第47話・和もの茶碗

 無名の陶工が無意識に生み落としたのが高麗茶碗だとすると、和もの茶碗ははっきりと意識してつくりあげられた、いわば造形作品だ。多くはお殿様や、数寄者と呼ばれる風流人からオーダーを受けて、好みどおりの作行きに仕立てられる。器に制作者の個人名が冠されるのも、和ものだけだ。唐ものや高麗ものの名前には、窯元の所在地や、時代や形状の名称があてられる。高麗の陶工などは、名前はおろか、器に自分の個性を盛りこもうなどと考えることさえなかっただろう。美術的なアプローチなどなしにひたすら用途へと向かい、結果、見どころを持ちえたのが高麗ものだった。一方、和ものは打ってかわり、見どころを作意によって盛りこもうとする。自然の風景を人工的に再現しようと試みる枯山水に似ているかもしれない。用の美にとどまらず、さらに個人的な美意識をつめこんだともいえる。そういった意味で、和もの茶碗は「芸術作品」なのだ。

 ただお茶人からみると、美をこしらえられた分だけ高麗ものに上座をゆずる、ということになる。なにしろ高麗ものの美は、運命によってたずさえられたもの、なのだから。まあ理屈はわからなくもないが、そんな順列づけにたいした意味はない。好みの問題だと思う。

 オレが大好きなのは、なんといっても和ものだ。なにしろ、かっこいい(この考え方がさっそく茶の道から外れているのだが)。高麗ものはシブくて無口だが、和ものはおおらかで雄弁だ。静謐なものもあるが、たいがいはタタミの上で大暴れしているように見える。和もの茶陶を表すのには、豪快、雄渾、破格などという言葉がつかわれる。表情が豊かで、動きがあり、360度どの角度から見ても別の物語が展開し、だけどそれが完全に統一されて全体がある。まさに個人的宇宙だ。

 また、陶芸をわが国に伝えた唐ものが、土から宝石をつくろうという錬金術じみた考え方であるのに対し、和ものは土の素材感を大切にし、土に帰ろうという思想がある。茶碗の中でわが国独自の価値観が育ったのだ。唐ものは、土くれを精錬して磁器という白玉の焼き物に行き着き、かたや和ものは、ついには無釉の焼き締めというプリミティブな方法論にまで回帰した。

 とはいえ、和もの茶碗の成形には驚くべき手練が盛りこまれている。唐ものの正確さも超絶的技巧だが、数学的にきっちりとした整い方であるため、がんばればなんとなくマネができそうだ。ところが和ものはそうはいかない。物理的に不可能、理論的に不可解、というものがゴロゴロと存在する。碗の見込みを三角形に挽くなど、ろくろをどう操作したのか皆目見当がつかないものもある。その手ぎわには舌を巻くしかない。いろんな名碗の写真を見ながら、また美術館や資料館で実物を見ながら、おこがましくもジェラシーの炎に焼かれたものだ。

 いろんな茶碗を知ると、がぜんモチベーションが上がってくる。前述した迷いにも完全に折り合いがついた。これもまた修行だ。今までにつちかった技術を応用し、さらに展開していこうと開き直った。自由な形を挽くことによって、新しい感覚を取りこんでいけばいいのだ。お茶道具を好きなようにつくる、などと太陽センセーの耳に入れたら、「片腹痛いわ」くらい言われるにちがいないが、型を理解することによって本質に迫る、という日本古来からの考え方もある。とにかく古いものをマネして挽きまくって(「写し」なのだ)、実践から茶陶の文化をひもといてみればいい。

 桃山時代につくられた名茶碗の図録を目の前にひろげ、手本とにらめっこしながらろくろを回した。ゴツく挽いてヘラ削ぎで造形する「志野」、端正だが胴ひもの装飾がひどくむずかしい「黄瀬戸」、薄づくりで切り立った「瀬戸黒」、極端にゆがめて挽く「織部」、若葉家仕こみの左回転で「唐津」・・・かたっぱしからなんでもつくった。磁器で碗形を挽き、染め付け(生地にコバルトで絵を描いてその上から施釉するため、下絵付けという)で伊万里ふうにしたり、上絵付け(施釉して焼きあげ、その上にカラフルな絵の具で絵を描くため、上絵という)で九谷ふうにしたりもした。手づくねで楽をつくったり、高麗ものの粉引き、三島、井戸、唐ものの天目までつくった。すべて「~ふう」の付くパチもんではあるけれど。

 ところが皮肉なことに、ハンパに上達した腕前が災いして、こざかしいほどにうまいものが挽けてしまう。うまいというのはつまり、無個性な、という意味だ。これではまるで「食器」だ。喜左衛門井戸は、雑器の中から見立てられて抹茶碗に昇格した例だが、オレの抹茶碗は逆に「普段使いにちょうどいいみそ汁碗」に見立てたい感じだ。これではとても茶室の風情にはマッチしない。抹茶碗は、もっと品格という後光をまとわねばならないのだ。そのハードルがひどく高い。ゆがんだ形が挽けないどころの話ではない。挽けば挽くほどわからなくなっていく。

ーそれにしても、どこがどうちがうってんだろ・・・?ー

 眼前にたたずむ名品の多くは、滑稽と呼びたくなるほどの放埒さで挽かれていて、ほとんどアバンギャルドに近い印象を受ける。フリーだ。ふざけ半分のようにも見える。しかしろくろの初心者がつくるへっぽこ作品のあのいびつさ、あのだらしなさ、あの無定形を、昔の陶工は自分の手とろくろとを自在にコントロールして、メリットとして自作品に反映させている。それらは、訓練校で学んだ無機質的完成度とは対極にある「運動」「内圧」、また「童心」「シャレっ気」というものを持っていた。遊び心があるのにたたずまいは堅固で、それでいて鼓動を打つように生き生きとしている。その大いなる存在感を前にすると、オレは覚えたての小手先芸で上手に挽けた自分の茶碗に、とても満足する気にはなれなかった。

 やがて気づいた。手本を見ながらろくろを挽くのはよそ見運転だ、と。ひとの作品などどうでもいい。オレはオレの仕事をするべきだった。手本からは要点だけを濾し取ればいい。まずはよけいな知識を頭から追い出して、空っぽにならなければ。

 桃山の陶工は、頭でなく、手のひらで考えて仕事をしていたにちがいない。それが自然体の造作を生み、無作意の作意となる。ろくろでは、むずかしいことをしようとすればするほど作業は理詰めになっていくし、また逆に感覚的にもなっていく。その二律背反を無意識下で行うには、手のひらに考えさせることだ。手のひらは、センサーとして土の状態をインプットし、運動としてアウトプットする。その一連の仕事を意識することなしに完遂することができれば、成功だ。土を操作しようなどと考えず、土と一体化する。その高みにまで至りたいものだ。

 無心・・・それはとてつもなく険しい道の先にある境地だ。それでもろくろを挽いていると、瞬時、自分にもそんな現象が発生するときがある。なにがどううまくはまるのか、不意に意図通りに(←おかしな日本語だ)、あるいは意図を超えて、美しい形が挽きあがるのだ。それは突如、ヒョイ、と起こる。その澄んだ時間は長くはつづかない。うっとりと未知の感覚にひたる刹那、すぐに邪心が鎌首をもたげ、「もっとかっこよく」「もっとウケるように」と悪魔がささやきはじめる。すると、よせばいいのにさわりすぎてしまう。さわればさわるほど、さわりたくなる。あの誘惑の正体はいったいなんなんだろう?魔が差す、とはよく言ったものだ。未熟さゆえのあやまち、か。結局、傑作となるべき作品は、余計な手跡がごちゃごちゃとついた、やたらとかっこいい、言いかえれば、やたらといやらしい姿になり果てるのだった。

 何度挽いてもあざとさコテコテ、企て見え見えのものが挽きあがる。自分の俗物っぷりに愛想を尽かしたくなる。いい仕事は、不必要なもの一切をそぎ捨て、純度の高い美意識だけを残す。それに似たものをこしらえようという邪念は、美意識ふうの形をした虚飾だ。そんなものはすぐに見透かされてしまう。

「作意を見せてはならん。作意を消すのじゃ」

 太陽センセーは説くが、「作意を見せまい」と考えた時点で、作意を見せまいとする作意が開始されるのだから、永遠のジレンマだ。要は、無念無想で挽け、ということだが、技術と姿かたちばかりを追い求めているうちは、とてもそんな高尚な作陶は無理だ。

 高麗の陶工の無欲な仕事が圧倒的なものを生む意味が、ここに至ってようやく飲みこめた。それはいつもセンセーが口をすっぱくして講釈してくださる、お茶の精神性にむすびつく。頭ではわかっているつもりだ。なのに、なかなか器の中に実現できない。技術の上すべりほどみっともないものはない。本質的な美しさとは、造作の達者さなどではない。

 太陽センセーに挽き方をたずねにいっては、家に帰ってろくろを回し、おぼつかないままに実験をくり返し、解答を得ないままに学校でまた回し・・・ためしては迷った。覚えては吐き出した。一心不乱にろくろに向かった。それは「精神集中」とも「一生懸命」とも別の、「没入」と表現したい制作態度だった。のめりこむ、というやつだ。なにもかも忘れて、手のひらに形をあずける。迷ったり納得したりするのは、形が立ち現われたあとだ。そうしてもがくうちに、あるとき突然に壁をぴょんと飛び越えられることがある。はっと顔を上げると、また壁がある。悩んで悩んで、またぴょんと越える。またぶつかる・・・。迷ったり悩んだりはしても、立ち止まったり思いつめたりはしないオレは、壁を越えながらまっすぐに突き進んだ。そんな調子で、茶碗から建水、花入れ、水指と、無鉄砲に前進していった。

 やがて土は手になじみだし、感覚は回転に追いつきはじめ、精神性が高まったかどうかはなんともいえないけれど、じょじょに器の形というものがわかるようになっていった。

 稲が刈り取られてすっかり茶ばんだ風景に、ついに風花がちらつきはじめた。

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