第九話 兄・晴景

 上越、春日山城。

 かの梟雄きようゆう・長尾為景から越後守護代の座を継いだ長尾晴景は病がちで、かつ、跡取りがいなかった。ただ一人の子・猿千代は夭折ようせつしている。

 体調の問題や生まれ持った風流好きで惰弱な性格のため、晴景が守護代となってからの越後は乱れに乱れていた。隣国の伊達家までが首を突っ込む始末で、春日山城から遠く離れもともと独立性が高かった下越の揚北衆などは晴景を主君と認めずにほとんど独立したも同然のありさまだったし、中越においても豪族国人たちの独立・謀反が相次いでいた。

 あのおそろしい長尾為景が死んだ今、守護代長尾家などに遠慮することはない。むしろ下克上を――と多くの越後豪族が野心をたぎらせ、あれほど宇佐美定満たちが奔走して安定させていた越後国内は今や四分五裂しはじめていた。

 本来ならば新しき守護代となった長尾晴景が自ら出兵してこれらの謀反を武力鎮圧するべきだったが、身体が言うことをきかない。戦場へ向かおうとすると胃腸の具合が悪くなるので、晴景の身体の不調の半分は精神的なものが原因だったのかもしれない。晴景は色白できゃしゃで、腺病質の男だった。そういう意味で、腹違いの妹の景虎と晴景は似ていた。あの梟雄・為景から生まれてきたとは思えない兄と妹だった。

 しかし晴景は、妹・景虎が自分とは似ても似つかない存在であることをま

もなく知ることになった。

 晴景政権の実権を握り、越後の騒乱を片付けようと奔走している上田長尾家の長尾政景が、春日山城を訪れて景虎の近況を晴景に伝えたからだった。

「あの景虎が、中越の豪族たちを片っ端から撃破して従えている?」

「ああ。景虎は自ら望んで、騒乱地域となった中越の要である栃尾城に入城していた。予想通りというか、たちまち中越の豪族国人たちが『姫武将など越後には無用』と栃尾城に入った景虎に反旗を翻した――まあ、俺があおったのだがな」

「そこまでは計画通りだ。合戦になったのか? 妹は無事なのか? 栃尾城は下越にも近い! もしも揚北衆まで攻め寄せてきたら妹は危ういぞ。やつらには、守護や守護代に帰服するという概念がそもそもない。ほどほどに暴れさせて、妹をおびえさせて春日山城へ逃げ込ませる。それが僕とお前が立てた計画だったはずだ!」

「フン。景虎が泣きを入れてくれば魚沼から兵を出して救援し、春日山城へ連れ戻す。その手はずだったが、とんでもない裏目に出た。景虎は、わずかな手勢を自分の手足のように動かして反乱した豪族たちの軍勢をことごとく破った。しかも、撃ち破った敵を必ず許すのだという。中越の多くの豪族は手のひらを返したように景虎に帰順し、揚北衆までが景虎の武勇を『あの長尾為景の再臨』と認めておとなしくなったという」

「なんだって? 自らの敵を許すというのは妹らしいが……だが、あの身体が弱い妹に合戦などできるはずがない。軍師・宇佐美定満が采配をふるっているのではないか?」

「俺もはじめはそう思った。策士の宇佐美が幼い景虎を御輿みこしとして担いで、奇策でもろうして勝ち続けているのだろうと。だが違った。宇佐美は、合戦場においてなにもしていないのだ。景虎自身が実際に采配をふるっているのだ。その用兵は、あたかも天に目を持っているかのように戦局のすべてを見通している、そうとしか思えない神がかりのものなのだという。戦上手な中越の連中が、若年でしかも姫でありながら自分たちを赤子の手をひねるように撃ち破り続ける景虎を『神将』とあがめはじめているのだという」

「それでは、政景……あのひ弱い妹に、軍才が?」

「どうやら、そうらしい。それも、並の才ではない。噂が事実なら、たぐいまれな天才と呼ぶにふさわしいほどだ。日の光を長時間浴びられぬ身体を行人包ぎようにんづつみで包み、自ら先陣を切って即断即決で目の前の敵軍を蹴散らしていくという。あの身体だからあまり長い時間は戦えないようだが、時間切れになる前に必ず勝ってしまう。非力ゆえにやりや弓などの武芸の腕はさほどでもないが、軍兵を自在に進退させて敵陣の急所を見抜き、的確に突くことにかけては宇佐美が口を挟める場面がまるでないという」

 そう伝えながら、長尾政景自身、まだ自分が間者から聞いた情報の真偽については半信半疑だった。

 どうしても、あの雪の精のようにはかない景虎が、戦場では父・為景を彷彿ほうふつとさせる戦の天才に変化するとは、思えないのだった。

 兄・晴景は「それでは妹は栃尾城から春日山城へ戻ってはこないのだな」と深いため息をついた。

「僕が、前線へ出て姫武将として戦うと言い張った妹にえて栃尾城行きを許したのは、騒乱のただ中にある栃尾城へ入ればきっと越後の男武者どもにたたかれてすぐに退散してくるだろう、と予想していたからだ。妹はああ見えて頑固で、『春日山城へ戻ってくれ、武将として生きるのはやめてくれ』という僕の意見を聞いてはくれなかった。もはや、越後には姫武将の居場所などない、と直接経験で思い知ってもらうしか説得する方法はない。だからお前に中越の国人たちを煽らせた……」

「ああ。そして、もしもの時は俺が栃尾へ救援へ向かう。そのはずだった。俺はお前の妹で景虎の姉である綾を妻にしているが、景虎をあきらめたわけではないからな。景虎をただの姫に戻したいという俺と貴様の利害は一致していた。だからこうして組んでいる。しかし、当てが外れた」

「……僕の妹はもしかして、ほんとうに戦の天才なのか」

「フン。人の噂などは過大に広まるものだ。この目で見てみなければわから

ん。ことに、宇佐美定満と直江大和が後ろに控えているのだからな。すべては嘘なのかもしれん。実際には、戦場での景虎は日の光を避けて本陣に巣ごもっているだけなのかもしれん。だが、嘘であろうがまことであろうが、越後中の武将どもや民たちがこの噂を信じるようになれば、景虎は越後初の姫武将として国中に認められてしまうだろうな」

「……そうなれば妹を戦場から救い出せなくなる。それはいけない。政景! 次の策を考えてくれ。こんどこそ妹に武将稼業をやめさせる方法は?」

「景虎が頑固なことは俺も承知している。いちど姫武将をやると宣言したからには、とことんまで姫武将としての生き方をやり通すつもりだろうな。しかも軍才を発揮しはじめているとなれば、言葉で説得しても無駄だ……実力で、つまり戦で景虎を撃ち破るしかないぞ。たとえば、越後最強のこの俺が」

「とはいえ、僕が妹に直接軍を向けるわけにはいかない。それでは妹は謀反人になってしまう! すでに、僕が妹を討とうとしているという噂が越後中に広まりつつあるんだぞ?」

 気づいていないようだがそいつは俺が流している噂さ、お前と景虎の仲を裂くためにな、と政景は苦笑した。

「むろん政景。お前が妹を討伐することも認めない! 間違いが起きたらどうする!」

「フン。あくまでも片八百長だ。越後において長尾為景の武勇をもっとも引き継いでいる武将はこの俺、長尾政景だ。小娘などに負けるはずがない。直江は戦場では役に立たぬ男だし、宇佐美の軍法ならば何度も手合わせしてきたからすでに見知っている。手加減しながら、景虎に手傷を負わせることなく打ち負かしてやる。それであいつは武将としての人生をあきらめ、おとなしく姫になる」

「駄目だ! お前は戦場で妹を捕らえたら、なにをするかわからん! いいか政景。妹には指一本触れるな! お前には越後一国の宰相の座を与えたが、わが妹だけは譲らん! 景虎は、お前の妻・綾の実の妹なのだぞ! 兄として! 僕は妹を守る!」

「……ちっ」

 越後守護代でありながら、なにごとも政景に丸投げして過ごしてきた晴景がこの時、はじめて強烈な意志を見せた。

 鋭敏な政景は、それまで愚鈍な男と侮っていた晴景の内側に、異常のものを感じた――あるいはこいつは俺と同類の、道ならぬ執着に煩悶はんもんする男なのではないか、と。

「晴景。貴様はもしかして、景虎に……自分の妹に色欲を抱いているのか? そういえば、風流人の貴様が、元服した景虎と対面して以来めっきり女を近づけなくなった」

 妻の妹に執着する俺もどこか異常の男だが、だとしたら実の妹に煩悶している晴景は俺よりもはるかに惑っている、と思った。

 そして晴景は「狡猾こうかつなお前に嘘をついても、いつまでも誤魔化ごまかせきれまい」と青ざめながらも、認めた。

「あいつが幼い頃は、僕にとってはただの腹違いの妹にすぎなかった。白い髪、白い肌、赤い瞳。まるでうさぎの子のようでどこか気味が悪いと思っていたほどだ。すべてが一変したのは景虎が元服して春日山城に舞い戻り、謁見した時からだ。あれほど美しい妹に成長していようとは思わなかった。しかも、あの美しさは、人の美しさではない。まるで、ほんとうに毘沙門天びしやもんてんが人の形を得て地に下りてきたかのような……いいか。僕はただ単に色欲に惑っているのではないぞ政景。女など抱き飽きた。僕が妹に抱いている感情は、もっと複雑で崇高なものだ!」

 俺の景虎への鬱屈うつくつした想いもあるいは、触れがたいまでに崇高なものを前にしてあわれにもどう振る舞っていいのかわからなくなった愚かな男のそれなのかもしれない、と政景は思った。思いながら、晴景の妹への恋心を利用すれば俺はさらにい上がれるかもしれない、と気づいた。長尾家の分家に生まれ、裏切り者の一族と周囲にさげすまれて不遇を重ねてきた政景の野心は、とどまるところがない。

「……晴景。あれは、貴様の実の妹だぞ。貴様の想いは、遂げられるはずもない。通常の、手段ではな」

「ここまで語ったからには後には引かせないぞ政景。こんどこそ景虎を春日山城へ戻せ! ただし僕と妹との直接戦闘は駄目だ! あれは僕を兄として慕ってくれている。兄が敵に回れば、妹を苦しめることになる!」

「だがな。景虎と戦う相手は、この俺でなければ無理かもしれん。宇佐美と直江が担いでいるあれを打ち負かすのは、なかなかに難しいからな。そしてその俺は、こうして貴様の右腕となっている」

「策を頼む。景虎に姫武将の座を捨てさせることができれば、長尾政景! お前に越後守護代の座をくれてやる!」

「フン。守護代の座くらいではなあ。どうせお前が死ねば、俺のものだ。為景がお前に守護代の座を譲る際に、そう取り決めたはずだ」

「いや。このままでは、そうはならないぞ政景」

「なに?」

「妹には宇佐美と直江、二人の軍師がついている。知っているだろうがあの二人は、残忍な野心家のお前を越後守護代候補とは認めていない。おそらくはわが妹を次の守護代の座につけるつもりだ――しかし僕は、妹に今以上の過酷な修羅場を生きさせることを、望まない」

 そうか、しまった、と政景は吐き捨てていた。

「言われてみれば、すでに揚北衆と中越の国人の半ばが景虎を支持している。俺は、幼く美しい姫の出現に越後の無骨な男どもが惑っているだけだと笑っていたが……景虎自身にそのような野心などなくても、宇佐美と直江は違う。やつらは策士だ! まさか景虎のあの希有けうな美しさをもって、容易には服属しない揚北衆を服属させようとしているのか!」

 俺が、景虎を春日山城へ連れ戻すために国人どもを煽った陰謀を、あの二人は逆利用したというのか? またしてもやつらに一杯食わされたのか俺は? いや、しかし、それにしても景虎はあまりにも強すぎる……!

「政景。宇佐美と直江の考えていることはわかるし、正しい。越後に平和をもたらすためならば、わが父上にそっくりなお前などよりも妹のほうが国主にふさわしい。しかし僕は、越後という国の運命などどうでもいい。僕はただ、妹を過酷な戦場に出したくないのだ! あんなにも弱い身体なのに何度も戦場に立たせていては、妹の命は縮まるばかりだ。日の光を浴びさせてはならない。あの美しい顔に傷でもつけられたらどうなる。討ち死にしてしまったらどうなる。敵に捕らえられて汚されてしまうかもしれない! そんな妹の姿など想像したくない。考えただけで胸が破れそうだ。春日山の館で母上とともに安寧に暮らしてほしいのだ。そしていずれ、この僕の想いを認めてもらう」

「待て。景虎は誰よりも潔癖な性格だぞ。兄との道ならぬ関係など、景虎が認めるはずがない。この俺が、あいつの姉である綾を妻にしてしまったために景虎から遠ざけられているのを知っているだろう? ましてお前と景虎は血がつながっている実の兄妹だ」

「それでも、だ。妹に槍を取らせるくらいならば、この僕自身が戦場に赴いて戦うほうが百倍ましだ!」

 どうせ景虎はこの俺の妻になるのだ。俺は絶対に景虎をあきらめない。その俺に頼るとはつくづく馬鹿なお坊ちゃんだ――と政景は内心で苦笑しながら、晴景の手を取っていた。

「わかった。越後守護代の座と引き替えに貴様のその注文に応えてやろう。お前自身が景虎と戦うことなく、あいつを撃ち破る方法を具申する」

「次の策を、考えてくれたか?」

「ああ。まずは景虎が倒すべき『敵』を作らねばならない。かなり危険な手段を取ることになるな」

「危険な手段?」

「まず、俺は表向き貴様と仲違なかたがいして春日山城を去り、上田へ引きこもって

 『長尾政景・謀反』の噂を流す。そうすることで越後守護代の座に野心を抱く適当な国人を一人選んでその気にさせ、その者に春日山城を襲撃させる」

「僕の命を狙う謀反人を別に作るということか?」

「俺自身が春日山城を攻めるわけにもいくまい。それでは茶番を終えた後、俺は宰相の座に戻れなくなる。汚れ仕事は適当なやつにやらせるさ。後でそいつだけを始末すればいい」

 顔色も変えずに政景は言ってのけた。晴景が顔をしかめた。

「……どこまでも悪辣あくらつな男だな」

「なに、ここは越後だ。候補者ならばいくらでもいる。俺がそいつを三寸の舌先で操って、春日山城を襲わせ、しかし占拠させることなく退却させよう。片八百長だ。春日山城が襲撃されたと知れば、景虎はその襲撃者を討伐しようとするだろう。その時こそ俺が、謀反人と景虎をかみ合わせて戦わせる。じきじきに采配をふるうのは、この俺だ。俺が景虎を破り、景虎が敗走して逃げ込んだ栃尾城を攻め落とす。自分の武将としての能力の限界を思い知らされた景虎は姫武将として生きることをあきらめる――忌々いまいましい宇佐美と直江は俺が始末する。あの二人を消せば景虎は裸も同然だ。景虎をもとの姫に戻したのち、貴様は俺を『くだれ』と説得すればいい。俺が、帰参の証しとして春日山城を攻めた謀反人を始末し、俺と貴様は『和睦』する。以前に宇佐美が柿崎を踊らせてやらせた『返り忠』を、こんどは俺がやりかえしてやるわけだ。これでどうだ?」

「……とはいえ謀反人の汚名は、お前がもっとも嫌うものだろう政景。ほんとうに、やってくれるのか?」

「ああ。こざかしい宇佐美を完璧に破るためには戦の鬼である俺がじきじきに戦うしかないんだ、やむを得まい。だが、小手先の誤魔化しでは宇佐美と直江は――ことに狡猾な直江大和はだませない。春日山城を攻めさせる際に、大勢の人間を犠牲にせねばな。無傷で全員が逃げたとなれば、芝居だと気取られる」

「か、構わん。やれ!」

「ほう? しかし晴景。お前の一族も犠牲にせねばならんぞ」

「構わん。どうせ僕の守護代の座を虎視眈々たんたんと狙っている面々だ。僕は妹さえ、景虎さえ守れればそれでいい! だが母上にだけは手をかけるな。僕に

とっては継母だが、景虎の実母なのだから。母上を巻き添えにしてしまえば、景虎を苦しめることになる」

「フン。さしもの俺でも、女は殺させん。しかし一族の男たちを犠牲にしても構わぬとは、貴様の妹好きはもはや狂気の沙汰さただな。魔性に魅入られたかのようだ」

「……違う。僕は、神に魅入られたんだ。下克上によって血塗られてきた

 『長尾家』になど、あの美しくて気高いわが妹と比べればいかほどの価値もない。妹は、なにを犠牲にしてでも守らねばならない。守らねば……」

 それほどに狂うほど景虎が欲しいのであれば、己一人の力で奪い取るべきだ。それが戦国の世のおきてだというのにどこまでも甘いやつよ。この俺が貴様から守護代の座を奪い一族を奪い景虎を奪ってやる、貴様は指をくわえて俺が越後のすべてを手に入れる姿を眺めていればいい、と政景は口元をゆがめて晴景の惑いぶりをあざ笑った。あざ笑いながらも、(こいつは生まれてはじめて、この世に人として生まれてきた己の幸福というものを知ったのかもしれん)とどこか晴景にうらやましさのような感情をも抱いていた――。

「政景。人の心というものは幸福の源泉でもあり、苦悩と不幸の原因でもある。なぜ、人の世には男と女という二つの異なる生き物がありながら、兄と妹という関係までが存在するのだろうか? なにをしてもむなしかった僕の心は、景虎を一目見た瞬間に、生まれてはじめて女への愛というものを知った。しかし、その愛と同時に、醜い欲望の炎もまた燃え上がったのだ。男が、女に抱くのであれば、この矛盾する二つの情はきっと両立するものなのだろう。しかし、実の兄が、妹に抱いていいものではない……せめてもう少し以前から妹と触れ合っていれば、僕はこんな苦しみに身を焦がすことなどなかったはずなのに。ただ、妹を兄としてでて守れさえすればそれで満足できたはずなのに。御仏みほとけの教えにすがる民たちの心持ちが、少しばかりわかった気がする」

「くだらんな晴景。無数の女を抱いてきた貴様が今更、坊主のように悟りきれるとでも思うか? すでに貴様は汚れている。妹を抱きたいなどと欲する者が悟れるはずがなかろう。貴様の魂は景虎によって浄化されるはずもない、むしろ逆だ。煩悩の炎に焦がされ、ますます汚れていく」

 だからこそ僕は苦しんでいる、と晴景は顔を押さえてうめいた。

「晴景。ちっぽけな道徳など踏みにじれ。己の心を偽って、それでなにが手に入れられるというのだ? それほどに妹が欲しいのならば容赦なく手に入れろ。さもなければ、他の男が奪い取るばかりだぞ。お前が奪わないのなら、この俺が奪う」

「そう言うお前は矛盾を感じないのか? お前は綾を妻にしている。妻の妹にまで欲望を抱くのは、それは、不義ではないのか?」

「黙れ! 綾とは政略結婚したにすぎん。俺は直江大和に騙されたのだ! そもそも欲というものはただ欲するがままに己を燃やすもので、そこには義も後悔もなにもない。それがこの俺、長尾政景の生き方だ!」

「……僕には、お前もまた『景虎を手に入れられない』という自分の苦しみから目をらしている哀れな男に見える。長尾政景。お前はなぜ強引にわが妹を手に入れないのか? それはお前の心には妹への欲望だけでなく、やはり、誤魔化しがたい愛という情念があるからだ。その一点だけで、お前は、かろうじて人間としてのぎりぎりのところで踏みとどまっている。その一点を超えれば、お前は鬼になる」

「フン。愚かなことを。俺は、力で景虎を屈服させるだけでは飽き足らないだけだ。それでは景虎の身体は奪えても、心は奪えん。やつは誰よりも誇り高く意固地な娘だから、力ずくではかえって心を遠ざけてしまう。心まで奪い尽くさねば勝利ではないからな――俺はな。貴様ごときには景虎の心をつかむことはできない、そう貴様を見下しているから貴様に荷担してやるだけのことだ。欲望の命ずるままに生きる俺の心に、苦しみも悲しみもない。ただ、あいつを手に入れるまでは俺の全身を焦がしている欲望の炎はいつまでも燃焼しきれない。それが苛立いらだたしいだけだ」

「政景。お前は僕をただの惰弱なお人好しだと思って利用するだけして捨てようと考えているのだろうが、そうはいかない。妹を、景虎を決してお前には渡さないぞ。僕が生きている限りは」

「……貴様」

 晴景と政景はしばらく、無言のままにらみ合った。

 あの晴景が、政景に鬼の形相で睨まれても、決して目を逸らさない。

 政景は(こいつ、もう一度俺が「景虎を奪う」と口にすれば、即座に俺を殺すつもりだ)と理解した。むろん、政景は晴景に殺されるような男ではない。だが、脇差しを抜いて襲いかかってきた晴景を返り討ちにしてしまえば、自分の主を、しかも同じ長尾の一族を殺した謀反人になってしまう。謀反の戦を起こして堂々と戦って勝つならばともかく、「主君暗殺」は最悪の手だった。「やはり上田長尾家の血筋は、卑怯ひきような裏切り者の血筋だった」と常々上田長尾家を軽蔑している越後諸将の激しい反感を買う。そうなればもう、景虎を奪うどころではない。宇佐美定満、直江大和、さらにはあの信仰心あつい柿崎景家らが続々と敵に回る。もはや越後にはいられなくなる――。

(僕はいつでもお前と刺し違える。殺せるなら、殺してみろ。僕は妹を手に入れられぬままに死ぬが、お前もわが妹を手に入れられない)

 妹への道ならぬ想い。ただそれだけのために、晴景は長尾家一門の歴史も守護代の座も自分の命もなにもかも捨てるつもりらしい。

 俺はこの病弱な男をめていた! と政景は気づき、晴景のような意志の弱い男をここまで狂わせる景虎という存在はいったいなんなのか、と震えた。あるいは、景虎はほんとうに毘沙門天の化身なのだろうか? 違う。そんなはずはない。あれは己を毘沙門天の化身だと思いたがっているだけの、ただの小娘だ! あれが他の女と同じように黒い髪と黒い瞳を持って生まれていれば、晴景とてこうも惑うことはなかったはずだ。俺は、あいつがただの小娘だということを景虎自身に、そして晴景のように愚かにもあの娘の異常な容姿に目をくらまされて惑っている連中に知らしめてやりたいのだ!

「……よかろう。長尾晴景。貴様が生きている間は、景虎に関しては貴様に一歩譲ろう。だが、その身体であと何年生きられるかな?」

「妹へ、わが想いを伝えるまでは」

「わかった。ならば、春日山城へ景虎が戻ってきたら、その時はためらうな。好きにするがいい。だが、言っておくが貴様は俺以上に拒絶されるぞ」

「承知の上だ。それでも想いを伝えなければ、なにもはじまらない」

 政景は鼻を鳴らしながら、越後の地図を広げてみせた――。

「こいつだ。黒滝城主、黒田秀忠を『謀反人』に仕立てよう。こいつは、春日山城を攻めろ、この俺が手助けしてやると少し煽れば調子に乗る男だ。そして、貴様と違って御しやすい。用済みになれば、簡単に始末できる」



「長尾政景が、黒田秀忠の反乱軍に加勢している? 政景は兄上のもとで宰相を務めていたのではなかったのか」

 黒滝城主・黒田秀忠が、謀反に踏みきった。

 春日山城を急襲し、大勢の犠牲者を出した。長尾一族の男子たちも犠牲になった。ただ不幸中の幸いにも、越後守護代・長尾晴景と景虎の母・虎御前は無事に逃げ延び、黒田秀忠が兵を退いた後に春日山城へと戻ったという。

 黒滝城討伐のために栃尾城の城兵を率いて出陣していた景虎は、日光を遮るように天井までを白絹で覆い尽くした陣中で宇佐美定満の報告を聞きながら「妙だ」と口走っていた。

「政景がなぜ兄上を裏切る? 兄上の次の守護代は政景だと定められているはずだし、兄上にはお子がおられない。一人だけ幼子がおられたが、不幸にも流行病はやりやまいで亡くなられてしまった。政景が兄上を討つ理由がない」

「直江の野郎から聞いたろう? 中越の豪族国人たちに栃尾城を攻めさせたのはお前の兄貴と、政景の謀略なのだと」

「わたしに武将働きをやめさせたいがために、兄上がそのような政景のたくらみに乗ったとは聞いたが……しかし今回は違うぞ。政景はどういうわけか兄上とたもとを分かっている」

「なにか不満があれば謀反せずにはおられないという政景のいつもの病気か

もしれんが、裏ではいまだに晴景と繋がっているのかもしれねえな。直江。お前はどう見る」

 宇佐美に促されて、直江大和が「人を疑うことにかけては宇佐美さまよりもわたくしのほうが上手ですからね」と苦笑いした。

「順々に豪族・国人を当てても、誰もお嬢さまには勝てない。このままではかえってお嬢さまを次の守護代に、と越後の国人衆がお嬢さまのもとに団結してしまう。政景はそう悟って、自ら雌雄を決するつもりになったのではないでしょうか?」

「実際、景虎の武名はうなぎのぼりだ。いましばらく政景には黙っていてほしかったがな」

「ですが政景は宰相の地位にいる以上、お嬢さまとは戦えません。そこで表向き離反したのでしょう。ですが、政景が謀反人として目立ちすぎると後で帰参しづらくなります。そこで黒田秀忠を踊らせて暴れさせたのでしょうね」

「春日山城での騒ぎはつまり、大芝居か?」

「ええ。このたびの黒田秀忠の謀反騒動では春日山長尾家の一族が何人も死にましたが、これは自分の次期守護代の座を確実なものにするために政景が謀反劇のついでに処分させたと思われます」

 政景め! 兄上を騙しているのだ、と景虎が手にしていた青竹をぴしりと打ち付けた。

「しかし直江。すべては政景の策略だとして、晴景がなぜこんなに自家を弱体化させて自分の守護代としての権威を落とす最悪の茶番に乗った? あいつは戦が苦手なうらなりだが、そこまで馬鹿じゃないはずだ」

「どんな手を使ってでも、お嬢さまに武将をやめさせたいのでしょう」

 宇佐美定満は「景虎がまだ虎千代と名乗っていたガキの頃は、妹に無関心な兄貴だったのにな。どういう心境の変化なんだ」と長髪をかきむしりながら顔をしかめた。まさか晴景が実の妹に恋慕の情を抱いて惑っているとは、遊び人ではあるが色恋の道に関しては常識人――むしろ朴念仁と言ってもいい宇佐美定満にわかるはずもなかった。

 栃尾城へ押し寄せて来た豪族たちをわずかな人数のみで蹴散らした初陣以来、景虎の武名は高まるばかりだった。

 あの初陣で、小柄な姫武将・景虎は白い行人包で頭と顔を覆い、よろいかぶとも身につけず、飛び交う矢の雨の中を一騎がけして突進した。

 こんな幼い少女に戦ができるのだろうか? とはじめて見る「越後の姫武将」の弱々しい姿に戸惑っていた栃尾城の男武者たちは、景虎のあまりの無謀ぶりに度肝を抜かれた。

「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり! わたしは毘沙門天の化身だ。矢などいくら撃ちかけたところで、毘沙門天の身体には一本も当たらない。もしも当たれば、わたしは偽者にすぎなかったということだ」

 そう叫びながら景虎は敵陣深くへと突進していく。

 栃尾城の男たちは、景虎を死なせてはならない、とたけり狂った。

 景虎に弓を向けていた敵兵の男たちも、はじめて見た「越後の姫武将」の可憐かれんで儚い姿に驚愕きようがくし、そしてその非常識な無謀に戸惑った。彼らは、景虎を無残に殺すことをためらった。

 数に劣る栃尾城勢が、圧勝した。

 次の戦でも、その次の戦でも、景虎は勝った。常に自ら先陣を切って、敵味方の男たちを惑わせ、狂乱させ、そして勝ち続けた。

 無茶苦茶むちやくちやするんじゃねえ! と宇佐美定満が何度も制止したが、景虎は聞かなかった。

「宇佐美。わたしはあまり長い時間、日の光を浴びてはいられない。長対陣は避けたい。敵の矢に当たって死ぬのと、日の光を浴び続けて死ぬのと、どちらが武士としてふさわしい? わが戦は、速戦で決める」

 そう言われては、宇佐美定満も景虎を止めきれなかった。

 たしかに、越後の男武将たちにとって、行人包で肌を包み赤い瞳を輝かせながら戦場を駆ける小さな景虎の姿は異様なものに映った。敵にとってはうかつに触れてはならない神秘的な存在に見え、味方にとっては命を賭しても守らねばならないなにかに見えた。

 ただ……景虎自身は口にしないが、曇りの日はともかく、晴天の日の戦場では、景虎はまぶしさのあまり目の前の光景がよく見えていないらしかった。それ故に、一騎がけの突進という無謀が可能になったのかもしれなかった。

 が、視力がじゅうぶんではないにもかかわらず、馬上で景虎が矢を避ける能力は、異様なほどに高かった。目が利かない分、耳で矢が風を切る音を聞き分けることができるようだった。

 己の肉体の不利を、景虎は利点としてかしていたのだ。しかも、考えてやっているのではなく、ただ直感でそれを実践したのだ。

 それだけでも信じがたいことだったが、宇佐美がさらに驚いたのは、景虎が戦場での敵味方の兵士たちの「動き」を敏感に察知する嗅覚を持っていることだった。嗅覚と呼んでいいのかどうかわからないが、目で見ることができない範囲での兵たちの動きをも、景虎はなぜかかなりの部分まで正確に感じ取ることができた。まるで、天上の世界から大地に展開される合戦を俯瞰ふかんしているかのように。

 敵味方の陣形を俯瞰できる景虎の用兵は、常にその時その時のひらめきと感覚だけで行われ、あらゆる軍法に縛られず自由自在なものだった。突如として軍を割り、兵をいきなり反転させ、誰も考えつかないような地点へと彼らを唐突に動かし、そして徹底的に勝った。

 宇佐美にも、宇佐美から事情を知らされた直江大和にも、なぜ景虎にそのような能力が備わっているのか説明することはできなかった。むろん、己こそ越後に正義と秩序をもたらす毘沙門天の化身である、そうであらねばならないと信じて無我夢中で戦っているにすぎない景虎自身にも。

 おそらくは感覚が尋常ではなく鋭敏なのだろう、常識をはるかに超越した戦の天才と言うしかない、と二人は結論した。越後全土に、「長尾景虎は神将である」という恐れと憧れと戸惑いとがないまぜになった声がわき起こった。はたしてそれが景虎にとって喜ばしいことなのかどうかはともかく――。

 三度目の戦で景虎の希有な天才ぶりに気づいた宇佐美は、滅多めつたなことでは

景虎が閃きのままに繰り出す戦術に口を挟まないことにした。

 だが、今回の戦だけは少々事情が違った。

 黒田秀忠が、あの「越後最強」長尾政景と合流して野戦を挑んできたからだった。しかも政景は景虎の姉・綾の夫である。つい先日までは、兄・晴景の宰相を務めていたはずだ。日頃は後方で兵站へいたんを担当している直江大和を戦場へ連れ出したのも、相手が厄介な長尾政景だったからだ。これは政景が何度もやらかしてきたいつもの謀反劇ではない、もっと複雑ななにかだと察知したゆえに、直江を前線へと呼び出したのだ。

「宇佐美。直江。政景たちが堂々の野戦を挑んでくれたのはありがたいな。黒滝城へ籠城されていれば面倒だった。この戦、一日で片をつけよう」

 景虎は生まれつき食が細く、また体質的に食べられない食材が多い。戦場では、食べ物をほとんど口にしない代わりに、酒を飲んでいた。

「まだガキのくせに酒はよせって景虎。若い頃からの飲み過ぎは身体を壊すぜ」

「小うるさいぞ宇佐美。わたしはいくら飲んでも酔わないし、己を失ったりはしない。それにわたしはもう子供ではない。元服している」

「いや違うな。お前は、まだ乙女になってねえじゃねえか」

「うん? と、いうと?」

 意味がわからない、と景虎がきょとんとしている様を見て、宇佐美は焦った。

「……ああ、いや。そいつはオレの口からは気恥ずかしくて言いだせないな。直江、鉄面皮のてめえが説明しろ」

「嫌ですよ。宇佐美さま、あなたはわたくしをなんだと思っているのですか。いくらお嬢さまに厳しい言葉を伝える嫌われ役でも、その筋の話はわたくしが口を入れるべきではありません。だいいちお嬢さまは婿を取るおつもりがないというのに」

「……いやいやいや直江。そうじゃねえんだ。景虎はな、どうやらまだ来てないんだよ」

「……えっ? なぜわかるんです?」

「長いつきあいだ、見てりゃわかる」

「お嬢さまは同年代の乙女たちと比べて身体が小さいですが、それにしても少々遅すぎませんか?」

「そうなんだ。もしかしてずっとこのままなのだろうかと心配でな」

「男のあなたが心配する筋合いの話でもないでしょうに」

「オレは景虎に関しては心配性なんだよ!」

 なにをこそこそ男同士で頬を寄せ合って密談しているのだ気持ち悪い、と景虎がさかずきの酒を飲み干しながら眉をひそめた。

「敵陣を見るに、左翼に黒田秀忠、右翼に長尾政景が布陣しているな。左翼側の守りに大きな隙がある。相手が政景単独ならば手こずっただろうが、この急ごしらえの混成軍が相手なら勝てる。宇佐美、お前は兵三百を率いて左翼の黒田勢を叩け。わたしは旗本衆を率いて右翼の政景の陣へと突進する」

「おい、景虎? あいつとお前が直接激突するのか? かえって政景をやる気にさせるんじゃねえのか? あの男にとってお前は越後一国よりも重要な戦利品だぞ」

「気持ちの悪いことを言うな宇佐美! いいか。政景の堅陣をわたしが必ず崩す。機を見てお前も反転して政景を挟撃しろ。政景勢を崩せば黒田勢など勝手に逃げ散る」

「待てよ景虎。政景は今までの敵とは違うんだぜ。戦場でお前を見れば、お前の可憐さに恐れ入るどころかかえって頭に血を上らせる。直江、なにか適当な言葉で景虎を止めろ!」

「城内での騒ぎならいくらでも諫言かんげんできますが、ひとたび戦場に出られたお嬢さまは、誰にも止められませんよ」

「おいおい。なんのためにお前を連れてきたと思ってるんだこの野郎~!」

「やはり、宇佐美よりも直江のほうが利口だな。その分、いけすかなくてたちが悪い男だが」

 景虎は兎のように赤い瞳をきらめかせながら、うなずいていた。

「よいか、この戦に決して時間をかけるな。政景に二度とつまらぬ謀反など考えさせないほどに勝利し、やつを打ちのめす。わたしがあの男よりも強い武将であると知らしめ、武将をやめさせるなどという企みはきっぱりあきらめさせる。ほんとうにあの男が兄上に妙な策を次々と吹き込んでいるのだとしたら、許しがたいことだ。現に春日山城が襲われ、兄上の守護代としての権威は大いに落ち、一族の者にも犠牲が出ているのだぞ。兄上は心のお優しい方だから、このわたしをだしに使われて狡猾な政景に騙されているのだ。法螺貝ほらがいを吹かせろ、直江大和」

 今こそ政景を殺す好機ですがと直江大和が笑い、「戦って勝てばそれでよい。戦いが終われば許す。それが毘沙門天の義の戦だ」と景虎はつぶやいていた。

「わたしに、姉上の夫を殺せなどと二度と勧めるな、直江大和」


 馬上の人となった景虎は、迫り来る死の恐怖と、戦場で敵味方が互いの命を奪い合わねばならないという悲しみとを感じながら、目の前に展開する越後蒲原かんばらの平原を見下ろした。敵将を許すとは誓えども、戦闘のさなかに大勢の兵が傷つき死ぬのだ。

 青空の輝きが、まぶしかった。

 まぶたを完全に開いてはいられなかった。

 吹き上がってくる風を、全身に感じた。

「兄上。申し訳ありません、わたしは――景虎は生涯を姫武将として生きるとすでに定めました。父上の悪行を償うために、わたしは毘沙門天によって生かされているのです。これより、長尾政景を撃ち破ります。どうか再び長尾政景などとくみさないでください」

 義の戦。正義を越後にもたらすための戦。ほんとうに可能なのか。言葉遊びによって、殺戮さつりくと暴力を肯定しようとしているだけではないのか。初陣に出て以来、戦場を経験した景虎は何度も自分が掲げる義を疑い、惑い続けている。自らの手で敵を斬り殺した経験はまだないが、それでもどうしようも

なく反撃しなければならない危地に何度も立たされた。そのような時には、やむを得ず刀をふるい、相手に手傷を負わせた。

 ほんとうに、義の戦は可能なのだろうか。わたしがやっていることは徒労ではないのだろうか。あるいは、父上と同じ罪を重ねているだけではないのだろうか。

 罪悪感に怯えながら馬を進め、自ら最前線へと駆けはじめた景虎の耳に、あの忌まわしい男の声が響いてきた。

「景虎! 戦の天才などと呼ばれているようだが、しょせん貴様は井の中のかわずよ! ほんとうの戦というものをこの俺が教えてやる! 問答無用の武の力の前には、貴様が誇る天性の勘など無力! まして、敵を殺せぬ臆病者に俺は止められんぞ!」

 遮二無二しやにむに突進してくる武者の姿が見えた。しかしその顔までは、よく見えなかった。この青空の下では、ぼんやりとした輪郭しか見えない。

 が、景虎を無性に苛立たせるこの傲慢ごうまんな声は、長尾政景のものだった。

 速い。馬も武者も巨体なのに、速い。

 気がついた時には、黒馬にまたがった長尾政景が長大な斬馬刀ざんばとうを軽々と掲げて、目の前に迫ってきていた。

 かの斬馬刀は、父である長尾為景が若い頃に使っていたものだという。

 今の越後で、この太刀を戦場にて用いることができる武者は、長尾政景しかいないのだという。

「来たな奸物かんぶつめ!」

「景虎さまをお守りせよ!」

「若造どもが! この俺を止められるものがあるか!」

 次々と政景へ突進していく小姓たちが、容赦なく首を打たれ腕をもがれていく姿が見えた。

「この雑魚どもがあああ! 消え失せろっ!」

 今の政景は、もはや人ではない。まるで鬼か阿修羅だった。

 景虎はすでに何度か、戦場を駆けてきた。実戦を経験してきた。命の危険

を感じた場面もあった。それでも、こうして生きている。戦場に立つと不思議と、敵味方の軍勢の「動き」が感じられる。越後の大地から吹き上がってくる風が、戦場を駆け巡る人々の命のきらめきのようなものを景虎に教えてくれるのだ。どこかできらめきが輝けば、それは命のやりとりに燃え上がっているということである。きらめきが消えれば、誰かが死んだということである。景虎はその無数のきらめきの明滅を風に感じながら、自軍を進退させればそれで勝てた。だから、決して負けなかった。理屈では説明できない。毘沙門天の力、としか言いようがなかった。

 しかし戦場に立った政景は、景虎にとってはまるで想像外の生き物だった。その巨体から禍々まがまがしい野望の黒い火柱を放っているかのように、景虎は感じた。

 わたしの細腕でこの怪物のような男を打ち倒せるのだろうか、と景虎は恐れた。だが、越後最強の武人・政景を戦場で、「武」を用いて倒さなければ、自分は到底毘沙門天の化身になれるはずもない。

「景虎! 貴様はただの小娘だ! この俺に勝てるか!? 毘沙門天ごっこはここで終わりだぞ! 夢から、覚まさせてやろう!」

 政景は躊躇ちゆうちよなく殺戮を繰り広げる。ただ一人で、政景が率いる近衛衆を皆殺しにできる、それほどの怪物だった。

 景虎の顔に浮かんだ感情は、恐怖ではなく、憤怒。

 わたしが正義なのか、わたしが毘沙門天なのか、なにも確信はない。

 しかしこれだけはたしかだ。目の前で今、年端もいかない侍たちの血を吸っている長尾政景は、悪だ、と!

 この男は、殺戮を楽しんでいる! 弱者を虐げその命を奪うことに、喜びを感じている!

 口先で「不戦」を唱えても、「義」を唱えても、「和」を訴えても、この男を止められはしない。

 誰かが、悪をちゆうさなければならない。誰かが、止めなければならない。

「……うわああああ!」

 目に涙を浮かべながら、腰の太刀を、抜いていた。

「やめろ! 長尾政景! 貴様の相手はわたしだ!」

 長尾政景の懐へと、突進した。

 己の命のことなど、忘れていた。

 政景は、景虎が自分に立ち向かってくるなどとは、予想もしていなかったらしい。

「……景虎。貴様……!?」

 景虎と、視線が合った。

 瞬間、政景の身体は馬上で硬直していた。

 景虎は(怒りにまかせて心の中で「不殺」の誓いを破ったわたしは今、この男に斬られて死ぬのだ)と覚悟した。


 だがこの時、政景は振りあげた斬馬刀を、景虎の頭蓋へ叩き込めなかった。

 不覚にも隙を奪われた。反撃せねばられる。しかしそれでは景虎を殺してしまうことになる。だが、政景はそのような理由で景虎殺しを躊躇したのではなかった。景虎の鋭い突きを前に、なにかを考えている時間は、政景にはなかった。ただ政景は、涙にれ憤怒の感情を爆発させている景虎の赤い瞳に、この時、魅入られていた――。

(同じだ。この小娘が春日山城に生まれてきた時に感じたあの途方もない衝撃と、同じだ……いや、それ以上だ。この娘は、怒りに燃えれば燃えるほど、いよいよ美しい)

 気づけば、景虎が突き入れた刀が、政景の脇腹に刺さっていた。

 胴巻きを割られたらしい。肉が裂ける痛みが全身を駆けていた。

 戦場で敵の総大将に見とれて刺される武士など、聞いたこともない、と政景は歯ぎしりしていた。

「……俺としたことが……不覚に、不覚を、重ねた」


 景虎はしかし、「わたしの太刀が政景に当たる」と気づいた瞬間に手を緩

め、かろうじて刀を逸らしていた。急所を避けていた。

「……あ……あ……あ」

 政景がふるう野蛮な暴力を目の当たりにして途方もなく激怒し、己を忘れていた。気がつけば姉上の婿の身体に、刀を突き立ててしまった。殺そうとしていた。殺すところだった。我に返った景虎は、震えていた。

 それでも政景を殺さずに済んだのは、毘沙門天の加護か。

 なぜ自分が勝てたのかまるでわからないままに、景虎は政景の脇腹に突き立っていた刀を引き戻し、「長尾政景! 貴様の悪心は今、毘沙門天の太刀が断った! 降伏して兄上のもとへ戻れ!」とりんとした声で叫んでいた。言おうとしていた言葉とは違った。「ごめんなさい」と泣きながら謝ろうとしていたのに、まるで違う言葉を景虎は叫んでいた。もしかして毘沙門天自身の声なのか、と景虎は思った。

「……貴様、この俺に慈悲を……俺を、侮辱したな……許さん……」

 振り絞るような声でうめきながら、政景の身体は、馬上から落ちた。

 長尾政景殿、討ち死に! 景虎さまご自身が一騎打ちにて討ち取ったり!という声がどこかからか響いてきて、そして長尾政景軍は一気に崩れた。

 長尾政景討たれる! と聞いて恐慌を来した黒田秀忠軍は、文字通り四散した。もともと、政景の後ろ盾あってこそ謀反に踏み切ったのだ。為景没後、文字通り越後最強となったあの政景がまさかか細い姫武将に討たれるとは。

「長尾景虎さまは、軍神だ!」

「まことの毘沙門天の化身だ!」

「俺は見た! 政景さまと刀を交えた時、景虎さまは声も人相も一変していた! 悪を討つために、毘沙門天が乗り移られておられたのだ!」

 あり得ないことが起きていた。

 戦場で戦っていた敵味方の兵士がみな、目の前の合戦を忘れるほどに騒然となった。

 この日この戦から、越後最強武将の座は、長尾政景から景虎へと移ることとなった。しかも景虎は、武士として、人間としての武辺の力を超えた力、

まさしく神の力の持ち主であった。そうでなければ、なぜ幼い少女があの野獣を倒すことなどできるだろうか?

 黒田軍を追い散らした宇佐美定満が、「お前まさか政景と一騎打ちしたのか? 無茶苦茶だ!」と慌てながら軍を率いて駆けつけてきた。

「追い討ちはするな。無益に兵を殺すな。降伏する者は受け入れよ。宇佐美! 長尾政景の怪我けがの手当を! 急所は突いていない、政景は死んではいない!」

「景虎。いったいどうやって政景を斬った!? お前の武術の腕前は姫武将にしては上等だが、政景は論外の化け物だぞ。あの長尾為景と一騎打ちで張り合えた唯一の男だ。俺にはもう、なにがなんだかわけがわからねえ!」

「宇佐美。確信したぞ。戦場にひとたび出たわたしは、毘沙門天の化身になるのだ。生身のわたしには勇気も武辺もなにもないが、悪を誅する戦場では、毘沙門天の力を与えられるらしい」

「いや、違う。そうじゃない。なにごとにもきちんとした理屈があるんだ、景虎。理屈がわからないことをすべて毘沙門天で説明するのは、なにか違うぜ」

「ならば説明しろ。わからぬうちは、毘沙門天の加護、の一言でわたしは片付ける」

「……説明、か……これはもう軍学とは関係がねえ。そいつは、オレよりも直江の領分だな」

 宇佐美定満はしかし、(いつまでもこんな神がかりの奇跡が続くはずがねえ。しかも、これほどの恥辱を与えておきながら政景を生かすだと? いくらなんでも甘すぎるぜ! このままでは景虎は遅かれ早かれ討たれちまう! なんとかして対策を練らねえと……)と気が気でなかった。

(天才肌の景虎には軍学を教えない代わりに槍や刀で敵兵と戦うすべばかりを教えてきたが、景虎は殺生を好まない。「殺さず」の誓いがある分、不利だ。今日は毘沙門天の加護としか言いようのない不可思議な奇跡が起きて生き延びたが、護身のための術を学ばせねえと駄目だ)

 それも、越後の男武者どもが用いない術を。やつらが知らない術を。種が知れていない術を。だが、そのようなものがあるのだろうか? 見当たらないというのならば、探さなければならなかった。宇佐美定満はこの純粋すぎる少女に「義」の精神を教え込んだ者として、姫武将という厳しい生き方を勧めた者として、最後まで筋を通し責任を取り続けねばならない、と改めて誓っていた――。


 黒田秀忠の乱は、この日のただ一戦で鎮圧された。

 今や越後の希望の星となった景虎は、黒滝城へと逃げ込んだ黒田秀忠に追い討ちをかけることなく、自らの居城・栃尾城へと凱旋がいせんした。そして、宇佐美定満・直江大和とともに、降伏した長尾政景と対面した――。

 長尾政景の腹部の怪我は予想外に軽かった。だが、幼い姫武将である景虎に敗れた政景は、怒りと屈辱に目を充血させていた。

 政景は戦場で景虎を討てるはずだった。しかしそれを、頭ではなく身体がためらった。そんな己の甘さに激怒していたのかもしれなかった。

「景虎。貴様、なぜ俺を殺さなかった。愚かな。このたびの戦に敗れたのは、黒田秀忠がふがいなかったためにすぎん。俺は、またそむくぞ」

 政景を「獅子身中の虫」と常々嫌悪している直江大和が「切腹させましょう」と景虎に勧め、宇佐美定満が「姉婿とはいえ、謀反を生きがいにしているような男だ。なんのとがめもなく宰相の地位に戻すわけにもいかんだろう」と罰することを求めたが、景虎は「姉上の夫を殺すことはできない」と繰り返した。

 意識を取り戻して以来荒れ狂っていた長尾政景は、そんな景虎の赤い瞳に睨まれているうちに、次第に気圧けおされていった。

 日の光が入らない室内では、景虎は行人包を被かぶらずにその銀色に輝く長髪を肩へと垂らしながら床几しようぎに腰掛けるのが常だった。

 今や景虎は美しい少女に育っていた。が、それは人としての美しさではなかった。生まれてきた時、実父に「兎の赤子」と忌み嫌われたはずのあの銀

髪と赤い瞳と真っ白い肌を持った少女のこの世の人とは思えない神秘的な美は、すでに人の領分を越えてしまっていた。

(美しい。直江大和さえいなければ、俺は綾ではなくこの景虎をめとるはずだったのだ。俺にとって景虎は、越後一国よりも重い。ひと思いに殺せるはずがない)

 政景は、成長した景虎が放つ侵しがたいなにかに、魅入られていた。

 だが景虎にとって、政景は姉婿だった。

 政景が、妻の妹である自分を「女」として意識していることが、許しがたかった。

 それは景虎にとっては、兄に対する謀反よりもさらに許しがたく耐えがたい不義だった。故に政景を嫌悪した。

 綾の夫であるゆえに許しはした。だが、宇佐美定満が勧めるように、なんらかの罰は与えなければならないだろう。潔癖な景虎には、そのあたりの政治的感覚というものがなかった。生まれつき欠如しているといっていい。

「長尾政景。姉上の手前、お前を許す。しかしわたしはお前が嫌いだ。お前には義も理も志もない。ただあるのは獣じみた欲望だけだ。黒田秀忠を煽って春日山城を襲わせたのは、お前なのだろう。お前こそ今回の謀反騒動の首謀者だ。だとすれば、兄上のもとで再び宰相をやらせるわけにはいかなくなる」

「フン。貴様よりも俺のほうが長尾為景の血を濃く引いているということにすぎん。それに、俺が黒幕だという証拠があるのか?」

「証拠はいずれ手に入る。黒田秀忠を問いただせば済むことだ。すでに黒滝城へ使者を送っている。あの者は大罪人だが、正直にすべてを語れば、降伏を認めるという条件で黒田秀忠を許す」

「それは甘いぞ景虎。黒田秀忠は、敵をすべて許すなどと公言している貴様の毘沙門天ごっこなど信じてはいない。戦って敗れれば切腹あるのみ、死あるのみと貴様に怯えていた。だからこそ貴様と戦ったのだ。貴様などいつでも殺せるという自負を抱いている俺とはまるで違う理由で立ったのだ。使者

など送っても無駄よ」

「それもすべて、お前が黒田秀忠に吹き込んだのだろう。越後一の剛勇を誇りながら、陰でこそこそと策を弄する卑劣な男め。お前は女であるわたしよりもよほど女々しいぞ、長尾政景」

「くだらんな、景虎! 俺は武人だ! 勝つためならばどんな手でも打つ! 策を弄さず武辺だけで越後を奪えるほど、戦国の世は甘くない。義だの慈悲だのとほざいているお前には、なにごとをなすこともできんぞ。たとえ神がかりの軍才を持っていたとしてもな!」

「……戦いかつ許す、それが毘沙門天の戦いだ」

「だが謀反人をひとたび許せば、二度でも三度でも叛かれるぞ。それが越後における戦いの歴史だ」

「わたしは、敵を五度でも十度でも許す!」

「フン。口ではなんとでも言える。この俺が再び叛いても許せるか? 貴様がどれほど神がかりの強さを見せようが、慈悲をかけようが、俺は絶対に生き方を変えんぞ! 死ぬまでな! しょせん俺の身体に流れる血は、裏切り者の分家の血筋よ! お上品な貴様とは違う!」

 景虎は怒りに震え唇をみながら、声を振り絞った。

「……それでも、許す」

 ただし黒田秀忠がお前を訴えれば、命は奪わずともそれなりの罰は与える、と付け加えていた。

「後悔するぞ、景虎。貴様は、俺を殺す機会を二度も捨てた。直江大和が言うように、俺は越後に巣くう獅子身中の虫だ。裏切るつもりがなくとも、周囲の連中が俺にささやくんだ。長尾政景はしょせん裏切り者の分家の血筋だと。いちど裏切った上田長尾家は、いずれ必ずまた裏切るとな。俺は、幼い頃からそのようなさげすみの視線にさらされてきた」

「……お前は、兄上の次の守護代ではないか。どこに兄上に謀反する意味がある」

「くたばった為景が残した書状に、力などない! しょせん越後を制するも

のは武の力よ! 武の力ある者こそが守護代となれるのだ。そして今、貴様が現れた。貴様はただ義とやらのために戦を繰り返しているつもりだろうが、そこにはべっている直江と宇佐美は、貴様を次の守護代にするために動いている。道理は通っている。分家の俺と本家の貴様では、血筋が違うからな! またしても、貴様が俺の前に立ちはだかったのだ。貴様がいる限り、俺は野望を遂げられん。越後最強の武人の名を、必ず貴様から取り戻す!」

 宇佐美定満が、口を挟んだ。政景と景虎はどこまでも相容あいいれない。このままでは、切りがなくなる。

「春日山城を襲わせた際に、本家である春日山長尾家の男たちを殺させたのは失敗だったな、長尾政景。これで本家の人間のうち、守護代を相続できる資格を持つ者はずいぶんと減った。晴景が死ねば、次の守護代は為景の旦那が生前に定めたお前か、あるいは――旦那の直系の子である景虎しかいない。お前の余計な策謀のおかげで、候補は二人に絞られたということだぜ」

「フン……してやったりといったところか、宇佐美定満?」

「冗談じゃねえ。俺は、長尾政景、お前の阿

あほさ加減を笑いたいだけさ」

「俺のどこが愚かだというのだ?」

「俺にはお前が、景虎に越後守護代の職を与えたくて必死で奔走しているようにしか見えねえ。じっとしていりゃあお前が次の守護代だというのに、わざわざ自ら謀反人になって、しかも他の候補者たちを始末させ、てめえは勝てるはずの景虎に一騎打ちでむざむざ敗れて景虎を『越後の軍神』に仕立て上げちまった。特に、一騎打ちでてめえが景虎に不覚を取るはずがない。お前がなにを考えているのか、わけがわからねえ」

 政景は、その意外な宇佐美の言葉にためらい、そして押し黙った。

 言われてみれば、俺は景虎が有利になるようにいちいち行動しているかのように見える……しかしそれは結果がそうなったというだけで、俺は俺自身の野望のために策を弄してきたにすぎない!

 反論したかったが、景虎が「それはどういうことだ宇佐美?」と無防備な表情を浮かべている横顔を見てしまうと、なにも言うべきではない場面だと

気づいた。

 そこへ、黒滝城から追い返された使者が入ってきた。

「黒田秀忠、心変わり! ひとたび降伏すると言いながら、前言を覆して再び籠城の準備をはじめました! これほどの罪を犯して今更許されるはずもなし、かくなる上は景虎さまと決戦に及ぶと。城を枕に一族ことごとく討ち死にするお覚悟です」

「長尾政景。お前が黒田秀忠を説得して開城させろ。兄上に返り忠を見せろ。それで、宰相の座に復帰することを許す。大軍を率いて黒滝城を包囲することは認めない。むろん、黒田秀忠がお前の悪事を言い立て、お前が黒幕だと訴えれば、公平に裁く」

 この狡猾な男にそのような重大な任務を与えてはなりません、わたくしが参りますと直江大和が血相を変えて立ち上がったが、景虎は「政景にはなんらかの罰は与えねばならない。これで帳消しにしてやる」とうなずき、そして酒を舐めた。

「直江大和。この機会に俺を殺すつもりだったのだろうが、残念だったな。景虎はお前が想像している以上に甘いようだ」

「長尾政景さま。この謀反騒動には、春日山城の晴景さまご自身が参与されているのではありませんか?」

「なに?」

「晴景さまは、お嬢さまを戦場に立たせたくない一心で、どうにか姫武将をやめさせようと心を砕かれておられます。しかし誰もお嬢さまに勝てない。そこで、あなた自身が戦わねばならなくなった――晴景さまとあなたの間では、はじめから裏で話がついているということです」

「証拠などないな。いいだろう。黒滝城へ乗り込んで、黒田秀忠を帰参させてくる。断れば、直江大和が俺を処断せよと騒ぎ立てるだろうしな……しかし直江大和。宇佐美とは違い、お前には裏切り者の血が流れている。お前は命惜しさに主君を裏切り、長尾為景に寝返った裏切り者の息子だ。どれほど聖人君主ぶろうが、お前はこの俺と同類よ」

「なにを言おうがわたくしの心を言葉で傷つけることはできませんよ、政景さま」

「知っているぞ。お前の父は、為景に自分の妻を与えた。妻の身体と引き替えに、為景に命乞いしたのだ。それが直江家の男の本性よ」

「……黒滝城へただちに向かいなさい。しくじれば、お嬢さまがどれほどかばおうとも、切腹を命じます」

 直江、と景虎が思わず声をあげた。直江大和は、なにごともなかったかのように静かに微笑ほほえみ、政景の言葉に動揺している景虎をその視線だけで落ち着かせていた――。

 しかし、直江大和はこの時はじめて、長尾政景に裏をかかれたのだ。

 やはり、動揺していたのだ。

 直江大和には屈辱的な秘密の過去があった。景虎にさえ打ち明けていない過去だ。かつて直江大和の父は、主君を裏切って長尾為景陣営に走り、為景に命乞いをした。それ故に直江家は、最後まで忠義を貫いて為景と戦い続けた宇佐美家のように一族皆殺しにされることなく存命することができた。幼かった直江大和は、為景よりもむしろ為景の武威に屈して卑屈にも生き残りをはかった父親を嫌悪した。

 そこまでは景虎に語ったことがある。しかし、ほんとうはまだその先があった。大和の父は、自らの助命と引き替えに為景に妻を献上したのだ。大和の母は、越後屈指の美人として有名な女性だったのだ。それ故に、為景は大和の母を所望した――大和は為景の欲のために、いやそれ以上に父の卑屈のために母親から引き離されたのだ。

 今はすでに大和の父も母もこの世にはなく、あの耐えがたい屈辱はすべて遠い過去の記憶となって消え去っていくはずだった。

 そんな誰にも知られたくない屈辱の記憶を呼び起こされて、しかも景虎に知らされた。父・為景の数々の暴虐を罪と受け止めている潔癖な景虎は「わたしの父はそのような悪行を」と傷つくに違いなかった。景虎もまた、政略結婚によって姉・綾を政景に奪われている。しかもその策を立てて実行した

のは他ならぬ直江大和だった。保身や出世のためではなく、生涯の主君と定めた景虎を政景から守るためのやむを得ない措置だったとはいえ、直江大和は憎んできた自分の父親と同じことをやったのだ。だから、景虎に自分の過去を知られたくはなかったのだ。感受性が強すぎる景虎は深い罪悪感を抱くだろう。そしてきっと「直江もまた、お父上が犯した罪から自由にはなれなかったのか。ではやはり、わたしもいずれ父上と同じことを……」と悲しみ傷つくだろう。

 それ故に直江大和はこの時、動揺した。思わず、出立しろ、と政景に向って口走ってしまったのだ。

 もっと先の先まで隠しておきたかった切り札だったが、切ってしまった。だがこれで直江大和との化かし合いは一勝一敗だ、と長尾政景は立ち上がりながら笑っていた。

 宇佐美定満は、景虎にこの件についてこれ以上考えさせてはならないと慌てた。

「ほら見ろ景虎。うさちゃんの抱きぐるみだぜ。この新作は、お尻から手を突っ込んで口をぱくぱくと開閉できるんだ!」

 宇佐美はけんめいに話を逸らそうと新作について大いに語った。

「お尻から手を突っ込むとはなにごとだ、下品な。乙女に対して手渡すようなものなのかこれは」

 景虎は不機嫌になって、無理矢理手渡された兎の抱きぐるみを宇佐美の顔めがけて放り投げていた。

「……」

 冷や汗を流しながら沈黙していた直江大和は、宇佐美に救われた気分になっていた。


 しかし、政景はただ直江大和に腹いせの意趣返しをしたわけではなかった。

 本来の目的は、別にあった。

 この日の夜。

 長尾政景は、黒滝城にわずかな手勢だけで乗り込み、黒田秀忠とその一族をことごとく斬り捨てて黒滝城に火を掛けた。

 黒田秀忠が降伏を認めず、政景一党を討ち果たそうとしたためにやむを得ず戦った、と政景は言い張った。そして、これは景虎にとっては許しがたい悪事だったが、越後の武士たちの常識では見事なまでの「返り忠」だった。

 政景は宰相の座に返り咲き、政景が春日山襲撃騒動の黒幕だったという証拠は消えた。

 黒滝城へと急行した景虎が、炎上する黒滝城を見上げながら「政景め! どこまでもこのわたしに逆らい続けるつもりか! あの外道め! 姉上の夫でなければ、あの男に限っては慈悲など忘れて生かしておかぬところだ……!」と激高した時にはもう、すべては終わっていたのだ。

 政景は現場から逐電ちくでんしていた。黒田秀忠の首を抱え、「返り忠を主に報告する」と宣言して晴信の居城・春日山城へと向かったという。

 直江大和が、「やられました。あの男の言葉に惑わされてこの事態を予測し得なかったわたくしの責任です」とうなだれていた。

 宇佐美定満は(感情らしい感情を持たない男だと思っていたが、この男がこれほど動揺するとは。為景の旦那に母親を奪われたことがよほど心の傷になっているらしい)とはじめて直江大和に憐憫れんびんの情を抱いた。宇佐美定満は為景に家族の命を奪われたが、直江大和は為景に母を「寝取られた」のだ。

 宇佐美定満は思った。失ったものが大きかったのは俺のほうだが、直江のほうが俺よりもはるかにつらかったのかもしれねえ。母親が生きて為景のもとに捕らわれていたんじゃなあ。それも人質ではなく愛妾あいしようとして……。

 しかも、直江が屈辱を隠しながら為景に小姓として仕え、疑われないように地道に為景に忠誠を尽くして出世し、ようやく為景から母親を奪い返せる立場になったその時、彼の母親はすでに病で死んでいたらしい。

 直江大和が決して女性を近づけない禁欲的な生活を自らに課している理由も、自らの主君として姫である景虎を選んだ理由も、その景虎に出家を勧めた理由も、おぼろげながらにわかってきた気がした。

「まあこういうこともあるさ直江。気にするな」

「あなたはほんとうに適当な人ですね。われわれが次に政景に裏をかかれれば、お嬢さまを守りきれないかもしれないのですよ? それだけは許されません! お嬢さまのために自ら身代わりになってくださった綾さまに申し訳がたちません……!」

「まあ、まあ。落ち着けよ。今回は景虎に代わって、政景が面倒な謀反人を片付けてくれたと考えておけ。どのみち黒田秀忠は捨て置いてはならない男だった。いくら景虎が義将とはいえ、春日山城を襲撃して主筋を手に掛けたんだからよう。捨て置けば、越後の乱はいよいよ収拾がつかなくなるところだったぜ」

 景虎が「政景は黒田の一族の者まで殺し尽くしたのだぞ。宇佐美。お前も、わが父に一族を殺し尽くされた男ではないか」と宇佐美を叱りつけた。

「主君に忠義を尽くして滅びるのと、謀反して滅びるのとでは意味が違うさ。そういう意味では、黒田家の一族のほうが宇佐美一族よりもはるかに哀れだ。一族の長が秀忠だったことが、黒田家の不幸だったということだぜ」

「ならば、もっと悔しそうにしろ! 怒れ! 宇佐美、お前はひょうひょうとしすぎているぞ! 人の命をなんだと思っている!」

「悪い悪い。怒る怒らない以前に、政景の野郎の容赦なさを目の当たりにしてあっけにとられちまったんだ。どこまでも悪党だぜ、あいつは」

「宇佐美~。お前はまったく、緊張感がないな!」

「いちいち景虎と直江が深刻ぶるもんでな。一人はオレみたいな適当な男が必要だろうさ、栃尾城には。三人そろって眉をひそめていたら、お通夜じゃねえかよ」

「黙れうるさい」

 青竹でぴしりと景虎に頭を殴られた宇佐美定満は苦笑しながら、「長尾政景を許し続ける限り今後もこういう悲劇は起こるぞ、景虎。いくら謀反人とはいえ一族の殲滅せんめつなど、お前は認めちゃならねえ。いずれは直江が言うように、政景を殺すしか道はなくなるだろうな」と燃える黒滝城を見上げていた。

「それを言うな、宇佐美。政景を殺せば、この景虎の負けだ」

「だが今日こそはわかったろう? 義の戦を遂行し、敵を許し悪を善となす。お前が目指す生き方は途方もなく遠い道のりだぞ、景虎」

「しかしそう言う宇佐美さまも、内心は政景の非道にはらわたが煮えくりかえっているのでしょう? お嬢さまと出会っていなければ、あなたは今頃逆上して『政景の首を獲る』と叫んでいるはずです」

「いちいち混ぜっ返すなよ直江。オレまでがここで真顔になったらあまりにも景虎がきついだろうが。空気をなごませようとしているんだよ。人にはそれぞれ、役割ってものがあるんだぜ。てめえが『いけすかない嫌な野郎』の役を買って出ているのと同じさ」

「ふふ。お互いに、長尾政景には心の古傷を暴き立てられてまったく不愉快ですね。ですが、それほどわれらはあの男の恨みを買っているということです。なにしろ、われらはあの男があれほど執着しているお嬢さまを奪い取ったのですから」

「はあ? 奪い取ってねえよ? われらが主君として、押し頂いているだけだ」

「自分以外の人間に仕えることを知らないあの男にとっては、同じことです。しかもあれは、お嬢さまに異性として執着しています」

「どうやらそうらしいな。昔からそういうところはあったが、景虎が成長した今ではもう病的なほどに執着している。嫁を迎えれば女というものを多少は知って、落ち着くかと思ったが……」

 嫌な話をするな宇佐美、とまた景虎が青竹で宇佐美の頭を叩いた。

「宇佐美さま。悪党は悪党なりに使いようはありますが、さしもの毘沙門天でも長尾政景を心服させることは不可能かもしれませんね。あれは必ずや、いずれお嬢さまを絶体絶命の危地に追い込む男です。絶対に、あの男にだけはお嬢さまを汚させてはなりません」

「その時は直江、お前が独断であいつを暗殺して腹でも切れ」

「いえ。わたくしがいなければお嬢さまは領地を治められません。やるなら

ば、軍師でありながら数日で弟子に乗り越えられてしまって釣りしかやることがない宇佐美さまがどうぞ」

「抜かせ。お互い過去に傷を持つ者同士、多少は同情していたのによう。やっぱ、てめえはかわいくねえなあ! 政景とはまた別の方向にひねくれやがってよぉ」

「男にかわいいと言われる趣味はわたくしにはありませんのでね」

 許せないのは長尾政景だ。あの男の悪心をはらうには並大抵のことでは無理だ。政景とは戦場で決着をつけねばならない。なぜかこたびの合戦ではやつはわたしに不覚を取ったが、あれはなにかの間違いに等しい。やつはだから、腹の底ではわたしに負けたとは思っていない。次こそは完璧に叩きのめす、二度とこのような殺戮は繰り返させぬ、と景虎は決意していた。

「直江大和。知らぬこととはいえ、済まなかった。わが父の非道をびる。もちろん、宇佐美にも……」

「愚かな。わたくしたちはお嬢さまに仕えるしもべですよ。わたくしも宇佐美さまも、自分の意志であなたを主と選んだのです。あなたとお父上とは別の人間ですから。二度とあなたのお父上の過去などはお気になさらぬよう。政景の口にした言葉など、聞き流してしまいなさいお嬢さま」

「……直江大和」

「ですが今は、あの野獣を泳がせておいたほうが得策かもしれません。あれは宇佐美さまがおっしゃられたように、自分でも意識しないままにお嬢さまを越後守護代の座につけるために暴れ回っているも同然ですから」

「くどい。わたしは兄上から守護代の座を奪うつもりなどないぞ。そのような不義を働けば、わたしは武田晴信と同じになってしまうではないか」

「お嬢さま。あの政景が守護代となれば、為景さまと同じ罪を重ねます。悲劇が繰り返されます。越後に義をもたらすためには、お嬢さまご自身が政景の上に立たねばなりません。すなわち、晴景さまの次代の越後守護代に」

「ああ。今や越後中の国人たちが、景虎、お前を次の守護代にと推している。柿崎景家をはじめ、今すぐにお前に守護代になってほしい、と願う者も大勢いる。なにしろお前は長尾政景に勝っちまったんだ。もう、政景は国人どもの支持を以前のようには得られない。義将として越後に義と安寧をもたらすというお前の志を遂げる好機だ。オレたちはもっと時間がかかるかと思っていたが、期せずして天の時を与えられたと言えるんだぜ。いや、お前自身が実力で天の時を掴み取ったというべきかな」

 宇佐美定満がうなずいた。

 景虎は(またか。近頃は多くの者がわたしに兄上から守護代の座を奪えと勧めてくる。このままでは兄上に誤解されてしまう。かといって、兄上に反旗を翻す謀反人を捨て置いていいはずもない。兄上は病身だからじきじきに戦場に出られないし、わたしが代わりに戦うしかない。だがわたしが戦って勝てば、兄上はさらに侮られる。困ったものだ……)とため息をついた。

「宇佐美、直江。政景の非道を押さえつけるためにはたしかに武は必要だ。あの政景が守護代になれば越後は父上の時代よりも乱れるだろう、わたしもそれは避けたい。避けなければならない。しかし兄上はご病気がちだが、まだお若い。いずれ新たなお子も生まれるはずだ。わたしに守護代になれなどと、二度と口にするな」

「お前らしいが、天の時を手放すと痛いしっぺ返しが来るぜ、景虎」

「ええ。天の時は得がたいものです。お嬢さまがどれほどの神将であれ、時の波に乗れねば時間切れになりますよ。大きな志のためには、小さな不義を働かねばならない時もあります」

「兄上を裏切るのが小さな不義だというのか? それこそ、武田晴信の理屈だ! わたしはあくまでも妹として、兄上を補佐する。そのために謀反人たちと戦う! それでじゅうぶんに越後の内乱は治められる!」

 しかしまもなく、景虎たちはもちろん長尾政景ですら予期していなかった事態が、越後を襲うことになる。

 景虎の兄・晴景が、突如「わが妹・景虎を討伐する」と号して春日山城下に軍勢を集結させたのだ。



 長尾晴景の政権基盤は、晴景があの梟雄・長尾為景の長男であるということよりもむしろ、妹婿で宰相となった上田長尾家・長尾政景の圧倒的な武力に頼っていた。

 為景亡きあと、若き政景は「越後随一の武人」として恐れられていたのだ。しかし若き頃の為景に負けず劣らず暴虐で、その上敵を陥れるためにいちいち策を弄する政景には、人徳が決定的に欠けていた。

 本来ならば主君の晴景がその人徳を補うのが理想の形だが、病弱で政景に越後のすべてを預けきっている晴景には人徳といっていいほどのものはなかった。あるいは内面には徳があったのかもしれないが、家臣団にその徳を見せる機会を持たなかった。隣国米沢の伊達家が内政に介入したことにはじまる越後の大乱に対して、晴景はなんの手も打てなかった。そんな中で起きた黒田秀忠の謀反劇は、晴景に守護代の能力がないことを知らしめたと言える。

 そんな越後に、颯爽さつそうと長尾景虎が登場し、越後最強の長尾政景を破った。

 越後では「武」こそが正義である。当初は栃尾城に入った景虎を「姫武将など越後にはらぬ」と煙たがり、好奇の目で眺めていた下越の揚北衆も、中越の国人たちも、今やこぞってこの異形の姫武将・景虎が見せた神がかりの戦ぶりを「神将」と褒めたたえ、景虎を支持していた。

 越後では前例がないことではあるが、今は乱世。病弱な晴景さまには越後守護代の務めは荷が重すぎる。このままでは越後は他国の侵掠しんりやくによって滅ぼされる。長尾政景を上回る戦の天才である景虎さまをこそ、守護代に――!

 春日山城下に大軍を集結させて「栃尾城を攻めるぞ」と越後守護・晴景が立ち上がったのは、しかし、にわかに越後全土を震撼しんかんさせて人々の心を掴み取った異形の妹の軍才や人気に嫉妬したからではなかった。

 黒田秀忠とその一族を独断で攻め滅ぼし、春日山城へ入った長尾政景は、

青白い頬をこけさせながら鎧兜を身にまとって軍の采配をはじめていた晴景を、あっけにとられながら眺めていた。

 なにが起きているのか、晴景が誰と戦おうとしているのか、理解することができなかったのだ。

「政景か。お前がわが妹に敗れて降伏したことはすでに聞いている。戦場で、手加減をしたな」

 政景は「手加減をしたのではない。俺はただ」と口走ったが、その先の言葉を継ぐことはできなかった。俺はただ、なんだ? 真っ白い雪の精のごとき景虎が戦場で見せた憤怒の涙に魂を奪われてすべてを忘れ、戦場の真ん中でうかつにも立ち止まってしまった、とでも言うのか? 馬鹿な。生涯誰にも言えぬ恥だ。

「中条、本庄らの揚北衆より、使者が来た。この上は潔く越後守護代の座を妹に譲るべし、われらは景虎さまが守護代とならば長尾家に従おう、と。中越上越の諸将からも次々と、政景を排除して景虎を重用せよ、あるいは次の守護代に、との声があがっている。柿崎景家、北条高広きたじようたかひろ斎藤朝信さいとうとものぶらそうそうたる顔ぶれだ。お前を一騎打ちで破ったのだから、彼らが妹を神将と信じて崇めはじめたのは当然だ。政景。妹は、お前が手心を加えたばかりに二度と引き返せない武将としての生涯を決定づけられようとしているのだぞ!」

 晴景は、生まれてはじめて激怒していた。

 他ならぬ妹のためだというのに、僕はなにをしていたのか。政景に頼ることなく、はじめからこうするべきだったのだ、と自分自身の浅はかさと甘さへの激怒でもあった。

「もはや妹から武具を奪い取り春日山城に姫として戻すためには、僕自身が妹と戦って勝つ以外に道はなくなった。越後守護代にふさわしい者は妹ではなくこの僕だと諸将に知らしめるしかないのだ。どれほど妹に恨まれようが、構わぬ。妹に、父上のような修羅の生涯を歩ませるわけにはいかない。栃尾城を攻め落とす。お前も兵を率いて付いてこい、政景」

「やめておけ晴景。景虎は、戦下手のお前が勝てる相手ではない。あの雪の

精のような純白の行人包に顔を包んだ景虎と戦場で遭遇すれば、男であれば誰であれ惑わされるぞ。これまで越後には姫武将はいなかった。それだけに、景虎は越後の武士たちに強烈な印象を与えるのだ。景虎に従う兵士どもの形相も、ただごとではなかった。殺しても殺しても、景虎を守るために突進してくる」

「政景。僕ははじめから妹に惑っている。だから、これ以上に惑うことはない」

「ふざけるな! お前が敗れれば、景虎が守護代になってしまうではないか! 貴様の次の守護代はこの俺だ!」

「だがお前は妹に敗れた。この越後では、力こそが正義だ。手をこまねいていては、妹が僕に刃向かわずにこのまま栃尾城で座していたとしても、諸将が続々と蜂起して僕を春日山城から追い出そうとするだろう。すでに黒田秀忠が春日山城襲撃という暴挙をやらかしているのだから、みな、真似まねをする。僕は守護代の座などに執着はないが、妹を守護代にはしたくない。血で血を洗う合戦の日々に、妹を引きずり込みたくない。妹を、まことの毘沙門天の化身と言いだした者までいるのだ。あの行人包からのぞいている赤い異形の瞳は、妹が人ではなく神仏の生まれ変わりだという証しだと」

「……フン。あいつが生まれた時からつきまとっていた、毘沙門天の与太話をいよいよ本気で信じる者が出てきたか。くだらぬ。だが、嘘も百度つき続ければ、真になると言うな……」

「どうやら妹は、己の身に与えられた毘沙門天の力を保持するために生涯不犯ふぼんを貫こうと考えているようだ。婿を取らず恋もせず、ひたすらに合戦を繰り広げる、そのような生涯を選ぼうとしている。このままでは、僕の手の届かないところへ行ってしまう!」

 お前が総大将では士気もあがらず、勝機は見いだせないかもしれん。しかし景虎も勝てない、と政景は口走っていた。

「景虎は、義のために戦うと己に課している。まさしく女子供の情に流されたくだらん考えだが、義将として戦うというのならば自分の兄と戦うことは

できまい。しかもお前は守護代で、景虎はその家臣にすぎん。お前を撃ち破れば、景虎はほんとうに謀反人になってしまう。下手をすれば兄殺しの大罪人だ。だとすれば、景虎は貴様が率いる軍に対しては勝ちを収めることはできないな。戦いは膠着こうちやくする。いわゆる千日手というやつだな」

「妹の情を利用しようというのか? 卑劣だが、今は手段を問うている場合じゃない。しかし戦いを膠着させた後、どうする」

「そこからは俺と、宇佐美・直江の知恵比べよ。一対二では不利だが、ともかく長対陣のうちにあちらの内部分裂を誘うしかあるまい。景虎陣営は、まだまだ武力で周囲の豪族国人たちをなびかせている寄せ集めの集団にすぎない。こちらには、先代為景が築いた守護代家の確固とした組織がある。景虎は決して春日山城を攻めることができないのだから、功を焦っているあちらの連中はきっとれてくる。義だの慈悲だのと言っても連中には通じるまい。やつらは、景虎の武に恭順しているだけなのだからな。ならば、切り崩しの機会はいくらでもある」

 政景の言葉にうなずきながら、晴景は粘っこいせきを何度も繰り返した。

 まずいな。無理をしおって。晴景はもう長くないかもしれん。今こいつに死なれると俺の立場は危うい、と政景は自分自身の未来に暗雲が立ちこめてきたことを危惧きぐしていた。

「あまり長対陣はできんな。切り崩すとすれば『民百姓の暮らしを案ずるために』と柿崎景家を揺するか、あるいは恩賞をちらつかせて北条高広を誘うか――」

 いずれにせよこれは俺の甘さが招いた事態だ。次こそは景虎を倒す。もしも討たねばならぬというのならば、討つ――この戦で敗れれば俺は景虎も越後守護代の座も両方失ってしまう。それだけは許されない。二つの実をともに手に入れられないのならば、せめてひとつだけでも確保しなければ俺の生涯はここで終わりだ、と政景は思った。


 越後はまたしても震撼した。

 越後守護代・晴景軍が、妹である景虎の居城・栃尾城へと攻め寄せてきたのだ。

「景虎が、わが越後守護代の座を狙っているという噂の真偽を問いただす。軍備を解いて春日山城へ出頭せよ。武将働きをやめると誓えばすべては風聞であったと認め、今まで通り長尾家の姫として迎え入れる。槍を捨てないというのであれば謀反人と見なして討伐する」

 と、晴景は使者を立てて景虎に通告した。

 あの長尾政景も、晴景軍の中に副将として参戦している。

 そして、かんじんの景虎は兄と戦うことなく、栃尾城の城下に陣を敷いたまま動かず、抵抗のそぶりを見せようとしなかった。

 周囲の諸将に「この上は晴景さまを破って越後守護代におなりください」といくら勧められても、わが兄と戦うことはできない、と景虎はひたすらに繰り返しているのだという。

 越後初の姫武将は、一瞬の輝きを放った直後に、こうして越後の歴史の闇へと葬り去られる運命なのか、と誰もが思った。

「春日山城を発した大軍が、この栃尾へいっせいに迫ってきています。先鋒は長尾政景。やはりあの男こそ獅子身中の虫」

 その日の朝。

 天井部分までをも白い布で覆い尽くして日光を遮っている景虎の本陣内で、直江大和は「逡巡しゆんじゆんできるのも今日が最後です」と景虎に冷たく言い放っていた。

「晴景さまがこれほど容易に政景に踊らされるとは予想外でしたが、こちらが戦わずとも向こうから攻めてくるのです。お嬢さまが武器を捨てて春日山城へ戻らぬ限りは、晴景さまは兵を退きませんよ」

 景虎は憔悴しようすいしきっていた。

 兄が自分を討伐するために軍を発進させたと聞いて以来、眠ることができなかった。

「なぜだ? なぜ兄上が? わたしには、わからない……」

「わたくしにもよくわかりません。お嬢さまの武名に嫉妬した、とも考えがたいところです。晴景さまはもともと自分の武名になどに興味もなく、守護代の座にすら執着のないお方です。あのお身体では、守護代職は負担となりお命を縮めるだけのものですから」

「では、なぜ?」

「人の心は不思議なものです。どうしてもお嬢さまに武家働きをやめさせたいのかもしれません。このような非情の手段を取ってでも」

「……兄上……ならば、いよいよ兄上と戦うことはできない。わたしは、景虎はどうすればいい?」

 宇佐美はどこへ消えたのだと景虎は口にしそうになったが、こらえた。越後全土の国人が、豪族が、民たちが「血で血を洗う長尾兄妹の戦いになるのか」と動揺している。景虎が決して兄に弓を引けないことも宇佐美は承知している。この難局を打開するためにいずこかを奔走しているのだろう。

「いずれにせよ晴景さまの隣に宰相として長尾政景が舞い戻った以上は、政景はお嬢さまと晴景さまをかみ合わせてお嬢さまの武名を地に落とそうとするしかないでしょう。それ以外に、あの男が失った武名を取り戻す道はありませんので」

「また、政景か。わたしと兄上の仲を裂くとは、絶対に許しがたい」

「ですから、殺せと勧めていたのです」

「しかしなぜだ。わたしはそもそも越後守護代になるつもりなどない。なぜみな、わたしと政景をそれぞれに担いで勝手に徒党を組みたがる?」

「越後では武こそが正義。その武の象徴が、今、越後には二人いるのです。お嬢さまと、政景です。両雄並び立たずと申します。どちらかが完全に屈服するまで、争いは終わりません」

「直江大和。なんと言われようとも、わたしは兄上と戦うことはできない。このまま本陣に留まって首を打たれても構わぬ」

 景虎が震えながら酒を口にした。夕べからなにも食べることができなかったのだ。だが、吐き気がこみ上げてきて、酒を飲むこともできなかった。

 槍も刀も捨てて兄のもとに戻りたい、母とともに再び春日山城のあの静謐せいひつな館で暮らしたい、という強烈な衝動。その捨てがたい想いと、景虎はずっと戦っている。兄の挙兵以来、ずっと、眠ることもなく。

 しかしそれでは、誰が政景を押さえつけ越後の動乱を鎮めるというのだろう? 景虎よりもさらに身体が弱い兄・晴景には過酷すぎる激務だった。晴景を補佐すべき一族の男たちの多くは黒田秀忠の乱で倒れた。宇佐美や直江は我欲に流されることのない有能な武将で自分の志も理解してくれているが、惜しいことに長尾家の血筋ではない。結局は、自分が旗頭となるしかないのだ。あるいは、政景の悪心を完全に打ち払い次代の守護代にふさわしい人間に生まれ変わってもらうか、だ。だがそれは武力ではなしえないことのように、景虎には思われた。武力で政景に野望を捨てさせられるのならば、すでに景虎に一騎打ちで不覚を取った時点で捨てさせられたはずだった。しかし捨てさせるどころか、さらに政景の野望の炎は燃え上がっている。あの男を変えられるものがあるとすれば武ではなく義と慈悲だ、と景虎は思っている。

「お嬢さま。越後の今の王はお嬢さまの兄上ではありません。あの政景ですよ。このまま座していれば、お嬢さまだけではなく、お嬢さまの一族は徐々に政景に始末されていきます」

「……どうすれば政景を、あの獣のような男を変えられるのだろう」

「そのようなお考えは、お捨てください。お嬢さまが、あのような男にそこまで心を砕く必要はありません。それではいずれ政景に捕らわれることになります。ああいう無頼の男は、そのように女人の心を引きずり込むのです」

「……直江。わたしは、そういうつもりで言ったのではない」

「人は、己がなりたいと願った者にしかなれないのです。お嬢さまが毘沙門天の化身でありたいと願うのと同様に、あの男は乱世の野獣として野望と欲望をことごとく奪い取る人間になりたいと願ったのでしょう」

「つまり政景は、わたしの父上のように、なりたかったのだろうか」

「自分が長尾の分家の血筋であることを、政景は気に病んでいます。本家の頂点に立つ為景さまを自分の手本としたであろうことは、あり得ます。上田

長尾家は分家の立場とはいえ、もとをただせば上田長尾のほうが越後長尾家の長男の家系、すなわち宗家なのです。政景は、為景さまに本家の名も守護代の地位も奪われている自分の家のなにもかもが屈辱だったのでしょう」

「ならば父上の因果から、政景が生まれたと言っても言い過ぎではないな。あれに打ち勝って改心させなければ、わたしはまことの毘沙門天にはなれない。だが、兄上は別だ……兄上は心の優しきお方だ。戦を嫌って遊興にふけっていたこともあったというが、悪事を働けるようなお方ではない。わたしは、政景とは何度でも戦えるが、兄上とは戦いたくない……」

「何度も聞かされました、その繰り言は。なにごとも直情的に即決するお嬢さまらしくないですよ」

「……うるさい」

 直江大和は「ならば槍を捨てて春日山へ戻り、出家なさいませ。わたくしはもともとお嬢さまが武士になることに反対していましたから、最後までお供いたしますよ。ですが、武田晴信を捨て置いてよろしいのですか」と意地悪く微笑んでいた。

「武田晴信がどうした? 諏訪を攻め滅ぼして妹婿を切腹させたところまでは知っているが、また武田晴信がなにか悪事を働いたのか?」

「はい。先年、河越夜戦で北条氏康に敗北して滅亡寸前となっている関東管領上杉憲政が、こんどは信濃・佐久の戦で武田晴信に敗れました。上杉軍の敗残兵三百、あるいは三千とも伝わりますが、ことごとく首を打たれてその首を志賀城へ向けて晒されたということです。これでもはや関東管領上杉家は滅亡したも同然、と関東も信濃も騒然としております」

 武田晴信。まだ見ぬ甲斐の姫武将の名を、景虎は久しぶりに口にしていた。おそるべき、苛烈な侵掠だった。関東管領軍を粉砕して信濃の佐久地方を強奪したとなると、次は北信濃を攻略するだろう。善光寺、戸隠、川中島。その北信濃のすぐ先に、春日山城はある。

 武田晴信が春日山城へと近づいてきている、と景虎は思った。

「遠国での出来事はなにごとも誇大に伝わる。三千ということはあるまいが、

いくらかは実際に晒したのだろう。長尾政景を女にしたようなやつだ、武田晴信は。いや、政景ですら実の父を追放したりはしない。晴信め。とてつもない悪党だ」

「武田晴信は北信濃を攻め上ってきます。そして、いずれは海と港を求めて越後に。お嬢さま。武将の地位を捨てて、政景と晴信を戦わせますか? 政景ならば互角に戦えるかもしれませんよ。独立心旺盛な越後の国人たちを結束させられれば、の話ですが」

「……無理だろう。政景はすでに、わたしに敗れた……戦場でわたしと再戦し、わたしの首をねない限りは、越後最強の名を取り戻せない」

「武田晴信が蹂躙じゆうりんすることになりますよ。春日山城も。半ば茶番めいていた黒田秀忠の乱どころでは済みません。武田晴信ならば、ほんとうに春日山を焼き尽くすでしょうね」

「わたしに、武田晴信と戦えと言うのか、直江大和」

「わたくしはお嬢さまに出家していただきたかった。ですが残念ながら、今は乱世です。そして、あなたの神がかりの軍才を知ってしまった。おそらく日ノ本の歴史において、これほどの軍才を生まれ持ってきた者はあなたと源義経だけでしょう。あなたはそれほどの天才です。軍師でありながらそのことに気づかなかった宇佐美定満はつくづく間抜けな男だったと思い知りましたよ」

「いや違う。わたしの才ではなく、毘沙門天の力だ。義を捨てれば、わたしは戦に敗れるだろう」

「その毘沙門天の力で越後に義と平安をもたらすことができる人は、あなたしかおりません。お嬢さま。手をこまねいていれば、武田晴信が越後を奪い取ります。越後をひとつにまとめて武田と戦うために、守護代におなりなさい」

 あと一刻もすれば晴景さまの軍勢がこの栃尾へ到達し、開戦となります。もう猶予はありません、と直江大和は静かに、しかし懇々と景虎をかき口説いた。

「駄目だ。意気地がないと言われようとも、兄上とは絶対に戦えない。わたしは武田晴信にはなりたくない。なれないのだ!」

「小さな義のために、大義を逸するおつもりですか? あなたは毘沙門天の化身として、義をなすために武将となったのではないのですか。兄と越後とどちらが大切なのです」

 景虎は青竹を振りあげて直江大和を叩こうとしたが、できなかった。

 青竹を捨て、自分の顔を白い指で覆っていた。

「……どちらも大切だ。選べるはずもない……」

「……お嬢さま。でしたら、出家すると晴景さまに伝えなさい。これからは出家の身として、越後の人心を救う道を歩むのがよろしいでしょう。姫武将はたとえ敗れても出家を選んだならば殺してはならないという掟が、他国にはございます。武将として戦うか、兄との戦いを避けて出家するか、どちらかを選ばねばなりません」

「お前はそれでいいのか、直江大和」

「……わたくしはお嬢さまの僕です。すべては、お嬢さまご自身が決断なされることなのです。あなたの言葉に、従います」

 この時、直江大和はどうしても景虎に「毘沙門天の化身として戦い続けろ」と訴えることができなかった。

 人として戦うのならばまだしも、人でないものになりきって戦え、とは言えなかった。

 言えば、景虎はほんとうに人間であることを捨てて毘沙門天になってしまう、そう思った。そして、景虎自身のためにそれを恐れた。

 だが、景虎が「わたしは出家する」と宣言するよりもわずかに早く。

 栃尾を離れて奔走していた宇佐美定満が、本陣へと転がり込んできた――。

「景虎! 越後の守護、上杉定実うえすぎさだざねさまにご出馬願ったぜ! この栃尾まで連れてきた! 為景の旦那が担ぎ上げただけのお飾りとは言え、嘘でも越後の主だ! 守護の命令によって、このたびの兄妹喧嘩げんかを終わらせ、二人を和睦させる!」


 今すぐに上杉定実に面通ししろ景虎! ただし上杉定実もただのお飾り守護じゃねえ、為景の旦那とやりあってきた古狸ふるだぬきだ! 事と次第によってはお前は暗殺されるかもしれねえ、これは戦だ! と、宇佐美定満は叫んでいた。

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