36・引退

 むき出しの陽射しに、重い湿気。セミ時雨。石彫場のトタン屋根には、ゆらゆらと陽炎が立つ。とまった風に、粗末なプレハブ小屋の周囲に密生したササはぴくりともそよがない。冷房などない。むせ返るような熱気のこもったそんな場所で、オレは毎日毎日、石にドリルで穴をうがち、くさびでかち割り、ノミではつり、グラインダーでけずり、砥石で磨き・・・なんて作業を黙々とやっていた。ハンマーを打ち込むたびに、ゴーグルと防塵マスクの間を汗がしたたり落ち、粉塵がはりつく。汗まみれ、粉まみれ、朦朧、緩慢。そんな彫刻科の夏の午後。

 ピン・ポン・パン・ポン。

 チャイムが鳴って、天板に石粉をうっすらとかぶった放送スピーカーがガーガーとがなり立てた。

「ラグビー部のみなさんにお知らせします」

 その声は、四芸祭後に新しくキャプテンの任を継いだ、ナナフシ・柳井だった。

「本日の部活動は、暑さのため休止し、かわりにサマーミーティングを行います」

 暗号だ!オレたちラグビー部員は、この放送が流れるといつもそわそわしはじめた。そして重いハンマーをマメだらけの手の平からはがし、頭巾の下で蒸れた髪を粉まみれのタオルでわしわしと拭きながら、いそいそとエントランスホールに向かった。

 そこにはすでに、ふくらませた浮き輪に華奢なウエストを通したマネージャーたちの姿。そして部員たちは、絵の具まみれになったからだや、ニカワをくっつけた顔や、木くずを散りばめた頭や、課題に向かって凝り固まった背骨や、そこから開放された満面の笑顔、なんかを持ち寄ってくる。そこへひょろ長い体躯を猫背にかがめたナナフシ氏が見参。柔和に宣言する。

「今日は暑くて練習なんかしちゃいらんないから、カイホリにいきます」

 わーっ、と歓声。

「うみだー」

 そう、貝掘り、とは、海に行く、のラグビー部流の言い回しなのだった。賢明な方にはもうご理解いただけたかと思うが、オレたちは、だらしないラグビー部、なのではなく、かるいラグビー部、なのだ。わりーか。

 400cc、250cc、原チャリ、そしてオンボロの軽乗用車で隊伍を組み、キャンパスから飛び出していく。兼六園を左手に見て坂をくだり、橋場町の色っぽい茶屋街をちらりと横目に見つつ、観光バスの連なる渋滞をぐっと辛抱。加賀友禅をさらす清らかな浅野川のせせらぎを渡ると、あとは国道をぶっ飛ばし、周囲の景色がビル街からのどかな田園風景になるのを待つ。大きな流れとなった浅野川に再び合流して、土手を河口までくだりつづければ、やがて頬に感じる潮風。正面の丘陵の奥に待つファッショナブルな内灘ビーチにすぐにも飛び込みたい気持ちに焦れつつ、右折。額に汗を噴き出させながらさらに走りつづけて、巨大な丘に突き当たる。

 こちらを見下ろすループスライダーのような坂。しかし怖じ気づいちゃいられない。夏は短く、青春ははかない。覚悟を決め、全車一斉にギアを1速に落とす。凶暴なアイドリング。そして我らがオンボロキャラバンは、壁のような急勾配をえっちらおっちらと登るのだ。悲鳴を上げるエンジン。悲鳴を上げるマネージャー。

 ようやく登りきって、再び浮き立つ心。そこに現れるのは、松林のすきまを一直線に走りくだるまっ白な道だ。鼻先をかすめる潮の香りに、高鳴る胸。夏の風景はすぐそこにある。左右に萌える緑を背後にかっ飛ばし、転げ落ちるように疾駆する。まるでジェットコースター。落ちきったところにある国道の高架をくぐれば、そこがゴールテープだ。

 突如として視界がひろがった。正面に開いたのは、青インクをぶちまけたような空に、ぱりんとエッジの立った入道雲。そして視線をどこまでも吸い込む紺碧の水平線。

 海だーっ。

 くたびれきったバイクのエンジン音をかき消す歓声がわき起こる。

 ひと気のない砂浜は、降りそそぐ日光をはじいてまばゆく輝き、オレたちをつつみ込む。すぐにバイクを乗り捨て、裸足になって駆けだす。熱い白砂がマメだらけの足の裏を焼く。気持ちいい。

 権現森の浜は、ラグビー部のサブグラウンドだった。部員はラグビーパンツ一丁になって、海に飛び込んだ。誰かが古い楕円球を投げ込むと、全員が狂ったようにそれを追う。あとは取っ組み合いのケンカ祭り。どこにいっても、チームはこんな感じだった。

 貝は足の指先でさがす。浅瀬の砂をにじりながらじわじわと移動し、異物を感知したら拾い上げる。丸まると太ったアサリやハマグリは、ポケットにすぐにいっぱいになった。

 たまに漁師さんたちが地引き網を引いていたりすると、そいつを手伝ったりもする。引き上げると、イワシがエラを網目に絡ませてじたばたしている。ピチピチのそいつを、漁師さんに言われるままに指で裂き、食らいつく。能登の海の新鮮な塩けがきいていて、すばらしくうまかった。

 海から上がると、青春じみた駆けっこがはじまる。砂にまみれて、タックルやセービング、相撲大会。マネージャーたちは、イワシや貝を焼いて賞味。満足すると、ビーチバレー。どこを見ても、栄養分の行き届いた叫声と笑顔がはじけていた。それはいつも変わらない光景だった。

 しかしそんな光景を、オレたち4年生は、半分外からのぞきこむような醒めた目でながめた。オレたちのラグビー部は、いつしか後輩たちのものになっていた。

 彼らはもちろんセンパイたちを尊重してくれたが、すでに引退した身には、その場所はどこか居心地がよくなかった。尻がくすぐったかった。彼らは以前と同様に振る舞ってくれていたのだろうが、こちらのどことはなしの遠慮が、徐々に居場所をせばめていくのだった。

 新たに神となった後輩たちは、自分たちの新たな天地を創造するのに忙しかった。継承と改革。それは毎年、連綿とくり返されてきた。自分たちの代もそうだったにちがいない。引退した先輩たちに気を使いながら、先輩たちのつくったものを少しずつ壊し、つくり直してきた。それでも、いざ自分がOBという位置に置かれてみると、切なさのような、さびしさのような、そんなしょっぱいものを感じないではいられない。宙ぶらりんというやつだ。

 成田、オータ、マッタニ、ダンナ、三浦・・・オレたち4年生は、遠く後輩たちの陽気なさんざめきを聞きながら、焚き火の炎をぼんやりとながめて過ごした。気持ちの芯から熱さが消え、自分が枯れていくような思いがした。あの頃の発熱は、常に張りつめた気持ちのただ中に身を置いていたからのものだった。

 あの頃の自分が、いつも自身の中の目に見えない何者かと取っ組み合い、均衡を保っていたのだと知った。そしてその「何者か」は、幻影となりつつあった。

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