第12話・ブラジャー

「あっ、まだあった」

 いろはが、はた、と声をあげた。瞳にいたずらっぽい光を閃かせている。そして不意に、焚き火に背を向けた。ブラウスの半袖に亀のようにひじをおさめ、ボタンの奥で複雑に腕を絡ませる。ひとしきりもぞもぞした後、こちらに向き直った。オトコには到底わからない理屈により、再び半袖から突き出された右手には、果たしてそれが握られていた。

「きつくなってきたし」

 いろはは無表情で、外したばかりのブラジャーを火にくべた。暗がりで、薄いブルーに見えた小物体。一瞬の出来事だった。母ちゃんのを除けば、オレはそのとき、それをはじめて目にした。ヒモ状の部位と浅い円錐とで構成された、未知の衣類。オレンジの光の中でゆらゆらと踊るそれに、目が釘付けになる。権現森はぽかんとアゴを垂れ、ノリチカは目を見開いている。男子三人の三枚のシャツと、自分のブラジャーがつくるその焚き火を見つめて、いろははなぜか充足の笑みを浮かべている。負けず嫌い。通過儀礼とでも感じているのだろう。自分は異物ではないと叫びたかったわけだ。「あたしも仲間だぜ」と。

 ところがオトコたちは、まるきり逆のことを意識せざるをえない。男女間における立ち位置の違い、お互いの構造の違い・・・諸々の問題。しかし男子三人は結局のところ、そんなコムツカシイことよりも、今考えるべき最も重要かつ切実な問題に取り組んでいた。すなわち、「いろはのチクビ」についてだった。それは今、ブラウスの下でまったく無防備にさらされているはずだ。すさまじい妄想が渦巻き、血流が全身を駆け巡って、貧血を起こしそうだ。

「さ、ささ、さ、酒でも、飲もうや」

 たまらず、権現森が切り出した。ジンの入ったポケットボトルを取り出し、クイッとあおる。すかさず、ノリチカがツッコむ。

「そりゃおまえ、最初に火にくべるべき燃料だろうがっ。はやく出せ、っつー話だよ」

「いや、酒はだめだ。こういう日には必要なんだ」

 権現森はしどろもどろだ。かの豪胆が、動揺を隠しきれない。おもしろい。結局、みんなで回し飲みをした。のどがカッと焼けて、熱いアルコールがからだ中に行き渡る。いろはも顔をしかめながら飲んだ。たった一口で、気が大きくなるような気がした。

 潮騒にまじって、遠く虫の音が聞こえる。誰からともなく、砂浜に寝転びはじめた。浜は真っ暗だ。焚き火はもう、最後の熾きがふつふつと赤黒く瞬いているだけだ。月明かりが波間に映ってたゆたい、かろうじてそこに海があるとわかる。四人は並んで仰向けになった。見上げると、月光が強すぎて、星はまばらにしか見えない。

 ジンがまわって、眠気が襲ってくる。自分が疲れ果てていることを思い出した。そっと目を閉じてみる。あの眠りの落下感がやってくる。そのときふと、いろはが唇を重ねてくるような予感がした。

(・・・チュー・・・)

 遠い日の感触がよみがえる。唇に唇を合わせる、あの感触。そんなはずはないのだが、もしや、との思いがあった。真っ暗闇の中で待ちわびてみる。いろはの唇の潤い、柔らかな刺激、なまめかしい体温、告白の痛み・・・目を開けるのが怖い。今、このすぐ鼻先に、いろはの唇がある気がする。はっきりとした気配がある。確信がある。

(いろは・・・おまえ、こんなとこで・・・)

 意を決して、薄く目を開く。そっと、そっと。そして、いろはの姿を探す。が・・・いろははいなかった。目の前にひろがる、静かすぎる夜空。ふと、横目に隣を見る。その瞬間、凍りついて動けなくなった。

(いろはっ・・・!?)

 果たして、そこでいろはは、ひとつの唇に自分の唇を重ねていた。信じられないことに、彼女が口づけを交わしているその唇は、オレのものではなかった。唇を奪われた男は、びっくりして目を剥き、声を出せないでいる。その言葉のない告白は、予想だにしていなかったものにちがいない。そんな相手の仰天顔を、いろはは長くてしなやかな腕で包み込んでいる。有無も言わせない、一方的な姿勢だ。穏やかに目を閉じ、まるで千年も待ち焦がれていたかのような固い決意をにじませている。長い長い口づけは、唇の表面同志を合わせるだけの稚拙なものだった。が、その奥にある深い想いを伝えていた。ふと、二人のチュー越しに向こう側を見ると、もう一人の間抜け男は、静かに寝息を立てていた。それを見てはっきりと、これは現実なのだ、と理解した。


 決死の思いで耐えに耐えていたディフェンスラインにも、顕著なほつれがさらけ出されはじめた。たったひとつのうかつなプレーは、数人がかりのフォローによって埋め合わされなければならない。そうしてチーム全体が消耗していく。やがて焦りが生まれ、手っ取り早い方法で局面を打開しようという横着が行われる。ただし、その代償は高くつく。あと数十秒間、我慢しさえすればよかった。が、自陣深くにまで攻め込まれた地点で、あの緊張を強いる長いホイッスルが鳴った。反則を犯し、相手にペナルティを与えてしまったのだ。辛抱ができなかった。

 紫紺のジャージーは、ためらうことなくゴールポストを指差した。PKを狙うと宣言したのだ。老練な宿敵は、これを待っていた。トライを奪いにいく必要などなかった。最弱タイトル保持チームの未熟な戦い方は、見透かされていた。待ってさえいれば、この瞬間がおとずれることはわかっていたのだ。「まんまとやってくれました」といったところだろう。

 オレたちはその痛恨に頭を抱えながら、エンドゾーンに下がった。ゴールポストの裏で、なにもできないままに見守る。これから蹴られるボールがポストの間を通れば、敗戦だ。高校でのラグビー生活が終わる。ボールが静かに地面に立てられ、キッカーが助走をはじめた。会場全体が息を殺して見つめる。しかしそれは、キッカーにとって難しい仕事ではなかった。インパクトされたボールは軽々と宙に放たれ、頭上高くの青すぎる空を通過していった。権現森も、ノリチカも、呆然とそれを見送った。オレもその終わりの光景を目に焼きつけた。得点がカウントされるホイッスル。そしてさらに、ホイッスルが三つ鳴った。ノーサイド。ほんの一歩ももう動けなくなって、その場に倒れ込んだ。

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