第2章 MORNING GLORY
「へい、らっしゃい!」
威勢のいい声が店内に響き渡る。人気ラーメン店「なにわラーメン主流軒」で僕はバイトをしている。お母さんが半年ほど前に入院してからは身の回りの事を全部やらなくてはいけなくなり、週に3日くらいしかシフトに入れないようになってしまった。それでも、ひとり暮らしをしている僕を心配してくれて、オオヤギ店長はいつも「まかない飯」を用意してくれる。
特にお気に入りは卵かけチャーシュー丼。それに刻み海苔とネギを大量に乗せた特製のまかない飯。健康にも気遣ってくれているのか、千切りキャベツやトマトやコーンやらが大盛りで入ったサラダを、セットで毎回付けてくれる。それが有り難くて高校に入学して間もない頃から、ずっとこの店でバイトを続けているのだ。僕は皿を洗いながら、横で麺の茹で上がりを待っている店長と話す。
「春休みに入ったら、僕のシフト、昼も夜もフルで入れてくださいね」
「そうか、そりゃ嬉しいなぁ。フルで入ってくれるとこっちも助かるなぁ。そっか、学生はもうすぐ春休みに入るねんな。カグラ君も、もうすぐ3年生になるんかぁ。早いもんやなぁ…」
店長はまるで父親みたいな懇ろな眼差しで、僕の目を見つめながらニッコリと笑った。皿を洗い終わり、蛇口をひねって水道の水を止めた。
「あのぉ、店長に聞きたいんですけれど…」
「ん? どうしたんや?」
「いや、店長だったらこの辺りの事情に詳しいかな、って思いまして…」
両手をタオルでしっかりと拭きながら、店長の横顔を見つめる。店長の視線は麺が茹でられている寸胴鍋に向けられていた。
「僕、いつもは横断歩道を渡って出勤しているんですけどね、この前、そうですね、1ヵ月くらい前になりますかね。あ、ほら、すっごい雪が降った日がありましたよね、そうです、その次の日です。確か土曜日だったと思います。たまたま駅前の歩道橋を渡ってからお店に来たんですよ」
店長は、ふんふん、と言いながら話を聞いてくれた。まだ視線は麺が茹でられている寸胴鍋に向けられたままだ。その眼差しは獲物を狙う荒鷲のように真剣だった。
「そうしたらですね、歩道橋の上でラップをしている集団に出会ったんですよ」
すると店長は僕の方をちらっと振り向いた。
「ああ、駅前の歩道橋でやっとるサイファーのこっちゃろ? このへんじゃ有名やな」
「ええっ!? 店長知ってんすか!?」
「そりゃ、知っとるわい、もう何年もこの商店街で店を構えてるんやから。あいつら、よく見かけるよ、よう頑張っとんな、って。いっつも思うわ」
驚きを隠せずに、すがりつくように店長に歩み寄る。あまりの食い付きっぷりだったせいか、店長もちょっぴりたじろぎながら後ろに下がってしまった。
「今日、お店が終わったらゆっくり話してやるわ、な」と店長が僕の耳元で囁くように言った。
その日、家に帰るとすぐさまデスクトップ・パソコンの電源を入れて、バイト帰りに店長から教えてもらったサイトを検索した。それからYOU TUBEで「MCバトル」の動画を検索してモニター画面を食い入るように見つめた。無我夢中で画面を見続けた。いろいろ調べていくうちに、いつの間にか僕はフリースタイル・ラップの魅力にのめり込んでいたのだ。
動画で映し出されたMCバトルは1対1で戦うラップとラップの格闘技みたいだった。DJが回すビートの上でリズムに乗りながら、ステージ上でラッパーたちが繰り広げる日本語によるラップのバトル。リズミカルなテンポをキープしながら展開される日本語ラップによる言葉と言葉の応酬。それはさながら、言葉による喧嘩や殴り合いのようだった。
時には過激な言葉が飛び交う事もある。でもそんな血生臭い暴力的な言葉の駁論でも、ひとつひとつの言葉を拾ってじっくり聴いてみると、MCたちが実に巧みな日本語を操っている事がわかる。台本も仕込みもない裸のままの言葉の羅列。日本語が誇るボキャブラリーの豊富さ、絶妙な言い回しに、完全に圧倒されてしまった。僕たちが何気なく、そして当たり前のように普段使っている最も身近な日本語。その日本語の概念や先入観が頭の中で完全に崩れ落ちた。爆破解体する高層ビルのように、頭の中でガシャンガシャンという荒々しい音を立てながら、土台から一瞬で崩壊していくようだった。完全に叩きのめされたのだ。
深夜遅くまでパソコンの画面を見続けた。様々なサイトを検索してヒップホップの歴史を必死に吸収していく。食い入るように睨みつけたパソコンのモニター画面は、ぽっかりと大きく口を開けた深海魚のように見えた。本当に僕はモニター画面の中にまるごと飲み込まれてしまうんじゃないかと思った。
ヒップホップは1970年代に黒人文化のコミュニティから発祥した。お母さんから借りていたエミネムのCDジャケットを手に取る。エミネムは白人なのに、黒人文化発祥のヒップホップの世界に飛び込んでいったのだ。
最初の頃は「白人がラップだなんて…」とみんなから鼻で笑われてしまう。でも実力ひとつでヒップホップの階段を上っていき、一躍スターダムにのし上がり、その名を世界中で轟かせた。白人でもヒップホップができる、という事をエミネムは、その自らの実力によって証明したのだ。嘲笑していた連中らを見返すように。だとしたら、日本人の僕にもできるのかな? なんの取り柄もない僕でも、みんなを見返す事が可能なのだろうか? 可能性がゼロではない限り、やってみる価値はある。何事においても、はじめの一歩を踏み出す勇気が必要だろう。
勉強していくうちに、いろいろな知識を吸収していった。ヒップホップには四大要素がある。ラップ、DJプレイ、ブレイクダンス、グラフィティ(ストリート・アート)、この4つによってヒップホップが構成されている。ラップはあくまでもヒップホップの一部だ。たとえ一部でもいい。僕はヒップホップの一部になりたい。そう思えるようになっていた。
フリースタイル・ラップとはあらかじめ用意された歌詞など一切なく、即興でおこなわれるラップの事。そして、そのフリースタイル・ラップで対戦相手とスキルを競い合うのが「MCバトル」という事になる。
MCバトルにも様々な要素が含まれている事に僕は気付いた。
「DIS(ディス)」
「DIS RESPECT」の略で「批判、軽蔑、侮辱」を意味する。このDISを用いて文字通り対戦相手をディスって攻撃していくのだ。DISの言葉には「Wack(ワック:下手クソ)」などがある。ワックMCと言えば「下手くそMC」という意味になる。似たような言葉で「サッカー(下手くそ)」や「ヘイター(嫉妬する人)」などのヒップホップ・スラングもある。また場合によっては対戦相手に「RESPECT(尊敬・敬意)」の言葉を贈る事もある。そういったバトルの駆け引きが面白い。
「RHYME(ライム)」
「押韻」を意味している。的確な韻を踏む事によって、自分自身が生み出す即興のラップにアクセントとスパイスを加え、グルーヴ感を生み出し、より音楽としての深みが増す。時にはテクニカルな韻を踏んで相手を圧倒する事も可能だ。この韻を踏むテクニックの事をライミング・スキルと言う。
「FLOW(フロウ)」
「歌い回し」のような意味があり、ラップと言えども、それはやはり純粋な音楽。FLOWを用いて、リズムに緩急を付けたり、時にはメロディのように歌い上げ、グルーヴ感を生み出すのだ。
「ANSWER(アンサー)」
「返答」を意味する。相手のラップの攻撃や問いかけに対して、どれだけ的確に返せるか、というスキルが求められる。アンサーによって相手の攻撃を巧みにかわす、もしくは強烈なアンサーで相手にカウンター・パンチを放つ事ができるのだ。
「パンチライン」
試合の勝敗を決定付けるような、心に刻み込まれるメッセージ性の高い攻撃。重みのある言葉でパンチラインを打って、相手の腰を折るのが狙いとなる。
他にも「バイブス(熱量、情熱)」といった言葉もよく使われる。ラップへの情熱を憤りも交えて相手に叩きつけるのだ。
「リズムキープ」
DJが回すビートのリズムを即座に耳でキャッチして、その音に合わせるようにリズミカルに歌い上げ、音楽としての完成度を高めていく事が重要となる。リズムキープやフロウがしっかりしていないと、それはラップでも音楽でもなく「ただ喋っているだけ」になってしまうからだ。
それらの多岐に渡る要素を組み合わせてフリースタイル・ラップ、そしてMCバトルが成立する。それから僕は毎年年末に開催される「MCバトル全日本」という名称のホームページに目が留まった。
日本全国の各地で開催される予選を勝ち抜いた「地区代表」の32人が、毎年の年末、東京ドームに集結してMCバトルのトーナメントで競い合う。その決勝大会でトーナメントの頂点に立った者が、その年の最強のバトルMCとして優勝賞金100万円と最高のプロップスを掴み取れる。まさに日本最高峰のMCバトルの大会だ。
もちろん僕が住む大阪にも「大阪予選」がある。きっとサイファーのみんなも、この大会を目標にしながら、あんな風に歩道橋の上で練習しているのだろう。
よし、練習してみよう。思いついた事を少しラップ調に口ずさんでみた。しかし、すぐに言葉が詰まってしまう。実際にやってみると難しい。歌いながら、次の言葉を考えていくような感覚だった。相当な頭の回転を要する。だけど、これなら僕にだってできるようになるんじゃないか、って思えた。もっと練習を重ねていけばできるんじゃないだろうか。なんとなくだが、練習嫌いな僕にでもやれそうな気がする。だって普段使っている日本語を自分の思うままに操ればいいのだから。
この前出会った歩道橋の集団の事を思い浮かべてみた。あの時見た、川のせせらぎのように心地よく流れるフリースタイル・ラップができるようになるまでには、彼らも相当な努力をしたのだろうな。ああやって歩道橋の上で毎週土曜日の夜に練習した努力の賜物なのだろう、きっと。
もう一度、あの歩道橋に行きたいと思うようになっていた。そしてもう一度、コダマさんと話したいという想いが強まっていった。今日が僕にとっての「はじめの一歩」だったのだ。
春休みに入り毎日のようにバイトで働いた。自宅に帰れば毎日のようにノートに歌詞を綴ってみては口ずさみ、ラップの練習を繰り返した。
「お前のパンチライン、何も感じない、それはお前の勘違い、俺はランチタイムでも段違いのスキル見せつける団地内からの刺客ファンキー・ガイ」
そしてレコード・ショップに行き、ヒップホップのビートが入ったCDを購入した。音楽をかけながら、そのビートのリズムに合わせるようにラップを口ずさむ、というトレーニングをおこなうのが毎日の日課になっていた。
中学生の頃、サッカー部で練習嫌いだった僕には信じられない事だ。それぐらいフリースタイル・ラップにハマっていった。ぬかるんだ沼に足を突っ込んだみたいに、ズブズブとのめり込んでいく。バイト先でも病院にお母さんを見舞いに行く時でも、いつもポケットには歌詞を書いたノートを忍ばせていた。そして思いついたRHYMEがあればすぐにノートに書き記した。
「今夜の晩御飯はカップ・ヌードル、今の僕はもはやラップ中毒」
そうやって毎日練習するうちに、自分でもめきめきとラップのスキルが上達していっている事に気付いた。土曜日の夜になるたびに、わざと歩道橋を通り、輪になっているサイファーを見学した。毎回見かけるたびにメンバーが入れ替わったりしていたが、いつもそこにはコダマさんの姿があった。みんな楽しそうにラップを歌っていた。
もうちょっと僕が上達したら、あの輪の中に混じりたいな、と思えるようにもなった。次第に自分の心の中で「いつか、あのサイファーに参加したい」という想いが芽生えていくのがわかった。それを励みに毎日のように練習を積み重ねていったのだ。
窓際に置かれたガラス製の花瓶に赤いチューリップが刺さっている。蕾のままのチューリップも新しい季節の到来を待ち焦がれているのだろう。お母さんはテレビの音楽番組を見ていた。サイドテーブルに置かれていた時計の針は夜の8時を指している。音楽番組では人気のラッパーが出演している。新曲を披露していた。
「お母さん、これ返すよ」
そう言いながらずっと借りっぱなしだったエミネムのCDをサイドテーブルの上にポンッと置いた。
「お母さん、僕ね、あれからエミネムのCDを全作品、買い揃えたんだ」
「へぇ、そうなの? そんなに気に入ってくれたんだ?」
「それからね、レンタルショップでエミネムの主演映画『8Mile』も借りて何回も観たよ。白人ラッパーがラップ・バトルに出場して黒人ラッパーを打ち負かす、って内容の映画だったんだ。エミネムは黒人文化から発祥したヒップホップの世界に飛び込んで白人でもラップはできる、って事を証明したんだね」
TV画面ではラッパーが熱唱している。カッコいいな、と思える。僕の視線はTV画面に釘付けになっていた。
「お母さん、僕ね、ラップを始めたんだよ」
「へぇ、どうしたの? 本当に急ね」
そう言いながらお母さんは蛍光灯の光を反射しながら輝く瞳で、僕を見つめる。僕は照れながら少し視線を逸らす。そして再びお母さんの方に振り向いて、その目をじっと見つめた。
「なあ、お母さん、僕にもできるかな?」
「何が?」
「日本人の僕でもラップで世界を変える事はできるかな? 僕さ、もう昔の僕とは違う。僕は生まれ変わったんだ。僕にも夢ができたんだよ」
「夢?」
お母さんは不思議そうな顔で僕を見つめる。その目はやはり輝いたままだ。僕は拳をギュッと力強く握りしめていた。そして振り絞ってこう言った。
「僕がヒップホップで日本語の常識をぶち壊すんだよ! 今まで僕の事を馬鹿にしてきた、みんなを見返してやるんだ! そしてエミネムみたいにBIGになって、お母さんの病気を治したいんだ! それが僕の夢なんだ!」
窓際に視線をやった。この赤いチューリップが花開く頃には、僕は歩道橋の上で高らかにラップを歌っているだろう。そんな姿を思い描いた。お母さんは柔和な笑顔を浮かべている。そして静かに口を開いた。
「努力すれば、夢はきっと叶うはずよ」
「うん、ありがとう、お母さん、僕、努力するよ」
お母さんは僕の手を両手で固く握りしめた。そして目をじっと見つめながら力強い口調でこんな言葉をかけてくれた。
「一度っきりの人生でしょう。あなたの思うように生きなさい」
お母さんは満面の笑みを浮かべていた。それは春の陽だまりのように温かな笑顔だった。
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