2.だけど暗転
翌日。出勤日であるが、里栄は会社に病院に行くので午前中だけ時間を貰うことを電話で告げた。
近所の内科医院に向かうことに決めていた。保険証を持ってアパートを出る。
1Kの鉄筋2階建てアパート。家賃は月1万円。
赤く錆びた階段を降りた。
やはり朝から耳鳴りが止まない。
それに加えて天気はあまり良くない。溶けた蝋燭のような濃い雲が空を覆っている。
通勤用に使っている自転車で、彼女は県道沿いの歩道を駆けた。
ぬるい空気が肌を触る。
早朝を過ぎて、出勤途中のスーツ姿の男女や歩道を走る小学生達が視界に入った。
昨日のことを思い出していた。
確かに、何時までも続く耳鳴りは、たやすく治るものでもなさそうだった。
それに。
洋介に言われたように病院に行けば、彼との会話で話題にもなる。
彼は今日も出勤のはずだ。
里栄が病院を出た頃には、時刻は11時をまわっていた。
待合室から混み合っていた病院内で2時間ほど待たされ、医師に診て貰いそして点滴を打ったのだった。
やはり、耳鳴りの原因はストレスからだ。
それに栄養が足りないとも言われた。もっと肉を食べなさいと看護師に助言された。
その後、静かな病室で小一時間ほど点滴を打つと耳鳴りが全くしなくなった。
それどころか、ずっとだるく感じていた全身が軽くなった。
そのまま会社に向かってペダルをこぐ両足が、まるで5歳ほど若返ったかのよう。
見上げた空からは、すでに雲がちりぢりになっていて夏晴れの様を感じさせた。
からっと乾いた風が心地良い。
肌だけでなく、気持ちも。
県道沿いから外れて、商店街に入った。細い路地を走る。
シャッター街と呼ばれて久しいが、それでも頑張って営業を続けている飲食店やブティックなどが点在している。
少し早めの昼食なのか、サラリーマン風の男性二人が個人経営のラーメン屋に入っていった。
そういえば。
空腹であることに里栄は気づいた。朝から何も食べていない。
いつもなら、卵かけご飯を食べて出勤している。
病院が混み合うことを憂慮して、なにも口にせずにサッとアパートを出てしまったのだった。
もっと食べろ、遠回しだが洋介はそう言った。先ほどの看護師も似たようなことを口にした。
それならば。
たまには豪勢に、と過ぎたばかりのラーメン屋を思い出す。
自転車の速度を落とした。
外で食事をして、会社に着いたらすぐに電話番だ。
入れ替わりで悦子達が休憩に入るだろう。
ちょうど良い時間合わせ。
だが、ブレーキを握りしめようとした手が緩む。
彼女には空腹感より、洋介にいち早く会いたい思いが勝っていた。
結局、職場近くのコンビニで安い菓子パン2個と350mlのペットボトルのお茶を買うことに。
いまの時間なら休憩室に洋介がいる。
会社に到着し、タイムカードを打って挨拶もそこそこに休憩室に足を踏み入れた。
果たして彼は一人でいた。
「おはようございます」全身が脈打つのを感じながら、里栄は小さな声で彼の背に声を出す。
「ん?」もぐもぐと口を動かしながら彼は振り向く。
炭酸飲料をひとくち飲んだ後、「あ、三崎さん、今日は遅い出勤だね」
と笑顔を添えて彼女に返した。
「え、ええ」緊張のあまり、里栄はかたい笑顔を作った。
「今日は病院に行ってきました」
「そうなんだ、で、耳鳴りは治った?」
「なんとか、治まりました・・・・・・黒木さんのおかげです」
「え? あ、いやあ、俺のおかげだなんて。でも良かったね」
彼の自然な笑顔。気持ちが和らいでいくのを感じる。
だが、そこへ。
「ちょっと、アンタ!」
廊下から怒鳴り声がした。
里栄は、突然天敵に睨まれた小動物のようにビクッと身を震わせて休憩室の入り口に立ち竦んだ。
「アンタだよ! 三崎さん! いままでどこで油売ってたんだい!」
いつもより熱の籠もった悦子。その周囲にはいつもの面々。
社員すら腰の引けるベテランアルバイト達。
「そうよ。三崎さんが突発で休んでしまったおかげで朝からどれだけ忙しかったか」
腕を組み、さも困った顔で痩せぎすの中年女、野々村利子がそう言った。
他の2名も同調して頷きながら、そうよそうよ、と口ずさんでいる。
「えっ!? いや、でも、会社には前もって・・・・・・」
「あん? あたしら、なにも聞いてないし!」
悦子は里栄の反論をことごとくぶちこわすように怒声を被せる。
休憩室をチラ見する。
洋介は、悦子達のみえない場所で肩を落としてため息をついていた。
すると、椅子を鳴らして洋介は立ち上がった。
「三崎さんは何も悪くないんだよな」彼はそう呟いた。
今にも廊下に躍り出ようとしている。
え? ちょっと待って。
里栄がそう口にしようとした途端。
「何があったんですかあ」
間延びする声。事務所から出てきたのは営業課長の溝口。
里栄はホッと息をついた。
早朝、彼女の電話に出たのはこの頭頂部分の薄くなった50代の男。奥さんに愛想をつかれて出て行かれたという噂がある。
彼の出っ腹が、くしゃくしゃのワイシャツの中で一番存在感を露わにしている。
洋介は、里栄に加勢するどころだったが溝口の姿を見て動きを止めた。
まさに助け船が入った気持ちになった。こんなくだらないことで洋介を巻き添えにしたくない。
後ろを振り向きざま、悦子は言った。
「あ、課長! 三崎さんが仕事をさぼってたんですよお」
先ほどの怒声と相まって、気持ち悪いくらい猫なで声に変わっている。
「あれ? 今日の朝礼で周知したはずだけど・・・・・・」弱々しく溝口は答える。
4人一斉に声を上げた。
「えー。あたしら何にも聞いてないよ、ねえ、野々村さん。高杉さんも進藤さんも」
悦子に言われて3人は躊躇なく応じる。
野々村和子が口を開く。
「そうそう。三崎さんのことなんて一言もなかったわ」
残り二人も、またまた、そうよそうよと頷いた。
「課長。皆、知らないって言ってる以上は、三崎さんのことをちゃんと周知していなかったってこと?」
「へ? い、いや・・・・・・」何も言い返せない溝口。彼の人の良さが裏目に出ている。
「繁忙期に、人が一人足りないなんて。アナタ、正社員でしかも管理職なんでしょう?」
悦子達の矛先が溝口に向いたかにみえたが実はそうではない。
溝口はおろおろとした態度で言い訳を始めた。
「ち、違う。三崎さんは時間休を取るなんて言ってなかった。少し遅れるとだけ言ってたから・・・・・・そ、そうだった、三崎さん、アナタ、時間休を取るって言ったっけ? じゃないと、僕だって分からないよ」
「ちょっと、それどういうこと?」悦子は大袈裟に声を上げた。
「三崎さん、アンタ、課長にしっかりと報告した?」
「い、言いました」怖々と里栄は答える。
結局、溝口は言い負かされた。
それも、悦子の描いたシナリオだった。
上司の弱さにつけ込んで、全ての責任を里栄に負わせたことに悦子は難なく成功したのだった。
「僕は聞いてないから・・・・・・」溝口は背を向けて事務所に戻った。
「あーあ、これじゃ無断欠勤も同然ね」
悦子の冷笑に里栄の背筋が凍る。
その時。
「三崎さんは事前に電話をしたと言ってろーが!」
洋介が怒鳴った。里栄を庇うように悦子達の前に歩み寄る。
「な、なによ、黒木君」わっと驚いたように大きく目を開いて悦子は彼を見上げた。
「三崎さんは体調が悪かったんだよっ!」洋介はさらに声を張り上げた。いつものような楽しげに話す口調とは正反対。
溝口の居る、ドアの閉まった事務所にまで届くくらいに洋介は続けた。
「大体アンタらが三崎さんに面倒な仕事を押しつけたり、三崎さんのミスでもないのに三崎さんに責任を負わせたりしてよっ!」
「はあ? 誰が何を押しつけたって!? 野々村さん? 高杉さん? 進藤さん?」
「知らないわよ、ねえ、高杉さん」頭を左右に振って否定する野々村和子。
「知らない知らない、ね、進藤さん?」
「うん。何のこと? ただ単に三崎さんの仕事が遅いだけだと思うけど」
「進藤さんの言うとおりだよっ」取り巻きの同意を得て悦子は吐き捨てるように言った。
「三崎さんのせいであたしら苦労してんだよ!」
(も、もういいよお)悦子と洋介の争いの様相を呈して、里栄は本気で彼に対して罪悪感を持った。
だが、洋介の怒りは治まりそうにない。
それに。そもそも里栄のために洋介は悦子達と喧嘩をしているのだ。
嬉しくないなんて嘘になる。
「昨日だって、アンタらは5時の定時で帰ったくせに。受入配達未入力の荷物を探すのに三崎さん一人だったんだ! アンタらが一緒になって探してやればすぐに解決するところだったんだ!」
受入未入力。配達未入力。
荷物についている授受票に記載された専用コード。それを機械端末で読み取らなければ荷物の動きはデータ上にのらない。荷物は会社に到着後行方知れずとなる。
それでも、受領印の押された配達ラベルかもしくは荷物そのものが見つかればよい。
だが、荷物の紛失が判明すれば親会社からきつい叱責と、該当社員への厳しい処分がくだるのだ。
正社員達も里栄とともに必死になって探した。しかし彼等にはその日の残務処理が残っている。
里栄は気を遣い、一人で探すと言って職場中をくまなく探したのだった。
そして、実際になって分かったのは夜10時。
「で、荷物は見つかったんでしょ? 」興味なさげな態度で悦子は尋ねた。
「そもそも、あたしら三崎さんと違って家庭持ちなんだから。ね? 皆さん」
悦子の言葉に里栄はうんざりした。いちいち取り巻きに同意を得なきゃ気の済まないのか。
所詮私は独女。
帰途についても誰も私のことなんか待ってやしない。
(3. に続く)
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