22・日常

 美大の日課は、午前中に専攻科(オレの場合は彫刻)の実技授業、午後は哲学や心理学など普通科目の授業というタイムテーブルで動いている。しかしご存知のように、美大で普通科目の授業をちゃんと受ける者などいない。そもそも、美大にそんな授業が存在すること自体、奇妙な話なのだ。誰もがゲージツ家を目指し、創造性と表現技法を身につけるためだけに入学したのだから。そんな自由人たちに、数学や英語がどれだけの意味をもつというのか?

 そんなわけで、学科の授業では代返とおしゃべりと昼寝が横行していた。教える側の先生もあきらめ顔だ。教授たちは、お隣の名門・金沢大学などから出前でやってくる一流の陣容だ。しかし、美大生相手にまともな授業をしてもしょうがない、と高をくくっているフシがある。大騒ぎする生徒たちの前で、彼らは淡々と講義を進めた。自校の超優等生たちの前で行う本番の講義のいわばこれは予行演習なのだ、と割り切っていたのかもしれない。その姿は、壁を相手に舞台稽古をする芸人さんのようで、少々うら寂しいものがあった。

 授業がサボり放題なので、マジメな(つまり美術に対してマジメな)学生は一日中、ゲージツ活動に明け暮れている。制作室に立てこもってひたすらキャンバス相手に没頭する者あり、裸のモデルさんを前に一心に4Bを走らせる者あり、奇声をあげながら粘土の塊と格闘する者あり、空を見て泣きながら空想に暮れる者あり・・・危険な人物もいっぱいいたが、それもこれも含め、みな純粋だった。

 彫刻科の一年生は、人体のプロポーションと美術解剖学の基本を学ぶべく、粘土で頭部を造形したり、自分の手のひらをつくったりしていた。そんなクリエイティビティもイマジネーションも必要ない空疎な基礎訓練が楽しいわけもなく、オレはいつも真剣な態度を装いながら、明日はあのモデルさんの日だ、などと女性の陰毛に想いを馳せるのが常だった。

 そんな妄想にも飽き、頭が煮詰まる時間が、ちょうど午後4時だ。その時間になるといつも、つくりかけの彫像に「お休み」を言ってビニールをかぶせ、いそいそと部室に走った。

「やってる?」

 におい立つソックスの暖簾をくぐると、すでに丸ちゃん先輩がすっかり着替えた状態で待っている。

「おそいよ、もー」

 このひとは、いったいいつ創作活動をしてるのだろう?と首をかしげたくなるほど、ラグビーに打ち込んでいた。日常も横ジマのジャージーを着ている。シマシマ&コロコロ三等身のからだでボールを持つと、まるでクルミをかじるシマリスのような風体になった。彼はどんな男からも愛されたが、どんな女からも「いいひとだと思うんだけど・・・ごめんなさい」と言われつづける好人物だ。その反動が、彼をラグビーの情熱へと駆り立てるのかもしれない。

 グラウンドに、時間通りに人数がそろうのはまれだった。練習は基本的に自由参加。顧問の先生もいない。すべてが気分しだいなのだ。何者もゲージツ家を縛ることはできない。しかしそれでいいのだ。だから、毎日の練習はせいぜい5~6人ではじまる。その中には必ず、オレと、オータと、成田が含まれていた。練習中毒をわずらったバカ三人衆だ。オータは素直な素直なワクワク顔で練習にのぞむ。成田はぼんやりした表情で涼しげな瞳を泳がせるが、ターボ脚の回転数がよろこびを隠せない。みんな授業時間というくびきから逃れて、思う存分に走りまわれる自由を満喫していた。

 野球部やサッカー部の練習を横目に見つつ、グラウンドの外周を走っていると、三々五々に部員が集まりはじめる。そこでようやく集合の合図がかかる。全員で準備運動とストレッチだ。メンバーは芝生の上に大きな円を描いて並び、いっせいにからだをほどきにかかる。オレはこの時間が好きだった。そよ風がササをゆらす音まで聞こえる静かな中で、血液を洗う作業だ。深く、ゆっくりと呼吸しつつ筋肉をひらくと、体内に鈍くよどんでいた感覚が呼び覚まされ、気持ちが徐々に戦闘態勢に入っていく。

 ワンダッシュでハンドリングを確認し、ランパス、コンタクト、タックルといった激しいアタリ練習に入る。フォワードだけのスクラム、モール、ラック、ラインアウト。そしてバックス陣と連携しての全体アワセ。練習は、全力と流しとが交互にくり返されたが、その合間にしょっちゅう入るダラダラ休憩も楽しかった。先輩たちは話術の天才ぞろいだ。ラグビーの高等戦術から、部員の下世話なスキャンダルにいたるまで、さまざまな話題が持ち込まれ、笑いとちゃかし合いが絶えなかった。先輩は威厳を保ちながらもそびやかさず、友だちのような気安さで接してくれた。後輩はジャレつくのを許されながらも、上の者への敬意を忘れない。居心地よく過ごせる関係だった。

 信頼できる仲間たちとの時間は、他のどんな時間よりも充実していた。子供がすり切れた一個のボールを仲良しの相手といつまでもやりとりしている、遠い日のあの時間のように。飽きることなくボールを追い、ボールを追う相手を追い、追われ、追っかけ合って、相手のその姿が夕闇の中にシルエットとなって見えなくなるまで、ひたすら駆けまわった。それは大きな子供のどろんこ遊びだった。

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