19・至福

 夏合宿の基礎トレ地獄は、初日に圧倒的に部員の肉体を蝕んだが、二日めからは淡々としたものだった。ただひたすらに、その都度与えられる質と量とを肉体で漉し、エネルギーを通過させた分だけ疲労をたくわえた。死ぬかもしれない、というほどの練習をした後、合間のわずかな休憩時間に少しでも眠り(気を失うようなものだった)、蓄積した乳酸を溶解させるという単調なリズム。先を見れば、途方に暮れそうになる。とにかく観念しきって、今その時々を全力で疾走するよりほかに時間を進める手立てはなかった。

 地獄には逃げ場も隠れ場もない。ひとりの豪傑は、ついに決心して山一館からの脱走を図り、重い足を引きずって山を下りたが、栂池の駅のプラットホームで少年ジャンプを読んでいるところを捕獲され、連れ戻された。地獄から抜け出す道は、ノルマをクリアした向こう側にしかないのだ。前進して前進して、その出口に向かうよりほかない。

 もやのように立ちこめる土ぼこりの中で、オレたちは唇をカラカラに乾割れさせて走った。ジャージーにしみこんだ汗は、強い陽差しにさらされて塩になる。がっちりと組んだスクラムの上には、みんなの背中から蒸発した汗が立ちのぼって、濃霧のように風景をゆがめた。

 疲労困憊状態でのパフォーマンスは、著しくクオリティが落ちる。全力疾走をしても、足が上がらない、前に踏み出せない、後ろに地面が蹴りあげられない。推進力の圧倒的低下。まるでスローモーションの画面内にいるような感覚だった。しかたなく全身で勢いをつけて手足を運ぶのだが、つま先はもつれるし、アゴは上がるし、ひどい有り様だった。ただ走っているだけなのに、小石ひとつない場所で転んでしまうのだから情けない。そんな自由のきかないからだを扱っていると、ドロドロのコールタールの上を走っているような錯覚に落ち入った。それだけならまだしも、鋼鉄のような巨体をぶつけられ、体重を預けられ、踏みつぶされ、もみくちゃにされるのだからたまらない。

 そんな地獄をのたくっていると、かえって今までに感じることのできなかった至福に出会うこともできる。練習最後のランパスを終え、気絶するようにグラウンド脇に倒れこむと、そこには世界一うまい飲み物が待っていた。マネージャーが持ってきてくれる、バケツいっぱいの水だ。その中に、プラスチック製のマグカップが人数分放り込まれている。オレたちはそのバケツの水をすくい、むさぼるようにノドに流しこんだ。それこそは至高の甘露だ。カサカサのスポンジのようになった体内に、それはしみじみと浸透していく。潤いは、末端の枯れ果てた細脈にまでゆきわたり、細胞を満たす。みっちりとしぼられたからだはそのとき、ようやく生きた心地を思い出した。

 天国かと思えるほどの至福の時間も見いだした。一日に三回ある練習のすきまに与えられるわずかな自由時間を、オレは一本のヒマラヤ杉の下に置かれたベンチで過ごした。ペンキがハゲちょろけた硬い座面に、仰向けに寝そべる。そこは窮屈だが、しっくりと背中を受け止めてくれた。縞になって落ちてくる木漏れ陽を見上げていると、高原の清潔な風が日焼けした額を転がった。新鮮な空気はズタズタの皮膚へとしみ込み、入れかわりに筋肉束の間から疲労感がこぼれ落ちていく。それはやがて光の粒となり、さらさらと四散していった。夢心地、というやつ。入眠の落下感に必死で抵抗し、たちまち敗北するまでのあの気だるいまどろみが、その時点での究極の幸福感だった。

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