第6章 INTENSE RAIN

 静かな雨が降っている。教室の窓から見えるグラウンドにいくつかの水たまりができあがっていた。月面のようにでこぼことしたグラウンドの窪みに雨水が満たされていく。もう6月になったんだな。梅雨に入ったのかな… いつから梅雨入りなんだろう。テレビの天気予報で気象予報士が梅雨入り宣言をしたら梅雨なのか? 誰かの意見に惑わされて季節が決定するのだろうか。空はそんな事を望んでいるのだろうか。梅雨ってそんな恣意的に決められるのか?

 ぼんやりと窓から見える雨模様の景色を眺めていた。衣替えがおこなわれ、制服はブレザーから夏の半袖ポロシャツになった。休み時間になると、いつものようにクラスの女子たちは人気アイドル・グループの話題で盛り上がる。スマートフォンで音楽を聴きながら楽しそうに喋っている。クラスの男子たちはオリコン・チャートで上位にランクインした人気ロック・バンドの話題で賑やかに盛り上がっている。僕はそんな話題から置き去りにされている。そんな話題ばかりで辟易していた。ヒップホップの話題なんてひとつも出てこない。くだらない。クラスの誰とも仲良くなれない。やっぱり学校には僕の居場所なんてないんだろうな…。 

 グラウンドにできた水たまりが表面積を広げていく。もうすぐやってくる期末テストが終われば、もう夏休みかぁ。早いなぁ、1学期も終わってしまうのだな。クラスのみんなはもう進路が決まっているのだろうな。みんな志望大学の資料を集めて、どこの大学に行くだの、ここの大学は合コンが多いだの、卒業後の進路について話題も出始めている。進路の事なんてどうでもいいように思えた。高校を卒業した後の将来なんてまったく考えていなかった。勉強にも身が入らない。頭の中ではずっとフリースタイル・ラップの事ばかり考えている。そんな事ばっかりやっているとテストの点数もだんだん落ちていく。でも、僕もそろそろ進路を決めないといけないのかな。


 教室の一番後ろにある自分の机に戻り、引き出しの中からいくつかのパンフレットを取り出した。進路相談室から学校のパンフレットを集めていた。その中から、介護福祉系の学校のパンフレットを開き、ゆっくりとページをめくっていく。入院中のお母さんの顔を思い浮かべた。

 お母さんが歳をとった時に、面倒をみるのは僕しかいない。僕はひとりっ子だし、お母さんにだって親戚がいない。だからといって今から必死に勉強をして医学部に進学して、医者になるなんて事は想像できない。そんな将来のイメージは描けない。せめて介護福祉系の学校で資格を取って、お母さんの役に立てればいいなぁ、と漠然とした頭で考える。介護福祉… これが僕の進むべき道なのかなぁ。

 ああ、わからない。どうしても進路の事を考えるのが億劫になる。そういえばこの前、スギヤマ医師が言っていた言葉をまだお母さんにも伝えていない。このままお母さんに伝えない方が良いのだろうか。それともやはりお母さんに伝えるべきなのだろうか。どうすればいいのだろう。考えれば考えるほど深みにはまっていく。引き出しの中にパンフレットを仕舞った。


 昼休みになるといつものように校舎の屋上へとつながる階段に座った。学校ではここが一番、気持ちが落ち着く場所だ。買ってきたサンドウィッチを食べる。それからペットボトルのコーラを飲み込む。爽快な炭酸が弾けて喉の奥を刺激する。コーラが食道を流れていき胃袋の中に吸収消化されていく感覚を確かめる。昼食を食べ終わると、歌詞を書き綴ったノートを広げる。ノートはびっしりと文字の羅列で埋め尽くされていた。自分で書いた歌詞を読みながら、ラップの練習をした。繰り返し、繰り返し、口ずさみながら歌い続ける。僕があの鬼流星に勝つためには、まだまだ練習が必要だ。ラップを口ずさんでいたら、階段の下の方から足音が聴こえてくる。

「おう、カワカミ! こんなところにいたのか?」

 オカザキだ。なんでこいつがこんな場所に来るんだよ。オカザキは長い髪を振り乱しながら僕の横に座った。慌ててノートを制服のズボンのポケットに仕舞った。

「カワカミ、歌でも歌ってるんか?」

「そうだよ、ラップの練習をしてんだよ」

「へぇ、カワカミ、お前、ラップなんかやってるんや?」

「そうだよ、今、練習しているところだよ」

「へぇ、お前が音楽をやってるなんて意外だな。いつからラップの練習をやってるんや?」

「半年くらい前からだよ」

「ラップなんかやってておもろいか?」

「うっるせぇな、なんの用だよ、オカザキ!」

「いや、カワカミが音楽好きなんやったらちょうどいいわな。いや、な、俺さぁ、夏休みにワンマンでライブやるんだよな。カワカミも知ってるやろ、俺らのロック・バンド『KURENAI』の事ぐらい。ちょうどチケットが余ってしまったんだよな。だったらカワカミにチケットを1枚やろう、と思ってな。それで探してたんだよ、お前をさ。ほんでクラスの女に聞いたらさ、カワカミは昼休みになるといつも屋上の方にいるって言うからな、それでここに来たわけ。良かったらお前も観にこいよ、俺のライブ」

 オカザキはズボンのポケットの中から、1枚のチケットを取り出した。オカザキはそれを僕に手渡す。厚紙で作られているチケットのざらざらとした感触を指で確かめた。

「カワカミ、それをお前にやるよ。良かったら観にこいよ」

 手渡されたチケットに目をやった。そこには「KURENAIワンマンライブIN SUMMER 8月」と印刷されていた。





 土曜日の夜、いつも通り歩道橋の上でサイファーをしていた。小降りの雨が降っている。じめじめとした湿気に汗ばむ。雨と汗によって水分をたっぷりと含んだ僕のTシャツは肌にぺったりとへばりつく。梅雨の季節。歩道橋のタイル貼りの路面が雨を弾く。タイルとタイルの隙間に雨水が染み込んでいく。

 サイファーの途中にコダマさんがステレオの音楽を止めた。

「雨が降ってきたなぁ… 大降りになってきたら今日はサイファー中止にしようか」

 どんよりとした空を見上げる。コールタールのように黒く濁った夜空だ。

「今日のー、天気予報はー、夜から降水確率80%との事でーす、ええ」

 ダイソンはそう言いながら眼鏡を指で上げる仕草をした。

「ええ~、マジで~、せっかく盛り上がってたとこやのに~」

 ミユは残念がっていた。そしてポニーテールに結んでいた髪をほどきベースボール・キャップを頭から外した。茶色の髪が照明灯に照らされて金色に輝く。僕はペットボトルのコーラで喉を潤す。

「みんなにお知らせがあるんだけど。えっと今月末にMCバトル『バトル・コロシアム第11章』が開催される事はみんな知っているよね?」とコダマさんが言った。

 「バトル・コロシアム」は大阪屈指のMCたちが心斎橋のクラブハウスに集結するビッグイベントだ。「バトル・コロシアム」のホームページを検索して告知を見ていたので、僕もなんとなく気になっていた。

「今回ね、ここに集まった木霊サイファーのみんなで参加しよう、と思う」

 コダマさんがそう言い切ると周囲からウオ~、という声が上がった。ついにMCバトルの舞台に立てる。MCとしてデビューするんだ。そしてあのSHURE製SM58のマイクで歌うんだ。「ゴッパチ」のマイクで歌えるのだ。そう考えただけで、胸に熱いものがこみ上げてきた。

「カグラ、鬼流星も出場するで」とハマやんが僕の耳元で囁いた。

「あの、鬼流星も出るんですか!」

「そうや、俺らであいつの首を狩ってやろうや!」

「ねぇ、ハマやん、僕が鬼流星を倒すためには何が必要なんですか? 今の僕には何が足りないのでしょうか?」

「そうやな、バイブスかな。バイブスが足りへんのやと思う。情熱がまだ足りへんねや。お前のライミング・スキルが光っているんは確かや。そしてお前の高速FLOWは誰も真似できへん、お前の武器や。そのスタイルは絶対曲げたらあかん。自分のスタイルを貫き通せ。そして、一番大事なんは、お前の生き様をビート上で表現する事や。裸のままの言葉でお前の生き様を証明するんや。それがバイブスや。それがヒップホップや。ヒップホップはコンプレックスから始める音楽や。そして底辺から這い上がっていくのがヒップホップや。だからお前のヒップホップを証明したったらええんや。そしたらどんな相手にも負けへん」

「ありがとうございます、ハマやん。僕のヒップホップを証明したいと思います。一緒に頑張りましょう!」

 ハマやんの言葉が心に染みていった。コンクリートに降り注ぐ雨水のように心の奥底にじわじわと染み込んでいく。ミユは一度ほどいた髪をまたポニーテールに結び直す。それから迷彩柄のヤンキースの帽子を被る。そしてミユが僕に近付いてくる。

「なあ、カグラのラップ上手いなぁ… 凄いカッコいいと思うよ、あたしは。あんなマシンガンみたいに早口で言葉出されひんし」

「ありがとう、ミユちゃんに褒めてもらうと嬉しいな」

「あたしもカグラのラップをずっと聴いていたいわ、あたしはカグラを応援してるよ、頑張ろうな」

「ありがとう、ミユちゃん」

 ミユはじーっと僕の目を見つめている。綺麗な目をしている。生まれたての仔猫のような瞳だ。そんな目で見つめられると戸惑ってしまう。ミユの髪からふわりといい匂いが漂ってくる。ごくりと唾を飲み込む。身動きが取れなくなってしまう。呼吸が止まってしまうじゃないか。ミユに気付かれないようにさりげなく、視線を逸らしながらペットボトルのコーラを飲み干した。ふぅ。

 コダマさんの声が響き渡った。

「よ~し、雨も止んだみたいだし、そろそろサイファーを再開しようかな。大会に向けて練習するぞ! みんなで頑張ろう!」

 湿気だけを残し雨はすっかりと止んだ。コダマさんがステレオのスイッチをオンにしてサイファーが再開される。歩道橋を歩く人々も疎らになった。すっかりと夜も更けていた。首を洗って待っていろ、鬼流星。僕がお前の首を狩ってやる。照明灯の下、光に群がる蝶のように身を寄せて僕たちは歌い続けたのだ。






 洗濯した着替えのパジャマと下着類、タオルを病院の備え付けのカゴに入れた。窓の外は大雨だ。激しい雨が窓に当たりバチャバチャという音が病室内に響く。梅雨の季節らしい豪雨だ。いつか銃弾のように窓を突き破るのではないかと思うくらい、それは激しく窓を叩きつけた。

「凄い雨… カグラ、今日は来ないと思ってたわ… こんな雨の中… ここまで来るの大変だったんじゃないの?」

「そう、傘が破れたんだ。100均で買った安もんだから仕方ないけれどね」

「いつもありがとうね」

「うん」

 お母さんは静かな笑みを浮かべる。そんな顔を見ると心が癒される。雨音が室内に響く。雨は一向に止む気配を見せない。いっそう激しさを増す。

「ねぇ、お母さん」

「なぁに?」

「あのね、僕ね、今月末にMCバトルの大会に出場するんだよ。もうエントリーしたんだ。僕もバトルMCとしてデビューする事になったんだよ」

「そう。凄いじゃない、カグラが努力したから夢が叶ったのよ…」

「ううん、まだまだ夢の途中だよ、僕は『MCバトル全日本』で優勝するのが夢だから。そして有名なラッパーになりたいんだ。だから、それまではまだまだ夢の途中だよ」

「そうよね、夢は追い続けるものよ… でもね、最初の一歩を踏み出すのは、とても勇気のいる事よ…」

「うん、そうだね。でもね、僕には今は大切な仲間がいるんだよ、仲間のためにも僕は夢を追い続けなければいけないんだよ」

「仲間… そうね、友達は大事にしないといけないね…」

「うん、今の僕だったらわかる、仲間の大切さが」

「そう」

 外は豪雨に見舞われている。雨がガラスを叩きつける音が鼓膜を振動させる。お母さんは嬉しそうにはにかみ、僕の手を握りしめた。

「カグラ…」

「なに? お母さん?」

「カグラはお母さんの唯一の誇りよ… 頑張ってきなさいね」

「ありがとう、お母さん。僕、絶対に優勝するよ! お母さんに良い報告ができるように全力で戦うよ!」


 病院を出るとボロボロのビニール傘を差して駅まで走る事にした。ゲリラ豪雨だ。激しい雨が傘の表面を叩きつけて、傘の形を変えていく。まさに弾丸のような雨だ。まったく傘が使い物にならない。くそっ、役立たずなヤツめ!

 近くに見える高層マンションの向こう側で稲光が走り、まるで世界の終わりを暗示するようなゴロゴロという不吉な雷鳴が轟いた。ああ、恐ろしい雷だ。雷が怖いよ。雷が一番嫌いなんだ。早く駅に着かないかな、駅ってこんなに遠かったかな? いつも通りの道なのに、とても長い距離に感じた。分厚い雲で覆われた空を見上げると、そのうち空がまるごと落ちてくるのではないかと思えた。空は巨大な靴底のように見えた。そんな空に踏み潰されないように、僕は急いで駅まで走っていった。ようやく駅に辿り着いた時には、ドブネズミのようにずぶ濡れになっていたのだ。

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