第七話 諏訪平定(後)

「諏訪頼重か。この俺になんの用だ」

 甲斐、府中。

 武田家に降伏した諏訪家当主・諏訪頼重は、幼妻の禰々とようやく再会し、

ともに府中の館で暮らしていた――武田家の監視の目こそあれど、頼重が武

田に反旗を翻そうとしなければいずれ諏訪神社の大祝おおほうりとして諏訪に復帰でき

る日も来るかと思われた。

 しかしその頼重は、その日の夜、夜陰に乗じてひそかに館を抜け出し、館

のすぐ裏にそびえる山へと登っていた。

 ある忍びと密談をするためである。

「重ねて問うが、諏訪頼重。うぬは人質の身ぞ。この俺を雇うというのか? 

武田晴信と刺し違えて死ぬ覚悟はあるか」

「今更、武田晴信と戦う覚悟はない。勝算もなかろう。だが、実にまずい事

態になった。鳶加藤とびかとう――助けてくれ」

「フフ。諏訪頼重ともあろう者が、命が惜しくなったか。一介の忍びごとき

に命乞いとは」

「一介の忍びではなかろう。お前は信州戸隠山とがくしやまが輩出する異形の忍びの中で

も、随一の腕を持つ男だ。戸隠最強ということは、すなわちあらゆる忍びの

頂点に立つ男ということであろう。それ故にお前は猿飛たちのように真田の

庄に居着かず、誰にも仕えず、戸隠で自由に生きてきた」

「ふん。戸隠山に案内してやろうか。あそこの奥の院の洞窟にな、門外不出

のご神体があるのだ。いにしえの昔、天から落ちてきた石のご神体よ。天照

大神あまてらすおおみかみ天岩戸あまのいわとに隠れた際、天手力雄命あめのたぢからおのみことが強引に引きはがして投げ捨てた天岩

戸の扉だという」

「俺は天津神あまつかみの一族に出雲を追われてこの信濃へ逃げてきた建御名方神たけみなかたのかみの末

裔。戸隠のご神体はその天津神の一族が放り投げた天岩戸の扉か。お互いに

相容れぬ者同士だが、不思議な縁もあったものだ。なぜ、それぞれの終着点

が信濃なのだろうな?」

 山脈のせいだろう。建御名方神は信濃の山々を越える途中で力尽き、天手

力雄命が放り投げた扉も信濃の山にぶち当たって落ちたのよ、と鳶加藤が皮

肉たっぷりに笑った。

「頼重。石がまことに天岩戸の扉だったのかどうかは知らんが、この石が、

目には見えぬ神通力を放っている。あれを近くで浴びた者は十中八九鼻と目

から血を流して死ぬが、なにかの間違いで生き延びられればうぬにもある程

度の法力、神通力がつこう。戸隠の忍びは皆、そうやって幼き頃にあの石の

力を浴び、奇跡的に生き延びた者どもよ」

 諏訪頼重は「諏訪神社の頭領は、戸隠忍者などにはならん。諏訪家は天照

大神の子孫に出雲を追われ国を奪われた国津神くにつかみの末裔。天津神一族が残した

石の力を受けて生き延びられるはずがない」とうめいた。

 鳶加藤の、「武田の人質になりはてても死にたくはないか」とあざけるよ

うな笑い声が森の奥から響いてきた。

 諏訪神社の大祝・諏訪頼重と、戸隠忍び「鳶ノ一族」最強と呼ばれる魔

人・鳶加藤。

 二人は信濃を代表する神々の一族の、それぞれ「表役」と「裏役」の顔同

士として、幼い頃から交流関係を持っていた。

「人の運命など紙一重だ、鳶加藤。禰々との祝言の際、猿飛ではなくお前を

雇っていれば、俺はまだ虎に化けていなかった晴信を暗殺できたはずだ」

「俺はな、ただこの信濃の森で静かに暮らしたい。諏訪神社を奪い取った晴

信は、いずれ戸隠山をも蹂躙じゆうりんするだろう。異形の忍びを次々と生みだす魔の

山だからな。しかし女は、ことに処女は魔性よ。下手をすれば俺の心のほう

が奪われかねない。だから俺は晴信暗殺の仕事を渋った」

「そうだ。それ故俺は、猿飛を雇った。猿飛ならば、同じ女であるからには

躊躇ちゆうちよせずやり遂げると踏んだのだが、俺の見立て間違いだった」

「ふん。頼重。猿飛はな、この俺の術と同じ性質を持つせっかくの猿飛の術

を、ただ相手を驚かせる曲芸として使いたがる目立ちたがり屋だ。忍びには

なりきれぬ娘よ。これもお前の運が尽きたということだろうな。それで、ま

ずい事態とは?」

「禰々を殴りつけてしまった。館に押し込められて監視され、鬱々うつうつとして酒

浸りとなっていた俺は気が立っていたのだ。禰々が晴信をののしったり俺に諏訪

家を再興してくれと懇願したりとあまりにうるさいので、つい――」

「泥酔していたか。武田太郎にでも知れたら、お前、命がないぞ」

「その太郎に知れた。あいつの家族びいきは甲斐信濃で有名だ。俺は激怒し

た太郎に殺される」

「よかろう。太郎を殺せばよいのだな。腕利きの豪傑といえどもしょせんは

武家。俺にとっては造作もないこと」

 鳶加藤と呼ばれた忍びは、人目を避けて森の中に潜んでいたはずだった。

 それがふと気づくと、頼重のすぐ背後に、立っていた。

 見上げるような高身長だが、蜘蛛くものように細身の男である。

 顔は闇に紛れて見えないが、神経質そうな細面の輪郭だけははっきりとわ

かった。

 諏訪頼重は(一瞬で森の奥から移動した? これが鳶の術か。猿飛の術に

似ているがもっと禍々まがまがしい。いったいいつ動いた?)と不気味に思いながら、

「殺せとは言わない。太郎はまもなく俺の館に来るだろう。俺を守れ。晴信

が甲斐に戻るまで生き延びられれば、それでよい。晴信は太郎と違って思慮

深い。俺を殺したりはできぬはずだ。だが太郎は違う。禰々のかたきだと激高し

て俺を殴っているうちに間違って俺を殺してしまうだろう。そういう粗忽者そこつもの

だからこそ、信虎も太郎に家督を継がせようとしなかった」と告げた。

「よかろう。だが俺のほうこそ、太郎を間違って殺してしまうかもしれぬ

な。フフフ。信濃で静かに暮らしていたいという俺の願いを蹂躙しはじめて

いる武田一族が憎くてたまらんのさ。ことに頭領の晴信が。諏訪神社の神氏みわし

を館に押し込めて武力を取り上げようなど、名門甲斐源氏の当主のやること

とは思えぬ。神をも恐れぬ晴信はいずれ、戸隠山のご神体を破壊する。この

信濃は、本来は相容れぬ敵同士である天津神と国津神のいずれをも抱擁する、

神々の眠る終焉の地。日ノ本における巨大な霊場とも言える、聖なる土地だ。

晴信はいずれその霊場を犯し破壊する。そんな予感がするのだ」

「だが、晴信は俺が雇ったはずの猿飛を雇いかえしている。あの女はまつろ

わぬ忍びを有効に活用しようとしている。戸隠の忍びを消し去るような真似まね

はするまい」

「甘いな頼重。人間はすべての実を拾うことはできない。手は二つしかない

からな。晴信が己の求めるもの――すなわち武田家による信濃支配という実

つかもうとすれば、いずれ諏訪に続いて戸隠が邪魔になる。信濃は人の国で

はなく、神の国だ。その神の国としての信濃を、晴信の野望が消し去ってい

くことになる」

「……たしかに晴信は諏訪をわがものとし、神氏をただの神官におとしめた。俺

が小娘にすぎない晴信を恐れたのも、その晴信の『わが野望のためならば神

とて容赦なく殺し、地上に引きずり落とす』という鋼の意志だった」

「そうだ。そうせねば諏訪は支配できまい。これは人に対しては暴虐でも

神々を敬うしきたりは捨てられなかった信虎には、決してできなかったこと

だ」

「では戸隠のご神体とやらも、いずれ……」

「晴信はすべてを『武田家』と『その他』とに二分する。宮仕えをよしとす

る忍びは『武田家』の一員として使いこなすが、俺のようなはぐれ狼のごと

忍びは排除せねば気が済まぬだろうな。おっと、頼重。お前の予想よりも早

く、向こうから来てくれたようだぞ。フフフ」

「なに?」

 諏訪頼重は、驚愕きようがくしていた。

「頼重、てめええええ! よくも禰々を殴りやがったな! 姉上が留守なの

をいいことに、謀反でもやらかすつもりになったか? 俺がブッ殺してや

る!」

 松明たいまつを掲げた太郎が、単身で頼重を急襲してきたのだ。

 太郎は、頼重の予想以上に激高していた。

 郎党すら引き連れていない。

 なんという無謀。

 これはもう、太郎を殺して禰々とともに府中を脱出する以外に生き延びる

道はない、と頼重は腹をくくった。

「……貴様……俺を殺すつもりかっ? たかが夫婦喧嘩げんかを理由に? 当主不

在だというのに、人質であり一門衆である俺を? そんな無茶は許されぬ

ぞ!」

「知ったことか! 人質になったてめえになおも妻として尽くす禰々を、て

めえは傷つけ踏みにじった! てめえなんぞ、武田一門じゃねえ!」

 太郎が松明を放り投げ、槍を抜いて突進してきた。

「鳶加藤。鳶の術を、今こそ見せよ」

「フフ。見せることはできぬな。なぜならば、己の姿を見せぬ術なのだから

な――武田太郎。貴様の命はもらった」

 幽鬼の如く諏訪頼重の陰に潜んでいた鳶加藤の姿が、かき消えた。

 次の瞬間。

「なんだっ!?」

 獣の形相で突進してくる太郎の槍の先端が、両断されていた。

 驚く太郎の目の前に、黒装束に身を包んだ蜘蛛のような体型の大男が、立

ちふさがっていた。

「誰だてめえっ!?」

「名乗る必要はない」

 吠えながら脇差しを抜こうとする太郎の腕を、鳶加藤がクナイで切り飛ば

そうとした時だった。

「冗談じゃねえぜ! 太郎のお守り役はこのあたしだ! 勝手に、太郎に傷

をつけんじゃねえ!」

 太郎の背後から突きだしてきた長槍が、クナイを間一髪で払い落としてい

た。

 武田四天王の紅一点、真紅のよろいを着た姫武将――飯富兵部虎昌だった。

「兵部? てめえいつから……」

「太郎、一人で出入りやってんじゃねえよ馬鹿! 諏訪は忍びを使うんだ

ぞ! この蜘蛛野郎、首を置いていけこらっ!」

 鳶加藤は、飯富兵部が繰り出す槍先をゆらりゆらりと紙一重の見切りで交

わしながら、笑った。

「ふん。俺は姫武将との命のやりとりは好きではない。女はでるもの、あ

るいは呪うもの。愛にしても呪にしても、生かしておいてこそ。殺すべきも

のではないからな――」

「ちょこまかすんなぁこの乱破らつぱがあ! 武田家最強、あたしの突きはかわし

きれないぜ!」

 心の臓、取った!

 飯富兵部が勝利を確信して叫んだ瞬間。

 槍に貫かれるはずだった鳶加藤の細い身体が、視界から消えていた。

「おっ? どういうことだ? どこへ隠れやがった!?」

「逃げろ兵部!」

 太郎は、すでに見ている。

 鳶加藤が操る「鳶の術」――現代風に言えば瞬間移動の技を。

 飯富兵部の腰にしがみついて、自分の身体ごと横方向へと押し倒していた。

 飯富兵部が立っていた空間に、棒手裏剣が三本、舞っていた。

「こらっくっつくな太郎、あたしを襲ってどうすんだよっ!」

「襲ってねえよ! そうじゃねえ、この忍びは化け物みてえな技を使うんだ

よ! 瞬時にてめえの身体の位置を変えやがる! 理屈はわからねえ!」

「はあ? 忍者なんだから当然だろう? 身軽に動いてるだけさ!」

「そういうんじゃねえんだよ! ここから逃げねえと、二人とも殺されちま

う!」

 太郎は飯富兵部の意外に小柄な身体を抱いたまま、斜面を転がった。

 次々と手裏剣が打ち込まれてくる。

 その間、鳶加藤の立っている場所は、めまぐるしく変わっていた――太郎

と飯富兵部が攻撃に転じる隙を与えない。

「おい太郎? どうなってんだ、こいつは!? 化け物じゃねーか!」

「だからそう言っている! 禰々の仇・諏訪頼重は俺が絶対にブッ殺すが、

しかしよ! 俺の短慮のせいで兵部を殺させるわけにはいかねえだろうが!」

「太郎」

 諏訪頼重がもしもこの隙をつけば、太郎に太刀傷をつけることも可能だっ

たろう。だが頼重もまた、次々と空間を移動する鳶加藤の幻術とも魔術とも

つかぬ異形の技を目の当たりにしてあっけにとられていたのだった。

 鳶加藤の技は、まさに魔人のそれだ。神氏の血のみを伝承するにすぎない

諏訪家の人間とは、まるで異なる。鳶加藤は、戸隠のご神体の力を浴びなが

らも生き延びた「能力者」であり、かつ戸隠忍びの元締めにあたる「鳶ノ一

族」から一族最強を示す「鳶」を名乗ることを許可されたほどの凄腕すごうで。すな

わち、血ではなく才能によって戸隠最強の座を手にした者なのだった――乱

世において、わが身体に流れる血のみを頼りにしてきた自分は滅び去るしか

ないのだ、と頼重はこの時、思い知っていた。

「頼重! 生き延びたくば太郎を刺せ! じきに武田の郎党どもが駆けつけ

てくるぞ、そうなっては俺一人では貴様をかばいきれん!」

「……う、うむ」

 鳶加藤の声に叱咤しつたされて頼重はやっと我に返ったが、その時には武田の軍

団が山を包囲し、「それまで! 双方、武具を捨てよ」と軍師・山本勘助が

叫んでいた――。

 武田晴信が、甲斐府中に帰還したのである。



 諏訪頼重の処分をどうするか。

 躑躅ヶ崎つつじがさきやかたでの会議は紛糾した。

「姉上。頼重どのを殺さないで。もとはといえば姉上が頼重どのを攻めてこ

の甲斐に幽閉したことが、頼重どのが荒れたきっかけなの。あの人は、少し

ばかり酔っていただけなの」

 禰々はあくまでも頼重をかばい続けたが、太郎は納得しない。飯富兵部も

自分も、あやうく頼重が繰り出してきた忍びの者に討ち取られるところだっ

たのだ。

「黙って俺に殴り返されていればまだ許せたが、あの野郎は忍びを放って俺

たちを返り討ちにしようとしやがった! それによ、禰々。いちど女を殴っ

た男は、二度でも三度でも殴るもんだぜ! 女を殴らない男は、いかなる状

況にあろうとも絶対に殴らない。絶対にだ。しかし殴る奴は、なにかと理由

を見つけては何度でも殴る。頼重の野郎は、女を殴る腐れ男だったというだ

けのことだ! あんな野郎はもう、お前の夫じゃねえ!」

「だって。兄さんが頼重どのを先に襲ったのでしょう。槍を構えた兄さんに

すごまれたら、誰だって身を守ろうとするはずよ」

「違う! あいつがお前を殴ったのが先だ! そもそも、武田に降伏してい

ながら忍びを隠していやがった時点で、あいつは信用ならねえ。禰々、もっ

といい夫を俺たちが探してやるから、あの男のことは忘れろ。頼重はどうせ

もう諏訪神社の大祝の職には戻れない。生かしておけば、あいつはますます

鬱屈うつくつして今後もお前を殴るぜ!」

「独身でまだ子供の兄さんには夫婦の仲のことはわからないのよ!」

「お前がそうやってあいつをかばって甘やかすから、あの野郎が増長してい

るんだ! わたしに手を出すと武田家が黙っていないとおどして、お前の顔色

うかがわせていりゃあよかったんだ!」

 禰々と太郎の言い合いは、放置しておけばいつまでも続きそうだった。

 晴信の脇に控える山本勘助は、これまでの長い人生を独身孤高のまま過ご

してきただけに、禰々の気持ちが理解できなかった。

「御屋形さま。諏訪頼重は御屋形さまに刺客を放ち、許されていながら今ま

た御屋形さまの留守をついて禰々さまを害し太郎さまを乱破の手にかけよう

としました。三度まで、武田にそむきました。一門衆とはいえ、これ以上見過

ごすわけにもいきますまい」

 諏訪から急遽きゆうきよ駆けつけてきた板垣信方が「勘助。それでは禰々さまのお気

持ちはどうなる。そもそも、お若い御屋形さまにそのような苦しい決断をさ

せてはならぬ」と勘助を叱りつけたが、勘助は「頼重を許せば、諏訪衆は武

田家を侮りましょう。やはり信虎さま同様、こんどの御屋形さまも神氏には

手を出せないと。諏訪神社の神氏と、武田家、いずれが大事か。いずれがこ

の乱世の覇者たる資格を持つべきか。信濃の民にはっきりとわからせるべき

時です」と胸を張って言い切った。

 晴信はしかし、禰々をこれ以上傷つけたくなかった。どういうわけか禰々

は頼重を夫として愛しているらしい。まだ恋も結婚も知らぬ晴信にはやはり

禰々の気持ちは理解困難だったが、晴信は勘助ほどの朴念仁ではない。家族

に愛されるという経験を、晴信は知っている。母の大井夫人。妹の次郎たち。

弟の太郎。晴信を愛さなかった家族はただ一人、父である信虎だけだった。

禰々から頼重を奪えば、幼くて純真な禰々は二度と立ち直れなくなるかもし

れない。晴信は思わずうめいた。

「武田は一族を、一門を守る。けれども裏切りは許さない……それが掟。本

来ならば裏切りを繰り返した頼重は切腹だけれど……助命する方法はないの、

勘助」

 勘助はその晴信の表情を読み取って、「はっ」と隻眼を見開き、頭を垂れ

た。勘助はいかなる手段を使ってでも勝てばよいと信じる戦の鬼であり、人

の心というものがいまいち理解できない神経の持ち主だったが、この世でた

だ一人、晴信の感情だけはみ取ることができた。誰とも感情を通わせるこ

とができなかったこの初老の男が、初対面の時から、なぜかそれだけはでき

るようになっていた。

「……御屋形さまが寛大なる処置をお望みとあらば、この勘助も鬼にはなり

きれませぬ。頼重を生かす方法を考えまする」

 太郎が「意外と甘い野郎だ」と不満げに口をとがらせ、禰々と板垣信方は

安堵あんどの表情を浮かべた。

「方法は、ある?」

「すでに騒動があったことは府中の民どもに露見しております。不問に付す

ことはできませぬ。もっともよい方法は、例の忍びですな。諏訪頼重が太郎

さまと飯富兵部どのを襲わせたという、くだんの忍び。手足をもがれて裸同

然となった頼重が動かせる忍びはただ一人。戸隠の『鳶ノ一族』、加藤段蔵だんぞう

こと鳶加藤でありましょう。今回の騒動はすべて、この鳶加藤の独断という

ことで処理できれば」

「鳶加藤。戸隠……猿飛佐助と同郷の忍びなの?」

「御意。幼き頃に戸隠山で異形の力を得た戸隠忍者の一人でありまする。加

藤なる者が鳶の姓を名乗っているのは、戸隠最強の証し。加藤は真田のもと

に集った佐助たちとは異なり、武士に仕えることなく、信濃の山中で気まま

な自由を謳歌おうかしておりました。それがしとも一応面識はありますが、とてつ

もない腕利きの上に、天下のことにいささかも興味なしと豪語しておりまし

た」

「それがなぜ、頼重に雇われたの?」

「信濃には二系統の神々の末裔がおりまする。表の神は、出雲の国津神の末

裔たる諏訪一族。その当主こそが諏訪神社大祝・諏訪頼重。裏の神が、

高天原たかまがはらより飛来した天岩戸の扉石を祭る、戸隠山の忍び『鳶ノ一族』。こちらは

諏訪家のように血統を保ってきた一族ではなく、ただ忍びとしての才覚のみ

を伝承してきた者ども。乱世にて往年よりは衰退しているものの、戸隠山は

叡山えいさん高野山こうやさんと並ぶ霊場。戸隠山を守護する修験者どもの背後に、鳶ノ一族

が君臨しているのでございます」

「それでは勘助。佐助の力も、飯富兵部ほどの剛の者を討ち取りかけた鳶加

藤の力も」

「あの二人の術は同質。瞬間移動とでも申しましょうか。瞬きひとつする間

に、目にも留まらぬ速さで己の身体の位置を動かしまする。いかなる原理が

あるのかは、勘助にもわかりませぬ。ただ、戸隠の石の力であのような術を

会得したとしか――いずれにせよ鳶加藤と頼重とは、信濃に並立する裏と表

の神々の末裔――戸隠最強の鳶と諏訪の当主としてかねてより交友があった

のですな。この鳶加藤を捕らえて首謀者に仕立て上げられれば、頼重の命は

救えまする」

「捕らえられる?」

「鳶加藤のあの術をもってすれば囲みを突破することは容易たやすく、捕獲は困難

でございまする。すでに鳶加藤は甲斐を脱出し、おそらくは北信濃の村上義

清のもとへ向かっているでしょう。北信濃に鎮座する、戸隠山を守るために。

諏訪を奪った御屋形さまは必ずや戸隠山をも奪い尽くし破壊するであろうと、

鳶加藤は予感しておることでしょう」

 諏訪を滅ぼしたあたしの敵に回ったということね、北信濃を平定するため

には戸隠山の忍びの勢力を――鳶加藤を倒さなければならない、あるいは恭

順させねばならない――そういうことなのね勘助、と晴信はつぶやいていた。

「御意。信濃最強の武勇を誇る村上義清と鳶加藤が連合すれば、これは侮れ

ぬ力となりまする。本来は武家と独立独歩のわが道を行く戸隠忍び、手を組

むはずがないのですが……諏訪に手をつけた御屋形さまが出現した以上、手

を組むことになりましょう」

「信濃の神々。諏訪だけではなかったのね。なぜこれまで誰も信濃を統一で

きなかったか、理解できた気がするわ。北に戸隠、南に諏訪。信濃守護・小

笠原家など、これらの神々の末裔に比べれば――」

 鳶加藤を捕らえられないとなると勘助、今回の件を始末する方法はもう、

頼重が腹を召す以外にはないということね、と晴信は抑揚のない声で言った。

 禰々を守りたい。だが、諏訪を倒したことによって異形の忍び・鳶加藤と

その背後に存在する戸隠という神々の末裔が潜む聖地が立ちはだかってきた。

この現実を前に、晴信は決断したのだった。

「姉上! それでは話が違います!」

 声を荒らげた禰々を、次郎が押さえた。

「落ち着いて禰々。勘助、他に方法はないの? 軍師ならば、次善の策を考

え出して!」

「今は上州に落ち延びている真田に、信濃真田庄の本領を返還してやるので

武田につけ、と誘いをかけておりまする。真田幸隆をはじめとする真田一族

は武家としては変わり者。猿飛をはじめ多くの戸隠忍びを抱えておりますれ

ば、鳶加藤と対抗することも可能になりましょう。あとは真田どのが、上州

の関東管領上杉家に愛想をつかすようなことがあれば、武田家に迎えること

になりましょう。たとえば今は北条家が守る河越城を包囲している上杉家が、

北条氏康に敗れるとか――」

「それは次の戦のための策でしょう勘助。頼重の命を救う方法を考えて、と

言っているの!」

「……鳶加藤を捕らえられぬ以上、正攻法では……頼重の替え玉を切腹させ

て、本人は出家させ、名を改めさせてひっそりと生き延びさせる、くらいで

しょうかな」

 太郎が首を振った。

「そりゃあ無理だろう。あいつは気位が高い。諏訪の血だけがあいつの誇り

の源泉だからな。諏訪の名を捨ててまで生き延びるのはこの上ない恥だぜ。

人質として甲斐で暮らすだけでも耐えがたい屈辱だったからこそ、爆発した

んだ」

 右腕に傷を負って吊り下げている飯富兵部が、板垣からもらった伊那土産

のイナゴの佃煮をほおばりながら、忌々いまいましそうにつぶやいていた。

「あの野郎。こっちの状況を察して自ら進んで切腹してくれねえかな。あた

しだったら、さっさと腹を切ってるぜ」

 晴信が「もういい」と顔を上げた。

 信虎を彷彿ほうふつとさせる獣のような眼光を放ちながら。

「……あたしは決めた。諏訪頼重に、切腹を命じる。あたしにとって、武田

家は神氏よりも大切だ。神々の世は終わり人間の世が来た、と信濃の民に知

らしめる。そのために武田家は信濃を平定する――」

「姉上! あなたは戸隠の忍びと戦いたいがために、わたしの夫を!」

「許せ、禰々。娘婿とはいえ、お前を殴った時点で頼重は武田一門ではなく

なった。頼重を再び許せば、奴はまた刃向かう。次こそは一門の誰かが殺さ

れるだろう」

「頼重どのを心服させてこその、武田家の頭領でしょう!」

「禰々。人間は同じ過ちを繰り返す。性根は、改められるものではない」

「それは姉上のことよ! 父上を追放し、今また妹婿を殺そうとしている! 

姉上こそ、容赦なく武田一門を内側から滅ぼす者だわ! 次は誰を殺すつも

りなの? わたしを殺す?」

「……禰々」

「姉上は、武田家のためと言いながら自分の野望のためになんだって踏みに

じれる人なんだわ! いずれ今川家をも裏切って、父上も定も今川の手で殺

させるつもりなのでしょう! それでも姉上は平気なのよ!」

「武田家の頭領はあたしだ。このまま甲斐に逼塞ひつそくしていては武田家は滅びる。

父上の外交策はすべて失策なのだ。中でも、諏訪に流れる神氏の血を恐れて

禰々を頼重などに嫁がせたことが最大の失策だ」

「神をも父親をも恐れない人間なんて、もはや鬼と同じだわ!」

 板垣信方が立ち上がって「御屋形さま! なりませぬ。父上を追放してま

だ間もないというのに、容赦なく妹婿を殺してしまっては、御屋形さまは姫

武将とも思えぬ性残忍な人物であると世の人々が噂しましょう。なにとぞこ

こは寛大に」と晴信を制止した。

 だが、この時。

 館の離れで諏訪頼重を監視していた甘利虎泰が、広間に駆け込んできた。

「申し訳ございませぬ! 別室に閉じ込めていた諏訪頼重どのが、わずかな

隙をついて自ら腹を召されましたぞ!」

 空気を読みやがったな、と飯富兵部がつぶやいた。

 晴信は無言でうなずいていた。禰々が泣き崩れた。

「なんだと? 甘利、なにをしておった。介錯かいしやくは?」

 板垣の問いかけに、甘利は「まだじゃ。腹は切ったが絶命はしておらぬ。

頼重どのは虫の息ながら、介錯は無用と。最後に山本勘助どのに会いたい

と」と答えていた。

「勘助。行って、頼重の遺言を聞いてやれ。神氏でありながら、頼重はやは

り武士だった。自らけじめをつけたのだ。これ以上、苦しめるな」

「御意」

 晴信に言われるまでもなく、勘助は不自由な片足を引きずりながら廊下へ

と飛んでいた。

 晴信はこみあげてくる涙を板垣たちに悟られまいとうつむいて拳を握りし

めていた。その晴信の感情を汲み取った次郎は、そっとその拳に自分の手を

重ねていた。

「山本勘助。鳶加藤はもうおらぬ。あいつは諏訪の仇を取ると言い残して、

北信濃の村上義清のもとへはしった――貴様も武田晴信も、あるいは、村上義

清との合戦に敗れるやもしれぬ。だが、おそらく晴信が最終的には勝つだろ

う。村上義清も鳶加藤もとてつもなく強い男だが、奴らには野望はない。た

だ己の故郷を守りたいだけなのだ。しかし晴信には巨大な野望がある。その

野望のために、どれほどの犠牲が出るかはわからぬが、最後にはその野望の

質と量の差によって勝つだろう。俺が武田に敗れたのも、諏訪を守る以上の

野望を持ち得なかったためだ。それ故、小手先の暗殺などで事態を解決しよ

うとした。浅はかであった。これでは武田に勝てるはずもなかった」

 腹を十文字にき切って突っ伏しながら、諏訪頼重は室内へ駆け込んでき

た勘助に最後の言葉を伝えはじめた。

「山本勘助。禰々には良縁を。俺のことも諏訪のことも忘れさせろ」

 己の死を覚悟した頼重が放つ威厳は、神氏の頭領そのものだった。

 この男が気位を捨てる覚悟をもっと早くしておれば、頼重をむざむざ死な

せることもなかった、と勘助は晴信と禰々のために悔いた。

「ははっ。承知いたしました」

「あとひとつだけある。諏訪神社は、分家の高遠頼継ごときには継がせるな。

どうしても、諏訪宗家の血を引く者でなければならぬ。俺には弟はいないが、

妹がいる。諏訪家は二度と武家には戻らぬ。諏訪の地と民は武田が治めるが

よい。その代わり、わが妹に、社を継がせろ」

「妹君でございますか?」

 そのような者がいるとは知っていたが、勘助は、諏訪四郎という幼い姫の

顔をまだ見たことがなかった。

「妹の四郎だ。山本勘助。四郎を、貴様に託した。四郎を育て、元服の暁に

は諏訪家を継がせてくれ」

 なにを言いだすのか、と勘助はいぶかしみ、驚いた。

「なぜ、諏訪家を滅ぼせと御屋形さまをそそのかしたそれがしに? しかも

それがしは、このような醜い顔をした悪鬼でござる。子供に懐かれることな

どあり得ませぬが?」

「……わからぬ。俺の直感よ。ただ、これだけはわかる。貴様はこれまでも

独身であったし、死ぬまで独身を貫くであろう。その面相故に、その高齢故

に、なによりもその軍師としての仕事にすべてをささげた鬼の生き様故に。故

に、貴様は今後妻帯することも実子を設けることもない。だからこそ、四郎

を預けられる……晴信のように父親から差別されきょうだいと区別され心を

ゆがませることもないだろう……父親の愛情に飢え渇き、留まることなき野望

の炎に身を焦がすような生涯を、四郎には歩ませたくない」

「つまり、御屋形さまのようには育てるな、と?」

「そうだ。晴信のような修羅の生き方は、させたくないのだ……男ならばと

もかく、四郎は姫だ。いずれ女になる。戦国の覇を争う定めの姫武将になど

させるな。平穏な諏訪湖のほとりで静かに神々を祭ってくれれば、それでよ

い」

「そのお役目は、禰々さまに」

「……禰々はまだ子供だ。諏訪家から解き放ってやってくれ。もう一度、武

田家の人間として人生をやり直させてくれ。俺は武田家の人間にはなりきれ

なかった。諏訪家の血の誇りのせいだ。禰々よ。許せ。次に嫁ぐ夫は、俺の

ような者ではなく……」

 そこで、言葉が絶えた。

 諏訪頼重は、力尽きていた。

「頼重どの、承知した」

 勘助は立ち上がり、隣の部屋へ入った。

 頼重の妹、四郎がいた。

 まだ四、五歳程度の禿かむろの童女だった。

 兄・頼重に似た、高貴な顔立ちだった。

 小さな巫女みこ服を着ている。

「かんすけ。あにうえから、はなしはきいた。しろうを、よろしくたのむ」

 気丈にも涙を見せることなく、四郎はぺこりと勘助に頭を下げていた――

このけなげな幼い姫の姿を見た瞬間、勘助ははじめて「人を死なせた悲し

み」という感情を知った。

「頭をお上げくだされ、四郎さま。それがしは四郎さまの兄を死なせた仇で

ござりまする」

「……あにうえは、かんすけをまことのちちとおもいつかえよ、と」

 顔を上げた四郎の目から、ついに涙がこぼれていた。

 声が、震えていた。

「四郎さま! 父などと、滅相もござりませぬ! この勘助を下僕とも奴隷

とも思い、存分に使役してくだされ!」

 勘助は、四郎のその涙になにか途方もなく美しいものを見て、思わずひれ

伏していた。

(それがしの心を震わせている、この感情は……それがしは最後の最後に、

諏訪頼重との戦いに敗れたのかもしれぬ! あの男は、それがしの急所を、

弱点を見抜いておった! 女を愛することもできず、いやそれはもとはとい

えば女どもが心身ともに醜い野望の鬼と化したそれがしを愛さなかったから

であるが、今後どれほど勝ち戦を重ねようとも生涯家族を得ることができぬ

定めのそれがしに……このようなあどけなく無垢むくな幼子を、わが「家族」と

して置いていったのだ)

 それがしはこれより、四郎さまをお守りしなければならぬ。うかつには死

ねぬ。生きねばならぬ。四郎さまがご成人され、諏訪家を継ぐまでは。

 家族――それがどれほど己の心に平安をもたらしてくれるものであったか、

己の人生に意義を与えてくれるものであったか、この時勘助ははじめて知っ

た。武田家の結束という短い言葉にどれほどの人々の様々な感情が込められ

ていたかも、父を追放し妹婿を死に至らしめる決断をした武田晴信の心がど

れほど深く傷ついているのかも。あのお方はただ天下という野望に燃えるだ

けではなく、大勢の家族を愛しておられるのだ、武田家の人々とその未来を

守るために戦っているのだ、それがしにはそれが理解できていなかった、と。

「……かんすけ?」

「四郎さま。それがしはもはや、御屋形さまとご家族を引き裂くような策は

決して用いませぬ。御屋形さまを鬼にはいたしませぬ。鬼は、それがし一人

で十分でござります。諏訪明神と四郎さまに誓いまする」

 鬼の隻眼にも、涙が浮かんでいた。



 府中の片隅にある勘助のあばらやは、それ以来、様相が一変した。

 もともと勘助のあばらやは、隻眼の「鬼軍師」が住み着いている「鬼の

館」と呼ばれ、庭には草木が荒れ放題で、人が寄りつく気配もまったくなく、

町の人々は「近寄ると軍師どのに食われる」と恐れおののいていたのだった。

なにしろ、晴信が父親を追放したり諏訪を奪い取ったりした悪行のすべては、

この謎の軍師・勘助が小心な晴信をそそのかしてやらせたことになっている。

いわば勘助は、晴信に人心を掌握させるため自ら「甲斐の憎まれ役」を買っ

て出たわけで、えてあばらやを荒れ放題に荒らしておぞましい鬼軍師の印

象を人々に与えるため努力していたのだった。

 しかし、期せずして諏訪家の幼き姫・四郎のお守り役となった今、あばら

やを幽霊屋敷のように荒らしたままではいられなくなった。

 勘助は孤独な男である。幼い頃から口を開けば天下を奪う軍師としての己

の才覚と妄想を語るばかりで、故郷に居場所はなかった。一族ともとうの昔

に縁が切れ、年頃の女を愛するという男としての本能もすでに忘れ去ってい

た。ただ謀略のみのために生きる、と思い定めてここまで来た。

 自分の才を受け入れてくれた晴信を己の人生すべてを捧げる偉大なる主君

と仰いではいるが、しかし晴信を異性として意識することはない。

 御屋形さまはとびきりの美少女だと世間では言うが、そのようなよこしま

な思いを御屋形さまに抱いては知謀が曇り、軍師としては失格。それがしは

女に興味など持たなくてよかったのだ、おかげで御屋形さまのために無私の

思いで奉公することができる、と勘助はむしろ女に愛されず孤独に生きてき

た己の半生が無駄にならなかったことを安堵していた。

 なにしろ、男女のことが家臣団との間の関係にとって障害となる――これ

は、各国の姫大名につきまとう問題である。

 板垣信方や甘利虎泰のような老将であれば晴信を自分の娘のように慈しめ

るが、血気盛んな若い男武者の場合はそうともいかないことがあるのだ。

 姫大名と家臣の恋が御法度となっているのも、認めれば必ずや様々な問題

が持ち上がり最悪の場合は亡国につながるからなのだった。

 家督を継いだ晴信が側近の小姓軍団を少女ばかりで固めはじめているのも、

若い男武者よりも姫武将のほうがある意味信頼できるからだろう。

 だが、そんな勘助が唯一苦手としているものが、幼子だった。

 昔から、どういうわけか子供にだけは弱かった。

 それが高貴な身分の姫ぎみであれば、なおさらである。

(それがしが四郎さまを思うこの気持ちは純粋な愛である!)

 勘助はとりあえず家に招いた四郎を上座に置き、部屋を掃除し、片付け、

畳を張り替え、庭園を風流なものに改造し、幽霊屋敷のようなあばらやを小

さいながらも麗しい平安王朝風の豪邸に建て替えてしまった。

 兄の死に打ちひしがれていた四郎を少しでも喜ばせるためだった。

「すごい。かんすけは。まるできょうのみやこにきたような」

「ははっ、ありがたき幸せ! それがし、築城・普請の術を心得ております

れば、その気になればいかなる館をも城をも建てることができまする!」

「かんすけはえらいな」

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 四郎は諏訪神社の巫女として育てられてきただけあって、利発な幼女だっ

た。勘助が自分に尽くしてくれていることをすぐに察し、勘助の鬼のような

形相におびえることもなかった。

 四郎さまあああ! と感激した勘助は、これまで万が一の時のために

てきたささやかな蓄財をすべて四郎のために注ぎ込んだ。

 ずっと独身だった上に酒も女遊びも博打ばくちもやらないので、銭の使い道など

なかったのである。勘助ははじめて、仕事以外での銭の使い道を知ったと

言っていい。

(いずれは四郎さまには諏訪の巫女に相応ふさわしい立派なお屋敷に移っていただ

くとして、ひとまずはそれがしの家でお預かりせねばならん。その間、少し

でも四郎さまをお慰めしなければ。この感情は純粋な愛である!)

 どうやら軍師さまは幼い巫女さまにときめく変態らしい、という噂が街に

立ったが、勘助はいっこうに介さなかった。誰がなんと言おうとも、重ねて

言うがこの感情は純粋な愛である! 父親が娘を愛するかの如く、一点の曇

りもなく純粋なのである! ああ、まるで今までそれがしが重ねてきた悪行

の罪が四郎さまの笑顔によってはらわれるかのようじゃ、としばらく天下盗り

の仕事も忘れ、ますます四郎のために尽くすのだった。

 すぐに、次の変化が起きた。

 それまで勘助を恐れて近寄ってこなかった、晴信の小姓や側近の少女たち

が、「意外と姫に優しい人らしい」「ああ見えて築城の天才らしい」「なぜか

最近、あまり仕事をしていないらしい。休暇でも取ったのだろうか」との噂

を聞いて、次々と勘助の風流屋敷に集まってきた。

「……築城術をぜひ、ご教授いただきたい……信濃平定戦のためには築城術

は必須……これは手土産……」

 純朴な姫武将、馬場信房。怪力無双を誇るが、戦場にいない時は無口でお

となしい姫だった。

「こんにちは軍師さまっ! 春日源五郎ですっ! あたしにもぜひぜひ、築

城術をお教えください! あと、いざという時に逃走経路を確保するための

方法もぜひ! 姫さまのお役に立てる立派な、逃げ足の速い姫武将になりた

いんですっ!」

 いつも陽気な春日源五郎。百姓の娘だったが、晴信を救ったことから小姓

に抜擢された。特技はすずめ狩り。

「えっと……その……私、一族を信虎さまに誅殺ちゆうさつされてやむなく諸国を放浪

していた……工藤祐長くどうすけながと申します……こ、こっち向いてくださーい! 無視

しないでー!」

 蓑虫みのむしみたいな、薄汚れた簑を身体にすっぽりかぶった、そこはかとなく貧乏

くさい貧相な少女も混じっていた。

 この工藤祐長という少女は、かつて信虎に諫言かんげんして誅殺され断絶した甲斐

の四名家――山県・内藤・馬場・工藤のうちの工藤家の姫で、父親が誅殺さ

れたあと関東へと逃亡し、ずいぶんと辛酸をなめてきた者らしい。

 このまま生涯を流浪で終えるはずだった工藤祐長は、晴信が当主になった

と聞いて府中に舞い戻ってきたのだが、すでに馬も刀も鎧も売りはらってし

まったので晴信に目通りすることをためらい、また何度か晴信を訪問しても

逃亡生活の間に自然と身につけた「気配を殺す術」のためになかなか気づい

てもらえず、勘助に泣きついてきたという。

「わたくし、飯富兵部虎昌の実の妹、飯富三郎兵衛さぶろうひようえ。三郎どのと呼んでくれ

て構わないわ。わたくしは姉上のような最強の姫武将を目指しているの。軍

師どのの弟子になってあげるわ。小さいとか小柄とかちっちゃいとかちっこ

いとかちんまいとかそういう言葉は禁句よ」

 ほんとうに小柄な、飯富三郎兵衛も弟子入り志願してきた。あけすけな姉

とは違いずいぶんと気位が高くどこか男性不信の気がある姫武将だが、「信

じがたいほどに古今無双の博識を誇る」「見た目は鬼だが、実は女に対して

はまさに紳士。修練の果てに悟りを開いて煩悩を解脱したらしい」という勘

助の意外な評判にぐらりと来たらしい。

 ちなみに――この勘助塾には、そうそうたる姫武将たちが集った。

 馬場信房はやがて「不死身の馬場美濃」と呼ばれる無敵の武将に成長する。

 飯富三郎兵衛は、武田四天王中の最強、赤備えを率いる「山県昌景やまがたまさかげ」に。

 春日源五郎は、信濃川中島合戦での命運を握る「高坂弾正こうさかだんじよう」に。

 工藤祐長は武田の副将と呼ばれながらも四天王のうちもっとも影が薄く、

しょっちゅういなかったことにされる「内藤なにがし」に。「なにがし」の

ところには「昌豊まさとよ」でも「昌秀まさひで」でも好きな名前を入れてさしつかえないが、

 「修理しゆり」が一般的だろうか。

 のちの「第二世代・武田四天王」が勘助のもとに勢揃いしたわけである。

 あいやそれがしは四郎さまのお世話で忙しく、と勘助は彼女たちを追い返

そうとしたが、四郎が「かんすけ。にぎやかでよいな」と笑ったので、一転

して「皆の衆、よう来てくださった! この勘助が知っていることならば、

なんでもお教えいたしましょうぞ! 遠慮なくどうぞどうぞ! ほうとうを

炊きまする!」と手のひらを返して姫武将たちを接待し、勘助の館は期せず

して晴信のための精鋭部隊を養成する一種の寺子屋となった。

 屋敷が華やかになれば、なにしろ四郎が喜んでくれる。勘助は惜しみなく

軍師としての己の知識と学問を、姫武将たちに伝授した。

 築城術。

 軍法。

 宿曜道すくようどう

 忍びについて。

 荷駄隊の運営方法。

「おのおの方。兵糧・まぐさ・武具の補給こそが、遠征戦にとってはもっと

も肝要な任務でござる。まことに地味な仕事ではあるが、腹が減っては戦が

できぬ。兵糧が足りねば敵地で村を襲い百姓からぶんどって現地調達すれば

よいという考えの武家が多いが、それは考え足らず。他家はいざしらず、御

屋形さまの戦にあらず。敵地といえども、戦に勝てば武田家の領土でありそ

の民は武田の領民である。戦に勝っても民の一揆を招いてはなんにもならん。

故に補給基地から戦線へと兵糧を運ぶ荷駄隊の活躍こそが必須である」

「荷駄隊ですか。もしかして、誰にも存在を気づいてもらえないこの工藤の

天職かもしれません」

「わたくしは姉上のように一途に戦場を突進して敵を蹴散らすことのみを考

えているの。軍師どの。もっと軍法について教えてほしいわ。わたくしは幼

女のように小柄でしょう? 普通の戦い方では男武者に侮られる。この体格

の不利を覆す方法はないかしら。あと、眠気覚ましのためのお茶を頂戴ちようだい

「……うつら、うつら」

「寝てますよっ! この人、寝てますよっ! 馬場さま起きて~!」

「はあ。そなたたちが集まるとまったくかしましい。とはいえ四郎さまが楽

しそうにしておられるので、それがしも教えぬわけにはいくまい。しかしな、

ちっちゃいの。軍法についてはまだ早い。合戦においてもっとも重要なもの

は兵糧の確保。その次が城ととりで、すなわち軍事の際の拠点である。そして三

番目が調略よ。まずは荷駄隊。次が築城術じゃ。合戦とは天運を頼みにやる

ものではない。地の利と人の和を活用し、事前に勝利を確定していなければ

ならない。なぜならば天運というものは人の力ではつかみ取れぬが、地の利

と人の和は別よ。五割の勝ち目がある戦を、周到な準備によって十割の勝ち

目にまで押し上げてから戦ってこそ、常勝の軍団が実現するというもの。決

して、出たところ勝負の博打をしてはならぬ。一か八かの博打をやらかして、

もしも御屋形さまが討ち死になさればなんとする」

「泣いちゃいます! うわーん!」

「……わかったわ。武田晴信という大将を失えば、武田軍の負け、武田家の

滅びだものね。でも、ちっちゃいの呼ばわりはやめて頂戴」

「……はっ? 姫さまと温泉に浸かる夢を見ていた……」

「すごいです軍師どの。これほどに合戦というものを深く多方面から考えて

おられる武家を、私ははじめて見ました。軍師というものは宿曜道で天運を

見定め吉日と方角を占って戦うのだとばかり」

「えーとそなたは誰じゃったかな? そうそう秋山どのだったかな。宿曜道

はあくまでも大局を見るもの。戦場で槍を交える修羅場では役に立たぬ。占

いなどにこだわれば、むしろ吉日だの方角だの運気だのにこだわって目先の

現実を見逃してしまうのである。宿曜道は情報戦におけるひとつの方法にす

ぎず、神頼みではない」

「軍師どの! 私は工藤ですっ!」

「おや、そうじゃったかな? そうそう、小山田どのであった」

「工藤ですっ!」

 なぜそれがしは十代の姫武将たちを屋敷に集めて日々軍学の教授などをし

ているのであろう? とふと勘助は疑問に思うこともあったが、彼女たちが

押しかけてきてわいわいと騒ぐと四郎が楽しそうに微笑ほほえんでくれる。それに、

武田家の柱石である板垣、甘利はともに老将。新参者の勘助とてすでに高齢

である。晴信の軍団を長きにわたり最強軍団として維持するためには、世代

交代の布石は打たねばならなかった。

(新世代は男女の仲を家中に持ち込む恐れのない姫武将で固める、か……御

屋形さまも、ちと男嫌いの癖があるような気がしてきたが、それは女嫌いを

自認するこの勘助とて同じこと。むしろ今はこれでよい。御屋形さまに絶対

の忠誠を誓う軍団がいずれ完成するであろう。それに、これまで考えたこと

もなかったが、若い者たちにわが軍学を教えるという仕事も、意外にも楽し

いものだ。語っているうちに己の考えを己自身で再発見できるということも

ある)

 勘助には意外にも、教師の才覚があったらしい。

 四郎の世話をしているうちに、春日源五郎たち幼い姫武将の相手をするこ

とにも自然と慣れ、また、勘助自身が長年にわたってむしばんできた孤独を

彼女たちに慰められてもいた。

(そうだ。それがしにもようやく、御屋形さまのお考えがわかりかけてきた。

天の時も地の利も持たぬ武田家は「人の和」をもって結束し、最強となるの

だ。それ故に、領民も家臣も皆武田家の一員なのだ。人材の育成こそ、軍師

としてもっとも重要な務めであった。そして、それがしにとっても謀略と合

戦とで汚れていた魂が洗われるかのような日々である。そのことに気づかせ

てくれたのは、四郎さまだ)

 しかし。

 勘助が四郎と姫武将たちのお世話に懸命に奔走している間に、晴信の身辺

では大事件が勃発していた――この事件が、晴信の性格と人生に大きな影を

落とすこととなった。



「禰々が死んだ。禰々は、あたしたちが諏訪頼重を捕らえたあの山に登った。

視界の利かぬ深夜にだ。そして崖から谷底へと落ちた。頼重の菩提ぼだいを弔うた

めに山へ入ったのか、それとも――」

 久しぶりに躑躅ヶ崎館に呼び出された勘助は、晴信の口から淡々とその事

実を聞かされていた。

 晴信はひどく衰弱していた。頼重切腹のあと、傷心の禰々を癒やすために

太郎、次郎、母の大井夫人たちとともに手を尽くしてきたらしい。だが、い

かなる言葉も禰々を癒やすことはできなかった。これが戦国の世の習い、武

家の定めと割り切るには、禰々はあまりにも幼すぎた。食べ物を食べず、ど

んどん衰えていた。

 それでも、晴信は忍耐強く禰々に接し続けた。信濃攻略の仕事を中断して

まで、禰々を介抱してきた。

 禰々の心がようやく癒やされはじめていた矢先の、突発的な事故だった。

「御屋形さま!? み、み、見張りは」

「勘助。昨日、禰々は『姉上。わたしはもうだいじょうぶです』と笑顔を見

せてくれた。頼重の遺言、頼重が四郎を勘助に託したこと、あたしたち家族

が禰々のために手を尽くしてきたこと。ようやく、禰々はすべてを受け入れ、

再び生きる気力を取り戻してくれたのだ。あたしが手ずからに与えたほうと

うを、食べてくれた……」

 それがしが四郎さまたちと戯れている間に御屋形さまはこれほど苦しまれ

ておられたのか、と勘助は胸をかきむしられる思いにもだえた。

 なんということだ。これで軍師か。己の家に訪れたささやかな幸せに夢中

になって、御屋形さまのご苦悩に気づかずかかる事態を招くとは!

 勘助は「信じられませぬ」と冷や汗を流しながら宿曜道に用いる占星盤を

広げて、「ご一族のことは占わぬと決めておりましたが、ご免!」と禰々の

宿星を読んだ。

 そして、禰々の天命がすでに尽きていたことを知った。

 まさか。まだ十五にもならぬ幼い少女であったのに、と勘助は愕然がくぜんとした。

 暗殺でも自殺でもなく、天命が――寿命が尽きたのだ。

 勘助が知る限り、人間には与えられた天命を変えることはできない。

 しかし前もって禰々さまの宿星の運命を知っていれば、あるいは天命にあらが

うこともできたかもしれぬ、と悔いた。

「……頼重どのが死んだ際に、万が一の事態に備えて禰々さまの星を占って

おくべきでした……勘助の過ちにござりまする……!」

「禰々は自ら身を投げたのではなく、長らく館を出て山道を歩いていなかっ

たので足の筋が衰えており、あやまって足を滑らせたのだろう、という結論

になった。だが勘助、これはあたしの失策だ。禰々の心は癒やされはじめて

いても、その身体は長い断食によって衰えていた。少し考えれば、わかるこ

とだった」

 そう告げる晴信の頬もまた、痛ましいほどにこけていた。

「だがあたしはもう泣かないと決めた。これより、死んでしまった者のこと

を思いだして涙ぐむことをあたしは自分に禁じた。父を追放してまで武田家

当主の座を奪ったあたしに、そのような暇はないのだから――」

 禰々さまの介護を続ける間、晴信さまも食事の量を減らされておられたの

だ。ともに飢餓に耐えておられたのだ。それが禰々さまに伝わったからこそ

禰々さまの心は回復の兆しを見せたのだ、と勘助は理解した。

「御屋形さま。なぜです。それがしを、お呼びいただければ……」

「勘助。あたしが禰々にかかりきりで四郎に割く時間を持てなかったのと同

様に、お前は四郎の面倒で手一杯だったろう。勘助が手を尽くしてくれたお

かげで、四郎だけでも救えたのだ」

「それはそうですが、しかし!」

「それに勘助。お前が四郎や源五郎たちとともに過ごすひとときを、邪魔し

たくはなかったのだ。勘助の館が人であふれ笑顔で溢れることなど、今までな

かっただろうからな」

「なんと……左様さようなことで……申し訳ございませぬ!」

 勘助は、晴信の前に土下座してびた。

 これでは立場が逆ではないか、御屋形さまがそれがしを気遣って自ら罪を

背負われるとはなんたることだ! と己の甘さを痛感した。

「それがし、あさましくも己の幸せに夢中になり、目がくらんでおりました

……! これでは、軍師失格です……! 腹を切らせてくだされ、御屋形さ

ま!」

「よいのだ。勘助。お前は鬼ではなく、人なのだ。人間は、戦と謀略と陰謀

だけで生き続けられるものではない。お前は慈悲心をもって幼い四郎を救っ

た。それだけで十分だ。まだ信濃平定の仕事ははじまったばかりだ、お前に

腹を切られては困る」

 御屋形さまはお優しすぎる。口汚く責めてもらったほうがまだましだ、と

勘助は心中で叫んでいた。

 父を追放し、今また妹を失った――御屋形さまはそれがしのようなむくつ

けき男ではない。まだ若い乙女である。立て続けに自らの行動から家族を

失った御屋形さまがどれほどお辛いことか。四郎さまと暮らしてみて、それ

がしにもようやく家族というものの尊さが理解できた。それがしはなんと朴

念仁であったのか、と激しく後悔した。

「なりませぬぞ! 甘すぎますぞ! それがしの小さな幸せなどなにほどの

ことがありましょうや、御屋形さま! それがしの才を、遠慮なく奴隷のご

とく使いつぶしなされ!」

「あたしには生来、そういう残酷な面がある。あるだけに、そのような真似

はしたくなかったのだ。とりわけ勘助、お前にはな」

「いえ。それがしにだけは、酷薄に振る舞っていただいてよろしいのです! 

これよりは一日の休日も取らず、牛馬の如く御屋形さまにお仕えいたしま

す! この命が尽きるまで、心の臓が止まるその時まで! よいですな!」

 その歳で無理をするな、と晴信は笑った。

「この勘助がある限り、二度とかような悲劇は起こさせませぬ。御屋形さま

のご一族、武田一門の人間を犠牲にするような策は決して! 決して、御屋

形さまに選択させませぬ!」

「そうもいくまい。合戦を続ける限り、いずれは戦場で一門衆を死なせるこ

ともあろう」

「なりませぬ! 武田家の軍師は、ただ城を奪うだけが仕事ではない、とそ

れがしは思い知りました。次に同じ過ちを犯した時にはこの勘助、御屋形さ

まのご命令に背いてでも自ら腹を切って死にまする!」

「ならぬぞ」

「いいえ。それがしの望みは、世に隠れなき名将を育てること。天下一の軍

師となること。ただ城を奪い国を盗るだけが天下人ではありません。一族一

門を犠牲にしての天下は、おそらくはとてつもなくむなしく、殺伐としたもの

となりましょう。これ以上ご家族を犠牲にすれば、城と引き替えに御屋形さ

まの心が死んでいきまする。それでは御屋形さまは天下は奪えても、幸福を

掴めませぬ……!」

 あたし個人の幸福など考えたこともない。あたしとお前とは天下盗りの野

望に生涯を捧げた野望の者同士ではないか、と晴信はまた笑った。寂しげな

笑顔だった。十代の少女が浮かべてよいものではない、と勘助は思った。胸

を突かれた。

「禰々の葬儀は家族だけで静かに執り行う。板垣によれば、諏訪の大祝職を

求めて例の高遠が謀反の兆しを見せている。まもなく諏訪に攻め寄せてくる

だろう、ということだからな」

 当然のことだが、諏訪の民はこのあたしが頼重を謀殺したと信じている。

高遠勢に呼応して反乱が起きるだろうな。高遠戦は苦しい戦になりそうだ、

と晴信は口元を引き締めて言った。

「御屋形さま。禰々さまの喪が明けたら、婿を取りなされ。お子を産みなさ

れ。信濃戦線が拡大しておらぬ今のうちに」

 晴信は「なにを言うの」と素の少女の表情に戻って、頬を赤らめた。

「いきなりどうしたの、勘助?」

「大勢のご家族に囲まれて育てられてきた御屋形さまは、それがしのような

孤独な人生を送ることのできるお方ではありませぬ! 孤独に耐えられませ

ぬ! 孤独は、御屋形さまのお心をむしばみます。合戦に明け暮れる人生は、

御屋形さまをいずれ信虎さまの如き餓狼に変えてしまいまする。己の家族を

持ちなされ! 高遠、小笠原、村上との全面戦争をはじめる前に! 信濃平

定には時間がかかりまする。戦に次ぐ戦となりまする。この機を逃せば、御

屋形さまの婚期は遠のきますぞ!」

 信濃を平定したら考えるわ。禰々が死んでしまったというのに、自分の婚

儀など考えられるはずもない、と晴信は苦笑した――その寂しげな笑顔を

一瞥いちべつした勘助は、(もしかして御屋形さまは生涯婿を取らないのではないか。

独身を貫き、禰々さまの菩提を弔い続けるのではないか)と不安に襲われた。

「天下の名将には、孤高の身であってはなることができませぬ。家族を持ち

なされ!」

「家族ならば、次郎たちがいるわ」

「次郎さまたちは、生まれながらにしてのご家族。御屋形さまが自ら行動し

て家族とされた者ではありません。ご自分の意志で、新たな家族を持ちなさ

れ! 家族を知らずして、国は治められませぬ! 御屋形さまがそれがしの

ような鬼になってしまっては、勘助、生涯の不覚」

「……姫大名の掟があるでしょう勘助。あたしは自分の家臣を夫にはできな

い。一門の親族の中から婿を取るか、他国の大名格と婚姻同盟を結ぶしかな

いのよ。そもそも姫大名は、男子不足と家督を巡る内紛に苦しむ武家が苦し

紛れに採用した制度。本来は、男が大名となり家督を継ぐのが筋。故に、姫

大名の婚姻には多くの不自由がある。なるべく姫大名が生涯独身を貫くこと

になるよう、いくつもの掟でがんじがらめになっているの」

「いえ。この勘助が越後の長尾家、奥州の伊達家、常陸の佐竹家など、候補

をあたりまする! 武家ではありませぬが、摂津の大坂本猫寺ほんびようじの者と婚姻す

るのもよろしいでしょう。本猫寺はいまや日ノ本最大の軍事組織であります

れば――加賀などは本猫寺門徒が守護を追放して国を支配しております」

「あたしの婿を探すために、諸国を漫遊するつもり? そのような暇がある

ならば、目の前の高遠戦の軍師をお願いしたいわね。すべては信濃を盗って

からよ勘助。そうでなければ、父上を追放し禰々を死なせたことの意味がす

べてなくなってしまう」

「ですが、お世継ぎを作ることもまた」

「ううん。武田家には次郎もいるし太郎もいる。次郎は万事にそつなく優秀

で家臣団からの人望もあるし、太郎は隠れなき武勇の持ち主。もしあたしが

子をなせなくても、なにも問題はないわ」

 今すぐに婿を取らせるのは無理であろう、と勘助は断念した。それがしが

性急に過ぎた。今このような婿取りを押しつければ、悲しんでおられる御屋

形さまの心はますます婚姻から遠ざかってしまう、と。

 しかし、これほど衰弱した御屋形さまをこのまま信濃戦の泥沼に引きずり

入れてはならぬ。御屋形さまのお身体にさわる。

 そうだ、四郎さまがおられた、と勘助は気づいた。

 四郎さまには、ただそこにおられるだけで人々のすさんだ心を癒やす力が

ある。それがしが生き証人である、と思った。

「さすれば御屋形さま。義妹を取りなされ」

「義妹?」

「左様。禰々さまのご家族。諏訪頼重どのの実の妹、四郎さまを義妹になさ

れよ。それが、禰々さまのご供養にもなりまする」

「勘助。四郎は、だって、あなたの家族も同然でしょう」

「いえ。養女にしたわけではありません。頼重どのに頼まれて四郎さまをお

守りしておりますが、それがしは四郎さまの父になってはおりませぬ。なに

ぶん諏訪家の巫女が、それがしのような風来坊の家族になってしまっては格

が落ち、諏訪家を継ぐことかないませぬ故に――諏訪家と武田家を、こんど

こそひとつとするのです。諏訪四郎さまを、武田晴信さまの義妹とすること

によって。さすれば四郎さまは武田一門でありながら諏訪家の当主となれま

しょう。諏訪家は再興されます。これでそれがしも、頼重どのとの約束を果

たせましょう」

 晴信は自分自身の小さな幸福のために国の大事を決めるようなことはしな

い。父親を追放して以来、個人としての自分の人生を捨てているところがあ

る。だが、「諏訪と武田を再びひとつに」という勘助のこの献策には、大い

に心を動かされた。武田家が完全に諏訪を支配するには、四郎を武田一門に

繋げて諏訪の民の心を慰撫いぶすることが必要だとすぐに理解したからだった。

 むろん、朴念仁の勘助がこれほどにかわいがっている四郎はよほど愛らし

い姫なのだろうという思いもあった。不慮の死を遂げた禰々とはもうともに

過ごせない。禰々に新しい良縁を見つけることもできない。代わりに、せめ

て、諏訪頼重と禰々の残した家族――四郎を自らの妹として育てて守りたて、

諏訪家への罪滅ぼしとしたい、晴信はそう願った。

「四郎は承知するだろうか」

「四郎さまは童女ながら、人の心にさとい。禰々さまを失われた御屋形さまの

心中を察することのできるお子です。承知いたしましょう」

「だが勘助。次郎、太郎たち、さらに板垣、甘利らを説得せねばならない」

「次郎さまたち一門衆は御屋形さまの思いを尊重して賛成してくださいま

しょう。問題は板垣どの、甘利どのら家臣団でございます。いちど諏訪を滅

ぼしておきながら今更面倒なことを、必ずや後々の災いの種となる、と反対

する者も多いでしょうな」

「会議の席で家臣団を説得できる? 勘助」

「問答無用でこの勘助がすべての段取りを片付けてしまった、と事後報告な

さいませ」

「それでは、また勘助だけが恨まれるわ」

「御屋形さま。それがしを使う際に、いささかも遠慮してはなりませぬ。遠

慮すれば禰々さまのような不幸が起こりますぞ!」

 勘助は唾を飛ばしながら激しい口調でそう言い切った。

「信濃平定に必要以上に時間を要してはなりませぬ。急がねばなりませぬ。

急がねば……!」

 諏訪の城代・板垣信方が「高遠、謀反! 諏訪へ乱入! 諏訪の民もいっ

せいに反武田方につき蜂起いたした!」と告げながら諏訪の守備兵を率いて

府中へ整然と撤退してきたのは、その日の夕刻のことだった。

 諏訪頼重に続いてその幼妻の禰々までもが甲斐で不慮の死を遂げた。

 これを諏訪の民は、諏訪の地を武田のものにしようと企む晴信による二度

にわたる謀殺、と捉えた。

 実父を追放するくらいの悪人であるからには、妹を殺すくらいわけもない

ことだろう、決してあのような鬼には仕えぬ、と憤っていた。

 諏訪の民や国人たちが抱いた反武田感情は、予想以上だった。

 兵を挙げた高遠の軍は、みるみる数倍に膨らんでいて、板垣率いる守備隊

だけではいかんともしがたく、兵を損ずる前に撤退したのだという。

 さすがは板垣信方、見事な進退の駆け引きを見せた、と軍議の席に駆けつ

けた晴信は大きくうなずいた。

「禰々さまのこと、まことにお気の毒に思いまする。しかし諏訪は風雲急を

告げております。御屋形さま。山本勘助。この高遠との戦いを、禰々さまの

弔い合戦といたしましょう」

「だが板垣、これまでの高遠とは違う。諏訪の民皆が武田の敵となっている

のだぞ。頼重に続いて禰々までが死んだのだからな。このあたしがついに実

の妹までを殺した、と諏訪の者どもは怒っているだろう。力押しで勝てる

か」

「力押しでは、とても……さりとて次は我が身と構えている小笠原や村上が

武田を支援するはずもございませぬ。それどころか戦が長引けば、小笠原が

高遠に援軍を送るやもしれませぬ。山本勘助。軍師どの。なにか策はないの

か」

「……左様ですな。ありますが、板垣どのや甘利どのが納得していただけな

いのであれば、用いることのできぬ奇策にございます。この勘助、戦に勝つ

ためならばいかなる策をも用いる戦の鬼故に」

「構わぬ。武田家存続の危機だ。いかなる策であろうとも、認めざるを得ま

い」

 勘助は、今こそ問答無用で四郎さまを武田ご一門に連ねる好機、今を逃し

ては宿老たちを押し切れぬ、と咄嗟とつさに判断していた。

 瞬時にして策をひらめいていた。

 必ずや四郎さまと御屋形さまにとって益となり救いとなる道である、と信

じながら。

「それでは、申しあげまする――」



 晴信は、諏訪へ向けて板垣信方を再進撃させた。諏訪守備兵だけでなく、

甲斐の精鋭を多くつけている。

 しかし諏訪宗家を滅ぼされて武田に恨みを持つ諏訪勢の多くを味方につけ、

電光石火で上原城を奪取した高遠頼継の軍勢は、この時には大幅に膨れあ

がっていた。

 高遠頼継は武田晴信自身が出撃してこないことを見て、「この兵力差では

堂々と戦う自信がないのだ」と判断し、上原城を出て甲斐へ進軍するべく安

国寺へと入った――。

 高遠勢と板垣勢がにらみ合う中。

 武田晴信自身が、ついに甲斐を出撃し、諏訪へと向かった。

 だが晴信はすでに本隊のほとんどを板垣信方に預けている。わずかな旗本

衆、小姓衆だけが晴信に動かせる兵力だった。高遠頼継は「やはりもう武田

には兵がいない。形だけの出陣だ」と笑った。

 が、晴信はそのわずかな手勢だけで、敵陣の目と鼻の先にある宮川まで一

気に進軍した。

 晴信はこの戦ではじめて諏訪法性ほつしようかぶとを被り、「武田家は代々、諏訪明神

を信仰する家柄である。諏訪神社は必ず復興する」と宣言して動揺する諏訪

衆を味方につけようとした。

 そして晴信には、切り札があった。

 諏訪頼重の妹、諏訪四郎だった。

 このまま高遠に味方するか、あるいは武田につくか迷っている諏訪衆の前

に、その四郎が巫女姿のままで姿を見せたのだった。

 馬で進む晴信の膝の上に乗って。

 四郎は、諏訪宗家直系の跡取りである。神の末裔である。諏訪衆たちは皆

驚き、戦場に現れた幼い四郎に手を合わせて伏し拝んだ。

「すわのものたち。しろうは、はるのぶさまのいもうととなった。すわとた

けだは、ひとつのかぞくとなった」

 諏訪衆のことごとくが、四郎の言葉を聞くと同時に迷うことなく武田方に

寝返った。いや、寝返ったのではない。諏訪家の頭領に従ったのだ。

 晴信の手勢は、数倍に膨れあがった。

 形勢は、一気に逆転した。

 高遠の兵力は半減し、武田方の兵力は倍増していた。

 山本勘助は「おおお。四郎さま。なんと神々しく、勇敢でけなげなご決

心を。この勘助、生涯四郎さまと御屋形さまのおんために勝ち続けまする

ぞ!」と感動の涙を流しながら、諏訪衆の中に混じって思わず四郎を伏し拝

んでいた。

 勘助は、四郎を戦場へ連れてくることには反対だった。

 そもそも勘助の献策は、「四郎さまを御屋形さまの義妹となさり、武田家

と諏訪家を再び一門とするのです。その上で四郎さまご成人の暁には四郎さ

まに諏訪神社を継がせると宣言なさりませ。なにしろ高遠などは分家にすぎ

ず、諏訪宗家の後継者はまごうかたなく諏訪宗家の血を引かれる四郎さま。

これは諏訪頼重どのの遺言でもありますれば、それで諏訪衆は高遠を捨てて

武田にいっせいにお味方いたします」というものだった。

 諏訪の国人衆を「諏訪宗家」の旗印のもとに結集させ、一気に形勢を逆転

して高遠を諏訪から追い落とす策だった。

 同時に、四郎を晴信の義妹とすることで、四郎の立場もまた安泰となる。

 板垣や甘利たち老将は、「いちど破れた諏訪との関係をこのような形で強

引に戻すことで、後々の災いにならねばよいが」「武田に滅ぼされた諏訪頼

重の妹を武田一門にしてよいものか」と心配しながらも、この勘助の策には

どうしても反対しきれなかった。

 他に高遠を破るいい手立てがなく、いたずらに戦いが長引けば諏訪の北・

林城一帯を支配する小笠原が高遠に加勢することは明らかだったからだ。

 晴信も「それで諏訪頼重と禰々の魂も鎮まるだろう」と認めた。

 ところがここでさらに、勘助も晴信も考えていなかったことが起きた。

 幼い四郎自身が、諏訪出陣の折りに自らも参戦したい、とたどたどしい言

葉で晴信と勘助に告げたのである。

 勘助は「なりませぬ! 四郎さまは武家にはなりませぬ。それにそれがし、

二度と御屋形さまのご一門を危地に陥れる策を採らぬと決めました! 決し

てなりませぬうううう!」と慌て錯乱したが、四郎の決意は固かった。

 板垣信方は「まだ幼いのに明晰めいせきかつ勇敢な姫にござりますな。御屋形さま

の信頼は諏訪では地に落ちております。四郎さまを義妹にと宣言しても、彼

らはまたしても偽りではないかと疑いましょう。ですがそこに幼い四郎さま

ご自身が現れて御屋形さまの妹になったことと諏訪家を継ぐことを誓います

れば、諏訪衆はことごとく武田のお味方になります」とあっけにとられなが

らうなずいた。

 晴信は、「勘助。人間にはどうしても戦わねばならぬ時がある。四郎が武

田の一門として皆に認められるかどうかは、この一戦にかかっている」と四

郎の言葉を受け入れたのだ。

 晴信軍は板垣軍と合流し、宮川橋付近で、ついに高遠勢と激突した。

 晴信にとって、堂々の野戦を大将として指揮する経験ははじめてである。

 諏訪頼重と戦った時には高遠との挟撃によって戦わずして勝利していたし、

北条との戦いは今川軍の援軍として動いた。

 しかも、まだ幼い四郎を連れてきている。

 禰々に続いて四郎まで戦で死なせれば、晴信の悪名はもはや永遠に消せな

いだろう。それ以前に、晴信自身の心がもたなくなる。

 それだけに、晴信は緊張していた。

 絶対に勝って高遠を滅ぼさなければならなかった。

 すでに勘助の献策と四郎の勇気とによって、戦う前から勝敗の行方がほぼ

決していたことは間違いない。だが、実戦においてはなにが起こるかわから

ない。一本の矢が、不意に勝者の命を奪ってしまうこともあるのだ。天変地

異によって形勢が奇跡的に逆転するということも、実戦ではありうる。あら

ゆる不測の事態が、勝つべき戦を負け戦に変えてしまうということが考えら

れる。

 高遠軍との衝突がはじまると、晴信は四郎を駕籠かごへと乗せて次郎に預け、

安全な後方へ下がらせた。

 四郎を担ぎ出した以上はこの合戦には絶対に負けられない、と唇をみな

がら馬上で戦況を眺める晴信に、勘助が声をかけた。

「御屋形さま。落ち着きなされ。ことここに至れば、迷ったり悩んだりして

はなりませぬ。泰然自若と構え、武田軍の運命を、戦の行方を見定めるので

す。焦れば勝機を逃しますぞ」

「勘助は鬼ね。四郎を担ぎ上げた時には反対して大騒ぎしていたのに」

「四郎さまのためにも勝たねばなりませぬ。合戦がはじまってしまえば、軍

師はただ勝利のために知謀を用いるのみ。ですが御屋形さまは考える必要な

どありません。山の如く、堂々とこの本陣に根を下ろしなされ。これまでに

わが軍が打ってきた策の確かさと、味方の将兵の武勇を信じなされ。信じて

悠然と構える大将が背後にいてくれてこそ、将兵たちの士気はあがり、皆が

この大将のためならば命も惜しまぬと思い定められるのです」

「あたしは、皆が命を惜しんでくれたほうがいい」

「婦人の仁ですな。その結果、四郎さまや御屋形さまが命を落とせば、なん

とします。大将は、決して戦で討ち死にしてはならぬのです。御屋形さまが

討ち死になされば、武田が滅びますぞ」

「……この合戦で、大勢の兵が死ぬのね」

「いえ、死ぬのは高遠の兵どもです。ごらんなされ。武田の兵が圧倒してお

ります。この野戦で勝利を収めた暁には諏訪のみならず、余勢を駆ってなん

としても高遠の本城まで落としてしまいましょう」

 勘助が指し示した通り、諏訪四郎を見た高遠勢の士気は落ち、誰もが逃げ

腰になっていた。四郎はなんといっても諏訪宗家の正統後継者であったし、

しかも年端もいかない童女だった。晴信はともかく四郎さまに弓をひいてよ

いものかという迷いを、高遠勢の兵たちは抱いた。

 一方、高遠を捨てて武田方にはせ参じた諏訪勢の兵たちは「四郎さまをお

守りして諏訪家を再興するのじゃ」「四郎さまを武田のご一門に入れてくだ

さった武田晴信は信頼できるお方」と諏訪家再興のために必死になっている。

 板垣信方率いる甲斐兵たちも、「禰々さまの弔い合戦である」とばかりに

戦場を駆け巡っていた。

 正午過ぎにはじまった合戦は、夕刻まで続いた。

 豪雨が降りはじめていた。

 まだ元服もしていないのに「俺の短気のせいで禰々が。死んでもかまわね

え、暴れさせろ!」と晴信に直訴して参戦していた太郎が、飯富兵部の支援

を受けながら敵陣深くに斬りこみ、高遠頼継の弟を討ち取った。

 これで、防御陣を敷いてかろうじて持ちこたえていた高遠方の一角が完全

に崩れた。

「御屋形さま。お味方の勝利にござりまする。わが軍の死者は五十名ほど。

高遠勢の死者は数百にのぼりましょう」

「追撃はやめましょう勘助。きっと、小笠原が動くわ」

「いえ。小笠原の進路には、甘利虎泰どのと横田備中どのをすでに向かわせ

ておりますれば、来られませぬ。高遠勢が敗走する間に、この合戦に参加し

ていない別働隊に杖突峠つえつきとうげを越えさせて空っぽの高遠城を奇襲にて攻め落とし

まする」

「別働隊?」

「はっ。四郎さまのご威光で兵力が予定外に増え、余力がございました故。

別働隊を道案内するは、縦横無尽に山を駆ける猿飛佐助。ちと銭がかかりま

すが、仕方ありますまい。奇襲部隊を率いるは、馬場信房、春日源五郎、飯

富三郎兵衛、大殿に甲斐を追われておりましたがこのたび帰参いたした原な

んとかたち、若き姫武将の卵たちでございます」

「勘助の教え子たちね」

「御意。風の如く駆け、炎の如く攻め立てまする」

 勘助は、諏訪の空にはためく風林火山の旗を見上げながら、己の戦術の根

本思想を言い含めるように晴信に説いた。

「孫子いわく」

 はやきこと風の如く。

 しずかなること林の如く。

 侵掠しんりやくすること火の如く。

 知りがたきこと陰の如く。

 動かざること山の如く。

 動くこと雷霆らいていの如し。

「戦の采配も、剣法も、緩急でございます。常に一定の速度で動いては、敵

に動きを気取られまする。動かざる時と、動く時との、速度差です。剣法に

おいては『後の先を取る』などとも申しますが、つまり敵が動く時には陰に

入って動かず、敵が動かない時にかげより飛びだして素早く動くのです。です

が御屋形さまはまだ、山の如く不動に構えられる境地に達しておりませぬ。

経験が必要でしょうな」

「不思議ね。勘助はあたしの軍師になるまで、実戦経験がなかったのでしょ

う。それなのに、これほど見事な采配をどうしてふるえるのかしら」

「何十年もの間、頭の中で、常に目には見えぬ戦場を駆け巡っておりました

故。ただ、耳学問好きというものは常に一定の形に戦法をはめ込みたがるも

の。それではなりません。常に縦横無尽、自由自在に目の前の戦況を見定め、

臨機応変に兵を動かさねばならないのです。それがしは禰々さまを思いがけ

ぬ形で失い、四郎さまや姫武将たちを相手に日々悪戦苦闘しているうちに、

自分の兵法が耳学問であったことを痛感いたしました。現実の戦は、人の心

を動かすものであったと。このたびは四郎さまの出陣を認めざるを得ません

でしたが、今後は二度と四郎さまを危険にさらす策は用いませぬぞ。御屋形

さまのご一門を戦で死なせた時、それはそれがしが腹を切る時です」

「勘助。あなたが自分の知謀にそのような縛りを設ければきっと、武田は無

敵不敗というわけにはいかなくなるわね」

「御意。ですが、それでよいのです。それがしは御屋形さまを悪鬼にしては

ならぬのです。武田晴信は武田信虎の如き悪鬼ではなく、日ノ本一の名将に

ならねばならぬのです。そしてそれこそが、一見遠回りに見えて、実は天下

への近道だと悟りました」

「でも今日の戦、太郎は危なかったわ。端武者はむしやのように突進していって」

「太郎さまは男ですので、あれでよろしいのです。それに槍の名手・飯富兵

部どのが影のようについております。容易には討たれませぬ」

 太郎をそろそろ元服させないとね、と晴信はうなずいた。

「見て勘助。高遠勢が、敗走をはじめたわ」

「侵掠すること火の如く、です。太郎さまたちに追撃させると同時に、高遠

城へさきほど述べた別働隊を飛ばしまする。高遠頼継よりも早く杖突峠を越

えて城を奪いまする」

 四郎さまがもしも姫でなく男であれば、これほどの大勝もなく高遠城追撃

もできなかっただろう。伊那平定にはなお数年の時間がかかったに違いない、

と勘助はうなずいていた。

「高遠城落城」の知らせを持って猿飛佐助が晴信のもとに顔を出した頃、本

城を失った高遠頼継は落ち武者となっていずこともなく消え去っていた。

 武田晴信はここに、諏訪と伊那の地を平定した。

 上原城に入った晴信は四郎を膝の上に抱きながら、佐助に約束の銭を支

払った。ずいぶんと高い値段だった。「上州に落ちておられる真田どのが銭

に困っているのでござるよ」と佐助は頭をかいた。

「それにしてもよくやったわみんな。高遠を破っても伊那を奪取するにはま

だ数年かかると思っていたのに、見事だわ。馬場、春日源五郎、飯富三郎兵

衛に感状を」

「ウキャ? 部隊長はあと一人いたでござるが。はて、誰であったのか思い

だせないでござる」

「あと一人? 誰だったかしら? まあいいわ。それよりも佐助。あなたの

主君・真田幸隆は、武田に仕える気がないの?」

「ウキュキュ。なにしろ信虎どのに真田の庄から上州へと追われております

からな」

「あたしは次に、北信濃へ出て佐久を攻める。佐久は上州と隣接しているか

ら、関東管領上杉軍はきっとあたしと戦うことに。このままでは真田を敵に

回すでしょうね。真田忍群を武田の敵にするのは、なんとしても避けたいわ。

むしろ真田家ごと、全員を召し抱えたいの」

 佐助は「武田家に正式に仕えれば忙しくなって面倒でござるなあ。拙者せつしや

自由気ままな暮らしがいちばんでござる」と頭をかいた。

「鳶加藤が村上に奔ったわ。真田忍群の助けなくば、村上を倒せないと思う

の」

「鳶加藤が? それは厄介な者を敵にしたでござるな。まあ、なるようにな

るでござるよ」

「あなたは鳶加藤とは同輩なのでしょう? 同じ戸隠の山で忍術を身につけ

た者同士。しかも、猿飛の術と鳶の術とは似た技だというわ。あの者を調略

できないかしら」

「あれは鳶ノ一族最強の称号を得た、特別な忍びでござる。誰にも仕えぬで

ござるよ。諏訪頼重とは、同じ信州の神氏と鳶ノ一族という因縁故に縁が深

かっただけのこと。頼重が晴信どのの暗殺仕事に加藤でなく拙者を用いたの

は、晴信どのにとっては幸運でござった」

「雇えないにしても、せめて中立にできないかしら」

「無駄でござろうなあ。いずれにしても武田軍が信濃を北上すれば、いつか

は戸隠山に衝突するでござる。あの一帯は北信濃における戦略上の要地。諏

訪をわがものにした以上、戸隠を守る忍び・鳶ノ一族と和解することは不可

能でござる。ただし」

「ただし?」

「拙者がそうでござるが、戸隠山の因習臭さに辟易へきえきしてあの山を離れ、真田

に居着いている連中は別でござる。真田どのは武家とは思えぬほどに適当で

ござるからな。真田一族は天下にも国にも望みなし、ただ真田の庄でのんべ

えだらりとやっていければいいと思っておりますからなあ。その日暮らしを

楽しみたい拙者の性分に合うのでござる。ウキュキュキュ」

 小笠原・村上の背後に、戸隠山の鳶ノ一族――やはり信濃は広大すぎる。 

信濃平定はあたしの想像以上に厄介な仕事かもしれない。はたして間に合う

だろうか。今川義元に先に上洛されてしまうのではないだろうか――晴信は、

焦りを感じていた。

 晴信から「高遠城の大改修」という大仕事を与えられた勘助はその夜、再

び諏訪の代官に返り咲いた板垣信方と酒を酌み交わしていた。

 板垣信方は、禰々が死んだことについても、四郎を合戦に連れ出したこと

についても、勘助を責めなかった。

 そのことがかえって、勘助にとっては辛かった。

「勘助。信濃から東海道へ出る上での要所にあたる高遠城を堅固な城塞とし

て改修するということは、御屋形さまはいずれ今川と手切れなされるおつも

りか。駿河には信虎さまだけでなく、定さまという妹君がおられるが」

「それがしは禰々さまを失ったことに責任を痛感しております。定さまを犠

牲にすることはいたしませぬ」

「御屋形さまは癖になるのではないか、それが心配じゃ」

「癖、と申しますと?」

「御屋形さまは甲斐を盗るために父親を、諏訪を盗るために禰々さまを失っ

た。国を盗るごとに家族を失われていく、それが己の定め、戦国の定めだと

思い込まれねばよいのだが」

「……国を盗るごとに家族を……まさか。御屋形さまは武田家の繁栄と安寧

のために、国盗りを行っておりまする。それでは本末転倒。それがしは諏訪

明神に誓いました、二度と御屋形さまのご一門を危機に陥れる策は使わぬ

と」

「それでは領土の拡大が遅くなろう。また、御屋形さまご自身が討ち死にを

覚悟するような修羅場では、左様な甘いことも言っておられぬ。いずれ、勘

助よ。そなたは、いずれかを選ばねばならぬ時が来るであろう」

「いずれか、と申しますと」

「御屋形さまのお命か、あるいは武田一門や家臣の命か、だ。言うまでもな

いが、御屋形さまのお命をなによりも優先するよう。御屋形さまの『癖』に

ならぬかどうかを迷う暇などない火急の時にはな」

 心得ております、と勘助は頭を下げた。

「しかし、御屋形さまは日ノ本に隠れなき聡明なお方。そのような偶然の連

なりがゆくゆく癖などになりましょうか?」

「人間とは不思議なもの。はじめはただの偶然であっても、二度繰り返せ

ば、三度目もある、と思い込むもの。三度目があれば、当然、四度目も。な

にぶん、はじめが強烈すぎた。一門家臣と結託して父親を追放したのだから

な。あの件は御屋形さまの心にとって生涯ぬぐいきれぬ痛恨の傷となったで

あろう。そして諏訪を盗るなり、次は禰々さまが。偶然の出来事ではあった

が、御屋形さまの中では一本の因果の線が繋がったかのような出来事だ」

「……因果の線……理屈ではなく、御屋形さまのお心の中で、因果の線が生

まれたと。そう申されるのか、板垣どの」

「御屋形さまは、自分は勝てば勝つほど、国を盗れば盗るほど家族を失い孤

独になっていくのではないかと、次第に思い込んでいく気がする。因果応報

という言葉は、そのような人の心から生みだされた言葉ではないか。それが

どうにも心配じゃ」

 軍略と謀略を考えることに明け暮れてきたそれがしにはわからぬ人の心の

機微をこの宿老は心得ているのだ。それがしにはない能力であり知恵だと勘

助は思った。

「ですが御屋形さまには板垣さま、甘利さま、次郎さまがおられます。決し

てそのような事態には――」

「いや、諏訪を落とされた信濃は手強いぞ。ことに村上義清はな。御屋形さ

まはまだ生か死かの激戦を経験しておらぬ。負け戦となった時にどうなるか

は――もしも御屋形さまが死地に陥ったら、迷わずこの板垣の命を使え。思

い込みの因果の糸の話は老人の繰り言と思い切れ。御屋形さまが死ねば、因

果も思い込みも孤独もすべてなくなってしまうのだからな。よいな、勘助」

 勘助は「そのような事態に陥らせぬことこそが軍師の使命でございます」

とうなずいていた。

 この時、囲炉裏の炎が壁に照らし出した板垣どのの影が妙に薄い、と勘助

は気づいた。宿曜道の達人としての勘助の知識が、その異変に気づかせてし

まったのだ。

(もしや? 板垣どのの、天運は――いやしかし板垣どのは健康そのもの、

老将とは思えぬ頑強な肉体と強靱きようじんな精神の持ち主であるが――まさか、武田

軍がまもなく戦に敗れるというのか?)

 勘助は、その言葉をかろうじて呑み込んでいた。



「次郎ちゃん。あたしたちは父上に続いて、禰々まで失ってしまった。勘助

たちの前では二度と死者を振り返らない、涙を流さないと決めたけれど……

もうこんな過ちは再び犯したくない。禰々のことを思うと、心が潰れてしま

いそうなの……それなのに、いざとなれば自分の感情を殺して冷酷な決断を

してしまう自分自身が、怖い。父上を追放した時もそうだった」

 諏訪に続き高遠家が支配していた伊那を平定して甲斐に凱旋した晴信は、

次郎だけを連れてあの山に登っていた。諏訪頼重を包囲した裏山。禰々の

終焉しゆうえんの地となった因縁の地。公式な墓とは別に、晴信がひそかに頼重と禰々の

墓標を設けた山――。

 禰々の遺した形見とも言える諏訪家の遺児・四郎を義妹として以来、晴信

の後悔に押し潰されそうな心はかろうじて四郎の笑顔によって保たれてきた。

しかし、晴信は知ってしまった。国盗りの野望は、否応いやおうなしに武田家の家族

を犠牲として持ち去ってしまう煩悩の炎なのだと。

「禰々は嫁ぐのが早すぎたのかもしれないわね。あまりにも純粋すぎた。わ

たしの前でだけは、泣いても悲しんでもいいのよ。姉上」

 次郎信繁が、痩せて骨張ってしまった晴信の手を取って、微笑んだ。

「……婚姻同盟は結びたくない。もう、したくない……あたしはもう、家族

を自分の野望の犠牲にはできない」

「姉上は、この乱世の中で武田家を守るという重荷を背負ったの。武田家を

代表して。武田家を守るという大任を果たすためには、犠牲者を出さなくて

はならないこともあるわ。諏訪頼重は、武家としての諏訪家は、どうしても

滅ぼさなければならなかった」

「こうして戦国の世の大名は、戦えば戦うほどに孤独になっていくのね。死

者の魂を背負いながら。今頃、父上は禰々を死なせたあたしをきっと怒って

いるわね。親不孝者、妹不幸者と」

「姉上……わたしは死なない。約束する。姉上より一日でも長く生きるわ。

だから、姉上は孤独になったりはしない。二人だけでいる時には、泣いても

いいのよ。わたしも、禰々のために泣きたいのだもの」

「ほんとうに? 次郎ちゃん? あたしよりも、長く生きてくれる?」

「ええ。禰々の墓標に、誓うわ。姉上を一人にはしておけないもの。これか

らは一人で武田家の頭領の運命を背負い込まないで。このわたしや板垣たち

皆で、姉上にこの重荷を背負わせたのだから」

「約束よ。でもどうして次郎ちゃんは、あたしを支持したの。父上を駿河に

追うことなく、自ら武田家を継ぐ道もあったのに」

「ただの器用な秀才にすぎないわたしよりも、古今東西の学問に通じた知勇

兼備の姉上のほうがずっと頭領に相応しいし、それにもっと子供じみた単純

な理由もあるのよ。わたしは姉上と、離れたくなかった。ずっと、姉上と一

緒にいたかった。それだけ」

「次郎ちゃんって、意外と子供みたい」

「こんなことを打ち明けるのは姉上の前でだけよ。太郎ちゃんや孫六たちに

も内緒よ。父上がいる間は、なかなかこうして姉上と二人きりになる機会す

ら持てなかった……姉上。だからほんとうのところはね、このわたしが父上

を裏切って追放したのかもしれない。わたしは天下にも信濃平定にも興味

がない。戦国大名の資質なんてないの。ただ、姉上とこうしていたかった。

ずっと夢見ていた。誰の目をはばかることもなく、父上の顔色におびえること

もなく、姉妹が仲むつまじく過ごす時を」

「……禰々から夫を奪ってしまったあたしに、そんな幸せを手に入れる資格

があるのかしら。父上の命令通りにあたしが諏訪に嫁いでいれば、禰々は

……」

「姉上が悲しめば、少なくともわたしは不幸になるわ。だから、わたしを遠

ざけたりしないで。姉上」

「遠ざけたりなんて」

 晴信は無言のまま次郎を抱きしめていた。

 二人の姉妹にとっては、もっと幼い頃に通過しておくべき儀式だったかも

しれない。

 長い長い回り道だった――二人の姉妹が寄り添うためには、戦国の巨凶きよきよう

恐れられる父・信虎を駿河へ追わなければならなかったのだ。

「あたしはもう、駿河には攻め込めない。妹の定も、父上も駿河にいるのだ

から。でも信濃の次は駿河を奪って海に出なければ、武田は行き詰まりにな

る。どうすればいいのかしら、次郎ちゃん」

「南の海へ出られないのならば、北の海に出るという道もあるわ、姉上」

「越後へ?」

「ええ。ただ、越後は信濃よりもさらに広大な国。姫武将の慣習すらなく、

国人衆は信濃衆よりもさらに強くかつ複雑で、外様の武田が統治するのは困

難かもしれない」

「考えておくわ。でも今夜は、禰々を弔いましょう。勘助との約束をさっそ

く破ってしまったけれど、涙を流すのは、今宵こよいこそが最後よ。あたしは、悲

しみに打ちひしがれて倒れているわけにはいかないのだから。信濃平定の戦

いはまだ、道半ばなのだから――」

「どこまでも一緒に行くわ。姉上」

 晴信と次郎は寄り添いながら、あおい夜空を見上げていた。

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