第13章 FIRE GOES OUT
お母さんを乗せたストレッチャーは病院に到着するやいなや慌ただしく手術室に搬送された。お母さんは意識不明のままだ。僕を置き去りにしたままお母さんは手術室に運ばれていった。目の前で扉が閉められる。手術室の扉の上の電光プレートが「手術中」と赤く点灯する。お母さんの緊急手術が始まった。僕にはもう何もする事ができない。あとはスギヤマ医師を信じるだけだ。
手術室の外側の廊下にある緑色のベンチに僕は座った。お母さんの意識が回復しますように…。そう祈り続けた。涙が溢れてきた。滝のような涙が僕の頬を伝っていく。涙が止まらない。なんで? なぜ神様は僕にこんなにも試練を与えたがるのだ…。もしも神様がいるのならば、僕のお母さんを救ってください…。僕のたったひとりのお母さんの命を救ってください…。
両手をぐっと固く組みしめて祈り続ける。指先に力をこめる。両手の甲に爪が食い込んだ。その手は小刻みに震えている。しんみりとした深閑に包まれている。仄かに薄暗い病院の廊下は、しーんと水を打ったような静けさだった。膝が震えている。全身が、がくがくと震えている。震えが止まらない。頭の中には暗闇が充填していた。下水管の中に迷い込んでしまったかのような恐怖に陥った。
どれだけの時間が経ったのだろう。僕には無限に続く悪夢のような時間だった。突如「手術中」と表示されていた電光プレートの照明が消えた。頭蓋の奥に響き渡るくらい鼓動が速くなっている。扉が開き何人かの緑色の手術着のドクターや白衣のナースが慌ただしく出てきた。スギヤマ医師が僕の元に近付いてくる。スギヤマ医師の表情は険しかった。
「手術は終わった。ケイコさんのガンは肺から、さらに脳にも転移している。ガンの進行が予想以上に速かった。意識は回復していない。いまだ意識不明の状態のままだ。ただ、ケイコさんの一命は取り留めた。私は尽くせる限りの延命治療を施した。これから意識が回復するかどうかはわからない。カグラ君、あとは君のお母さんの生命力を信じるしかない…」
スギヤマ医師の言葉を聞いて僕は嗚咽を漏らしながら号泣した。両手で顔を覆い隠し俯いた。全身の震えが止まらない。涙が止まらない。手のひらの中に涙の湖がどんどんと膨らんでいく。そして止まらなくなった涙は湖から溢れ出し、手の甲を伝って零れ落ちた。手で涙を拭った。目頭をごしごしと擦りながら、ようやく顔を上げる事ができた。涙で滲んで視界がぼやけている。涙の向こう側にスギヤマ医師の姿が霞んでいる。
「先生… ありがとうございました…」
それだけしか言葉にする事ができなかった。それだけで僕は精一杯だった。
お母さんは個室の病室に運ばれた。お母さんはベッド上で音も立てずに臥床している。鼻孔からカニューレによって人工呼吸器に繋がれている。お母さんはいくつかの管で機械に繋がれていた。お母さんの上腕には点滴の針が刺さっている。点滴から管を通って液体が注がれる。点滴が儚い砂時計の砂みたく思えた。この砂がすべて流れ落ちたら、お母さんはどうなってしまうのだろう。こんなお母さんの姿を見るのは悲しかった。生命の炎は燃え尽きようとしている。何もわからない僕にでもそれだけは感じ取れた。
ベッドサイドの椅子に座り、お母さんに必死で声をかけ続けた。
「ねぇ、お母さん、いつまで寝ているんだよ、ねぇ、お母さん、早く目を覚ましてよ… もうそろそろ起きる時間だよ、ねぇ、お母さん… ねぇ、お母さん、マリア様のような知恵のある言葉を授けてよ、ねぇ… お母さん、何か言ってくれよ、返事してくれよ、ねえ、お母さん、いつものように微笑んでくれよ… ねぇ… 僕は、僕は、ただ、お母さんの笑顔が見たいんだよ… だからお願い、早く目を覚ましてちょうだいよ… ねぇ、お母さん…」
どんなに声をかけてもお母さんの耳には届かないようだ。お母さんは静かに目を閉ざしている。穏やかな表情を浮かべ無言のままだった。
時間は刻々と過ぎていった。僕には時間の流動が止まってしまったように思えた。ジーパンのポケットの中からスマートフォンを取り出して時刻を見ると、夜中の10時を回ったところだった。お母さんは一向に目を覚ます様子もない。病室は沈黙していた。お母さんの顔を見つめ続けた。マリア様のような穏やかで優しい表情だった。病室の扉をコンコンとノックする音が聞こえ、扉がスライドした。スギヤマ医師が入ってくる。
「先生… 今日はありがとうございました…。先生… 母の命は助かるんでしょうか…」
スギヤマ医師は険しい表情を保ったまま、首を横に振った。
「カグラ君。君にとっては本当に辛いと思う。申し訳ないと思う。だが、落ち着いて聞いて欲しい。君のお母さんは、もう残りわずかしか生きられない…。おそらく今夜が瀬戸際となるだろう。お母さんのガンは脳に転移している。危篤状態だ。高校生のカグラ君にも、その意味くらいは分かると思う。カグラ君は、その事を覚悟しなければならない。あと、どれぐらい生きられるかわからない。残された時間をお母さんと一緒に過ごしなさい、2人だけの大切な時間を過ごしなさい」
「先生… 危篤状態という事は… もうお母さんは死んでしまうんですか? もうお母さんは助かる見込みがないんでしょうか…」
「申し訳ない… カグラ君。私の口からは、これ以上何も言えない…」
その時のスギヤマ医師の表情がすべてを物語っている。翳りを帯びてどんよりと曇った表情だった。暗い影を落としたままスギヤマ医師は病室を去っていった。
少し疲れたのか、どうやら眠っていたようだった。ハッと目が覚めて我に返った。目の前のベッドには相変わらず危篤状態の母が横たわっている。穏やかな表情を浮かべたまま意識は回復しない。これが現実の世界だ。受け入れたくないけれど現実はひとつしかないのだ。母の命は燃え尽きようとしている。それが厳しい現実だ。時刻を見ようと再びスマートフォンを取り出した。バッテリーの残量が14%と表示された。深夜の3時を過ぎていた。お母さんは目覚める事が出来るのだろうか。お母さんはあとどれくらい生きられるのだろうか。
「お母さん、起きてよ」と声をかける。やはり反応はない。
お母さんの誕生日の日、一緒に聴いたビートルズの「LET IT BE」を思い出した。どんな悲しみや別れがあっても、マリア様が現れて知恵のある言葉を捧げてくれる。「あるがままに」生きなさい、と。マリア様は現れてくれるのだろうか。お母さんが僕に言ってくれた言葉を思い出した。お母さんは僕の事を「誇り」と言ってくれた。僕にとってもお母さんは誇りだ。何をする時にもお母さんは反対しなかった。
「たった一度っきりの人生よ。あなたの思い通りに生きなさい」と教えてくれた。夢は願えば叶うものだと教えてくれた。学校で学ぶ事なんかよりも、生きていく上で本当に大切な事をお母さんは僕に教えてくれた。お母さんの言葉を糧に今まで生きてきたのだ。
小学校の時にお母さんはお父さんと離婚してから、パートを掛け持ちして僕を女手ひとつで育ててくれた。市営の集合団地の部屋を借りて、お母さんと僕だけの新しい生活をスタートさせた。小学校の運動会の時には夜中遅くまでかけて体操服にゼッケンを縫い付けてくれた。給食のエプロンは皺ひとつなくいつも綺麗にアイロンをかけてくれた。それでも学校の懇談会や授業参観や運動会や音楽発表会やらの小学校での行事には必ず参加してくれた。仲の良い友達がいなかった僕の相談相手は、いつだってお母さんだった。
中学校に進学すると僕はサッカー部に入った。アディダスのサッカースパイクを僕の誕生日にプレゼントしてくれた。練習嫌いだった僕が部活から逃げ出して家に帰ると、お母さんは僕に厳しく注意した。遠足の時には朝早く起きて、美味しい弁当を作ってくれた。海苔やウィンナーで漫画のキャラクターを模ったユニークな弁当だった。その弁当をクラスメイトに見せると羨ましがられた。中学校でも友達は少なかった。ほとんど家でひとりぼっちで過ごした。決して裕福な家庭ではなかったので、人気のゲーム機は買ってもらえなかった。学校でゲームの話題になると、仲間外れにされた。昼休みには毎日のように図書室で本を読み漁った。高校にも進学させてくれた。
高校に入るとすぐにバイトを始めた。「なにわラーメン主流軒」で一生懸命バイトした。お母さんは毎日、仕事で忙しかったので僕が小さい頃から遊園地や旅行とかにも連れていってもらった事がなかった。バイトで貯金を貯めて、いつかお母さんを旅行に連れていってあげたいな、と思っていた。でもお母さんは僕が高校2年生の2学期になって、体調を崩し入院する。日頃の苦労が重なって、疲労が溜まっていたのだろう、と思っていた。お母さんから「肝臓ガン」と告げられて、ショックを隠し切れなかった。それでもお母さんが早く退院できるように願いながら足繁く病院に通った。今までお母さんに苦労をかけてきた分、恩返しをしようと思った。そしてようやくお母さんは退院する事が叶った。僕の夢がひとつ叶った、と思った。長年住み続けてきた自宅で、お母さんの40歳の節目の誕生日を迎える事ができた。それは楽しい一日だった。
どれも懐かしい想い出ばかりだ。どれも大切な想い出ばかりだ。お母さんは僕にたくさんのものを与えてくれた。お金では買えないたくさんのものを与えてくれた。お母さんには感謝の気持ちしかない。言葉では言い尽くせない程、感謝の気持ちでいっぱいだった。
お母さんとの想い出を頭に浮かべると、涙が溢れてきた。お母さんへの感謝の気持ちを口にしてみた。
「お母さん、今までありがとう。僕をここまで育ててくれてありがとう…」
すると、その言葉に反応したのか、お母さんの口元が少し動いたように見えた。気のせいかも知れないが、お母さんは何かを喋ったかのように見えた。
「何か言ったの? お母さん… 今、なんて言ったの?」
返事はなかった。やっぱり気のせいか。お母さんの穏やかな寝顔をずっと眺めていた。本当に穏やかに、まるで微笑んでいるかのような寝顔だった。お母さんの手を握りしめた。涙が止まらなくなってしまった。涙が枯れる事はない。堰を切ったように涙が溢れてきた。ダムのような勢いで、涙が氾濫した。お母さんの手の甲に涙が零れ落ちた瞬間にお母さんの口元が少し動いた。
「…ありが… と… う…」
聞き間違いなんかじゃない。確かにお母さんは「ありがとう」と言葉にしたのだ。お母さん、ありがとう。僕もお母さんとの想い出を一生忘れない。お母さんとの想い出を胸に、僕はこれからも強く生きていくよ。本当に今までありがとう。ありがとう、お母さん。お母さんは優しい表情で微笑んでくれた。その数分後、お母さんは静かに眠るように息を引き取った。享年40歳だった。
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