17・通過儀礼

 初日の練習を終え、土まみれのサンドバッグをかついで宿へともどる。長い登り坂。ようやく帰り着き、ずっしりと肩に食いこむその重量物を降ろすと、そこできっかりエンプティだ。力つき、サンドバッグを寝かせたすぐ脇に倒れこむ。つかの間ぬけがらになった後、ドロだらけのスパイクを足の甲から引き剥がす。足がツリそうになるのをだましだまし、なんとかソックスを脱ぐ。見ると、親指の爪が血の気を失っている。この日のために買った真新しいスパイクのせいだ。硬い皮に足がまだなじめず、つま先にかかる体重で圧死したのだ。

「おう、足の爪か。そこはしゃーないわな」

 アズミが横に座る。やつのひろびろとした体表面にも盛大に土がこびりつき、ドロだるま状態だ。

「ツメは死んだら、はやめにめくったほうがええで。ピロピロしてジャマなだけや」

 ギョッとした。爪は切るものであって、めくるようなものではない。

「抜いたろか?オレもやったことあるし」

ーなに~!?ー

 やつは同学年だ。ラグビーをはじめたのも同じ半年前のはず。なのに、やつはすでにそんな修羅場をくぐってきたというのか?

「よっしゃ、ペンチ持ってきたろ」

 いそいそとペンチを探しにいくヤツの姿は、オレよりも汚れている。からだの表面積の問題ではない。明らかに、練習中の運動量の差だ。やつはオレよりも多くの時間、地ベタを這いずりまわったのだ。自分のジャージーが宿敵よりもきれい・・・これ以上の敗北感があろうか?

ー負けてられるか・・・ー

 足の親指の爪は蒼白となり、もはや自分の肉体の一部とは思えない異物感がある。風が吹くと、根本を残してプラプラする。痛覚とも断絶されたようで、触れても何も感じない。完全に壊死したようだ。

「あったで」

 うれしそうにアズミがペンチをよこす。

「抜いたるわ」

「うるさい。自分でできるからほっといてくれ」

ー先輩ヅラか?冗談じゃない・・・ー

 この通過儀礼をクリアしなければ、やつには追いつけない。オレは教えられる通りに、自ら外科手術に取りかかった。爪の先をつかみ、チョイチョイと引っぱる。鈍痛のような、疼きのような、嫌悪感。根元がぐらぐらして、今にも抜けそうだ。グリップしたペンチに力を加える。

「ぐおおお・・・」

ーこ、こ、こええ・・・ー

「じわじわはあかん。かえって痛いだけや。一気にいかな」

「わかってる!さわんな、バカ」

 一時間ほども逡巡したが、最後は覚悟を固め、渾身の力で引き抜いた。・・・声にならない痛み、悪寒・・・と、達成感。これでアズミとオレは同格となった。

 その夜、二校ラグビー部のために貸し切られた山一館のロビーは阿鼻叫喚が渦巻き、まるで野戦病院状態となった。当初、キョーゲイのマネージャーたちは涙目になって包帯とテーピングを手に右往左往していたが、場数とはひとを強くするもののようだ。彼女たちはあまりに多くの傷口に接するうち、最後は「ツバでもぬっときや」と言い放つ精神の図太さを身につけた。確かにキリがない。わずか半日の間に、メンバーひとり残らずが、大なり小なりのケガを負っていた。切り傷、裂け傷、脳しんとう、捻挫・・・骨折した者もいた。

 全員がつくった代表的なケガに、通称「お好み焼き」という、尻の下にできるクレーター型のえぐれ傷があった。お好み焼きは、セービングの練習をくり返すと必ずもらう傷だ。セービングとは、グラウンドに転がったボールを一刻も早く自軍に獲得するために、からだごとボールに飛び込む動作だ。野球でいうところのスライディングだ。こいつの練習がすさまじい。ひたすら地球にダイブするという、そのくり返しなのだ。しかも合宿で使うグラウンドというのが、乾ききった荒野といいたくなるような空き地。ここの土は、紙ヤスリのようにザラザラの感触なのだ。そこへコロコロと躍り出てくるボールに、二人がかりで飛びかかって捕りっこする。捕ったらカウントして、すぐさま立ち上がり、周囲を見回す。するとまたすぐ、どこかにボールが躍り出てくるので、再びそいつに飛びついて奪い合う。立ち上がったら、またルーズボールをさがし、飛び込む・・・。強い陽差しでカチンカチンのコンクリートのようになった土の上で、それは延々とくり返された。こうして驚くなかれ、グラウンドの端から逆サイドの端にたどりつくまでガチンコで闘いつづけ、ボールの獲得数を競うのだ。バカじゃなかろうか。

 ビビればビビるほど初動は遅れ、相手にはじき飛ばされて痛い目に遭う。とにかく歯を食いしばってスライディングし、きしむアバラの底にボールをかかえてしまうことだ。まるで特攻隊の気分だ。ひじやひざ、もも、尻など、皮膚の色も出血の量もわからないほどに土がこびりつく。それでもとにかく飛び込む。身の生肉をオロシガネでそぐ気合いがなければできたものではない。やがて「飛ぶ」というよりも、自分のものでない何者かのからだを「投げる」という感覚に落ち入ってくる。頭を使わない運動の反復で、意識が遠のいていく。こんなバカなことをした後は、本当に自分のからだが自分のものでなくなっていた。

 こうして部員全員の太ももの外側には等しく、牛乳瓶の底ほどの血みどろのクレーターがうがたれるのだ。それはラグビー部員であることを示す焼き印のようなものだった。これもまた通過儀礼なのだ。その治療方は原始的だ。少しでもはやく傷口にカサブタを張らせるために、タバコの火を近づけて熱で乾かす。それだけなのだ。こんな野蛮なやり方に、誰もが顔をゆがめ、食いしばったスキっ歯の間から苦悶の声を漏らした。そして治療が終わるとウチワであおいで冷やし、気休めに患部をいたわったりした。

 なのに乾いてレバー色となったカサブタは、翌日のセービング練習イッパツでこそげ飛び、その奥からじくじくと体液をにじませはじめる。新しく顔をだしたレアなお好み焼きは、何度も何度もヤスリにかけられ、土と石片をぬりたくられ、さらに深く広く成長していく。なぜこんな練習をしなければならないのか、まったく意味不明だった。

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