第67話 epilogue-01
「……任務完了」
暗闇の中、血に濡れたナイフを握る黒い影が小さくつぶやいた。黒いフード付きのマントは、赤黒い返り血で汚れ、影を死で彩っていた。
そして、影は、ふと、暗闇の中の一点へと視線を向け、口を開いた。
「……何か用?」
「なんだ、気付いてたのかい? もしかしたら気付かれないんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」
「……邪魔はしてなかった」
「はっは! 確かにアタイはなにもしてないねえ。だからって、自分を尾けてくる相手を見逃すものかね」
「……新手のストーカー」
「こんなとこまで尾けてくるストーカーがいるものかい。アタイもアンタと同じさね。アタイを忘れたとは言わせないよ、セレナ」
黒い影──セレナは、心当たりがないといった様子で、首をかしげた。その様子は、
「……誰?」
「アタイだよ、アタイ。本当に忘れちまったのかい?」
「……詐欺? アタイアタイ詐欺って聞いたことある」
「そいつはオレオレ詐欺だよ……はあ……」
闇の中から脱力したようなため息が返ってきた。
「まったく、相変わらずの天然っぷりだねえ。成長しないったらありゃしない」
「……そう?」
「甘いところも、ね。殺しときゃいいものを」
「……必要ない」
「そんなだから、足元をすくわれんだよ。お師匠様が言ってたろう? 『見られたら消せ、影の価値は、在るにも関わらず、ないことにある』ってねえ」
その言葉を聞いて、セレナはそこで初めて驚いたように目を瞬かせた。目の前にいるのが誰かようやく理解したのである。
「……ねえさん?」
「今頃気付いたのかい?」
「……驚いた」
「やれやれ、どこがだい」
驚いたと口にした割には、その表情は完璧な無であった。ジンの無表情が絶対零度の冷たさを宿すなら、セレナのそれにはなにもこもっていなかった。まさに能面のごとき表情である。整った顔立ちも相まって、その表情はどこか人形めいたものだった。
「……それで?」
「なんだい?」
「……どうして?」
「それを答えると思うかい?」
「……そう」
セレナは口を閉じ、次の瞬間には、疾風の如くかけ、闇のある一点へとナイフを振り下ろしていた。
そこにいたのは、フードマントの影から妖艶な赤い唇を覗かせる女。
直後、甲高い金属音が響き、ぶつかり合った刃が火花を散らす。
「おやおや、やる気かい?」
「……死んで?」
「かわいい妹の頼みでもそればっかりは聞けないねえ」
「……裏切りは死で報いるもの」
「それは困るねえ。なんたって今は、最高に面白いご主人様に仕えてるもんでね。あの
「……関係ない」
いつの間にか二人は二本目のナイフを抜き放ち、高速で刃を交わしていた。互いに狙いは急所のみ。殺すことのみに特化した暗殺術である。
「そういうアンタはどうなんだい? 革命家気取りかい? 似合わないねえ」
「……関係、ない」
「アタイの方はそうもいかないのさ。
「……さあ?」
「どうだい? アタイの主につく気はないかい? 今なら言付けるよ。かわいい妹を泥舟にのせるのは忍びないからねえ」
「……不必要」
「こういう時は、とりあえず肯定して、相手の懐に近付こうとするのが隠密さね。もちろん、気付かれないようにねえ」
「……一緒にいる気はない」
「そういうのが甘ちゃんって言うんだよ、セレナ!」
「……!?」
一瞬の隙を突かれたセレナは、蹴りを食らって、壁に叩き付けられた。衝撃で肺から空気が押し出され、一瞬息が詰まる。
「壁にぶつかるなら息は吐いとくもんだよ。日和ったねえ、セレナ!」
咄嗟に回避しようとしたが、避けきれず、脇腹を深くえぐられる。
「あぐっ……!」
壁に背中を預け、ズリズリとその場に崩れ落ちたセレナを、フードの女は踏み付けた。しかも、ご丁寧にナイフに抉られた脇腹を、だ。
「さーて、吐いてもらおうか? 全部」
「……拒否」
「そうかい、なら、まずは、爪一枚から言ってみるかい?」
実に楽しそうに言うフードの女をセレナは睨みつけた。そして、マントの影に仕込んであったスイッチを押し込む。
直後、爆発音が響いた。
「ちっ……仕掛けてたやつかい!」
しかし、その隙に逃げ出そうとしたセレナは、再度強く踏み付けられたことでその場に崩れる。
「逃がすわけがないさね。アンタはヴィクトールよりはるかに価値のある情報源なんだからねえ」
「……うっ……残念、わたしの勝ち」
その瞬間、セレナを押さえ付けていた床が抜けた。
「なに!?」
「……ねえさん、ばいばーい」
何気なく腹が立つ言い方をして、セレナは崩れていく床に転がったまま、階下の闇に飲まれていった。
咄嗟に崩れていないところまで退避していた、フードの女は舌打ちをこぼす。
逃した。セレナがこの程度で死ぬわけがないのだ。
「やれやれ、証拠隠滅を許した上に逃すなんて、アタイも甘いもんさね。情は捨てたつもりだったんだけどねえ」
ぼそりとつぶやくと、フードの女もまた、闇の中に溶け込むようにしてその存在を消した。
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