家路

稲葉郁人

第1話 放課後 お菓子論争

 空を見上げる。濃紺に黒いインクが滲み出しているみたいだ。地平線に近い空はまだ赤い光をしぶとく残していた。私は一刻も早く家に帰りたかった。冷たい風にコートの前をきつく締める。セーラー服は寒い。だってセーターを着ると可愛くないから。私は手袋をはめた手で、足をさすった。ストッキングも何も履いていない。女子高生は冬でも生足にならなきゃいけない生き物なんだ。滑らかだけど、湿りのある肌が手袋越しに伝わった。

 人けのない寺の外堀沿いに進む。堀の中はまだ水がたくさん残っていて、鯉がいる。鯉が泳ぐと静かな波ができて、もり上がった水面は太陽の光りで黄金に輝く。けれど、今は凪いでいる。漆黒の水面が私を見ていた。A県は寺が多い。神社も多い。とにかく神様が多い。私はふと、幾千もの目に見られている気がした。視界の端にペンキのはがれかけた飛び出しぼうやが見える。

 しばらく進むとコンビニが見えてきた。大通りに出たんだ。入り口前に学校帰りの学生がたむろっていた。手にはペットボトル。コーラとかファンタとか……キンキンに冷えていそうでこの季節、しかも冷えてくるこの時間帯には避けたい飲み物だ。私は自分がそれを飲んでいるのを想像して身震いした。そこでふと、学生達の持つ菓子袋に目が止まった。

 ああ、アレは……そう、たしか放課後の時間に皆が食べていた。

 そう──アレ。



                   

 放課後になり皆と喋っていた時、私はアレを知った。

「このお菓子、今すっごくはやってるの」

 窓から強烈なオレンジの光が入り込んでくる。夕日は目に痛い。教室の中は一気にコントラストが強くなり、夕日のオレンジと影の黒しかない。かな子がはしゃぎながら、菓子袋を鞄から取り出した。片手をめいっぱい広げたぐらいの大きさの袋には極彩色のパッケージ、中には小粒の豆の形をしたグミ。袋の中のグミもやっぱり極彩色で、私の目はシャッターを降ろすのに全力をそそいでいた。はやってるのは知ってたし、CMで何回も見てた。買って食べてみたけれど正直言ってマズかった。一粒食べた後は、ごみ箱に全て捨ててしまった。

「見た目も可愛くて、味もいっぱいあるし……ハート形のヤツが入ってればラッキーなんだって!」

 かな子が「あげるよ」と、私にずいっと袋を突き出した。夕日で顔半分はオレンジだけどもう半分は黒。影と鼻の穴が溶け合ってのっぺりとした顔に見えた。染めていない黒髪は影の方に加勢している。かな子の頭がふた回りほど大きく見える。グミの匂いが私の鼻に届いた。うあぁ、この匂い。言っちゃ悪いけど、吐いた物に頑張って香水をかけてごまかしたようにしか思えない匂いだ。私は顔をしかめそうになるのをこらえて、首を振った。

「えー、おいしいのに」

「そのお菓子、おいしくないよ」

 私の隣にいる千代がケラケラっと笑う。千代も顔半分が影になっていて、笑うと口の中も真っ黒になった。

「え! え! ウソウソ! おいしくないなら、はやってないんだから」

「それマズイから、はやってんのや」

 少し離れたところに鳥伊君は居た。机の上にあぐらをかいて座っている。鳥居君のまわりで集まってゲームをしていた男子達が一斉に笑い出す。

「ガマン比べとか、罰ゲーム用に使われてるねん。あはははは」

「うそだぁー」

 かな子は不服、不服と顔をふくらませる。教室に残っていた全員が「ないない」と首を振った。十人ちょいの首が一斉に動くのはある意味、感動的かもしれない。

「もっとおいしいお菓子あるやろ。チョコにポテトチップス、柿の種にドーナッツ」

「そうそう、ソレとやっぱりアレも外せないでしょ」

 アレ?

 私は何だろうと千代を見つめた。千代は鞄の中から何かを取り出そうとしている。アレって何? アメ玉? ポッキー? クッキー? 私の考えよそに千代が「これこれ!」と得意げに何かを鞄から取り出した。男子が一斉に千代の周りに集まった。ちょっと、見えないじゃない。かな子が「なぁーに?」と男子の間に割り込む。私以外の全員が「あぁ!」と納得の声をあげている。何? かな子の頭をちょっとだけどけて、千代の持つ何かを見た。

 千代の手にはスナック菓子が入ってるような袋があった。派手なパッケージでもないごくごく普通のものだ。ただ────

「何? コレ?」

 クラス全員の視線がバッと私に集まった。二十ちょいの眼が私の言葉をじいぃっと見つめる。

「知らないの?」

「ずっと前からあるやん」

「ありえない」

 十ちょいの口が一斉に動く。私を責めるように、哀れむようにぺちゃくちゃぺちゃくちゃ………。私は訳が分からないまま十ちょいの口が動く様を見ていた。いくらなんでも、そんなモノが昔からはやっている訳がない。そもそも、こんなモノがあるわけない。 アレなんて。お菓子にしては───色も質感も全く一緒。千代が袋を開けて、食べ始める。周りの皆も「くれくれ」と袋の中に手を伸ばしていく。そして、なんのためらいも無く口の中に放り込む。

「大丈夫なの?」

 さらに二十ちょいの眼が私に集まる。それはもう視線が眼に見えるほどぐるぐる私に巻き付いて、一切の身動きができない。

「何言ってんの?」

 だって、だってソレは──アレの形で………アレは─────

「モチモチしてておいしいやん。まさか食べたことないの?」

 食べるも何も………そもそもソレは

「耳たぶだよね?」

「そうだけど」

 千代はケロッと答える。クラスの皆も当然の顔をしている。私の知らないところで、皆は耳たぶがおいしいと知っていた。全員の顔が私を見ている。影で真っ黒になった姿は、顔の凹凸もなにもかもがのっぺりとして一種の記号のように思えた。ただ、平らな黒の中で二つの眼球だけが動いている。耳たぶと私を交互に見ているからだ。

「食べたことないなんて損だよ。食べてみなよ?」

 千代は袋に手をつっこむと、耳たぶをわし掴みにした。すこし無理をして袋からげんこつを取り出す。それから私に両手を差し出すように促した。覚悟を決めるしかない。おずおずと両手を差し出すと、千代はなんのためらいもなく、げんこつを開いた。私の手の中に、いくつもの耳たぶが落ちてきた。二つほど、跳ねて机の上に落ちる。ゴムほど跳ねはしないけれど、ぽてぽてと小さく蠢いた。

 両手の中に視線を戻す。耳たぶ。耳たぶそのもの。人と同じ肌の色、これは着色料でだせる色じゃない。ちょんちょんと生える無数の産毛。肌のしっとりとした質感。肉厚で丸みを帯びた形。耳から切り離した断面が血で赤い。気のせいかな。すこし生あたたかい気がする。

 耳たぶを食べる皆の口からは粘着質な音がした。ぺちゃぺちゃもぐもぐ───

「まさか本当に知らへんの?」

 ぺちゃぺちゃ

「ありえない」

 もぐもぐ

「生きてたらどっかで絶対出会うのに」

 ぺちゃぺちゃ

「こんなにおいしいのにな」

 もぐもぐ

 小さな耳たぶが、十ちょいの口の中に放り込まれては粘着質のある音を立てて飲込まれていく。むわっと、濃い匂いがした。かすかに甘味が混じる。何かに例えろと言われると難しい。果物が腐臭する手前の、あの異様に甘くて濃い匂い、違うかもしれないが、まだ近い。ああ、そうだ。絆創膏をはって、そのままにしておくと、だんだん皮膚がふやける。あの匂いだ。

 かな子が、物欲しそうに私の手の中を見る。私は耳たぶをかな子にあげた。かな子はうれしそうに、耳たぶを口の中に放り込んだ。

 自分の耳たぶを触った。柔らかくて肉厚。確かに食べればおいしいのかもしれない。お餅みたいだけど、歯ごたえも十分ありそうだ。鳥居君が耳たぶを半分だけ食べた。粘っこくて赤い糸が口から垂れる。

「それ……まさか、本物の耳たぶじゃないよね?」

 私の言葉に全員が笑った。夕日の当たっている顔半分だけが笑っている。千代がお腹を抱えて笑うたびに、耳たぶの入った袋がガッサガッサと音を立てる。

「あはははは! 全部養殖に決まってんでしょ!」



 


 ぺちゃぺちゃもぐもぐ────

 コンビニでたむろする学生の手に持つ袋を、私は横目だけで見た。

 ぺちゃぺちゃもぐもぐ────

 私はそっと自分の耳たぶを触った。

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