18・惨状

 その夜にありついたメシは、確かにおいしかった。この点だけは、先輩たちの言っていたことが正しかった。すばらしく充実したメニュー、季節の野菜、肉料理、魚料理、おかわり自由の炊きたてご飯・・・ひもじい美大生の食生活では考えられないような光景が、テーブル上に展開する。なのに、そんなごちそうもたいして腹には入らなかった。あまりに疲れ果ててしまうと、血液が疲労箇所に集中し、胃の働きが緩慢になるらしい。腹は減っているのに、のどを通らない。ハシひとつ動かすのもしんどい。オレは「明日の練習のために」と必死で栄養を噛みくだき、飲み下し、その後は酒にも手をつけずに床に就いた。マクラに頭をのっけると、たちまち睡魔が襲ってきた。どこまでも真っ暗な、子供のように深い眠りがそこに待っていた。

 朝、目を覚ますと、オイルサーディンのような雑魚寝状態のフォワード部屋は、うめき声に満たされていた。何事かと思って起きようとしたが、からだが動かない。文字通り、布団から上半身を起こすことができないのだ。異様にからだが重い。金縛りかと思ったほどだ。意識は完全に覚醒しているのに、肉体の末端まで神経が行き届かない。自分が自分じゃないみたいだ。しかし手の平でグーパーをすると、それは動いた。足の指も動く。次第に、頭が重すぎて持ち上がらなくなっているのだと気づいた。

「おーい、成田よ。後頭部がマクラからはがれねーんだ。たすけてくれー」

 するとすぐ隣から応答があった。枯れた演歌歌手のようにシブイ声だ。

「おお、杉山。すぐにそっちに行くから、先にオレの頭を持ち上げてくれんか」

 成田もやはり同様に動けないらしい。なぜだ!?わけがわからない。いったいオレたちの肉体になにが起こっているというのか?

「スクラムの組みすぎで、肩の神経が麻痺しとんねん。ま、言えば、重傷の肩コリっちゅうこっちゃ」

 宿敵アズミのこざかしい声がしたので、オレは頭を動かせないまま眼球だけを動かして、流し目にそっちを見た。視界のすみにとらえたアズミは、イモムシのように転がって横向きになっていた。自分の巨体をよいしょよいしょとうつ伏せにひっくり返し、やがて手をつき、腕立て伏せの要領でもっそりと立ち上がる。やつもやはり同じ症状のようだ。

「一日200本からのスクラムで押し合いへし合いしとんのや。肩の筋肉もヨロイみたいにコチコチにコるっちゅうわけや」

 そのブザマな格好で物知り顔に講釈されても困るのだが、とりあえずオレたちもアズミ方式を見習うことにした。イモムシのようにモゾモゾとうごめき、なんとか不器用に起きあがった。肩に触れてみると、そこは水脈が死んだ荒野のようにバリバリにひからびていて、なにも感じない。皮膚の感触はケヤキの幹そっくりだった。

 朝イチのラジオ体操のために駐車場に集まるように、とマネージャーから館内放送があった。オレたちは肩をほぐしながら階段に向かった。ところが、足もまた言うことをきかない。生まれたての子鹿のようにふるふる震えてしまって、階段を降りられないのだ。しかたなく尻モチを一段一段移動させながら、尺取り虫のように階段を下った。

 ようやくたどり着いたロビーでは、バックスの連中がフロアに這いつくばって四つ足で移動していた。やつらもまた、ウインドスプリントやステップ反復の疲労をため、足腰が立たないでいるのだった。異様だ。異様すぎる。まるで原爆投下直後のヒロシマの地獄絵図ではないか。山一館がこの期間、両校の他に客を引き受けようとしないのがわかる気がする。こんな光景を女子大テニス部あたりに目撃されたら、このロッジには二度と客はもどってこなくなるだろう。それほどオレたちラグビー部の姿は、気持ちわるかった。

 外は今日もスッキリと快晴だ。

ー嵐でもきたらいいのに・・・ー

 だけど小林さんなら、豪雨だろうが暴風雪だろうが、練習ノルマだけはやらせるにちがいない。そう考えれば、こののんきな晴天に感謝すべきなのかもしれなかった。

 全員で駐車場に向かった。ロッジの用意した木ゲタが鉄のように重く感じる。そいつを突っ掛けるつま先は、親指の爪が死んでいるので、テーピングでぐるぐる巻きだ。尻からもも、ひざ、ふくらはぎまで、数限りないスリ傷でズタズタ。あちこちからじくじくと得体の知れない体液がにじみ出てくるので、短パンしかはけない。このからだで、はたして合宿が終わった後、通常の生活が営めるのだろうか?・・・しかしそんな心配はまだまだ早すぎるというものだ。その前にこなさなければならない困難が多すぎる。

 初日たった一日の、たった一回の練習で、オレたちは疲労困憊していた。こんな練習が、なんとこれ以降、朝・昼・夕と三回ずつ×四日間つづけられるのだ。その気の遠くなるような運動量にめまいを覚えつつ、ラジオ体操の陽気すぎる音楽を上の空に聴いた。

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