第5話・チュー
「そうそう、あの頃はそんなだっけな」
オレは熾きをかき混ぜる。トイ面に座った喪装の二人は、つくづくと、しみじみとうなずいた。そして声低く笑い合う。
「あのデビュー戦はひどかったな」
ふと、同じセリフを聞いたのを思い出した。入部からたちまちのうちに時は流れ、高校三年の初秋になっていた。自分たちの引退試合のゲーム後のことだ。グラウンドの脇でボロ雑巾のようにノビているオレたちに向かって、マネージャーのいろはが切り出したのだった。
汗まみれの額の上に、青インクを塗り込めたような空がひろがっていた。それを背に、黒髪をざっくりとショートヘアに切り落としたいろはが、濃い影を落としてくる。
「あのデビュー戦はひどかったよねえ」
最上級生になって、ガタイは厚い筋肉によろわれ、オレもいっぱしのラガーマンといった風貌にはなっていた。それでも、試合後の疲労っぷりはデビュー戦と同様だ。鎖骨にヒビか、最悪、ポッキリ折れているのがわかる。が、むしろ「全部出しきった感」が、倒れ込んだオレに起き上がる気力を与えなかった。隣に横たわる二人も同じだろう。
「なんだよ。もうこれで引退なんだぞ。こんなときに、あんな無様な試合の話を蒸し返すなよ」
無精ヒゲで貫禄をつけた権現森が、ぶっきらぼうに返す。いろはは肩をすくめて言う。
「だからさ、思い出してもみなよ。あのボロボロな試合からはじまったんだよ、このチームは。それを考えたら、今日のやつはもう、ほんとに、ほんっとーに・・・」
グーに握った手を胸の中で圧縮するようにふるわせて、いろはは言葉を選んだ。
「・・・なかなかのもんだったよう!」
寝転んだまま、さらに脱力したくなった。
「はーっ。なんだそりゃ・・・」
「もすこし言い様はないのか?」
「あほーが・・・」
オレ、権現森、そしてノリチカが交互にののしる。しかし、誰からともなく笑いが漏れる。
そのとき、ひと気の少なくなったスタンドからだみ声が降ってきた。
「おうい、三年のバカ四人衆!いつまでそこにいるんだ。はやく帰り支度しろ。学校に戻るぞっ」
顧問のノボちゃんが怒鳴っている。試合後のベンチで感動の涙をあふれさせていたくせに、その余韻も忘れてせっついてくる。いろはが応答した。
「せんせえー。あたしたち、みんなと別個に戻りますから、ほっといてくださあい」
学校から川いっこをまたいだこの市営グラウンドまでは、ウォーミングアップついでに、チーム全員で走ってきた。勝手知ったる道順だ。自分たちだけで帰れる。
「勝手にせえやーっ」
ノボちゃんは、他の部員たち(一、二年生)を声高らかに率い、スタンドを出ていった。その場に残された四人は、いよいよ動けなくなった。
「あーあ・・・帰りたくねえな。部室ミーティングなんてめんどくせえや」
みんな、芝生に思い思いの格好で寝そべりながら、この日の「高校生活最後の試合」のワンシーンワンシーンを反芻している。もう二度とできないような、それは内容だった。
「ね、こういうときはさ、学校の反対方向に歩いてみる、って手もあるよ」
男たちは、顔を見合わせた。
「だからさ、道草くってみるんだよう」
芝にひざをついたいろはを、寝そべりながら見上げた。青空を背景に、光の粒をこぼしてくる。
(いろは・・・もっかいチューしてくれないかな・・・)
唇の感触をぼんやりと思い出していた。いろはを見つめつづける。うっすらと汗で湿った長い首が、かろやかな笑いで筋肉の柱を形づくっている。制服の白ブラウスに、小さなバストの丘ができている。それは高校の三年間を経ても、ついに著しいというほどの成長は見せなかった。濃紺のスカートも、ミニに切りつめてはあるものの、そこから伸びる足はスリ傷だらけで、女らしい色気はない。そんなせいでいろはは、自分をオレたち男子組に浸透させるためになんの戦略も必要としなかった。それでもなおオレには、逆光を受ける彼女が、胸苦しくなるほど光り輝いて見えるのだった。
いろはの唇がオレの唇に押しつけられた・・・むかしむかしの話だ。小川で溺れた幼いオレの口に、いろはが一生懸命に空気を送ってくる。口から入った空気は、ふさがれていない鼻から素抜けになる。いろはは人工呼吸をしているつもりなのだが、肺に空気は入ってこない。
「見てっ、あれっ。ライギョっ!よしやすっ、突いてきてっ!」
上官に命じられ、子分であるオレは小川にスネまでつかって、ヤスを構えたのだった。目を凝らすと、ドブ濁りの石影にライギョはひそんでいた。ふてぶてしくへの字に裂けた口と、そのわりにつぶらすぎる目がこちらを向いている。射すくめられる。
「やっつけろっ、よしやすっ」
いろはの命令口調に押し出されて、オレは、えいやっ、とヤスを突き立てた。ヤスの針先が、魚体のなま柔らかい筋肉と骨格に触れた。ギョッとした。まさか、当たるとは思わなかったのだ。そして、気が遠くなった。オレは溺れたのではなかった。ライギョのブヨっとした感触に、気絶して転んだのだ。驚いたのはいろはだろう。やっとの思いで子分のからだを水から引き上げ、命じた者の責任からなのか、自分の口から子分の口へと空気を送り込んでいるわけなのだった。
(いろはの口、ぬるぬるしてきもちわりい・・・)
当時はそう思った。だが、今はちがう。
(もっかいチューしてくれないかな・・・)
逆光のいろはを見上げて、遠い日の出来事をぼんやりと再生させる。
「いいから、さぼろうようっ。もう引退じゃない。平気だよう」
いろはは、グラウンドに倒れ込んだポンコツ三人男の手を引き、胸ぐらをつかみ、背中を起こし、なんとか稼動させようとする。オレたちは観念した。
「はい、はい」
「わかったよ、うるせえな、いくよ」
「わーいっ」
きしむからだをだましだましに動かして、やっとの思いで制服に着替えた。が、上の空だった。頭の中では、この日の試合の断片断片がめぐりつづけていた。
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