第12章 CHILL OUT


 見上げれば綺麗な夜空だった。漆黒のキャンバスにコンパスの先で無数の穴を刺したように、空いっぱいに星が輝いている。満天の星空だ。明かりが射す高層ビルの窓、交通量の多い交差点で信号待ちをする車のヘッドライト、ビルに掲げられた色鮮やかなネオン看板、街を照らす照明灯の数々、そして街を行き交う人々の喧騒。こんな都会の中でも人工的な輝きに負けないように星たちはひしめき合い、それぞれの光を放ちながら煌めいている。それぞれの星たちが個性を放っているのだ。

 夏休みも終わり9月になった。2学期も始まった。すっかり蝉の鳴き声は聴こえなくなった。それでも、まだ暑さは続いている。半そでのTシャツのままで歩道橋の階段を上る。Tシャツには汗が染み込んでいる。テレビのニュース番組では、今年の残暑は厳しくなりそうだ、と報道されていた。毎年、同じような事を言っているじゃないか。日本の残暑は大抵厳しいものだ。そんなスイカを真っ二つにしたように急には季節は変わらない。そんなに垂直な季節の境目なんてない。

 額から汗を流しながら、人混みをかき分けるように階段を上る。足元を確認し、一歩一歩階段を踏みしめる。歩道橋の階段を上り切ると、そこにはいつもの仲間たちが待っている。Twitterで発信している情報を見たり、木霊サイファーの噂を聞きつけたりして、新しい参加者も増えていった。また、見物する通行人の数も多くなっていった。歩道橋の上では10人くらいの輪ができている。その中で、ひと際目立つ、ワイシャツ姿のコダマさんの姿は容易に見つける事ができた。コダマさんに歩み寄り、話しかける。

「コダマさん、木霊サイファーも賑やかになりましたね」

 新しく参加したメンバーは口々に、よろしくお願いします、と僕に声をかけてくれる。新しい仲間が増えていく。久々に高校生ラッパーのキタガワ君の姿もあった。でも… 相変わらずミユの姿はない。あの日以来、ミユは一度も木霊サイファーに参加しなくなった。あの日以来、僕もミユに連絡をしていない。天王寺のホテル街で、泣きながら去っていったミユの後ろ姿をいまだに忘れる事ができない。ダイソンが歩み寄ってきて僕に話しかける。

「よーう、カグラ、今日も暑いけど頑張ろうーぜ」

「はい、頑張りましょう、もうすぐ『MCバトル全日本・大阪予選』が迫っていますもんね、今日も朝までサイファーやりましょうよ」

「うん、そうだーねぇ」

「鬼流星を倒すためにも、ここが正念場ですから。もう今月末ですからね、大阪予選もね、いよいよ大詰めですよね。僕も気合が入ってきましたよ」

「うん…」

 あれ? ダイソンの眼鏡の奥の目が冴えない。眉間に皺を寄せ難しい数学の公式を解くような顔をしている。その表情はなんだか重鈍く感じる。悩み事でもあるのだろうか。卒論の制作にでも追われているのだろうか。困ったような表情を浮かべながら口ごもっている。見えない釣り糸で引っ張られているように唇の端を歪めている。しばらく沈黙の後、ダイソンが

「そういえばさぁー、今日、ハマやん来てないんだーよねぇ」とくぐもりながら口を開いた。

「え? ハマやんが?」

 周りを見回した。確かにハマやんの姿は見当たらなかった。珍しいなぁ。ハマやんは僕が初めて木霊サイファーに参加した頃から一度も欠かさず、毎週土曜日になると、この歩道橋の上に来ていたはずだ。ハマやんが来ないなんて事は今まで一度もなかった。もしかしたら集合時間を間違えたのだろうか? いや、そんな事も今まで一度もなかった。コダマさんに聞いてみた。

「すみません、コダマさん、今日はハマやんは来ないんですか?」

「…そうだな、今日、ハマやんは休みだ」

 どうしたんだろう一体。ハマやんに何かあったのだろうか? こんな「MCバトル全日本・大阪予選」の直前だというのに来られない事情なんてあるのだろうか? 本番に向けて、佳境が迫っているというのに… あんなに熱心にサイファーに参加していたのに… 嫌な胸騒ぎがする。コダマさんが僕の耳元を手で覆うようにしながら口を近付け

「ハマやんは捕まったんだよ、逮捕されたんだよ、今、拘置所にいる」と小声で囁いた。

「ええっ、捕まった? なんでですか?」

「しーっ! 声が大きい!」


 コダマさんの説明によると、ハマやんは深夜未明、ミナミの繁華街を歩いていると警察に職務質問され、大麻所持で現行犯逮捕されたというのだ。それからハマやんの自宅マンションに家宅捜索が入り、大量の大麻、パイプやボング等の吸引器具、それからジョイント用の巻紙が押収されたという。そして現在、ハマやんは大麻所持、使用の疑いにより拘置所で拘留されているのだという。コダマさんも以前から怪しいと睨んでいたそうだが、まさかこんな事になるなんて… と嘆いていた。

 僕はハマやんの目を思い出した。以前からサイファーをやっている時も目が赤いなぁ、と思う時があった。赤い目。赤い目の梟。何やってんだ、ハマやん… こんな大事な時期に。すぐには頭の中で理解できなかった。許せない… 裏切られたような気持ちになった。悔しさを滲ませ唇を噛みしめた。

「コダマさん、ハマやんは『MCバトル全日本』の大阪予選には出場できるんでしょうか?」

「もう予選も迫っている。おそらく間に合わないと思う。それまでに拘置所から出て来られないと思う。それに『MCバトル全日本』の主催者側としても、罪を犯した者のエントリーは受け付けてくれないと思う。規約にもそう書いてあった」

「じゃあ、ハマやんは大阪予選には出られない、という事ですか…」

「そういう事になる」

 目の前が真っ暗になった。あんなに輝いていた街も、煌めく星空も、ペンキで塗りつぶしたように消えてしまった。完全な暗闇に飲み込まれた。ハマやんが大阪予選に出場できない… その事実を受け入れる事ができなかった。パンクした自転車のタイヤのようにガクンと全身の力が抜ける。溜息をついて項垂れた。コダマさんはそんな僕の姿を見て叱咤する。

「おい、カグラ君、こういう時こそ、君がしっかりしなきゃダメだろう。あいつの分も背負って俺たちが頑張るしかないだろう。君は鬼流星を倒すのが目的なんだろう? 残された木霊サイファーのメンバーでやっていくしかないんだ!」

 そんな言葉すらも理解できなくなってしまった。どんどんと僕から仲間が遠ざかっていくように思えた。ひとりぽつんと取り残されたような気分になった。まるで砂漠で道を失ったように。砂漠の真ん中に誰かが間違えて建てた郵便ポストになったような気分だった。せっかくできた仲間だったのに… ひとりぼっちだった僕にかけがえのないものを教えてくれた大切な仲間だったのに…。


「よし、みんな、ビートを流すぞ! 準備はいいか!」

 コダマさんがステレオデッキのスイッチを入れるとリズムが響いた。僕の耳には音楽が聴こえてくる。嫌というほど聴き慣れたメロディが流れてくる。だけど僕は言葉を失った。歌えるような心境ではなかったのだ。

「コダマさん… 僕、今日はもう帰ります」

「おい、カグラ君、待てよ、どうしたんだよ!」

 逃げるように階段を駆け下りた。遠くの方でコダマさんの呼び止める声が聴こえたが、まっすぐと駅の方へと走り続けた。コダマさんの声が徐々に小さくなっていく。だけど走り続けている足が止まる事はなかった。このまま帰るわけにはいかないのはわかっていた。でも僕にはこうする事しかできなかったのだ。





 次の日の日曜日の昼下がり、拘置所がある駅にいた。どうしてもハマやんに伝えたい事がある。いてもたってもいられない気持ちで、電車に乗り込みハマやんの元に向かった。拘置所に行くのは初めてだ。駅からはスマートフォンのGoogleMapを頼りに川沿いの道を歩いていった。

 川はとても穏やかに流れていた。川面は太陽光を跳ね返しキラキラと輝いている。サランラップを張り詰めたような穏やかな川だった。街もひっそりと静まり返っていた。車も通らなければ、通行人の姿も見当たらない。その閑静な住宅街を抜けて歩いていく。

 住宅街を抜けると大きな塀が目前に迫ってきた。その塀がまるで何かの城壁のように頑強に睨みつける。塀の周りを鋼鉄のフェンスが囲っている。フェンスを伝って歩いていくと拘置所に辿り着いた。

 鉄の門が閉ざされている玄関があった。玄関の手前にフェンスよりも突き出た小屋のような建物があり、そこがどうやら面会者の入口のようだ。ドアをノックして入口の扉から入った。


 受付で拘置所の職員から幾つかの質問をされ、所定の申込み用紙に記入した。そして面会室に通された。何人かの刑務官が立っている。アクリル製の板を隔てて会話するようになっている。アクリル板には無数の穴が空いていた。あとはハマやんが面会室に来てくれるのを待つだけだ。刑務官から面会時間は30分以下だという説明があった。刑務官に用意された椅子に腰かける。


 しばらく待つとアクリル板の向こう側に刑務官に連れられたハマやんが現れた。ハマやんはアクリル板の向こう側の椅子に座った。アクリル板を挟んでハマやんと対面した。

「ハマやん…」

「カグラ… ごめんな、こんなとこまで来てもらって… ほんまにゴメンやで…」

 悔しくてたまらなかった。ハマやんがこんな窮屈そうな建物の中に閉じ込められているなんて悔しかった。こんなハマやんの姿を見たくはなかった。僕は振り絞るような声でぶつけた。

「ねえ、ハマやん… なんでこんな事を… ハマやんに裏切られたような気持ちです… 僕はハマやんと一緒に大阪予選の大舞台に立つ事を夢見ていたのです… なのに… どうして…」

「ゴメン… 申し訳ない… 俺もなんて言ったらええんかわからへん… 言葉もない、ただ、俺の心が弱かった… 誘惑に負けてしもうた… スマン」

「僕はハマやんを信じてたんです。それなのにハマやんは僕を裏切ったんですか? 一緒にサイファー頑張って『MCバトル全日本・大阪予選』に出よう、って一緒に切磋琢磨して練習してたじゃないですか!」

「もう俺は… 大阪予選には出られへんようになってもうた… 俺の分までカグラには頑張ってほしい…」

「僕は… 僕はハマやんに憧れてサイファーに通い続けたんです… それなのに… こんな事になって… 僕はハマやんとラップしている時が一番楽しかった… かけがえのない仲間だった… 僕はハマやんに『マイメン』って言われて本当に嬉しかった… 初めてできた親友だった… 僕にとって木霊サイファーのみんなは初めてできた仲間だったんです… 歩道橋の仲間たちは僕にとってかけがえのないものなんです…」

 ハマやんは項垂れるように俯いて黙り込んでしまった。僕も肩で息をしながら口を閉ざしてしまった。ハマやんは悔しそうな表情を浮かべながら固く口を閉ざしている。僕も言葉を口にする事が出来なくなってしまった。そのままお互い、口を噤んだまま時間が過ぎていった。刑務官の鋭い視線が睨む。長い沈黙が続く。沈黙を破るように1人の刑務官が布で包まれた何かを持ってきた。

 刑務官は布を僕に差し出す。その布を刑務官から受け取った。布を開いてみると黄金に輝く王冠のペンダントの付いたネックレスが輝きを放った。ハマやんがいつも歩道橋でサイファーする時に付けていたネックレスだ。ブリンブリンだ。ようやくハマやんが重い口を開いた。

「それを、お前にやるよ」

「ハマやん… これは…」

「俺が一番、大事にしてたネックレスや」

「ハマやん…」

「なあ、カグラ、お前に託した。俺の分まで、大阪予選を頑張ってくれ。そして鬼流星に勝って、優勝してくれや。今のお前やったらできる。必ずできるはずや。今のお前のスキルやったら十分、優勝も狙えるはずや。これは王冠のネックレスや。お前がチャンピオンになるんや。だから… そのネックレスを俺の形見やと思って、戦ってくれ。俺が歩道橋の上で毎週サイファーした汗と涙と想い出が詰まった勲章や。俺がヒップホップに注いだ情熱がそこに詰まってるんや。これが俺の生き様や。これが俺のヒップホップや。そのネックレスには俺の魂が宿ってるんや。だから… カグラ… 俺の分まで戦ってくれ、限界を超えてくれ、自分の限界を超えろ、俺はすべてカグラに託した。俺のヒップホップはすべてお前に託したんや、俺の夢は全部お前に託したんや、お前がヒップホップを証明しろ、お前の生き様をステージで証明しろ…」

 ハマやんの瞳から一筋の涙が頬を伝っていった。悔しそうに唇を噛みしめていた。刑務官がそろそろ時間がきたのでよろしいでしょうか… とだけ言い残しハマやんを連れて、奥の扉へと消えていく。手の中には眩い光を放つ黄金のネックレスだけが残された。ネックレスに生命が宿っているようだった。手のひらに金属の冷たい感触をしっかりと確かめながら、その眩い光に目を細める。そしてしっかりとネックレスを握りしめた。





 拘置所を後にして帰宅の途についた。日曜日の昼間は電車も空いていて、乗客と乗客の間のわずかなスペースを見つけて、座席シートに座った。電車の中でも、ハマやんから授かった金のネックレスをしっかりと握りしめていた。ずっしりと重みを感じる王冠のネックレス。このネックレスにはハマやんの「ヒップホップ」への情熱が宿っている。ハマやんのヒップホップへの情熱… それだけは嘘ではなかった。それだけは確かだったのだ。

 地元の駅に帰ってきた。夕方になっていたが外はまだ明るい。いつもと同じ道を歩いて自宅に帰る。団地が建ち並ぶいつもと同じ風景だった。慣れ親しんだ街の風景。玄関のドアを勢いよく開けた。

「ただいま、お母さん」

 あれ? 返事がない。お母さんは留守なのかな? 

「ただいま~ お母さん!」

 今度はもっと大きな声で言ってみたが、やはり返事がなかった。おかしいな。買い物にでも出掛けているのだろうか? リビングルームを探したが、そこにはお母さんの姿はなかった。

「ねぇ、お母さん」

 おかしいな? お母さんは具合でも悪くて寝ているのだろうか? 寝室のドアを開けた。目に飛び込んできたのは、変わり果てたお母さんの姿だった。

 お母さんは寝室のベッドの下に倒れていた。カーペットの上で横たわっていた。お母さんは倒れたまま動かなくなっていた。お母さんの体を揺さぶりながら

「ねえ、お母さん、どうしたの! ねえお母さん、返事してよ!」と叫び続けた。反応がない。お母さんはぴくりとも動かなかった。明らかに様子がおかしい。どうしよう… 早く救急車を呼ばなければ…。急いでポケットの中からスマートフォンを取り出して、救急要請をした。

「家で母が倒れているんです、はい、ええ、すみません、救急車をお願いします! はい、はい、お願いします… はい… ええ、住所は… そうです、…団地の3階です、ええ、はい、はい、はい… そうです… お願いします!」

 電話口で、救急車が来るまでの間、心臓マッサージをするように指示された。言われた通り急いで心臓マッサージをした。正しいやり方なんてわからなかった。そんなのは学校でも習った覚えがない。役に立たない知識ばっかり詰め込まれて、学校ではこんな肝心な事を教えてくれない。それでも両手で母の胸の中央を圧迫し続けた。とにかく必死だった。

 手のひらには母の心臓の鼓動が伝わってくる。心臓は機能している。脈拍はあるという事だ。呼吸はしているのかどうかわからない。僕の頭の中で何かが大きな音を立てて崩れ去った。シャッターが下りてしまったように目の前が真っ暗になってしまった。どうすればいいんだろう。懸命に心臓マッサージを続けた。お母さんはぴくりとも反応しない。どうしたんだよ、どうしたんだよ、ねぇお母さん。返事してよ。ねえ、お母さん! 

 間もなく遠くの方からサイレンの音が聴こえてきた。サイレンの音はだんだんと大きくなっていき、自宅周辺で音はピタッと止まった。階段を駆け上がる足音が迫ってくる。玄関を開けると3名の救急隊員が立っていた。

「すみません、こちらです」

 3人の隊員が寝室に駆けつける。隊員たちは慌ただしく連携を取りながら任務を遂行する。呆然としながら見守るしかなかった。ストレッチャーだ、ストレッチャーを用意しろ、という隊員たちの声が飛び交う。お母さんはすぐにストレッチャーに乗せられ、隊員に担がれながら階段で3階の自宅から1階まで運ばれていった。隊員を追いかけるように階段を駆け下りた。救急車のバックドアが開き、お母さんは救急車に乗せられた。僕もバックドアから救急車に飛び乗った。バックドアが閉められた。

 救急車の後部のシートに隊員と並んで座る。お母さんは目の前で横たわったまま、意識を取り戻す気配はない。お母さんの鼻孔にはカニューレを繋がれて、口には人工呼吸器のマスクを接続された。脈拍計が繋がれて、心拍音が車内に響いている。その音にシンクロして僕の鼓動も速くなっていく。

 隣りに座る隊員に指定先の病院を告げると、救急車はけたたましいサイレンの音を響かせて発進した。お母さん、お母さん、目を覚まして、と叫び続けた。サイドドアの壁には複雑な計器類や道具などがコンパクトに収納されている。救急車内では心拍音が鳴り響いている。大丈夫だ、お母さんは生きている。お母さん、大丈夫だから目を覚まして。お願いだから、お母さん…。隊員が何やら書類に書き込んでいる。お母さんの病名を聞かれ

「肝臓ガンです。肺にも転移していると医師は言ってました」と僕は隊員に伝えた。両手を固く組みながら、母の意識が回復するように祈った。救急車は病院の敷地内に吸い込まれていった。

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