第9章 STAND BY ME

 次の日、約束の夕方の5時よりも少し早い4時40分に天王寺駅に着いた。LINEで指定された通り天王寺駅の歩道橋に上がり、ミユの姿を探した。大勢の人々が行き交い人混みに紛れてミユがどこにいるのかわからない。腕時計を見たら、まだ5時よりも10分前だ。まだ来てないのかな、と思っていたら背中をトントンと叩かれた。

「待った?」

「あ、ミユちゃん!」

 ミユはサイファーの時とは違い髪を結んでおらず、その髪は背中まで届くぐらいの長さがあった。白いワンピースを着ている。スカートの部分の丈が短くなっているワンピースで、つやつやとした白い太ももが大胆に覗いている。それに今日はいつものスニーカーじゃなくヒールの高い靴を履いていた。

「ううん、僕も今、来たとこだから」

 ミユに腕を引っ張られながら僕は「あべのキューズモール」の方向に歩いていった。「あべのキューズモール」は大型のショッピング・センターでオシャレなファッションを扱った洋服店や雑貨店、それにカフェなどの飲食店、書店、ゲームセンターなど、ありとあらゆる店舗が入居している。

「ねえ、ミユちゃん、どこに行くん?」

「え? 御飯食べにいくんよ」

ミユはずんずんと歩いていく。ミユに遅れないように並んで歩いた。

「そうだ、カグラ、また手ぇつなごっ、もう慣れたやろ?」

 ミユは僕の手を握った。こんな人通りの多い場所で恥ずかしいなぁ、と思いながら周りをきょろきょろ見回した。通行人の視線が気になる。

「ねぇ、ミユちゃん、って普段こんな格好しているの? ほら、サイファーの時はいつもジーンズにスニーカーだし、それに今日は帽子も被ってないし…」

「可愛いワンピースやろ?」

「うん」


 あべのキューズモールの屋上に近いテラス広場があるフロアに向かった。いくつか並ぶ飲食店の中から、オシャレなカフェのような店をミユが選び、入っていく。店員に案内されてソファー席に着くと、ミユが僕の隣りに座った。

「え? ミユちゃん、なんで隣りなん?」

「隣りでも別にええやん」

「う、うん」

 ソファーのできるだけ壁の方に座ったが、ミユは僕に寄り添うように接近してくる。腕と腕がぶつかる。ミユの温かい腕が触れる。ミユはとても甘い香りがして嗅覚を刺激する。柑橘系のフルーツみたいな香りだなぁ。女の子の匂いなのかなぁ。でも… なんだか近すぎて恥ずかしい。

「カグラ!」

「何? ミユちゃん」

「今度から、あたしの事『ミユちゃん』じゃなくって『ミユ』って呼んでや」

「え? う、うん、わかったよミユちゃん、あ、違った、ミ、ミユ」

「ほら~、もうっ! もっかいやり直し」

「ミユ!」

「そう」

「なんか慣れないなぁ」

「そのうち慣れるわ」

 隣り同士、肩を寄せ合って並んで座った。距離が近すぎて胸のドキドキが止まらない。なんだろう、この感覚は。店内は薄暗かった。間接照明が柔らかく照らし、テーブルにはキャンドルライトが置かれて炎が揺れている。メニュー表を手に取り2人でどれにしようか? と悩んでいた。サラダやら肉料理やらパスタやら様々な料理の写真が載っている。

「あ! あたし、このバーニャカウダ、ってヤツにするわ!」

「なんなの? バーニャカウダって?」

「あたしもなんなんか知らん、でもこの前テレビで見た」

 バーニャカウダ… 強そうな名前だな。何かの必殺技みたいだな。フハハ、貴様、これでも食らえバーニャカウダー! 違うな。

「じゃ、僕はイベリコ豚のステーキ、頼むね」

「ええ~、お金持ってんな、なんなん、それ」

「だって僕、バイトしてるもん、いいよ、ミユち… ミユ、お金は僕が出すから好きなの頼んだら?」

「え、ワリカンでええよ、カグラ。あたしだって今日ちゃんとお金持ってきてるもん、あたしもバイトやってるし」

 結局、サラダとイベリコ豚のステーキとパスタとバーニャカウダを注文した。待っている間、スマートフォンを見ながら僕たちはヒップホップの話ばかりしていた。オススメのCDや海外のラッパーや日本語ラップやサイファー仲間の事やらを話し合い話題に尽きる事がなかった。

「なあ、カグラ、この前、ダイソンと、えっちなお店行ったん?」

「ええ?」 

「だってダイソンから聞いたもん」

「ち、違うよ… ただのメイド喫茶じゃないか…」

「え~、だってあたし、メイド喫茶って行った事ないから知らんもん、メイド喫茶って何するとこなん?」

 返答に困った。変な汗をかいた。あの呪文のような言葉が脳裏によぎった。あの悪魔のような呪文が… くるくるぽぽ~ん…。

「ん~、なんて言えばいいんだろうな、そうだな、オムライス屋さんみたいな感じかな」

「メイド喫茶ってオムライス屋さんなん?」

「う、うん、ま、まあ、そんな感じかな…」

 間もなく料理が到着した。バーニャカウダも到着した。バーニャカウダの皿には多くの種類の野菜が並び中央に専用のポットが置かれて、そのポットの下で固形燃料がゆらゆらと炎を上げていた。

「なんか… チーズ・フォンデュみたいだね。ミユ、食べてみよっか、多分、この真ん中のスープみたいなヤツにつけて食べるんだと思うよ」

 僕はニンジンを手に取り、ミユはズッキーニを手に取って一緒に熱されたスープにつけた。食べてみるとあまり美味しく感じなかった。香辛料が舌を刺激する。

「なあ、ミユ、美味しいの?」

「え? 美味しいよ、なんか初めて食べたような味やな、けど、なんやろ? なんかに似てんな、あ、ペペロンチーノみたいな味やな」





 ゆっくりと夕食を楽しみ腹が満たされると、ミユが手を引っ張って、今度はゲームセンターに行こう、と言う。言われるがまま歩いていった。

「なあ、カグラ、プリクラ撮ろうや」

「ええ~、う、うん、いいよ」

 ギュッと手を握りしめながら歩いた。ゲームセンターに到着するとプリクラの機械の前でミユが立ち止まり、これにしよ、と言ったのでその機械の中に一緒に入った。プリクラなんて撮るのは初めてだったので緊張した。ミユは僕の体に密着するように身を寄せてきた。ミユの柔らかい胸が僕の肘に当たり、恥ずかしくなって俯いてしまった。

「なぁ、ミユ、近いよ」

「だって、くっつかな、フレームに入りきらひんやん、ほら撮影始まんで、ほら、笑って!」

 何度かの撮影が終わると、ミユはパネル画面に表示された写真に専用のタッチペンで何やら絵を描いていた。そして機械の外で待っていると、ポトンと音がしてプリクラ写真が落下した。ミユは取り出し口を開けて、作成されたばかりのプリクラ写真を僕に渡した。

「はい、これカグラにあげる」

 手渡されたプリクラ写真には、僕の顔の下に「KAGRA」そしてミユの顔の下に「MIYU」と、いかにも女の子らしい可愛い丸文字で書かれており、2人の顔と顔の間には大きなハートマークが描かれていた。照れてしまった。

「どうしたん? カグラ? 顔が赤くなってるで」

「い、いや、そんな事ないって!」

「んふふ」

 ゲームセンターを出て歩いているとミユが雑貨屋の前で立ち止まった。レディース物のアクセサリーが店舗内を埋め尽くすように陳列されている。まるでユニクロの陳列棚のように整然としていた。

「ねぇ、カグラ、ちょっと寄ってもいい?」

「うん、いいよ」

 店の中に入りぐるりを見て回った。ミユはブレスレットが飾られている陳列棚の前で立ち止まった。そしてブレスレットを手に取り、いろいろ手首に付けては外し、付けては外し、を繰り返していた。そしてじゃらじゃらとプラスチック製の石が付いたピンク色のものを選んだ。それを手首に付けて僕に見せた。

「なあ、カグラ、これ可愛いと思わひん?」

「うん、よく似合ってると思うよ」

「カグラがそう言うんやったら、これにするわ」

 ブレスレットには380円という値札が付いていた。プラスチックのブレスレットなんて安いもんだな。

「なあ、ミユ、それ僕が買ってあげるよ」

「うそー、嬉しいなぁ」

 それからさらにミユは別のブレスレットを同じ陳列棚からごそごそと探していた。そして青色のブレスレットを探し出して僕に見せる。

「おんなしヤツの色違いがあったから、これは、あたしがカグラに買ってあげる。あたしからのプレゼント。あたしがピンクで、カグラがブルー、付けてみて」

 ミユから手渡されたブレスレットを右の手首に付けた。じゃらじゃらとしたプラスチックの感触が手首の神経を刺激する。

「やん、カグラ、カッコいいやん、よし、レジにいこ!」

 レジで会計を済ませてから店を出てロビー広場にあるベンチに2人並んで座った。ミユが小さく梱包された紙袋を破り、中からブレスレットを取り出した。

「はい、これカグラのん、付けて」

 そう言ってミユはさっき買ったばかりの青いブレスレットを僕に手渡す。それを右手首に付けた。ミユも同じようにピンク色のブレスレットを右手首に付けた。そして僕の右手首の上にミユが手をポンっと置いてブレスレットを重ね合わせた。ミユは無邪気な笑顔を浮かべて

「おそろ、やね」と言った。

「お揃いって事?」

「うん!」


 手をぎゅっと握りながら歩いた。歩きながらミユは、おそろ~、おそろ~、と可愛いらしい声で歌いながら歩く。そんな姿を見て、照れた。これはもしかして恋というヤツなんだろうか… ミユに恋してしまったのだろうか… これが人を好きになるという感情なのだろうか? 僕にはわからなかった。ただ心の中で何か大きなものが実ろうとしている事だけはわかった。それは一体なんなのだろうか。

 今度はミユが「あべのハルカス」の展望台に昇ろう、と言うので、そちらに向かう事にした。あべのハルカスは関西で最も高さのある商業ビルだ。300メートルの高さにある60階部分に、その展望台がある。僕らはそれを目指して歩き続ける。歩いている途中、ミユは僕の手を引っ張りながら

「こっち、いこ!」と言った。

「え? ミユ、そっちは商店街の方だよ、ハルカスは左だよ」

「じゃ、商店街いこ!」

 ミユに手を引っ張られ、よろけながら歩き続ける。飲食店のカラフルなネオンが連なる商店街を歩き続けた。

「ねぇ、ミユ、どこに行くの?」

 ミユは口を閉ざして歩き続ける。商店街を抜けるとミユは「こっち」と言って路地裏の方へと歩いていった。真っ暗な路地裏に入る。蝙蝠でも住んでいそうな暗闇だ。ミユに導かれるまま歩き続けると艶やかな色のネオンが輝くラブホテル街が見えてきた。嫌な予感がした。胸のドキドキが止まらない。口から心臓を吐き出しそうなくらい鼓動が速くなっていく。いや、もう喉元まで心臓が飛び出しているのかも知れない。額から汗が流れた。ミユの手を握ったままの僕の手が汗でびっしょりと湿っている。ラブホテルの看板から目を背けるように僕は俯く。

「ねえ、ミユ、やめようよ、なんか変なお店が…」

 ミユがラブホテルの前で急に立ち止まった。そして僕の目をじっと見つめた。ミユに見つめられて心臓が爆発しそうなくらい脈打っている。でも目を逸らす事はできなかった。ミユの美しい瞳に吸い込まれていく。その目は、少し潤んでいるようにも見えた。ミユは頬を赤らめながら俯いた。

「カグラ… ホテルいこ…」とミユが小さな声で呟いた。本のページをめくるようなかすかな声だった。耳を澄まさなければ聞こえないような弱々しい声だった。でも、確かに僕には届いた。ミユの目が潤んでいる。どうしていいのかわからなかった。

「ミユ、ダメだよ」

「なんであかんのん? あたしじゃあかんの?」

「違うよ、僕ら高校生やん」

「なんであかんのん? 高校生だってラブホくらい行くし…」

「でも僕… こういう経験がないから…」

「あたしは別にええんやで… それに…」

 ミユの目が潤んでいる。目の中に涙をいっぱいため込んでいる。そしてミユの目から涙が零れ落ちた。

「それにあたし… こういうとこ来るのん初めてじゃないし…」

 ミユは声を上げながら泣き出してしまった。ミユの目から涙が頬を伝わっていった。崩れるようにミユは僕の胸元に顔を寄せてしくしくと泣き出した。僕のTシャツに涙が染み込んでいった。そっと、ミユの背中に手を回し抱きしめた。ミユは僕の胸の中でずっと泣き続けた。嗚咽を漏らす。ミユは激しく慟哭した。しっかりと抱きしめてミユの背中をさすった。ミユはハァハァと息を荒げて鼻を啜りながら泣きじゃくった。ミユの温かい吐息が僕の胸に伝わる。

 気が付けば僕の目からも涙が溢れていた。泣いていたのだ。どうして僕は泣いているのだろうか。なぜだかわからない。だけど僕の目に涙が溢れていた。僕の腕の中でミユは泣きながら

「カグラはあたしの事、好きやないの?」と呟いた。

 なんて答えていいのかわからなかった。僕も涙が止まらなくなってしまった。ミユはしくしくと泣き続ける。腕の中でミユは僕の顔を見上げた。ミユの体が小刻みに震えている。涙で濡れた目で、僕の目をじっと見つめた。目で何かを訴えかけている。そしてミユは声を振り絞った。

「…あたしは… あたしは… カグラの事が好きやったのに… 今まで言えやんかったけど、ずっとカグラの事が好きやったのに! あたしはカグラの事が… ずっと好きやったのに…」

 それだけを言い残しミユは僕の腕を振り払い、泣きながら走り去ってしまった。ミユを追いかける事さえできなかった。ただ立ち尽くしたまま、ひたすら僕は泣き続けた。涙で滲んでミユの姿を上手く見ることができない。それでも霞んでいく視界の中でミユの背中をずっと目で追いかけた。

 涙の中でミユの背中がだんだんと小さくなっていった。ミユが遠ざかっていく。とてつもなく遠い場所にミユが消えてしまうんじゃないか、と思うくらい。さっきまではあんなに近くにいたのに。何か大きなものを失ったのかも知れない。ミユは涙の向こう側へ遠ざかっていった。涙が止まらない。でも僕にはもう、どうする事もできない。そしてミユの後ろ姿が完全に見えなくなるまで、呆然と立ち尽くした。ただ立ち尽くす事しか僕にはできなかったのだ。

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