第八話 信濃攻略(前)

 武田晴信が諏訪・高遠を平定して南信濃の中心部を自領に組み込み、北信

濃の佐久地方へ兵を向けていた頃、関東では「河越夜戦かわごえよいくさ」が勃発していた。

 武田晴信が今川義元との関係を仲裁したことで窮地を救われた北条氏康が、

義妹・北条綱成つなしげが三千の兵で守る河越城へと自ら後詰めを行い、城を包囲し

ていた関東管領軍八万を八千の兵で壊乱させ逆転勝利を収めたのだ。

 板垣、甘利ら諸将が「関東管領の地位も名誉も、ついに地に落ちたか」

「まことに下克上の世が来たのう。御屋形さまが諏訪家から軍権を奪ったの

は正解であったか」とうなる佐久の陣中で、山本勘助は河越夜戦の経緯を詳

細に報告していた。

 関東では、室町幕府の高官を務めてきた旧勢力と、下克上の雄である新進

の戦国大名・北条家との争いが激しく繰り広げられていた。

 旧勢力の旗頭は、関東管領・上杉憲政うえすぎのりまさ

 上杉憲政はわずか三歳で父を亡くし、父が持っていた関東管領の役職を血

つながらない義理の兄に奪われた。しかし、憲政は幼い頃から合戦は苦手だ

が権力闘争にはけていた。壮絶な権力闘争の果てに自ら上杉家の実権を奪

い、関東管領の役職をも取り返した。

 さらに憲政は、古河公方こがくぼうの足利家と、同族で長年の宿敵だった扇谷おうぎがやつ上杉家にも影響力を及ぼし、長年戦い続けてきた関東の旧勢力を統合。駿河の今川義元と組んで、武蔵に進出していた北条家を挟撃したのだ。

 この政治力と戦略構想は、ただの若き貴公子のものではない。

 勘助は「上杉憲政は気障きざな優男ですが、関東管領の名と権威けんいを利用して諸将を動かす策謀にかけては一流。侮れません」とうなずく。

「かくて上杉憲政率いる八万の関東連合軍は、北条方の関東における最重要

拠点・河越城を包囲しておりました。河越城を守る北条綱成は、北条氏康の

義妹。北条最強の武勇の持ち主とはいえ、わずか三千の守兵で八万の包囲陣

を蹴散らすことはかないませんでした」

「ところが御屋形さまが、北条と今川を和睦させた。駿河に釘付くぎづけになって

いた北条氏康は、兵をとって返して河越城への救援に向かうことができた。

そういうわけだな、勘助」

 と、宿老の板垣信方。

「御意」

「しかし氏康率いる北条の本軍とて、わずか八千。どうやって八万もの大軍

に勝ったのじゃ?」

 これは、猛将の甘利虎泰。

「北条氏康は戦場においては上杉憲政をはるかに上回る策士。援軍を率いて

戦場に現れておきながらいっこうに戦おうとせず、『多勢に無勢なので河越

城に籠もる兵の命とひきかえに全面降伏する』と長い滞陣にんでいた関東

諸将に土下座せんばかりの勢いで次々と言い回って、諸将の油断を誘ったの

でござる」

「相変わらず小ずるい女狐めぎつねじゃな」

「みな、本気にしたのか?」

「本気にした者と疑った者、半々というところでございましょうな。なにし

ろ北条氏康の臆病と戦嫌いは関東では有名でござる。とてもあの北条早雲の

孫とは思えぬ。下克上の雄・北条家も三代目で堕落してただの自称名門貴族

に成り下がったか、と言われておりましたゆえ。知恵深き者は疑い、知恵浅

き者はだまされた。割合は半々でござろう。上杉憲政に仕える名将・長野業正ながのなりまさ

などは、あの女は絶対に他人に頭を下げたりしない、といっさい取り合わな

かったということでござる」

 勘助。それでは騙し討ちの奇襲も効かぬのではないか?と甘利虎泰がほう

とうをすすりながら首をひねった。

「いえ。この、半々という割合がよかったのでござる。北条憎しの一念で寄

り集まっていた関東諸将の関係に、疑心暗鬼と不和を生んだのでござる。彼

らはもともと、長年にわたって戦い続けてきた仇敵きゆうてき同士。北条という共通の

敵がいるからこそ結託できていたのでござる。その北条が屈服しようとして

いる――その油断と安堵あんどの隙に、ほころびが生じたのでござる」

「ほころびが?」

「北条氏康の降伏を認めるか否か。諸将が紛糾しているさなかに――上杉憲

政と意見対立していた扇谷上杉家の当主が、急死したのでござる」

「急死じゃと!?」

「はっ。おそらくは、北条が放った風魔の仕事でござろう。風魔は、敵総大

将の上杉憲政を陣中で殺すのはさすがに不可能とみて、多少の隙があった二

番手を暗殺したのでござろう。さて、関東管領上杉家と扇谷上杉家はもとも

とは仇敵同士。なぜ死んだ、誰が殺した、と事態はさらに紛糾し、八万の大

軍の統制はその日の夜、一時的にばらばらになり申した。この一瞬の隙を、

北条氏康が突いたのでござる。自ら全軍を率いて夜襲をかけて、関東連合軍

を完膚なきまでに殲滅せんめつしたのでござる」

乾坤一擲けんこんいつてきの勝負に出て、勝ったのか。あの臆病な氏康が。当人は初陣で敵

に堂々と立ち向かい立派な刀傷を顔に負ったと吹聴ふいちようしておれど、実は傷ひと

つない真っ白い顔の持ち主だと物笑いの種になっておったが」

「甘利どの。その『臆病者』という評判こそ、この夜戦のために氏康自身が

せっせと築き上げてきた風聞だとしたら?」

「ううむ」

 勘助は「氏康おそるべし」と額の汗をぬぐった。

「八万の大軍とはいえ、関東連合軍はしょせんは旧怨きゆうえんを抱き合った古い敵同

士の集まりでござった。いわゆる烏合うごうの衆で、人の和に欠けておりました。

一方、北条氏康と綱成の連携は完璧。氏康が十倍の敵のまっただ中へ夜襲を

かけると同時に綱成も河越城から決死隊を率いて打って出て呼応。内輪

で指揮系統が乱れていたところを挟撃された連合軍はあっけなく敗走したの

でござる」

 横田備中が「女狐とはあいつのためにある言葉だな。北条氏康を見捨てて

おいたほうが武田にとってはよかったんじゃないか」とつぶやいた。

「いえ。横田どの。関東においても甲信においても、古き秩序は新しき力に

よって滅ぼされねばなりませぬ。われら武田家もこれまで上杉家だの古河公

方だのの内輪揉めにさんざんつきあわされて時を浪費してきました。関東に

直接関わっていれば上洛は遠のくばかり。厄介な関東の平定は、北条にやら

せておいたほうがよいでしょう」

「そんなものかね。戦場でもの狂いになるだけが取り柄の俺にはわからん

な」

「関東管領の息の根は、なんとしてもここで止めねばなりません。その面倒

な上杉憲政を、北条が半ば片付けてくれました。上杉憲政の関東管領として

の威光は、河越夜戦で敗れたことで凋落ちようらく。もはやあのような関東連合の大軍

勢を率いることはできますまい。扇谷上杉家は断絶。古河公方は北条に降伏

し、関東公方の名分を北条に完全に乗っ取られました。かくして関東にて追

い詰められた上杉憲政は名誉挽回のために、信濃に押し寄せて参りました。

すなわち、われらが今、侵略しているこの佐久に」

「佐久に? こんどは武田と戦うつもりか? そんな元気があるのか?」

「上杉憲政は、この敗戦によって武蔵から事実上撤退。今後は、北関東の上

州(上野こうずけ)を根拠地とするしかありませぬ。関東の諸将は武威になびきます

る。河越夜戦で名をあげた北条がいる限り、上杉憲政の武蔵への再進出は困

難。となれば、上州と碓氷峠うすいとうげを経て隣接している北信濃・佐久地方を押さえ

ることで衰えた国力の回復を図り、関東管領の健在ぶりを喧伝けんでんする。あの男

が生き延びるには、それしかございません」

「そうか。あの諏訪頼重が生前、佐久にあった自領を上杉憲政に譲り渡して

いたからな。そして俺たちは今、その佐久を猟犬のように荒らし回っている」

「はっ。とはいえ、あの大敗からまもない上杉憲政本人はよもや出陣できる

まい、あと一年は動けまいとそれがしも甘く考えておりましたが、どうやら

関東管領自らが佐久へ出兵してきたようですな。二度と姫武将などには負け

ぬと、河越での恨みを佐久で晴らすおつもりらしい」

 上州と佐久とは碓氷峠で繋がっている。

 関東管領・上杉憲政率いる三千の軍は佐久衆に援軍をわれ出陣、すでに

その碓氷峠を越えて武田と決戦に及ぼうとしている、と勘助は告げた。

「われらは佐久の要・志賀城を攻略する予定でしたが、如何いかがなさりまするか

御屋形さま。撤退いたしますか、それとも」

 勘助の問いに、それまでじっと押し黙っていた武田家当主・武田晴信がつ

いに口を開いた。

「勘助。天の時は上杉憲政のもとを去った。関東を統治する能力も持たずい

たずらに戦乱を長びかせてきた関東管領などという室町幕府の亡霊を、今こ

そ滅ぼすべき時だ。関東管領を討ち、その軍は徹底的に蹂躙じゆうりんし、殺し尽くす。

上杉軍から捕虜は取るな。みな斬首せよ。二度と、甲斐信濃の地には関東の

軍勢を踏み込ませぬ」

 板垣と甘利、二人の老将が「それはやりすぎでは?」「まるで越後の長尾

為景じゃ」と異を唱えたが、晴信は「関東管領などもはや存在しない。ただ

の他国からの侵略者にすぎない。この機に乗じて、北条に叩きのめされて震

えている関東の連中に『甲信に二度と手を出してはならない』と知らしめる

のだ。関東管領・上杉憲政の首を獲れ」と目を血走らせてたけっていた。

「板垣。あたしは平明な世をもたらす。武田家は、血筋よりも能力を重んじ

る。神氏みわしも関東管領もこの乱世を長びかせるための要因でしかない以上、も

はや不要だ。あたしは過去のしがらみをことごとく一掃し、身分に関わりな

く有能な者に活躍の場を与え、立身させる。諏訪家も上杉家も同じだ」

「ですが。衰えたりとはいえ関東管領の威光は生半可なものではありません

ぞ御屋形さま。殺さずに幽閉し、名を奪い取ることを考えたほうが得策かと

存じます。北条が、敗残の古河公方を手に入れてその名をわがものにしたの

と同様に」

「上杉憲政などらぬ。あたしはもう、諏訪頼重で懲りている。あの時以上

に厄介な火種を家中に抱えるつもりはない。しかも、上杉憲政は権謀術数に

長けている上に、女好きな若く美しい貴公子という。姫武将たちを育成して

いる武田家にとっては、そのような厄介者は有害無益だ」

「むしろ上杉憲政を婿に迎えれば、御屋形さまが関東管領に。敗残の今なら

ば、今は武田と雌雄を決する覚悟でいる上杉憲政もあるいは飛びつきましょ

う」

「……愚かなことを言うな板垣! あたしはまだ婿など取るつもりはないし、

北条に叩きのめされた負け犬を夫にするなどありえん!」

「はっ! 申し訳ございませぬ。ですが、河越で追い詰められた上杉をさら

に佐久でいたぶるのは、得策とは申せませぬ。窮鼠きゆうそ返ってということも」

「だから、返らせる前に討ち果たすだけだ」

 晴信の隣にはべっていた副将の武田次郎信繁は(姉上は、自分と似た文弱な

姫武将である北条氏康が河越夜戦で名をあげ武辺の実力を見せつけたことに、

焦りを感じているんだわ)と気づいたが、東国の旧秩序の頂点に立つ関東管

領家をここで断絶させられれば困難を極める信濃平定は数年を経ずして終わ

るという姉上の冷徹な読みもまた正しい、と思い直した。

 しかし、なにかが危うい。

 やはり海を持たず港を持てない姉上は焦られているのだ、北条があの広大

な関東平野を丸ごと手に入れつつあるというのにご自分はいまだに信濃の山

中を駆け回っているという現実にれているのだ、三国同盟で益を得られる

者は北条と今川だけという結果になることを恐れておられるのだ、そう思う

と不安を感じずにはいられなかった。

「御屋形さま。急ぎ奇襲をかければ勝てまする。決戦の地は小田井原おたいはらになりましょう。諏訪での合戦とは異なり、血生臭い戦いになりますぞ」

「覚悟の上だ勘助。板垣。甘利。横田。そして飯富兵部。武田家が誇る四天

王全員をこの決戦に注ぎ込む。必ず、上杉憲政の首を獲れ。やつはこの戦に

敗れれば、二度と最前線へは出てこなくなるだろう。以後は強敵を前にすれ

ばヤドカリのように隠れる男になる。今回の戦が関東管領を討ち東国の旧秩

序を永久に一掃する、最初で最後の好機だ」

 北条氏康め。どうせならば上杉憲政の首を河越で獲っておけ。あたしが尻

ぬぐいをさせられて関東管領殺しの汚名まで着せられるのは割に合わない、

と晴信はいつになくいらだっていた。



 三千の兵を率いて碓氷峠を越え、佐久へ進軍していた関東管領・上杉憲政

はまだ二十代前半の青年武将だった。

 関東全土を震撼しんかんさせる戦乱に次ぐ戦乱の中、三歳で父を失い、九歳で関東管領となり、抗争の果てに十代半ばで実権を掌握した。

 他人を容易には信じない。

 北条氏康の降伏も、信じてはいなかった。だからあの夜戦の際にも身辺警

備を厳重にしておいた。うかつにも信じた扇谷上杉家の当主は、謎の急死を

遂げた。

 全盛期の上杉家は、足利家の血を引く関東公方よりもはるかに強大な東国

の雄だった。関東から越後にまたがる広大な領土を有していた。だが、旧領

の越後は守護代の長尾家に奪い取られ、伊豆は戦国大名の北条家に奪われた。

 本領である関東も、乱れに乱れていた。関東公方と管領家との対立。関東

公方の分裂。管領上杉家と扇谷上杉家との対立。なにか志があったわけでは

ない。血筋と役職を巡る大義なき戦の日々だった。しかも広大な関東平野に

割拠する独立心旺盛な武家諸将は、常に強いほうになびき、しかし決して心

から恭順しない。平将門たいらのまさかど以来、関東武者は独立心が旺盛だったからだ。

 この混乱に乗じて、北条家が急激に台頭してきたのだ。いや、「北条家」

を名乗ってはいるが実体はまるで得体の知れない成り上がりの戦国大名が。

 幼い頃から策略の才を持っていた上杉憲政は、この「北条家」という強敵

を逆に利用すれば、四分五裂状態に分断された関東諸将を「反北条」という

大義のもとに連合させることができると考え続けていた。そして、関東管領

としての実権を握るとともに温めてきた策を実行した。

 自ら率いる関東連合軍と、駿河今川家による、北条家への挟撃。

 三千の守備兵しかいない河越城を、八万の連合軍で厳重に包囲した。

 何年もかけて、入念に準備してきた。絶対に成功するはずだった。

 北条の武蔵における拠点・河越城は落ちるはずだった。

 唯一の計算外は、甲斐の武田晴信という田舎者の姫武将がでしゃばって、

今川と北条を和睦させたことだ。

「武田晴信。よくも甲斐の山猿が、僕の壮大な戦略を台無しにしてくれたね。

絶対に許さないよ」

 憲政は武蔵を追われた。上州に逃げ込み、河越城奪取は断念した。だが、

関東管領としての華々しい戦歴に泥を塗った武田晴信をこのままにはしてお

けない。

 重臣の長野業正に「大敗してまもないというのに外征は時期尚早でござる。

あと一年、二年は上州に踏みとどまって足固めを」と止められたが、振り

切って自ら佐久へと出兵した。

 苦境に立たされた今こそ死力を振り絞って晴信を撃ち破り、関東管領は滅

びてはいない、河越夜戦で受けた打撃は意外と薄い、と関東諸将に知らしめ

るためだった。

「武田晴信。北条氏康。今川義元。姫武将どもが、貴公子である僕に逆らう

だなんて。許されることじゃないよ」

 幼少時より「上杉家の在原業平ありわらのなりひら」と呼ばれ、関東一の美男子の誉れ高い上

杉憲政にとって、戦に敗れたことよりも「姫武将に翻弄ほんろうされた」ことのほうがはるかに屈辱的だった。

 とりわけ、武田晴信だ。あれはいったい何者なのだ? 父親を甲斐から追

放して国を奪った女だという。信濃の名族・諏訪家を滅ぼしたという。名門

甲斐源氏の出身でありながら、野望のためなら日ノ本の秩序を破壊せんとす

る下克上の魂の持ち主らしい。この姫武将さえ倒せば、今川と北条は再び対

立するはずだった。関東管領復権という志のためには、ちゆうしなければならなかった。

「なんだ、あれは?」

 小田井原にさしかかったところで、上杉憲政は見た。

 自分を待ち構えていたかのように翻る諏訪大明神すわだいみようじんの旗印と、御諏訪太鼓を。

「なんだと? 待ち伏せされていた!?」

 僕の采配は姫武将にも及ばぬのか、九歳で関東管領を継いだこの選ばれた

僕が、と憲政は血を吐くような屈辱の思いに震えていた。

 北条氏康も、武田晴信も、まるで同質だった。彼女たちは関東管領という

偉大な役職が持つ威光にも、上杉家の高貴な血筋にも、まったくひるまない。

むしろ、倒すべき敵とみなして打ちかかってくる。

 関東管領と関東公方。この重大な役職と美しい血筋が持つ「力」を手にす

るために、関東の諸将はこれまで果てしない戦を続けてきたはずだった。

 しかし、北条氏康と武田晴信は、違うらしい。

 関東管領などに、いささかの価値も、見ていないらしい。

 そのような古きものが亡霊のように生き延びているからこそ、関東は平穏

にならないのだと信じているらしい。

 これは、下克上だ。

 室町幕府が関東に残していった体制そのものを、北条と武田はつぶしてしま

うつもりらしい。

(姫武将どもめ! 上杉の血も足利の世もなにもかも否定するか!)

 上杉憲政はこの時になって、ようやく自分が河越夜戦で敗れたほんとうの

理由を悟った。

「野望だ。野望の質の違いだ。やつらを女と甘く見ていた僕の失敗だった。

顔かたちは女でも、やつらの魂は長尾為景のごとき野獣だ。礼節もしきたりも

血筋もなにもかも無視して獣のように戦ってよいというのならば、いにしえ

の権威を回復しようとする者よりも、秩序を破壊する無法者のほうが、圧倒

的に強い」

 僕に、あの北信濃の雄・村上義清むらかみよしきよのような武勇さえあれば――。

 しかし、ないものを悔いても手に入るわけではなかった。憲政はまるで都

の公家のような色白で細面の貴公子として生まれてきたのだ。関東最大の武

家の名門・上杉家も、代を重ねれば貴族化して当然なのだ。

「殿! 敵は武田軍の主力、その数は三千! わが軍と同数です!」

「先頭に、宿将・板垣信方と甘利虎泰! 左翼に横田備中、右翼に飯富兵部

の赤備え! まことに当たらざる勢い!」

「わが軍は河越での疲労が抜けておらず、到底勝ち目はありませぬ!」

 容赦のない襲撃を、関東管領軍は受けた。

 降伏すら認めない、という徹底的な殲滅戦だった。

 先の越後守護代・長尾為景が数代前の関東管領を合戦で討ち果たした時で

すら、これほどの容赦ない殺戮さつりく戦はやらなかったであろう。

 長尾為景は荒れ狂う巨凶ではあったが、関東管領というものをこの世から

消し去ろうという野望は抱いていなかった。

 しかし、武田晴信は違うらしかった。

 あの、諏訪家を滅ぼしたのだ。

 関東管領などなにほどのものでもない、と本気で信じているに違いなかっ

た。

「殿、お逃げください!」

「武田は、殿の首だけを狙っております!」

「扇谷上杉家、古河公方が絶えた今、関東管領の殿だけが関東における最後

の名族!」

「なんとしても逃げ延びてくだされ!」

「時代は変わったのだな。時代は……」

 ここで死ねば関東管領・上杉家は僕の代で滅びる、と上杉憲政は恐怖に駆

られながら遁走とんそうした。

 思えば、あの越後の長尾為景が時の関東管領を殺した時点で、上杉家の命

運は尽きていたのだ。僕がやっていることはしょせんは過ぎ去った時間を巻

き戻そうとしているだけにすぎないのかもしれない。そう思いつつも憲政は

あきらめようとはしなかった。なにもかもを置き捨てて、けんめいに逃げた。

「しかし僕はまだ死なないよ。河越夜戦でも生き延びたんだ。武力はなくて

も、僕には関東管領上杉家の血筋と名と策略がある。武田晴信! 北条氏

康! この借りは必ず返すよ!」



 上杉軍は壊滅し、武田晴信は佐久を平定した。

 武田軍はこの戦いで討ち取った上杉軍の兵士の首を佐久の志賀城前に並べ

て、「関東管領の後詰めなど来ない」と守備兵たちを絶望させたともいう。

 すべては鬼の軍師・山本勘助が選んだ非情の策だったとも。

 ともあれ、晴信に抵抗を続けてきた佐久の諸将はついに降伏した。

 佐久衆のうち、捕らわれた者たちは武田家が運営する金山へと送られた。

晴信は金山を熱心に開発していた。次々と新しい金山を開き、既存の金山で

も新たな金脈を掘り進めていた。そのため、甲斐では金掘り人が不足してい

たのである。

禰々ねねは、父上が戦で捕らえた捕虜を奴隷として売りさばくことに心を痛め

ていた。だが、甲斐では米が穫れない。大幅に規模を拡大した金山を回転さ

せるにも、働き手がいない。捕虜を送り込むしかない――」

 いずれ肥沃ひよくな平野と港を手に入れればこのような野蛮な真似まねはしなくてもすむようになる。だがまだ東海道も越後もはるかに遠い。

 勘助にも、金山における労働力不足を解決する秘策はなかった。賃上げを

行っても、好きこのんで金山で働こうとする者が少ないのだ。むしろ彼らは

足軽として合戦に参加しようとする。同じ命がけの仕事ならば、立身出世の

可能性がある槍働きを選ぶのだろうか。

 貧国の甲斐が外征を繰り返して連戦を行う。しかし甲斐や諏訪の領民に対

しては信虎時代とは桁違いの善政を敷く――信濃全域を治めて経済を潤わせ

るまでの期間に生じるこの矛盾は、佐久の犠牲によって埋めるしかなかった。

勘助にできることは、可能な限り佐久の人々の恨みを自分に向けることだっ

た。

 次郎や板垣たちが「佐久衆に対してだけ、あまりにもむごい」「昨日まで

の敵とはいえ、すでに佐久も武田の一員となりましたぞ」と反対したが、晴

信は「諏訪衆は諏訪家のために戦ったのだ。だから許した。わが父には服従

していたにもかかわらずあたしが甲斐の当主となるやいなや離反し、ことも

あろうに他国から関東管領を引き込んだ佐久衆は、諏訪衆のように寛大には

扱わない。信濃の者たちが二度と関東管領などと結託しないよう、佐久衆に

は貧乏くじをひいてもらうしかない」と突っぱねた。突っぱねざるを得な

かった。

「関東管領などもはや甲斐にも信濃にも、そして関東にも不要なものだと諸

将や民に知らしめるためだ。あの、権威と血筋だけを振りかざして人々を戦

にいざなう男は、まさしく『貧乏くじ』にすぎないのだと」

 板垣信方は、引き下がらなかった。

「たしかに理屈ではそうなりましょうが、御屋形さま。それは利口な御屋形

さまと勘助の中でだけ通じる理屈でございます。素朴な民たちはもっと単純

に考え、感じますぞ。諏訪と佐久とでえこひいきがある、諏訪の民は丁重に

扱われているのに、自分たちは武田に虐げられている、と」

「もう言うな板垣。武田が降伏を許さず打ち殺したのは、関東管領軍の軍勢

だけだ。武田領となった佐久衆の命は獲らない。佐久衆に押しつけた金山で

の負担も、領土を拡大するごとに減らしていく。このことを繰り返して言い

伝え、理解させよ」

「焦ってはなりませぬぞ御屋形さま。北条氏康が河越で大勝利を収めたこと

に、御屋形さまは柄にもなく焦りを感じておられます。その焦りが、佐久で

のやりように表れております。しかし武田家は三代続いた北条とは異なり、

その国力の基盤は脆弱ぜいじやくなのです」

「そうだな。あたしが、父を追放したからな。北条氏康は幸運だ。祖父と父

に甘やかされ、盤石の政権をつつがなく引き継ぎ、広大な関東平野と海と港

とを与えられた。無理をして人を狩り、金山など掘る必要もあるまい」

「御屋形さま。人の和を見失ってはなりませぬぞ」

「わかっている板垣。氏康のことはただの愚痴だ。あたしはただ、上杉憲政

という大魚を取り逃がしたことが悔しくてならなかったのだ。信濃統一事業

が、あの男を逃がしたことで三年は遅れた気がする。それでつい激高したの

だろう。あたしは冷静さを欠いていたかもしれない。許せ」

「……左様さようでございましたか。拙者せつしやも、余計なことを申してしまいました」

「佐久を平定したはずなのに、心が鬱々うつうつふさがる。佐久という土地は手に入

れたが、佐久の民の忠誠心を手に入れられそうにないからだろう。あたしは

自分が思っているよりも完璧主義者なのかもしれない」

「十割の勝ちは戦にはございません。八割の勝ちをもって満足なされませ」

 晴信は、板垣が姿を消した後、本陣内で一人「勝てなかった」と歯がみし

ていた。

 関東管領・上杉憲政の首を、獲れなかった。

 あの男は河越に続いて佐久でも大敗しながら生き延びた。なにか、そうい

う才覚があるのかもしれない。あの男の取り柄は、血と美しい顔立ちだけで

はない。「負けても生き延びる」。これは大いなる才能だ、と思った。あれ

を取り逃がしたことが後々、巨大な災いになる。そんな予感に襲われながら、

晴信は北信濃の雄・村上義清との対決に踏み切ろうとしていた。

 残る信濃の強敵は、二家。

 中信濃の小笠原長時おがさわらながとき。信濃守護職という名分を持っている。

 北信濃の村上義清。信濃最強の、圧倒的な武を誇る。

 諏訪を奪い南信濃を固めた武田家は、順序からいけば中信濃の小笠原長時

と雌雄を決するべきだった。

 地理的にも、また敵の強さを比べても、諏訪に近い小笠原をまず滅ぼすべ

きだった。それが兵法の常道と言えた。

 また、関東管領軍を撃ち破り殲滅した晴信が倒すべき次の敵は、名ばかり

となった「信濃守護」すなわち小笠原長時であるべきだった。村上義清は有

能な武人ではあるが信濃における家格という点では小笠原長時に数段劣る。

 勘助の戦略も、諏訪を起点に徐々に信濃を北上していくというものだった。

 しかし関東管領軍を破って北信濃へ連なる佐久地方をも平定した晴信は、

えて先に強敵・村上義清との戦いを選ぼうとしていた。

 急がなければ上杉憲政が村上との連合を策動するかもしれず、それ以上に

気がかりなのが戸隠の忍びたちの存在だった――戸隠と村上が連合する前に、

叩かねばならなかった。佐久での強引な戦いぶりも、戸隠と村上の連合を恐

れてのことだった。

 それともうひとつ、理由はあった。

 勘助が見たところ、晴信と同年代の若き小笠原家当主・小笠原長時は、武

勇という点では優れているが、信濃守護という高貴な役職を鼻に掛けている

ところがあり、武断主義の村上義清とは異なり日和見をする男だった。先に

小笠原を攻めれば村上が小笠原に加勢するかもしれない。だが先に村上と戦

えば、小笠原は勝敗が決するまで日和見を決め込むに違いなかった。

 そして事実、武田軍が対村上戦に着手しても、小笠原長時は動かなかった。



 しかしこの頃すでに、晴信が危惧きぐしていた北の二人は手を結んでいたのだ。

「佐久での武田晴信の荒れようは、なかなかのものだったな。武田信虎の娘

だけあって、姫ながらに武辺者なのかもしれん」

 北信濃の葛尾城かつらおじよう

 村上義清は、諏訪頼重のもとから葛尾城へと流れてきた戸隠の忍び・鳶加

藤からの報告を聞きながら、刀を構えていた。

 山中に入り、片手で竹を斬る修練の時刻であった。

 村上義清は、ただ戦場で敵を斬り叩き伏せることのみを考える男だった。

 謀略もなにもない。

 己の武名をけがしたくないという矜持きようじの他には、野心もない。

 おおかみのような視線と角張った頬、太い眉の持ち主だった。

 本来、村上義清は村上家の当主として生まれてきたことが間違いで、一介

の剣客として生きるべき男だったかもしれない。

 北信濃の山中から外界へ出るつもりはなかったが、武田晴信が攻めてくる

というのであれば戦って撃ち破らねばならなかった。

「鳶加藤。父親を追放し国を奪い、妹婿を切腹させ、関東管領軍を皆殺しに。

すさまじいまでの野望だな。なにが武田晴信をそこまで駆り立てているのだ

ろうな。俺には、ある種、うらやましく思う気持ちもあるのだ」

「晴信はお前と雌雄を決するつもりだろう。あれは父である武田信虎が同盟

した相手のことごとくを裏切って合戦を仕掛け、併呑へいどんするつもりだ。最終的には、父親を預けている今川家をも裏切るだろう」

 竹藪たけやぶの奥では、鳶加藤が薄笑いを浮かべている。

「だが晴信は俺に対してはさほどの敵意を抱けぬ。そんな気がする。俺はた

だの武辺者。俺には神氏の血筋も、関東管領の名もないからな。せいぜい源

氏の一支族を名乗る程度だ。晴信が信濃の古き権威をことごとく潰すという

のなら、まず倒すべきは信濃守護・小笠原長時からだ。その分、晴信はまだ

甘い」

「一族とともに北信濃の別天地で、戦国の世と無縁な暮らしを過ごす。それ

が貴様の夢か、村上義清」

「俺は山猿だ。柄にもなく天下などを求めて都で滅びていった源義仲みなもとのよしなかのようにはなりたくないのさ。だが、この北信濃でひっそりと人生を終えたい

という夢が、ただの夢にすぎんことくらいは知っている。俺とて攻められれ

ば逆襲し、結果として多くの領土を奪い取ってきた。武田信虎と時には戦い、

時には和睦した。武を極め合戦に勝ちを得ようと欲するのも、戦国の世では

力なくして平穏な暮らしを守ることなどできないと知っているからだ」

「諏訪頼重が貴様のような恬淡てんたんとした男であれば、死ぬこともなかったろうにな」

「そうだな。俺ならば捕らわれても腹など切らぬ。恥も外聞も捨てて逃げ延

びた。一族家族を捨て、己の武名に泥を塗ってでも執拗しつように生きようとしただ

ろうな。死ねば、晴信に打ち勝つことなど永久にできなくなるのだからな」

 鳶加藤は思った。この剛直な武人が晴信の忠実な片腕となれば、武田晴信

は山本勘助の知と村上義清の武をそろえて使いこなし、信濃どころか天下をも

奪えるかもしれん。しかしそうはならない。村上義清は、晴信が家督を奪う

直前、武田信虎と同盟を結んでいたのだから――ゆえに父を否定するために

村上と戦わねばならない。

「だがな、村上義清。北条と和した武田はこれまでとは違い手強いぞ。甲斐

が動員できる全兵力で信濃に襲いかかってくる。その上、諏訪衆を手懐てなずけて

いる。貴様の同盟相手である中信濃の小笠原長時は上杉憲政並みにあてにな

らん。このたびの戦では、やつは貴様を助けないだろう。貴様は圧倒的に不

利だ」

「その俺に敢えて手を貸すか、鳶加藤。諏訪頼重のかたきを討つか」

「諏訪頼重の仇、というのは言葉の綾よ。俺は、地理的な条件ゆえに貴様に

手を貸すのだ。貴様が倒れれば、次は戸隠の山に晴信が踏み込んでこよう。

俺のようなあやかしの忍びを二度と生ませぬために戸隠のご神体を破壊する

か、あるいは佐久の捕虜どもを送り込んで金山を稼働させているのと同様に

戸隠山をも武田軍の『道具』として接収するか、いずれにしても晴信は霊山

をいささかも恐れない。戸隠山を踏みにじってくるだろう」

「天下にごうも望みなし。ただ、武田に故郷を蹂躙されたくはない。思いは同

じだな、俺もお前も」

「俺たちは最終的には晴信に滅ぼされるような気がする。あの姫武将が生き

ている限り、あれの野望の炎は消えることがないだろうからな。諏訪頼重は

そう悟り、諏訪の地を目の前で蹂躙される前に自ら腹を切ったのだろう。だ

が、意外とそうでもないという気もするのだ」

「そうだ。人の運命など、その時になってみなければわからぬ。生き続けて

みれば否応いやおうなしにわかることだ。鳶加藤」

「武田晴信に、勝てるか?」

「俺一人の武辺でどうなるものでもない。兵たちにも死の修練を行わせてい

る。これからの戦は一騎討ちでは決まらん。いや、もう応仁の乱の頃には戦

は一騎討ちで決められぬ形態になってしまっていたというのに、武士の戦術

はまるで進歩しない。この島国では、集団戦術があまりに立ち後れていると

は思わんか?」

 時代から取り残された戸隠の忍びは集団戦術などとは無縁でな。そんなこ

とは考えたこともない、と鳶加藤が苦笑した。

兵站へいたんを重視し山間に道を整備し諜報ちようほうと調略に銭を投じる。武田晴信の戦ぶ

りはなるほど名人が打つ碁のように周到だが、それらの周到さを無効化する

勢いで戦局を一気にひっくり返す『戦術』というものをあの幼い姫武将はま

だ真剣に考えたことがないだろう。それが、甲斐の山国に生まれ育った者の

限界よ。もっとも、この俺とて刀を振り回すしか能のない信濃の山猿だがな

――だが山猿であるがゆえに、偶然、新しい戦術をひらめいた」

 抜き打ちで次々とぎ払った竹。

 それらを二本、三本と無造作に村上義清はつかみ取り、鳶加藤へと放り上げ

ていた。

「一刀両断した竹は鋭利な凶器になる。長くて軽い。そして、しなる。一本の

竹では弱いが、これを五本、十本、百本と組み合わせてひとつの生き物のよ

うに操れば――」

「義清。貴様は居合いの修練をしながら、そのようなことを閃いていたのか。

合戦の天才だな」

「いや。上方あたりではすでに俺以外の者が、似たような戦術を実戦に採り

入れているかもしれん。この山国にまでは情報が入ってこないだけでな。そ

れに晴信の首を獲るためにはやはり、最終的には個人の武辺に頼まねばなら

ん」

「俺に任せろ」

「いや、鳶加藤。うぬは、俺のために道を造れ。俺自身が、晴信の将器を見

極めた上で、斬る」

「ふん。姫武将不殺の掟を無視して姫武将を斬り殺せば、貴様の武名に傷が

つくぞ。そもそも堂々と名乗りをあげて武田の本陣に突入するつもりか? 

闇に紛れて仕事をこなす忍びこそが、適任だと思うがな」

「忍びに総大将を暗殺させては、それは勝ち戦とはいえん。一騎討ちで勝敗

が決まる時代は終わったと言ったが、それでも最後の最後は一騎討ちである

べきだ。そうでなければ、俺のような古い男にはもはや存在価値がなくなる」

「……いいだろう、村上義清。つくづく貴様は己の誇りのためにだけ戦う男

よ。ならばとどめは、お前がやれ。だが、し損じれば如何する?」

「その時は、こう俺は思うだろう。時代は俺ではなく姫武将を必要としてい

るのかもしれん、と」

「ふん。貴様としたことが弱気だな。ありえんな。姫武将など、人手不足と

内輪揉めで疲弊した武家どもがひねり出した手品よ。女は子を産み育てるの

が仕事。男には、子は産めぬからな。女に武将のまねごとなどいつまでも続

けられるものではない。そもそも姫武将不殺の掟の存在からして、茶番めい

ているではないか村上義清?」

「武田晴信が神氏を倒し関東管領を討ち滅ぼすというのであれば、俺は姫武

将不殺の掟を反故ほごにしよう。男であろうが女であろうが、戦場に立てば同じ

武士。降伏し出家すれば助命せねばならないなどという掟は、俺が否定しよ

う。だがなぜだろうな。俺は、どうも自分が武田晴信をあれの父親以上の

強敵に育て上げるためにあくせく動かされているような気がしてならんの

だ。いやむしろ、武田晴信の行く手に待ち受けるもっと重大ななにかのため

に、俺は踊らされているのかもしれん。俺よりも晴信は長く生きるだろうか

らな」

「感傷的だな。貴様と晴信とに、父と娘のような年の差があるからか?」

「俺には十人ほども子がいる。今更、そのようなことで心を動かしたりはせ

ん。そのはずだ……だが、武田晴信は、不憫ふびんだ。あれは、あのような生き方

をしていて幸せなのだろうか?」

「父親の勧めに従って駿河で絵でも描いていればよかったものを、自ら修羅

の道を選んだ女だ。惑わされるなよ村上義清」

「むろんだ。今この場で貴様に腹の内を明かすことで、俺は戦場で全力を発

揮できるのだ。鳶加藤。もしも戦場で俺が晴信を殺すことを躊躇ためらえば、俺は

武士としての面目を失い己に敗北したことになる。合戦での負けは生きるこ

とでいずれ取り返せるが、自ら手放した面目と矜持は取り戻せん。その時は、

貴様が俺を殺せ」

「承知した」

 守護の名も神氏の血も持たぬ一介の武辺者。しかしあの巨凶・武田信虎が

どうしても倒せなかった男。その武だけで、北信濃に君臨し続けた男。

 この村上義清にこの俺が手を貸せば、武田晴信の野望はそこで止まる。

 戸隠の山は、守られる。

 鳶加藤はそう確信し、笑い声を漏らしていた。



 千曲川ちくまがわ沿いを上流から中流にかけて進むと、佐久から村上義清の本拠地・

葛尾城まで一直線に街道が連なっている。

 佐久を平定した武田晴信は、この葛尾城攻略のために満を持して八千の兵

を動員した。

 中信濃を支配する小笠原長時は、信濃の運命を決するこの合戦を前にして

も、動かない。小笠原長時は同盟相手である村上義清に援軍を送るべきだっ

たが、奇策をろうして合戦らしい合戦もせずに勝ちを収めてきた文弱の姫武将

と侮っていた武田晴信が佐久で関東管領軍を容赦なく撃破する苛烈かれつな戦いを

繰り広げたことを警戒したのか、あるいは天性の日和見主義者なのか、居城

の林城にヤドカリのようにこもっている。

 村上・小笠原の連合軍が成立すれば面倒だったが、各個撃破していけば勝

率ははるかに高まる。

 ここまでは、勘助と晴信の思惑通りに、事態が進行している。

 小笠原長時の出陣を止めると同時に、孤立した村上義清の本拠・葛尾城を

晴信率いる本隊と次郎信繁率いる別働隊とが南北から挟撃する、そういう目

算だった。

 しかし、勘助得意の挟撃策は破れた。

 村上義清には葛尾城に籠城ろうじようするつもりはいささかもなく、城を出て千曲川北岸の岩鼻いわばなへと布陣したのだ。

 兵力は五千。

 対する武田軍は、千曲川を挟み南岸の上田原うえだはらに陣を構えた。

 この上田原のあたりは、遮るもののない広大な平野である。

 伏兵・奇兵のたぐいは配置できない。

 岩鼻に布陣した村上軍の背後へ別働隊を回り込ませることも地図の上では

不可能ではないが、実際には山地の長く厳しい間道を越えねばならず、あま

りにも時間と労力がかかりすぎる。それでは別働隊の奇襲を事前に気取られ

るし、それ以前に村上義清に決戦を挑むに及んで到着が間に合わない。この

ため、ついに勘助は武田軍を二手に割ることができなかった。

 村上義清は、奇策を弄しない。兵数が不利であろうとも、堂々の正面衝突

で雌雄を決するつもりだった。

 別働隊を動かして敵城を挟撃するという勘助得意の奇策が、村上義清の無

策の前に封じられたという形になる。

 しかし、禰々の死や父の追放という負い目にせき立てられている晴信は信

濃統一を焦っていた。「あちらが無策ならば、正攻法で戦うのみ」と決めた。

 勘助も、晴信の意をんで新たな陣立てを考えた。

 村上義清率いる五千の敵軍と川を隔てて対峙たいじした晴信は、重臣たちを本陣に召集して、「時は来た」と告げた。

「信濃最強の村上義清を破れば、小笠原などは戦わずして武田にくだる。これ

が信濃統一のための最後の合戦となる。勝てば、宿老の板垣信方と甘利虎泰

にはそれぞれ信濃の一城を知行地として与える。手柄を立てたそれぞれの武

将にも、知行を約束しよう。信濃全域を手に入れれば武田の国力は増す。越

後にも東海道にも進出することができる。海に出られるぞ。甲斐は、一変す

る」

 板垣と甘利。二人の老将は、「戦に勝つ前に大盤振る舞いをするのは不吉

でございます。論功行賞は、勝ち戦の後に行うもの」「城など要らぬ。わし

はただ甲斐に武田晴信あり、と天下に示すことができればそれでいい。駿河

の大殿、晴信さまのご活躍をなにとぞご覧あれ! うおおおおん!」と落ち

着き払い、あるいは豪快に騒ぎ、いつもと変わらない。

 佐久では国人・豪族・領民たちの執拗な抵抗に遭って手こずったが、晴信

は家督を継いで以来いちどの負け戦も経験していない。晴信の留守中に反旗

を翻した者たちも、晴信自身が出兵すればことごとく敗れ去った。

「御屋形さま。こたびの戦、正面から衝突して押し切れればよろしいのです

が、武田軍は連戦続きで疲弊しております。数で圧倒しているとはいえ村上

軍を侮ってはなりませんぞ」

「板垣は心配性だな。焦ってはいない。今更に村上義清個人の武勇で覆せる

ような戦力差ではなかろう。なにも問題はない」

「軍師どのは如何お考えか?」

 勘助が「左様ですな」と顔を上げた。

「別働隊を出して挟撃するが最上の策なれど、己の武を頼む村上義清は籠城

を選びませんでした。しかも意外にも村上陣営の諜報網は強うござる。各地

へ物見に出した兵たちが戻ってきませぬ」

「おおかた、戸隠の忍びと結んだのであろうな」

「こちらも多くの忍びを抱える真田の者どもを雇えればよかったのですが、

まだ上州を去る決意ができぬ模様。すでに関東管領の権威は地に落ち、上州

も滅びを待つばかりなのですが」

「真田は、御屋形さまにご不信があるのかもしれぬな」

「いえ。真田はかつて、信虎さまと村上義清、諏訪家の連合軍に城を奪われ

ておりますれば、武田と村上が再び同盟する可能性が消えるまでは信濃には

戻らぬが得策と用心深く考えているようです。真田幸隆さなだゆきたかはなかなかのたぬき

「今の真田は本領を失い上州の食客になっておる身だ。ここで上州を飛びだ

したはいいが信濃の本領にも戻れなかったとあらば真田の一族は行き場を失

い四分五裂する。慎重にもなろう。こたびの戦いで両軍が壮絶な死闘を繰り

広げれば、真田は武田方につくであろうか? 勘助」

「板垣どの、それは間違いありますまい。武田と村上の関係が破綻すれば、

旧領の真田の庄を回復する絶好の機会となりましょうからな」

「真田を帰順させたのちに村上との決戦に及ぶべきだと拙者は考えておった

が、そういうことであれば村上とこの場で戦うしかあるまいな」

 大殿を追放する際には、猿飛佐助の「猿飛の術」が役に立った。佐助の異

能なくばあの奇策は不可能だったといっていい。勘助の軍略が戦場で縦横無

尽にえ渡るためには、真田の忍びどもが持つ異形の力がどうしても必要な

のだ、と板垣がうなずいた。

 老将板垣も、晴信と勘助の戦のやりようを理解しはじめている。力押しで

はなく、情報戦と調略によって合戦以前の段階であらかじめ勝ってしまう。

それが二人の理想とする合戦だった。しかしそのためには真田の一族という

人材が必要だった。巨凶・信虎が長年にわたって率いてきた武田軍には、猛

将勇将こそ集まっているが、智将や忍びといった影働きの者たちが絶対的に

不足している。信虎は謀略を用いたが、それはすべて己一人の頭で考えて実

行したものだった。信虎は自分以外の謀臣やましてや忍びなどを、いっさい

信じなかったのだ。それゆえにわれらは今こうして村上義清と正面から対決

する羽目になったのだと。

「だがな板垣の親父さん。佐久で、俺たちは少々やりすぎた。村上軍の連中

は敗れれば金山へ送られると互いにうわさしあっていて、全員決死の覚悟だ。諏訪での高遠との戦いなどとは比べものにならん。連中の士気は高い。四郎さ

まという手品の種も使えない。厳しい戦になるぞ」

 軍議にほとんど耳を貸さず、もくもくとやりを手入れしていた横田備中が、

ぶっきらぼうにつぶやく。

「もっとも俺は、こういう生きるか死ぬかの戦のほうがうれしいがな」

 四天王中紅一点の姫武将・飯富兵部がイナゴの佃煮を頭からかじりながら

「そうさね」とうなずく。

「大殿が仇敵きゆうてきだった村上義清や諏訪頼重と同盟を結んだ時、あたしたちは

がっかりしたもんさ。とりわけ諏訪との婚姻同盟を成立させたことはね……

佐久ごときを奪うために信濃全土を併呑するという野望を捨てちまったのか、

とね。しかし今、御屋形さまは諏訪を平定し佐久を独力で奪い、信濃制覇に

王手をかけた。今川・北条と固く結ぶという奇策を用いてね。大殿の戦略を

全部、あたしたちの手でひっくり返してやろうぜ」

「おう。堂々と戦って村上を破れば、親父どのも二度と姉上を臆病者だとは

ののしれねえ! あの親父どのですら、村上義清には勝てなかったんだからな! 

信濃を平定すれば、きっと禰々も浮かばれる」

 晴信の弟の太郎が、飯富兵部の肩をぽんと叩いた。

「きゃっ? 太郎? お前、今あたしの胸を触らなかったか?」

「え? 触ってねえよ? だいいち、お前に胸なんてあったか?」

「あるよっ! あたしだってもう子供じゃないんだ。ガキの頃みたいに勝手

に冗談半分であたしの胸をまさぐったりしたら、殺すぞ」

「こらこら兵部。主筋の太郎さまに『殺すぞ』はいかん。まるっきり子供の

言いぐさではないか」

 甘利虎泰が笑い、飯富兵部が「だってこいつ、相変わらずあたしを女だと

思っていないんだ」と唇をとがらせた。

「そうか。飯富兵部は、女だったっけか」

「横田。あんたまでそれを言うのか?」

「俺は神頼みはしねえが、験を担ぐんだ。お前のような豪傑の姫武将が急に

色気づいて『あたしは女だ』と言いだしたり、俺のような独り身を貫いてき

た戦争屋が『この合戦が終わったら俺はあの女に祝言を申し込む』と恋話を

吹きはじめたらそいつは戦で死ぬ予兆だぜ。やめておけ」

「おいこら横田。やせっぽちのあたしがいつ張飛ちようひみたいな豪傑になったよ?」

「今だってそうやって、イナゴを食い散らかしている」

「伊那ではみんな食ってるよっ! 栄養あるんだぜ、これ。毎日食えば少し

は胸も膨らむかもな、姫さまみたいに。っていうか横田。あんたみたいな男

の口から祝言なんて言葉が飛びだすとはな。あんたこそ死にそうだな、はは

はっ」

「そうだな。俺が戦場で強いのは、なにも背負っていないからだ。いつ討ち

死にしようが、どうでもいい。ただ目先の敵の首さえ落とせれば俺はそれで

満足だ。いちど守る者を背負っちまうと、俺のような闘犬は弱くなるものさ。

だが……それはそれで犬の死に様としては、幸せなものかもな」

「……横田?」

 横田も飯富もまだ死に様を云々うんぬんするのは早い。死ぬのはわしらのような老

人からじゃ愚か者どもめと甘利虎泰がまた説教をはじめ、板垣信方が「いや

いや誰が欠けてもならぬ。御屋形さまがお心を痛められるゆえにな。少なく

とも武田が信濃を統一するまではな」と苦笑した。

 まことに、と勘助がうなずいた。

 今の武田家は、信虎時代とはまるで違っている。

 みなが御屋形さまのもとに仲間として集い、疑似家族として結束している。

 この人の和こそ、武田家と御屋形さまにとってなによりも大切なものだ。

決戦といえどもこの和を失いかねぬ無理押しはならぬ、と勘助は確信してい

た。

「とはいえこの決戦、無傷では勝てますまい。これは武田が戦国大名として

生まれ変わるための産みの苦しみと言ってもいいでしょうな。みなの衆、よ

ろしく頼み申す」

「いや勘助。あたしは強引な戦で四天王たちを失いたくはない。四天王は父

上が甲斐に残してくれた貴重な財産だ。万が一にも形勢不利とみれば、退こ

う。もっとも、この戦力差があれば万が一はないはずだが」

 しかし、ありえない万が一がありえるのが、現実の戦だった。

 晴信は(無傷で圧勝できればよいのだけれど、数だけを頼みに勝ちきれる

かしら)と内心不安を覚えながらも、その不安を押し殺そうとけんめいに

戦っていた。迷えば、その迷いが采配を誤らせる。河越では、迷った関東連

合軍が滅び、迷わなかった北条氏康が勝った。氏康は河越城に小勢で籠城し

た義妹・綱成を最後まで信じ、綱成も氏康が必ず救援に来てくれると信じて

いた。どちらかが迷っていれば、敗れていた戦だった。

 晴信が「これより千曲川を渡り村上と決戦する」と告げようとした時。

 じっと軍議を見守っていた副将の次郎が「姉上。わたしも諏訪すわ法性ほつしようかぶとかぶっていい?」と唐突に言いだした。

「じ、次郎ちゃん?」

「軍議の席でちゃん付けはダメ。次郎信繁よ、姉上」

「そ、そうだったわね。いきなり妙なことを言いだすから、なにごとかと

思って」

「わたしと姉上は、遠目にはよく似ているでしょう? 諏訪法性の兜を被れ

ば見分けがつかないわ。万が一の時に影武者としての役目を果たせれば、と

閃いたの」

「あれはひとつしかないし、あなたに危険な影武者の仕事をやらせるわけに

はいかないわ」

「それでは兜の偽物を造っておいて、勘助。次の戦には間に合わせてね」

「……影武者、ですか。たしかに妙案だとは思いますが、次郎さまが務める

ことは認められませぬな。危険です」

「そうだぜ次郎姉さん。影武者働きなら、孫六にでもやらせりゃいい。孫六

こそ姉上にうり二つだからな」

 次郎がなぜ急にこんなことを言いだしたのか、勘助にも晴信にもいまいち

理解できなかった。次郎は、あるいはなにかを予感しているのかもしれな

かった。

 横田備中が「……戦国の世だ。弱い者から先に滅びていく。俺たちが戦え

ば戦うほど、敵は次々と強くなっていく」と酒をあおりながらつぶやいてい

た。

「村上義清を倒せば、いずれさらなる強敵が現れるだろうな。俺たちはその

ことごとくと戦い、勝たねばならん。俺は、武田軍が日ノ本最強となる瞬間

を見てみたい」



 上田原の合戦が行われたその日は、旧暦の二月十四日と伝えられる。

 旧暦と新暦の違いこそあれ、現代の日本であれば、武田晴信はまだ女学生

として学校に通っていて、バレンタインデーという祝祭を迎えているはずだ。

 しかし時代は戦国の世であり、晴信は合戦を宿命づけられた姫武将だった。

 明け方。

 千曲川を挟み、武田軍と村上軍の激突がはじまった。

 勘助は、武田軍を三段に分けた。

 先鋒せんぽうに、宿老の板垣・甘利たち。諏訪衆がその主力である。

 中備えに、次郎信繁率いる郎党衆たち。太郎や飯富兵部はこの中軍に配備

されている。

 後衛に、晴信自身が率いる近衛このえ軍。

 血気盛んな若手ではなく、老獪ろうかいな板垣信方に先鋒を任せた。村上義清はお

そらく最初の突進にすべてを懸けている。その村上義清の突進を、板垣の熟

練の戦略眼と采配によって避けようというのである。「後の先」を取ろう、

板垣ならば取ってくれるだろう、それが勘助の読みだった。

 この時点で勘助もそして晴信も、従来の戦いとは異なりわずかに一歩腰が

引けていたといっていい。

 先鋒隊を率いて千曲川を押し渡りはじめた板垣信方は、自身の役割を熟知

していた。

 まずは川を渡る姿勢を見せて、先手を取る。

 これを見た村上義清は「先手を取られまい」と全力で迎撃する。

 この村上軍の圧力を受け流しながら悠々と元来た川岸へと引き上げ、「後

の先」を取る。

 闘気をらされて猛り狂う村上軍は川を渡りきり、武田が待ち受ける南岸

へと押し寄せてくる。

 だが、武田が数で勝る。さらに、突出させた村上軍を背水の形に追い込む

ことで地の利も得る。甘利隊、信繁隊、飯富隊とともにじわじわと包囲して

いく――。

 村上義清は、己の武を頼みにひたすら突進する男だ。

 正面から当たれば大やけどを負う。矛先をかわし、武田に有利な地へ、有

利な地へと村上軍を誘導する、それがわが使命。

 この日の朝。運命の一戦を勘助と晴信から託された板垣信方は冴え渡って

いた、はずだった。

 だが、板垣率いる先方隊は、最初の一当たりによってあっけなく崩された。

 村上の弓隊が、開戦の挨拶あいさつとばかりに矢を放った後――。

 異様な軍団、異様な陣形が、板垣の面前に突如として出現していた。

 途方もなく長い槍を構えた足軽たちが、びっしりとありのように密集して、

一直線に板垣信方めがけてすさまじい形相で突進してきたのである。

「あれはなんだ。まるで、槍衾やりぶすまではないか」

 槍? それにしては長い!? あれでは敵を突くこともできぬ、と板垣は驚

いた。しかし、それらは突くための武器ではなかった。押し寄せながら、殴

りつけてくる。間合いが違う。板垣隊の足軽たちが構えた槍が届かぬ距離か

ら、重さにあかせて殴ってくる。

 無数の長槍をすり抜けて刀で斬り込みをかけようとした豪の者たちも、ま

るでひとつの生き物のように連動して動く長槍の触手のような動きに捕まり、

叩きのめされていく。

 一対多。

 いかように闘おうとしても、こちらの武士は一。向こうの足軽は多数。

 しかも、間合いが違いすぎる。一方的に攻撃を受ける、それも多数から。

 この長大な槍を無数に連ねた「歩く要塞ようさい」を前にしては、いかなるつわも

のといえどもそのような不利な戦い方しかできない。

「いかん! これでは刀の技も槍の技も通じぬ! ゆるりと退け、退け!」

 美濃で「下克上」を果たした斎藤道三さいとうどうさんが長槍部隊による「槍衾」戦術を考

案していた頃、この信濃でも村上義清が期せずして同じ戦術を発明し、そし

て対武田戦という実戦に槍衾を投入していたのだった。

「考えたな村上義清。まさか一騎討ちにこだわるあの豪の者が、もののふの

武の技量を無力化するこのような集団戦術を編み出すとは。ただ猪突ちよとつ猛進し

てくると決めてかかっていたわれらの手抜かりであった」

 信虎が鍛え上げてきた武田軍は、個人の武勇に頼むところが大きい。その

意味で、旧態依然とした軍だった。

 その武田軍でこれまで功績を稼いでいた腕自慢の武士たちが、名もなき足

軽たちの槍衾によって、次々と倒されていく。

 板垣隊最強の勇者・初鹿伝右衛門はじかのでんえもんがなすすべもなく槍衾の餌食えじきとなって川

底へ沈んだその時――。

 千曲川を半ばまで渡りきっていた板垣隊は、どっと崩れた。

「村上義清と直接戦った経験がある拙者や甘利ら老臣の情報を、御屋形さま

も勘助も鵜呑うのみにしていたのだ。あの二人には村上戦の経験がなく、それが

したちにはあった。それゆえにわれらの意見が尊重された。だが、それが過

ちだった」

「その通りだ。板垣信方。貴様は武田信虎の重臣ではあったが、武田晴信が

造ろうとしている新しき甲斐、新しき武田軍にとっては時代遅れの老将よ」

 敵本陣からただ一騎で飛びだしてきた村上義清が、黒馬にまたがって川を押

し渡ってきた。

 武田信虎を彷彿ほうふつとさせる殺気と獣臭をその身体から放ちながら、しかしそ

獰猛どうもうな視線には憎悪も猜疑さいぎ心もなにもない。山に潜み獲物を狩る、狼の視

線だった。

「この千曲川が、貴様らの三途さんずの川だ。武田家中興を果たした名将板垣よ。

最期は、この俺の手で冥土めいどへ送ってやろう」

 板垣さまを、殿をお守りせよ!と次々と村上義清に勝負を挑んだ武田侍た

ちが、首を飛ばされあるいは腕を落とされて千曲川の激流へと投げ出されて

いく。

 主を失った馬たちが、悲しげにえる。

 村上義清は馬を殺さず、馬上に跨がる武士だけを討った。

 圧倒的な武の力だった。

 この男が戦国の習いを無視した集団戦術を編み出すなど、山本勘助にすら

予想できなかったろう。勘助にはやはりまだ実戦経験が欠けている。逆に、

村上義清が己の本能に反するような槍衾戦術を閃いたのは、ひとえに実戦経

験の積み重ねゆえだった。己一人の武の力では武田の侵略は止められぬと追

い詰められてこそ、閃いたのだろう。この男は頭で考える戦はできない。野

獣のように、考えるより先に身体を動かし敵を討つのみ。その獣の嗅覚きゆうかくが、

槍衾を生んだらしい。

 このような戦術は、頭でこしらえる学問からは生まれまい。

 やはり勘助と御屋形さまに足りぬものは、実戦経験であった。

 拙者はすでに老いたが、村上義清はまだ老いてはいない。むしろ今こそが

この男の武将としての全盛期であるかのようだ、と板垣は目を細めた。

 この圧力は止められぬ。矛先をかわすこともできぬ。村上義清は、われら

に「後の先」を取らせはしなかった。そのために村上は、この一戦で全軍玉

砕するつもりで後先も考えずに突撃をかけてきた。これでは仮に村上軍が武

田軍を破ろうが、村上軍とて大打撃を負うだろう。それが村上義清の恐ろし

さでもあり、「故郷の地を守る」という以外の野望を持たぬ者の強みでもあ

る、と板垣は思った。この戦いののちも四方で次々と合戦を繰り広げねばな

らぬ武田軍には決してできぬ無謀な突撃だ、と。いや、それこそが御屋形さ

まの弱みであったのかもしれぬ。

「全軍、川岸へ戻れ! 川岸に陣を張り、首実検を行う!」

 御屋形さまを逃がすために、時間を稼がねばならない。

(時間さえあれば、勘助がなにか起死回生の策を閃くやもしれぬ。策が見当

たらなくても、逃げることはできる)

 板垣は自ら盾になろうとした。

 愚かにも、合戦中の最前線に陣を敷くと称して板垣隊そのものを「壁」と

なし、川の流れの中を突き進んでくる村上義清と槍衾部隊の進撃をわずかで

も阻もうとした。

 板垣に長年仕えてきた兵士たちも、大将の意を汲んで即座に川岸へずらり

と並び、人間と馬とで「壁」を築きはじめていた。

 後方から甘利虎泰隊が、板垣を救おうと慌てて突進してくる姿が見えた。

「馬鹿者め。甘利は相変わらず、人情だけで動いておるわ。御屋形さまをお

守りせよ、拙者は捨て殺しにせよと怒鳴りつけたいところだが――何十年も

ともに戦った男だ。あやつの性格は今更変えられぬ」

 いつもそうだった。戦場においては拙者がさかしらに策を練り采配を振る

い、大殿と甘利がその武の力を惜しみなく発揮して拙者が頭でひねり出した

策の足りぬところを補ってくれたのだ。

 すでに、大殿は駿河。拙者たちが追ったのだ。大殿の役目はすでに御屋形

さまに。策を練る役は勘助に。武を発揮する役は、まだ若い横田や飯富が負

うことになりつつあった。この一戦に勝利し信濃を平定すれば拙者も甘利も

引退する潮時であったが、それほど甘くはなかった。

「甘利。拙者とともに死ぬつもりか」

 板垣は青空を眺めながら、小姓が準備した床几しようぎに座った。

 川岸へと村上隊が突進してくるさまを眺めながら、「首実検は長びきそう

である。拙者はこの場を動けぬ」と笑った。

「いかんな。もしも大殿が村上義清であったなら、御屋形さまはきっとかか

る追放劇などを決行することもなかったろうに、などとありえぬ世迷よまよごと

……拙者の天運は、尽きていたらしい」

「うおおおお! 勝手なことを抜かすな、板垣よ! ともに大殿を駿河に

追っておきながら、この正念場で御屋形さまを置いてさっさと討ち死にしよ

うなど、貴様は昔から考えすぎる!」

 甘利虎泰率いる甘利隊が、わざわざ「壁」となっていた板垣隊へと加勢し

てきた。板垣の背後に、馬に乗り槍を振り回す甘利の姿があった。

「愚かな。われら二人が集まってどうする。村上の思うつぼだ。やつにはまだ

奥の手が、第二の矢があるはずだ。散れ!」

「板垣! 老いたうぬ一人では苦もなく村上に斬られるわ! わしが一騎討

ちを仕掛ける! この戦の勝機はそこにしかない!」

「……われらは大殿のもとでともに討ち死にするべきであったかな、甘利」

「考えるな! そいつが貴様の悪い癖じゃ! われらが盾となることで御屋

形さまは必ずや生き延びられよう! 御屋形さまを信じよ!」

「そうであったな。おぬしには何度も助けられてきたな、甘利。礼を言う」

「ええい。そのような泣き言は、三途の川を渡ってから言えい!」

 天を突く勢いで、渡川とせんを終えた村上軍が、突進してきた。

 あの、槍衾隊である。

 人と馬とで築いた即席の「壁」は、容易に突き崩された。

 漆黒のよろいに身を包んだ村上義清が、左右に走らせている旗本隊を引き連れ、

板垣信方が待ち受ける陣中へと乱入してきた。

「板垣信方に、甘利虎泰か。悪いが時間は稼がせぬ。俺の流儀ではないが、

一瞬で終わらせる。天の時がわが頭上に輝いているならば、まもなく晴信は

死ぬ。だが天の時が晴信のもとにあるならば、俺は武田晴信率いる武田軍を

新たに生まれ変わらせるという大仕事を手伝ってやったということになろう

――」

 馬上で咆哮ほうこうする村上義清を見上げながら、板垣信方は答えていた。

「そうとも。今日の勝ちはそなたのものだ。しかし御屋形さまはこの経験に

よって、お強くなられる。日ノ本一の武将になられる」

「いや、まだだ。まだひよっこだ。女は、武将にはなりきれん。なりきる前

に、俺がその首を落とす」

「ならねばならぬ、御屋形さまはな」

 村上義清が馬にむちを入れ、板垣が座る床几めがけて再び走りはじめた。

 甘利虎泰がこれも馬上で槍をしごきながら、その村上義清へと突進した。

「村上義清! この甘利虎泰が相手じゃああああ! いざ尋常に勝負せ

よ!」

「応!」

 わしも老いた、この狼には勝てぬ! 一撃で討たれる! 貴様はこの一騎

討ちの隙を掴め! 卑劣であろうがなんであろうが村上義清をここで止め

よ! と、甘利は言外に板垣へとその最期の意志を伝えていた。

 数十年もともに戦ってきた同志である。

 板垣には、その甘利の命をした意志が伝わった。

 馬を寄せ合い両雄が槍を交わそうとしたその刹那せつなに、板垣信方は「武士に

あるまじき外道な振る舞いなれど、われら二人の命とひきかえに許していた

だく。ご免!」と素早く抜刀して村上義清が操る黒馬の脚を切り落とそうと

した。

 しかし、腰から抜いたはずの刀が、なかった。

 その手には、なにも握られてはいなかった。

 なにごともなかったかのように村上義清が馬上で槍を跳ね上げると同時に

鬼の形相と化した甘利虎泰の首が宙を舞い、そしてその足下では板垣信方が

胸から鮮血を噴きだしながら崩れ落ちていた。

「勘助……! 御屋形さまを、頼むぞ……」

 大殿、お先に参りまする、とつぶやいて、武田家の宿老・板垣信方はなぜ

自分が致命傷を負ったのかも理解できぬままに絶命していた。

「晴信の本陣へ行け、村上義清。貴様の行く手を遮る者は、俺が始末する」

 鳶加藤の声だけが、義清の耳元に響いていた。

 すでに鳶加藤の本体は、足軽兵の中へと紛れ込んでいるらしい。

 いつ忽然こつぜんと乱入して板垣から刀を奪い、いつその刀を板垣の胸に刺したの

か、文字通り目にも留まらぬ早業だった。

 どうやって移動し、どうやって仕留めたのか、武の化身とも言える村上義

清にも理解しがたかった。

「これが貴様の鳶ノ術か。なるほど、外道の術だな。だが晴信は殺すなよ。

それは、俺の役目だ」

 俺は女は殺さん、行け、と鳶加藤が槍衾部隊の一軍に交じりあいながら、

笑った。

「板垣信方さま、討ち死に!」

「甘利虎泰さま、討ち死に!」

「わが軍の勇士が、続々と討ち死にしております! 村上方の奇怪な長槍隊

に対処できませぬ!」

「総大将の村上義清自らが旗本衆を率いて、この武田本陣をめがけて突進し

て参ります!」

「村上軍の被害も甚大なれど、退くつもりのない玉砕戦を挑んで来ました!」

 千曲川沿いに展開した味方の先鋒が次々と総崩れになっている光景を凝視

しながら、武田本陣は騒然となっていた。

 晴信は「板垣と、甘利が」と思わず声を詰まらせたが、次郎と二人きりの

時以外は決して涙を見せまいと禰々の墓前で誓ったことを思いだし、かろう

じて踏みとどまった。無意識のうちに自らの唇を噛み破り、赤い血を流して

いた。

 誰からともなく、村上義清が繰り出してきた奇態な長槍の集団を、槍衾、

と名付けていた。

 勘助とあたしの兵法はほぼすべて、学問。すなわち、学んだもの。兵站。

情報戦。謀略に挟撃。戦場に新たな兵器を投入し、その兵器を生かすための

新たな陣形を考案することまでは、できなかった。いや、無数の長槍を足軽

に持たせて戦闘時の間合いを完全に奪い、こちらに攻撃する猶予すら与えな

い槍衾を構築するなど、完全に盲点だった。その上、あらゆる計算と策略を

覆す村上義清の圧倒的な武。見くびったり侮ったりしたつもりはなかった。

板垣と甘利から、村上の武勇については何度も聞かされていた。だが、これ

ほどとは。あの、猛将甘利虎泰を一撃で討ち果たすとは。

 やはり、村上が城から出て野戦を挑んできたところで、いったん兵を退い

て策を練り直すべきだったのだろうか?

 智者は智に溺れるとはこのことかもしれない、と晴信は悔いた。

 それにしても、あの二人がこんなにもあっけなく、この地上から消え去っ

てしまうとは。

 板垣信方は、晴信の守り役だった。晴信を疎んじた信虎に代わって、父の

ように晴信を守り、教え諭し、信虎追放劇の際にも動揺する家臣団をまとめ

て自分のために奔走してくれた。

 その板垣が――。

 別れの言葉もなく――。

 辞世の句を詠む猶予すら与えられず――。

 村上義清は「姫武将といえど武士。降伏など認めぬ」と晴信の首だけを求

めて戦場のただ中を駆けているという。しかし己の死が間近に迫っているこ

とよりも、武田家の柱石と頼んできた彼らを失った衝撃のほうが晴信にはは

るかに痛かった。今までの人生で、これほどの恐慌状態を来したことはな

かった。いったいどうすればいいだろう。どうすれば。父上が村上義清と和

睦した選択は正しかったのだろうか。身の程を知らないあたしの野望のため

にあの二人の忠臣は、多くの将兵は、武田家を支えてきた勇者たちは、死な

ずともよい死を迎えたのだろうか。

 乱世の恐ろしさ、合戦の激しさに、晴信は身震いしていた。

 涙よりも先に、脂汗が流れおちていた。脇腹の猛烈な痛みと、吐き気に襲

われていた。

「勘助は。勘助はいずこに」

 軍師の姿が本陣内に見えなかった。

「中軍の次郎信繁さまのもとに。次郎さまは必ず御屋形さまの盾とならんと

玉砕すべく突進する、それをお止めする、と」

 背後に侍っていた小姓が震えながら伝えた。

 山本勘助は、板垣隊が崩れるのを見ると同時に、馬に乗って次郎を諫止かんし

るべく飛びだしていったのだという。

 次郎さまの討ち死にだけは阻止せねばならない、今ここで次郎さまが失わ

れれば御屋形さまのお心はたぬ、と言い残して。

 板垣信方は生前、勘助の知が策に傾きそこに情がないことを何度も警告し

教え導こうとしていた。その性格ゆえか容貌ゆえか、あるいは天性の一匹狼

であったのか、人情というものが生来理解できなかったその勘助が、晴信そ

して四郎との出会いと交流を通じて、板垣の訓戒を通じて、はじめて情とい

うものを知った。

 目の前の戦における言い訳のきかない敗北を自称天下一軍師として糊塗こと

するよりも、勘助は、窮地に陥った晴信の心がもっとも今望んでいるであろうことをそうとした。そして、駆けた。

 しかし、情を知ってしまい情を抱いてしまっただけ、勘助は無敵ではいら

れなくなったのだろう。かつての勘助であれば逆転勝利の可能性を掴むため

ならば次郎をも捨て駒として切り捨てようとしたはずだ、と晴信は思った。

すまない。あたしがふがいないばかりに、お前の戦歴に黒星をつけてしまっ

た、と勘助に感謝しながらびた。

(勘助。死ぬな。死んではならない)

 小姓の一人が「御屋形さまをお救いする策を出さずに無断で飛びだすとは、

軍師にあるまじき行動です」と吐き捨てるように口走っていた。

「勘助は左様な無責任な軍師ではない。なにか策を言い残していったはずだ

ぞ。告げよ」

「お、『御屋形さまはすべてを捨てて一目散に逃げよ』と、だけ」

「それは正しい。勘助の言う通りだ。あたしがここで死ねば武田家は滅び去

る。今は恥も外聞も捨てて逃げるしかあるまい。だが――村上義清は、その

猶予を与えてはくれなかったようだ」

 幔幕まんまくが突き破られ、巨大な黒馬に跨がった武者が晴信の視界に入った。

 その男の姿の中に、晴信は武田信虎の影を、見ていた。

 あたしが父上から奪い取ったもののすべてを、この男は、あたしから根こ

そぎ奪い取ってしまう。これはあたしへの罰だ。父上が、同盟者をあたしの

もとへよこしたのだ。あたしの首を奪うために。

 極限状態でふと生じたこの思考の錯誤から、晴信の心は突如としてあらが

いがたい恐怖に囚われていた。

 床几に座ったまま、身動きができない。

 机の上に置いた軍配を手に取ることができない。

 このような獣じみた男に、この細腕で勝てるはずがない。

「武田晴信、その首をいただく。葛尾城主村上義清、参る」

 勘助ともあろうものが、あたしが逃げる猶予を与えられなかった時のため

の策を準備していなかったはずはない――と晴信は己を励まし、軍配に手を

伸ばそうとした。

 ごぉ、と村上義清の槍が音を立てて晴信の頭上へ落ちてきた。

 ほんの一瞬ではあったが、恐怖で身体が言うことを利いてくれなかった。

 その一瞬が、生死を分けた。

 晴信は、臆病のために自分の命運がここで尽きた、と覚悟し絶望した。

 右肩に、激痛が走った。

 村上義清の槍の直撃を受けた。

 あとほんのわずか後に、肩の付け根から、右腕を飛ばされるはずだった。

 しかし、勘助は自ら次郎信繁を救いに行くと同時に、晴信の命運を自らの

「教え子」たちに託していた。

 村上義清が必殺の気迫を込めて振り下ろした槍先を巨大なつちで受けてぎり

ぎりではじき返し、晴信の命を防ぎ止めた者がいた。

「……あー……馬場信房、見参」

 鎚の使い手は、長身の姫武将、馬場信房。

 小姓衆の中に身を小さくして紛れていたらしい。

 俺の槍を受けきる女がいたとは、と村上義清は目を見開いていた。

「逃げましょう、姫さま!」

 床几から転がり落ち、流血する肩を押さえてうめいていた晴信を庇か《かば》うは春日源五郎。

「姫小姓だらけの本陣だと!? 武田晴信! この俺をめていたか!」

 その姫小姓どもに必殺の一撃を外されたわが慢心こそが不覚にして恥辱! 

青ざめた村上義清が「邪魔だてする者は女であろうとも叩き斬る」と怒気を

放ちながら、鎚を引き上げて再び構えに入ろうとしていた馬場信房へと躊躇ちゆうちよなく躍りかかる。

「馬場信房とやら、死ね。その重い鎚では、俺の槍の速度には追いつけん」

 その村上義清の左手から、鉄扇が。

 右手からは、何の変哲もない「石」が次々と放たれてきた。

「姫さまをやらせはしないわ!」

「いいい石つぶての目つぶしです!」

 小姓衆に紛れていた飯富三郎兵衛が鉄扇を、そしてみのを着込んで完全に気

配を消していた工藤なにがしが石つぶてを、左右から同時に村上義清めがけ

投擲とうてきしてきた。二発目、三発目、四発目、と息を継ぐ暇もなく。

 山本勘助は、教え子である彼女たちに「馬場信房は鎚の一撃を繰り出した

後、無防備になる。姫武将であるそなたたちに忍びになれとは言わぬが、戦

場で馬場を補完する特技を身につけよ。乱戦において御屋形さまをお守りす

るため、そしてお互いを守りあうためである」と槍・弓・刀以外の独自の技

を習得させていた。

 なるほど。三方からの同時攻撃か。忍びまがいの術を姫武将どもに教え込

んだのは山本勘助か。俺を侮っていたわけではなかったらしい――と村上義

清は苦笑いを浮かべた。石と鉄扇とは、それぞれ異なる軌道を描いて変化し

ながら飛んでくる。とりわけ、重量の軽い石が厄介だった。一発、二発を食

らっても問題はないが、飛びながら奇妙に曲がったり落ちたりする。これら

すべてを変幻自在にうねる槍先で払い落としている隙に、正面の馬場信房が

再び鎚を振りあげて村上義清の頭を兜ごと叩き潰そうと迫ってくる。

「が、しょせんは覚え立ての児戯よ。実戦ではまだ使いものにならん」

 村上義清が槍の射程内に再び馬場信房を捉えたこの時。

 晴信を背負って本陣から逃げようとしていた春日源五郎が、不意に村上義

清の首筋めがけて、小刀を投げていた。それも、背を向けて逃げながらだっ

た。

「……背面投げ!?」

 逃げることしか頭になさそうなこの娘が……そうか、四人目がいたか、勘

助得意の詐術か!と義清はうなった。小刀の直撃を避けるために馬上で身を

かわし、太股ふとももの力だけで馬の背に踏みとどまりながら、馬場信房が振り下ろ

してきた鎚を両腕で盾代わりに握りしめた槍の柄で受けた。義清に勝るとも

劣らぬ、すさまじい剛力だった。まして、槍と鎚とでは圧倒的な重量差があ

る。この姫武将ははじめから己を守ることをいっさい考えていない、三人の

姫武将による支援を信じているのだ、と義清は思った。

「どうやら俺は貴様らを甘く見ていたな。だが……」

 だが、これまでだ。これ以上晴信に時間を与えるつもりはない。

 村上義清は盾代わりに構えていた槍を押し戻して馬場信房の鎚をはね飛ば

すと、雄雄雄雄おおおお、と異様な雄叫びをあげていた。

「フフ。意外と手間取ったようだな、村上義清。物珍しさにかれて遊んで

しまったか。晴信は、俺が殺ろう」

 この時、義清が引き連れてきた村上家の旗本衆は、武田本陣前で晴信の旗

本衆を相手に激しい攻防を繰り広げていた。その中に、鳶加藤が紛れていた。

 陣幕の奥に展開している戦いの詳細は鳶加藤には見えないが、音と気配で

おおよそのことは予想できた。

 村上義清は奇襲攻撃などで殺せる相手ではない。次の一撃を突破口に、晴

信を守ろうと本陣内に踏みとどまっている姫武将をことごとく倒すだろう。

殺し尽くすだろう。

 しかし、その時には晴信は本陣を脱出しているだろう。

 それこそがあちらの姫武将たちの目的。義清を殺せるとははじめから思っ

ていない。全員が捨て石となって、時を稼いでいるのだ。

「……鳶加藤、参る。武田晴信。女は殺さぬと誓っていたが、貴様は別だ。

貴様が人を束ねて死地へと送り込むその才気は、男女の別などを超越してい

る」

 鳶ノ術を、使った。

 乱戦のさなか、全身から、「気」を解放した。

 村上軍の兵たちにも武田軍の兵たちにも、鳶加藤の身体が瞬時にして消え

たように見えた。

 鳶ノ術は、術者の身体がさも瞬間移動するかのごとく見せる術。

 だが、肉体の修練のみによって手に入れられる忍びの「技」ではない。

 戸隠のご神体である「岩」から放たれる目に見えない「力」を浴びて生き

延びた者のうち、ごく限られた特別な者だけが発現することのできる「神

業」だった。

 鳶ノ術を発動させた術者の肉体は、瞬きするほどのごく短い時間ではある

が、己の身体を引き寄せている大地の力を、断ち切る。

 大地の拘束から放たれた瞬間、術者は、遮蔽しやへい物さえなければ空間内を自在

に移動できる。

 この神業を用いて、瞬時に人々の「死角」に入る。

 この時も鳶加藤は、鳶ノ術によって大地を蹴り、宙を舞って戦場から離脱

し、人々の視界から瞬時に消え去った。

 長時間は保たない。この呪われた神業を用いて大地の力を断ち切り続けれ

ば、己の五体もまたひとつの個体を維持することができなくなり、いずれば

らばらに砕け散ってしまうからだ。

 だが、わずかな時間のうちに虚を突いて「瞬間移動」したかの如く忽然こつぜん

武田晴信の背後を奪うことはできる――乱戦のまっただ中で、板垣信方の死

角に忽然と入り込んで彼自身の刀で板垣を刺殺した時のように――そして、

暗殺を為し終えると同時に瞬時にその場から離脱することもできる。

 この鳶ノ技を発現し得て、かつ肉体の修練によって磨いた忍びの技術と融

合させて実戦で用いることができる術者は、戸隠忍びの中でもただの二人し

かいない。

 一人が、戸隠最強の忍び・鳶加藤。

 もう一人が、同じ技を体得しながら術名を「猿飛の術」と称する佐助。し

かし佐助は瞬間移動に見せかけるよりも大地の力を断って自ら「宙を舞う」

さまを相手に見せて喜んでいる手合いだ。性格も術も、暗殺者向きではない。

 そしてその佐助は不在だった。いまだ上州で日和見をしている真田一族の

もとにいるらしい。

(今この上田原に、俺を止められる者はいない)

 武田の姫武将たちが気づいた時にはもう晴信はこときれている。あとはそ

のことに気づくのが先かやつらの首が義清の槍に飛ばされるのが先か、それ

だけよ、と鳶加藤はこの時自らの勝利を確信していた。

 だが村上軍の旗本衆の中に、鳶加藤が飛び上がって戦場から消えたように

見せかけたことを察知して「上から来る!」と叫んでいた者がいた。

 男装した忍びだった。

 武田方の間者として村上軍に潜り込んでいた娘らしい。

「鳶加藤は上空から来るぞ、妹よ!」

 よくぞ見抜いた。だが遠い。この喧噪けんそうだ。本陣の中にいる連中には貴様の

声など伝わらない。村上義清との攻防に全神経を集中しているやつらにとっ

て空は死角だと鳶加藤は軽々と飛翔しながら笑った。

 が、空中を急降下しながら、陣中で膝をついて息を荒らげている武田晴信

の姿を視界に捉えた時、鳶加藤は思わず悲鳴をあげていた。

「応! 鳶ノ術、捉えたぞ姉者! 行け佐助!」

 晴信の隣に、見知らぬ姫小姓が二人、侍っていたのだ。いや、村上義清と

馬場信房たちの死闘を無視して、鳶加藤を待ち受けていたのだ。

 一人は、見知らぬ顔立ちの少女。

「……遠く離れた陣外にいる間者の声が、瞬時に伝わった!? なぜだっ!?」

 そして、もう一人は。

「ウキッ。心うきうきでござるな! 鳶加藤どの、お命頂戴ちようだいいたす!」

「貴様ッ、猿飛!? なぜここに?」

 猿飛佐助。鳶ノ術を体得し、使いこなせるもう一人の忍び。

 一直線に、舞い上がってきた。

「村上義清の突撃に紛れてあんたがこの本陣に来ると読んで、軍師どのと口

裏を合わせていたでござるよ!」

「日和見は嘘か! 真田の者どもが武田方に参戦していたか!」

「当主の幸隆どのはほんとうに日和見しているでござる! 参戦した者はあ

んたがたに気取られぬように、ごく少数でござるよ!」

 しかしどうやって貴様らは陣外にいる間者の言葉を聞いたのだ? そうか、

噂には聞いていたが実在したのか。真田の「双子」か……!

 真田一族はれっきとした武士でありながら、戸隠のご神体に挑戦する

ものがいるという。死ねばそれまで、生きれば丸儲まるもうけとばかりに、「力」を得

るために戸隠の山へと潜ってくるのだという。かつて真田幸隆の双子の娘が

奇跡的に生き延び、「力」を得たという。双子同士が、はるかに離れた位置

からお互いの声を聞きあい会話できるという異様な術を――。

 俺は動揺している! 不利だ! わが術は敗れた! しかも、俺と同じ術

を持つ猿飛! 俺のほうが忍びとして百歩も先を行っているとはいえ、猿飛

と真田の双子によって術を破られた今は駄目だ!

「村上義清! 退却しろ! 大魚を逸したぞ!」

 鳶加藤は、自らの鳶ノ術が敗れたことを察知して、瞬時に逃げていた。猿

飛と空中で交錯する直前で咄嗟とつさに煙幕を張り、晴信本陣から離脱していた。

 村上義清は槍を一閃いつせんして馬場信房を馬上から振り落としたところで、「晴

信が陣中から消えた。勝ち戦を、逃したか」と目を細め、思いを吹っ切るか

のように馬首を翻していた。馬場、飯富三郎兵衛、春日、名は思いだせぬが

あと一人。なおも自分を足止めすべく陣中にとどまる四人の姫武将の命を奪お

うとも思ったが、やめた。晴信の首を獲れないのならば、この少女たちを殺

し尽くしたところで意味がない。戦は終わったのだ。勝利条件は満たせな

かったのだ。ならば、未熟で幼い姫武将たちを殺したところでそれはただの

腹いせでしかない。

 戦場に男も女もないとは言ってきたが、戦が終われば話は別だった。

 よくぞこの俺を防ぎきった。お前たちは生かしてやる、四人はいずれ名将

になるだろう。だがその時こそお前たちの命を俺が奪う、とつぶやいた。

「者ども。晴信を取り逃がした。急ぎこの戦場より離脱する」

 上田原の合戦は六時間に及んだ。このような正面からの玉砕戦は、戦国時

代では滅多めつたに起こらない。普通の大将は、このような明日のない戦などしな

いからだ。村上軍からもまた、甚大な被害が出ていた。

 村上義清は、果敢に討ち死にした味方の勇将たちの名を副将から聞かされ

ながら、憂鬱ゆううつそうに眉をひそめていた。

 屋代源吾やしろげんご

 小島権兵衛こじまごんべえ

 雨宮刑部あまみやぎようぶ

 重臣だけではない。

 この六時間のうちに死んだ将兵の数は、両軍合わせて四千とも五千とも思

われた。

 覚悟の上で犠牲を払った。だが、晴信を討ち漏らした。山本勘助とその教

え子である姫武将たち、そして真田幸隆が送り込んだ真田一族が、俺と鳶加

藤をぎりぎりのところで阻んだ。ならば、死んだ連中は無駄死にだったのだ

ろうか。明日もう一度突撃をかけるのか。いや、それでは武田も滅ぶが村上

も滅び去る。信濃の片田舎で俺はなにをしているのだ。村上義清はふと出家

への思いに駆られた。

「わたくしたちだけでは姫さまは守りきれなかったわ。村上義清の猛攻を食

い止めて時間を稼ぐのが精一杯で、鳶加藤まではとても手が回らなかった。

真田一族を最高の形で高く売りつけたわね。真田幸隆」

 仲間とともに本陣を最後まで死守した飯富三郎兵衛が、佐助に声をかけて

いた。

「幸隆どのは流浪暮らしが長びいて、銭にせこいのでござる。面目ないでご

ざる」

 佐助は頭をかいて、笑った。

「しかしまた、ずいぶんと人が死んだでござるなあ」



 その日の夜。

 千曲川を挟んで武田・村上両軍は再びにらみ合いに入った。しかし、双方と

もに甚大な被害を出し、容易には動けない。

 村上義清はなにを思ったか、板垣信方と甘利虎泰の首と遺骸いがいとを丁重に武

田本陣へと送りとどけてきた。

 これでこの戦は水入りにしたい、という意志なのかもしれなかった。だが、

村上軍が陣払いをする気配はまるでなかった。この上田原は村上領である。

武田が退かない限りこちらからは絶対に退かない、このまま戦い続けて滅亡

するならばともに滅びようという挑戦の意志とも受け取れる。

「死ぬのは俺か、飯富兵部だと思っていたのだがな……あんたら二人はまだ

まだ死にそうになかった。別れの言葉すら交わせなかった。御屋形さまに言

い残したい言葉もあったろうに、それすら伝えられなかったな。これが戦

か」

 軍議の席で、横田備中が酒を浴びるように飲みながら二人の首桶を前にそ

うつぶやいた。

 総大将の晴信は号泣したい気持ちをけんめいに抑えていた。

「姉上。先鋒ってのは若いやつがやる仕事なんだ! 次こそ俺を先鋒に使っ

てくれ。頼む!」

「太郎。姉上は深手を負われているの。これ以上姉上を心配させてはだめ

よ」

「次郎姉さんだって、姉上をお守りするために村上本陣へ突撃するとか騒い

でいたじゃねーか! 勘助が止めたんだろうに」

「わ、わたしのことはいいの」

 次郎の玉砕をかろうじて阻止した山本勘助は、宿老たちの死という痛恨の

敗戦を噛みしめながら、敢えて淡々と撤退の方針をすすめた。

「無念ですが武田の完敗にござる。このような無謀な突撃を仕掛けてくるこ

とも計算外でしたが、あの槍衾は堅い。急いで諏訪へひきかえさねば、諏訪

にて反乱が起こりますぞ」

「いや勘助。撤退はしない。われらも大打撃をこうむったが、村上軍も多くの重

臣と兵を失って四分五裂する寸前だ。板垣たちの無念を置き捨てて、おめお

めと帰れるはずがない」

 晴信が撤退に反対した。

 必ず諫止したであろう宿老二人はもうこの軍議にはいない。

「御屋形さま。これ以上村上に固執すれば、諏訪、高遠、佐久。これまで

奪った領地のすべてを失いますぞ。小笠原長時が中心となって信濃の反武田

勢力がいっせいに蜂起いたしましょう。さすれば信濃平定は振り出しに。も

し佐久と諏訪を失陥すれば、われらは敵地で孤立したまま甲斐へ戻れなくな

ります」

「勘助。お前は最前線で次郎の命を救い、同時に馬場たちと真田の者たちを

本陣に集結させてあたしを守った。次は、諏訪での反乱を抑えながら村上と

戦うのだ。できぬことはないだろう」

「ですが御屋形さまの傷はかなり深いものでございます。静養しなければ傷

口が化膿かのうして思わぬ事態になることも」

「勘助。あたしは村上義清の姿を見るなり金縛りにあって動けなくなった。

板垣と甘利の仇を目の前にしていながら、恐怖に居すくんでしまった。この

まま逃げ帰れば、自分がどうしようもない臆病者だと認めることになる」

「……これまで、武田家の内政外交は板垣さまが。軍事は甘利さまが統括さ

れておりました。その柱石二人が同時に亡くなられたのです。武田家の体制

そのものを立て直さねばなりませぬ」

 勘助はけんめいに晴信を説得した。

 しかし晴信は痛みと高熱にうなされて時折次郎の肩にもたれかかりながら

も、うわごとのように「板垣と甘利を捨てては帰れぬ」と繰り返した。

「捨てて帰るということにはなりません。もう死んだ者にございまする。そ

れに、首はこうしてわれらのもとに還ってきております」

「勘助! 今朝の軍議では、冗談を言い合っていたではないか! それを、

もう死んだ者とはなんだ!」

「御屋形さまはまことにお優しいお方でござる。しかしそれがしは軍師にご

ざりますれば、今だけは心を鬼にして事実を述べているまで。ここでそれが

しまでが情に流されれば、武田家は滅びまする」

「ならば武田を滅ぼさずに村上に勝つ策を考えよ、勘助!」

「兵どもは村上義清を恐れております。再び決戦する兵力も士気も今はあり

ませぬ。あの圧倒的な村上義清の武と、そして鉄壁の槍衾を破る戦術を考え

ねば……実戦経験のなさを、それがし、板垣さまに懸念されていました。そ

れがこのような形で現実のものになるとは……」

「この敗戦でそのことをわれらは学んだはずだ。新たな戦術には、さらに新

たな戦術をぶつけるしかない。勘助。そなたならできるはずだ」

「昨日今日というわけには。閃きだけでは戦術は実戦に投入できませぬ。調

練にも日数がかかりまする」

 高熱のあまり判断力を失われておられる。これ以上この陣に留まらせてい

れば御屋形さまのお身体がもたぬ、と勘助は震えた。

 しかしそれがしには説得する方法が見えぬ。四郎さまは二度と戦場へ連れ

出さぬと決めた以上、他に方法が見えない。引き続き、次郎さまと太郎さま

に説得していただくしかない。

 だが、次郎信繁と太郎もまた、晴信に撤退を納得させる言葉を持たなかっ

た。とりわけ次郎は「あたしは臆病者ではない。しかし今逃げれば臆病者

だ」と父親の影と村上義清の姿をだぶらせながら涙目で繰り返す晴信の心情

がわかるだけに、強く晴信を叱りつけることができなかった。

 武田四天王のうち、中軍を任されたためにからくも生き残った二人――横

田備中と飯富兵部は、板垣・甘利を戦死させたことに後ろ髪を引かれている。

「 御屋形さまが倒れる前に俺たちで決着をつける。仇討ちといこうぜ」「おう

よ! 弔い合戦さね!」と戦う気まんまんで、逆説得をはじめる始末だった。

 勘助と次郎が「こんな時に板垣さまが」「勘助。それは言わないで。せん

のないことよ」と顔を見合わせていると、一人の異相の姫武将が――姫と呼

ぶにはすでにとうがたっているが――陣中に現れた。

 六文銭の旗印。

 小銭を数珠のようにひもに通して縛り、首や肩にじゃらじゃらと掛けていた。

 両脇に、うら若い双子の「真田姉妹」を引き連れている。二人とも子供の

ように痩せていて肌が兎のように真っ白い。

 佐助とともに鳶加藤の術を破ったあの双子だった。

 誰だこいつは? 商人なのか侍なのかどっちだ? 煮ても焼いても食えな

さそうな女だ、と横田が真田姉妹を連れている女を凝視しながら顔をしかめ

た。

「わたくし、真田幸隆と申します。こちらの姉妹はわが娘、信綱のぶつな信輝のぶてる。真

田一党は上州を去り、この信濃に戻ると決めました。そのほうが銭を稼げそ

うですので。わたくしどもはこれより武田晴信さまにお仕えいたします」

 てめえが真田か! 今頃来たのかよ? さんざん気を持たせて日和見して

きやがったくせに、今更なんだ! と飯富兵部がイナゴをほおばりながら怒

鳴った。

「武士も商人も、自分がいちばん高く売れる時に売るもの。それにわが娘た

ちは戸隠で力を得た異形の者ゆえ、なかなか仕えるべき主を選びますの。ふ

ふ。土産代わりに、晴信さまのご母堂・大井夫人さまから書状をいただいて

参りましたわ」

「なんだって?」

「ええ。ここに。ここで敗戦を認めたくがないあまりに意地を張って武田を

滅亡に導いてはならない。潔く敗北を認めて退く時は退き、再び立ち上がる

機会をうかがうことこそが真の勇気。今は急いで撤退し、甲斐へ戻れとのこと」

 控えめな大井夫人はもともと、奥のこと以外には関わらない。すべてを信

虎に任せていた。夫・信虎が追放されて以後も、娘・晴信の国政に口を挟む

ことはなかった。

 それだけに、晴信の心には大井夫人の手紙が響いた。

 いきなり自分の主君を調略すんのかよこの女は、と飯富兵部がいよいよ真

田幸隆をうさんくさがったが、勘助は(これで御屋形さまは救われた)と安

堵のため息を漏らしていた。

「……わかった。あたしは父親を駿河へ追放した娘だ。それでもなお甲斐に

留まってくれた母上に対して親不幸はできない。甲斐に引き返し、温泉で傷

やそう」

 上田原から去ってゆく武田軍を見ながら、村上軍は手出しできなかった。

 両軍はすでに大打撃を負って崩壊寸前となっている。ここで追い打ちをか

ければ、大怪我を負いながらも頑として撤退しようとせずに戦線に粘り続け

た武田晴信とその家臣たちは最後の一兵まで戦って討ち死にする道を選ぶだ

ろう。

 かつて武田信虎と組んで信濃から追い出した真田一族が武田に合流した

と知った村上義清自身は「真田の異形の力を手に入れた晴信はより強くな

る。いずれ手に負えなくなるのならば、ここで共倒れを選ぶのもいいかもし

れん」と追撃をもくろんだが、「武田が退いていく!」「勝った。命を拾っ

た」「生き延びた」と安堵し緊張状態から解かれていた家臣たちや兵士たち

が無謀な追撃に反対したのだった。義清も、それ以上強くは追撃を主張でき

なかった。なにしろ、兵が、将があまりにも死にすぎている。

 板垣・甘利たち戦没者の墓標を建て終わり、満身創痍そういとなった武田軍が

粛々と甲斐府中へ撤兵する中、村上義清の圧倒的な武と新戦術の前に一敗地

にまみれた山本勘助は、真田幸隆に頭を下げていた。

「よくぞご決断くださった、真田どの。欲を言えば、もっと早く武田家に帰

順してくだされば上田原であのような負け戦はやらずにすんだかもしれぬ

が」

 いえ、真田はあくまでも城を守ることに特化した一族。攻める戦は得意で

はありません。わたくしたちが参戦しても武田は勝てなかったでしょう、と

幸隆は苦笑した。すでに何人もの子を産み育ててきたはずの幸隆だが、不思

議と年齢を感じさせなかった。武田がこれほど大敗したというのに、その武

田をかろうじて救ったというのに、戦功を誇ろうともせず、恬淡としている。

「母」とはこのようなものなのかもしれぬ、と勘助は思った。

「去就を迷っていたのは事実ですわ。武田・村上・諏訪の連合軍に真田の庄

を奪われて追われた後、上州で多くの人々の世話になりましたから。その上

州の上杉憲政さまもいまや北条そして武田にいいようにやられてすっかり落

ち目で、今ここで上杉家を見限っていいのやらとずいぶんと迷いましたわ。

ですが」

「が?」

「佐助とともに鳶加藤と戦ったわが双子をご覧になられればおわかりのよう

に、真田はもともとは山の民にして異形の一族。まっとうな武士とは言いが

たい独自の価値観がありますの。むしろ、忍びの一族に近い存在」

「たしかに」

「武田信虎どのはそんな真田を邪道の一族と嫌いました。その父上の逆を、

逆を行こうとなされる武田晴信さまは、関東管領上杉家も、神氏諏訪家も、

そして信濃守護小笠原家もお認めにならない。人の価値を、血筋や官位では

なくその能力に求めようとされるお方。ご自分がその能力をお父上に認めて

いただけなかったからかもしれませんね。すなわち御屋形さまは、決して真

田の一族を疑ったり差別をしたりなさらぬお方と、見定めましたの」

 相変わらず頭の切れる女性だ、と勘助は冷や汗をかいた。

「御屋形さまは幸隆どのを、信濃先方さきがた衆の筆頭として重用するとのこと」

「ありがたき幸せ。ですが勘助どの。武田軍は、村上義清には勝てません

よ」

「勝てませぬか。新しき世の戦に対応するようにこれより制度改革を進めま

すが、それでもなお?」

「御屋形さまとあなたは、理詰めの戦をします。真田もそうですわ。村上の

ように荒ぶる武神とは、相性が悪いのです。かの韓信かんしんは国士無双でしたが、

項羽こううにだけはかないませんでしたでしょう? 村上を相手にするならば勝ち

戦を求めずに、負けぬ戦をするべきです」

「それでは、いつまでも信濃を平定できませぬぞ」

「世に、完全無欠な武将などおりません。長所があれば欠点がある。ひとつ

の能力に己を特化させた者は、特にそうです。武神には武神の弱みというも

のがございます。武のみならず奸智かんちに長けた武田信虎どのですら、あっけな

く自分の家臣団に追放されてしまったではないですか。ふふ」

「相性の悪い相手に対しては王道を行くな。邪道を行って勝て、ということ

ですな。ですが、御屋形さまは納得しますまい。板垣どのたちを失った以上

は……それよりもなによりも、村上義清を恐れて本陣内で一瞬ひるんでし

まった自分の臆病を、御屋形さまは許せますまい。正面からぶつかりあって

戦わねば、先へ進めぬとお覚悟の様子」

「それでは、また大勢の兵と家臣が死にますよ」

「死んでいく者たちは、誰も悔いたりはしますまい。だが、こうも家臣の死

が続くと、御屋形さまのお心が心配です……」

「勘助どの。あのお方はまだうら若き乙女。戦にばかり執着させるのがよく

ないのです。心に余裕がなくなっているのですわ。佐久での強引な戦、上田

原での大敗、いずれも戦に勝って父を超えようと欲する焦りが生みだしたも

の。恋でもさせるのがよろしいでしょう」

「もともと男に恬淡としている方です。その上、妹の禰々さまを亡くされて

以来、自分の祝言話についてはいっさい語らなくなってしまわれました」

「ご自分が母親にでもなれば、あの父上に対する負い目や執着のようなもの

も薄れるのですけれどもねえ」

「それがしも、妻子を持てば己の野心の炎が鈍るのではないかと恐れており

まする。妻子かわいさに己の命を第一と考えるようになれば、軍師としては

失格であると。軍師たる者はいつでも戦場で死ねるよう、身ひとつで生きる

べきだと。ですが御屋形さまは武田家の当主。お世継ぎも必要です。父を追

放したという重荷を背負ったまま戦に次ぐ戦の日々では、御屋形さまは……」

「本来、あのお方は誰よりも情熱的な人。いずれその時が来るでしょう。人

の心は否応なしに成長するもの。ただ、その恋が成就するか新しい悲劇とな

るかは、わたくしにもわかりませんが」

 しかしその時こそ武田晴信さまが完全無欠の名将になる時かもしれません

と幸隆は笑い、そのすでに女として盛りをすぎたはずの幸隆の笑顔をまぶし

く感じた勘助は(それがしにはその時は来なかったのであろうか。老齢にさ

しかかりながら男として未完成なそれがしは、いつか天下一の軍師になれる

のであろうか)と目をしばたたかせていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る