第5話
今日は、どうしちゃったんだろう。
明日からはすごく悪いことが連続して起こりそうなほどに一年間の運を使い果たしてしまったのではないか。
目の前に立つボーカルの人は電車で席を譲ってくれたあの人だった。どうにも言葉が出てこない。
明るめの茶色の髪、黒い瞳の目、私よりも少し高いくらいの身長。そして何より、その声。
完全に見惚れている私を見兼ねて、沙里ちゃんが話し始める。
「す、すいません。緊張しちゃって、あの、チェリーインサイダー毎日聞いてます」
この子も、ボーカルさんの声大好きで。
そういって私の肩に両手を置いて話を私にふってくれる。
「あ、あの、さっき電車で…席、譲っていただいて。わざわざすいませんでした、それと、ありがとうございました」
ボーカルの人はびっくりしたように
「あっいえいえ、覚えてて、くれたんですね。応援もありがとうございます」
ちょっと恥ずかしいですね、と茶髪の頭を掻くその人。
一つ一つの仕草が柔らかくて、優しい。
「お名前、聞いても大丈夫ですか?本名とかでなくても、呼び名、みたいな感じの」
「あっ、えーと…本名、お教えします。内緒ですよ」
はにかみながらそう言って、囁かれた名前。
「谷口誠です、バンド名も募集してますんで、よろしくお願いします」
たにぐち、まこと。本名はもちろんだが他のファンには内緒。秘密、それは私の心の泡をもっともっと弾けさせるのに十分事足りた。
「私、市村沙耶です。バンド名もチェリーインサイダーのコメント欄で書かせていただきました」
ガラス瓶、沙里ちゃんとお話ししてた時にパッと浮かんだその言葉。
沙里ちゃんもぴったりだと言って、はしゃいでいたその名前。
「そうなんですね!ありがとうございます、ちなみにどんなお名前、投稿していただいたんですか?」
「が、ガラス瓶です。サイダーがはいっているのにぴったりだと思って。それと、一度開けたら蓋は閉じれないので、バンドを一度好きになったらそれからはずっと好きでいるから、です」
そう説明すると谷口さんはびっくりしたような顔をした。引かれてしまっただろうか、初対面で、こんなに熱く話してしまうなんて。
そんな不安は谷口さんの笑顔ですっと消えていった。
「とっても、素敵です…ありがとうございます!」
ぱぁっと花が咲いたようにふわり、と笑うその姿。しっかり目に焼き付けておこうと思った。
後ろの黒い幕から谷口さん達を呼ぶ声がする。随分と喋ってしまった。
ありがとうございました、これからも応援してます、と伝えて、谷口さん達もしっかりお辞儀をしてくれてさようならだ。
「アイス、溶けちゃってるかな」
ぼーっとした瞳でそういう沙里ちゃん。
どうかなぁ、そう返事をしながら私も上の空で、谷口さんの笑顔を思い返していた。
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