第8話・地獄の夏合宿

「『地獄の夏合宿』をしましょうっ」

 かつてのポンコツチームが、引退間際にこんなにもまとまったのは、いろはのおかげだと言わざるをえない。最高学年でマネージャー頭となったいろはは、夏休み前にこう提案したのだ。

「・・・合宿う?」

「いえ、『地獄の』やつです」

 部員一同は、きょとん、とこの黒髪の小鬼を見つめた。地獄の夏合宿とは、大学のラグビー部などが高原で「死ぬほど練習したおす」牢獄生活のことだ。誰もがおののいた。そこまで熱い気持ちを持っているわけではない。エテ高には勝ちたいが、死ぬほどの苦痛を課してまで、とは思わない。地獄なんて御免だ。が、有言実行のひと、いろはは、その日からひとりで駆けずりまわった。そして、わずか数日ですべての手配をすませてしまったのだった。

 夏休み。リアルな地獄を体験することになった。宿舎は、学校の体育館だ。フロアの一角に柔道部が荒らした古畳を敷きつめ、その上で雑魚寝をする。飯炊きを担当する女子マネージャーたちは、職員室の脇に設えてある宿直室に泊まり込む。ラグビー漬けの一週間がはじまった。

 酷暑の下ではじまった練習は、バカバカしい、の一言に尽きた。走る、飛び込む、ぶつかる、押す、食らいつく、取っ組み合う、なぎ倒される、転がる、痛めつけられる、のたうちまわる・・・這いつくばる、立ち上がる、這いつくばる、立ち上がる・・・そして、耐える。ただただ肉体をいじめ抜くだけのメニューの連続だ。間断なくこらしめられつづけなければならないこの練習メニューは、何冊ものラグビー教書を首っ引きで読みあさったいろはが組んだ。

「ふぁいとーっ」

 なにがファイトだ。心底、この小鬼の提案を忌わしんだ。ところが周囲を見ると、権現森もノリチカも、素直に命令に従っている。やつらがやる以上、オレもやらなければならない。この三人は、そういうシステムなのだ。そして前途有望たる後輩たちも、オレたち三年生を信じて従っている。もうやるしかない状況だ。何十分かおきに与えられるコップ一杯の水だけに希望を見いだし、ひたすら地面にダイブし、巨大な質量に圧せられ、十万回這いつくばり、同じ数だけ立ち上がり、土ぼこりの中で喘ぎつつ、鉛のような足で疾走した。

 練習後、魂の抜け殻となり果てつつ、ドロだらけのスパイクを足の甲から引っこ抜く。ソックスを脱ぐと、何日もつづく苦役で、足の親指の爪が圧死していた。血の気を失ってはがれ、もはや自分の肉体の一部とは思えない異物感だ。蒼白の爪は、風が吹くと根本を残してプラプラする。痛覚とも断絶されたようで、触れてもなにも感じない。

「壊死したのね。ものの本によると、コレは、抜いた方がいいわ」

 夜、軍隊カレーを食べ終えてゴロゴロしていると、いろはがどこからかペンチを持ち出してきた。その後のことは・・・ここで書くことはできない。翌日からは、足の親指はぐるぐるにテーピングされていた。が、それでも休まずに走りまわった。

 毎朝、目を覚ますと、オイルサーディンのような雑魚寝コーナーは、うめき声に満ちていた。フォワード陣は、スクラムの組みすぎで肩の神経が麻痺して、仰向けの状態から首を持ち上げることができない。肩に触れてみると、そこは水脈が死んだ荒野のようにひからびている。皮膚の感触はケヤキの幹にそっくりで、叩いてもつねっても応答がない。オレも権現森も、畳の上でそっと、そっとからだを半回転させて腕立て伏せの体勢になり、祭の風船釣りの要領で頭を持ち上げて、ようやく起き上がるという始末だった。バックス陣もひどかった。体育館内を四つ足で這って移動しているのだ。やつらもまた、ウインドスプリントやステップ反復の疲労をため、足腰が立たくなっている。まったく、哀れな姿だった。

 基礎トレ地獄は圧倒的に部員を蝕んだが、そんな惨状にもかかわらず、練習は黙々と行われた。ただひたすらに、その都度与えられる質と量とを肉体で漉し、エネルギーを通過させた分だけ疲労をたくわえた。死ぬかもしれない、というほどの練習をした後、合間のわずかな休憩時間に少しでも眠り(気を失うようなものだった)、蓄積した乳酸を溶解させるという単調なリズムのくり返し。先を見れば、途方に暮れそうになる。とにかく観念しきって、今その時々を全力で疾走するよりほかに時間を進める手立てはなかった。

 それでも充実感はあった。朝イチ、グラウンドの乾いた土に寝そべり、成層圏まで抜けた青空を見てストレッチをしていると、清々しい空気が血液の中で循環して、体内の組織が生まれ変わっていくのがわかる。自分が更新される。今日もやらねば、という気にさせられる。しかし、最初の一歩を走りだせば、コールタールの沼に足を取られる悪夢が待っていることに変わりはなかったが。こうして毎日、自らを粉砕しながら練り上げた。

 一日三度の練習のすき間にこじ入れられたわずかな自由時間を、オレは一本のヒマラヤ杉の下に置かれたベンチで過ごした。ペンキがハゲちょろけた硬い座面に、仰向けに寝そべる。そこは窮屈だが、しっくりと背中を受け止めてくれた。縞になって落ちてくる木漏れ陽を見上げていると、光合成で生まれたての風が日焼けした額を転がった。清潔な酸素はズタズタの皮膚へとしみ込み、入れかわりに筋肉束の間から疲労感がこぼれ落ちていく。夢心地、というやつ。入眠の落下感に必死で抵抗し、たちまち敗北するまでの気だるいまどろみが、その時点での究極の幸福感だった。

「筋肉、ついたねえ」

 ベンチに寝そべるオレの肩を、細くてしなやかな指がまさぐっている。目を薄く開けると、タンクトップ姿のいろはの顔が間近にあった。食品検査官のように、肩の肉質を調べている。

「なかなかいい男子になってきたよ」

「さわんなよ・・・」

「ふふふ」

 夢の世界から半分戻れないままに、光の中のいたずらっぽい顔を見つめた。触るにまかせておく。うっとりとまた目を閉じる。

「あんたはいつも私の前で、だらしなく倒れてるのね」

「ああ・・・ほんとだな・・・」

 ぼんやりとまた眠りに落ちていく。また夢を見る・・・

 はた、と気づき、完全に目が覚めた。跳ね起きる。いろはの姿はもうない。

(・・・あいつ、覚えてたのか!)

 「いつも倒れてる」とは、あの幼い日のことだ。しかし思い返せば、オレはいつもいろはの前で、しまりなく仰向けになっている。確かに。


 そうだ、あのときもだ。

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