第4章 CANCER

 次の日の昼間、お母さんの病院へ見舞いに行った。窓際のチューリップは花咲いていた。窓から見える桜の花びらがひらひらと舞い散る。ちょっと前までは誇らしげに咲いていたのに。桜が咲く期間は短い。まるで人生の儚さを象徴するようだ。風に吹かれて流されていく桜の花びらを、僕はぼんやりと眺めていた。サイドテーブルに置かれたTVは点いていたが、お母さんは画面の方を見ずに、ずっと天井の一点を見つめていた。

「ねぇ、お母さん」

「なぁに?」

「あのさ、僕ね、昨日『木霊サイファー』に初めて参加したんだよ」

「サイファー? サイファーってなぁに?」

「うん、えっとね、サイファーっていうのはね、みんなで輪になってラップをする遊びなんだよ。う~ん、なんて言ったらいいのかな? まあ、ストリート・ライブみたいなものかなぁ」

「そう? 良かったね。カグラは最近ラップの練習いっぱいしてたもんね、楽しかった?」

「うん、僕ね、あんなにたくさんの人前で歌った経験なんてなかったから、うん、すっごい楽しかったよ。それにね、僕にも新しい仲間がいっぱいできたんだよ」

「それはいい事よね、友達はいっぱいいた方が楽しいもんね」

「うん」

 この前言ってたお母さんの言葉が脳裏に蘇った。一度っきりの人生でしょう… あなたの思うように生きなさい…。その言葉が心に染み渡っている。凝り固まっていた僕の心を雪解けのようにほぐしてくれる。

「僕ね、これから毎週『木霊サイファー』に参加しようかな、って思ってるんだよ。毎週土曜日の夜にやってるんだって、そう言ってたよ」

「そう、良かったんじゃないの? 夢中になれるものができて…」

「そうだね、僕ね、こんなに真剣に何かに取り組んだ事なんて今までなんにもなかったから。それに仲間もいっぱいできたしね。それが嬉しくって… なんかわからないけれど、もしかしたらお母さんのお陰かなぁ、って思ってね。あの時ね、お母さんにエミネムのCDを借りてなかったら、こんな風にラップにハマる事もなかっただろうし…。なんかね、180度、人生観が変わったみたいだよ」

「そう… 今、生きていて楽しい?」

「うん、楽しいよ! 生きている実感が湧いてきた。僕がこんな気持ちになったのは初めてだよ」

 何をやってもパッとしなかった今までのクソみたいな人生を見返してやりたい。僕の事を嘲笑していた連中を見返したい。ここから人生を逆転したい。もう後悔するような生き方はしたくない。誰かが作ったレールの上を辿るような生き方はしたくない。ベルトコンベアーに流されてどこかに仕分けされ、ただ運ばれていくような生き方は嫌だ。

 周りに流されたくない。誰にも邪魔されたくない。自分で道を切り拓くんだ。自分の信じる道を突き進んでいくのだ。コンクリートの裂け目から顔を出す雑草のように生きていく。今を、この瞬間を、この時代を、力強く生きていく。

 またいつものように備え付けのカゴから汚れ物の入った洗濯ネットを回収し、リュックサックの中に仕舞った。そしてリュックサックを背負い立ち上がった。

「お母さん、今日はもう帰るね」

「うん、ありがとう。ねぇカグラ、今度、私にもラップ聴かせてくれないかなぁ?」

「わかった。いい歌詞が思いついたらお母さんのために歌ってあげるからね」

 お母さんは静かに微笑みながら僕を見送ってくれた。





 帰り際、病院の廊下ですれ違ったスギヤマ医師に呼び止められた。

「カグラ君だね。ちょっと来てくれるかな?」

「はい?」

 スギヤマ医師は僕を診察室に招き入れた。白髪混じりのスギヤマ医師がデスクの前の椅子に座る。沈黙した診察室。デスクの上に無造作に置かれたノートパソコン。万年筆。本棚に並べ立てかけられたカルテのファイル。そしてその横にはシャウカステンという名の発光ボード。

 診察室の照明が薄暗かったせいか、空気まで重く澱んでいるように感じる。スギヤマ医師の表情も暗かった。スギヤマ医師から椅子に座るように言われた。言われるがまま診察椅子に腰かけた。スギヤマ医師はカルテを険しい表情で見つめ眉間に皺を寄せている。シャウカステンに2枚のレントゲン写真が貼られた。白い蛍光に照らされモノクロームの写真がくっきりと浮かび上がる。沈黙を破るようにスギヤマ医師がゆっくりと唇を動かした。

「えっと、君のお母さん、ケイコさんの現在の病状を説明しようと思ってね。こっちが以前の状態、えっと肝臓ガンなんだけどね。この白くなっている部分がガン細胞。それから今度はこっちの写真を見てごらん。肺の部分にもこの白い帯状のものが伸びていってるだろう、肺にもガンが転移していっている証拠だよ。もしかしたら胃にも転移しているかも知れない。精密検査をしてみないとわからないけどね」

 2枚の写真を見比べながら愕然とした。何かが僕の両肩に重く圧し掛かったように感じた。頭の上から大きな石を乗せ、蓋をされたような気分だ。漬物にされたような気分だった。

「先生… お母さんの状態は悪化している、という事ですか?」

「そうだね。あまり良い状態では無い」

 ずっと沈んでいた。海底深く眠るウィスキーボトルのように。このまま浮かび上がる事はできないのではないかと思うくらい。フッと息を吹きかければ消えてしまうような声で僕はぼそぼそと尋ねた。

「先生… お母さんはもう長く生きられない、って事ですか…」

 スギヤマ医師は唇を指で軽く擦る仕草を見せながら、深刻に考え込んでいる様子だった。

「そうだなぁ… このままガンが進行すれば… 来年の桜を見る事はできないかも知れないなぁ…」

 余命1年。あまりにも残酷な宣告だった。受け入れたくない残酷な現実だった。それでもその現実を受容する以外、僕には選択肢など与えられていなかった。

「この事、お母さんは知ってるんですか?」

 するとスギヤマ医師は強い口調でこう言った。

「ケイコさんにはハッキリと伝えてはいないよ。君はひとりっ子だから、ケイコさんの親族は君しかいない。だから、一番最初に君に伝えた。これから本格的に抗ガン剤を投薬し、ガンの進行を抑える治療に入っていく。ガン治療の医学も進んで、いまや『ガンは治る病気』とも言われている。これから快方に向かう可能性だって十分に考えられる。君のお母さんは今、ガンと戦っているんだ。だから、君も諦めちゃいけない。私はケイコさんにはこの事実を伝えないでおく。君の口からお母さんに言うか言わないかは、自分でよく考えてみるといい。自分のお母さんの事だ。じっくりと考えなさい」





 帰宅すると、いつものようにノートに歌詞を書いてラップを口ずさんだ。だけどノートに歌詞を書こうとするとボールペンを持つ手が震えて、上手く字が書けない。スギヤマ医師の言葉が蘇る。頭の中で言霊が小さなヘリコプターのようにぐるぐると旋回している。プロペラの音が頭の中で響く。ああ、うるさい、ああ耳障りだ。全然、集中できない。歌詞を書いたページを破り、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り投げた。

 そして、スギヤマ医師の言葉をもう一度思い出してみた。お母さんはガンと戦っている。医師を信じるしかない。でもお母さんの余命は1年。今度、病院に行った時に僕はどんな顔をすればいいのだろうか。ああ、イライラする。もう、どうしていいのかわからなかった。

 今日の話をお母さんに伝えるべきだろうか? それとも伝えない方がいいのだろうか? 葛藤していた。

 諦めてノートとボールペンを置いた。今日はもうラップの練習はやめておこう。そんな気分じゃない。何もかも疲れた。激しい睡魔に襲われた。そして学習机に突っ伏すようにそのまま眠ってしまったのだ。

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