第6話・トライ

 キックオフ前のグラウンドは、チビリそうなほどの静けさに支配される。年間の試合日程で最も重要な、花園行きの切符を賭けた地方予選だ。しかもこれに負ければ、自分たち三年生は即引退となる。なのに、静寂そのものだ。因縁の対エテ高戦。乾いた風が足元を流れる。不思議と、皮膚にはなにも予感させるものがない。しらちゃけたような風景に、寄り付きどころのない浮遊感。これから起こる激しいぶっ飛ばし合いがウソのような、夢見心地な数十秒間だ。そんな奇妙な平穏の底に落とされる。

 センターサークル中央に、キッカーであるノリチカが向かう。審判から真新しい試合球を渡されると、ひょいひょいとそれをあしらいつつ、風を見る。いい追い風が吹いている。

「おい・・・」

 ノリチカは、オレたちフォワードに向かい、ぼそりと囁いた。

「・・・あのいちばん図体がでかいやつの上に落とすからな」

 エテ高一の巨体を誇るエイトの上にキックオフのボールを蹴り込むから、そこに向かって突っ込め、と示唆したのだった。ちょうど権現森のトイ面だ。権現森は、むっすりとうなずく。三年生となった今、その肩は鉄骨の梁のように渡り、足の筋肉は巨樹の幹のように割れている。このゼッケン8番は、チームにとって揺るぎない支柱となっていた。やつは不意に、ふっ、と笑った。それを見たオレもまた、腹をくくった。得体の知れない熱さが血液中にみなぎってくる。からだ中に炎をまとうような感覚だ。

 冴え冴えと晴れわたる9月の空に、ホイッスルが鳴り響いた。それを合図に、楕円球の横っ面を、ノリチカの短い足がひっぱたく。試合開始だ。オレたちフォワード陣は、意味のない雄叫びをまき散らしつつ、敵陣へと突っ込んだ。ターゲットは絞られている。風に乗ったボールは、ゆっくりと降下をはじめ、22メートルライン付近にまで飛んでいく。迷いのない正確なキックだ。行く手には、石窟大仏のような敵エイトが待ち受ける。そいつが捕球姿勢をとったとき、権現森は身を沈めてタックルの体勢に入った。

「しねいっ!」

 一撃必殺の気合い。相手はグッと足を踏んばって衝撃に備えつつ、ボールをキャッチする。しかし捕球の瞬間は、どうしてもからだのバランスが不安定になる。コンタクト。

 がつんっ・・・!

 権現森は、相手の岩のようなからだを押し込み、そのまま体重を預けた。くずおれた大仏の手からボールがこぼれ、敵陣地をてんてんと転がる。紫紺のジャージーの殺到。その中で、全開加速していたオレは、一等先にボールに飛び込んだ。芝の上をすべり、楕円球を胸の中に確保する。孤立はしていない。モールが形成される。味方フォワードも、三年間で鍛えあげられている。勤勉にして労を惜しまない後輩たちの、秩序立ったフォロー。次から次へと組み付き、勢いよく敵の壁を押し込む。フォワード同士でケンカ祭りをしたままじわじわと進み、今度はバックスの足で仕掛ける。せまいサイドにノリチカがいる。ボールを拾ったスクラムハーフは、そこへパスを送る。

「うっし!」

 ノリチカは、以前の試合ではいつも小細工を仕掛けては、先輩たちにどやされていた。先輩たちは、こざかしいかっこよさよりも、美意識を重んじた。そのことをやっと、反省しないこの男も理解したらしい。この日ばかりは、一直線に走る、と思い決めたようだ。ボールを受けるとまっすぐに、タイトなスペースに走り込む。が、当然のように紫紺のジャージーに取り囲まれ、もみくちゃにされる。ひとしきりボコボコにされた後、サイドラインの外に押し出された。しかしボールはフィールド内を転がっている。あわてたエテ高は、ラインの外に蹴り出す。ホイッスルが鳴って、いったんプレーが切られた。

 こちらの勢いがまさった。マイボールラインアウトだ。しかもゴールラインは間近。この局地戦でボールを確保し、2~3歩進んで寝そべりさえすれば、得点になる。しかし、ここからが遠いのだ。決死の覚悟が必要な数歩だ。サイドラインから、ボールが投げ入れられる。たくさんの手の平にタップされ、ルーズボールがニュートラルなスペースに転がった。密集が視界をさえぎり、なにがなにやらゴチャゴチャでわからなくなった。ま、ラグビーとはこんな局面の連続なのだ。

 だが、その刹那にオレは見た。大男の腹と腹のあいだを縫って、ウルトラマンカラーのゼッケン8がかすめ通るのを。端整な顔は、狂人の形相に変貌していた。どういう経緯でかボールを腕におさめた権現森は、ゴツゴツとした足に蹴飛ばされ、ゲンコツでドツキまわされ、袋叩きの目に遭いながら、突進をやめなかった。そしてついに太鼓腹の下をくぐって、ゴールラインに飛び込む。

「トライ!」

 審判は高々と手をあげた。悲鳴のような、怒号のような歓声が、スタンドの応援団から上がる。トライを挙げた権現森は、臆面もなく咆哮した。前代未聞の、前半1分の先制点。あの宿敵エテ高を、世界最弱チームがリードした、歴史的な瞬間だった。


「あっ!ないっ!」

 試合でくたびれ果てた足を引きずり引きずり、スタンド脇の自転車置き場まで四人で歩いてきた。そして駐輪場に着いた途端に、いろはが騒ぎはじめたのだった。

「ないって、チャリが?」

「ううん。キーの方」

 自転車の鍵を無くしたらしい。男子部員はこの日、学校から市営グラウンドまで走ってきたのだが、マネージャーのいろはだけは、自転車で先導してきたのだ。真っ赤なママチャリを前に、混乱している。

「うそぉ・・・確かにポケットに入れたはずなんだけど・・・」

「どっかグラウンド内で落としたんだな。みんなで手分けしてさがすか」

 生真面目な権現森が淡々と言う。やつの言葉は常に正論だ。が、ノリチカはあからさまにげんなりして見せる。

「くあーっ。このタイミングで、この広い芝生をかき分けてチャリキー捜索?ありえねえ・・・」

 いろははしょげ返った。オレたちを元気づけようという彼女が、逆に面倒を起こしてしまったのだ。見た目に痛々しいほどのしょんぼりっぷりだ。

「探さねえからな、俺は」

 ノリチカはとどめに言い放つ。オレがムッとしてやつの方に向き直ると、足が電光石火で飛び出してきた。

「うわっ!」

 反り返ってよける。なにをトチ狂ったのか、思いきり蹴り込んできたのだ。

 ガシャンッ!・・・

 ノリチカの足は、真っ赤なチャリの前輪に当たって、けたたましい音を上げた。周囲に、チャリの部品が飛び散った。

「キャッ!・・・なにすんのよっ」

 しかしその蹴りは、フロントフォークに固定された錠を粉砕しただけだった。自転車本体にはキズひとつ付けていない。器用なことにノリチカは、前輪に噛んだロックを踏み抜いて、錠ごと取り外して見せたのだった。

「へへっ、こう見えて、来年からチャリ屋で修行するからよ。こんな仕事は朝飯前よ」

 確かに見事な手際だ。

「ば・・・ばかーっ。そんな荒ワザ、自転車屋さんの技術じゃないでしょーっ」

 いろはは半泣きで怒り狂い、ノリチカは高笑いした。権現森はため息をつき、のけぞったまま尻をついたオレは、起き上がるタイミングを逸した。


 そして海に向かったんだった。あの日、世にも奇妙な判決が下された、この海に。

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