終 御伽噺を翔ける魔女

 まず目に入ったのは白い天井だった。


「ユウキ!?」


 上から覗き込んだ母が目を見開いている。 

 頭がぼんやりする。だというのに、直前までとても大事なことをしていたような気がして、ひどく気が逸った。


「おかあ、さん?」


 そう呼びながら母の方に目線を向けた時、サイドテーブルに置いてある一冊の本が目に入った。


(……あれ? これ――なんか見たことが……)


 とたん、ユウキは突き上げる衝動に押されるように起き上がるとベッドを降りた。


「ユウキ、どこに行くの!?」


 本を引っ掴むと、裸足にも構わずに病室を飛び出す。

 体が思うように動かない。だけど、起き上がったとたん、頭は驚くほどにはっきりとしていた。

 夢の続きをそのまま歩いているようだというのに、これが夢ではないという確信がある。おかしな気分だった。


「どうしたのよ、ユウキ!? ちょっと、待って! 待ちなさい!」


 母が切羽詰った声で呼び止めるけれど、ユウキは構わずに廊下を駆けた。

 エレベーターにたどり着く。ボタンを押そうとしたけれど、回数表示はまだ一階。なかなかやってきそうにない。

 焦れたユウキは、とっさに下階行きのボタンを押すと、隣の扉を開ける。そして非常階段を足音を殺して駆け上がる。

 早く。早く、と誰かが急かしてしょうがない。早くしないと何もかも失ってしまうような気がしてしょうがない。

 二階ほど登ったところで、階段をバタバタと駆け下りる音が聞こえてきた。

 おそらくは母だろうが、どうやら狙い通りに下に向かったと思ってくれたらしい。

 ホッとしつつ、ユウキは非常階段の扉を音がしないようにとそっと開いた。

 捕まる前に成し遂げなければならないことがある。

 七階の廊下はやはり静まり返っていた。ユウキは息を整えながら、一つの部屋を目指す。

 真山というプレートの掲げたれた部屋の前につくと、ユウキは大きく息を吐いた。

 ぐっとお腹に力を入れると、部屋の引き戸を開ける。

 しんと静まり返った部屋に入る。部屋の真ん中には、以前と同じようにコードと管に戒められた青年が横たわっていた。

 ユウキはゆっくりと彼に近づいた。


「クリス?」


 横たわっているのは、やはり見知らぬ青年だった。


「……大知、さん」


 もしかしたら、目覚めたクリスがユウキを待っていてくれるのではないか――そんな期待が心のどこかにあったのだろう。

 ぴくりとも動かない青年の姿に、ユウキは泣きそうになる。

 顔をじっと見つめる。真山先生と似た端正な顔立ち。

 だけどどう見ても知らない人だった。クリスの面影などどこにもなかった。

 胸が切りつけられたかのように痛み、息ができないほどだった。


(わたし……もしかしたら、クリスを殺してしまったのかもしれない)


 ユウキは御伽噺奇譚の中で、ずっと本物のハッピーエンドについて考えていた。

 そしてそれは、クリスとともに現実に戻ることだと結論づけて、信じていた。

 だけど、クリスを物語の外へ連れだすことが彼の幸せである、というのは、ユウキの傲慢な勘違いかもしれない。

 本当は彼はあの世界に残りたかったかもしれない。そしてユウキを取り込んで、王子さまとお姫様として幸せになることを望んだかもしれない。

 そんな恐怖がじわじわと足元から登ってくる。

 だけど、ユウキは短く息を吐いて、その恐怖を振り切る。

 グリムの言葉を思い出す。

 クリスの言葉、それから行動を思い出す。

 グリムはクリスを餌だと言っていたけれど、『あいつが邪魔をする』とも言っていた。その『あいつ』というのは、おそらく、クリスのことなのだ。

 なぜなら、クリスは何度もユウキを現実に返そうとしてくれた。本に呑み込まれたいと望むユウキを拒み、ユウキの生きる世界はここじゃないと言ってくれた。

 そしてその良心の塊がグリムの中――大知さんの中にはあったのだ。

 だからこそ、クリスの生きる世界もまた、あの世界ではない。彼の生きるべき世界は、この現実なのだ。

 今度はユウキが彼を助ける番だった。

 グリムはクリスが自分だと言った。集合がなんとか言っていたけれど、知ったことではない。

 グリムの中にクリスがいるのならば――ならば、彼を、救い出せばいいのだ。きっと。


(だけど、どうすればいいの)


 どうやったら彼が目覚めるのかが、まるで思いつかないのだ。

 それに時間もない。母が看護師さんに連絡すれば、きっと真山先生が呼び出される。となれば見つかるのも時間の問題だった。

 抱きしめていた御伽噺奇譚をベッドの端に下ろす。

 それは、以前とは違って、閉じていた紐がちぎれてばらばらになったまま。

 後ろ側からめくっていくと、奥付には『著:賀上夕姫』『編集:真山大知』と並べて書かれていた。

 かえるの王様とサブタイトルが付けられた物語は、ユウキが飛び出した時点で終わっていて、未完のまま。

 冒頭に戻って目次を開くと、数々のタイトルだけが並んでいる。タイトルの横にはページ番号。白雪姫と人魚姫、それからかえるの王さまの隣にだけ番号が振ってある。

 他のタイトルを何気なく眺めたユウキは、一つのタイトルが目に止まった。


(……そうだ)


 頭の中にいくつかの童話が広がっていく。


(配役交代は、ありだよね? だって、読者を納得させればいいんだもの。あなたの白雪姫がありなら、これもきっとありだよ)


 ユウキは小さく深呼吸をすると、眠る青年の上に身をかがめた。

 もし失敗したらなんて考えなかった。失敗したっていいのだ。失敗を恐れて、可能性を捨てたくはなかった。

 物語という毒に冒され、長い眠りについた姫。

 起こすのが王子ならば、ユウキは完璧に演じてみせると思った。


「起きて。わたしの、眠り姫」


 唇が一瞬だけ触れる。

 この人を知らないはずなのに、なぜか懐かしさで胸がいっぱいになる。クリスにされたキスを思い出して、胸が締め付けられる。


「クリス、あなたにまた、会いたいよ」



 ユウキの涙がぽとりと彼の頬に落ちたときだった。



「……ん……? ここ、は」


 耳にそんな声が響き、ユウキは目を見開いた。

 青年が目を開けていた。


「え――、あれ? おれ……おれは……一体」


 混乱した様子で目を動かす。そして、ユウキのところで視線を留め、眩しいものを見るように目を細める。

 ユウキは声を出すこともできず、息さえもできず、じっと彼を見つめていた。


(……失っていなかった。失っていなかった!)


 目を開けた彼の瞳に、ユウキはたしかに見覚えがあったのだ。

 色は違う。形も違う。だけど。

 この真摯さを孕んだ、心に踏み込んでくるような眼差しだけは見間違えないと思った。

 ユウキが食い入る様に見つめていると、彼はじわじわと目を見開いていく。


「君は……」


 彼の目はユウキの中に何かを捜していた。


「おれは、君を、知っている。知らないはずなのに、知っている」


 ユウキの顔を見て、あえぐように息を吐いた。


「だけど、そんなこと――ありえない。だって――あれは、夢で――長い夢で」


 彼は目を大きく見開いたまま、くしゃり、と自らの髪の毛を握りしめる。


「……私、あなたの見ていた夢の中に、入ってたみたい」


 涙が止まらない。ユウキは確かめるように、彼の名を呼んだ。


「……クリス……? クリスって言って、わかる?」

「本当に、ユウキ……?」


 ユウキの名前を口にすること。それが彼がクリスであるという証拠だった。ユウキはたまらず泣き崩れる。

 すると、ふ、と意識が遠のいた。

 緊張の糸が切れたのだろうか。

 薄れていく意識の中、誰かに強く抱きしめられたような気がした。




 *



 気がつくと、ユウキは自分の病室にいた。どうやら、あのあと気を失ってしまっていたらしい。目覚めたばかりで走ったりしたため、体が限界を訴えたのだろう。


「え、あれからどれくらい眠ってた!? クリス、は……!?」


 目が覚めるなり叫んだユウキを見て、そばにいた母が目を見開いた。そして「あの脱走から、丸一日は、眠ってたわよ?」と言いながらナースコールボタンを押す。

 そして「起きましたので、先生にご連絡をお願いします」と告げると、やれやれ、というように苦笑いをした。


「あーあ。……夕姫も、もう一番大切なもの、見つけちゃったのねえ」


 寂しそうに笑うと、母はユウキを支えて起こしてくれる。


「あんた、そのクリスっていう男の子と、長い旅をしてきたのね」


 母の手元にあったものを見て、ユウキはぎょっとする。御伽噺奇譚があったのだ。


(よ、読まれた……!?)


 以前も読まれているのだろうけれど、もしかして最後のあのシーンもだろうか? 考えたとたん、一気に顔を赤くするユウキだったけれど、母は特に咎めることはしなかった。

 現実ではないからだろうか。すべてユウキの妄想の中の話、だと思ってくれたら多少ましだろうか……?


(いや、そんなことないし……!)


 そういう妄想をしていると思われるのも、恋に恋をしているようでかなり恥ずかしい。

 逃げ出したくなったけれど、母の手はユウキの手首と、御伽噺奇譚をしっかり掴んでいた。

 さすがに何度も取り逃がしたりはしない。


「夕姫。お母さんだって昔はあんたくらいの歳だったことがあるんだから、気持ちはわかるのよ。――だけど、ほんの少しでいいから逃げないで話を聞きなさいね?」


 母の目は真剣で、さすがに振り切って逃げるような真似はできないと思う。

 母は御伽噺奇譚をぽんぽんと軽く叩くと、一息で言った。


、夕姫にとっての現実ね?」

「……!」


 目を瞬かせる。唖然としながら、母の職業を思い出して、なんだか笑いたくなった。

 そうだ、作家の想像力は並大抵ではないのだった。

 恥ずかしいと思いながらも力強く頷くと、母はユウキの手を離して、御伽噺奇譚を手渡した。


「行ってらっしゃい。きっとも待ってると思う」


 ユウキはそのまま飛び出そうとして、ペタペタというスリッパの音に我に返った。自らを見下ろして青くなる。


(そうだ、私、ぱ、パジャマ……だった!)


 今更といえば今更だった。この間飛び出したときは夢中でそこまで頭が回らなかったのだ。


「お、お母さん、何か、もうちょっとまともな服ってない!?」


 ユウキが振り返って問うと、母は一瞬目を丸くして固まったあと、ケラケラと笑う。


「病院でめかしこんだら余計におかしいわよ? 患者なんだから当たり前なんだし」


 そう言いながらも、母はユウキに自分の羽織っていた桜色のストールを貸してくれた。



 *



 まだよろよろしていたので、母が上まで付き添ってくれた。

 大知さんの部屋の扉は開いていた。

 何かあったのだろうか? 嫌な予感に足が止まった。

 ユウキと違って彼が眠っていた時間は一年。随分長かったのだ。数日眠っていただけでも全然体が動かないことは自分のことでよく知っている。そう簡単に回復するとは思えない。

 母は彼が待っていると言ったけれど、もしかしたら会うのは無理かもしれない。

 足が完全に固まっていると、部屋から見知った顔が現れた。


「先生……!」


 真山先生だった。


「ユウキちゃん!? 起きたの!?」


 先生は慌てて近づいてくる。


「だ、大知さんは」


 どうなったんですか、と問いかける前に先生は遮った。


「……ありがとう……! 君が起きたら一番に言わないとと思っていたんだ! 君のお陰で大知が目覚めた。命の恩人だよ……!」


 ハグされてもおかしくないような勢いで言われて、ユウキが戸惑ったときだった。


「親父、怯えてる」


 後ろから声があがり、ユウキは目を瞠った。ドアのところに寄りかかるようにして大知さんが立っていたのだ。

 思っていたより背が高い。だけど、顔色は悪いし、体力の低下は目に見えていて、今にも倒れそうだと思った。


「大知、まだ寝ていなさい! 筋力が戻ってないんだ」


 先生が叱りながら、彼を支えようと飛ぶように駆け寄った。そして強引にベッドに戻してしまう。

 ベッドを操作して上半身だけ起き上がらせる。そして枕まで整えている。

 その間、大知さんはどこか不機嫌そうにしていたが、先生は全くお構いなしだった。医者と患者、その前に親子なのだなあと思うと、なんだか涙が出そうになる。

 以前先生から親子の確執を耳にしていたから、余計にだ。彼の目覚めにどれだけ喜んだことだろう。

 先生は大知さんを寝かせたあとも、部屋から出ていかなかった。にこにこして二人の会話を待っているような様子さえあった。


(え、えっと、このままじゃ、ちょっと話しづらい……)


 と思ったが、むしろ親子水入らずの時間を邪魔しているのは自分かもしれないとハッとする。

 退出することが頭の隅によぎったが、母が「ちょっとお話があるのですけど、外でお願いできます?」と先生を連れ出した。

 出ていく母になんだか意味ありげに笑いかけられた気がして、気まずくてうつむく。

 それは大知さんも同じだったのか、しばし病室には沈黙が落ちた。


(ど、どうしよう)


 がむしゃらに、会いたい、と思ってやってきたのに、何を話していいのかわからない。

 彼と物語の中を一緒に旅をしてきたとはいえ、ほぼ初対面の男性なのだ。

 やがてユウキは息をするのも苦しくなり、話題探しにと手元の御伽噺奇譚を開こうとして目を見開いた。


「え」

「……どうした?」


 つられて大知さんが声を上げる。

 ユウキはベッドの傍にあった椅子に座ると、御伽噺奇譚をベッドの上に載せた。


「タイトルが……変わってる」


 一体いつ変わったのだろう。気が付かなかった。


「そっか……君が完結、させたから……おれがつけてた仮タイトルじゃなくて……ふさわしいタイトルに修正された」


 中がどうなっているのかが気になって、表紙をめくって驚いた。


「……増えてる!」

「何が?」

「お話が――――うわ……どうしよう、これ、さっきお母さんが読んだって……」


 ユウキの顔は一気に熟れた。


 増えていたのは《眠り姫》のお話だった。

 その話は、大知さんが物語に呑み込まれるところから始まっていた。そしてユウキが入り込んだ《白雪姫》、《人魚姫》、《かえるの王さま》をすべて呑み込んだ上で、物語を王子ユウキのキスと大知さんの目覚めで締めていたのだ。


「あれ? でも、私、いろいろ放り出して出てきちゃったんだけど――」


 どうしても気になって《かえるの王さま》の頁を開くが、やはりフリッツ王子やオフィーリアの行く末はわからぬまま。


「気になる!」

「気になるな」


 二人同時につぶやいて、目を合わせる。そして思わず吹き出した。

 とたん、間に漂っていた遠慮や気まずさみたいなものが一緒に吹き飛んだ気がした。


「私、ここで、私が《壁》なんだと思っていたんだけど。だって、私という存在にせいで、フリッツ王子はオフィーリアの事に前向きになった。彼女を正当な方法で手に入れようと考えはじめたから」


 話題を共有している――そのことが嬉しくてしょうがない。口が驚くほど滑らかに動いた。


「ふうん……面白い解釈だと思う。うん、リーベルタースも今は味方が欲しいだろうから、オフィーリアの事は案外あっさりうまくいくかもしれない」

「政略結婚ってこと?」


 大知さんが面白そうに頷く。


「だとしたらユーリア様がお気の毒」

「きっとユーリアは別の物語のお姫様なんだと思うよ。きっと別の形の幸せが待っている」


 なるほど、とユウキは思う。皆が皆、何かの物語の主役なのだ、きっと。

 ならば、見届けたい、とユウキは思う。フリッツ王子たちだけでなく、ユウキが出会ったすべての人々のその後を。


「最後まで続けたいけど、これってどうすればいいの? もう飛び込む訳にはいかないよね?」

「あぁ。もう二度と飛び込ませる訳にはいかないから――」


 大知さんが、ユウキの顔をじっと見つめた。クリスと同じ眼差しで。

 だが、次の瞬間彼は心配そうにユウキに言った。


「もし……もしよければ、一緒に続きを考えてくれる? 《かえるの王さま》だけじゃなくて、他の物語も――ずっと」


 僅かな怯えの混じった眼差しは、グリムのものに思えた。

 そんなユウキの内心を察したかのように、彼は苦しげに眉をしかめた。


「――おれは……クリスじゃない。あれはおれの理想の自分で。なりたかった自分で。現実の俺は、多分君の思っているような男じゃない。きっと幻滅することもあると思う」


 大知さんは、かすれた声で一気に言うと、一度深呼吸をした。

 そして恐る恐る、ユウキの手を握った。長くて細い指が触れた時、その温かさに、


(あぁ、私達、今、ここで――この世界で生きている)


 ユウキは強く思う。本の中で、あれだけリアルだと思ってた事柄も、今のこの温かさには敵わなかった。


「それでも、おれは、君と一緒にいたい。君とこれからも、たくさんの物語を紡ぎたい」


 物語の外は、きっと自分の思うようには行かない。だけど、選んでいくのだ。自分で。一番だと思う道を。


「はい。――大知さん」


 ユウキが迷わず頷くと、彼は「なんだか、そう呼ばれるの、くすぐったいな」とはにかんだ。

 その笑顔が、クリスの笑顔と重なって、ユウキはなんだか泣きたくなる。

 たしかにこの人はクリスではない。だけど、彼の中にやっぱりクリスはいる。ユウキの好きになった彼が――きっと。


「じゃ、ひとまず、このかえるの王さまをどうにかしようか。フリッツ王子は、これからどうする?」


 二人で本を覗き込んだ時。

 どこからか風が吹き込み、古びた本の表紙を撫でていく。

 そこには《御伽噺を翔ける魔女》というタイトルが浮かび上がっていた。


《完》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る