歩道橋の音楽

川上 神楽

第1章 WHO KNEW

何かを始めるのは怖い事なんかじゃない

本当に怖いのは何も始めない事だ

            

マイケル・ジョーダン 





 凍てつくような寒さがダウンジャケットを突き抜けて体に染み込む。すっかりと暗くなった夜の漆黒を繁華街の照明灯やネオン看板が煌びやかに彩っている。昨日は大阪でも珍しく雪が降ったせいで、スクランブル交差点を往来する乗用車のボンネット、貨物トラックやワゴン車の屋根、それから道路脇の側溝にも雪が少し積もっていた。昨日の雪はやっぱり夢じゃなかったんだな。まざまざと現実の名残をとどめている。

 大阪で雪が積もるなんて一体、何年振りになるのだろう。雪解けで濡れたコンクリートの地面に足を滑らさないように、僕は慎重に歩道橋の階段を踏みしめた。

 白い息を吐きながら階段を上り切ると、すっかり日も沈み暗くなった歩道を照らす柔らかな灯りが、僕を優しく包み込むように迎えてくれる。歩道橋を歩くと、家路へと急ぐ会社員、買い物袋を両手に提げたおばちゃんたち、それから学生服を着た女子高生、様々な種類の通行人とすれ違った。

 歩道橋の上で留まる人々もいる。真っ赤なダウンコートを羽織り、募金箱を持ちながら笑顔を振りまいて通行人に呼びかける若い女性たちや、まだ白い雪が残った路面の上にビニールシートを敷いて、その上に芸能人の似顔絵を並べた中年男性の絵師。それからアコースティック・ギターを弾いているロン毛の若い男性ミュージシャンもいた。

 ギター・ケースの中には千円札が数枚と多くの小銭が投げ込まれていて、何人かの通行人が立ち止まり彼の演奏に耳を傾けている。演奏に聴き惚れて立ち止まった通行人たちは、彼が紡ぎ出すメロディに合わせ楽しそうに体を揺らしていた。

「あれはジョン・レノンの『イマジン』のコード進行とヴォーカル・パートを同時にギターだけで演奏してるんだろうな…」

 凄いなぁ、凄いテクニックだなぁ、僕にもあんな才能があったらいいのになぁ、と頭の中で思い巡らしながらも足早に歩道を歩いた。バイトの出勤時間が迫っている。


 歩道橋の端に差し掛かると奇妙な集団と遭遇した。お世辞にも僕と気が合いそうだなぁ、とは言えない風貌をした、ニット帽を被り首から金の鎖みたいなネックレスをぶら提げ、ダボダボのジーンズを腰で履いている厳つそうな強面の兄ちゃん。そうかと思えばキッチリと真ん中で分け目を整髪し、スーツを着た真面目そうな30代くらいに見えるサラリーマン男性。僕と同い年くらいの若い茶髪の女の子、眼鏡をかけて地味なパーカーを着ている青年、それから学生服を着た僕と同じ年頃の高校生の男の子もいる。

 多様なジャンルの人々が、円陣を組むように輪になって何かを語り合っているように見えた。周囲の通行人たちも何やらざわつき始める。遠目で見た時、僕は何かの事件や事故でもあって野次馬が集まっているのかな? と思いながら歩いていたのだが、真横を通り過ぎる時、いや、そうじゃないな、と確信した。ちょうど彼らの輪の中央にステレオ・スピーカーが置かれていて、そこから軽快なリズムの音楽が流れていたから。ズンズン、チャ、ズンズン、チャ、そんな軽快なリズム。

「なんだろう? 何が始まるんだろう? ダンス・パフォーマンスでも始まるのかな?」

 そんな事を僕が考えているのも束の間、地味な黒色のパーカーを着た青年がスピーカーから流れる音楽のリズムに合わせて歌い始めた。

 ズンズン、チャ、ズンズン、チャ、ズンズン、チャ、ズンズン、チャ。

「HEY YO一週間振りだな、じゃ俺から遠慮なくいかせてもらうぜ、みんな調子はどうよ? ワッサー、今日もフリースタイル始めるぜ、みんなOK? 俺ら歩道橋の上で組んだ絆は、みてぇに韻もかてぇだろう? 今日も完璧なで俺が掴み取る、俺はのような軽い、今日も一日GOOD LUCK!」

 すると今度はその横でリズムに乗りながら体を揺らしていた金のネックレスを付けた厳つい強面の兄ちゃんが身振り手振りを交えながら歌う。

「YO、YO、確かにダイソン、お前のラップのはいい感じだなぁ、でも俺のスキルは、ビートに乗せるRHYMEは踏み込んだ俺の勢いは誰にも止められないぜ、俺は、とは違いに届けるするようなラップは、ああ、もうなんも思いつかんからYEAH、DON'T STOP 、コダマさんに回すぜ、ブラッ」

 その厳つい兄ちゃんの横にいたのが、スーツを着たサラリーマン。この人、コダマさん、って名前なんだな。僕はくすりと笑った。蛇口をひねったかのような勢いで、流れるようにコダマさんは歌い始める。

「お待ちかねコダマが、いや今日はみんな全然ダメじゃない、だけど俺は自分のスタイルに、つか何よ踏み込んだのに、もう? 踏むどころか、としてるな! してるな! YEAHお前らに足りない、吸い込んじまったんか? もう1回やり直してこい!」

 いやいやマイクなんか手に持ってないし! と関西人特有のツッコミを入れそうになったが、それは心の中でグッと堪えた。そうか、彼らは韻を踏みながら歌っているんだな。自然と僕の表情は柔和に緩んでいった。気が付けば足をぴたっと止めていて、すっかり彼らのパフォーマンスに魅了されてしまっていたのだ。なんだろう、この感覚は? なんか初めて雪を見た南国の人になったような不思議な感覚。

 周りを見渡すとギャラリーの数も徐々に増えていき、集団を囲うように人だかりができあがっている。スマートフォンで写真や動画を撮影する人々もいる。輪になってラップをしていたのは女の子を含めて6人だった。

 6人全員が歌い終わったところで、コダマさんが

「ストップ! ストップ! いったん休憩!」と言ってステレオのスイッチをオフにし音楽を止めた。どうやらこの会社帰りのサラリーマンみたいな風貌のコダマさんがこの集団のリーダーで主催者のようだ。輪になってラップをしていたメンバーはそれぞれ持参したペットボトルのドリンクを飲んで喉を潤す。

 ドリンクを飲んでいたリーダー格のコダマさんと目が合ってしまった。思わず目を逸らす。でもコダマさんは構わずに僕の方へと近付いてきて、穏やかな口調で声をかけてくれた。

「はじめまして」

 動揺してしまった僕は

「あ、いや、こちらこそはじめまして… あ、僕、名前はカグラと申します…」と少し照れながら返答するだけで精一杯だった。そんな僕の素振りも関係なくコダマさんは気さくに話しかけてくれた。

「いや、君さ、カグラ君って言うんだっけ? さっきからずっと俺らの事を見てくれてたんだけどさ、ラップとか興味あるの?」

「え、いや… 僕、音楽に全然詳しくなくて…。あう、あ、でも凄い面白いライブ・パフォーマンスでした、ありがとうございます、なんか力が湧いてくるような…」

 あ、そうだ、投げ銭用の小銭はないかな、とジーパンのポケットをごそごそと探ってみた。その仕草を見たコダマさんは、ハハッと笑いながら続ける。

「心配しなくてもいいよ、お金なんて要らないから。それにね、これはライブ・パフォーマンスじゃないんだよ。これは『サイファー』と言ってね、音楽のビートに乗せてラップを通じて会話をする遊びなんだよ。まあ、遊び、って言うよりもフリースタイル・ラップの練習、って言った方がわかりやすいかな?」

 きょとんとしてコダマさんの顔をまじまじと見つめた。コダマさんは口元を穏やかに緩め微笑みをたたえている。僕は少し戸惑いながら

「あの~、フリースタイル・ラップ… ってなんですか?」と尋ねてみた。

 コダマさんの表情が急に険しくなり、神妙な面持ちで静かに口を開く。

「フリースタイル・ラップって言うのはね、即興で思いついた事をビート上で表現するラップなんだよ。でも、もちろん即興って言っても、ほら、さっきみたいにね、みんな韻を踏んでいただろう? そうやって歌いながらも要所、要所で韻を踏んだりするのが醍醐味なんだよ、もちろん音楽のリズムにきちんと乗る事も大事だよ。そうじゃないとただ喋っているだけになってしまうからね。これはあくまでも即興の音楽なんだ」

 即興の音楽? 驚きを隠せず

「ええっ? じゃあ、さっきのラップも即興で思いついた事を歌っていたんですか?」と言いながら食いつくようにコダマさんに一歩近づいた。コダマさんは僕の勢いを制止するように、逆に冷静さを保ったままの表情で、こう話した。

「そうだよ、全部、即興だよ。あらかじめ歌詞なんて用意されてないんだよ。なんかなくても強烈なかますように、を提示すためにこのに残す。ほら、こんな風にね。明日になったら消えてなくなってしまう瞬間の音楽。明日になったら消えてしまうんだ。誰かのために歌っているわけでもない。でもね、こうやってサイファーで練習した成果はきちんと俺らの中で、蓄積されていって『MCバトル』っていうフリースタイル・ラップの大会でも活かされるんだよ。『練習は裏切らない』ってよく言うだろ?」

 へぇ、フリースタイル・ラップにも大会があるんだ、MCバトルってなんだろう? いろんなキーワードが頭の中で安物のイヤフォンのように複雑に絡まり合い、こんがらがってほどけなくなってしまった。

「カグラ君も良かったら、サイファーに参加してみれば? きっと面白いと思うよ」

 コダマさんは混乱する僕を優しく誘ってくれた。だが、バイトの出勤時間が近づいている。

「あのぉ、すみません、今日はバイト先に向かっている途中でして… ま、また考えます…」と言い残し、僕は足早にその場から逃げるように去ってしまった。

 そして歩道橋の端まで歩くと、駆け足で階段を下りていった。でも雪解けで路面が滑りやすくなっていた事をすっかり忘れていた僕は、階段の途中で足を滑らせ大きくバランスを崩し、お尻から派手に転倒してしまった。

 いたっ…。僕はじんじんと疼く腰を手で擦りながら、ゆっくりと立ち上がる。ジーパンに染み付いた泥を手で払いながら、ふと振り向くと、そこにコダマさんが立っていた。

「カグラ君、大丈夫か?」

「あ、い、いえ、大丈夫です。ちょっと急いでいたもんで… すみません」

 それだけ言い残すと再び一気に階段を駆け下りた。歩道橋の上の方から、カグラく~ん!! と叫ぶコダマさんの大きな声が聴こえてくる。

「毎週土曜日にやっているから! また来いよ!」

 振り返った僕は、歩道橋を見上げ、ありがとうございます! と叫び、大きく手を振った。その手にも泥がいっぱい付いていて、手のひらにうっすらと血が滲んでいた。





 カーテンを開けると冠雪をまとった富士のような青空だった。窓を見下ろすとまだ厚手のコートやジャンパーを羽織った人々が行き交う。今日もパラパラと雪が舞っている。窓を開けると、ひんやりとしたそよ風が舞い込みカーテンが大きく波打った。僕の体も透けていきそうなくらい透明感のある空気を胸いっぱいに吸い込む。無機質な窓によって四角く切り取られた青空を切り裂く霹靂のような桜の枝々。

 うわ、さぶっ、やっぱり外はまだ寒いな、と思いながら、ぴしゃりと窓を閉じた。窓の外に見える桜の枝々は、ちょうど窓ガラスに亀裂が入っているように見える。まるで誰かが窓ガラスを叩き割ったみたいに。冬に見る桜の枝々は痛々しいな。

 白い壁、白いカーテン、僕が着ている制服の白いブラウス、真っ白なベッド・シーツ、雪化粧の風景。この3階の病室から眺める景色が大好きだ。それに病室の空調機器の暖房は、寒い冬を通して常に24℃に温度設定されている。とても暖かくて僕にとって最高に居心地の良い場所なんだ。

「こんな明るい時間帯に来るなんて珍しいわね」とお母さんは呟いた。

「だって、今は期末テストの最中だから午前中に授業が終わるんだもん。ほら、お母さん、ヨーグルト買ってきたよ、いつもの明治のヤツ。冷蔵庫に入れておくからね」

 よく磨かれた常盤色のリノリウム床。窓の光を反射して部屋全体が明るく見える。お母さんは肝臓ガンを患い、もう半年近く経つ。学校帰りに、この病院に来るのも日々の日課のようになっている。ベッド横に設置されているサイドテーブルの上に置かれた小さなCDデッキから静かなメロディが流れていた。エミネムの「STAN」だ。僕も何度か耳にした事がある。

「ねえ、お母さん、またその曲聴いているの?」

 そう言いながら僕は、今朝洗濯したばかりの着替えのパジャマや下着やタオル類を病院の備え付けのカゴへ丁寧に畳んで入れ、汚れ物の入った洗濯ネットを回収し、忙しなく自分のリュックサックの中に仕舞った。

「そうね、なんかこのアルバム聴くとね、な~んか落ち着くのよね」

 お母さんはそう言って、窓の外の空をぼんやりと眺めていた。

「なあ、お母さん」

「何? カグラ?」

「あのさ、ヒップホップってカッコいいの?」

 お母さんは少し微笑みながら

「なんで急にそんな事を聞くの?」と小さな声で呟いた。

 サイドテーブルの上に無造作に置かれた「The Marshall Mathers LP 」と題されたエミネムのCDジャケットを僕は手に取った。そして歌詞カードのページを1枚、1枚ゆっくりとめくっていく。すべてのページがモノクロで印刷された歌詞カードだったのでわかりにくかったが、エミネムは金髪の白人ラッパーだ。おそらく、もう10年以上前に買ったCDアルバムで、母はいつもこのCDアルバムばかりを聴いていた。だから僕の耳に馴染みがある。でも、リリースされた当初はまだ僕も幼かったので、じっくりと聴いてみようと思った事が今まではなかったのだ。


 僕は音楽とは無縁の学校生活を送っていた。中学生の頃はサッカー部だった。でも補欠、つまりベンチウォーマー。何よりも練習嫌いで有名だった。朝起きるのが苦手だったせいで、朝練もしょっちゅうサボっているような少年だったのだ。筋トレもすぐに諦めたせいで、ガリガリに痩せ細っていた。また練習前のグラウンドを10周ランニングするトレーニングも、チームメイトと周回遅れになるくらい体力にも自信がなかった。忍耐力が足りなかったなぁ。今になったらそう思う。

 結局、中学生の3年間、監督から試合に出してもらえるような事は一度もなかった。試合のたびにベンチから声援を送りチームメイトが活躍する姿を羨望の眼差しで見つめていた。全部、自分のせいなんだけれどな。

 高校に入ってからは、勉強とバイトに励み部活には所属していない。そのさなか、お母さんの入院が重なってしまった。もちろん彼女なんているはずもなく、僕はサッパリとモテなかった。もうじきやって来る4月になると、高校3年生になる。僕にも何かひとつでも特技とか取り柄とかあればなぁ、と悔やむ。せめて彼女でもできれば楽しい高校生活が送れるのかなぁ、と漠然と考えたりもする。

 おもむろにお母さんがそっと呟く。

「ごめんね、いつも来てくれて… いつも学校帰りに来てくれて… ごめんね、カグラ」

「どうしたの? お母さんが謝る必要なんかないよ、お母さんが悪いわけじゃないし、そもそも病気のせいなんだし、そうだ全部、病気が悪いんだよ。あんまり気にしなくてもいいよ、あんまり僕の事を気にしていると体にも悪いし…」

 僕は照れくさくなって、お母さんから視線を逸らした。

「それに僕はお母さんに感謝しているんだ。僕がちっちゃい頃にお父さんと別れてから、ひとりっ子の僕を女手ひとつで育ててくれたもん。お母さんにいっぱい苦労をかけてきたと思う。だから今はその分… お母さんが今まで苦労してきた分を返しているだけなんだよ」

 お母さんは

「ありがとうね、ありがとうね、カグラ」と何度も繰り返した。

 その時、CDデッキから急にアップテンポな曲が流れた。エミネムの「WHO KNEW」という曲だ。

「ねぇ、お母さん、この曲カッコいいね」

「そうね」

 エミネムは一体何を歌っているのだろうか。英語で書かれている歌詞カードに再び目を通す。読んでみても僕には英語の意味がわからない。でも何か熱いメッセージが込められているように思えた。

「ねぇ、お母さん、これ、なんて言っているのかわかるの?」

「ん~、そうね…」と言いながらお母さんは目を瞑り、少し考え込んだ。お母さんは何かを考える時は、いつも静かに目を閉じるのだ。しばらくの沈黙が続いた。でもお母さんは次に目を開けた瞬間、静かにこう呟いた。

「これは黒人の音楽じゃない、それに白人の音楽でもない、これは高校生のための戦う音楽だ… こんな感じじゃないかな?」

 この前、あの歩道橋で出会った集団の事が脳裏によぎった。高校生のための戦う音楽。僕はCDデッキからCDを丁寧に取り出し、歌詞カードと共にプラスチック・ケースに収納した。そして、それをリュックサックに入れて僕は立ち上がった。

「あれ? カグラ? 急にどうしたの?」

「お母さん、ありがとう! エミネムのCDは借りていくよ! また明日も来るからね!」

 それだけを言い残し足早に病院を後にした。

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