仏頂面でうなずいていた。彼もまた、己の感情を抑え込んでいた。己の軍師としての未熟さを悔いるのは、横田備中の命を賭した恋心を利用してそして裏切るというあまりにも非情な策を用いたことを晴信に詫びるのは、諏訪に晴信を帰還させたその時でいい。

「横田は、あたしを恨んでいるだろうか」

「さような男ではござらぬ。強い、男でした」

「しかし死んだ。今までどれほどに過酷な戦も生き延びてきた男が、あたしへの情ゆえに。泥に塗れて死んでいった。勘助。恋は……人を弱くするものなのだろうか。それとも」

 勘助は答えられなかった。

 真田幸隆ならば答えられるはずだ、と勘助は背後を振り返った。だが幸隆は百足衆とともに先行し、諏訪への逃走経路を準備している。滅ぼされた佐久衆の残党や野伏せりが、敗残の晴信を襲撃しないように。

 村上義清が孫六の正体を見切った時のために「二人目の影武者」として諏訪法性の兜をつけていた次郎が、「わたしは恋を知らないけれど、きっと、血を分けた家族への情と同等に強いものよ」と代わりに答えていた。

「横田備中は主に飼われる犬としてではなく、人として、男として死んでいったわ。きっと、後悔なんてしていない。姉上、願わくばわたしも死ぬ時はあんなふうに――」

 晴信は、長い髪を振り乱しながら馬上で耳をふさいでいた。兜は、外している。次郎に被らせている。

「次郎……もうやめて! 死ぬ、死ぬ、死ぬって……もう……」

「……姉上」

「どうして。あたしは、武田家の家族を、家臣団を守るために当主になったはずだったのに。どうして。なぜ……これがあたしの運命なの、勘助? 父上を追った罪が、こうして生きる限りあたしを捉えて放さないの? ほんのひとときでも、乙女のような夢を見てはならなかったの……!?」

 大打撃を被った武田軍はしばらく立ち上がれませぬ。ですが村上義清もついに御屋形さまの首を盗れませんでした。はじめの戦略に戻り、真田忍群を動かし、調略で砥石城を奪いまする、と勘助は震える声で晴信に伝えていた。

「忍びだって人間でしょう。大勢が、死ぬのでしょう」

「御意。ですが、軍と軍を激突させて戦うよりは、死人の数はずっと少なく済みまする。真田忍群の総力をあげて戸隠忍群の結界を破り、砥石城へ突入させ、城内の内応者と呼応して一夜にして城を落としまする」

 それがしも佐助たちとともに調略部隊に加わります、と勘助は言った。塩尻峠でかろうじて崩壊を免れた武田は、またしてもその名声を村上義清によって叩き落とされた。同じ相手に三度目の敗北は絶対に許されない。

「御屋形さま。今となれば、たとえこの戦を避けて調略一本で進めていたとしても、われらは負けたかと思われます。敵は義清の圧倒的な武と、そして戸隠の二者なのです。同時にこの双方を倒そうとしていたのが間違いだったのです。まずは戸隠に勝つのです。村上義清の武を力で倒すことができずとも、鳶加藤率いる戸隠忍びたちに挑んで勝てば、いにしえの神々の国である信濃を人の国、武田家が治める新しき国へと変える道筋はつきましょう」

 勘助は、この作戦に真田忍群全員と、そして己自身の生命を賭した。

「武田に真田の夢を託した幸隆どのにも、そのお覚悟をしていただきます」

 最後尾を囮として行軍していた孫六を救出してきた飯富兵部と太郎の部隊が、諏訪上社へと到着しつつあった。

 兵部も太郎も傷つき、疲れ果てている。

 武田四天王のうちの三人が、逝った。

 現役のまま生き残った四天王は、飯富兵部一人となった。

 太郎は、不安そうに目を潤ませていた。

「なあ兵部。お前も死んじまうんじゃねえだろうな?」

「太郎。あんたより先には絶対に死なねえよ。あんたは戦場で暴れるしか脳のない馬鹿野郎だからな、お守り役がいなくちゃ一日もやっていけねえ」

「……そっか」

「ああ、そうさ」

「……なあ兵部……駿河にいる定の命も、尽きようとしているようだ。敗戦を重ねている武田は、今川と手切れすればそこで終わる。俺は今川の姫との祝言を、請けなければならなくなったろうな……」

「……そうだな。太郎、あんたも少しは大人になったみてえだな」

「兵部。あのさ。ほんとうは、俺は」

「お守り役は生涯、お守り役だ。あんたとあたしはなにがあってもずっと一緒だ。最後まで、あんたと一緒にいてやる。だから、気にすんな」

 兵部と太郎。馬上で手を繋ぎかけながらためらっている二人の姿をその隣で見つめながら。

 鶴亀を描いたあでやかな雨傘を差しながら馬上を揺れる孫六の頬から顎へと、雨粒が一滴、二滴、したたり落ちていた。

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