第48話・よっつめの季節
北風が耳を切りそうなほどに鋭くなった。いなかの季節は真っ向勝負。東京のだらしない冬とはちがい、寒さが硬くとがっている。きちんとがんばる冷気の中で、星空は澄みわたり、朝の陽光はぴかぴかと冴える。
起き抜けに練る前夜の失敗粘土は、手のひらを凍りつかせそうなほどに冷えきっていた。土の表層の裂ける音がぱりぱりと聞きとれそうだ。ボロアパートの外壁は、周囲の広大な田んぼからせまる風にきしむ。室内はしんしんと底冷えがして、外気温とほとんど変わりがない。
オレは20年ちかく前から愛用している電気ストーブを足もとに置き、毎夜ろくろを挽きつづけた。四方をベニア板にかこまれた一畳ぽっちのろくろコーナーに背をまるめてこもると、そこは結構な暖かさだった。創作の微熱を帯びた体温とストーブの暖気がせまい空間を対流し、いつまでも器づくりに熱中できた。
訓練棟にも、昔なつかしいダルマストーブがはいった。古くてゴツいそいつは、だだっ広いプレハブ内の一角をほのぼのとあっためる。しかし土けにひんやりと湿気た空気は重くよどみ、なかなか暖気はひろがらない。そんな中、フリー作陶にもついに飽きた茶飲み貴族たちは、ストーブ前の特等席に腰をすえ、ぽかぽかの環境でいよいよ大量のお茶を消費しはじめた。
かたや、オレたちの貧民島はストーブから遠く離れ、窓から差しこむ日光からもへだたっていた。作業で使用する水は爪の先から神経にしみ入り、悲鳴をあげたくなるほど冷たい。最下層の暮らしはつらく過酷だ。
ところが便利な道具があるもので、ろくろ用の水オケを温めるハンダゴテのような機械が訓練生にくばられた。これを使うと、オケの水がいい湯加減になるという。みんなこぞって利用した。調子にのって温度を上げすぎ、水を煮立たせて泥のおかゆをつくってしまう者もたまにいたが。この機械は好評で、だれもが快適な作陶環境をよろこんだ。
しかし、ここでもあまのじゃくというのはいるもので、出席番号13番・代々木くんともうひとりは、頑としてこの文明の利器を使おうとはしなかった。彼らの奇妙なプライドは、周囲には理解しようにない。クラスメイトたちは、かじかむ手に息するこの意地っ張りたちを「バカ」とささやき合った。それでも、どれほど室内が冷えこもうが凍てつこうが、最後の最後まで、バカ男二人だけはこの態度をつっぱり通した。つまり、オオアリクイ氏と、オレだけは。
冷たい水を使ったほうが良い品が挽けるというわけではない。指先が冷えて神経が鈍るという意味では、むしろ逆といえる。それでは元も子もない。強情っぱりにもほどがあるというものだろう。
ただ、ふたりにはずっと見つづけた光景があった。それは、山深い若葉家の庭で、白い息を吐きながら一心にろくろに向かう太陽センセーの姿だった。ろくろ脇の破れオケに入っているのは、凍りつきそうな・・・いや、実際に凍っている水だ。表面に張った氷の薄膜を破って、そこに手をつっこむ。気合いが冷たさを感じさせないのか?(それともおじいちゃんだからなのか?)粘土だって凍る寸前だ。実際、若葉家では、挽きあがった作品がそのまま翌朝に凍りついてしまった光景を何度も目にした。ぽかぽかの部屋の中で、ぬくいお湯を使えばいいのに。なぜそんなしんどい思いをしなきゃならないのだろう?しかしそんなことをセンセーに問えば、
「桃山の陶工がそうしてたからじゃが、なにか?」
と答えが返ってくるにちがいない。
論理的ではない。水はあったかいほうがいいに決まっている。その証拠に、ろくろ挽きを終えたセンセーはコタツ布団にくるまって、苦悶の表情で痛む関節をもみほぐしている。オレなどもよく、七十七歳氏の水脈が枯れたような足の裏や堅い背中を揉ませていただいた。動けなくなるまで、このひとはやるのだ。自分のヒーローが、つまり桃山の陶工たちがそうしていた以上、センセーもまたそうするのだ。そういうものなのだ。
そんな姿を、オレもオオアリクイも見てきた。だからこそ意地を張って、論理的じゃなくても、ぽかぽか快適を約束してくれるすてきグッズには決して手をつけないのだった。オレたちのヒーローは、太陽センセーなのだから。
学校のろくろ授業は、茶陶の「生産」から発展し、完全な自由制作へと移っていった。ここからは各自で課題を決め、卒業後の生活にリアルに必要となる特定の技能をそれぞれに伸ばしていくのだ。目指す道によって、今しなければならない課題はひとりひとりちがってくる。自分が欲しいのは、正確なろくろ技術なのか、フリーな創造性なのか、磁器の挽き方なのか、土くれの造形方なのか、釉調なのか、焼きなのか、装飾なのか、絵付けなのか・・・そういうチョイスの幅が許されはじめた。
自分次第というのは結構なプレッシャーだ。責任が突きつけられるのだから。「生活力の確保」という職業訓練校における主題は、まさにこの時期につちかわれるべきものだ。数ヶ月後の自身の姿を思い描きながら、のこされた時間を最大限に活用しなければならない。
一方、自分次第=気楽という解釈もできる。就職活動によって(←オレには無縁だった)、すでに大半のクラスメイトの進路は確定している。中には「OL」や「営業」という道を選び、作陶技術も土の感触もまったく関係なくなった者もいるのだ。その人物たちに、必死で腕前を磨く職人見習いたちと等質の向上心を求めるのは酷だろう。そんな事情もあり、基本カリキュラムともいうべきものを終えたクラス内には、明日に向けたプロ意識と、安堵感と名を借りたたるみとが相半ばしはじめた。
こんな頃になると、鬼のように厳しかった先生たちが、奇妙な仏心を見せてくれるようになった。ここだけの話だが、こんなことがあった。
学校では公費で原材料を購入しているため、自作品を持って帰るのは禁止とされている。それらは「MADE BY 訓練校」として外部に売られるべき商品なのだ。法的に厳密にいえば、持ち出し=横領となる。しかし焼きあがった作品が窯場から出され、生徒たちが検品していると、必ず皮肉屋・イワトビ先生がやってきた。そして作業の様子を一瞥し、きっとこう切りだす。
「出来の悪い作品は学校におさめるなよ。自分で判断して、さっさと廃棄しとけ」
そしてそそくさと立ち去るのだった。完成品の確認作業(つまり売り物にならない失敗作の抽出)は先生の役割のはずで、その現場に立ち合わないとは実に無責任だ。オレたちは当初、この捨てゼリフに彼の無神経を感じていた。一生懸命につくったものを「さっさと廃棄」とは、なんという言い草だろう。
しかしやがて、その言葉の真意を悟ることになった。個人にとっての秀作、快作、大傑作、自慢の一品、渾身の勝負作、窯場ではそんなものも日々焼きあがる。生徒たちは作品の親(制作者)として、本当はそれを手放したくはない。涙をのんで学校におさめなければならないのだ。ところで、ここにひとつのアイデアがある。仮に検品が、先生でなく、制作者本人にまかされるとしたらどうだろう。検品という作業が主観によって行われる以上、どれを成功作として学校におさめ、どれを失敗作として「廃棄処分」とするかは、自分の腹ひとつとなる。そして廃棄処分とは、要するに学校内からその存在を排除・・・つまり、持ち去る、ということなのだった。
(ぼくは見てないから、製品としておさめるかどうかは自分で判断しなさい)
そのことを先生は、言外ににおわせてくれているのだった。
それを察し、オレたちは自作品を手に手に、的確な判断を下していった。
「うーん・・・そう言われたら、この傑作は失敗作に見えてくるな・・・」
「これもすばらしい出来映えだけど、残念ながら家に持ち帰って廃棄しておこう」
「おまえも学校にはおさめられないなー。かわいそうだけど、ポケットの中にこっそり大切に廃棄させてね」
つまりまあ、そういうことなのだ。
(持ち帰ってヨシ、とは口にできないから、言葉尻で察しなさい)
これもしんどい立場にある先生の、ぎりぎりの思いやりなのだった。
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