第15章 HEAVEN

 思い切って飛び込んだ。体が勢いよく宙を舞った。体がふわっと浮き上がる。僕は羽ばたいていたのだ。本当に鳥のように弧を描いて自由に空を飛んでいた。へぇ、僕は空を飛べたんだ。いつの間に? 僕には空を飛ぶ能力が備わっていたんだ。自分ではなんの取り柄も特技もないと思っていたけれど。凄いなぁ、こんな才能があったなんて自分でも気が付かなかったな。もっと早く気付いておけばよかったよ。

 どこからともなく僕の名前を呼ぶ声がする。なんだか聞き覚えのある声だ。その声はだんだんと大きくなっていく。

「カグラ~」

 うん、聞き慣れた声だ、間違いない。いつもと同じ声がする。

「カグラ~、カ・グ・ラ~」

 徐々に声は近付いてくる。

「カグラ、探したわよ」

「お母さん! お母さんじゃないか!」

 お母さんも僕と同じように宙を舞っていた。お母さんもふわふわと空を自由に飛び回っていたのだ。そして背中に真っ白の大きな翼が付いている。

「んもう、カグラ、来るのが遅いんだから…」

「僕もこんなに早くお母さんに会えるなんて思わなかったよ、でもね、凄く嬉しいよ、お母さん!」

 僕の背中にも違和感がある。翼だ。お母さんと同じように、翼が付いていたんだ。だから鳥のように羽ばたく事ができたんだな。なるほどな。

「ほら、カグラ、下の方を見てごらんなさい」

 見下ろすと真っ白な雲が見えた。分厚い雲に覆われてその先を見る事ができない。白い雲に広々と晴れ渡る青い空。見上げればキラキラと星が煌めいている。

「ねえ、お母さん、なんでこんなに明るいのに、星が輝いているの?」

「そうね、カグラはこっちの世界に来たばっかりだから、まだ知らない事が多いはずだからしょうがないね。カグラ、こっちの世界はね、昼間でも星が光っているのよ。ほら、あれがオリオン座で、向こうの方でキラキラと光っているのが南十字星よ。でもね、カグラ、その代わりね、こっちの世界では夜がやってこないのよ」

「へぇ、そうなんだ、お母さん、一日中、昼間の方がいいや、だって夜は真っ暗なんだもん」

「そうよ、カグラ。もう暗闇に怯える事なんてないのよ。それにね、こっちの世界はね、雲の上にあるから、雨だって降らないのよ。もうずぶ濡れになる心配もないの」

「凄く便利な世界だね、お母さん。ねぇ、お母さん、僕ね、なんだかお腹がとっても空いてきたよ」

「大丈夫よ、美味しい食べ物だっていっぱいあるんだからね、あの雲の向こう側よ、ほら、お母さんに付いてきなさい」

「うん、お母さん」


 お母さんと一緒に空を飛んだ。遅れないように懸命に追いかけていった。お母さんみたいにまだ上手に空を飛べないから、距離を離されていく。

「ねぇ、お母さん、ちょっと待ってよ、速過ぎるよ」

「もう、カグラ、仕方ないわね」

 お母さんは僕が追いつくのを待ってくれた。

「あのね、お母さんにひとつだけ聞きたかった事があるんだ」

「なぁに?」

「お母さんがさ、病院で死ぬ間際、最期に、僕に何かを言おうとしたよね、ありがとう、って。あのあと、何を言おうと思ってたのかなぁ? …なんて」

「カグラ… あの時はね、私はカグラにこう言おうと思っていたのよ。『ありがとう、カグラ、夢は願えば必ず叶うはずよ、そして夢は自分の努力で掴み取るものでもあるの。一度っきりの人生だから、あなたの思うように生きなさい』って伝えようと思っていたのよ」

「へぇ、そうだったんだ。それを聞けて嬉しいよ、お母さん。という事は… 僕はひとつ夢が叶ったんだね、だってこうやって、またお母さんに会えたんだもん」

「急がなきゃ! 食べ物がなくなっちゃうよ。さぁ、カグラ、行くよ!」

 雲の下では雷鳴が響いていた。ああ、雷が怖いよ。聴いたこともないような奇妙な音の雷が鳴り響いていた。

「お母さん、僕、雷が怖いよ…」

「馬鹿ねぇ、カグラ、雲の上にいるから雷には当たらないわよ、さあ、行くよ!」

「あ、待って! お母さん!」

 お母さんは、とてつもない速度で羽ばたいていく。どんどんと距離は離されていく。お母さんの背中が遠ざかっていく。お母さんの背中が遠ざかって小さくなっていくんだ。いつまで経っても雷の音は鳴り止まない。奇妙な雷の音で耳障りだ。必死にもがくように羽ばたいたが、お母さんのスピードには到底追いつけない。上手く飛べないのだ。僕の背中の翼は折れてしまった。お母さん、行かないで! でも奇妙な雷の音で竦んで身動きが取れなくなってしまった。お母さんの姿は遠ざかっていき、やがて見えなくなってしまった。奇妙な雷の音はずっと鳴り響いている。





 雷の音ではなかった。スマートフォンがずっと鳴り響いていた。どうやら僕はいつの間にか眠っていたようだ。眠い目を擦りながら電話に出る。

「はい、もしもし」

「もしもし、カグラ君? 主流軒のオオヤギですが」

「店長! すみません、電話取るの遅くなりまして…」

「いや、それはええんやけどな、今日、カグラ君、シフト入っているのにぇへんから心配してな、電話したわけなんや。今までカグラ君が、シフトすっぽかした事なんてあらへんからなんかあったんちゃうかいな、って思うてな」

 完全に目が覚めた。確かに今日、シフトでは夕方の6時から出勤の予定になっている。その事をすっかり忘れていた。壁の掛け時計を見ると6時12分の位置を針が示していた。

「すみません… 実は先日、母が亡くなりまして…」

「え? そうやったんかいな、それやったら1本電話入れてくれたら良かったのにや、そうかいな、お母さん亡くなってもうたんか… お前には身内はお母さんしかおらんかったもんなぁ。そら辛いな…」

「すみません、連絡ができなくて申し訳ございませんでした。ちょっと、お母さんの件でバタバタしておりまして、あの、誠に勝手ながら、しばらくお休みを頂きたく願いたいのですが…」

「そや、そないしときぃ。まだ気持ちの整理とかも付いとらんやろうし、葬式とか墓とかいろいろややこしいやろうし、しばらく休みにシフト変更しといたるさかい。気にせんでええから、落ち着くまでゆっくりしときぃ。また落ち着いたら電話ちょうだいや、ほな、電話切るで」

「はい、ありがとうございます。店長。失礼致します」

 そうだった、思い出した。自殺しようとベランダの柵に手を掛けたものの、いざ飛び降りようと見下ろすと、やはり高さに怖気付いてしまい躊躇した挙句、他の自殺方法を模索しようとベッドに戻り寝転んだのだった。おそらくそのまま眠ってしまったのだろう。そしてスマートフォンの呼び出し音で、首根っこを掴まれたように荒々しく、現実の世界に連れ戻されたのだ。学校には電話をしていたけれど、バイト先に連絡するのをすっかり忘れていたのだ。どうかしていたんだ、僕は。もう自殺だなんて馬鹿な事を考えるのはやめよう。それにしても… おかしな夢だったなぁ…。なんだろう、あの夢は。

 学習机に座りデスクトップ・パソコンの電源を入れた。モニターの横に布で包まれた骨壺が置かれたままになっている。お母さんをきちんと供養してあげたい。僕の貯金だけだったら、お母さんのために立派な墓石を建ててあげる事は難しいだろう。

 パソコンで自宅の近辺で納骨堂のある寺院を検索した。数件の検索がヒットしたので、その中から費用面や設備、サービス管理など多角的な視点で吟味していった。そして一件の寺院に絞り込んだ。その寺院に翌日、出向かう事にしたのだ。





 翌日の朝、リュックサックに骨壺を入れて寺院を訪れた。住職に僕とお母さんの事情を説明した。住職は納骨を快諾してくれた。僕は骨壺に向かって

「よかったね、お母さん。僕はお母さんをちゃんと供養するからね。お参りには絶対に来るからね」と話しかけた。

 住職の案内で納骨堂に通された。目の前に広がったのは金と漆黒で彩られた絢爛な納骨堂だった。でも、なんか市民プールのロッカールームみたいだなぁ、と思った。仕方がない、予算の都合もある。住職による読経と、また焼香があった。住職の手の動きを真似て焼香をおこなった。そして両手の手のひらを合わせてお母さんの冥福を祈った。

「どうか天国で安らかに過ごしてね、お母さん。今まで本当にありがとう。僕をここまで育ててくれてありがとう。お母さんとの想い出は一生、忘れないから。これからも… お母さんは僕の心の中でずっと生き続けるから。お母さんの死を無駄にしたくないから… お母さんの言葉を胸に刻んで、僕はこの世界で力強く生きていくよ。本当にありがとう。ありがとう、大好きなお母さん」

 また涙が流れ出た。本当に情けないな。こんなに泣いてばかりしていたら、きっと天国のお母さんは悲しむはずだ。前を向いて歩んでいかなければいけないのだ。この険しい「人生」という名の道を。お母さんの遺骨は無事に納骨された。





 お母さんが納骨されて数日が経った。学校にはきちんと通うようになった。バイトにも出勤するようになった。でも土曜日の夜になるとカレンダーを見るのが億劫になってしまった。木霊サイファーに行かなくなってしまっていたのだ。フリースタイル・ラップを続ける自信を失っていた。

 

 散歩がてらに僕は自宅の近所にある小さな公園に出向いた。公園のベンチに腰掛けて何気なく介護福祉系の学校のパンフレットを読んでいた。何枚かページをめくってみた。車椅子の写真と共に難しい理念に関する事が記載されている。でも、お母さんがいなくなった今、こんな目標を持つ事は、僕にはなんの関係のない事のように思えた。何かが違う。何かもっと別の道があるはずだ。いまだに進路は決まっていない。自分の将来の姿が想像できなかった。

 パンフレットをぐしゃぐしゃに丸めて公園のゴミカゴに放り投げた。丸められたパンフレットは虹のような放物線を描いてゴミカゴに吸い込まれていった。

 9月の下旬の空を見上げた。透き通った空に見えた。でも透明のように見えて透明ではないポリエチレン製の空に包まれている。この空に包まれて、僕は月曜日の朝に捨てられてしまうのだろう。ポリエチレンの空。ぼんやりと空を見上げた。ラップもできない僕なんて何も役に立たないゴミ同然だろう。スマートフォンを見ると緑色に点灯して歩道橋の仲間からLINEが届いた。


ダイソン →

お~い、KAGRA。最近、サイファーで全然、顔を見ないけれど元気にしてるーの? また元気になったら、KAGRAの高速ライミングを聴きたーいよん。来週の大阪予選出るんでしょーん? また一緒に頑張ろーうよん。


MC CODAMA →

KAGRA君。あれから何回か誘っているんだけど、まだ体調の方は戻ってないのか?木霊サイファーのみんなが心配している。最近はサイファーも参加人数が増えてきて賑やかになってきたぞ。KAGRA君、MCバトル全日本・大阪予選が来週に迫っている。なんとしてでもKAGRA君に優勝を取ってもらって、大阪代表の切符を手にして欲しい。それが俺の願いだ。君のスキルはズバ抜けている。俺が今まで見たフリースタイラーの中では、KAGRA君が、一番ラップが上手いと思う。これが俺の本音だ。またLINEを既読したら返信が欲しい。俺は君を信じている。予選の舞台で待っているよ。


 みんなは僕に期待し過ぎなんだよ。今の僕にラップをする気力なんて残っているのだろうか。ラップに情熱を注いでいた頃が、遠い昔の事のようにしか思えない。ぼんやりと公園を眺めていた。

 砂場では小学校低学年くらいの男の子が2人で仲良く妖怪アニメのぬいぐるみで遊んでいた。僕もあんな小さい頃があったんだろうな。そんな子供たちの姿を見て微笑ましくなった。久しぶりに笑顔を取り戻したような気がした。お母さんが亡くなってから僕は泣いてばかりだったもんな。こんな惨めな姿は天国のお母さんに見せられないな。もっと笑顔が増えるようになったらいいのにな。


 公園で遊んでいた2人の男の子たちがぬいぐるみの取り合いで喧嘩を始めた。そしてひとりの男の子が、もうひとりの男の子を殴って、ぬいぐるみを全部取り上げてしまったのだ。ぬいぐるみを取り上げられた男の子は、わんわんと大声で泣き出してしまった。殴った方の男の子は勝ち誇ったように、ぬいぐるみで楽しそうに遊んでいる。

 もしも、僕が殴った方の男の子みたいな少年だったら、今頃オカザキのようにロック・バンドでもやって女の子にモテていたのかな。彼女ができていたのかな。

 もしも、僕が殴られた方の少年だったら、今頃、進路くらいは決まっていたのかな。名門大学に進学できるような優等生になっていたのかな。

 僕はそのどちらでもなかった。喧嘩も強くなければ、イジメられっ子だったわけでもない。もともと器用でもなかった。生まれながらに持ち合わせた才能もなかった。ただ、なんの取り柄もなくて、なんの特技もない少年だった。そんな僕がヒップホップに出会ったのも偶然だった。あの日、歩道橋を通らなければ、フリースタイル・ラップに魅了されてなかっただろう。あの日、入院中のお母さんにエミネムのCDを借りていなければ、ヒップホップにハマる事もなかっただろう。運命ってわからないものだな。どこで運命が狂ってしまうかなんて誰もわからない。それが僕の場合、たまたまフリースタイル・ラップだっただけ。

 劣等感… もともとコンプレックスの塊だったじゃないか、僕は。ハマやんはヒップホップはコンプレックスから始める音楽だと言っていた。底辺から這い上がるのがヒップホップだと言っていた。今、人生のどん底にいる。ミユを傷つけてしまった。マイメンのハマやんは拘置所の中にいる。そして大切なお母さんを失ってしまった。天涯孤独になってしまった。間違いなく、今が僕の人生の底辺だ。でも、僕には多くの仲間がいる。ひとりぼっちじゃない。ここから這い上がるのが、もしかしたら僕のヒップホップじゃないのか。もう失うものなんて何もないじゃないか。恐れるものなんてないじゃないか。何度だって立ち上がればいいじゃないか。僕にはこれしかない。これだけしかできない。他に何ができるのだ。僕にはもう、ラップしか残っていない。


 自宅に帰るとフリースタイル・ラップの練習を再開した。ようやく魂に炎が燃え盛ってきた。これはモテたいためにやっている音楽じゃない。これは金持ちになるためにやっている音楽じゃない。これは僕と仲間たちのための戦う音楽だ!

 ミユに2ヵ月ぶりのLINEを送信した。


← KAGRA

MIYU久しぶり。元気かな?

来週のMCバトル全日本・大阪予選

よかったら観にきて欲しい。

僕にはMIYUの応援が必要なんだ。

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