第11章 LET IT BE

 昼のランチタイムも終え客の入りも少なくなった。客が食べ終えた食器類を片付けて洗い場に運ぶ。霧吹きでたっぷりと湿らした布巾で僕は丁寧にテーブルを拭く。夏休み中、サイファーがある土曜日の夜以外のほとんどの日、ずっと昼から夜まで「なにわラーメン主流軒」でバイトをしていた。もうすぐ9月かぁ、夏休みも終わりだなぁ。そんな事を考えながら一心不乱にテーブルを拭き上げる。ピカピカに拭き上げたテーブルは蛍光灯の光を弾いて、光の粒子が床にまで零れ落ちそうになっている。危ない、光が零れ落ちそう。

「なあ、カグラ君、夏休みの間、ずっとバイト入ってくれてほんまにありがとうな。ほんまカグラ君みたいな真面目に働いてくれるような子がおったら、店としても助かるわぁ」と店長が言う。

「いや、こちらこそ、いつもありがとうございます。それに学費の為に貯金もしていかないといけませんし… 親にばっかり頼ってられませんし」

「お、そや、そういえばカグラ君、進路の方は決まったんか?」

「そうですね… 介護福祉系の学校を中心に資料を集めているんですけどねぇ、なかなか学校を絞り切れなくて… ちょっと進路に悩んでいるんですよねぇ…」

「そうか、偉いな、カグラ君は。そうかカグラ君は介護の学校を目指して勉強してるんやな。偉いなぁ。介護の仕事は大変な仕事だぞ。でもこれから、どんどん高齢化社会になっていくみたいやしな、介護が必要となってくる社会になるはずやわ。将来、絶対にカグラ君の役にも立つはずや。いつか俺も歳とって店に立たれへんようになったらカグラ君に助けてもらうわ。しっかり頑張って勉強してお母さんに親孝行しぃや」

「ありがとうございます、店長」

 洗い場の蛇口をひねり、しっかりと泡立つようスポンジに洗剤をたっぷり付ける。溜まった食器を丁寧に洗い上げる。ラーメン鉢の底や淵の部分に付いた汚れをゴシゴシと入念に擦る。

「そや、カグラ君、今日はお母さんの誕生日やなかったかいな?」

「そうです、今日は僕の母の誕生日なんです」

「ほんだら、今日はもう仕事あがってええで、はよお母さんとこ帰ったりぃ」

「え、でも… 僕、今日5時までのシフトになっていますし… あと2時間くらい、まだ時間ありますし…」

「そんなん気にせんでええから。もう、ええから帰り」

「でも… 店長…」

「ええ、ええ、かまへん、かまへん、俺がええっちゅうたらええんや」

「はい、すみません、そしたらお先に失礼させて頂きます、ありがとうございます、店長」


 バイト先近くのケーキショップに寄って小さなホールケーキを買い、帰りの電車に乗った。昼の時間帯は電車も空いている。十分に座るスペースもある。電車のシートに座り、ケーキの箱を膝の上にちょこんと乗せて、倒してしまわないようにしっかりと両手を添えた。





「ただいま」

「お帰り、カグラ、今日は早いのね」

「だってお母さんの誕生日だもん、ほらケーキ買ってきたから」

 夕飯時になってお母さんはキッチンに立った。ぐつぐつと煮立った鍋の音が聴こえる。今日はカレーの匂いがするな。キッチンから漂ってくる匂いを犬のように鼻をひくひくさせて嗅いだ。冷蔵庫に入れておいたホールケーキの箱を丁寧に取り出した。ケーキの箱を空けると甘い香りがふわっと漂う。苺と生クリームが乗った白いホールケーキ。その真っ白いキャンバスの上に4本のローソクを立てて彩る。完成した誕生日ケーキを見ながら僕はくすっと笑った。テーブルの中央に誕生日ケーキを置いた。

 お母さんは、器に盛られた白飯の上にできあがったばかりの熱々のカレーをかける。野菜がたっぷりと入った旨そうなカレーライスだ。

「はい、どうぞ、たっぷりとお食べ」と言いお母さんが笑顔を作った。貪るように一気にカレーライスを食べる。美味しい! 旨い! やっぱりお母さんの作るカレーライスは最高だな。唇に付いたカレーを舌で舐める。お母さんも黙々とスプーンでカレーライスを口に運んでいる。お母さんの顔をちらっと見ると、満面の笑みを浮かべている。お母さんの笑顔が大好きだ。

 たっぷりとカレーライスを平らげて満腹になった。いよいよ誕生日ケーキの出番だ。僕はライターでローソクに火を灯した。

「ねえ、カグラ、私、お酒飲んでいい?」

「いいよ、お母さん」

 お母さんは冷蔵庫の中をごそごそと探し、ハイボールの缶を取り出した。そしてプシュッと音を立てて缶のプルタブを開ける。そして僕のためによく冷えたコーラの缶を出してくれた。4本のローソク全部に火を点けた。白いキャンバスの上で赤い炎が揺らめいている。

「お母さん、電気消すね」

 リビングの蛍光灯を消して遮光カーテンを閉めた。部屋は一瞬で暗くなる。暗闇の中でローソクの炎だけが人魂のように幻想的に揺れている。そのゆらめきの中に吸い込まれていきそうになる。

「さあ、お母さん、歌うよ、お母さんも一緒に歌ってね」

「うん」

「いくよ、お母さん、さん、はいっ、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデイトゥーユー、ハッピバースデー、ディアお母さん~、ハッピバースデー、トゥー、ユー、いえ~、40歳のお誕生日おめでとう、お母さん」

 僕とお母さんは拍手をした。ささやかな拍手だった。他の誰にも聴こえない拍手。たった2人だけのささやかなバースデー。

「はい、お母さん、ぃ、消してね、ほら」

「う、うん」

 ふー、ふー、と息を吹きかけながらお母さんは1本ずつローソクの火を消していった。4本のローソクの炎が燃え尽きると、マンホールの蓋を閉じられたように完全な闇が覆う。再び拍手をした。拍手を鳴らす手のひらの音だけが闇の中で響いた。

「お母さん、電気点けるよ」

 蛍光灯を点灯すると、トンネルを抜け出たように一瞬でリビングが光に包まれた。眩しい光に目がくらむ。

「さあ、お母さん、ケーキ切るよ」

 キッチンの収納庫から包丁を取り出した。苺を切ってしまわないように避けるようにしながら、誕生日ケーキの真ん中に包丁を入れた。そして取り皿にケーキを1つずつ乗せていった。

「ねぇ、カグラ、私、こんなにも食べられないと思うわ~」

「大丈夫、小さいから。4号サイズだから。ゆっくり食べようよ」

 お母さんはさっき冷蔵庫から取り出したハイボールを飲んでいる。すぐにアルコールが回りお母さんは頬を赤らめた。僕もコーラを飲みながら、ケーキにフォークを突き刺した。そしてケーキを口の中で味わいながら頬張った。お母さんも美味しそうにケーキを食べている。

「カグラ、ありがとう」とお母さんは呟いた。

「うん、お誕生日おめでとう、お母さん」

 お母さんはリモコンでCDコンポの電源を入れた。スピーカーから古くて温かみのあるメロディが流れてくる。古くても色褪せないメロディ。不朽の名曲。ビートルズの「LET IT BE」だ。ポール・マッカートニーの歌声がリビングに広がる。平明にどこまでも遠く歌声は広がっていく。優しい空気に包まれる。僕とお母さんはメロディに合わせるように、一緒に「LET IT BE」を歌った。お母さんの歌声が優しくリビングを包み込む。まるで子守唄のように。

「ねぇ、お母さん『LET IT BE』ってどういう意味なのかな?」

「あるがままに」

「あるがままに… ってどういう意味なの? お母さん?」

「そうね…」と言ってお母さんはいつものように目を瞑る。何かを考えているのだ。そして何かを閃いたようにパッと目が開く。

「あるがままに、っていうのはね、自分らしくありなさい、という事なのよ。どんな難しい事があろうと自分らしくありなさい、道に迷ったり、傷ついてしまったり、別れがあったり… 人生にはいろいろな困難が待ち受けているものなのよ… でもね、そんな時はマリア様が現れて、あるがままに生きなさい、という知恵ある言葉を授けてくれるの… 誰かと比べる必要なんてない。誰かよりも劣っていてもいい。無理して背伸びなんてしなくたっていい。あるがままの自分でいればいいんだ、って。困難にぶつかって目の前が閉ざされた時、そんな時に悩んだりするものよね、人間って。みんなそうよね。でもそういう時こそ、あるがままにいなさい、って歌っているのよ」

「うん、そうだね。ありがとうお母さん。僕もあるがままに生きていくよ。自分らしく生きていくよ。僕ね、お母さんが病院に入院している頃に言ってくれた言葉、僕は心の中にずっと残ってるんだ」

「なぁに?」

「お母さんは入院していた頃、言ってたよね。『一度っきりの人生よ、あなたの思うように生きなさい』って。僕は、その言葉を胸に抱きながら、ずっと、ラップをやり続ける事ができたんだ。こんなに何かをやり続けた事なんて今までになかったよ。だから僕にとってのマリア様はお母さんなんだ。僕はお母さんから授かった言葉を大切にするよ」

「そう、ありがとうカグラ。ねぇ、私が言ってた事、覚えてる? いつかカグラのラップを聴かせてね、って言った事… いい歌詞書いてくれた?」

「そうだったね。お母さん、そんな事、言ってたよね、入院してた頃。うん、大丈夫、歌詞は書いてないけれど、僕はフリースタイラーなんだから、即興で歌ってあげる。今、この瞬間、この場所で思いついた事をお母さんのためにラップで歌ってあげるよ、ちょっと待っててね」


 CDコンポの音楽を止めて、新しいCDに入れ替えた。ヒップホップのクラシック・ビートが入ったCDだ。その中でもSOUL SCREEMの「蜂と蝶」を選んだ。美しいストリングスのビートがリビングに鳴り響く。

「素敵なメロディね」とお母さんが言った。

「じゃ、お母さん、歌うよ、お母さん、ちゃんと聴いててね!」




HEY YO 俺は将来学んでいくよ 

お母さんは整えてね 体調の

どこのも関係ない のように美しい

俺はそれを目指して歌い続けるんだ


ちっちゃい頃のNOVEMBER のように冷え切った心の

やがて大きくなり今じゃ だけどいつでも俺は

溢れるビート上 誰かのじゃなくてもつけて歌う今が

時にはMCバトルでするする事もあるんだぜ

 

今日はお母さんの 俺は飲めない

俺がの赤ちゃんの頃から育ててくれたお母さんに伝える

もしかしたらあったかも知れないな ごめんね

いつかお母さんと行きたいな そんな夢を乗せながら飛んでいく


俺は今 羽ばたきRHYMEを する会場を目指して

RIDE ON 口ずさむラップはさながら

お母さんはちっちゃい頃 のゼッケン縫ってくれたね

だけどお母さんが今 飲んでいるのは ここが俺らの

 

俺は高架下の中でなしで過ごす未来は描きたくないから

会場いっぱいので歓客を沸かすんだ

鳴りやまない お母さんが飲み続ける

いつもありがとうお母さん この歌がお母さんに捧げる




「カグラ、ありがとう」と言ってお母さんは割れんばかりの拍手を贈ってくれた。僕は少し照れながらお母さんに言った。

「これは即興の音楽だよ、お母さん。明日には消えてなくなる音楽だよ。僕だって明日もう一度歌ってくれ、って言われても歌えないもん。だけど僕やサイファーの仲間たちはその瞬間に感じた気持ちを表現しているんだよ。消えてなくなる音楽の儚さと瞬間の美学、僕たちはそれを求めて日々練習しているんだよ」

「うん、ありがとう。私にはちゃんと伝わったからね、ありがとう」

 お母さんと僕だけのささやかな誕生日。世界中にたったひとりしかいないお母さんと過ごした誕生日。ささやかだけど幸せな一日だった。

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