第8章 MADE IN JAPAN
夕方の日本橋は買い物客で賑わっていた。日本橋は電気街として知られ、多くの家電量販店が軒を連ねる。小規模な専門店もいくつかあり、マニアックなパソコンのパーツやら無線機、何に使うのだろうと思えるような盗聴器や小型の盗撮機器に至るまで、ありとあらゆるものがこの街には揃っているのだ。電化製品を求め多くの買い物客が押し寄せる。
外国人観光客も多く、中には「爆買い」をする買い物客もおり、紙袋やビニール袋を両手にいっぱい抱えたり、大きな家電の段ボール箱を抱えて歩いたりする人もいる。路上には多くの乗用車が駐車されていて堺筋の両車線を塞いでいる。それを取り締まる緑色の服を着た2人組の駐車監視員が自転車に乗っては止まり、また自転車に乗っては止まり、を繰り返しながら通りをぐるぐると走る。そして違反車を見つけては立ち止まり乗用車の前で何やらメモを書いて車体を確認しながら、2人で何やらやり取りをしていた。
マクドナルドで、ビッグマックのセットを注文した。店内の席から街の流れを眺めていると面白かった。揚げたてのポテトはカリカリとした食感で美味しい。ストローでコーラをちゅうちゅうと吸いながら渇いた喉を潤した。よく冷えたコーラが口から食道を通り、胃袋に吸収消化されていく感覚をゆっくりと味わう。弾ける炭酸が喉に心地よい刺激を与えてくれる。
「待ったー?」
息を切らしながら、リュックサックを背負い両手に紙袋を提げたダイソンがやって来た。
「いや~、今日な、声優のまゆたん… あっ『三ツ星まゆみ』ちゃんのーね、握手会があってーね、俺なー、今日は握手してもらってーん、ほらこの右手にさー、はぁあ、なんかまだ温もりを感じる~、ああ今日は手を洗えないわぁ~、あとサインもしてもらったんやーで… ほらこれ見てーよ」
そう言いながらダイソンは紙袋の中をごそごそと探しサイン色紙を取り出した。見せられた色紙にサインが丸文字で書かれていて、何を書いているのかがさっぱりわからない。でも右隅のハートマークだけは判別できた。
「ねぇ、ダイソン… 今日はなんで僕を呼び出したんですか?」
「え、いやぁ… この前の大会1回戦で負けたーよね、俺もカグラもさー。だからさー、ちょっとさーカグラと一緒にさー、慰め合う、って言ったら変だーな。ん、まあカグラにも元気出してもらおーうと… ほら、面白い店があるんだーよ、行こーよ」
ダイソンが座席に置いた紙袋の中から、美少女アニメのフィギュアがちらっと覗いていた。
足早に歩くダイソンの背中を追うように日本橋のオタロードまで向かっていく。オタロードを歩いているとダイソンとよく似たような服装の若者たちで溢れ返っていた。ダイソンも僕も街の空気に溶け込んでいる。交差点ではメイド服やセーラー服のコスプレをした若いお姉さんたちが並んで立っていて、街行く人々に呼び込みの声をかけている。しばらく歩くと雑居ビルの前でダイソンは立ち止まった。
「ほらー、ここだーよ、このビルの3階にあるんだーよ、カグラ行った事あーる?」
メイド喫茶の看板が掲げられている。
「ないです…」と僕は答えた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
店内に入ると、メイド服を着たお姉さんに案内された席に、僕とダイソンは向かい合うように座った。思わずお姉さんの胸に目がいってしまった。メイド服の上からでも存在感を主張する丸みを帯びたふくよかな胸だ。恥ずかしくなって俯いてしまった。お姉さんの胸の流線形を脳裏に浮かべながら、軽食やドリンクなどが記載されたメニュー表をぼんやりと見つめていた。
「ここのオススメはオムライスだーよ」とダイソンが言うので、僕はオムライスとコーラを注文した。ダイソンも同じものを注文した。間もなくメイド服のお姉さんがメニューを運んできた。
「あたしの名前はミルミルだよ、よろしくね、ご主人様」
スプーンを手に取り運ばれてきたオムライスを食べようとすると、ダイソンが
「あ、待って! カグラ! そのままでは美味しくないかーら」と言って僕の手を押さえつけた。続いてお姉さんが
「ミルミルが~、オムライスが美味しくなるように魔法をかけちゃうよ」と言ってダンスを踊りながらオムライスにケチャップをかけた。オムライスの黄色いキャンバスの上に赤いケチャップでハートマークが描かれた。お姉さんがうさぎの耳の付いたカチューシャを僕とダイソンに手渡した。ダイソンに尋ねた。
「ダイソン、これ、なんですか?」
「これを頭につけるんだーよ、ほらこんな風にー」
ダイソンの頭にうさぎの耳が生えていた。ダイソンに言われるがまま、僕もカチューシャを頭に付けた。お姉さんは僕たちに、指でハートマークを作るように言った。お姉さんが指で形を作ったハートマークを見ながら、僕とダイソンも同じように真似て指で形を作った。
「よ~し、うさぎさん、準備ができたかな? それじゃあミルミルが魔法をかけちゃうぞ、うさぎさんもご一緒に」
お姉さんが指で作ったハートマークを、胸の前で踊らせるようにしながらリズミカルに歌い始める。
「くるくるぽぽぽ~ん、くるくるぽぽ~ん、うさぎさん、くるくるぽぽぽ~ん、くるくるぽぽ~ん、オムオムちゃんが美味しくなぁ~れ、それっ!」
ぽかーんと口を開いたまま、全身が固まってしまった。半年間、冷凍庫に入れっぱなしのアイスキャンディーのようにカチカチになってしまった。
「こっちの眼鏡うさぎさんは、合格~、でも~、あ~、こっちのちびっ子うさぎさん、ぜ~んぜん、やってない~、ちゃんとやらないと、美味しくならないぞ~、ダメだぞ~、もっかいやり直し、よ~しミルミルがもっかい魔法をかけちゃうぞ~」と、お姉さんは僕の方を見て言った。
「い、いや、僕、こんなお店、来るの、は、初めてだから…」
「あ~、照れ屋さんなんだ~、ひょっとして、ちびっ子うさぎさんは童貞くんかな? ミルミルがぐりぐりしちゃうぞ~。一緒にやってくれないとミルミルがお仕置きしちゃうぞ~」
「え、あ、ど、童貞? あ、あ、いや、あう、や、やります、僕もちゃんとやりますっ」
「じゃあ、こっちの照れ屋のちびっ子うさぎさんのために、も~1回やるよ~、みんなで一緒に歌ってね、さん、はいっ、くるくるぽぽぽ~ん、くるくるぽぽ~ん、うさぎさん、くるくるぽぽぽ~ん、くるくるぽぽ~ん、オムオムちゃんが美味しくなぁ~れ」
一連の儀式のようなものが終わりお姉さんは僕たちの席から立ち去っていった。ホッと胸を撫で下ろした。目の前には赤いケチャップでハートマークが描かれたオムライスがある。それを夢中で食べた。胸のドキドキと緊張感が止まらない。ダイソンは美味しそうにオムライスを頬張りながらぶつぶつ何やら独り言を呟いている。よく耳を澄ますと、くるくるぽぽぽ~ん、くるくるぽぽ~ん、と呟いているようだ。
「あの~、ダイソン、よく来るんですか?」
「ん~? 俺はよく来るーよ、カグラも楽しいだーろ? 他にもいっぱいー、いいお店があるんだーよ」
「そうなんですか…。いや… 僕にはなんか合わないかなぁ、と思いまして…」
「ええ~、そうなんー?」
よくヒップホップとオタクを両立できたな、ダイソンは。ヒップホップとまったく正反対の世界じゃないか。僕にはまったく無関係な事のように思えた。
7月の太陽がぎらぎらと照りつける。じりじりと焼きつけるような太陽光を浴びながら、僕は串刺しにされた鮎のような気持ちになった。蝉の声も聴こえるようになった。ありとあらゆる街路樹から一斉に蝉たちが夏の歌を合唱していた。みんみんみんみん、という騒音が耳の奥まで浸透して僕の思考を蝕んでいく。
蝉の命は短い。いや、蝉には地中深くで何年も暮らす長い幼虫期がある。真っ暗な地中に閉じ込められて過ごす期間、蝉はどんな事を考えているのだろうか? そして地中から解放されて、ようやく地上へと飛び立つ瞬間、どんな風に感じるのだろうか?
蝉の一生と自分の姿を重ねてみた。長い期間、僕も地中深くに閉じ込められているような少年時代を過ごしていた。それは暗くて長いトンネルのような闇だ。この闇から抜ける出口なんてあるのだろうか、とずっと思っていた。でもトンネルには必ず出口がある。ヒップホップという夢を見つけて大空に飛び立ったのだ。
病院へと続くいつも通りの道を歩いた。病院に着くと嬉しそうな表情でお母さんが僕を迎えてくれた。お母さんは珍しくベッドに臥床しておらず、パイプ椅子に座っていた。
「お母さん、今日は元気が良さそうに見えるなぁ」
「わかる? ねぇ、カグラ、お母さんねぇ、退院する事が決まったんだよ」
僕は目を丸くして驚いた。
「ええっ? お母さん、それホント!?」
「本当よ、スギヤマ先生が退院してもいい、って言ってたんだよ、体調が安定しているから、だって… 薬は飲み続けなければいけないけどね。だっていつまでも病院にいたって退屈だし… 鳥かごの中にいるみたいだわ… 来週には退院できるってスギヤマ先生は言ってたわよ」
「ホントに!? 凄い! お母さんが退院するんだ、僕、凄く嬉しいよ!」
お母さんと抱き合って喜んだ。お母さんが家に帰ってくる。胸が躍った。気持ちが弾んだ。澄みきった夏の空のように晴れ渡る気持ちになった。
数日後、お母さんは自宅の団地に帰ってきた。期末テストが終わり、学校から家に帰るとお母さんが待っている。お母さんが入院してからずっとそんな日々を待ち焦がれていた。でも今は、お母さんが家にいる。キッチンに立ち、お母さんが料理を作っている。そんなお母さんの後ろ姿に目を細め、ぬくもりを噛みしめた。お母さんに期末テストの答案用紙を見せた。
「なんか、だんだん成績が落ちてきてるわねぇ」
「うん、そうかなぁ」
「ねぇ、カグラ、もうすぐ夏休みでしょ?」
「うん」
「カグラ、進路は決まったの?」
「いや、特に考えてないなぁ…」
「ラップを続けるのはいいけれど、ちゃんと将来の事も考えないとダメよ…」
「うん、そりゃそうだけど」
「もう3年生でしょ、冬になったらセンター試験もあるでしょ、ちゃんと私はカグラが大学に進学できるようにお金は用意してるんだからね」
「うん、それはわかってるんだけど…」
毎週のように木霊サイファーに行っているから、進路の事なんてすっかり忘れていた。ラップに熱中するようになってから、勉強に身が入らなくなってきていた。当然、成績もどんどん落ちていく。
「お母さん、僕ね、強いて言うとね、介護福祉系の学校に進みたいな、って考えた事はある」
「へぇ、偉いんじゃないの? ちゃんと考えているんだね。介護のお仕事はとっても大変よ」
「うん、それは僕も知ってるよ。だけど僕、お母さんが病院に入院してた頃からずっと考えてたんだよ、実は。将来、お母さんの面倒をみれるのは僕しかいないわけだしね。お母さんだって親戚が誰もいないし、僕はひとりっ子だし。僕がお母さんの世話をするしかないかな、って思ってね」
「心配しなくても大丈夫。私はカグラの世話になるくらい歳とってないわよ」
「うん、そりゃ、そうだけど…」
テーブルに皿が並べられた。肉じゃがだ。そして味噌汁が入ったお椀も並べられた。茶碗いっぱいに白い飯が盛られた。食卓が彩っている。お母さんの手料理を食べるなんて本当に久しぶりだ。
「私が入院している間、どうせろくなもの食べてなかったんでしょう」
肉じゃがに箸を付けた。じゃがいもを頬張ると、口の中に甘みがとろけるように広がっていった。よく味が染み込んでいる。昔はよく作ってくれた。なんか懐かしい味。間違いなくお母さんが作る肉じゃがの味だ。
「美味い、お母さん、すっげぇ美味いよ」
「そう、良かった」
「なんか懐かしいな、こうやってお母さんと一緒にご飯を食べるの」
「そうねぇ… 私が長い間、入院してたから… ごめんね、心配ばっかりかけて…」
「そんな事ないよ、お母さん。僕はお母さんが元気になってくれて凄く嬉しいんだよ」
「ありがとうね」
箸が進む。味噌汁を飲むと体中に味が染みわたる。心にも染みわたる。お母さんの味。その味わいをじっくりと堪能しながら僕は幸せだなぁ、と思った。
夏休みに入っても毎週、土曜日になると歩道橋に
「9月に『MCバトル全日本』の大阪予選があるから、みんなそれに照準を合わせて頑張ろう」
そう「MCバトル全日本・大阪予選」は9月の下旬に開催される。この大会で優勝した者のみが「大阪代表」として東京ドームで開催される決勝大会への切符を手にする事ができる。大阪のMCたちがそのたった1枚の切符を狙って切磋琢磨しているのだ。
もちろん宿敵、鬼流星も出場する。Twitterでのアンケート投票結果では、現在のところ鬼流星が独走で優勝候補とされている。前回の「バトル・コロシアム」では鬼流星に苦汁を舐めさせられた。なんとしてでもリベンジを果たしたい。そして大阪予選を優勝して東京での決勝大会の舞台に立ちたい。その夢を掴むために毎週サイファーでスキルを磨いている。
サイファーの休憩時間に入った。ハマやんが僕に話しかけてくれる。
「なあ、マイメン、カグラ、その黒いTシャツよう着とるなぁ、いっつもその黒いTシャツ着てへんか? もっとB-BOYらしい恰好しろや、俺みたいにやで」
「あ、これユニクロのTシャツなんですよ」
「は? ユニクロやと?」
「いやー、凄い着心地がいいんですよ、ユニクロのTシャツ。僕の戦闘服みたいなものですね、サイファーの時にはいつもこれが落ち着くんですよ、寒くなるとユニクロのパーカーですね」
「ん~、まあ、ええか、そこから這い上がって、ロレックスの腕時計を付けるのんを夢見るのもヒップホップやわな。まぁ、ええわ、ユニクロもヒップホップやわ。カグラらしいわ」
「ありがとうございます。いつか夢を掴んでハマやんみたいなネックレスが似合うようなラッパーになりたいと思います」
ミユが僕のそばに近寄ってコーラのペットボトルを渡してくれた。
「はい、カグラ、コーラだよ、いっつもコーラしか飲んでへんからね、
「ありがとう、ミユちゃん」
ミユから手渡されたペットボトルのキャップをプシュッと開けて、コーラで喉を潤した。ミユが僕の耳に手を当てて、シャープペンシルの芯を出すような小声で耳元に口を近付けて囁く。
「なあ、カグラ、この前あたしが言ってた事覚えてるん?」
「え?」
ミユの吐息がシャープペンシルの芯のように鋭く鼓膜に突き刺さる。
「ほら、前に『バトル・コロシアム』の帰りにアメ村の三角公園で言った事…」
「う、うん」
そう言えばミユは僕と遊びにいく約束を確かにしてくれた。確か、夏休みにどこかに遊びにいくとかなんとかいう…。
「もう夏休みやん、そうやろ?」
「うん…」
コダマさんがステレオのスイッチをオンにしてビートを流した。
「よ~し、次のターンにいくぞ! みんな準備はいいかー!」
コダマさんの掛け声に続きハマやんが
「おっしゃ、カマしたるでぇ」とみんなに気合を注入した。その日も終電までサイファーが続いた。
サイファーが終了し帰りの終電の車内でスマートフォンを弄りながら『MCバトル全日本』のホームページを見ていたら、ピコーンと音を鳴らして緑色の光が放たれた。ミユからのLINEだった。それを見て僕はすぐに返信をした。
MIYU →
明日、天王寺駅の歩道橋の上で待ってるよ(*^▽^*)
← KAGRA
わかった。何時?
MIYU →
夕方の5時でどう?
← KAGRA
わかった。5時で
家に着いた頃には深夜の12時を回っていた。学習机の上に置いてあるデスクトップ・パソコンの横には、オカザキから貰った「KURENAIワンマンライブIN SUMMER 8月」と書かれたチケットが無造作に置かれたままだ。お母さんはまだ起きていて、ソファーに座りながら難しそうな杉田玄白の本を読んでいた。
「なぁ、お母さん、明日、僕、晩御飯いらないよ」
「え? 明日、日曜日でしょ、サイファーないでしょ?」
「うん、でも、ちょっと出かけてくるね、友達と」
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