第2話 貝の地下鉄 フォーク
地下鉄に乗るために階段を下っていく。定期券を取り出して慣れた動作で改札口を通る。ホームでは帰宅時のサラリーマン、学生がまばらにいた。帰宅ラッシュの時間帯のはずだが、いつもこの時間だけ、取り残された様に人が少ない。おかげで焦らなくても座席に座れる。
駅のホームは広くない。端から端まで走れば十秒もかからないほどだ。白線ギリギリに立って、線路をのぞきこむ。黒々とした線路は左右の暗い穴に一直線に伸び、先の方で緩やかなカーブを描くとぷっつりと見えなくなっていた。近くにいたおばさんが私のことを心配そうに見つめている。自殺するんじゃないかと疑われているみたいだ。そんなことしませんよ。私は白線より内側に三歩ほど入った。
私は電車が来るまでの時間を、枝毛を探すのに費やした。一カ月前に美容院にいって、ロングだった髪をボブにしてもらった。最初の頃は頭が軽くて、まわりも「すっごい! バッサリ切ったね!!」とちやほやしてくれたのが嬉しかった。でも今は、毛先がほおにあたってチクチクするし、ロングの時よりセットをちゃんとしないと小学生みたいな頭になってしまうのが面倒臭い。
一心不乱に細い髪の毛と格闘していると、足元で何か生き物の気配がした。びっくりして見てみれば、クリーム色のラブラドールレトリバーが私を見上げていた。行儀よくおすわりをし、ニコッと笑っているように見える。どうしてこんな所に犬? そのレトリバーにはハーネスが付いており、年老いたおじいさんが持っていた。おじいさんは濃いサングラスをかけていて、私はようやくこの犬が盲導犬なんだと気がついた。賢いなぁ。鳴き声一つあげない。私が小さくレトリバーに手を振るとレトリバーは尻尾を振り返してくれた。ちょっと嬉しかった。しばらく待っているとホームアナウンスが流れる。
『間もなく二番線に電車が参ります。白線の内側までおさがりください』
この世の不幸を詰め込んだみたいに暗いトンネルから二つの強烈な光が、ものすごい速さで向かって来る。電車は唸り声をあげながらホームにゆっくりと止まった。私は一番に乗り込んで近い座席に腰を下ろした。他の乗客はバラバラと続いて乗り込んでき、隣に空白を開けながら埋まっていった。
さっきの盲導犬はどこに行ったんだろう?
ふと優先座席に目を向ければサングラスのおじいさんは座っていて、その足元にレトリバーも座っていた。賢いなぁ。もう一度そう思ってレトリバーを見ていると電車のドアが閉まろうと動く───ガゴンッ!
鈍いけれど激しい音に車内全員がドアを向く。閉まりかけのドアから腕が生えている──ではなく、閉まりかけのドアを青年が無理やり腕を突っ込んでこじ開けようとしていた。
『駆け込み乗車はおやめください』
型通りのアナウンスが流れた後、ドアが不満げに開く。腕を突っ込んだ青年はうつむきながら電車に入り込んで来た。青年は座らず、ドアのそばで立っていた。顔色は青白く、ほおが痩せこけている。だぼっとしたパーカーを着てジーンズのズボンに手を突っ込む。青年がうつむいているにもかかわらず、皆目を合わせないよう必死に視線を下へ下へと落としていた。青年は、体内に入ってきた異物のような存在だった。
カチッカッチと不規則に点滅する車内の蛍光灯。明るく派手な広告はこの場を和ませるどころか、違和感を際立たせている。イヤホンを耳に入れて、この場から意識を遠ざけたいけれど、なぜかそうさせてくれない威圧感が、車内に蔓延していた。
ボコ……
水の中で、息を吐き出したような音。
なんだろう? 私は目だけを動かして、音を探った。すると、うつむく乗客たちの手や首になにかが出来上がっていくのが見えた。それはニキビのようにも見えるけれど、でももっと硬そうな物だ。
ボコゴコ……ボコ…突起物が次々と現れる。赤いけど白っぽい。けど焦げた緑みたいな色も所々ある。触ったらきっとザラザラしてるんだろう。ううん、ちょっと待って。そもそもなんで皆一斉にそんな物が出来上がるの? 一番近く、三つ先の隣に男性が座っている。注意して見てると、ボコココ!! っと首筋に大きな突起物が現れた。
ツン──……と磯の匂いがする。磯って、海? なんで海の匂いが……ああそうか。この突起物ってフジツボなんだ。 理解すれば早かった。乗客たちの手や首に現れたのはニキビじゃなくてフジツボ。フジツボはうつむいた人々の動きを固定した。きっと今頃首はガチゴチになって、手も動かせないはずだ。もしかして、あの青年と絶対に目を合わせないための自己防衛なのかもしれない。私はただただ放心して、フジツボを見ていた。そういえばおじいさんと犬は? 優先座席に座る一人と一匹。おじいさんは目が見えないから、この異様な緊張感を感じてないのかもしれない。その証拠にフジツボは体に現れてない。もちろんレトリバーにも。
カチッカッチと不規則に点滅する車内の蛍光灯。車内全員に青い影を落とす。私は目だけを動かして異物の青年を見た。うつむいたまま、ポケットから手を出そうとしない。電車の揺れに安定しないせいでゆれるたびに足をよろめかせて、倒れないように踏ん張っている。私は今にもこの人が襲いかかってくるような気がして何度も身じろきした。
その予感は半分当たって半分外れた。異物の青年はゆられるがままになっていた足を止め、真っ直ぐレトリバーに向かって歩き出した。レトリバーはきょとんとした顔で、小首を傾げて青年を見上げていた。うっそりと一人と一匹は奇妙に見つめ合う。私はなぜか悲鳴を上げそうになるのを一生懸命こらえていた。
青年がポケットに突っ込んでいた手をゆっくり引き抜いた。私はこの世の終わりを告げられている気分になった。引き抜いた手にはフォークが握られていた。どうしてフォーク? 私の疑問はものの数秒で解決した。異物の青年は、フォークを振り上げ小首を傾げるレトリバー向けて躊躇なく振り下ろした。
ズンッ──! 肉を突き刺し頭蓋骨に当たる鈍い音。私は声も出なかった。車内全員うつむいたまま黙っている。青年がフォークを引き抜く。レトリバーの頭に赤い染みが四つ出来ている。レトリバーは鳴くことも身動きすることもなく耐えていた。そういえば聞いたことがある。盲導犬はとっても賢くておとなしいから、飼い主に必要ない行動はとらないって。だからきっと吠えないんだ。吠えれないんだ。私の体はセメントで固められたみたいに動くことができなくなった。青年は再び躊躇なくフォークをレトリバーに突き刺していく。
ズンッズンッズンッ──! サングラスのおじいさんは何も気づかない。目が見えないから、目の前の惨劇に気がついていない。レトリバーは黙って、悲しげに座っている。頭の上の赤い染みがどんどん増えていく。柔らかいクリーム色の毛がどす黒い赤になる。
ズンッズンッズンッ──!
ボコゴコ……ボコ…ボココココ
またフジツボの音がすると思ったら、今度は車内全員の首から妙に平べったいものが生え出した。それは首の前と後ろから伸びていってすっぽりと頭を覆った。
貝殻だ。二枚貝。
一人一人微妙に違った貝殻が頭を覆っていく。磯の匂いがむわっと車内に満ちる。
ズンッズンッズンッ──!
異物の青年のフードが落ちた。青年の顔はフジツボがびっしりと生えていた。フジツボは濡れていて、足元に水たまりをつくる。
ズンッズンッズンッ──!
レトリバーの頭はもう真っ赤になっていて、レトリバーの大きな目だけが妙にぬらぬらと光っていた。やわらかそうな頭に、無数の細かな穴が開いて今も血は毛に染み込んでいく。それでも異物の青年はレトリバーにフォークを振り下ろす。
ズンッ──!
「ゔぁふっ」
強い、異物の青年の一撃。レトリバーが衝撃に耐え切れず小さく唸った。レトリバーの充血した目がだらりとこぼれ落ちそうだ。おじいさんがふと辺りを見渡した。青年がフォークを振り上げたまま固まる。レトリバーはなんの表情も見せず、青年を見上げている。おじさんはなにもないと思ったのか直ぐに元の場所に首を落ち着けた。私は必死に黙ってうつむいて、早く駅に着けと念じていた。
ボゴゴゴ
突然、耳の中から轟音が聞こえた。ちょうど電車が駅のホームに着くような音だ。ツンと磯の香りが間近でする。私は一瞬、耳を触った。濡れていた。
ボゴ……ゴゴゴ!
目の前が段々真っ暗になってきて、やがて完全な闇になった。
静かで、わずかな息遣いも心臓の音さえも聞こえない。完全で完璧な闇。私は慌てるどころか段々落ち着いてきて、真っ赤なレトリバーのことなんて忘れてしまった。
最後に考えたことは今日の晩御飯のおかずのことだった。
『***駅。***駅です』
アナウンスが聞こえる。電車のドアが開く。私は一番に車内から出た。
乗り込んできた乗客が悲鳴をあげたのなんて、私は知らない。
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