第7話・海

 午後、まだ日は高かった。

「ちょっと、もうっ、降りてよう」

 必死にいろはが立ち漕ぎする自転車の荷台に、なぜかノリチカがでんと座っていた。

「いいから漕げ。漕ぐのだ、あの地平線に向かって」

「ひとの自転車こわしといて、なに言ってんのようっ」

「うるせーな、助けてやったんだろーが。俺がチャリ屋になったらすぐに直してやるよ、この程度のカギ」

「約束よーっ」

 そう言いながらもいろはは、開放的な笑顔をこぼしていた。髪を風になびかせ、小さな尻を振り振り、また立ち漕ぎをはじめる。自転車はヨロヨロと加速する。その後ろを、オレと権現森は走ってついていく。

「はようついてまいれっ、サルどもよ」

 そうのたまうノリチカには、嫉妬も混じって、殺意さえ覚えた。

「このまま海までいくぞーっ」

「うえ~・・・」

「マジか・・・」

 とはいえ、いろはのチャリが海に向かっていることには、誰もが気づいていた。

 河口目指して、堤を延々と下る。海はなかなか近づいてこない。いつもなら電車で行く距離なのだ。すぐに全員がだらしなく歩きはじめた。トノサマ気取りだったノリチカは、今や最後尾で、三つの大きなスポーツバッグを載っけたチャリをひーひー言いながら押している。

「おーい・・・なんで俺が荷物運び?」

「いいからとっとと歩け」

 普段のコンディションならともかく、生き死にを賭けたともいうべき一試合を終えた後なのだ。一歩一歩が鉛のように重い。折れているらしい鎖骨がじくじくと痛む。だけどそのことは口に出さなかった。権現森も唇の端に血をにじませ、片目を腫らしている。それでも平気な顔をして、黙々と先頭を歩きつづける。試合中と同じだ。背中でみんなを引っぱっていく。いろはもまた、風に開いた額に汗みずくをしたたらせ、荒い息をついている。だけど表情には充実の色が浮かんでいた。その目はまっすぐに、まだ見えない海を見ている。

(なんでこんなにがんばって歩いてんだろ・・・?)

 ひっきりなしに頭に浮かぶ疑問をその都度に打ち消して、ひたすら歩いた。9月も終盤とはいえ、まだまだ煮えたぎる暑熱が居座っている。なだらかな馬の背のような堤には、日光をさえぎる場所もない。滝の汗が背中を流れ落ちて、制服シャツが張りつく。会話も途切れがちだ。みんな、試合のことに触れたがらない。口に出すと、想いが摩耗するような気がするのだ。


 それは夢でも見ているような時間帯だった。先制点はチーム自身の度肝を抜き、エテ高をおののかせた。数字は勇気の根拠を与えてくれる。エテ高、恐るるに足らん、という意識が形成された。ボールが手につき、地に足がつき、動きに自信がみなぎりはじめた。ボールを持った者がタックルを受けても、踏んばって立ちつづけてさえいれば、味方が走り込んでフォローに入ってくれる。ケンカに飢えたフォワード陣がポイントに飛び込み、大きな力となって敵を押し返す。バックス陣はその成長を認めて、前方のケンカ祭りを見つめる。前線からのボールの供給を信じきっているのだ。せまい地域でのじりじりとした力勝負にも手を出さない。じっと待ってさえいれば、必ず攻めの機会は与えられる。それまでは足にパワーをため、備えていればいい。そしてそのチャンスがくると、凝縮した脚力を爆発させた。フォワードの密集から出たボールは、バックスへ矢のように送られる。一転、スピード勝負だ。ワイドに展開し、フル加速する。攻撃を寸断しようと個々をつぶしにくる敵をものともせず、ボールは動きつづける。チームの総合意志ともいうべきそのボールは、オープンサイドを広々と支配するオフェンスラインに乗っかって、敵陣深くへと運ばれる。そして接触が起きれば、すでにその場にはフォワードが飛び込んでいる。そんな滑らかな循環がくり返される。

 走りながらオレは、バックス陣の間を渡っていくボールの流れをうっとりとながめた。なんという美しさ。これが自分たちのチームかと、信じられない気持ちだった。

 生き生きと伸びたパスは、サイドラインの端で「切り札」の手に渡る。

「おおおおおっ!」

 声を出さないと走れない。それがノリチカだ。ボールをかかえ込み、出力全開。こざかしいステップは切らない。この日ばかりはそうすると思い決めたのだ。どこまでもまっすぐに走る。サイドすれすれを走り抜けるノリチカは、ライン際に追いつめられても、決して気持ちを曲げなかった。追い詰めようと殺到する紫紺。しかし、どの手もノリチカには届かない。自分たちの夢を奪おうとする邪悪な手を、避けもせず、かいくぐりもせず、足の筋肉だけを信じて、ただまっすぐにゴールエリアを目指して走る。なんという心の強さ。胸が熱くなる。タイトな地域を信じがたい意思の力で駆け抜け、ノリチカは飛び込む。みんなの三年間が結実したようなトライ。泣きながら笑いだしたくなった。


「まだかー、海はー」

 ノリチカがうめく。足を引きずっている。

「うるせえな。いいから歩け」

 口元に血をじくじくとにじませた権現森がつぶやく。炎天の下、海岸への看板をたどりたどりに歩いていく。

 突如として、衝立てのように立ちはだかる登り坂にぶつかった。この巨大な難所は、なるほどその先に広々とひろがる水平線を予感させる。最後の力の振り絞りどきだ。

「のぼるぞ」

 バッグをカゴに満載した自転車は、坂を押し上げるのに一苦労だ。権現森は、ノリチカからそのハンドルを引ったくり、黙って押しはじめた。オレも後ろから押す。さらにその背中をいろはが、半分身を預けるように押す。ノリチカはとぼとぼとついてくる。空に向かう曲がりくねった道を喘ぎ喘ぎに、一歩、一歩と標高を稼ぐ。

「あ」

 たどり着いた頂上で、景色がすこんと抜けた。太陽が真正面にいる。降りそそぐ陽光が額を焼いて、皮膚が裂けそうだ。風がくる。肌にはっきりと海を感じる。鼻の穴を開ききって熱い空気を吸い込むと、ざらついた潮の匂いがくっきりと立ち上がった。あとは浜までの道のりを下るだけだ。

「よし、みんな乗れい」

 権現森がサドルにまたがった。全員、自分の荷物を肩にタスキ掛けにする。荷台にいろはを座らせ、オレはその後ろに立ち乗りした。小柄なノリチカはなんと、前カゴに尻を乗せて後ろ向きに乗り込む。めちゃくちゃな四人乗りだ。

「しっかりつかまれ。落ちたら死ぬぞ」

 サーカスの曲乗り一団は、ヨロヨロと心許なく動きだした。権現森の、なんともものすごい脚力だ。加速するにしたがってバランスも安定し、やがて丘からなだらかに下る坂を疾走しはじめる。結構なスピードだ。立ち乗りで荷台に引っかけたつま先があやうい。それよりも、権現森の大きな背中にしがみつくいろはが気になる。バストはどう接触しているのか、抱きしめる手はどこをつかんでいるのか。危険極まる。そんなこんなを気にもかけず、権現森は涼しい顔でノンブレーキだ。穏やかを装ってはいるが、やつはとんでもなく剛胆なのだ。松の樹々に覆われた枝道に飛び込む。うねる。スピードが上がる。松林の奥で、海岸道路の高架が交わっている。橋脚の間の窓を切ったような小さなスペースに、水が光った。窓が開くにつれて、モクモクと入道雲が立ち上がっていく。景色全体が、写生の日の画用紙みたいにまばゆく輝きはじめる。左右に立ち上がる緑を後ろにすっ飛ばし、草っぱらを貫く最後のアプローチを駆け抜け、高架をくぐった瞬間、目眩むような白砂の浜が現れた。いきなり視界が破裂する。砂浜の向こうに、紺碧の海がひろがる。

「わあーっ!」

 海を見た人類がいつも上げる歓声を、オレたちは爆発させた。

「うみだあーっ!」

 なにかから脱出した、突き抜けた開放がそこにあった。

 が、フルスピードのチャリはなおも、砂だらけの舗装路を進みつづける。恐ろしい勢いだ。四人分の質量と位置エネルギーは運動エネルギーに変換され、権現森が渾身の握力でもってブレーキを絞り上げるにもかかわらず、加速をやめない。

「ちょっとっ!・・・ねっ、ねっ、あぶなくないっ!?」

「わ、わ、わ・・・」

 権現森が、声にならない声を漏らしている。やがて前輪が柔らかい砂を噛みはじめた。舗装路は前方からせり出た砂の底に溶け入って、浜にフェードアウトしている。チャリはいよいよ制御不能となり、激しく振動をはじめた。

「うわーっ!」

 タイヤが砂に取られてハンドルが利かない。バランスを崩してよろめきだしたチャリは、もう立て直すことができない。荷台に立つオレがまず最初に振り落とされた。柔らかい砂の上でもんどり打つ。鎖骨が、ずきんっ、と痛む。それでも天も地もわからないままに、チャリの行方を目で追った。いろはが振り落とされている。運転席の権現森と、前カゴに尻をはめ込まれたノリチカは、さらに地獄へと突き進んでいく。

「うあぁぁぁ・・・」

 ついに前輪が砂山に刺さり、つんのめって、二人はジャックナイフの要領で空に投げ出された。チャリごと、前方一回転宙返り。

 ぼすっ。どさーっ・・・

 後輪への荷重を失ったチャリに、一本背負いを食った格好だ。四人は、点々と、それぞれの場所でノビた。

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